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千代の富士5発で沈めた小錦/記者振り返るあの瞬間

84年9月、秋場所14日目、千代の富士(右)に押し出しで勝った小錦

<スポーツ担当記者 マイメモリーズ(50)>

真っ暗な会場に蛍の光が流れ、観客もペンライトを振りながら歌う。ドームのお別れコンサートではない。中心には羽織はかまや締め込み姿の大男がいた。蔵前国技館最後の場所となった84年秋場所千秋楽。しんみりとしたフィナーレも、初日前から何かざわつき、列島を騒がせた場所だった。

場所前に立ち合い研修会があり、必ず両手をつく正常化が打ち出された。マラソンのスタートのような立ち腰、自分勝手な立ちしぶりなどが目立っていた。春日野理事長と二子山理事長代行という栃若の厳命に、力士は神妙ながら戸惑った。実際に場所ではチョン立ちで不成立とされ、5度仕切り直した一番もあった。

夏場所全勝優勝で復活した北の湖が、首を痛めて3日目から休場した。千代の富士、隆の里の両横綱に、2度目の横綱挑戦の若嶋津も早々に土がついた。全勝ターンは平幕多賀竜だけ。土俵は腰が据わらず、落ち着きがなかった。

混沌(こんとん)とする中、終盤戦に大旋風が起きた。入幕2場所目の小錦が10日目に勝ち越し、優勝戦線に生き残っていた。11日目には隆の里を押し出し、横綱初挑戦で初金星を挙げる。入門してまだ2年2カ月も破壊力抜群だった。

さらに若嶋津の綱とりを阻み、次期大関候補大乃国も撃破する。14日目には千代の富士をもろ手突き5発で吹っ飛ばした。多賀竜に1差で、千秋楽に大逆転Vがかかった。黒船襲来。300年の国技を揺るがすと言われた激震となった。

当時の記者クラブは別棟2階にあった。片隅に昼寝できる畳敷きスペース、雀卓も置かれていた。支度部屋ではたばこが吸え、力士は素足で床に踏みつけて消していた。おおらかだが、閉鎖的でもあった。

当時の外国人力士は9人で、多くの親方衆は否定的だった。ハワイ生まれの若造に次々と看板力士が倒されて「日本人の恥」とまで言った親方もいた。小錦も「協会はこれね」と頭の両脇に指を立ててみせた。「怒ってるでしょ。外国人がダメなら入れなければいい。力士になったボクは勝つだけ」と言ったものだ。

72年名古屋場所で外国人初優勝の高見山は夏場所で引退していた。バトンを受けた後輩の快進撃。大関、横綱も現実味を帯びたが、結果的に琴風に敗れて優勝はならず。翌九州場所はケガで途中休場。協会幹部は胸をなで下ろし「相撲は甘くない」と言い放った。

その後は大けがもあり、大関になったのは3年後の87年夏場所後だった。89年九州場所で初の賜杯も手にしたが、横綱の座は遠かった。ハワイの後輩の曙にも追い抜かれた。大関陥落決定の黒星は、横綱曙に喫したもの。陥落後はしのびない土俵もあった。

それでも200キロを超す巨体から爆発させた、驚異のパワーは衝撃の記憶だ。今も世界中で人種差別が問題となっている。角界でその壁を乗り越え、外国人初の大関となった。あの蔵前の悔しさが始まりで、両国国技館でのモンゴル全盛への道筋も作ったと言えるだろう。【河合香】

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内藤大助の大番狂わせの裏/記者が振り返るあの瞬間

07年7月18日 WBC世界フライ級選手権 ポンサクレック・ウォンジョンカム対内藤大助 新王者に輝き男泣きする内藤

<スポーツ担当記者 マイメモリーズ(48)>

日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

   ◇   ◇   ◇

中学生の時、胃カメラを3回ものんだという。母子家庭で裕福ではなかった。同級生から「ボンビー(貧乏)」とからかわれ、服を脱がされ、殴られる。給食のおかずは取られ、貴重品は盗まれた。「おなかが痛くて病院に行ったら胃潰瘍。中学生でね。3回も」。2007年6月。3度目の世界挑戦を控えた内藤大助は都内のジムで、壮絶ないじめを振り返った。まだ世間的にはほぼ無名。はき古したジーンズが印象的だった。

いじめ克服でボクシングを始めた。独特の変則スタイルで世界挑戦のチャンスをつかんだが、世界の壁は厚い。当時のWBC世界フライ級王者は無敵といわれたタイのポンサクレック。02年4月、最初の挑戦は開始直後、わずか34秒で倒された。05年10月の2度目の挑戦は偶然のバッティングで右目上をカットし、7回負傷判定で敗れた。2度完敗した相手への3度目の挑戦。年齢的には下り坂を迎える32歳に、勝利を予想する声は皆無で、自分も想像すらできなかった。

現に、そのころ、話題を呼んでいた亀田兄弟の所属した協栄ジムは、内藤の負け前提で、亀田とポンサクレックの対戦交渉に入っている。年下の亀田兄弟からは「レベルが低い」「弱い」と見下された。王者ポンサクレック陣営も、対戦前から地元タイでの次なる防衛戦を計画。まるで、いじめられっ子だった中学時代のように、軽んじられ、ないがしろにされた。

そんな内藤の心情を思いやると、切なく、やり切れない思いが募った。だが、本人は「言わせておけばいい」とひるむことなく、一発逆転を信じた。冒頭のいじめの過去を明かした取材で、内藤は最後に「もう失うものはない。捨て身でKOを狙う」と言い切った。王座奪取に半信半疑でいた自分が恥ずかしくなるほどの迫力。「このままでは終わらない」との強い決意が伝わってきた。

当時、内藤は時給900円で週5回、レンタカー店でアルバイトしていた。喫茶店に勤める真弓夫人と合わせた月収は12万円。生活は苦しく、貯金も底をつく。真弓夫人とは「この試合が最後」と約束した。人生を懸けた大一番を前に、女子マラソンの高橋尚子を育てた故小出義雄氏の教え子の野木丈司トレーナーと契約。執念で30歳を超えた肉体を追い込んだ。

07年7月18日、東京・後楽園ホール。「負けたら引退」を覚悟した崖っぷちボクサーは鋭い眼光で入場。対照的に17連続防衛中で、内藤にも連勝中の王者ポンサクレックは笑顔を振りまきリングに上がった。ゴングが鳴る。観客のどよめきと歓声とともに、王者の余裕は消滅する。2回、内藤の右ストレートが顔面に入ると、動揺を隠せない。3回には左まぶたから出血。逆に内藤はスタミナ強化をいかし、激しい出入りで、得意の右強打を何度も顔面にたたき込んだ。判定3-0の完勝で世界王座を奪取した。

痛快な番狂わせの裏には、内藤の不屈の闘志と、王者の慢心があった。判定を聞いた内藤は右のほおをつねりながら「夢じゃないか」と号泣した。その後は5度の防衛に成功。独特のキャラクターと、亀田兄弟との対決も話題を集め、知名度を高めた。拳1つで人生が変わる。ボクシング、そしてスポーツの醍醐味(だいごみ)を味わった一戦だった。【田口潤】

07年7月18日 WBC世界フライ級選手権 ポンサクレック・ウォンジョンカム対内藤大助 9回、ポンサクレック(右)に左ストレートを放つ内藤
07年7月18日 WBC世界フライ級選手権 ポンサクレック・ウォンジョンカム対内藤大助 表彰式で内藤大助は自らのほほにパンチを入れる夢でないことを確認する

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裏も濃密だった辰吉対薬師寺/記者振り返るあの瞬間

94年12月、WBC世界バンタム級統一王座決定戦で激しく打ち合う辰吉丈一郎(左)と薬師寺保栄

<スポーツ担当記者 マイメモリーズ>(45)

日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

   ◇   ◇   ◇

辰吉丈一郎が「勘違い君」と言えば、薬師寺保栄は「思い上がり君」と返した。ボクシングで世紀の一戦と言えば、やっぱりこれ。WBC世界バンタム級王座統一戦で、94年12月4日に名古屋で激突した。対戦前は舌戦が前代未聞の過熱ぶりで、一言で記事になった。

辰吉が前年に暫定で王座を奪回したが、当時の国内ルールでは引退の網膜剥離と判明した。薬師寺が代役で正規王座を奪取して2度防衛。その間に辰吉が海外で復帰すると、WBCから対戦指令が出され、国内復帰も特例で認められた。

因縁に中継テレビ局の違いで、両陣営とも興行権を譲らず。共催案も分裂でついに入札になると、米プロモーターのドン・キング氏も参戦する事態に。薬師寺陣営が342万ドル(約3億4200万円)とヘビー級以外の最高額で落札した。辰吉陣営は237万9999ドル、キング氏は320万1500ドルだった。

薬師寺陣営は赤字削減へ強硬手段に出た。ポスターやプログラムは薬師寺中心で辰吉は片隅。入場券1万1000人のうち辰吉陣営には3000枚だけで、グッズ販売、恒例の太鼓応援も禁止した。薬師寺陣営がファンクラブ結成に約3000人が入会したが、半分は隠れ辰吉ファンの入場券目当てだった。

薬師寺のクリハラ・トレーナーが「欠点が6つある」に、辰吉は「486個」と返した。「ヤックン(薬師寺)のダンスとキラキラの服が楽しみ。判定なら勝ちにしてあげる」と上から目線。薬師寺は「ベルトに偽物と書いて」と言い、公開練習ではあちこちサポーターやドーピング疑惑を口にし、陽動作戦も繰り広げた。

試合は辰吉が前に出るが、薬師寺が左ジャブと手数でリードした。両者とも流血。辰吉は両目を腫らせながら、終盤に反撃した。クリンチも少ない激戦も、2-0の小差判定で薬師寺の手が上がった。

1ポイント差のジャッジ1人は日本人だった。12回は唯一10-10のイーブンと採点した。残るジャッジ2人のこの回は辰吉10-9で、3人が同じだったら判定は1-0で引き分け。異議を訴える辰吉陣営もいた。

実は辰吉が左拳を痛めていたが、素直に完敗を認めた。終了ゴングが鳴ると抱き合って発言を謝り、判定が下ると薬師寺を抱き上げた。薬師寺も勝って言い返すはずが、最強だったと応えた。挑発合戦からクリーンなファイトとエンディングが脳裏に刻まれた。

両陣営の争いで笑ったのが、振込手数料をどちらが払うかでもめたこと。ファイトマネーは五分の1億7100万円で、マネジメント料33%を引いても1億1457万円。辰吉は日本人最高額となった。

薬師寺は違った。当時は試合後の報告書が公表され、2500万円と判明した。後援者のボーナスはあったが、地元での開催優先へ抑制を受け入れ、初の日本人統一戦勝者という栄冠を手にした。舞台裏も実に濃密で面白く、まさに世紀の一戦と言えた。【河合香】

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座布団舞った浜田剛史KO/記者が振り返るあの瞬間

浜田剛史(左)はレネ・アルレドンドの顔面にパンチをヒットさせる(1986年7月24日撮影)

<スポーツ担当記者 マイメモリーズ>(43)

日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

   ◇   ◇   ◇

何十枚もの座布団が舞った。興奮もつかの間、リングサイドにいた記者も両手で頭を覆った。約1万人が総立ちとなった東京・両国国技館。目の前にあるのは丸い土俵ではなく、四角いリング。前年に開館したが、初めてのボクシング世界戦開催で起きた熱狂の渦だった。

86年7月24日。浜田剛史がWBC世界スーパーライト級王座に待望の世界初挑戦で、悲願を成就させた。それも1回KO奪取で、日本人では海老原博幸以来23年ぶり2度目のこと。今や12人の世界王者を生んだ名門帝拳ジムにとって、大場政夫以来16年ぶり2人目の王者でもあった。

取材したことはなかったが、いまだ日本記録の15連続KOの剛腕は知られていた。3月に安定王者渡辺二郎が陥落し、日本に世界王者は不在だった。期待は大きかったが、中量級の壁は厚いとも言われた。

王者レネ・アルレドンドはスラリとした長身で、今で言うイケメンのメキシカン。浜田はリーゼント、太いまゆ、長いもみ上げに濃い胸毛の朴訥(ぼくとつ)な沖縄人。好対照とも言え、対決ムードは高まっていた。ただし、下馬評は不利だった。

浜田のトランクス、シューズに、背中に沖縄の守り神シーサーが描かれたガウンも真っ白。腹をくくった死に装束にも思えた。それが戦法にも表れた。ゴングと同時に突進して左を打ち込んで攻め続けた。

本田会長の指示は「1回から行け」。「ケンカのつもりで、レフェリーが止めるまで打ち続けろ」とも。その作戦通りにコーナーに追い込み、ロープを背負わせた。浜田の上半身が2度もロープからはみ出した。勢い余ったかに見えたが、最初はパンチを返されたため。倒し合いの覚悟を決めた。

ついに右フックをアゴに当て、王者の腰がガクッと落ちた。畳み掛けての6発目で、青コーナーに吹っ飛ばした。ピクリともせずに3分9秒の電撃KO劇。小4から世界を目指し、4度の左拳骨折にも腐らず、ストイックに頂点を極めた。

当時の所属部署は記者が10人ほどで、大人数での取材は相撲、正月のボールゲームに世界戦ぐらい。あの日も担当する相撲取材後の手伝いで、幕内だった板井の隣で見た。こちらも強烈な張り手を武器に、直前の名古屋場所でも大関大乃国を倒していた。ボクシング好きで浜田とも親交があり、その観戦記の対応だった。

「相撲でもあんなに座布団が飛んだのは見たことない」と、板井は驚いた。相撲は支度部屋取材が基本とあって、記者も初めて生で見たシーンだった。その後に大相撲以外で座布団は置かれなくなった。あんな情景は今やもう見ることはできない。

その後、念願かなってボクシング担当となり、数え切れない試合を見てきた。今は井上尚弥の怪物ぶりに目を見張るが、取材記者として初めて生で味わった衝撃があの一戦。あれではまった。30年以上がたつが、同じ昭和生まれのボクサーの前では、今も背筋が伸びる。【河合香】

王者に輝き、関係者に担がれた浜田剛史はガッツポーズ(1986年7月24日撮影)

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戦い続けた42歳牧師の姿/記者が振り返るあの瞬間

ジョージ・フォアマン(1973年)

<スポーツ担当記者 マイメモリーズ>(40)

日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

   ◇   ◇   ◇

試合終了を告げるゴングが鳴る前から1万8000人の大観衆は立ち上がった。地鳴りのようなスタンディングオベーションに私も一緒に加わった。それがやがて「ジョージ!」のコールに変わった。12ラウンドを勇猛に戦い続けた42歳の牧師ボクサー、ジョージ・フォアマン(米国)への賛歌だった。

1991年4月19日、米ニュージャージー州アトランティックシティーで行われたプロボクシング統一世界ヘビー級タイトルマッチ。全盛期を迎えていた28歳の王者イベンダー・ホリフィールド(米国)に、17年前に失った王座を取り戻すために、10年のブランクを経て復帰したフォアマンが挑んだ。

120キロ近い太鼓腹の元王者の勝利を予想する声は皆無だった。米国人記者たちは「ただのデブ」「出番を勘違いした老いぼれ」「ジョークだ」と冷笑していたし、地元紙は太っちょ(FAT)の挑戦者に引っかけて「FAT CHANCE(絶望)」の見出しを付けた。私も早いラウンドでの決着を予想していた。

開始から打撃戦になった。予想と違ったのはフォアマンが1歩も引かなかったことだ。若い王者の速射砲のような連打を耐えに耐えて前進を続け、豪快な右強打で対抗した。7回開始直後、その右で顔面を打ち抜かれた王者が宙をさまようように後退した。時代の逆転…起こるはずのないことが起きている。背中に戦慄(せんりつ)が走った。

試合はホリフィールドの判定勝ちだった。しかし、もう結果はどうでもよかった。時代にあらがい、果敢に挑んだフォアマンの勇気、生きざまに酔いしれ、計り知れない人間の可能性に気づかされたのである。「年寄りであることを恥じることはない。みんな誇りを持っていい」。試合後の彼の言葉は、年齢を重ねるにつれて、私の中で輝きを増すようになった。

実は彼が現役復帰した理由は名誉のためではない。77年の引退後、牧師として活動しながら、不遇な若者を救済するユースセンターを運営していた。そのセンターが経営難に陥ったため、手っ取り早く資金を稼ぐために再びグローブをはめたのだ。他人の人生まで背負うと、人はこんなにも強くなれるのだ。連打の嵐の中を前進するフォアマンを見ながら、そんなことも感じた。

激闘から一夜明けた土曜日、フォアマンは予定された記者会見をキャンセルした。理由は「会見に出ると牧師をしている日曜学校に間に合わなくなるから」。3年後の94年、彼は45歳にして世界ヘビー級王座復帰の偉業を成し遂げる。そして、71歳になった今も地元ヒューストンでユースセンターの経営と、牧師としての活動を続けている。【首藤正徳】

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大嶽親方、怒りの平手打ち/記者が振り返るあの瞬間

06年7月15日、大相撲名古屋場所7日目で土俵下でにらみ合う千代大海(右)と露鵬

<スポーツ担当記者 マイメモリーズ>(36)

政府の緊急事態宣言が延長され、スポーツ界も「自粛」状態が続いている。

日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

   ◇   ◇   ◇

はじめはよく見えなかった。大関千代大海の盛り上がった肩の筋肉から腹へ、細くて赤い筋が何本も流れていた。

06年名古屋場所。打ち出し後の役員室に怒髪天をつく形相の千代大海がバスタオル姿で入ってくる。目が慣れてきて分かった。上半身に小さいガラスの破片が数え切れないほど刺さっていた。粉々になったガラスを浴びたのだ。

すぐにロシア出身の平幕の露鵬も来る。師匠の大嶽親方(元関脇貴闘力)がこわばった顔で付き添う。本割で感情的になった2人が風呂場でもめ、露鵬がドアを破壊した。

帰り支度で騒がしかった役員室が無音になった。お互いにいつでも襲いかかりそうな殺気だ。北の湖理事長(元横綱)は事情を聴き「いつまでも遺恨を残すな。握手して仲直りしなさい」と言った。

露鵬が千代大海に「これからも頑張って」と言う。番付上位の先輩力士に対して、何より加害者としては間違った言葉遣いだった。

直後、大嶽親方が「お前は~」と怒鳴りながら顔面を平手で打った。すさまじかった。記者だったら失神、いや、脳振とうは免れない。張り手で千代の富士、小錦、曙に挑んだあの貴闘力の平手打ちだ。その一撃を受けても露鵬は顔をそむけず正面を向いたまま。映画のようだった。

この時、露鵬はフラッシュを嫌がり、カメラマンに暴力をふるい、出場停止処分になった。

後日、巡業先の体育館で寂しそうに座っていた。目があった。「カメラマンの人には悪いことをしました。大関にも悪い態度、反省しています」と言った。気まずい空気が流れ、話をつなごうと焦り「(平手打ち)ものすごかったね。痛かったでしょ」と聞いた。すると「あんなの痛くない。それよりも悔しかった。俺は強いんだって、みんなに分かってほしかった」。顔の前を太い右腕で振り払うようにした。よみがえった記憶を払いのけようとしているようだった。屈辱に顔はゆがんでいた。

番付が力を示す相撲社会を取材して、こんなきわどい瞬間にはほとんど出会えなかった。ただ、ケンカ沙汰はいたるところにあるとはうすうす感じていた。相撲界は時津風部屋での力士暴行死事件、元横綱日馬富士の暴行問題という不祥事から暴力追放を目指してきた。現在は暴力への問題意識も格段に広まっているだろう。記者が遭遇したあの瞬間は、もう過去のものであると信じている。【井上真】

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辰吉も会場も泣いた激闘/記者が振り返るあの瞬間

辰吉丈一郎(2018年4月30日撮影)

<スポーツ担当記者 マイメモリーズ>(34)

政府の緊急事態宣言が延長され、スポーツ界も「自粛」状態が続いている。

日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

  ◇  ◇  ◇

殺されるんちゃうか。リングに立った両者を並び見て、身震いした。

97年11月22日、大阪城ホール。辰吉丈一郎(当時27=大阪帝拳)は、挑戦者として戦場に向かった。相手は20歳の王者シリモンコン・ナコントンパークビュー。当時16戦無敗、「翡翠(ひすい)の顔」と呼ばれた男前でもあり、タイの若い女性の間で人気急上昇でモデルの仕事の依頼もあった、若き英雄だった。

一方の辰吉は左目網膜裂孔、同剥離と2度の眼疾による引退危機を乗り越えるも、薬師寺との世紀の統一戦に敗れ、その後もスーパーバンタム級に上げてサラゴサに連敗と世界戦3連敗を喫していた。試合前、世界初奪取時から子どものようにかわいがってきたWBCのホセ・スライマン会長が「これ以上誇りを傷つけるな」と最後通告。大阪帝拳の吉井清会長も「負ければ次はない、最後の花道」と腹をくくっていた。

事実、辰吉の勝つイメージはわかなかった。シリモンコンはムエタイでも60戦のキャリアを誇り、辰吉を「年をとって前よりスピードがない」と年寄り扱いするなど、発言も自信に満ちていた。可能性は海外での試合キャリアと減量苦。その兆候が前日に見えた。

前日計量前の健診でシリモンコンの体温は38・2度。吉井会長は「熱が出るほどだから、胃を荒らしてるんでしょうな」と冷静に言った。陣営によると、一日中サウナにこもり、計量当日だけで1キロ近く落としたという。それまでの自信に満ちた王者の顔はどこえやら。やつれきった顔から精気は失われていた。

ところが。試合当日のシリモンコンは精気に満ちた顔に、はちきれんばかりのボディーだった。バンタム級のリミットは55・3キロだが、一晩で10キロ近く戻してきた。一方の辰吉は2キロ程度の回復で、比べて見れば、失礼を承知でいえば貧弱でしかなかった。辰吉ものちに「『でかっ』と思って二度見した」と語っている。圧倒的な体格差に「殺される」を予感した。

そんな序章から幕を開けた試合はドラマだった。「作戦通り。上を意識させてボディーを狙った」と試合後。5回に強烈な左ボディーでもん絶させてからの右ストレートでダウンを奪う。その後はシリモンコンの猛打に足がもつれる場面もあったが7回、右フックから左ボディーで再びダウン。立ち上がったところに猛ラッシュでレフェリーのリチャード・スティールが試合を止めた。辰吉が泣き、会場全体が感動で泣いた。

スポーツ記者として、その場に立ち会えて幸せと思える瞬間は少なくない。ただ、記者の立場も忘れ、涙を流すほどの場面にはそうそう出会えない。そんな経験ができた喜びは、20年以上たった今も体に刻まれている。「人生に不可能はない」と教えられた。だから辰吉というボクサーはずっと愛されている。【実藤健一】

◆試合VTR 辰吉が壮絶な打撃戦を制した。序盤から左ジャブでけん制。シリモンコンのガードが高くなって、ガラ空きになったボディーを狙い打った。5回、強烈な左ボディーがヒット。過酷な減量で動きの悪い相手に、続けざまに放った右ストレートで最初のダウンを奪った。6回に王座防衛に必死の相手に反撃されたが、ガードを下げて応戦。7回、右フックから左ボディーで2度目のダウンを奪い一気にラッシュ。1分54秒TKO勝ちした。

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礼儀欠かさなかった曙親方/記者が振り返るあの瞬間

曙太郎K−1入り会見 K−1参戦を表明し会見する曙親方(右)と谷川貞治プロデューサー=東京・帝国ホテル(2003年11月6日)

<スポーツ担当記者 マイメモリーズ>(32)

政府の緊急事態宣言が延長され、スポーツ界も「自粛」状態が続いている。

日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

  ◇  ◇  ◇

その声が自分に向けられたものだとは、すぐには分からなかった。もう1度「オイッ!」という低い声が飛び、鋭い眼光は相撲担当になってまだ2日目の自分を見ている。03年10月31日。朝稽古の取材で東関部屋を訪れて、一礼だけして後方に座った直後、曙親方(元横綱)に呼ばれた。怒気をはらんだ口調だった。

前日、部屋の幕内高見盛が出稽古先で横綱朝青龍につり上げられ、バックドロップのようにたたきつけられて右肩を負傷した。様子を確認しに来た自分が気に食わないのかもしれない。テレビでしか知らなかった巨体に恐る恐る近づく中で、いろいろと考えた。首に下がる記者証をにらみつける親方の目が怖かった。

「お前、あいさつはどうした?」。そう言われて慌てて名乗ろうとした。すると「オレじゃない!」と語気が強まった。「師匠にだ。部屋に入ってきたらまず師匠にあいさつするのが礼儀だろ。それが日本人の心ってもんじゃないのか」。

分かる人も多いだろうが、稽古中は意外と静かな間が多い。体同士、時に頭と頭がぶつかり合う鈍い音が響き、呼吸の乱れもよく分かる。そんな空間で、相撲のすの字も分からないペーペーの担当記者ができることは、ひたすら存在を消すこと。物音を立てず、邪魔にならないよう隅っこで見ていようと思っていた。稽古を遮るあいさつすら失礼になると思い込んでいた。

その静寂を壊してまで「礼儀」を説いてくれた曙親方の思いを、今も感じることができる。慌てて師匠の東関親方(元関脇高見山)に頭を下げると、にこりと笑ってくれた。曙親方に戻り、一から名乗ると「それを忘れないようにな」と優しい声で言われた。ハワイ出身の親方に教わった「日本人の心」は、その後の記者生活の土台になった。

ところが話はまだ続く。

1週間後の11月6日の朝、日刊スポーツ1面に「曙親方 K-1参戦へ」の文字が躍った。スクープだった。部屋に行くと東関親方は明らかに落胆していて、退職の申し出は受けていたものの「気がついたら部屋に荷物がなかった。こういう言葉は使いたくないけど、裏切られた」と恨み節が出た。

稽古場で諭してくれた、あの「日本人の心」は一体どこに…。当時は自分もだいぶ混乱したものだった。

ただ、実際にK-1やプロレスに転向した曙はその後も部屋を訪れて師匠と肩を並べている。先日は闘病中の体を押して、東関親方として急逝した元幕内潮丸の葬儀に訪れた。非礼のままであれば、そうはいかないのがこの世界。礼儀を欠かさなかったからこそだと、曙の姿を見るたび、そう感じている。【今村健人】

福岡市の福岡国際センターで行われた前夜祭の支度部屋で、曙親方のKー1参戦を伝える本紙に目を通す小結高見盛(2003年11月6日撮影)

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今も実感沸かぬ大横綱の死/記者が振り返るあの瞬間

元横綱千代の富士の九重親方死去を報じる16年8月1日付の本紙1面

<スポーツ担当記者 マイメモリーズ>(28)

政府の緊急事態宣言が延長され、スポーツ界も「自粛」状態が続いている。日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

  ◇   ◇   ◇ 

暑く、長い夏の1日だった。16年7月31日。元横綱千代の富士の九重親方が亡くなった。その日は、夏巡業取材で大阪から岐阜市内へ日帰りで出張していた。仕事を終えて夕方の新幹線でのんびり帰阪していると、デスクから携帯電話に一報が入った。

「九重親方が亡くなったようだ。福井に行ってくれるか」

えっ…。しばし、絶句した。親方は都内の病院で亡くなったが、力士や親方衆一行は岐阜からバスで次の巡業先の福井市へ向かっていたため、そこで関係者を取材してほしいということだった。新大阪駅に着いたのは午後6時ごろ。自宅まで着替えを取りに行く時間などない。慌てて特急サンダーバードに乗り換え福井へ向かった。午後8時過ぎに着くと、駅前のホテル周辺で関係者を捜し回った。

取材していて、動悸(どうき)が収まらなかった。昭和49年生まれの記者にとって“大横綱”といえば、千代の富士だった。筋骨隆々の体で豪快につり出し、上手投げで勝ち続ける姿は、ヒーローそのもの。子供のころ、狭い家の中で父親と相撲を取る時は、ベルトを前みつ代わりに引きつけて頭をつけ、千代の富士になりきっていた。記者になってから関係者の紹介で食事をした際は「俺は日刊が嫌いなんだ!」と言われてビビリまくったが、マッコリをたくさん飲むと笑ってくれた。そして、ひとたび相撲の話になると現役時代のような鋭い眼光に戻り、言った。「三役が大関を、大関が横綱を目指すなら、もっともっと稽古をやらないと。『もっと』じゃないよ。もっともっと、だ」。少し前まで熱く語っていた“大横綱”が死ぬなんて、信じられなかった。

その夜は結局、午後11時過ぎまで取材を続け、元大関栃東の玉ノ井親方や、豪栄道らから思い出話を聞いた。翌8月1日は1~3面と芸能面で死を悼む記事が掲載されたが、紙面を見ても亡くなった実感は湧かなかった。4年の歳月が流れた今も同じだ。テレビで見た現役時の勇姿も、一緒に飲んだ時の笑顔も、「もっともっと、だ」と力を込めた険しい顔も、すぐによみがえってくる。心の中で生き続けるとは、こういうことなのか。横綱千代の富士が、教えてくれた気がする。【木村有三】

現役時代の横綱千代の富士

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