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秋山準「馬場さんから受け継がれたものをDDTに」

握手ではなく、肘タッチするDDTの高木三四郎社長(左)と全日本の秋山準(DDTプロレスリング提供)

DDTプロレスリングのゲストコーチに就任した全日本プロレス秋山準(50)が9日、DDTテレビマッチに登場し、「(ジャイアント)馬場さんからぼくに受け継がれたものをDDTにすべて教えたい」とあいさつした。

きっかけは秋山のツイートから。秋山は4月12日に「1~10までプロレスの技術を全て俺が教えたらどんなプロレスラーになるのかな…」「プロレスは正直、試合でみなさんにみせているのは6~10だと思います。それで成立するんだと思います。ですが、1~5を持っていると持ってないのはまったく違うと思います」などとツイート。それを目にしたDDTの高木三四郎社長(50)が4月中旬ごろ正式にコーチを打診した。

高木社長は「今、DDTも、プロレス界もそうなんですけど、どうしても出ていくというより、守るべき時期。であれば、うちのDDTの選手を秋山選手が培ってきた歴史と伝統、そしてプロレスの1~10を教わりたいと思った」と依頼の理由を説明。秋山は米国を拠点とする世界最大のプロレス団体WWEにゲストコーチとして招かれていたが、新型コロナウイルス観戦拡大により、渡米は延期。また、興行ができず互いの団体に時間の余裕ができたことで実現に至った。

高木社長は「こういう時期なので、渡米されていないかなと思ってダメもとでお願いしたら、引き受けていただいた。また、全日本さんの巡業のスケジュールがあり、うちも月に半分ぐらいは試合なので難しかったと思う。いまは時間に余裕がある。守りじゃないですけど、いま一度ひいて考えるのもいいかと思った。今は貪欲にプロレスを学んでいかないといけない時期。うちの選手も貪欲になってもらいたい」と所属選手の成長に期待した。

また、秋山はDDTの試合にもしばらくゲスト参戦する予定だ。気になる選手として、「以前にも当たったことあるんですけど」と、16年にタッグマッチで対戦した若きエース竹下幸之介(24)の名前を挙げた。ジャイアント馬場、四天王プロレスを体感してきた秋山はその経験を「宝」と表現。「それをこれから活躍するであろう若い選手に、DDTさんだけでなく教えたい」。機会があれば、団体問わず伝えていくとした。

高木社長は「忖度(そんたく)なく、厳しくお願いします」と秋山に手加減なしの指導を要求。2人は、感染防止のため握手ではなく、肘タッチで協力を誓った。【高場泉穂】

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全日秋山準がDDT臨時コーチ、故馬場氏技術授ける

全日本プロレス秋山準(2019年6月11日撮影)

DDTプロレスリングは8日、全日本プロレスの秋山準(50)が臨時コーチに就任したと発表した。故ジャイアント馬場の教えを受けた秋山が、その技術をDDTの選手に授ける。

きっかけは秋山のツイートから。秋山は4月12日に「1~10までプロレスの技術を全て俺が教えたらどんなプロレスラーになるのかな…」「プロレスは正直、試合でみなさんに観せてるのは6~10だと思います。それで成立するんだと思います。ですが、1~5を持っていると持ってないのはまったく違うと思います」などとツイート。それに反応したDDTの高木三四郎社長(50)が4月中旬ごろ正式にコーチをオファーし、秋山も快諾した。

秋山は9日にDDTUNIVERSEで配信されるテレビマッチに登場し、あいさつする予定だ。

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天龍、藤波、長州らが「日本プロレス殿堂会」発足

日本プロレス殿堂会発足会見で記念撮影する、左から天龍源一郎、藤波辰爾、長州力(撮影・浅見桂子)

天龍源一郎(70)、藤波辰爾(66)、長州力(68)らが20日、都内で会見し「日本プロレス殿堂会」の発足を発表した。日本プロレス界の発展に貢献した選手の功績を後世に伝え、引退した選手支援のために立ち上げられた。

初期メンバーは3人に、故ジャイアント馬場さん、アントニオ猪木氏を加えた5人。今後、会独自の選考基準をクリアした選手が殿堂に加入していく予定。15年に米WWE殿堂入りした藤波は「日本にもできたらという思いが強かった。レスラー全員、ファンの願いでもある」と喜びを語った。

日本プロレス殿堂会発足会見で、笑顔で記念撮影する、前列左から天龍源一郎、藤波辰爾、長州力。後列左から嶋田紋奈、LEONA、池野慎太郎(撮影・浅見桂子)

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新橋に「ジャイアント馬場バル」没後21年節目に

「元子式コンソメビーフシチュー」を試食する全日本プロレス和田京平レフェリー(左)と渕正信

国民的プロレスラー、故ジャイアント馬場さんをテーマにした飲食店「ジャイアント馬場バル」が1月31日、東京・新橋にオープンする。

前日の30日、関係者向けのセレモニーが行われた。日本プロレスと自身が旗揚げした全日本プロレスで活躍した馬場さんは、99年1月31日に61歳で死去。その偉業をしのぶ飲食店を作りたいという妻元子さん(18年死去)の遺志を親族が引き継ぎ、没後21年の節目に開店にこぎつけた。リングをイメージした店内には靴、ガウンなどの遺品が多数飾られ「元子式コンソメビーフシチュー」など馬場さんが愛した味が楽しめる。シチューを試食した全日本の和田京平・名誉レフェリー(65)は「めちゃくちゃ懐かしい」。全日本生え抜きの渕正信(66)も「元子さんの味そのもの」と大満足。31日はオープニングイベントが開催され、通常営業は2月1日から。午前11時から午後11時まで。

地下にある「ジャイアント馬場バル」に続く階段には馬場さん愛用の油絵パレットなど愛蔵品の数々が展示されている
ジャイアント馬場さんの靴をイメージした「ジャイアント馬場バル」のビールグラス
ジャイアント馬場(1998年3月撮影)

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高山善広の支援興行に36人集結 治療費を呼びかけ

高山善広支援大会「TAKAYAMANIA EMPIRE2」に参戦した選手ら

<TAKAYAMANIA EMPIRE2>◇26日◇後楽園ホール

17年に負った頸椎(けいつい)完全損傷でリハビリ中のプロレスラー高山善広(52)を支援する「TAKAYAMANIA EMPIRE」の2回目の興行が行われ、団体の垣根を越えた36人が集結した。

メインでは高山の盟友鈴木みのるが鈴木秀樹と組み、ノア丸藤正道、ゼロワン田中将斗組と対戦。タイムアップが迫る中、鈴木みのると丸藤が互いの胸が真っ赤になるほどの打撃戦を繰り広げ、鈴木がゴッチ式パイルドライバーを決めるもフォールに持ち込めず、30分引き分けに終わった。

この日はジャイアント馬場とアントニオ猪木がBI砲を再結成した「夢のオールスター戦」からちょうど40年の記念日。試合後は高山のビデオメッセージが会場に流れ、「その(40年前の)夢の舞台に負けないような試合が本日、レスラーたちのおかげで繰り広げられた」と参戦選手に感謝。その上で、「プロレス界は8・26、毎年に1回はやってほしい」とオールスター戦の定例化を望んだ。また、そのビデオでは最近の自身の体調も報告。「ちょっと戻っているような気がする」と明かし、「明らかに自分の中では感覚が違っている。いつの日が鈴木みのるにビッグブーツをかませる日が来るのではと思い、リハビリに励んでいる」と復活への強い意欲を示した。

鈴木も「3、4、5回と続けていきたい」と大会の継続を望むとともに、「莫大(ばくだい)な費用がかかります。ポケットの中の10円、1円でもいいから協力よろしくお願いします」と治療費支援を呼びかけた。

「TAKAYAMANIA EMPIRE2」の6人タッグに参戦したゼロワンの大谷晋二郎、新日本永田裕志、辻陽太
「TAKYAMANIA EMPIRE2」の試合後に会場に流れた高山善広のメッセージ

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「レイスイズム」フレアー、Dキッドらへ継承/悼む

ノア東京ドーム大会 観戦に訪れたハーリー・レイス氏(2004年07月10日撮影)

「ミスタープロレス」「ミスターNWA」と呼ばれたハーリー・レイスさんが1日(日本時間2日)、肺がんによる合併症のために死去した。76歳だった。

    ◇   ◇   ◇

プロレス界に大きな影響を与えた1人となるレイスさんは「日本で大きなものを学んだ」が口癖だった。

68年2月に日本プロレスで初来日した時が初の海外試合。予備知識なしで足を踏み入れたこともあり、ジャイアント馬場、アントニオ猪木の「BI砲」に衝撃を受けたそうだ。スケールの大きい馬場、レスリング技術が高い猪木に翻弄(ほんろう)され「本当に成長させてもらった。海外で試合したが、日本は特別で思い出深い。あれが分岐点」と振り返っていた。馬場とNWAヘビー級王座を懸けて対戦した際は「1つの夢が実現した」と感慨深く話していた。

60~70年当時は危険な技だったダイビングヘッドパットの使い手として席巻。この技はダイナマイト・キッドが継承した。受け身の技術はリック・フレアーが受け継いだ。後進の育成にも熱心だったレイスさん。「レイスイズム」は確実にプロレス界に生き続けると思う。(デーブ・レイブル通信員)

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グレート小鹿「ボクらの見本だった」レイスさん悼む

グレート小鹿(08年12月撮影)

「ケンカ早い男だったけど、ケンカしたら仲良くなる、人間くさい男だったなあ」。国内最年長の現役プロレスラー、グレート小鹿(77=大日本)が、1日(日本時間2日)に76歳で亡くなった米国の名レスラー、ハーリー・レイスさんを悼んだ。

小鹿が1968年から米国で活躍していたころ、カンザスシティーのレイスさんに呼ばれてデトロイトから試合をするために出かけたという。試合が終わって、ギャラをもらう際に、事前のオファーで提示された額より安く、口論になったという。「そのときにケンカしてね。お客が思ったほど入らなかったからとか言い訳していた。まあ、自分の会社を守りたかったんだろう。怒って長距離バスのに10時間ゆられて帰ったことを覚えているよ」。

しかし、その後も米国で試合に呼ばれる機会があり、付き合いは続いた。「全米を渡り歩いているから、レスラーの移動の情報や、その土地のトップは誰かなどの情報をボクらにいろいろ教えてくれた」と、小鹿が米国各地を転戦する際の情報源として役に立ったという。

日本では、ジャイアント馬場との戦い、ジャンボ鶴田との対戦がファンを熱狂させた。「ブレーンバスターで相手を高々と持ち上げて、お客さんが1、2、3と時間をカウントするのは、レイスが初めてやったんじゃないかな。リング上に、いつも新しいアイデアを持ち込んで、お客さんを喜ばせるのが好きだった。プロとしてボクらの見本だったよ」。

プロレスラーとして米国でも日本でも人気者だった。「彼は日本でも米国でもトップを取る選手。正真正銘のメインイベンターだった。また1人、昔の仲間がいなくなった。寂しいよ」と小鹿は、故人をしのんだ。

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ハーリー・レイスさん死去 猪木、馬場らと激闘

NWA世界ヘビー級王座を奪い特別立会人のハーリー・レイス氏(右)と喜び合う小島(2014年1月4日撮影)

「ミスタープロレス」「ミスターNWA」と呼ばれたハーリー・レイスさんが1日(日本時間2日)、肺がんによる合併症のために死去した。76歳だった。同日、WWEなどが発表した。3月に肺がんを告白し、先月にはイベント出席の移動中に病状が悪化して入院していたという。

60年代から本格的にプロレス界に進出したレイスさんは68年2月、日本プロレスで初来日。ディック・ザ・ブルーザーと組み、ジャイアント馬場、アントニオ猪木組が保持したインターナショナル・タッグ王座に挑戦した。70年にも猪木、吉村道明組が保持したアジアタッグにも挑戦。72年には坂口征二のUNヘビー級王座にも挑戦した。

73年にドリー・ファンクJr.を下し、NWA世界ヘビー級王座を獲得。同年から全日本プロレスを主戦場とし、馬場、ジャンボ鶴田、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ミル・マスカラスを挑戦者に迎え、防衛戦も行った。またWWEの前身WWF王者とのダブルタイトル戦にも臨んだ。また82年には鶴田を下し、UNヘビー級王座、馬場からPWFヘビー級王座を奪取していた。

83年にはリック・フレアーを下し、7度目のNWA王座を獲得。80年代初頭までNWAの象徴として存在感を示し、通算8回のNWA王座獲得もあってNWAベルトは通称「レイスモデル」と言われ、本人が所持していた。

86年にはWWFに移籍し、ハルク・ホーガンのWWFヘビー級王座にも挑戦。WWFではアンドレ・ザ・ジャイアントとも共闘した。

95年の引退後にはプロレス団体のWLWを主宰し、後進の育成に尽力。日本とのつながりも深く、05年には小橋建太の訪問も受けた。10年11月からはプロレスリング・ノアのGHC管理委員長に就任。米国でノアの選手の育成を受け入れていた。04年にはWWE殿堂入り。13年には9年ぶりに来日し、ノアの有明大会で立会人を務め、14年には新日本プロレス東京ドーム大会で開催されたNWA世界ヘビー級選手権の特別立会人を務めていた。

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K-1が「紅白超え」テレビ史変えたサップvs曙

03年12月、ボブ・サップにKO負けした曙

<平成とは・バトル編(4)>

2003年(平15)12月31日午後11時。日本のテレビ史に新たな1ページが刻まれた。TBSの「K-1 Dynamite!!」で中継したボブ・サップ-曙の試合が「NHK紅白歌合戦」の視聴率を超えたのだ。頂点は曙がサップにKOされた11時2分。瞬間最高視聴率(ビデオリサーチ調べ)は43%に達し、NHKの35・5%を7・5%も上回った。

わずか4分間とはいえ裏番組が紅白を上回るのは初めて。平均視聴率19・5%も裏番組として史上最高だった。大会を運営したFEGのイベントプロデューサーだった谷川貞治は「絶頂を迎えたテレビ格闘技時代の象徴でした。格闘技というコンテンツは紅白を超えるほど強い。それを日本中にアピールできたことは大きな功績」と回想する。

K-1は93年(平5)に誕生した。フジテレビのスポーツイベントの一環として空手の正道会館の石井和義館長が、空手やキックボクシングなどの立ち技の格闘技世界一を決める大会を代々木第1体育館で開催した。「“賞金10万ドル世界最強決定戦”と銘打ち、まだK-1の文字は小さかった。空手やキックなど頭文字にKのつく格闘技の1番を決めるという意味で、ブームだったF1をまねた」と、マッチメークに携わった谷川は明かす。

決勝まで7試合のうち6試合がKOでの決着だった。ヘビー級のど迫力のパンチとキックに超満員の会場が熱狂した。実力者モーリス・スミスや日本のエース佐竹雅昭が、無名のアーネスト・ホーストやブランコ・シカティックに衝撃的なKO負けを喫したことで、逆にK-1のレベルの高さが際立ち、人気が急上昇した。

時代も味方した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の衰えとともにプロレス人気が下降し、新たな格闘技としてブームを起こしたUWFも90年を最後に分裂していた。そんな時代にK-1が注目を浴びた。昭和の時代に光の当たる舞台がなかった空手家やキックボクサーたちが、続々とK-1のリングを目指した。

極真空手で実績を残したアンディ・フグら世界的な空手家も参戦し、96年にはフジテレビがゴールデンタイムで放送開始。K-1の名前は全国区となって、平均視聴率も20%を超えた。97年12月の「K-1 GP決勝戦」は5万4500人の大観衆が東京ドームを埋めた。そして、02年に参戦した野獣ボブ・サップが国民的な人気者になった。

03年にK-1はTBSの「Dynamite!!」で、単独では初の大みそか興行に乗り出す。目標は打倒紅白。目をつけたのが曙だった。谷川が振り返る。「大みそかはみんなでお茶の間でテレビを見る。そのお茶の間で一番人気があるスポーツ選手はお相撲さん。だから元横綱の曙を口説いた」。サップと曙の対決は、谷川の予想通りお茶の間のテレビを紅白から奪った、

00年以降、フジテレビで「K-1 GP」、TBSで70キロ級の「K-1 MAX」、日本テレビで日本選手中心の「K-1 JAPAN」と3局で大会が放送されるようになった。93年の第1回大会で1人100万円だったファイトマネーは年々急騰し、億単位で稼ぐ選手も現れた。その一方でFEGの経営は次第に悪化。深刻な財政難に陥り、10年の「K-1 GP」が最後になった。

「経済的な破綻は自分たちの責任。いろんな問題があった」と谷川。ただ「経営状態が悪くなくても落ちていったと思う」とも話し、こう続けた「平成はテレビの時代だった。フグやサップが人気が出たのは強いからではなくて、テレビに乗ったから。でもこの10年でメディアを取り巻く状況はガラリと変わった。今は昔のようにテレビで視聴率を取る自信がない」。

現在、谷川は武道を軸に据えた新格闘技「巌流島」のイベントプロデューサーを務めているが、まだ目指す道が見つからないという。「20年前は地上波のゴールデンタイムという分かりやすい目標があった。コンテンツをつくる自信は今もある。でも、目指すメディアが見つからない。令和の時代はそれを見つけた人が勝つんだと思う」。谷川の悩みは、ネットの登場で斜陽となった既存メディアが抱えている悩みでもある。【首藤正徳】(敬称略)

03年12月、曙(左)にパンチを放つボブ・サップ

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ブロディ、新間寿氏、タナカらWWE殿堂入り

ブルーザー・ブロディ

WWEは6日(日本時間7日)、レガシー部門で「超獣」ブルーザー・ブロディ、元新日本プロレス専務取締役兼営業本部長を務めた新間寿氏、全日本プロレスなどでも活躍したプロフェッサー・タナカらの19年WWE殿堂入りを発表した。同日に米ニューヨークのバークレイズセンターで殿堂入り式典で当日発表された。

ブロディは76年にWWE前身のWWWWFに参戦し、同団体ヘビー級王座に挑戦。アンドレ・ザ・ジャイアントらと対戦した。79年に全日本プロレスで初来日し、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎らと対戦。「不沈艦」スタン・ハンセンと「超獣コンビ」として活躍した。85年には新日本プロレスにも参戦するなど日米で活躍した。

新間氏は前身のWWF会長を務めた経験を持ち、「過激な仕掛け人」と呼ばれてアントニオ猪木-ムハマド・アリ戦を実現させるなどプロレス界を盛り上げる裏方として尽力した。レガシー部門では力道山、ヒロ・マツダに続く日本人の受賞となる。

◆19年WWE殿堂入りレガシー部門受賞者 ワフー・マクダニエル、ルナ・バション、S・Dジョーンズ、プロフェッサー・タナカ、プリモ・カルネラ、ジョセフ・コーエン、新間寿、バディ・ローズ、ジム・バーネット。

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越中詩郎、馬場さんに桑田佳祐が…エピソード披露

トークショーを行った天龍源一郎(左)と越中詩郎

天龍源一郎(69)と越中詩郎(60)のプロレス界のレジェンド2人が21日、都内でトークイベントを行った。

全日本プロレス時代の苦労話、後に天龍が加わった平成維新軍での海外合宿など2人のプロレス人生の思い出話だけでなく、縁深いレスラーの話題にも及んだ。故ジャイアント馬場さんについて、天龍は「おれに言わせると馬場さんは悪い人じゃないですよ。いい人じゃないけど」と笑わせた。馬場さんの付け人だった越中は、富山の巡業中にホテルで偶然会ったサザンオールスターズの桑田佳祐があいさつに訪れたエピソードを披露。「向こうは直立不動で『馬場さん、お疲れさまです!』と言って、馬場さんは座って葉巻をくわえながら『あぁ、そう』って。で、桑田さんが帰った後に、『あれ、ゴダイゴか』と。僕はゴダイゴ知ってるのかと思った」と笑いながら、懐かしんだ。

現役引退を発表した獣神サンダー・ライガーについては、かつて新日本で「ドラゴンボンバーズ」を結成していた越中は「海外遠征に行く直前も、道場で2、3時間練習していたことがあって、これはすごいな、と。自分のそれに負けちゃいけないと思っていました」とジュニアの後輩をたたえた。

ファンからの質問にも応じ、つらい時に気持ちを奮い立たせるためのアドバイスを、との問いに2人はそれぞれ熱い答えを返した。天龍は「こんなところでへこたれてたまるか、と思えば足が1歩前に出ます。もういいと思えば、立ち止まる。立ち止まるというのは、後退すること。なにくそこのやろーと思えば、足が1ミリでも前に出る」と熱弁。越中は「僕は何回も(プロレスを)やめようと思ったし、地方にたくさん行く中で、鉄道を見る度に『これに乗って東京に帰ったら楽だなぁ』って、何十回、何百回も思った。でもその度に、好きな道で生きているんだから幸せなんだ、と自分に言い聞かせた。自分を信じること。いいことばかりじゃないからね。辛抱する、というのが大事」と万事を受け入れる大切さを語った。

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4の字固めの使い手 武藤敬司式を棚橋弘至が継承

棚橋流4の字固めを披露する棚橋弘至(左)(06年3月10日撮影)

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤーさん(本名リチャード・ベイヤー)が7日(日本時間8日)、米ニューヨーク州北部バファロー郊外の自宅で死去した。88歳だった。

◆4の字固めの使い手 米国で「フィギュア・フォー・レッグロック」と呼ばれ、デストロイヤーのオリジナル関節技として日本で広まった。技を仕掛けられた相手の両足が4の字になっていることが由来。テコの原理で、膝の靱帯(じんたい)を伸ばし追い詰める。デストロイヤー型は、左足のつま先が相手右太モモの下にロックされ、外れにくい。ただ、力道山戦のようにうつぶせるにされると攻める側の両ヒザに体重がかかって攻守が逆に。日本では95年10月の新日本東京ドーム大会で武藤敬司が高田延彦の足を狙ってドラゴンスクリュー、低空ドロップキックを連発した上で4の字固めでギブアップを奪って脚光を浴びた。現在では武藤式4の字固めの流れを、新日本の棚橋弘至らが継承している。

69年3月、日本プロレスのインターナショナル選手権でジャイアント馬場さん(左)に4の字固めを仕掛けるザ・デストロイヤーさん

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力道山夫人が語る秘話「白覆面の魔王」心優しい素顔

63年5月、力道山と向き合うザ・デストロイヤー

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤーさん(本名リチャード・ベイヤー)が7日(日本時間8日)、米ニューヨーク州北部バファロー郊外の自宅で死去した。88歳だった。

亡くなったザ・デストロイヤーさんは、日本を愛し、日本でも愛された。初来日した63年、東京で行われた力道山との試合のテレビ中継は視聴率64%を記録。日本に空前のプロレスブームを巻き起こした。名勝負を繰り広げた力道山の夫人、田中敬子さんが8日、日刊スポーツの取材に「白覆面の魔王」の心優しい“素顔”を語った。

デストロイヤーさんは、故力道山の好敵手として有名だった。63年5月に力道山の招きによって日本プロレスに初来日した。最初、米国のプロモーターから日本行きを打診された際は、激しく拒絶したという。当時の話をデストロイヤーさんから聞いた力道山夫人の田中敬子さんは「『オレは日本人は嫌いだから日本には行きたくない。真珠湾を攻撃した日本人は許せない』と断ったと言っていました」と話す。

しかし、63年5月24日、東京体育館での2人の戦いは何と、視聴率64%。足4の字固めという当時の日本では見慣れないワザを駆使する、力道山の好敵手の人気は急上昇。力道山の手厚いもてなしや、日本人選手からも尊敬され、デストロイヤーさんの日本への考え方も変わっていった。

「ボクの思っていた日本人の感覚とは違っていた。こんなに日本人が素晴らしいとは思っていなかった」と、デストロイヤーさんは敬子夫人に漏らした。そして、東京・港区内に住み、息子と娘を日本で育てた。最近まで毎年、麻布十番納涼祭りには、ハッピを着て参加していた。また「フォーギア・スクール」というレスリング教室を開き、日本の子どもたちにレスリングを教えていた。

63年12月8日、力道山が暴漢に刺された日も、デストロイヤーさんは、宴会の1次会までは力道山と一緒にいた。翌日帰国するため、2次会には参加せず先に引き揚げた。その後に事件に遭ったことを知ったデストロイヤーさんは、後日、敬子夫人に「本当にボクが最後まで宴会にいたら、あんなことはさせなかった」と、言葉を詰まらせ、悔やんでいたという。敬子夫人は訃報に接し「優しい方で知識人。レスラーというより学者さんタイプのすばらしい人。心からご冥福をお祈りします」と話した。【桝田朗】

故力道山夫人の田中敬子さん(18年12月13日撮影)

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武藤敬司、デストロイヤーさん「リスペクトしてた」

長州力を4の字固めで締め上げた武藤敬司

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤーさん(本名リチャード・ベイヤー)が7日(日本時間8日)、米ニューヨーク州北部バファロー郊外の自宅で死去した。88歳だった。

ザ・デストロイヤーさんの代名詞「足4の字固め」を得意技とする武藤敬司(56)も大先輩の死を悼んだ。かつて米国WCWのマットに上がっていた頃、デストロイヤーさんの故郷バファローでの試合時に、電撃訪問を受けたという。「足4の字固めの先駆者としても、レスラーとしても、リスペクトしていました。慎んでご冥福をお祈り致します」とコメントを寄せた。

63年5月、ザ・デストロイヤーさん(右)は力道山に4の字固めで苦しめる

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デストロイヤーさんの「リキドーゼン」もう聞けず

ザ・デストロイヤーさん(1993年7月28日撮影)

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤーさん(本名リチャード・ベイヤー)が7日(日本時間8日)、米ニューヨーク州北部バファロー郊外の自宅で死去した。88歳だった。

元プロレスラーの長男カート・ベイヤー氏(58)がフェイスブックで亡くなったことを報告した。死因は不明。キャリア約40年、日米で8000試合以上を戦い、お茶の間の人気者でもあったマスクマンの草分け的存在が、この世を去った。

デストロイヤーさんと取材などを通じ50年近くの交流があった日刊スポーツ新聞社の海外プロレス担当、デーブ・レイブル通信員がエピソードを織り交ぜ故人を悼んだ。

  ◇    ◇    ◇

今年の正月、ニューヨークにあるデストロイヤーさんの自宅に電話した際に、受話器から聞こえてくる声は、非常に元気そうでした。クリスマスカードをいただいたお礼、新年のあいさつなど、季節が変わるごとに話しており「久しぶりに、今年の春に会いましょう」と話していた直後の体調急変でした。17年に日本で叙勲を授与された時には「ヒールの自分を日本が愛してくれた。テレビで有名にしてくれた。日本の皆さんからいただいたものだ。本当にレスラーになって良かった」と、いつも日本行きを楽しみにされていた声が忘れられません。

1962年1月、ハワイのホノルルを転戦していたデストロイヤーさんのもとに、米ロサンゼルスのジュール・ストロングホーン・プロモーターから連絡が入り「ロスでマスクマンになってくれないか」とオファーを受けたそうです。同年4月にロス入りしたものの、用意されていたマスクが顔に合わず、視界が遮られて戦いにくかったと振り返っていました。そこでウィルマ夫人がガードル(女性補正下着)の布を利用し、ミシンでお手製のマスクを製作。デストロイヤーさんは「伸縮性があって顔にフィットした。デストロイヤーが成功したのはマスクのおかげ。大きなポイントだった」と笑顔で明かしてくれたことが思い出深いです。

マスクの縁取りはレッドが多かったですが、ブラック、ブルー、グリーンと夫人がバリエーションを考えていたようです。AWAマットで額に「X」マークが入ったマスクをつけ「ミスターX」としてファイトしましたが、これも夫人お手製。当時、同一レスラーが2つのマスクを使い分けたケースは非常に珍しく「2つの『顔』ができたことも驚愕(きょうがく)だったよ」と振り返っていました。

「自分のプロレスの原点だ」というロサンゼルスでマスクマンに変身。初めて世界王座(WWA)を獲得し、65年2月には本物の熊とも決闘して注目を浴びました。WWAマットではミル・マスカラスとも対戦。お互い全盛期の激突はドローでしたが、全米の知名度は非常に高まりました。前身団体を含めて所属レスラーではなかったWWEがデストロイヤーさんの訃報を公式サイトで伝えたのも、米国での功績の大きさを証明したものだと思います。

ロサンゼルスではジャイアント馬場、アントニオ猪木とも対戦しています。「馬場は大巨人なのにテクニカルで寝技の攻防も高いレベルで驚いたよ。若い猪木はこれからの日本のプロレスを背負って立つだろうと楽しみだった」との思い出も話していました。そして永遠のライバルとなる力道山については「本当にタフでそれまで戦ってきた中で1番タフでガッツがあった。あの日、自分が米国に帰らなければ力道山は殺されなかった」と沈痛な表情で振り返っていました。もう「リキドーゼン」と発音する思い出話をうかがえないのはさみしいです。ご冥福をお祈りします。(デーブ・レイブル通信員)

力道山(右)に4の字固めを決めるデストロイヤー(1963年5月24日撮影)

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ザ・デストロイヤーさん、ファンの胸の中で永遠に

デストロイヤーさん  1963年5月撮影

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤーさん(本名リチャード・ベイヤー)が7日(日本時間8日)、米ニューヨーク州北部バファロー郊外の自宅で死去した。88歳だった。

元プロレスラーの長男カート・ベイヤー氏(58)がフェイスブックで亡くなったことを報告した。死因は不明。キャリア約40年、日米で8000試合以上を戦い、お茶の間の人気者でもあったマスクマンの草分け的存在が、この世を去った。

「白覆面の魔王」は家族に寄り添われ、天国へと旅立った。デストロイヤーさんの長男カート氏のフェイスブックによると、米ニューヨーク州の自宅で子どもたちや、妻に見守られながら永眠した。同氏は「デストロイヤーであり、ドクターXであり、ディック・ベイヤーであり、コーチである父が今日正午すぎに亡くなりました。自宅のベッドで子どもたち、妻に囲まれて安らかに眠りました」などとつづった。ここ数週間、体調が悪化し、医療処置を受けていたという。

1954年に素顔でプロレスデビュー。62年、白地に赤の縁取りを付けたマスクを装着し、覆面レスラー「ザ・デストロイヤー」に変身し大ブレーク。同年に「吸血鬼」ブラッシーを下し、WWA世界ヘビー級王座を初戴冠した。63年に日本プロレスに初来日し、同年5月24日に力道山と同級王座戦で激突。代名詞で、のちに子どもたちが競うようにまねた「足4の字固め」の攻防で白熱した展開となり、テレビ中継の平均視聴率は64%をマークした。これは今なお日本のテレビの歴史上4位の高視聴率、プロレスでは同最高。空前のプロレスブームを巻き起こした。当時、外国人レスラーは悪役が多かったが、次第にファンの心をつかみ善玉に転じ、歓声を浴びた。ジャイアント馬場のライバルとなり、アントニオ猪木とも好勝負を繰り広げた。それまで脇役的だった覆面レスラーの立ち位置も変えた。

73~79年には全日本プロレスの所属選手として活動し、ブッチャーやマスカラスと名勝負を展開。馬場やジャンボ鶴田とタッグを組み、人気を博した。日本テレビのバラエティー番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」にも出演。せんだみつお、和田アキ子、徳光和夫アナウンサーとの掛け合いでお茶の間の人気者にもなった。

93年の現役引退後も日米の懸け橋となった。体育教師になり、日米レスリング選手の育成にも尽力。東日本大震災後も被災地に寄り添い、積極的に支援活動を行った。17年秋の叙勲で旭日双光章を受章。18年2月の米国での記念式典にも白い覆面で臨んだ。覆面の奥から見える優しい青い目がトレードマークだったデストロイヤーさんは、これからもファンの胸の中で生き続けることになる。

日本テレビ「うわさのチャンネル」で共演した和田アキ子とザ・デストロイヤー(手前)(1976年10月29日撮影)
全日本横浜大会 試合後、抱き合い健闘をたたえ合うザ・デストロイヤー(左)とジャイアント馬場 (1993年7月28日撮影)

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日テレもデストロイヤーさん悼む「勇姿忘れません」

全日本横浜大会 試合後、抱き合い健闘をたたえ合うザ・デストロイヤー(左)とジャイアント馬場 (1993年7月28日撮影)

覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)に88歳で亡くなったことを受け、全日本プロレスの中継を行っていた日本テレビが8日、追悼のコメントを発表した。

同局は「ザ・デストロイヤーさんの訃報に接し心よりお悔やみ申し上げます。足4の字固めを武器に力道山やジャイアント馬場などと死闘を繰り広げるとともに、プロレスの枠にとどまらずテレビ番組などで活躍し、日本国民に愛された『白覆面の魔王』の勇姿を私たちは忘れません。どうぞ安らかに」と故人をしのんだ。

デストロイヤーさんは、日本テレビ系で放送された全日本プロレスのスターとして活躍。また63年放送された力道山戦は、同局歴代最高の視聴率64%を記録した。73~79年に放送されたバラエティー「金曜10時!うわさのチャンネル!!」にも出演。ゲストに、足4の字固めをかけるのが名物だった。

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猪木「師匠力道山も苦戦」デストロイヤーさん悼む

ザ・デストロイヤー(左)にフィギュア4レッグロック(足4の字固め)にもって行かれる力道山=1963年12月2日

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤーさん(本名リチャード・ベイヤー)が7日(日本時間8日)、亡くなった。

力道山の弟子で無所属で活動しているアントニオ猪木参院議員(76)は8日、昭和のプロレス人気を盛り上げたデストロイヤーさんの死去について、マネジメント会社を通じてコメントを発表した。

「ザ・デストロイヤー選手は、体はそれほど大きくはなかったのですが、非常にテクニックがあって、私の師匠である力道山先生もかなり苦戦したことを強く覚えております。その後、私自身も戦う機会がありましたが、体格のハンディをものともしない努力に裏打ちされた一流レスラーとしてのプライドを感じました。同世代のレスラーとして、心よりザ・デストロイヤー選手のご冥福をお祈りいたします」。

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渕正信「家に来てくれて」デストロイヤーさん悼む

百田(右)にエルボードロップをぶち込む渕(2019年2月24日撮影)

全日本プロレスでデストロイヤーさんの教えを受けた渕正信(65)は「一番あこがれたレスラーでした。力道山時代から、ジャイアント馬場、豊登、アントニオ猪木と試合をやって、日本で最も有名な外国人レスラーでしたけど、若手に慕われていた」としみじみと話した。

デストロイヤーさんからは、練習方法や足腰の鍛え方、坂道ダッシュなど、プロレスの基本以外にもいろいろと教えを受けたという。

地方巡業では、7月11日のデストロイヤーさんの誕生日には、渕や大仁田厚が中心となりみんなでお金を出し合いケーキを買って、ホテルの一室でお祝いしたという。「一緒にハッピーバースデーを歌って、デストロイヤーさんもすごく喜んでくれた」という。

当時、渕の実家があった北九州にも遊びに来てくれたという。「2回ほど、ボクの家に来てくれて。近所の人がたくさん集まって大変だったんだよ」。

これまで、3回シングルで戦ったことがある。「全部ボクの負けだったけど、練習でやっている4の字と、試合でやる4の字は痛さが違っていた」と振り返った。

最後に会ったのは11年に東日本大震災後に行われた日本武道館大会。バトルロイヤル戦の立会人として参加し、息子のカート・ベイヤーとデストロイヤーさんと3人で、リング上で記念写真を撮ったという。「『渕、久しぶり』と声をかけてもらった。足腰が弱っていたが、元気そうだったのに。すごくいい人でした。ご冥福をお祈りします」と話していた。

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デストロイヤーさん悼む 61歳で引退/復刻連載終

全日本横浜大会 試合後、抱き合い健闘をたたえ合うザ・デストロイヤー(左)とジャイアント馬場 (1993年7月28日撮影)

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)、亡くなりました。享年88歳。日刊スポーツでは、デストロイヤーさんが現役引退した93年7月に連載を掲載しています。今回追悼をかねて復刻版として再掲載します(年齢などは当時のまま)。

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29日の全日本プロレス東京・日本武道館大会で現役引退をするデストロイヤーは「日本のファンは望まないだろう」ということで、マスクを脱ぐことはない。1963年(昭38)の初来日時は「白覆面の魔王」の異名をとったが、マスクの下は質素な努力家だ。一生懸命日本の生活に溶け込もうと努力した。

現在も全日本プロレスの売店では元気に白マスクを売っているが、73年から79年の日本滞在中には東京・港区麻布の夏祭りで、ホットドッグ店を開店していた。地域住民とのコミュニケーションを目的としたものだったが、デストロイヤー自らがつくってくれるとあって人気があった。また、米アクロンの自宅には日本式の木のふろをつくってもいる。日本から持ち帰った日本人形も部屋にディスプレーし、オリエンタルムードに一役買っている。

子供時代は、ドイツ系移民ということでいじめられもした。貧困のどん底で兄弟で一つのベッドを共有していた。その経験から現在も暮らしぶりはつましく、庭には家庭菜園もある。奨学金を得てニューヨークのシラキュース大大学院を卒業したインテリレスラーということで、「ザ・インテリジェンス・センセーショナル・デストロイヤー」というリングネームを使わせたがったが、仕事を離れるとそれをひけらかすことは全くなかった。日本では84年6月に、ベースボール・マガジン社から自伝「4の字固めのひとりごと」を出版。口だけではなく、形としてインテリぶりを示した。

61歳という現在まで現役を続けられた裏には、徹底した節制と、自己管理があった。「強いアルコールは体に悪い」と、酒はビールだけをたしなんだ。

来日回数がデストロイヤーを超える外国人選手は数多くいるが、これほど日本に親しんだ選手はいない。「チャンスがあったらまた試合をしたい」というデストロイヤーの名前は、白覆面とともに、永久に日本のプロレス史に残るだろう。

【川副宏芳】

(おわり)

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