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新日本ライブ4万人視聴「予想以上」東京D大会匹敵

試合に勝利しマイクパフォーマンスする内藤(手前)。奥は高橋(2020年6月15日撮影)

15日に行われた新日本プロレスの110日ぶりの試合は、年間最大のビッグマッチ東京ドーム大会に匹敵する視聴数を記録した。16日、動画配信サービス「新日本プロレスワールド」の担当者が明かした。

同試合は新型コロナウイルスの影響で無観客で行われ、午後7時から生配信。国内外の約4万のユーザーがライブ視聴した。同担当者は「4万は、1人が何度アクセスしても1回と数えるユニークユーザー数。有料課金、しかも平日でこの数字は手前みそだが、かなり高い。予想以上に国内外のファンに見てもらえた」と語った。

無観客試合は、新日本のレベルの高さも見せつけた。試合後、ツイッター上では無観客でも違和感がないというファンの声が多々みられた。新日本での無観客試合は、過去にアントニオ猪木とマサ斎藤による巌流島の戦いなどの例があるが、04年にノーピープル金網デスマッチをした棚橋弘至以外の選手にとっては初めて。プロレスにとって観客の反応は大事な要素だが、それがなくても普段と変わらぬ熱のある試合を展開した。同担当者は「何より選手がハイパフォーマンスをしたことが数字の後押しになった」と話した。【高場泉穂】

オープニングであいさつする棚橋弘至(手前右)(2020年6月15日撮影)

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タイガー服部「もう時間」レフェリー生活44年で幕

引退セレモニーでオカダ(左)から花束を受け取り労われるタイガー服部レフェリー(撮影・河田真司)

タイガー服部(74)が44年のレフェリー生活に幕を下ろした。

19日、新日本プロレス後楽園大会のセミ、メイン2戦を裁き、メイン後の引退セレモニーでは10カウントゴング、胴上げで送られた。

76年に米国でレフェリーデビュー。以来、95年北朝鮮・平壌でのアントニオ猪木-リック・フレアー戦、99年1月4日の橋本真也-小川直也戦などプロレス史に残る数々の試合を裁いてきた。

優秀な海外選手を招くなど、コーディネーターとしても新日マットを支えた。レフェリーが引退試合を行うのは異例。それだけ選手からの信頼は深かった。

セレモニーには、ザ・グレート・カブキ、馳浩、武藤敬司、長州力ら豪華ゲストが来場。天龍源一郎、アントニオ猪木からはビデオメッセージが届き、猪木氏からは「長い間本当にご苦労さまでした」とねぎらわれた。

会場は1600人の超満員。マイクを取った服部レフェリーは「コロナという不気味なものに負けないで、これだけたくさん来られて感謝しております」とまずあいさつ。

そして、「自分はこのユニークなスポーツに出会えて、一生プロレスというものを愛し、だけど自分の人生という感じがします。素晴らしいことも友情もいろいろありますが、裏切りもあります、悲しいこともあります。まるで自分の人生みたいな感じがします」とプロレスと自分の人生を重ねた。

選手、スタッフ、ファンに感謝を述べ、「こういう思い出は一生忘れないように頭の中に刻んで生きていきたいと思います」と目を潤ませた。10カウントゴングの後、米国時代の盟友、故マサ斎藤さんの入場テーマが流れる中、選手らに胴上げされた。

レフェリーとしての哲学は「選手を邪魔しない。無駄な場所にいないこと」。それがうまくできなくなったため、「もう時間だな、と思って」と自ら引退を決めた。

最後の3カウントをたたき、「やり切った感があった。燃え尽きました」。1年新日本との契約を延長し、米国での興行、イベントを裏方で支える予定だ。

【高場泉穂】

引退セレモニーでタイガーマスク(左)と握手を交わすタイガー服部レフェリー(撮影・河田真司)
後藤(右奥)にオコーナーブリッジを仕掛けるSANADA(手前右)にカウントをとりにかかるタイガー服部レフェリー(撮影・河田真司)
タイガー服部レフェリー(中央)引退セレモニーでリングに上がり写真に納まる、左から武藤敬司、長州力、1人おいてザ・グレートカブキ、馳浩(撮影・河田真司)
引退セレモニーでアントニオ猪木のサプライズビデオメッセージを見つめるタイガー服部レフェリー(右)(撮影・河田真司)

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マサ斎藤よ永遠に…追悼大会でホーガンら哀悼の意

マサ斎藤追悼イベントでファン、関係者に感謝を述べる倫子夫人(撮影・加藤裕一)

昨年7月14日に他界したプロレスラー、マサ斎藤さん(享年75)の追悼大会「マサ斎藤メモリアル」が15日、大阪市の城東KADO-YAがもよんホールで行われた。元新日本の役員・上井文彦氏のプロデュースによるもので「もう1度リングに上がりたい」と斎藤さんが昨年6月に望み、企画した大会という。

場内にはハルク・ホーガンらの動画コメントが流され、斎藤さんの妻倫子さんがリングへ。「私がここにいて悔しい。本来いるべきなのはマサ斎藤なのに」と語り「皆さんの中に、少しでも長く“マサ斎藤”の名前をとどめておいてください」と訴えた。

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シャムロックが米版「巌流島」ノールール試合に出場

ケン・シャムロック(2005年10月19日撮影)

UFC殿堂入りの格闘家ケン・シャムロック(54)が元UFCのトム・ローラー(35)と異例となる過激なルールでの戦いを行うと、26日(日本時間27日)に主催米団体TUBBから発表があった。

シャムロックは来年1月31日に「ノーリング」「ノールール」で米アトランタにてローラーと対戦するのだという。

シャムロックは全日本、新日本、WWEなどプロレスラーとしても活躍。PRIDE、パンクラス、UFCなど総合格闘技でも死闘を繰り広げてきた経験豊かなファイター。一方のローラーもデビューはプロレスからで、UFCに参戦した。

ノールール戦といえば、87年10月にアントニオ猪木とマサ斎藤が巌流島で、時間無制限、ノーレフェリー、ノールール「巌流島の戦い」2時間5分14秒の死闘を繰り広げた。シャムロック戦もこの様相を呈する戦いとなるのか早くも注目されている。(デーブ・レイブル通信員)

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グレート小鹿がマサ斎藤に捧ぐ王座「昔を思い出す」

グレート小鹿

<大日本:上野大会>◇8日◇上野恩賜公園屋外ステージ

 76歳の現役プロレスラー、グレート小鹿(大日本プロレス会長)が、45年ぶりにシングル王座獲得に成功した。

 小鹿はメインで、新潟プロレスの第5代新潟無差別級王者シマ重野に挑戦。台風の風雨の中、12分17秒、チョークスラムからの片エビ固めでフォール勝ちした。

 タイトル戦について小鹿は「私が米国でプロレスをやっていた当時は、タイトルはほとんどが地域のタイトルだった。今回の挑戦で昔を思い出したよ」と話した。試合後、小鹿は「大雨の中、来てくれたお客さんに感謝。オレがベルトを取ったことで、同年代の人たちの励みになれば」と話していた。

 小鹿のシングル王座戴冠は、1973年10月にテリー・ファンクからNWAウエスタン・ヘビー級王座を奪取して以来。14日に同い年のマサ斎藤さんが亡くなり、ショックを受けていた小鹿だが、盟友にささげるベルト奪取となった。

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76歳グレート小鹿「史上最高齢」シングル王座挑戦

08年12月、昭和プロレスに出場したグレート小鹿

 76歳の現役プロレスラー、グレート小鹿(大日本プロレス会長)が、45年ぶりにシングルの王座に挑戦する。8月8日、上野公園屋外ステージで開催の大日本大会で、新潟プロレスの新潟無差別級王者シマ重野への挑戦が25日までに決定した。

 小鹿は「76歳でのシングル王座挑戦は、史上最高齢でしょう。猛暑に苦しむ日本で、私の挑戦が一服の清涼剤にでもなれば。五輪じゃないんだから、やることに意義はないですよ。勝ちに行きます」と意欲を見せた。14日に同い年のマサ斎藤さんが亡くなり、ショックを受けていた小鹿だが、新たな挑戦に、気力を取り戻した。

 新潟プロレスは地域プロレスで、22日の新潟・村上大会に参戦した小鹿が、重野へ挑戦を表明していた。小鹿のシングル王座戴冠は、1973年10月、テリー・ファンクからNWAウエスタン・ヘビー級王座を奪取して以来という。

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マサ斎藤さんに坂口相談役、長州力、前田日明ら別れ

マサ斎藤さんの葬儀・告別式で棺を運ぶ、右端の佐々木健介から左回りで坂口征二新日本相談役、西村修、武藤敬司、蝶野正洋、キラー・カーン、前田日明、長州力(撮影・柴田隆二)

 日米のマットで活躍し14日にパーキンソン病のため75歳で亡くなった元プロレスラーのマサ斎藤さん(本名斎藤昌典さん)の告別式が22日、東京・青山の梅窓院で営まれた。

 猛暑の中、明大時代の同期で新日本プロレスの坂口征二相談役や、長州力、前田日明、武藤敬司、蝶野正洋、キラー・カーン、佐々木健介、西村修、小島聡、SANADAらが参列した。

 米国でAWAタッグ王者としてともに戦ったザ・グレート・カブキの米良明久さんが「マサやん、17年間の闘病生活、本当に頑張ったね。お疲れさん。いつか会えるそのときは、またコンビを組んでチャンピオンになりましょう」と声を詰まらせながら弔辞を読み上げた。

 続いて弔辞を述べた武藤敬司は「米国のプロレスの中で一目置かれた先輩がいたから、オレなんかやりやすかった。nWoをやっているときも、蝶野とオレで意見がぶつかると、マサさんに聞いて判断を仰いでいた。日本だけ、米国だけというレスラーが多い中、両方どっちもできるという点で波長が合った」と話した。

 長州は「米国で警官を殴って刑務所に入れられているときに面会に行ったが、すごく明るく、体も筋肉が落ちていなかった。とにかく豪快な人だった。この年まで(プロレスを)やってきたが、あそこまではなれないなと思います」と話した。

 出棺の際は、前田日明、長州力が隣り合わせに棺を抱え、武藤敬司、坂口相談役、キラーカーン、蝶野正洋といったかつての大物レスラーが集まり、故人の人柄をしのばせた。

マサ斎藤さんの葬儀・告別式で弔辞を述べる武藤敬司(撮影・柴田隆二)
マサ斎藤さんの葬儀・告別式で弔辞を述べるザ・グレート・カブキ(撮影・柴田隆二)
マサ斎藤さんの葬儀・告別式で、出棺のあいさつする喪主の倫子夫人(中央)(撮影・柴田隆二)
マサ斎藤さんの葬儀・告別式で棺を運ぶプロレスラー、関係者ら、右手前は位牌(いはい)を持つ喪主の倫子夫人(撮影・柴田隆二)

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マサ斎藤さんの通夜に同期坂口征二氏、天龍氏ら参列

リングの形をしているマサ斎藤さんの祭壇(撮影・柴田隆二)

 14日に75歳で亡くなったプロレスラー、マサ斎藤さんの通夜が21日、都内の寺院でしめやかに営まれた。

 菊の花などでリングをあしらった祭壇に、倫子夫人(68)の希望で位牌(いはい)には戒名ではなく「マサ斎藤」のリングネームが書き込まれた。マサ斎藤さんは現役引退した99年ごろから発症した難病のパーキンソン病と闘い続けてきた。

 通夜には明大時代にマサ斎藤さんと同期の坂口征二新日本相談役や、永田裕志、天龍源一郎、アニマル浜口、佐々木健介、実況を担当したこともある古舘伊知郎氏、辻よりなり氏ら関係者が多く参列した。天龍は「新人で米国修業したときに、プロレスラーとは何かを身をもって教えてもらった。米国で新人でまだ試合に出られないときに、マサさんとカブキさんがよく食事に連れて行ってくれた。ボクが業界でちょっとは認められたのは、マサさんのおかげ。プロレスに対し、常に真っ正面から向き合っている人だった」と話した。佐々木は「新人時代から面倒を見てもらいおやじみたいな存在だった」と声を詰まらせていた。棺のマサさんにリングシューズを履かせ、恋人時代の写真や、マサさんの現役時代の記事などを入れたという倫子夫人は「天国でゆっくり読んでほしい」と話していた。

マサ斎藤さんのリングネームの位牌(いはい)(撮影・柴田隆二)
マサ斎藤さんの思い出の写真が飾られた斎場
マサ斎藤さんの遺影とリングネームの位牌(撮影・柴田隆二)

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新日坂口相談役、マサ斎藤さんを10カウントで追悼

新日本プロレス「G1クライマックス28」前、マサ斎藤さんの遺影を持ち追悼セレモニーを行うタイガー服部レフェリー(撮影・垰建太)

 「世界の荒鷲」が同時代を生きた仲間との別れを惜しんだ。

 新日本プロレスは19日、後楽園大会の合開始前に、14日に逝去したマサ斎藤さん(享年75)をしのんで10カウントゴングで追悼した。

 リング上に上がった坂口征二相談役(76)は、明大の同級生。柔道部とレスリング部で部活は違ったが、格闘技にいそしむ同輩として親交厚かった。「たまにレスリングの練習にも参加したりね。彼が卒業するときに俺は日本プロレスに入るというので、体育会のみんなで送別会をやったんだよね。まさか3年後に(日本プロレスに)俺が行くとは」と苦笑交じりに懐かしんだ。

 その後もつながりは深く、新日本プロレス入り後には、アントニオ猪木との伝説の巌流島決戦にも立ち会った。2時間5分14秒の死闘に「長い1日だったね。まさか2時間もやるとは。よくやったよね、あいつは」と振り返った。「面倒見のいいやつでね。30年以上の長い付き合い。気にはしていたんだけど、さびしいな。また1人仲間が去ったのはさびしいなあ」と話した。

 坂口氏とともにリングに上がったタイガー服部レフェリーは、明大レスリング部の後輩にあたる。「(自分が)大学1年の時の4年生。神様でした」。プロレス界入りも故人の勧めだった。「120%レスラーでした。実直でまっすぐで」と述べた。

後楽園ホールで開催の新日本プロレス「G1クライマックス28」の試合前、マサ斎藤さんをしのび10カウントゴングで黙とうする坂口征二氏(左)とタイガー服部レフェリー(撮影・垰建太)
後楽園ホールで開催の新日本プロレス「G1クライマックス28」の試合前、マサ斎藤さんをしのび10カウントゴングで黙とうする選手たち(撮影・垰建太)

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マサ斎藤さんを追悼 WWE全米生中継冒頭で

WWEが全米生中継のロウ大会冒頭で流したマサ斎藤さんの訃報 (C) 2018 WWE, Inc. All Rights Reserved

 WWEは16日(日本時間17日)、米バファローで開催したロウ大会の全米生中継冒頭で、14日に死去したマサ斎藤さん(享年75)を追悼した。

 81年からWWEの前身WWFに参戦した斎藤さんは、同10月、82年7月と2度もWWFタッグ王座を獲得。WWEヘビー級王者ボブ・バックランドにも挑戦するなどトップヒールとして活躍した。現在、WWEパフォーマンスセンターを仕切るウイリアム・リーガル氏も新日本プロレスに参戦した94~97年当時を振り返り「マサさんと日本で多くの時間を過ごし、よくしてくれた。我々の仕事で彼の名前は生き続ける」と自らのツイッターでつづった。(デーブ・レイブル通信員)

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「伝説的レスラー」マサ斎藤さんをロウ大会で追悼

WWEが全米生中継のロウ大会冒頭で流したマサ斎藤さんの訃報 (C) 2018 WWE, Inc. All Rights Reserved

<WWE:ロウ大会>◇16日(日本時間17日)◇米ニューヨーク州バファロー・キーバンクセンター

 25年以上長寿テレビ番組となる全米生中継のロウ大会冒頭で、14日に死去したマサ斎藤さん(享年75)を追悼した。

 斎藤さんは81年からWWEの前身となるWWFに参戦。ミスターフジとの日系ヒールコンビで、WWFタッグ王座も獲得。またWWF以外でもNWAやAWAなど米マットでトップヒールとして活躍していた。

 現在、WWEスマックダウンに所属する元新日本プロレスの中邑真輔は自身のツイッターで「伝説的な日本のレスラー、マサ斎藤さん。安らかに眠る」と英語でコメント。また現在、WWEパフォーマンスセンターを仕切るNXTのGMでもあるウイリアム・リーガルも新日本プロレスに参戦していた94~97年当時を振り返りながら「伝説的な日本のレスラー、マサ斎藤さんの死去を聞き、悲しい。日本で多くの時間を過ごし、マサさんはいつもよくしてくれた。われわれの仕事の中で彼の名前と『サイトウ・スープレックス』は生き続けるだろう」とツイッターでつづっていた。

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マサ斎藤さん死去、支えだった東京五輪の願い届かず

16年12月、栃木の病院でリハビリに励むマサ斎藤さん

 日米マットで活躍したプロレスラーのマサ斎藤さんが14日午前1時5分に死去した。75歳だった。弟子の佐々木健介氏(51)が在籍する健介オフィスが16日、発表した。現役引退した99年ごろから発症した難病のパーキンソン病と闘い続けてきたが、最近になって容体が急変したという。87年にアントニオ猪木との「巌流島決戦」の死闘が名勝負として語り継がれる64年東京オリンピック(五輪)レスリング代表。20年東京五輪を目前にしてこの世を去った。通夜・告別式は近親者のみで行う。

 プロレス界の伝説が天国へ旅立った。99年ごろから発症したパーキンソン病と向き合ってきたが、数年前から体重が激減。栃木県のリハビリ病院などに入院しながら復活を目指したが、かなわなかった。来年2月に大阪でリングに立つ予定で、6月29日から40日間の集中リハビリに取り組んでいたものの容体が急変した。

 斎藤さんの妻、倫子(みちこ)夫人は「闘病生活は“GO FOR BROKE(当たって砕けろ)”をモットーに掲げる彼にしても想像を絶するほど辛く厳しいものでした。(中略)穏やかながらも、新たなチャレンジへ向かうような、マサ斎藤らしい力強い旅立ちでした」とコメントした。

 精神的な浮き沈みもありながらインディー団体コーチを引き受け、気持ちを高ぶらせた。74歳だった16年12月にリングイン。「来年、再びカムバックのチャンスも出てきました。リハビリに意欲を燃やしていた矢先」(同夫人コメント)だった。納棺する際、斎藤さんはジャパンプロレス時代の上下のジャージー、白いブーツ、靴下を着用したという。

 明大4年時の64年、レスリングのヘビー級代表として東京五輪に出場。コーチから4年後の五輪を目指すよう勧められたが、65年に馬場、猪木らがいる日本プロレスに入団。五輪出場選手のプロレス転向第1号だった。翌66年に東京プロレスの旗揚げに参加するも、すぐに経営難に陥り、米国に渡った。ロサンゼルスなど西海岸でブレーク。NWA、WWF(現WWE)、AWAと3大メジャー団体を転戦し、全米に名をとどろかせた。87年10月、無観客での猪木とのデスマッチ「巌流島の戦い」は2時間超の死闘を繰り広げるなど多くの伝説を残した。

 16年大みそかに日刊スポーツのインタビューを受けた際、70キロにまで減った体で背中を少し丸めながら懸命にリハビリする姿をみせた。17年を迎える直前、斎藤さんは「18、19、20…」「もつな」と言った。20年東京五輪に向け、心を奮い立たせた熱い願い-。それは、届かなかった。

 ◆マサ斎藤(さいとう) 本名・斎藤昌典。1942年(昭17)8月7日、東京・中野区生まれ。明大在学中の63年に全日本選手権はヘビー級でフリーとグレコの両スタイル制覇。翌64年の東京五輪はフリーで出場。大学卒業の65年に日本プロレス入門し、同年6月にプロデビュー。66年から参加した東京プロレス崩壊後、渡米。西海岸で悪役として活躍。WWFタッグ王座、AWA世界ヘビー級王座などを獲得。その後、新日本プロレスなどに参戦。99年に現役引退。得意技は原爆固め、監獄固め。現役時のサイズは180センチ、120キロ。

 ◆パーキンソン病 1817年に英国のジェームズ・パーキンソンにより初めて報告された。脳内の神経伝達物質ドーパミンが減少し、運動機能に関わる大脳からの信号がうまく伝わらず、筋肉のこわばりなどの症状が出る病気。手足が震えたり歩行が困難になったりする。厚生労働省の指定難病。

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蝶野、小島、森田まさのり氏ら悲痛/マサさん悼む

3団体合同対抗戦を無事に終え、記念写真に納まる(前列左から)橋本真也、坂口征二、マサ斎藤、アントニオ猪木、蝶野正洋ら新日本の選手たち(1990年2月10日撮影)

 プロレス界のレジェンドで1964年東京五輪レスリングヘビー級代表としても活躍したマサ斎藤さんの訃報に、プロレス界やファンから悲しみの声が相次いだ。

 蝶野正洋は17日、ツイッターで「尊敬するマサ斎藤さんの悲報 強豪外国人選手、WCW、nWo…困難な海外渉外、マサさん無くして新日本の成功はなかった」と功績をたたえるとともに、「『世界のマサ斎藤さん』のご冥福をお祈りします」と悼んだ。

 小島聡は「私が海外遠征を終えてからは、解説者としてお世話になりました。いつも辛口でしたが、山本小鉄さんと同様、愛のある叱咤(しった)激励だったと解釈してます。長年、闘病生活を続けながらリングへ上がろうとする姿に勇気づけられていました」としのび、「ご冥福をお祈り致します」と追悼した。

 大のプロレスファンを公言するビビる大木は「巌流島に行ったとき、島の歴史には猪木さんとの対戦が書いてあった」と、名勝負と語りつがれる87年の「巌流島決戦」に触れ、「寂しい」と吐露した。

 虎舞竜の高橋ジョージは「斎藤マサさん、スンゴイいい人だった。1990年に猪木さん、佐々木健介や、長谷、ライガーと一緒にヤバイ時にイラクのバグダッドに1週間行った戦友だった。ご冥福をお祈りします」と惜しんだ。

 漫画家の森田まさのり氏は、自身の作品「ろくでなしBLUES」でマサ斎藤さんをモデルにしたキャラクター「マサさん」のイラストをアップし、「久しぶりに描いてみたら描けたよ、マサさん…。ありがとう、忘れません」と悼んだ。

 マサ斎藤さんは、プロレスを引退した99年ごろにパーキンソン病を発症。懸命のリハビリと闘病生活を長く続けていた。75歳だった。

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マサ斎藤さん死去、猪木「忘れる事できない」巌流島

87年10月、新日本プロレスの巌流島決戦で猪木を絞め上げるマサ斎藤さん

 日米マットで活躍したプロレスラーのマサ斎藤さんが14日午前1時5分に死去した。75歳だった。弟子の佐々木健介氏(51)が在籍する健介オフィスが16日、発表した。現役引退した99年ごろから発症した難病のパーキンソン病と闘い続けてきたが、最近になって容体が急変したという。87年にアントニオ猪木との「巌流島決戦」の死闘が名勝負として語り継がれる64年東京オリンピック(五輪)レスリング代表。20年東京五輪を目前にしてこの世を去った。

 巌流島決戦で死闘を演じたアントニオ猪木のコメント マサ斎藤選手の訃報に接し、心より哀悼の意を表します。思えば斎藤選手とは、東京プロレスからの長きにわたるご縁であり、巌流島での2人だけの決闘は忘れることが出来ません。私のライバルとして、五輪代表選手として、尊敬出来るレスラーでした。ご苦労さまでした。

 ◆巌流島の戦い 猪木が歴史に残る決闘「武蔵と小次郎の戦い」をヒントに巌流島での試合を発案。マサ斎藤が対戦に名乗りを上げ、87年10月4日に無観客、時間無制限、ルールなしのデスマッチで対戦した。試合は一進一退の攻防が続き、午後6時にはコーナーポストにかがり火が立てられた。フラフラになりながらも猪木が裸絞めで攻撃し、2時間5分14秒、TKO勝ちを収めた。絞め落とされた斎藤は担架で運ばれた。

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長州力「言葉が見つからない」/マサ斎藤さん悼む

90年2月、AWA世界ヘビー級選手権で念願のタイトルを獲得したマサ斎藤さん

 日米マットで活躍したプロレスラーのマサ斎藤さんが14日午前1時5分に死去した。75歳だった。弟子の佐々木健介氏(51)が在籍する健介オフィスが16日、発表した。現役引退した99年ごろから発症した難病のパーキンソン病と闘い続けてきたが、最近になって容体が急変したという。87年にアントニオ猪木との「巌流島決戦」の死闘が名勝負として語り継がれる64年東京オリンピック(五輪)レスリング代表。20年東京五輪を目前にしてこの世を去った。

<関係者の悼む声>

 ◆維新軍などで行動をともにした長州力 言葉が見つからない。

 ◆新日本で後輩の武藤敬司 お互いに米国で活動していたこともあり、一番話が合う大先輩でした。お元気になられたら、マスターズにもお声掛けしようと思っていた。非常に悲しい。

 ◆マサ斎藤さんと同じ1942年(昭17)生まれのグレート小鹿 残念でなりません。人が良くて最高の戦友だった。また1人仲間がいなくなった。

 ◆マサ斎藤さんの東京・京北学園高の先輩で日本レスリング協会の今泉雄策副会長 残念。東京五輪まであと2年だったのに(64年東京五輪では)世界レベルの選手で(日本協会の)八田会長が重量級で唯一メダルを期待していた。

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【復刻】パーキンソン病からの復活を目指すマサ斎藤

連載「日刊スポーツ 東京オリンピック特集」 栃木の病院でリハビリに励むマサ斎藤(マサ斉藤)=2016年12月31日

<復刻版・2017年1月18日付の東京オリンピック(五輪)特集>

 プロレス界のレジェンドで1964年東京五輪レスリングヘビー級代表としても活躍したマサ斎藤さんが14日に死去した。75歳だった。

 引退した99年ごろに難病のパーキンソン病を発症。懸命のリハビリと闘病生活を長く続けていた。日刊スポーツでは2017年1月18日付けの東京五輪特集で、病と闘いながらも前向きな姿勢を失わない斎藤さんの姿を取り上げていました。

                      ◇   ◇   ◇   ◇

 日米プロレス界のレジェンドで、1964年東京五輪レスリングヘビー級代表のマサ斎藤(74)が、2020年東京五輪を励みに懸命の闘病を続けている。引退した99年ごろに難病のパーキンソン病を発症。リハビリを休めば体の自由はさらに奪われる。だが、「GO FOR BROKE(当たって砕けろ)」の信条は失っていない。戦い続けてきた男の激動の半生、根底にある五輪への思いに迫った。【取材・構成=奥山将志】

 栃木県内のリハビリ病院にいる斎藤を訪ねたのは、昨年大みそかの午後1時だった。現役時代、はち切れんばかりに鍛え上げられていた体は小さくなり、体重は120キロから70キロまで落ちた。74歳。白髪交じりの頭に、背中も少し丸まっていた。だが、あいさつした記者を車いすから見上げた目は、戦いの中にいる男のそれだった。

 病は急に襲ってきた。99年、56歳でリングに別れを告げたころ、少しずつ体に異変が起きていた。ろれつが回りにくくなり、顎が細かく左右に震え始めた。1年以上も国内外の病院を転々とした結果、パーキンソン病だと分かった。原因は現役時代に蓄積された脳へのダメージ。暴飲暴食、リングに上がり続けるために飲んでいた強い鎮痛剤も関連していると言われた。ゴールのない、壮絶な戦いが始まった。

 16年がたった現在、進行は「末期」に入っている。1日に数回襲ってくる発作が始まれば、全身の震えが治まるまでじっと待つしかない。1回1時間のリハビリを1日に3回。365日、少しでも怠れば体の自由はさらに奪われる。何度も絶望し、何度も自分の運命を恨んだ。だが、逃げることは許されない。

 午後2時-。歩行、スクワットのリハビリを歯を食いしばって乗り越えた斎藤に、胸の内を聞いた。震える顎を自らの手で固定するように押さえ、息を整える。ゆっくりと、一言一言を紡ぐように言った。「パーキンソンは恐ろしい病気だ。だが、俺はこうして戦っている。絶対に負けるもんかと。こいつをやっつけないと、俺は生きていけないんだ」。 

  戦い続けてきた。明大4年時の1964年に東京五輪に出場。コーチからは4年後のメキシコ五輪を目指すことも打診されたが、65年に馬場、猪木らがいる日本プロレスに入団した。五輪出場選手のプロレス転向第1号だった。翌66年に東京プロレスの旗揚げに参加するも、すぐに経営難に陥り、米国に活躍の場を求めた。後ろ盾など一切ない。わずかな荷物を手に、1人で海を渡った。

 日系人が日本人を演じ、ヒールとして活躍していた時代。確かな技術と、「元オリンピアン」という肩書は米国でうけた。「俺は東京五輪のレスリング日本代表だ。一番強いんだ」。現地のプロモーターに自らを売り込んだ。スター選手だったキンジ渋谷のタッグパートナーに抜てきされると、サンフランシスコ、ロサンゼルスを中心に大ブレーク。

 その後もNWA、WWF(現WWE)、AWAと3大メジャー団体を転戦し、全米にその名をとどろかせた。日本でも猪木との「巌流島の戦い」など数々の伝説を残し、99年に引退。だが、斎藤の屈強な体に病が迫っていた。

 解説を務めていたテレビ局関係者からの一言が最初だった。「もう少し、はっきりと話してもらえませんか」。斎藤自身も身に覚えがあった。倫子(みちこ)夫人を呼び「なあミチ、僕の顎、少し震えていない?」と聞いた。医師から診断が告げられると、華やかな現役生活から一転、谷底へ突き落とされたような気分だった。「何で俺だけが、こんな目に遭わないといけないんだ」-。自らの運命を恨んだ。

 顎が震え始めると、拳でゴツンゴツンと何度も殴りつけた。ぶつける場所のない怒り。そんな日々が何年も続いた。13年11月には恐れていた「転倒」も始まった。つえ、車いすがないと生活ができなくなり、その後は、薬の副作用による幻覚にも苦しんだ。倫子夫人は「人生を諦めたように表情がなくなっていった。気持ちが前を向かないから、リハビリも続かない。五輪にまで出たファイティングスピリットが燃え尽きてしまったのかなと思うと、本当につらかった」。夫婦仲も壊れかけていた。

 だが、そんな暗やみに一筋の光が差した。13年9月、20年の東京五輪開催が決まった。斎藤にとって2度目となる日本での夏季五輪。胸に熱いものがこみ上げた。「僕は、2020年に絶対にカムバックするよ」。倫子夫人に言った。久しぶりの力強い言葉だった。

 昨年12月、斎藤は17年ぶりにリングに立った。旧知のプロレス関係者の計らいで大阪で斎藤を応援する小さな興行が開かれた。ファンに姿が見えない、リングぎりぎりまで車いすで近づいた。だが、そこからは「レスラー・マサ斎藤」だった。入場曲が鳴り響くと、すっと立ち上がり、自らの足でロープをくぐる。用意されたいすに座ることなくファンの声援に手を挙げて応えた。乱入した武藤敬司の猛攻を受け切ると、チョップから踏みつけ攻撃4連発。斎藤の状況を知るすべての関係者が驚いた。

 試合の前夜、斎藤は言った。「俺も普通の人みたいに、町を歩きたいんだ。絶対に歩いてみせる」。心の叫びだった。倫子夫人は涙が止まらなかった。東京五輪、プロレスのリング。斎藤の戦いのスイッチが入った。これまで以上にリハビリに熱が入り、担当する大柄な理学療法士を相手にした“スパーリング”も始めた。体1つで世界の頂点に駆け上がった男が、再び前を向いた。

 五輪-。昔話を聞いていると、突然昨今のスポーツ界にかみついた。矛先は試合後の選手がよく口にする「エンジョイできました」というフレーズだ。「エンジョイの意味を分かっているのか。試合でエンジョイ? 勝負だよ。エンジョイは結果を出したやつが使う言葉だ」。勝つことで未来を切り開いてきた男の自負がにじみ出た。

 約1時間の取材を終えた。感謝の意を伝え、記者がいすから立ち上がろうとした時だった。斎藤から質問が飛んだ。「今、何年だ?」。「明日から、2017年です」。それを聞くと、視線を下げ、ゆっくりと指を折って数え始めた。「18、19、20…」「もつな」。わずかにほおが緩んだ。

※敬称、年齢などは当時のものです

長州力(中央)はマサ斎藤(マサ斉藤=左)、永島専務とともに総合格闘技イベント「X−1」開催の発表をした(03年7月10日)
90年2月、AWA世界ヘビー級選手権でラリー・ズビスコを破り念願のタイトルを獲得したマサ斎藤

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猪木と巌流島、ホーガンと抗争/マサ斎藤さん略歴

巌流島決戦 アントニオ猪木対マサ斎藤 マサ斎藤(右)はアントニオ猪木の右腕を決める(87年10月4日)

 日米プロレス界のレジェンドで、1964年東京五輪レスリングヘビー級代表としても活躍したマサ斎藤さんが14日に死去した。健介オフィスが16日、発表した。75歳だった。

 マサ斎藤さんは引退した99年ごろに難病のパーキンソン病を発症。懸命のリハビリと闘病生活を長く続けていた。

 マサ斎藤さんの略歴は次のとおり。

 ◆明大出身 本名は斎藤昌典。1942年(昭17)8月7日、東京都北区生まれ。

 ◆レジェンド 65年6月、日本プロレスでデビュー。67年に渡米し、長期にわたり米国で成功を収めた。獲得タイトルはWWFタッグ王座、AWA世界ヘビー級王座など多数。得意技は自身で考案したひねりを入れたジャーマンスープレックス、監獄固め。

 ◆巌流島の戦い 87年10月、山口の「巌流島」で行われたアントニオ猪木との時間無制限ノーレフェリー、ノールール、無観客マッチ。2時間5分14秒の死闘の末、立会人裁定で敗れた。

 ◆発掘&指導 ビッグバン・ベイダー、スコット・ノートン、ドン・フライらを見いだす。05年に佐々木健介、北斗晶が立ち上げた団体では、全日本3冠ヘビー級王者宮原健斗、ノアのマサ北宮らを育成した。

 ◆逸話 熊と戦ったことがある。ホーガンとの抗争で人気が爆発し、米国で「ミスター サイトー」というカクテルができた。84年に同僚レスラーの警察官とのけんかに巻き込まれ、1年半、米国で収監された。2ダース以上ビールを飲み、特大サイズのピザを2枚食べるのが日課だった。

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マサ斎藤さん死去、猪木と「巌流島決戦」75歳

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 日米プロレス界のレジェンドで、1964年東京五輪レスリングヘビー級代表としても活躍したマサ斎藤さんが14日に死去した。健介オフィスが16日、発表した。75歳だった。

 引退した99年ごろに難病のパーキンソン病を発症。懸命のリハビリと闘病生活を長く続けていた。

 87年10月、山口の「巌流島」で行われたアントニオ猪木との時間無制限ノーレフェリー、ノールール、無観客マッチ。2時間5分14秒の死闘の末、立会人裁定で敗れた「巌流島決戦」は今もプロレスファンの語り草となっている。

アントニオ猪木対マサ斎藤 マサ斎藤(左)はアントニオ猪木を締め上げる=1987年10月4日

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