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ノア新人矢野安崇、勝って両親に勇姿を/プロに聞く

コーナーポストから大原はじめ(手前)にフライングボディアタックを決める矢野安崇(撮影・丹羽敏通)

各界のプロフェッショナルの子ども時代や競技との出会いなどに迫る「プロに聞く」。今回はプロレスリング・ノアの矢野安崇(20)。昨年10月に同団体では18年の岡田欣也(28)以来、2年ぶりの新人としてプロデビューした。小学生からの夢だったプロレスラーを初志貫徹で実現した。家族からの理解やデビューまでの道のり、初勝利への意気込みを聞いた。

   ◇   ◇   ◇

昨年10月、楽しみにしていたプロデビュー戦は、わずか5分で岡田に完敗した。矢野は観客の大きな拍手を受けて入場。166センチ、74キロの小柄な体でフライングボディアタックこそ決めたが、岡田の容赦ないエルボードロップやミドルキックを浴び、リングに沈んだ。「全然まだまだ。コーナーやロープに振ったりとリングをうまく使えていない」と力の差を痛感させられた。ただ、両親からは「本当になると思っていなかった。おめでとう」と喜ばれ、兄は観戦に来てくれた。

プロレスラーになりたいという夢を持ったのは小学生の頃。ゲームや映像を見て興味を抱いた。友だちに動画を見せて技をかけた。小柄ながら体は丈夫で「腕相撲は強い方だった」と振り返る。小6時に両親に打ち明けたが、なかなか理解されなかった。

母からは「すぐに(夢は)変わるだろう」と言われた。夢をかなえるため、兄のダンベルを借りてひそかに特訓を重ねた。中学時代は陸上部に入った。近隣の高校のレスリング部へ参加も並行して考えたが、半信半疑ながら応援してくれた父からは「基礎体力をつけてから」と促され、体作りに集中した。

高校では夢への第1歩としてレスリング部に入部。全国総体出場の実績も残した。大学進学や企業就職の道もあったが、回り道になると判断してやめた。プロテストは卒業前の19年3月。落ちると後がない中、見事一発合格。それでも、家族からは「まだデビューしたわけじゃない」と心からの祝福は得られなかった。

合格後は入門に備え、たくさん食べて練習も積んだ。自信もあった。しかし、入門後は1日2時間の基礎練習にさえ、苦しんだ。「これだけやってもダメなのか」。腹筋、ブリッジ、スクワット…。プロテスト時の倍以上の量に自信は打ち砕かれた。「本当に続くのかな」。新人扱いはされず、味わったことのない筋肉痛でフラフラになりながら道場へ通う毎日。上京して電車の乗り方も分からず、生活習慣の違いにも悩まされた。食事も喉を通らず、80キロだった体重は数カ月で68キロに。ホームシックにもなった。それでも逃げなかった。幼少時からずっと追い求めてきた夢。道場では筋トレ、リングでは先輩との練習で技を盗み、持ち帰って研究した。

入門から1年7カ月後、ようやくプロとしてリングに立った。1年以内でデビューする選手もいるが、ノアの関係者によると「入門後プロデビューできるのは1割未満」という狭き門。矢野は「聞いたときは泣きそうなくらいうれしかった」。家族に夢を打ち明けてから約8年。ようやく理解された瞬間だった。ただ、これまで20試合以上に出場し、シングルは(14日現在)12試合戦って未勝利。さらにコロナ禍もあり、愛媛の両親には勇姿を見せられていない。

矢野 勝利した姿を見せて、中途半端じゃなかったことを伝えたい。自分の人生なので後悔しないように今でも生きている。地元凱旋(がいせん)も楽しみ。

レスラーを目指す子どもたちには「避けたりせず、技を食らっても、最後に勝つのが醍醐味(だいごみ)。自分の体をコントロールすることが大事。くじけることもあると思うけど、最後に笑えたらいい」。プロレスにも、自分の人生にも真っすぐ向き合ってきた20歳のルーキーは「ジュニアの顔になりたい」という次なる夢に向かい、リングに立ち続ける。【松熊洋介】

◆矢野安崇(やの・やすたか) 2000年(平12)8月10日、愛媛県生まれ。中学時代は陸上部、今治工時代はレスリング部に所属し80キロ級で総体出場。19年3月にノアに入門。20年10月28日、岡田戦でプロデビュー。目標とする選手は鈴木鼓太郎。家族は両親と兄2人、姉2人、弟1人。

ドロップキックを浴びせる矢野安崇(撮影・丹羽敏通)

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「感謝」忘れない北勝富士の相撲道/プロに聞く

2020年11月 11月場所で土俵入りする北勝富士

各界のプロフェッショナルの子ども時代や競技との出会いなどに迫る「プロに聞く」。今回は、大相撲の幕内で活躍する北勝富士(28=八角)です。角界入りして6年。最高位は小結で金星を7個獲得。現在は新大関昇進を目指して奮闘している。埼玉栄高、日体大出身とアマチュア相撲のエリート街道を歩んできた北勝富士は、周囲への感謝の思いを胸に土俵に上がっている。

     ◇    ◇    ◇

相撲との出会いは小学2年生の時だった。地元の埼玉・所沢市で開催されたわんぱく相撲に、何げなく出場。おむつをつけている時からやっていたスキーの腕前は、3歳の頃から上級者コースで滑るほどだったが、相撲は初心者。それでも2位に輝き、3年時も2位だった。「2年連続で同じ相手に負けた。それが悔しくて。それに、優勝した子がもらった大きなトロフィーを自分も欲しいなって」。優勝トロフィー欲しさに、小学4年から地元の相撲クラブに通い始めたのが、相撲道への入り口だった。

めきめきと成長を遂げ、小学6年生の時には「県内で敵なしでした」と胸を張る。中学3年時には、全国都道府県相撲選手権大会の個人戦で優勝。埼玉栄高では3年時に団体戦で優勝し、個人戦は高校横綱に輝いた。それでも「おごることはなかったです」と話す理由には、結果を出すたびに、ある思いが湧き上がってきたからだった。

北勝富士 高校で初めて実家を離れて寮生活をして、今まで当たり前だったことが当たり前ではないと知った。周囲からの支えがなければ何もできないし、相撲ができているのも周囲の支えがあってからこそだと感じた。感謝の気持ちと相手を思いやる気持ちを学びました。この気持ちがあったからこそ、今もプロでここまでやれているんだと思います。

実家にいれば当たり前のように用意された食事や、両親による掃除や洗濯などの家事全般。全国各地で開催される大会に、必ず足を運んでくれた両親。高校で寮生活をして初めて、これまで当たり前だった日常や両親に対しての感謝が芽生えた。

その気持ちは日体大進学後も変わらず。3年時に国体の個人戦で優勝し、1年間しか行使できない幕下15枚目格付け出し資格を取得した。しかし、「せっかく大学に入れてくれた両親に申し訳ない。ちゃんと4年間通って卒業したい」と中退しての角界入りは見送った。4年時はタイトルに恵まれず、幕下格付け出しの資格を得られずに前相撲からの出発となった。それでも「後悔はない。4年間大学に通わせてくれた両親に感謝です」と話す。その、周囲への感謝の気持ちを、子どもの時から持てれば、競技にもプラスになると考えている。

北勝富士 感謝の気持ちが出始めてから、より一層、競技に打ち込むことができました。支えてくれた周囲の人へ恩返しをしたいと思うようになりましたし、そういった思いが人間性にもつながったと思います。競技がうまくなることに越したことはありません。ただ、競技はもちろん、人として成長できるかも重要ではないでしょうか。競技を引退しても、人生は続くのですから。

角界入りした現在も、感謝の思いを持ち続ける。稽古で指導してくれる師匠の八角親方(元横綱北勝海)や、本場所中は毎日連絡をくれる両親。身の回りの世話をしてくれる付け人や後援会関係者など、多くの人に支えられながら土俵に上がっている。「結果を出せば出すほど、支えてくれた人のことが頭に浮かびます。これからも自分だけではなく、みんなのために土俵に上がり続けたい」と口にする。

周囲への恩返しの1つ目は、大関に昇進することだ。「やっぱり力士は番付を上げてなんぼ。コロナの影響で会えない人もたくさんいる。吉報を届けたい」と話す。今日も周囲のことを思い、土俵に上がる。【佐々木隆史】

◆北勝富士大輝(ほくとふじ・だいき)1992年(平4)7月15日生まれ、埼玉・所沢市出身。本名は中村大輝。小4から相撲を始め埼玉栄高3年で高校横綱、日体大2年で学生横綱。八角部屋から15年春場所で初土俵。16年九州場所の新入幕を機にしこ名を大輝から改名。師匠の八角親方が現役だった当時の師匠、北の富士勝昭氏(元横綱)にちなむ。19年春場所で新小結に昇進。家族は真美夫人。185センチ、162キロ。

2015年12月、大輝として八角部屋に入門
2016年5月、新十両昇進が決まり師匠の八角理事長と握手を交わす大輝
2017年7月、北勝富士(左)は名古屋場所3日目に横綱鶴竜を押し出して初金星
2019年9月、秋場所初日に横綱白鵬(右)を寄り切りで破る
2020年1月、初場所3日目、横綱鶴竜(左)を破る
2020年1月、技能賞を受賞した北勝富士(前列左から2人目)

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井上拓真、兄尚弥の凄さ認め消えた悩み/プロに聞く

来年1月14日、再起戦に臨む井上拓真

各界のプロフェッショナルの子ども時代や競技との出会いなどに迫る「プロに聞く」。ボクシングの元WBC世界バンタム級暫定王者井上拓真(24=大橋)は、3階級王者の兄尚弥(27)とともに、幼少期から父真吾トレーナーの教えを受け、競技を続けてきた。世界王座返り咲きを誓う24歳が、偉大な兄と比較されてきた日々、その立場を受け入れた先の境地を語った。【取材・構成=奥山将志】

19年11月7日。尚弥が世界5階級王者ノニト・ドネアとの死闘を制し、スポットライトを浴びる横で、拓真は悔しさと向き合っていた。2万人が詰めかけた、さいたまスーパーアリーナ。兄との「ダブル世界戦」として行われたWBCバンタム級王者ウバーリとの王座統一戦に判定負けし、プロ初黒星を喫した。自身の試合を終え、勝利のタスキをつなぐはずの控室に戻った拓真は、「わるい」と声を絞り出し、戦いに向かう兄と拳を合わせた。感情を整理する間もなくジャージーに着替えると、急いで会場に戻り、リング下で兄に声援を送り続けた。

ボクシングを始めたのは4歳の時だった。物心つくと、目の前にはサンドバッグがあり、父から指導を受ける兄がいた。「ロープにぶらさがって遊んでいた」拓真も、小学生になると、その輪に加わり、井上家3人の長い戦いが始まった。

職人肌の真吾さんのモットーは「やるなら本気でやる」。自宅の鏡の前で、泣きながら1時間、シャドーを続けたこともあった。父は厳しかった。つらくて泣けば、また怒られた。それでも、根底にある愛情、情熱は幼心に響いていた。

拓真 ここまでやらないといけないのかと思ったこともありましたが、家族にとって、ボクシングは生活の一部のようなものでした。お父さんも、理不尽なこととかはまったくなくて、強くなるためにどうするのかって。ナオ(尚弥)と自分に本気で向き合ってくれているのは、幼いながらに感じていましたし、必死で食らいつく感じでした。

ボクシングの楽しさを知ったのは小4の時だった。横浜市内で行われたキッズのスパーリング大会に兄弟で出場した。実力が分からない同世代の選手と拳を交える、ヒリヒリとした緊張感がたまらなかった。

拓真 知らない選手が計量で集まってきて、この中の誰が自分の相手なんだろうって。すごく新鮮で、ワクワクしたのを覚えています。お父さんがセコンドについたのもこの時が初めてで、ナオも自分も勝って、ボクシングで最初にうれしいって思った瞬間ですね。

2歳上の兄の存在は、ずっと分かりやすい目標だった。だが、高校に進学すると、尚弥の才能は、一気に開花した。史上初のアマ7冠。尚弥が3年の時、拓真も高校に入学。1年時に総体を制す完璧な全国デビューも、それは同時に「井上の弟」としての難しい日々の始まりでもあった。

拓真 高校の最初は「井上に弟がいるらしい」って見られる感じでしたね。高校時代は、ナオのことはすごいとは思っていましたが、どこかで認めたくない部分もあったんです。感情だけのけんかのようなスパーになることもありましたし、100%すごいと思ってしまうと、負けを認めてしまうような気がして、それが嫌だったんです。

高校時代のそんな感情は、卒業後に飛び込んだプロの世界で、少しずつ変化していった。目の前で見ているからこそ分かる尚弥のすごさ。それを認めた時、拓真のボクシングに対する思いは、シンプルになった。

拓真 プロで5戦やった後ぐらいですかね。自分は判定勝ちが続いていましたが、ナオはずっと倒してきていた。当て勘というか、そういう部分ですよね。兄弟で試合をするわけではないですし、ナオの良いところどれだけ盗んで、自分がどこまでいけるかを考えればいいんだって。僕もボクサーとして諦めたくないですし、ナオと比べるとかではなく、自分が上を目指すだけだと自然と考えるように変わりました。

あの敗戦から約1年。再起戦は、来年1月14日、ハードパンチャーで知られる東洋太平洋バンタム級王者栗原慶太(一力)との対戦に決まった。「もう負けたくない」。自分のボクシングを一から見つめ直してきたこの期間、胸にあったのは、幼少期から変わることのない、父の教えだった。

拓真 お父さんが常に言っているのは、メリハリなんです。ジムに入った瞬間からスイッチを入れて、その集中力でやりきること。それは今も大切にしていることですし、これからもずっと意識していきたいと思っています。次の試合を良い形でクリアできるように、さらに集中してやっていきたいと思います。【奥山将志】

◆井上拓真(いのうえ・たくま)1995年(平7)12月26日、神奈川県座間市生まれ。4歳から元アマ選手の父真吾さんにボクシングを教わり、小1から本格的に競技を開始。高校2冠。13年12月にプロデビューし、15年7月に東洋太平洋スーパーフライ級王座を獲得し、2度防衛の後返上。18年12月にWBC世界バンタム級暫定王座を獲得。趣味は爬虫(はちゅう)類飼育。164センチの右ボクサーファイター。血液型A。

18年12月、判定勝ちで暫定王座に就き、兄尚弥(左)、父真吾さん(右)とポーズをとる

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琴奨菊 連日の稽古、自宅の土俵が原点/プロに聞く

16年初場所で日本出身力士として10年ぶりの優勝を決めた琴奨菊

各界のプロフェッショナルの子ども時代や競技との出会いなどに迫る「プロに聞く」。今回は大相撲の幕内力士、琴奨菊(36=佐渡ケ嶽)が力士人生を振り返った。中学から親元を離れて相撲留学。7月場所で幕内通算勝利数も716に伸ばし、歴代単独6位となった関取最年長の大関経験者が、ジュニア世代にメッセージを送った。

  ◇   ◇   ◇  

自宅の庭にある土俵が、琴奨菊の原点だ。小3で相撲を始めると1年後、相撲好きで熱心に応援してくれた祖父一男さんがつくってくれた。天候が良ければ1日2時間、四股やすり足で汗を流した。雨が降ったら土俵にブルーシートを敷いて土のうを置き、近所のグラウンドに移動。5キロ超のタイヤを引いて下半身を鍛えた。

「今と変わらず、相撲は生活の一部。放課後に友達と遊べないことが、ちょっとつらかったけど」。自宅での稽古に休みはなかった。休む場合は父一典さん(65)に「お伺い」を立てる必要があった。「『休ませてください』と言葉にするのも難しくて、ほとんど言ったことはないんですけどね」。角界入り後、当時通っていた小学校の担任教師は「(琴奨菊と同じ相撲大会に参加した)クラスのみんなは『毎日あれだけ稽古をやっている菊次君には勝てない』と言っていたぞ」と教えてくれた。それが印象に残っているという。

週に3回は、福岡・柳川市の自宅から車で1時間以上かかる久留米市の井上道場に通った。当時勝てなかった「県で一番強い宮崎君」がその道場にいたためだ。送り迎えは祖父がしてくれた。08年に76歳で亡くなったが「おじいちゃんが帰りにステーキをごちそうしてくれた。それがうれしかった」。支えてくれる家族を思うと「自分がここで逃げ出したらだめ」という気持ちが自然と湧いてきたという。

知人の勧めで中学校から高知の明徳義塾中に相撲留学した。全寮制で起床時間は6時ごろ。朝昼晩の先輩への給仕はもちろん、洗濯などの身支度は初めての経験だった。「生きる知恵は明徳の6年間で学んだ」。高知の山奥で遊ぶ場所はない。息抜きといえば、仲の良かった他の部活の同級生と、卓球で真剣勝負をすることだった。

アマチュアでは中学横綱、高校でも7タイトルを獲得した。相撲漬けの毎日だったが「苦しいとかつらいとか、あまり感じたことはなかった。『もっと強くなれるんじゃないか』というマインドの方が強かった」。在学中、福岡の両親に自ら連絡することはほとんどなかったという。「今思うとかなり気を使っていた。家族に心配をかけたくなくて」。36歳となった今でも、勝ち越した際や場所を終えた報告など、相撲に関する連絡が家族に対してはついつい遅れてしまう。「(連絡をするのは)身内が最後だと思っている。力士が終わったら、素直になれるのかな」。

高校を卒業して18年が経過した。7月場所前に同学年のライバル、元関脇豊ノ島(現井筒親方)が引退。気付けば関取最年長になった。同部屋では兄弟子の元大関琴光喜を追いかけ、同年代の力士には元横綱稀勢の里(現荒磯親方)や豊ノ島らがいたが、今はいない。「引っ張り上げてくれる人がいなくなって悩む時期もあった。今は自分が変わっていく過程が楽しくて、考えながら相撲の変化を楽しんでいる」。7月場所では、膝を伸ばした状態で手をつく新しい立ち合いで臨み、1年4カ月ぶりの勝ち越しを決めた。試行錯誤は続いている。

ジュニア世代の子に伝えたいことがある。「いつか負けちゃいけない場面が来る。相撲だけじゃなく、勉強や試験でここ一番が来る。今は負け続けてもいいので、そのときに備えてほしい」。16年初場所では、日本出身力士として10年ぶりの優勝を果たした。関取最年長の36歳は、現役へのこだわりを強く持っている。【佐藤礼征】

◆琴奨菊和弘(ことしょうぎく・かずひろ)本名・菊次(きくつぎ)一弘。1984年(昭59)1月30日、福岡県柳川市出身。小3から相撲を始め、高知・明徳義塾中で3年時に中学横綱。同高では国体など7タイトルを獲得した。02年初場所で初土俵を踏み、04年名古屋場所で新十両、05年初場所で新入幕。11年秋場所後に大関昇進。16年初場所で初優勝を果たす。17年春場所で関脇に陥落。三賞は殊勲賞が3回、技能賞が4回。181センチ、178キロ。得意は左四つ、寄り。血液型O。家族は夫人と1男。

明徳義塾高2年の時、全国高校相撲新人戦で日本一になった琴奨菊(左)
7月場所9日目に歴代単独6位の715勝目を挙げた琴奨菊(右)

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京口紘人の転機は辰吉丈一郎の直接指導/プロに聞く

17年7月、デビューからわずか1年3カ月で世界王座を獲得して喜びを爆発させる

各界のプロフェッショナルの子ども時代や競技との出会いなどに迫る「プロに聞く」。ボクシングのWBA世界ライトフライ級王者京口紘人(26=ワタナベ)は、幼少期、自身の小さな体に悩んでいた。転機となったのは、ボクシングとの出会いと、伝説の世界王者辰吉丈一郎の教えだった。日本人最速の、デビューから1年3カ月で世界王者に駆け上がった男が、道を切り開いてきた原動力と、これまでの歩みを語った。【取材・構成=奥山将志】

京口の目の前には、生まれた時から「格闘技」があった。父寛さんが空手の師範。兄、姉の背中を追い、当たり前のように3歳から教えを受け始めた。だが、活躍する兄姉のようにうまくはいかなかった。「背の順」は常に先頭。小柄な体が勝利を遠のかせていた。

「兄や姉は大会で何回も優勝していたのに、自分だけ勝てなかったんです。悔しさもありましたが、子どもながらにプレッシャーがすごかった。父が先生で、兄も姉も結果を出している。『勝って当たり前』という目で見られるのがコンプレックスでしたね」

負ける相手が、自身より20センチ以上も身長の高い相手、体重が倍以上の相手だったこともあった。「フェアじゃない」-。そんな思いは、次第に大きくなっていった。運命を変えたのは、小5の時。友人の家で見た、辰吉丈一郎-薬師寺保栄のボクシングの試合だった。「階級」に分かれ、同条件の2人が激しく殴り合う姿に、胸が躍った。

「小さい頃から『同じ体重だったら負けない』っていう思いがずっとあったんです。あの試合を見た時、自分はこれで生きていくんだって思いましたね」

寛さんは、ボクシングをやりたいと頭を下げる息子の思いを理解し、条件を与えた。「中学校に入るまでに、小さい大会でもいいから優勝しろ」「ボクシングをやるなら、死ぬ気でやれ」-。京口は父の言葉に結果で応え、小6の冬、大阪帝拳ジムの門をたたいた。指導してくれたのは、きっかけをくれた辰吉本人だった。自宅から片道1時間20分の道を、週6回。約1年半続いた直接指導から、ボクサーとして生き抜く「強さ」を学び取った。

「楽しくて仕方なかったですね。教わったのは、考え方や精神的な部分。まず先に、『世界チャンピオンになりたいでは、なれない。なるって言え』って。技術的には、意外かもしれないですが、基本の繰り返しです。『歩けないやつに走れっていっても無理やろ。基本ができていないやつにフックとかアッパーを教えても意味がない』って。ジャブ、ワンツー、ディフェンス。しんどかったですが、毎日が濃厚でしたね」

進学した大商大で、積み重ねた努力が結果として表れた。4年時には主将を務め、14年の国体で優勝。16年4月にワタナベジムからプロデビューを果たすと、驚異的なスピードで階段を駆け上がった。デビューからわずか1年3カ月。8戦目で、憧れ続けてきた「世界王座」をつかみとった。

「小さい頃に『世界チャンピオンになる』って決めたから、どれだけきつくても、やめたいと思ったことは1度もないんです。サンドバッグや階段ダッシュのような、しんどい時こそ『この1日の積み重ねが、1ミリでも夢に近づいている』って自分に言い聞かせるんです。1日で何かが変わるなんてありえない。だから、目の前の結果とか小さな満足感を欲しがっても意味がないんです。頑張る理由は『世界チャンピオンになる』という目的以外にないんですから。だからこそ、世界を取った瞬間は『報われた』という思いがわき上がってきました。あれを超える感情は、この先、もうないんじゃないですかね」

世界王者になり、かつて辰吉に憧れた自身と同じように、子どもたちから憧れられる立場に変わった。26歳。2階級制覇王者として描く未来は「人の人生に影響を与えられる人間になること」。ボクシングを通して、次の世代に伝えたい思いもあるという。

「やりたいと思ったことはとことんやってほしいですね。1つのことをやり続けるのは大切ですが、それはギャンブルでもある。野球をやっていて、サッカーに興味をもったらサッカーをやった方が良いんです。やってみて、違うと思ったら戻ればいい。サッカーをやりたいという思いがある時点で、野球は中途半端なんですから。サッカーで得た感性が、野球に戻った時に生きるかもしれない。子どもの頃はいろんなことを吸収できるし、チャレンジするのが大事だと思うんです。重要なのは、チャレンジと中途半端にやるのは違うと理解すること。挫折や、スランプはチャンスでもあるんです。目の前に道がないから、横を見るじゃないですか。偶然見た道が、目的地につながっているかもしれない。子ども時代は視野を広げて、時間を有意義につかってほしいですね」

◆京口紘人(きょうぐち・ひろと)1993年(平5)11月27日、大阪府和泉市生まれ。3歳から空手を始め、12歳からボクシングへ。中1、2年時には大阪帝拳ジムで辰吉丈一郎から指導を受けた。大商大卒業後の16年4月にワタナベジムからプロデビュー。17年7月に、日本最速デビュー1年3カ月でIBF世界ミニマム級王座を獲得。2度防衛後に王座を返上。18年12月にWBAスーパー世界ライトフライ級王座を獲得し、2階級制覇を達成。161センチの右ボクサーファイター。

17年7月、IBF世界ミニマム級新王者となり、父寛さん、母かおりさんと笑顔で記念撮影
18年12月、辰吉丈一郎直伝の左ボディーを集めて王者を弱らせ、WBAスーパー世界ライトフライ級王座を獲得
19年10月、WBAスーパー世界ライトフライ級王座2度目の防衛を果たした

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隆の勝 10年で開花、中卒たたき上げ/プロに聞く

地元の千葉・柏での巡業で犬と記念写真に納まる

大相撲で勢いに乗る幕内力士の1人、隆の勝(25=千賀ノ浦)に話を聞いた。今年で入門10年。史上初の無観客開催となった春場所では12勝3敗の好成績で優勝次点、初の敢闘賞も獲得した。近年は高校、大学を経由して角界入りする力士が多くなる中、貴重な中卒たたき上げ。大家族で育った幼少時代の経験などを明かした。

丸顔に癒やし系の笑顔で“おにぎり君”の愛称で親しまれる隆の勝にとって、相撲との出会いは必然だった。父俊哉さんは大相撲観戦が好きで、地元の千葉・柏市は相撲が盛ん。幼稚園や小学校に相撲大会出場を勧誘するチラシが多数張られており、相撲クラブに所属していない少年も積極的に参加していたという。隆の勝は小1のときに初めて地元の相撲大会に参加。小3から柏市スポーツ少年団で本格的に相撲を始めた。同学年には大翔鵬(現十両)、後輩には元横綱琴桜を祖父に持つ琴ノ若(現前頭)や琴勝峰(現十両)が在籍。強豪のクラブチームだった。

「中卒で大相撲に入るまでずっと通っていました。稽古は厳しかったけど、小さい頃はとにかく相撲が楽しかった記憶があります。クラブには全国で2位、3位になるような強い子もいて、僕も小4から小6までわんぱく相撲の全国大会に出場していましたが、飛び抜けて強いわけではありませんでした」

クラブの練習は1日4時間で、土日の週2回。他のスポーツは習っていないため、平日の放課後は友達と遊ぶ時間が多かったが、学年が上がるにつれて、クラブ以外での稽古時間が増えたという。

「家では週に2、3回はみっちり四股を踏んでいました。回数はあまり覚えていないけど、30分くらいだったかな。めちゃくちゃ厳しく指導されたわけじゃありませんが、父親の監視の下で踏んでいたことを覚えています」

6人きょうだいの4番目として生まれた。母雅代さんは整体師。相撲を始めた頃から、痛いところがあればすぐに治療をしてくれた。今でも実家に戻ると体を診てくれるという。両親は子どもたちを特別厳しく育てたわけではないが、隆の勝にとって印象深い「ルール」がある。

「テレビゲームはいいけど、携帯ゲームは禁止されていましたね。他の家だと『目が悪くなるから』『勉強をしなくなるから』って理由が多いと思うんですけど、うちの場合は『姿勢が悪くなるから』とよく言われました。ゲームに限らず姿勢のことはよく注意されていましたね。いま思うと、整体師らしい視線だなと思います。ちなみに、今も携帯ゲームはやっていませんよ(笑い)」

大家族の存在は今でも力になっている。場所中は家族のライングループに母親が自身の取組動画を投稿。負けが込むと、姉からは「顔が死んでいるよ」と一喝される。

「昔から家族はみんな応援してくれた。今もだけど、家族の存在はずっと力になっています」

春場所では初めての敢闘賞を受賞するなどブレークした。力のある突き押し、右を差して素早く寄る相撲も目立ったが、現在の形が確立され始めたのは最近のこと。

「自分の相撲をつかみ始めたのは出稽古を積極的にするようになった3、4年前くらいからです。自分の型というのは、本来なら早めに決めた方がいいのかもしれないけど、今となっては焦らずに決めなくて良かったのかもしれない。だからこそ、若いときから四股やすり足の基礎(運動)で体をつくることが重要だと思う」

師匠の千賀ノ浦親方(元小結隆三杉)や同部屋の力士が口をそろえて「稽古熱心」と評価する真面目な性格。地道な鍛錬で自身と向き合い続け、その才能を開花させた。【佐藤礼征】

◆隆の勝伸明(たかのしょう・のぶあき)本名・石井伸明。1994年(平6)11月14日、千葉県柏市生まれ。小3から柏市スポーツ少年団で相撲を始め、小4から小6までわんぱく相撲全国大会出場。先代千賀ノ浦親方(元関脇舛田山)からの誘いを受け、千葉・西原中を卒業後、千賀ノ浦部屋に入門。10年春場所で初土俵。17年九州場所で新十両、18年秋場所で新入幕。20年春場所では12勝3敗の好成績で初の敢闘賞を受賞。家族は両親、兄、姉2人、妹、弟の8人家族。183センチ、163キロ。血液型O。得意は押し。

幕内土俵入りする隆の勝
春場所で敢闘賞を受賞した隆の勝(右)
大相撲春場所 9日目 玉鷲(右)との立ち合いで顔をうち出血するも押し出しで破る隆の勝

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