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大嶽親方、怒りの平手打ち/記者が振り返るあの瞬間

06年7月15日、大相撲名古屋場所7日目で土俵下でにらみ合う千代大海(右)と露鵬

<スポーツ担当記者 マイメモリーズ>(36)

政府の緊急事態宣言が延長され、スポーツ界も「自粛」状態が続いている。

日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

   ◇   ◇   ◇

はじめはよく見えなかった。大関千代大海の盛り上がった肩の筋肉から腹へ、細くて赤い筋が何本も流れていた。

06年名古屋場所。打ち出し後の役員室に怒髪天をつく形相の千代大海がバスタオル姿で入ってくる。目が慣れてきて分かった。上半身に小さいガラスの破片が数え切れないほど刺さっていた。粉々になったガラスを浴びたのだ。

すぐにロシア出身の平幕の露鵬も来る。師匠の大嶽親方(元関脇貴闘力)がこわばった顔で付き添う。本割で感情的になった2人が風呂場でもめ、露鵬がドアを破壊した。

帰り支度で騒がしかった役員室が無音になった。お互いにいつでも襲いかかりそうな殺気だ。北の湖理事長(元横綱)は事情を聴き「いつまでも遺恨を残すな。握手して仲直りしなさい」と言った。

露鵬が千代大海に「これからも頑張って」と言う。番付上位の先輩力士に対して、何より加害者としては間違った言葉遣いだった。

直後、大嶽親方が「お前は~」と怒鳴りながら顔面を平手で打った。すさまじかった。記者だったら失神、いや、脳振とうは免れない。張り手で千代の富士、小錦、曙に挑んだあの貴闘力の平手打ちだ。その一撃を受けても露鵬は顔をそむけず正面を向いたまま。映画のようだった。

この時、露鵬はフラッシュを嫌がり、カメラマンに暴力をふるい、出場停止処分になった。

後日、巡業先の体育館で寂しそうに座っていた。目があった。「カメラマンの人には悪いことをしました。大関にも悪い態度、反省しています」と言った。気まずい空気が流れ、話をつなごうと焦り「(平手打ち)ものすごかったね。痛かったでしょ」と聞いた。すると「あんなの痛くない。それよりも悔しかった。俺は強いんだって、みんなに分かってほしかった」。顔の前を太い右腕で振り払うようにした。よみがえった記憶を払いのけようとしているようだった。屈辱に顔はゆがんでいた。

番付が力を示す相撲社会を取材して、こんなきわどい瞬間にはほとんど出会えなかった。ただ、ケンカ沙汰はいたるところにあるとはうすうす感じていた。相撲界は時津風部屋での力士暴行死事件、元横綱日馬富士の暴行問題という不祥事から暴力追放を目指してきた。現在は暴力への問題意識も格段に広まっているだろう。記者が遭遇したあの瞬間は、もう過去のものであると信じている。【井上真】

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辰吉も会場も泣いた激闘/記者が振り返るあの瞬間

辰吉丈一郎(2018年4月30日撮影)

<スポーツ担当記者 マイメモリーズ>(34)

政府の緊急事態宣言が延長され、スポーツ界も「自粛」状態が続いている。

日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

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殺されるんちゃうか。リングに立った両者を並び見て、身震いした。

97年11月22日、大阪城ホール。辰吉丈一郎(当時27=大阪帝拳)は、挑戦者として戦場に向かった。相手は20歳の王者シリモンコン・ナコントンパークビュー。当時16戦無敗、「翡翠(ひすい)の顔」と呼ばれた男前でもあり、タイの若い女性の間で人気急上昇でモデルの仕事の依頼もあった、若き英雄だった。

一方の辰吉は左目網膜裂孔、同剥離と2度の眼疾による引退危機を乗り越えるも、薬師寺との世紀の統一戦に敗れ、その後もスーパーバンタム級に上げてサラゴサに連敗と世界戦3連敗を喫していた。試合前、世界初奪取時から子どものようにかわいがってきたWBCのホセ・スライマン会長が「これ以上誇りを傷つけるな」と最後通告。大阪帝拳の吉井清会長も「負ければ次はない、最後の花道」と腹をくくっていた。

事実、辰吉の勝つイメージはわかなかった。シリモンコンはムエタイでも60戦のキャリアを誇り、辰吉を「年をとって前よりスピードがない」と年寄り扱いするなど、発言も自信に満ちていた。可能性は海外での試合キャリアと減量苦。その兆候が前日に見えた。

前日計量前の健診でシリモンコンの体温は38・2度。吉井会長は「熱が出るほどだから、胃を荒らしてるんでしょうな」と冷静に言った。陣営によると、一日中サウナにこもり、計量当日だけで1キロ近く落としたという。それまでの自信に満ちた王者の顔はどこえやら。やつれきった顔から精気は失われていた。

ところが。試合当日のシリモンコンは精気に満ちた顔に、はちきれんばかりのボディーだった。バンタム級のリミットは55・3キロだが、一晩で10キロ近く戻してきた。一方の辰吉は2キロ程度の回復で、比べて見れば、失礼を承知でいえば貧弱でしかなかった。辰吉ものちに「『でかっ』と思って二度見した」と語っている。圧倒的な体格差に「殺される」を予感した。

そんな序章から幕を開けた試合はドラマだった。「作戦通り。上を意識させてボディーを狙った」と試合後。5回に強烈な左ボディーでもん絶させてからの右ストレートでダウンを奪う。その後はシリモンコンの猛打に足がもつれる場面もあったが7回、右フックから左ボディーで再びダウン。立ち上がったところに猛ラッシュでレフェリーのリチャード・スティールが試合を止めた。辰吉が泣き、会場全体が感動で泣いた。

スポーツ記者として、その場に立ち会えて幸せと思える瞬間は少なくない。ただ、記者の立場も忘れ、涙を流すほどの場面にはそうそう出会えない。そんな経験ができた喜びは、20年以上たった今も体に刻まれている。「人生に不可能はない」と教えられた。だから辰吉というボクサーはずっと愛されている。【実藤健一】

◆試合VTR 辰吉が壮絶な打撃戦を制した。序盤から左ジャブでけん制。シリモンコンのガードが高くなって、ガラ空きになったボディーを狙い打った。5回、強烈な左ボディーがヒット。過酷な減量で動きの悪い相手に、続けざまに放った右ストレートで最初のダウンを奪った。6回に王座防衛に必死の相手に反撃されたが、ガードを下げて応戦。7回、右フックから左ボディーで2度目のダウンを奪い一気にラッシュ。1分54秒TKO勝ちした。

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礼儀欠かさなかった曙親方/記者が振り返るあの瞬間

曙太郎K−1入り会見 K−1参戦を表明し会見する曙親方(右)と谷川貞治プロデューサー=東京・帝国ホテル(2003年11月6日)

<スポーツ担当記者 マイメモリーズ>(32)

政府の緊急事態宣言が延長され、スポーツ界も「自粛」状態が続いている。

日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

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その声が自分に向けられたものだとは、すぐには分からなかった。もう1度「オイッ!」という低い声が飛び、鋭い眼光は相撲担当になってまだ2日目の自分を見ている。03年10月31日。朝稽古の取材で東関部屋を訪れて、一礼だけして後方に座った直後、曙親方(元横綱)に呼ばれた。怒気をはらんだ口調だった。

前日、部屋の幕内高見盛が出稽古先で横綱朝青龍につり上げられ、バックドロップのようにたたきつけられて右肩を負傷した。様子を確認しに来た自分が気に食わないのかもしれない。テレビでしか知らなかった巨体に恐る恐る近づく中で、いろいろと考えた。首に下がる記者証をにらみつける親方の目が怖かった。

「お前、あいさつはどうした?」。そう言われて慌てて名乗ろうとした。すると「オレじゃない!」と語気が強まった。「師匠にだ。部屋に入ってきたらまず師匠にあいさつするのが礼儀だろ。それが日本人の心ってもんじゃないのか」。

分かる人も多いだろうが、稽古中は意外と静かな間が多い。体同士、時に頭と頭がぶつかり合う鈍い音が響き、呼吸の乱れもよく分かる。そんな空間で、相撲のすの字も分からないペーペーの担当記者ができることは、ひたすら存在を消すこと。物音を立てず、邪魔にならないよう隅っこで見ていようと思っていた。稽古を遮るあいさつすら失礼になると思い込んでいた。

その静寂を壊してまで「礼儀」を説いてくれた曙親方の思いを、今も感じることができる。慌てて師匠の東関親方(元関脇高見山)に頭を下げると、にこりと笑ってくれた。曙親方に戻り、一から名乗ると「それを忘れないようにな」と優しい声で言われた。ハワイ出身の親方に教わった「日本人の心」は、その後の記者生活の土台になった。

ところが話はまだ続く。

1週間後の11月6日の朝、日刊スポーツ1面に「曙親方 K-1参戦へ」の文字が躍った。スクープだった。部屋に行くと東関親方は明らかに落胆していて、退職の申し出は受けていたものの「気がついたら部屋に荷物がなかった。こういう言葉は使いたくないけど、裏切られた」と恨み節が出た。

稽古場で諭してくれた、あの「日本人の心」は一体どこに…。当時は自分もだいぶ混乱したものだった。

ただ、実際にK-1やプロレスに転向した曙はその後も部屋を訪れて師匠と肩を並べている。先日は闘病中の体を押して、東関親方として急逝した元幕内潮丸の葬儀に訪れた。非礼のままであれば、そうはいかないのがこの世界。礼儀を欠かさなかったからこそだと、曙の姿を見るたび、そう感じている。【今村健人】

福岡市の福岡国際センターで行われた前夜祭の支度部屋で、曙親方のKー1参戦を伝える本紙に目を通す小結高見盛(2003年11月6日撮影)

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今も実感沸かぬ大横綱の死/記者が振り返るあの瞬間

元横綱千代の富士の九重親方死去を報じる16年8月1日付の本紙1面

<スポーツ担当記者 マイメモリーズ>(28)

政府の緊急事態宣言が延長され、スポーツ界も「自粛」状態が続いている。日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

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暑く、長い夏の1日だった。16年7月31日。元横綱千代の富士の九重親方が亡くなった。その日は、夏巡業取材で大阪から岐阜市内へ日帰りで出張していた。仕事を終えて夕方の新幹線でのんびり帰阪していると、デスクから携帯電話に一報が入った。

「九重親方が亡くなったようだ。福井に行ってくれるか」

えっ…。しばし、絶句した。親方は都内の病院で亡くなったが、力士や親方衆一行は岐阜からバスで次の巡業先の福井市へ向かっていたため、そこで関係者を取材してほしいということだった。新大阪駅に着いたのは午後6時ごろ。自宅まで着替えを取りに行く時間などない。慌てて特急サンダーバードに乗り換え福井へ向かった。午後8時過ぎに着くと、駅前のホテル周辺で関係者を捜し回った。

取材していて、動悸(どうき)が収まらなかった。昭和49年生まれの記者にとって“大横綱”といえば、千代の富士だった。筋骨隆々の体で豪快につり出し、上手投げで勝ち続ける姿は、ヒーローそのもの。子供のころ、狭い家の中で父親と相撲を取る時は、ベルトを前みつ代わりに引きつけて頭をつけ、千代の富士になりきっていた。記者になってから関係者の紹介で食事をした際は「俺は日刊が嫌いなんだ!」と言われてビビリまくったが、マッコリをたくさん飲むと笑ってくれた。そして、ひとたび相撲の話になると現役時代のような鋭い眼光に戻り、言った。「三役が大関を、大関が横綱を目指すなら、もっともっと稽古をやらないと。『もっと』じゃないよ。もっともっと、だ」。少し前まで熱く語っていた“大横綱”が死ぬなんて、信じられなかった。

その夜は結局、午後11時過ぎまで取材を続け、元大関栃東の玉ノ井親方や、豪栄道らから思い出話を聞いた。翌8月1日は1~3面と芸能面で死を悼む記事が掲載されたが、紙面を見ても亡くなった実感は湧かなかった。4年の歳月が流れた今も同じだ。テレビで見た現役時の勇姿も、一緒に飲んだ時の笑顔も、「もっともっと、だ」と力を込めた険しい顔も、すぐによみがえってくる。心の中で生き続けるとは、こういうことなのか。横綱千代の富士が、教えてくれた気がする。【木村有三】

現役時代の横綱千代の富士

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引退ライガー、いつも通りの姿でいつも通りの激闘

声援に応える左からザ・グレート・サスケ、藤波辰爾、獣神サンダー・ライガー、佐野直喜、高岩竜一(撮影・中島郁夫)

<新日本:東京ドーム大会>◇4日◇東京ドーム

5日に引退するレジェンド、獣神サンダー・ライガーが引退記念8人タッグ戦に臨んだ。90年代新日ジュニア戦線を彩った縁深いメンバーとともに激闘を繰り広げたが、後輩の田口隆祐(40)に敗れた。

   ◇   ◇   ◇

ライガーが花道に現れると満員のドームが沸いた。大スクリーンにテーマ曲「怒りの獣神」の歌詞が映され、大合唱が巻き起こった。昨年3月に引退宣言してからは、バトル、鬼神、黒など過去を振り返るようにさまざまなパターンのライガーを見せてきたが、この日は特別なことは何もしなかった。最後のドームに向けて、特別なマスクを制作することも考えたが、「いつも通り練習して、いつも通りリングにあがって、試合して。みんないつものライガー、見たいんじゃない?」。いつも通りの姿で試合に臨んだ。

8人タッグマッチで組んだのは小学校の時にプロレスラーになるきっかけとなった、憧れの藤波辰爾(65)、盟友ザ・グレート・サスケ、そして現在の女房役タイガーマスク。対するのは、ライガーとなる前に一緒に同日デビューした佐野直喜(54)、90年代新日本ジュニア戦線をともに盛り上げた大谷晋二郎(47)と高岩竜一(47)。そして後輩で現在の新日ジュニアを支える田口。

ベテランメンバーがそろったが、ライガーが「ただ単に懐かしい、という試合にはならない」と予告していた通り、全員が死力を尽くした。2カ月前から体を絞ったという佐野は場外に落ちたライガーに向かってトペ・スイシーダをさく裂。大谷はライガーに顔面ウォッシュを決め、会場を盛り上げる。ライガーも負けじと田口に掌底、雪崩式フランケンシュタイナーをお見舞いするが、最後は田口にどどんを決められ、敗れた。ライガーは「リングに上がれば、レスラーに年は関係ないよ」と参戦した選手を称えた。

5日のラストマッチは佐野と組み、この日ジュニア新王者となった高橋、リュウ・リーの現在のジュニアトップ2人と対戦する。ライガーは記者に向かって「きょうの試合見ててさ、しょうがねえな、引退もな、って思った?」と逆質問。「ないでしょ? これでいいんだよ。これがおれの目指した引退試合。もっとすげー試合を明日する」と宣言した。89年4月24日、新日本初の東京ドーム大会でデビューし平成の世とともに生きたライガーが、令和初の東京ドームで最後の試合を迎える。【高場泉穂】

▽藤波辰爾 まだ十分に戦えるし複雑な気持ちだが、久しぶりに1・4のリングに立たせてもらって感謝している。

▽タイガーマスク 新日本に誘っていただき、仲人もやってもらった。今日偉大さがあらためて分かった。魂を引き継いで、新日本プロレスを守っていきたい。

▽ザ・グレート・サスケ スーパーJカップ第1回でチャンスを頂いて26年。ライガーさんには「TDK」、ただただ感謝です。

▽大谷晋二郎 あんなに怖くて厳しくて温かい人はいない。若手にライガープロレスを伝えていきたい。同じ時代にできて本当に幸せだった。

▽佐野直喜 まだまだできそうな体だが、引退は本人が決めたこと。若い時から同期で切磋琢磨(せっさたくま)してきた仲。ジーンと来た。

▽高岩竜一 最近、涙腺が弱くてすみません。こんなクソみたいなオレをレスラーにしてくれて、本当にありがとうございます。

▽田口隆祐 引退は非常にもったいないと思うが、自分があっさり勝ってしまったので引退は仕方ないかな。私はまだまだ現役を続けていく。

佐野(左)を指名する獣神サンダー・ライガー(撮影・河田真司)
田口に雪崩式フランケンシュタイナーをかける獣神サンダー・ライガー(撮影・河田真司)

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Creepy NutsがK1オープニングライブ

K-1よこはまつりのオープニングでライブを行ったCreepy NutsのR-指定(左)とDJ松永

人気ラッパーのR-指定とDJ松永によるヒップホップユニット「Creepy Nuts」が24日、横浜アリーナで開催されたK-1 WGP2019~よこはまつり~のオープニングライブに臨んだ。開会式直前に登場。まずDJ松永がDJバトル世界一のテクニックを披露して会場の熱を上げると、MCバトル日本一のR-指定が加わり「スポットライト」「生業」の2曲で1万人のファンを盛り上げた。

「むちゃくちゃ緊張しました」と振り返るR-指定は「2曲なのに汗びしょびしょになりました」と苦笑。DJ松永は「みなさんがどれだけ楽しんでいただけたのか分からないですが、すごい呼んでいただいて光栄でした」と満足そうな笑みを浮かべた。

DJ松永は90年後半~00年代のK-1ヘビー級戦線に熱中し、過去に試合DVDを購入していたことを明かした上で「(アーネスト・)ホースト、ミルコ(・クロコップ)、(レイ・)セフォーが好きでした」。今回も木村“フィリップ”ミノルのファイトを楽しみにしていた。またR-指定は2年前に年末の格闘技イベントをチェックして戦うファイターたちに強い興味を示したという。「ホンマに自分は不良的な感じがなくて、格闘技を敬遠していた時があった。MCバトルとかをやりはじめて、おこがましいですが、格闘技を見て、勝手に自分がラッパーとして戦う心境と重ねてみるようになりました」と“格闘技愛”を口にしていた。

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井上浩樹2本目ベルト狙う いとこ尚弥の優勝刺激に

12月2日、東京・後楽園ホールで開催される第70回フェニックスバトルのポスター

12月2日、東京・後楽園ホールで開催されるボクシングの第70回フェニックスバトル(日刊スポーツ新聞社後援)の主要カードが12日までに発表された。

メインはWBOアジア・パシフィック・スーパーライト級王座決定戦に同級1位井上浩樹(27=大橋)が出場。同級7位ジェリッツ・チャベス(28=フィリピン)と拳を交える。7日にさいたまスーパーアリーナで開催されたワールド・ボクシング・スーパーシリーズ決勝で、いとこの井上尚弥(26)が優勝を飾り、刺激を受けた井上浩樹。無敗の日本同級王者が2本目のベルトを狙う。

また軽量級ホープとなる日本フライ級13位桑原拓(24)がリカルド・スエノ(25=フィリピン)と同級8回戦、18年2月に世界挑戦を経験した日本スーパーバンタム級3位松本亮(25)が伊藤仁也(24=三河)とフェザー級8回戦で対戦する。また保田克也(27)らも出場予定だ。

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ノア小峠篤司が低迷磐田にエール、高校までサッカー

ノア浜松大会のPRに訪れた小峠篤司は、16日に獲得したIPWジュニアヘビー級王座のベルトを持ってガッツポーズ

プロレスリング・ノアの小峠篤司(33)が18日、日刊スポーツ静岡支局を訪れ、来月22日にアクトシティ浜松で行われる浜松大会をPRした。

11月2日開催の年間最大のビッグマッチ、東京・両国国技館大会に向けて、各地を転戦中。浜松大会は、両国大会前の最後の実戦になる。チーム「Stinger(スティンガー)」の一員としてタッグマッチを行う予定だが、両国のカードは決まっていない。「両国では、目玉となるカードが組まれる。浜松は、両国に向けてのストーリーができてくるような大会になる」。両国の前哨戦として、ファンには見逃せないバトルになりそうだ。

出身地の大阪府貝塚市では、高校までサッカー選手だった。本拠地が浜松に近いJ1磐田のリーグ戦低迷を気に掛けている。「磐田は強くあってほしい。(元ブラジル代表の)ドゥンガがプレーしていたことは、よく覚えている。スター軍団がいた時の栄光を見せてほしい」と願った。

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清田亨「同じ轍踏まない」2度目の日本ランカー挑戦

日本スーパーフェザー級9位三瓶(左)に挑む清田

プロボクシング・ライト級の清田亨(24=大橋)は2度目の日本ランカー挑戦を迎える。

17日、東京・後楽園ホールで開催されるフェニックスバトル(日刊スポーツ後援)のセミファイナルで、日本同級9位三瓶数馬(24=協栄)との59・5キロ契約体重8回戦に挑む。16日には東京・文京区の日本ボクシングコミッションで前日計量に臨み、59・3キロでクリア。三瓶は59・4キロでパスした。

今年5月に日本ライト級10位粕谷雄一郎(角海老宝石)に挑んだが、0-2の判定負けを喫した。日本ランク入りへの再挑戦となるため「今回は絶対に勝たないといけないです。状態も今までで一番良いです」と燃える。打ち合いを得意とする三瓶との試合展開をイメージしながら「最後は結局、気持ちだと思う。前回も最後は気持ちの勝負だったので。もう同じ轍は踏まないようにしたい」と集中力を研ぎ澄ませていた。

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井岡2世の桑原拓、世界ランク入り「決めたい」

WBC世界ミニマム級15位レフジョ(左)とメインイベントで拳を交えるホープ桑原

プロボクシング軽量級ホープの桑原拓(24=大橋)がプロ6戦目で世界ランキングの獲得を狙う。

17日に東京・後楽園ホールで開催されるフェニックスバトル(日刊スポーツ後援)のメインでWBA世界ミニマム級13位ジョナサン・レフジョ(26=フィリピン)との51キロ契約体重8回戦に挑む。16日には東京・文京区の日本ボクシングコミッションで前日計量に臨み、桑原はリミット、レフジョは50・0キロでパスした。

4階級制覇王者井岡一翔(Reason大貴)と同じ興国高-東京農大のルートを進み、「井岡2世」と呼ばれる桑原は初のメインイベント抜てき。「うれしいと同時にプレッシャーも感じましたが、今は気合が入っています」と責任感を口にした。IBFでも12位にも入るレフジョに勝てば、世界ランク入りする可能性は高いだけに「この、いただいたチャンスで決めたい」と意気込んだ。

キャリア32戦でサウスポーのレフジョは17年4月に現WBA世界ライトフライ級スーパー王者京口紘人(ワタナベ)と東洋太平洋ミニマム級王座を懸けて対戦した経験もある。テクニック戦の展開が予想されているが、桑原は「キャリアのある相手をペースに乗せず、打たせずに打つボクシングができれば勝てると思います」と気合を入れ直していた。

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前田日明「選挙に出て」リハビリ中高山へ独特エール

「TAKAYAMANIA EMPIRE2」でトークバトルした武藤敬司(中央)と前田日明(右)。左は司会を務めた田中ケロ

<TAKAYAMANIA EMPIRE2>◇26日◇後楽園ホール

17年に負った頸椎(けいつい)完全損傷でリハビリ中のプロレスラー高山善広(52)を支援する「TAKAYAMANIA EMPIRE」の2回目の興行が行われ、前田日明と武藤敬司があぶないトークバトルを繰り広げた。

テーマは自由。話題の矛先はまず共通の師であるアントニオ猪木氏に向けられた。武藤は新弟子時代にタクシー代1万円を貸し、まだ返してもらっていないことを暴露。「金利を取るからね。100万、200万にはなっている」と約30年越しに催促した。

復活を目指す高山へのメッセージを求められると、武藤は「いつかはマスターズに呼びたい」と自身がプロデュースする大会への参戦を熱望。前田は雑誌で読んだ最新治療法を紹介し、「れいわ新選組から選挙に出て、国会議員になってほしい」と独特のエールを送った。

「TAKYAMANIA EMPIRE2」の試合後に会場に流れた高山善広のメッセージ
高山善広支援大会「TAKAYAMANIA EMPIRE2」に参戦した選手ら

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“井岡2世”桑原拓がプロ6戦目初世界ランカー戦へ

桑原拓(2018年5月25日撮影)

ボクシング軽量級ホープでデビュー5連勝中の桑原拓(24=大橋)がプロ6戦目で世界ランカーと対戦することが決まった。

9月17日、東京・後楽園ホールで開催される大橋ジム主催の「フェニックスバトル69」で、WBC世界ミニマム級15位ジョナサン・レフジオ(26=フィリピン)と対戦することが1日、所属ジムから発表された。勝てば世界ランキングが手に入る見通しの重要な一戦になる。レフジオは17年4月、当時東洋太平洋ミニマム級王者だった現WBA世界ライトフライ級スーパー王者京口紘人(ワタナベ)に挑戦して判定負けしている。

桑原は名門・興国高時代に2冠を獲得し、東京農大では主将も務めた。興国高-東京農大は4階級制覇王者井岡一翔(Reason大貴)と同じ経歴でもあり「井岡2世」とも言われている。

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猪木氏、伝説の藤波戦「忘れた」最後は1・2・3…

トークショーを行ったアントニオ猪木氏(左)と藤波辰爾(撮影・中島郁夫)

<ドラディション:後楽園大会>◇26日◇東京・後楽園ホール

平成終わりの後楽園に、プロレス界のレジェンドが集結した。藤波辰爾(65)が主宰するドラディションの後楽園大会が26日に行われ、師匠のアントニオ猪木参院議員(76)が参戦。リングに上がり藤波とトークバトルした。

猪木氏は歩行につえが必要な状況だが、リングに上がるなり、ビンタで藤波に闘魂注入。元気な姿をみせた。トークテーマは88年8月8日横浜文化体育館での2人の伝説の対決。今でもプロレスファンの語りぐさとなっている「8・8」は60分引き分けの熱闘だった。藤波が「(試合で)汗が出過ぎちゃって。その後、1日半おしっこ出なかった」と明かすと、猪木氏はすかさず「あんまり汗かかなかったね」と話し、笑わせた。その後も猪木氏は「忘れた」と「8・8」の話題に乗らず、ほぼ脱線トークで盛り上げた。

さらに終盤には新日本の坂口征二相談役(77)もサプライズ登場した。

出場選手もリングにそろう中、締めを任された猪木氏は「1つだけ」と自身の次の選挙について言及。「余分なんですけど、(周囲が)選挙に出てくれって言うんですよ。選挙事務所を懸命に探したけど、いいところが見つからない。北朝鮮に頼んで、選挙事務所を作ってもらおうかな、と思っている」と猪木流? のトークで最後は「いくぞ! 1、2、3、ダー」のかけ声で夢の興行を締めた。

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猪木氏がドラディション参戦!藤波にビンタ闘魂注入

藤波辰爾(右)に闘魂注入するアントニオ猪木(撮影・中島郁夫)

<ドラディション:後楽園大会>◇26日◇東京・後楽園ホール

平成終わりの後楽園に、プロレス界のレジェンドが集結した。

藤波辰爾(65)が主宰するドラディションの後楽園大会が26日に行われ、師匠のアントニオ猪木参院議員(76)が参戦。リングに上がり藤波とトークバトルした。猪木氏はリングに上がるなり、ビンタで藤波に闘魂注入。2人の88年8月8日の伝説の対決がテーマだったが、猪木氏は「忘れた」と脱線トークで盛り上げた。

終盤には新日本の坂口征二相談役(77)もサプライズ登場。猪木氏が「1、2、3、ダー」で夢の興行を締めた。来年1月に引退する新日本の獣神サンダー・ライガーも初参戦し、6人タッグ戦で藤波、越中詩郎と「ドラゴンボンバーズ」を再結成。垂直落下式ブレーンバスターで勝利し「出場させてもらい、幸せ」と感激した。

藤波辰爾(右)に闘魂注入したアントニオ猪木(撮影・中島郁夫)
入場するアントニオ猪木(撮影・中島郁夫)
恒例の「ダーッ!」を決める左から越中詩郎、坂口征二氏、アントニオ猪木、長井満也、北沢幹之氏、獣神サンダー・ライガー、藤波辰爾(撮影・中島郁夫)

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SANADAが挑発勝利 オカダ得意技で相方沈める

オカダを挑発するSANADA(撮影・柴田隆二)

<新日本:後楽園大会>◇24日◇後楽園ホール

5月4日の福岡大会でIWGPヘビー級王座に挑戦するSANADAが、王者オカダを挑発した。

メインのタッグ戦でオカダ組と対戦したSANADAは王者と激しいバトルを展開。オカダをパラダイスロックで固め、後ろからドロップキックを見舞う。最後は、オカダと組んだSOHに、オカダの得意技墓石式脳天くい打ちを掛け、スカルエンドでギブアップを奪った。

試合後、観衆の大声援に促されてマイクを握ったSANADAは「オカダさん、ちょっとだけ、ちょっとだけ熱くなってきました。最後の墓石式脳天くい打ちは、オレからのギフトだよ」とオカダに向かって言い放った。

SANADA(左)はオカダ・カズチカを攻撃する(撮影・柴田隆二)

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30年続く「ドームプロレス」令和へ新たな進化も

89年4月、チョチョシビリに抑え込まれるアントニオ猪木

<平成とは・バトル編(5)>

昭和末期のプロレス界は新日本、全日本、国際の3団体だった。平成を迎えて団体の乱立、交流戦を通じた淘汰(とうた)、そしてK-1、PRIDEの隆盛による人気低下の時期を乗り越え、2010年(平22)以降から新日本が中心となって復活を遂げた。そんな激動続きの平成の時代に幕を開け、30年間続いたのは「ドームプロレス」だった。

平成元年の89年4月24日、アントニオ猪木がけん引した新日本が最初に東京ドームに進出した。前年にマイク・タイソンの世界戦が開かれていたこともあり、世界的規模を意識。「日ソ異種格闘技戦」と題し、旧ソ連VS新日本を演出した。メインではロープのない円形リングで、猪木が72年ミュンヘン五輪柔道金メダリストのチョチョシビリと対戦。裏投げ3連発でKOされる結末に大きなインパクトを与えた。

豪華かつ派手、話題性を加えるため、選手移籍などで緊張感のあった団体間の「壁」が崩れた。翌90年2月、2度目の新日本の東京ドーム大会で全日本勢が参戦。ジャンボ鶴田、谷津嘉章、2代目タイガーマスク、天龍源一郎がタッグ戦に出場。ビッグバン・ベイダーVSスタン・ハンセンという新日本と全日本のトップ外国人が激突した。同年4月には米WWF(現WWE)、新日本、による「日米レスリングサミット」も開催。ハルク・ホーガンらも参加し、ドームプロレスならではの夢対決が実現していった。

ドーム大会で実現させた新日本の交流戦は、特に注目度が高かった。高田延彦のUWFインターとの対抗戦では、闘魂三銃士の1人、武藤敬司が輝きを増した。95年10月9日の東京ドーム大会のメインで高田と対戦し、ドラゴンスクリューからの足4の字固めで勝利。翌96年1月の東京ドーム大会での再戦は5年ぶりに地上波で生中継され、当時の武藤は「史上最大のイベントなんだから派手にやらなきゃ」と豪語した。97年には大阪、ナゴヤ、福岡を含めた4大ドームツアーが行われ、98年4月に猪木引退試合も開催。プロレス参戦した小川直也VS橋本真也との抗争など注目興行は00年初頭まで続いた。

その同時期からわき上がってきたK-1とPRIDEの隆盛で、ドームプロレスはピンチを迎えた。当時について武藤は「三銃士時代はドームと同じ時代を生きてきた。三銃士の成長曲線は、ドームのそれと一致している。オレたちが本流から外れ、ドームが寂しがっているようにも感じる」(09年日刊スポーツのインタビュー)と00年初頭まで続いた第1次ドームプロレスの終結を分析した。年2、3回のドーム大会を続けてきた新日本は集客に苦しみ、サイモン猪木社長(当時)は06年限りの撤退まで示唆する事態となった。

しかし危機こその結束感が当時の新日本にあった。中邑真輔は「新しい時代をつくる。絶対に最後のドームにしない」と全選手の言葉を代弁。社内会議は揺れ動いたが、菅林直樹副社長(現会長)は開催に反対意見があったことを認めた上で「待っているだけでは追い風は吹かない。最後は全員一致でした」と存続を決めた経緯を明かしていた。

一転、開催された07年1月4日のドーム大会は新日本35周年記念興行だった。武藤率いる全日本の全面協力を得て大会名も「レッスルキングダム」へ。06年以降は1月4日の年1回のドーム大会となったものの、年間最大の祭典に据えたことで全体の展開も分かりやすくなった。12年に凱旋(がいせん)帰国したオカダ・カズチカの活躍も重なり、団体の人気が回復を遂げた。16年以降は新日本、海外招請選手のみでマッチメーク。平成最後のドーム大会でIWGP王者となった棚橋弘至は「東京ドーム大会を見れば全部分かる。1年間のゴールであり、スタート」と分かりやすさを強調。新規ファンを増やそうとする姿勢、環境も人気回復のポイントとなった。

令和初となる来年の「1・4」は、翌5日も続くドーム2連戦に決まった。フルサイズでのドーム連戦は初の試み。新日本が平成元年から30年間定期的に続け、死守してきたドーム大会。90~00年代の交流戦、対抗戦を通じた人気とは違い、新日本独自の世界観で演出する第2次ドームプロレスに変貌を遂げた。

ドームプロレスという「文化」は令和でも新たな進化を遂げていくに違いない。(敬称略)【藤中栄二】(この項おわり)

90年2月、スタン・ハンセン(左)にドロップキックを見舞うビッグ・バン・ベイダー
94年1月、アントニオ猪木(右)にパワーボムを見舞う天龍源一郎
95年10月、高田延彦にドラゴンスクリューを決める武藤敬司
99年10月、橋本真也(手前)を蹴り上げる小川直也
04年5月、アントニオ猪木は得意のパフォーマンスを見せる

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K-1が「紅白超え」テレビ史変えたサップvs曙

03年12月、ボブ・サップにKO負けした曙

<平成とは・バトル編(4)>

2003年(平15)12月31日午後11時。日本のテレビ史に新たな1ページが刻まれた。TBSの「K-1 Dynamite!!」で中継したボブ・サップ-曙の試合が「NHK紅白歌合戦」の視聴率を超えたのだ。頂点は曙がサップにKOされた11時2分。瞬間最高視聴率(ビデオリサーチ調べ)は43%に達し、NHKの35・5%を7・5%も上回った。

わずか4分間とはいえ裏番組が紅白を上回るのは初めて。平均視聴率19・5%も裏番組として史上最高だった。大会を運営したFEGのイベントプロデューサーだった谷川貞治は「絶頂を迎えたテレビ格闘技時代の象徴でした。格闘技というコンテンツは紅白を超えるほど強い。それを日本中にアピールできたことは大きな功績」と回想する。

K-1は93年(平5)に誕生した。フジテレビのスポーツイベントの一環として空手の正道会館の石井和義館長が、空手やキックボクシングなどの立ち技の格闘技世界一を決める大会を代々木第1体育館で開催した。「“賞金10万ドル世界最強決定戦”と銘打ち、まだK-1の文字は小さかった。空手やキックなど頭文字にKのつく格闘技の1番を決めるという意味で、ブームだったF1をまねた」と、マッチメークに携わった谷川は明かす。

決勝まで7試合のうち6試合がKOでの決着だった。ヘビー級のど迫力のパンチとキックに超満員の会場が熱狂した。実力者モーリス・スミスや日本のエース佐竹雅昭が、無名のアーネスト・ホーストやブランコ・シカティックに衝撃的なKO負けを喫したことで、逆にK-1のレベルの高さが際立ち、人気が急上昇した。

時代も味方した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の衰えとともにプロレス人気が下降し、新たな格闘技としてブームを起こしたUWFも90年を最後に分裂していた。そんな時代にK-1が注目を浴びた。昭和の時代に光の当たる舞台がなかった空手家やキックボクサーたちが、続々とK-1のリングを目指した。

極真空手で実績を残したアンディ・フグら世界的な空手家も参戦し、96年にはフジテレビがゴールデンタイムで放送開始。K-1の名前は全国区となって、平均視聴率も20%を超えた。97年12月の「K-1 GP決勝戦」は5万4500人の大観衆が東京ドームを埋めた。そして、02年に参戦した野獣ボブ・サップが国民的な人気者になった。

03年にK-1はTBSの「Dynamite!!」で、単独では初の大みそか興行に乗り出す。目標は打倒紅白。目をつけたのが曙だった。谷川が振り返る。「大みそかはみんなでお茶の間でテレビを見る。そのお茶の間で一番人気があるスポーツ選手はお相撲さん。だから元横綱の曙を口説いた」。サップと曙の対決は、谷川の予想通りお茶の間のテレビを紅白から奪った、

00年以降、フジテレビで「K-1 GP」、TBSで70キロ級の「K-1 MAX」、日本テレビで日本選手中心の「K-1 JAPAN」と3局で大会が放送されるようになった。93年の第1回大会で1人100万円だったファイトマネーは年々急騰し、億単位で稼ぐ選手も現れた。その一方でFEGの経営は次第に悪化。深刻な財政難に陥り、10年の「K-1 GP」が最後になった。

「経済的な破綻は自分たちの責任。いろんな問題があった」と谷川。ただ「経営状態が悪くなくても落ちていったと思う」とも話し、こう続けた「平成はテレビの時代だった。フグやサップが人気が出たのは強いからではなくて、テレビに乗ったから。でもこの10年でメディアを取り巻く状況はガラリと変わった。今は昔のようにテレビで視聴率を取る自信がない」。

現在、谷川は武道を軸に据えた新格闘技「巌流島」のイベントプロデューサーを務めているが、まだ目指す道が見つからないという。「20年前は地上波のゴールデンタイムという分かりやすい目標があった。コンテンツをつくる自信は今もある。でも、目指すメディアが見つからない。令和の時代はそれを見つけた人が勝つんだと思う」。谷川の悩みは、ネットの登場で斜陽となった既存メディアが抱えている悩みでもある。【首藤正徳】(敬称略)

03年12月、曙(左)にパンチを放つボブ・サップ

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井上尚弥 昭和の王者を超え世界的ヒーローの可能性

18年5月、3階級制覇を果たしベルトを掲げる井上尚弥

<平成とは・バトル編(3)>

5月18日(日本時間19日)、英国のグラスゴーでWBA世界バンタム級王者の井上尚弥(26=大橋)が、IBF同級王者エマヌエル・ロドリゲス(プエルトリコ)との統一戦に臨む。4人の現役世界王者らが参戦するバンタム級最強を決めるトーナメントの準決勝。無敗の王者対決は今、世界の注目を浴びている。

所属ジム会長で元WBC、WBA世界ミニマム級王者の大橋秀行(54)は「新しい時代にふさわしい試合になる。今は国内だけで防衛戦を重ねていく時代ではない。だから世界に出て勝負をかけた」と、90年2月に平成初の世界王者になった自身の頃と比較しながら、今回の試合の意義を力説する。

90年代まで世界王者になれば、国民的ヒーローになれた。ファイティング原田、具志堅用高、辰吉丈一郎……街を歩けば人が群がった。「世界王座を奪取した翌日に首相官邸に招待されて、海部俊樹首相にネクタイピンをいただきました」と大橋も現役時代を振り返る。しかし、近年は街で囲まれる世界王者は少ない。

「自分の頃はJリーグもなかったし、大リーガーもいなかった。プロスポーツの世界王者はボクシングだけ。今はテニスをはじめあらゆる競技のプロ選手が海外で活躍するようになった。その分、国内で興行を続けてきたボクシングへの注目度が薄れた。自分も責任を感じていた」。日本プロボクシング協会の会長も務めた大橋は自戒も込めて分析する。平成に入ってスポーツ界は海外への門戸が大きく開かれた。イチローや松井秀喜、錦織圭や大坂なおみの活躍で、選手に世界的な評価が求められる時代になった。

現在、日本の男子の世界王者は7人。昨年は一時11人もいた。13年に日本ボクシングコミッション(JBC)がWBAとWBCに加えて、IBFとWBOの王座も承認し、ベルトも倍増した。元WBC世界スーパーライト級王者の浜田剛史(58)は「昔は世界王者が最終目標だった。今は王者になってから何を残すかが問われる時代になった」と話す。

一方で日本選手の技術レベルは飛躍的に伸びた。08年に日本プロボクシング協会がU-15(15歳以下)全国大会をスタート。小中学生から全国規模で活躍できる場ができた。井上尚弥、拓真兄弟、田中恒成らの現役世界王者はこの大会の優勝者。「技術は始めた年齢に比例する。世界のリングでボディーで倒されていた日本選手が、今はボディーで倒すようになった。技術は世界でもずぬけている」と、同大会を協会会長として主導した大橋は言う。11年7月にはWBC世界スーパーバンタム級王者の西岡利晃(帝拳)が、日本人で初めて米国の本場ラスベガスで防衛に成功するなど、世界でも日本選手の評価は高まっている。

井上はプロわずか16戦で世界3階級制覇を達成。卓越したボクシングセンスと強打は、海外でも注目され、日本人ボクサーで初めて米ボクシング誌「リングマガジン」の表紙にもなった。あの昭和の王者を超える、世界的なヒーローになる可能性を秘めている。「日本から世界へ。そのレールを井上が敷く」と大橋は力を込める。

世界ヘビー級王者マイク・タイソンの東京ドーム防衛戦(90年)という「ビッグバン」で始まった平成がまもなく終わる。昭和の時代に26人だった世界王者は、平成の約30年間をへて91人まで増えた。今や日本は世界屈指のボクシング大国に躍進した。

令和の時代の幕開けを前に、大橋がこんな予言をした。

「平成はタイソンで盛り上がり、あのミドル級で村田諒太が世界王者になった。そして井上が世界で勝負をかける。日本ボクシング界は大きく変わった。あとはヘビー級。令和の時代に日本人の世界ヘビー級王者が誕生するかもしれない。そうしたら再びビッグバンが起きる」。【首藤正徳】(敬称略)

90年2月、WBC世界ストロー級王座に就いた大橋秀行

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異質な飯田覚士 TV企画、部活の延長から世界王者

平成のボクシング界について語る飯田覚士さん

<平成とは・バトル編(2)>

平成が幕を開けて間もなく、日本ボクシング界に異質なボクサーが現れた。後にWBA世界スーパーフライ級王者になる飯田覚士である。90年(平2)、日本テレビのバラエティー番組「天才たけしの元気が出るテレビ!!」の“ボクシング予備校”という企画に、プロテストを目指す練習生の1人に選ばれた。

当時、飯田は岐阜経済大3年。「ボクシング部でしたが、ツアーコンダクターになりたかったので、プロになるつもりはなかった。練習に物足りなさを感じていたのと、テレビに出れば思い出になると思って応募した」。どこにでもいる普通の大学生で、ボクサーらしからぬ甘いマスクにきゃしゃな体形。そのギャップがボクシングと無縁の若い女性のハートに響いた。

日曜の夜に放送される平均視聴率15%の人気番組で、定期的に成長ぶりが紹介されると、飯田の人気は沸騰した。90年9月の大阪城公園での公開スパーリングには1万人を超えるファンが殺到した。テレビ局の意向に応じて番組内で「チャンピオンになる」と公言していたため「引くに引けなくなった」と飯田。翌91年3月にプロデビュー。翌年の全日本新人王決勝戦には8000人の大観衆が詰めかけた。

昭和の時代、ボクシングには怖い、痛い、危ないというイメージが根強くあった。その象徴が昭和40年代に大ヒットした漫画「あしたのジョー」。貧しい不良少年が拳ひとつでのし上がっていくストーリーで、実際に漫画を地でいくボクサーも多かった。飯田はそんな近寄りがたかったボクシングを、部活の延長のような身近な存在に変えた。飯田自身「パンチパーマなどのいかつい格好で相手を威嚇するのは嫌だった」という。

この頃から飽食の時代に敬遠されつつあったボクシングジムに「僕も挑戦してみよう」と若者が足を向け始めた。飯田が全日本新人王になった翌年度には、100人台だった新人王のエントリーが265人と急増。マイク・タイソンの2度(88、90年)の東京ドーム防衛戦など複合的な要素も重なり、89年に1200人だったプロボクサーは年々増加し、06年には3200人にまで膨れあがった。

もうひとつの要因が89年から現在まで続く「少年マガジン」(講談社)の人気漫画「はじめの一歩」(森川ジョージ著)。いじめられっ子の主人公がボクサーに救われ、自らボクサーとして成長していくストーリーが、平成の若者に圧倒的な支持を受けた。元WBA、IBF世界ライトフライ級王者の田口良一をはじめ、この漫画に刺激を受けてボクシングに興味を持った世界王者も多い。

彼らは根性論が主流だったジムの練習にも新風を吹き込んだ。「根性で勝つんじゃないと自分に言い聞かせてサプリメントをとったり、インナーマッスルや動体視力も鍛えた」と飯田は回想する。元WBC、WBA世界ミニマム級王者で大橋ボクシングジム会長の大橋秀行は「今は昭和の時代と練習方法も食事も180度違う。八重樫東(世界3階級制覇王者)は科学的な筋トレを取り入れて、脂を抜いた食事を心がけている」と明かす。

飯田は世界挑戦2度失敗後の97年12月、ヨックタイ・シスオー(タイ)を判定で下してついに世界王座を奪取。2度の防衛にも成功した。普通の大学生が世界王者にたどりついて気付いたことがある。「根性論が嫌いで、科学的なトレーニングを存分にやった。でも結局、ボクシングは最後はど突き合いなんです。流血しようが構わず打ち合う。行き着いた先は、ストイックで己の身を削らないと勝てない過酷なスポーツでした」。時代は移ってもボクシングの本質、世界の頂点への厳しい道のりに変わりはない。【首藤正徳】

(敬称略)

97年12月、ヨックタイ・シスオーにパンチを放つ飯田(左)

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タイソン東京Dの衝撃 日本ボクシングのビッグバン

90年2月、WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチの10回、マイク・タイソン(右)はジェームス・ダグラスの強烈パンチでダウンを喫しKO負けする

<平成とは・バトル編(1)>

日本ボクシング界は7人の世界王者を抱えて、令和時代の幕開けを迎える。現役世界王者不在で始まった平成元年から30年。日本は世界屈指のボクシング大国に躍進した。「平成とは」バトル編のスタートはボクシングで3回連載する。第1回は元統一世界ヘビー級王者マイク・タイソン(米国)の東京ドーム防衛戦から平成の時代を検証する。

  ◇   ◇   ◇  

昭和から平成に変わるころ、日本ボクシング界は冬の時代だった。88年(昭63)、89年(平元)の年間最優秀選手は該当者なし。89年は1年を通して現役世界王者がいなかった。日本のジム所属選手の世界挑戦は、88年1月から実に21連続失敗。世界戦のテレビ中継も夜から休日の昼間の時間帯へと移行しつつあった。

そんな時代に世界ヘビー級王者マイク・タイソン(米国)は、日本にやってきた。88年3月21日、東京ドームでトニー・タッブス(米国)との防衛戦が実現した。興行した後楽園スタヂアム(現東京ドーム)の当時の興行企画部長で、日本ボクシングコミッション理事長の秋山弘志(81)は「最高10万円のチケットが2、3日で完売した。衝撃的だった」と回想する。会場は5万1000人の大観衆で埋め尽くされた。試合はタイソンの2回KO勝ち。総売上15億円は1日の興行として今も最高という。

デビューからKOの山を築き、無敗のまま3団体の世界王座を統一したタイソンは、あのムハマド・アリと並び歴代最強と評されていた。1試合の報酬が10億円を超える世界で最も稼ぐスポーツ選手で、試合はカジノでも収益が見込めるラスベガスなど米国内の一部に限られていた。タッブス戦は初めて米国以外で開催された防衛戦だった。

「完成した東京ドームを世界に広めるため、こけら落とし興行として企画したのでそれなりの資金は用意した」と秋山は振り返る。それでも交渉は難航した。暗礁に乗り上げかけた時、業界に人脈を持つ帝拳ジムの本田明彦会長がプロモーターに名乗り出た。「失敗したら私は辞職する覚悟だったが、交渉を本ちゃん(本田)に任せたら、とんとん拍子にうまくいった」。

90年2月11日、再び東京ドームでタイソンの防衛戦を実現させた。しかし、最高15万円に設定したチケットは伸び悩んだ。勝って当たり前の試合に、財布のひもが固くなった。ところが、この試合でボクシング史に刻まれる「世紀の大番狂わせ」が起きる。挑戦者ジェームス・ダグラス(米国)に、タイソンが10回KOで初めて負けたのだ。

中継した日本テレビで解説をした元WBC世界スーパーライト級王者の浜田剛史(58)は「タイソンは練習でダウンするなど調子が悪かった。アナウンサーの“時代が変わった”という言葉を覚えている。その試合を日本から発信したことは大きいと思った」と今も鮮明に記憶している。試合は米国をはじめ世界50カ国以上に放送されていた。

国内の視聴率は昼間の試合にもかかわらず38・9%(ビデオリサーチ調べ)。KO負けの瞬間は51・9%を記録。その衝撃が冬の業界に“ビッグバン”を起こした。国内の試合にも観客が押し寄せ、ジムの練習生が急増。91年のプロテスト受検者が88年の1・5倍に増えた。「タイソンはボクシングファンも、そうじゃない人も引きつけた」と浜田は言う。タイソン敗戦の4日前にWBC世界ミニマム級王座を奪取して、平成初の世界王者になった大橋秀行(54)は「タイソン戦の前後、普通の10回戦の興行でも後楽園ホールが超満員になった。ブームが来たと思った」と証言する。

一方で日本の国際的な評価も高まった。「世界の日本を見る目が変わった。試合の解説で米国に行くと対応も全然違った」(浜田)。海外との太いパイプができたことで日本選手の世界戦の興行数も急増。87年には年間5試合まで落ち込んでいたが、辰吉丈一郎が「浪花のタイソン」の異名で一気にスターに駆け上がるなど、92年には19試合に増えて世界王者も5人になった。94年12月の辰吉-薬師寺戦の視聴率は39・4%。タイソンの数字も超えた。

タイソンが東京で王座を失った半年後、日本初の民間衛星テレビ(WOWOW)の放送衛星が打ち上げられた。91年4月に本放送を開始する同局が、開局PRの目玉に選んだのがタイソンだった。復帰第2戦から独占契約で生中継した。チーフプロデューサーの大村和幸(59)は「ビジョンは世界最高峰を伝える。そこでタイソンに目をつけた。負けたとはいえ、知名度と実力は圧倒的だった」と振り返る。

番組名は「エキサイトマッチ」。タイソン戦のほか、毎週2時間枠で、世界で年間約120試合開催されていた世界戦のうち100試合以上を放送した。「当時、ドン・キングら米国3大プロモーターは、それぞれテレビ局が分かれていた。本田会長に交渉をお願いしたらその壁を超えて放送権を獲得できた。これは世界初の画期的なこと。タイソンをプロモートした信頼と人脈のおかげです」と大村は話す。

現在も続くこの同局最長寿番組は、日本人ボクサーのレベル向上に大きく貢献した。「あの番組で日本選手のレベルが飛躍的に上がった。毎週、世界一流の技術を映像で見て、選手がまねするようになった。日本のボクシングを強くした一番の要因」と大橋は分析する。「学生時代から番組を見ていた村田諒太が、俺のトレーナーはエキサイトマッチでしたと言ってくれた」と大村も明かす。

現在、日本の男子の現役世界王者は7人。王座が2団体から4団体に増えたとはいえ、世界王者の数で世界のトップ3に入るボクシング大国へと躍進を遂げた。選手のレベルも向上したが、浜田は「力があるときにチャンスがなければ王者になれない。世界戦という舞台を数多くつくれるようになったプロモートの力も大きい」と話す。

昨秋、元世界ヘビー級王者が東京ドームを訪れた。彼の名はジェームス・ダグラス。あの「世紀の大番狂わせ」を振り返る、米国のテレビ番組の収録だった。インタビュー出演した秋山がしみじみと言った。「いまだに世界で語り継がれている。タイソンの試合を日本で興行した効果は計り知れない」。あのビッグバンの衝撃波は今、令和の時代に達しようとしている。【首藤正徳】(敬称略)

平成のボクシング界について語る元WBC世界スーパーライト級王者の浜田剛史さん
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