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ハンセン氏 輪島さん悼む「のど輪強烈だった」

87年4月、スタン・ハンセン(右)にコブラツイストを決める輪島さん

全日本プロレスの元3冠ヘビー級王者スタン・ハンセン氏(69)が9日(日本時間10日)、米コロラドの自宅で、全日本時代に激闘を繰り広げた輪島さんを悼んだ。

「悲しいね。同年代だから…。新日本プロレス時代にテレビで大相撲の輪島さんを見たんだ。とにかく強かったよ。まさか、その横綱と対戦することになろうとは。運命の出会いだった。遅いプロレス転向だったけど、パワーあふれる左腕を有効に使ったチョップと、のど輪は強烈だった。相撲時代からの足腰の強さはものすごく、気迫の突進でスモウタックルも素晴らしかった。一生懸命の戦いで、こちらも思わず力が入ったことを思い出すよ。とにかく偉大な人だった。もう1度お会いしたかったのに」と、しみじみと話した。

ハンセン氏は輪島さんと、87年4月に米国でPWFヘビー級王座決定戦を行うなど、何度も戦った。

87年4月、全日本PWFヘビー級選手権でスタン・ハンセン(右)にゴールデン・アームボンバーを決める輪島さん

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野村直矢、青柳優馬組がアジアタッグ2度目の防衛

野村直矢

<全日本:後楽園大会>◇10日◇東京・後楽園ホール

アジアタッグ選手権は、野村直矢、青柳優馬の王者組が、大森隆男、ブラックめんそーれの挑戦者組を破り、2度目の防衛を果たした。

ブラックめんそーれの予想以上の奮闘もあり、拮抗(きっこう)した試合展開となった。しかし、大森、ブラックにつかまった野村が、ロープに飛ばされながら大森にカウンターのタックルを見舞い状況は一変。リズムをつかんだ王者組が、大森組を追い詰め、最後は野村がブラックにマキシマムを決め勝利した。

野村は、アジアタッグ王座に執念を燃やす大森に対し「今日は大森さんから直接取れれば納得したが、取れなかった。本人も納得していないと思う。今度挑戦してきたら、大森さんの息の根を止めてやりますよ」と豪語した。一方、青柳は「オレたちはここで止まっていられない。アジアチャンピンとして最強タッグを取りにいきます」と宣言していた。

青柳優馬

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近藤修司が初防衛「ベルト取りに来い」次に岩本指名

<全日本:後楽園大会>◇10日◇後楽園ホール

世界ジュニアヘビー選手権は、王者近藤修司(W-1)が挑戦者の佐藤光留を退け、初防衛に成功した。

近藤は、痛めている右肘を徹底して狙われる苦しい展開。佐藤のキックに加え、腕ひしぎ逆十字固めを何度も掛けられた。悲鳴を上げながらも耐えた近藤は、持ち味のパワーで佐藤の体を何度もマットにたたきつけた。最後は右腕から放ったキングコングラリアットで佐藤を1回転させ、死闘に決着をつけた。

近藤は「戦前から削り合いだと言ったけど、右肘の内側(靱帯=じんたい)は試合前から伸びていた。世界ジュニアでそんな言い訳はできない。世界ジュニアを取ってから、オレはベルトにも全日本にも誇りを持っている。でも、自分で自覚を持って、このベルトを巻かなきゃいけない人間がいるんじゃないの? 岩本(煌史)、お前が自覚もってやるなら、オレのベルトを取りに来い!」と、前王者の岩本を次期挑戦者に指名した。

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渕正信「豪快な人」全日で輪島さん追悼10カウント

全日本プロレス後楽園大会で輪島さんの追悼セレモニーが行われ、リング上で輪島さんの遺影を抱く渕正信

全日本プロレスは10日、後楽園大会で8日に亡くなった故輪島大士さん(享年70)の追悼セレモニーを行った。

試合開始前に、全選手、スタッフがリングを囲み、遺影を持った渕正信がリング中央に立った。場内スクリーンに輪島さんの全日本時代の姿が映し出され、観客と一緒に黙とうと追悼の10カウントのゴングが鳴らされた。

デビュー前にスパーリングパートナーを務めたという渕は「昭和の大横綱だったのに、偉ぶったところはなく、プロレスで一からやり直す覚悟があった。先輩から散々投げられて、慣れない受け身の練習を繰り返す姿に、胸を打たれた。よく一緒に飲みに連れて行ってもらって、明るい豪快な人だった」と話した。名誉レフェリーの和田京平さんは「プロレスをメジャーにしてくれた立役者。入団させた馬場さんが、知名度の高さに驚いていたほど。横綱が来ただけで、日本テレビがゴールデンタイムにスペシャル番組を放送してくれた。話をすると、自分の世界に入っちゃって、なかなかかみ合わない。それで、最後は笑っちゃう。底抜けに明るくて、真っすぐな人だった。みんなに好かれていて、悪く言う人はだれもいなかった」と故人を偲んでいた。

全日本プロレスの後楽園大会で輪島さんの追悼セレモニーが行われ、10カウントで黙とうする秋山準社長

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輪島さん 借金、親方廃業、「大事件」プロレス入り

86年11月、全日本七尾大会で国内マットでのデビュー戦を故郷で迎えた輪島さん(右)はタイガー・ジェット・シンをコーナーに追い詰める

輪島大士さんは、大相撲の横綱として史上2人目のプロレスラー転身を果たした。年寄名跡を借金の担保に入れたことが発覚して角界を廃業し、86年に鳴り物入りで全日本プロレスに入門。特別待遇の英才教育を受けデビューした。絶大な知名度でテレビの視聴率、地方興行の集客と話題を集めたが大きな実績を残せず、3年足らずで引退した。

大相撲で一時代を築いた名横綱のプロレス入りは、一大事件だった。85年12月に廃業。アントニオ猪木率いる新日本プロレスと激しい興行戦争を展開していたジャイアント馬場が、集客の目玉として輪島さんをスカウトした。日刊スポーツは輪島さんの全日本入りを86年4月8日付の1面スクープとして伝えた。輪島さんのプロレス転向をきっかけに、日刊スポーツにまるまる1枚のプロレス面がスタートした。

輪島さんは馬場から特別待遇で迎えられた。ジャンボ鶴田や天龍ら、当時のトップレスラーにコーチ役を頼まず、いきなりハワイで練習。初代AWA世界ヘビー級王者のパット・オコーナーの指導を受け、馬場とタッグ戦で米国でデビューを飾った。当時、日本でスパーリングのパートナーを務めた渕正信は「38歳がスタートだったから、米国で涙の出るような練習をしたと聞いた。『渕君、オレにはこれ(プロレス)しかないから、1年、2年(練習を)しっかりやるよ』と明るく話していた」と言う。

米国での集中特訓で腹をへこませ、背筋を鍛えた。大相撲時代ののど輪をヒントにゴールデン・アームボンバーを開発。リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座挑戦や、スタン・ハンセンとPWF世界ヘビー級王座決定戦を行うなど実績を積んだ。帰国後、全日本デビュー戦のテレビ視聴率は20%を超えた。地方興行も常に大入り、タイトル獲得はなかったがプロレス入りの反響は絶大だった。

全日本には天龍を始め、角界出身の先輩がいたが、輪島さんは横綱のプライドを捨てて、溶け込もうと努力した。角界出身のグレート小鹿は「オレは相撲界に3年しかいなかったけど、オレのことを先輩と言ってくれた。気さくで、人懐っこい人だった」と話す。天龍との試合では、靴ひもの跡が顔につくほど蹴られたが、それもプロレス界で一流になってほしいという、天龍の愛情からだった。

88年12月に、輪島さんはひっそりと引退した。引退発表も引退試合もなかった。膝や首など、約3年間のプロレス生活で体はボロボロになっていた。「プロレスの世界ではチャンスに恵まれず、自分の道を歩けなかった。でも、まだ70歳でしょ。ちょっと早いよ」と小鹿は残念がった。【桝田朗】

85年12月、廃業を発表した輪島さん

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輪島さん死去 波瀾万丈の70年、最期はひっそり

81年1月、初場所で雲竜型で土俵入りをする輪島さん

「黄金の左」と呼ばれた型破りな元横綱が逝った。第54代横綱でプロレスラーにもなった輪島大士さん(本名輪島博)が8日午後8時、東京・世田谷区の自宅で亡くなった。70歳。死因は下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱だった。日大からプロ入りして学生出身では初の横綱に昇進し、左下手投げを得意に歴代7位の14度優勝。年寄名跡を借金の担保にして廃業後、全日本のプロレスラーでも活躍した。土俵の内外で自由奔放な個性的な横綱だった。葬儀・告別式は未定で、喪主は妻の留美(るみ)さんが務める。

輪島さんは4年前に引っ越した世田谷区の自宅で亡くなった。近所の住民によると、前日深夜に自宅へ救急車、パトカー、消防車が相次いで到着したという。以前は1人でよく散歩し、顔を合わすとしゃべる代わりに肩をたたいたり、手をたたいて、気さくにあいさつされたそうだ。1年前から散歩に出なくなったが、3日前にはつえをついてデイサービスの車に乗る姿を見たという。

13年に咽頭がんの手術を受けた後は声が出ないこともあり、公の場に出ることは減った。遠縁の輝が所属する高田川部屋の稽古を定期的に訪れていたが、今年はなし。そのほかは、日大の後輩である境川親方(元小結両国)の弟子の挙式に出席する程度。角界だけでなくプロレス、日大などの関係者とも疎遠となり、一時代を築いた横綱はひっそりとこの世を去った。

幕下での初土俵には日大応援団まで駆けつけた。「蔵前の星」と期待されるも、たたき上げから「学生さん」と見下された。大成しないと言われた学生相撲から、初めてで唯一の横綱昇進でジンクスを打破した。

得意は左四つからの下手投げ。右の絞りが強かった。これも大成しないと言われたが、角界では異端のランニングも重視し、安定した下半身を作った。大型化が始まった時代で昇進時は120キロ。下半身の瞬発力に天性のタイミングで、このジンクスも打破した。

北の湖とは44度対戦した。74年名古屋場所で逆転優勝したが、北の湖も横綱に昇進した。ここから「輪湖時代」と呼ばれて毎場所賜杯を争った。75年に腰痛などで3場所連続休場し、気分一新に締め込みを金色に替えた。カラー化時代の先駆けで「黄金の左」が代名詞に。レスラー時代も同系色の黄色いパンツがトレードマークだった。

81年春場所で連敗すると現役を引退した。花籠部屋を継いだが、年寄名跡を借金の担保にしていたことで大騒動に発展。親方は4年半で廃業し、86年にはプロレスラーに転身した。馬場社長にかわいがられたが、約3年で2度目の引退となった。

日大相撲部で1学年上に頭の上がらない現日大田中理事長がいた。大学3年時に決勝で破って学生横綱になると、当時の理事長にプロを勧められた。日大からは66人が入門して51人が関取に。その道筋をつけ、燦然(さんぜん)と輝く第1号。型破りで奔放な性格と言動で一世を風靡(ふうび)した昭和の横綱は、波瀾(はらん)万丈の人生を送った。今年は騒動続きの日大にあって大スターだった横綱が旅立った。

◆輪島大士(わじま・ひろし)本名輪島博。1948年(昭23)1月11日、石川県七尾市生まれ。金沢高で相撲を始め、日大で2年連続学生横綱など14タイトル。花籠部屋に入門し70年初場所幕下尻付け出し初土俵。連続全勝優勝で夏場所新十両、71年初場所に新入幕。72年初優勝、秋場所後に大関昇進。73年夏場所後に54代横綱昇進。優勝14回、三賞5回。現役時185センチ、125キロで、得意は左四つ、下手投げ、寄り。81年春に引退して花籠部屋継承も85年に年寄名跡担保問題で退職。86年プロレスラー転向し、88年引退後アメリカンフットボールの学生援護会総監督やタレント活動も、13年に咽頭がん手術を受けた。

87年4月、全日本PWFヘビー級選手権でスタン・ハンセン(右)にゴールデン・アームボンバーを決める輪島さん
16年2月、豊響の挙式・披露宴に出席した輪島さん

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宿敵他界から3年…輪島さん「輪湖時代は私の誇り」

76年9月、優勝額贈呈式で互いの健闘を誓い合う輪島さん(左)と北の湖さん

70歳で死去した輪島大士さんは、横綱北の湖と「輪湖(りんこ)時代」を築いた。対戦成績は輪島さんの23勝21敗。横綱を務めた73年から81年は北の湖の全盛期と重なり、2人の熱戦は昭和の相撲史を色濃く彩った。

輪島と北の湖。左の相四つでがっぷりと胸を合わせての力比べは、最高の見せ場だった。72年名古屋の初対戦から、13度目の対戦となった74年名古屋場所。輪島が1人横綱で大関北の湖を1差で追っていた。千秋楽に本割、優勝決定戦とも輪島が下手投げで連勝して逆転優勝した。場所後に北の湖が横綱に昇進して輪湖時代が始まった。

76、77年の12場所はすべて千秋楽結びで対戦して両者とも5度優勝。通算22場所あり、相星4度を含めて8度がともに優勝圏内で対戦。水入りが3度あった。決定戦を含めず輪島が通算23勝21敗だった。

後に日本相撲協会の理事長になった北の湖親方は生前「常に輪島さんとの一番を意識していた。絶対に負けられんぞと気合が入ったものだ」と明かしていた。

レスラー時代の全日本プロは国技館から締め出され、疎遠になっていた。それでも20年ほど前にサウナで会って以来、北の湖理事長から番付が送られるようになり、輪島さんは全て大事に保管していたという。09年初場所のNHK中継にゲストで23年ぶりで本場所観戦した。13年がんが判明した後、15年には雑誌の対談で両雄が再会した。「輪湖時代は私の誇り」と話していた。

15年11月に北の湖理事長が死去した際には、声が出ないために文書でコメントを寄せた。「お互いに病気と闘っていたが、先に逝かれて寂しい」「(北の湖は)運動神経が抜群だった。1度掛けた技は2度は通用せず、頭のいい力士だった」「俺はもう少し頑張る。よく頑張ったね、お疲れさまと言いたい」。あれから3年。輪湖はともに旅立った。

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貴景勝「相撲磨くだけ」隆の勝「心の準備出来てる」

全日本力士選士権で2回戦で敗退し引き揚げる貴景勝(撮影・小沢裕)

貴乃花親方(46=元横綱)が1日、日本相撲協会を退職することが決まった。東京・両国国技館で行われた臨時理事会で、退職届と貴乃花部屋の力士8人、床山、世話人の計10人の千賀ノ浦部屋への所属先変更願について審議され、満場一致で受理され、貴乃花部屋は消滅した。

全日本力士選士権で2回戦敗退の貴景勝は「(理事会決定は)分かっていること。区切りも何もない。昨日話した通りです」と言葉少なだった。前日、師匠への思いをたっぷり吐露。この日の両国国技館では最後になるであろう「貴乃花部屋」の場内アナウンスにも「細かいことは気にしない。相撲を磨くだけ」。受け入れる千賀ノ浦部屋ただ1人の関取で平幕の隆の勝は「刺激し合っていければいい。みんな心の準備は出来てます」と話した。

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阿武咲「緊張した。特別な思い」稀勢の里破り初優勝

全日本力士選士権で初優勝を飾り選士権章を腕に巻く阿武咲(撮影・小沢裕)

<第77回全日本力士選士権>◇1日◇両国国技館

トーナメントで争われる第77回全日本力士選士権が1日、東京・両国国技館で開かれ決勝で平幕の阿武咲(22=阿武松)が、3連覇を狙った横綱稀勢の里(32=田子ノ浦)を押し出しで破り初優勝した。直前の場所で平幕だった力士の優勝は65回大会の安馬(のち横綱日馬富士)以来4人目。

師匠の阿武松審判部長(元関脇益荒雄)から優勝の表彰状を授与された阿武咲は「(今年夏場所の)十両優勝に続いて2回目。緊張しました」と笑った。4勝11敗に終わった秋場所の鬱憤(うっぷん)を晴らしたが「決勝が稀勢関で特別な思いだった。でも(好成績は)本場所でないと意味がない」とも。助言を受けてきた貴乃花親方の退職には「いい相撲を取るのが一番の恩返し」と話した。

全日本力士選士権の決勝で阿武咲(左)に寄り切りで敗れ3連覇を逃した稀勢の里(撮影・小沢裕)

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全日黄金期築いた田上明氏、胃の全摘手術受けていた

川田利明プロデュースの大会で、川田(右)とのトークバトルに参戦したかつての盟友田上明氏

全日本プロレスで活躍したレジェンド、川田利明(54)がプロデュースするプロレス興行「FOLY WAR」新宿大会が1日、新宿FACEで行われ、全日本の四天王時代の盟友・田上明氏(57)が参戦した。

2人は、第4試合のトークバトルで“対戦”。近況は、全日本時代の思い出に花を咲かせた。2人は、川田が天龍源一郎の元で、田上がジャンボ鶴田の軍団に属し敵対関係にあったが、その後タッグも組み、三沢光晴、小橋建太と全日本の四天王として黄金期を築いた。

タッグパートナーとして川田は「組むようになって随分楽だった。気を使わないで、自分の自由に戦えた」と振り返った。これに対し田上は「オレは気を使ったよ」と返し、会場は大爆笑。2000年、全日本から三沢、田上らが大量離脱した際には、田上が川田に電話して、一緒に移籍するように勧めたという裏話も披露。川田は「あのとき電話をくれたのは田上さんだけ」となつかしんだ。

川田はラーメン店、田上はステーキ居酒屋を経営し、お互いの店を行き来する仲だという。川田は、4月に胃がんのため胃の全摘手術を受けたという田上に対し「いい飲み友だちだから、しっかり健康管理して、タバコもやめてください」と気遣っていた。

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選士権優勝の阿武咲、貴乃花へ「いい相撲が恩返し」

全日本力士選士権相撲選抜戦の決勝で阿武咲(左)に寄り切りで敗れ3連覇を逃した稀勢の里(撮影・小沢裕)

<第77回全日本力士選士権>◇1日◇両国国技館

トーナメントで争われる大会の幕内決勝は、秋場所で西前頭6枚目の阿武咲(22=阿武松)が、3連覇を狙った横綱稀勢の里(32=田子ノ浦)を押し出しで破り、初優勝した。

直前の場所で平幕だった力士の優勝は、65回大会の安馬(のち横綱日馬富士)以来、12年ぶり4人目。鶴竜(33=井筒)、白鵬(33=宮城野)の両横綱は、ともに1回戦で敗退した。

優勝した阿武咲は、決勝の相手が稀勢の里だったことに「稀勢関でしたからね。本場所ではないけど、特別な思いがありました。まあ、本場所で(対戦)しないと意味がないけど」と感慨深げに話した。本場所前には、よく横綱自ら阿武松部屋に出稽古し、荒々しい相撲で稽古をつけてもらった。そのあこがれの横綱に、番付の昇降に影響しない花相撲ではあるが、恩返ししたわけだ。

それも立ち合い、右で張って左もかち上げ気味と、本場所さながらの取り口。それまでの稀勢の里の相撲を見て「ずっと受けている感じだったから、いきなりでビックリした。あの張り差しはけっこうクリーンヒットで一瞬、見えなかった」と面食らった。それでも「あとは左を差されないようにと。稽古をしているみたいで楽しくて、ずっと土俵にいたかった」と異空間を楽しんだ。

表彰式では、師匠で審判部長の阿武松親方(元関脇益荒雄)から、優勝の表彰状を授与された。「(今年夏場所の)十両優勝に続いて2回目。緊張しました」と笑み。4勝11敗に終わった秋場所の鬱憤(うっぷん)を晴らしたが「でも(好成績は)本場所でないと意味がない」。5月までは同門の総帥として、事あるごとに言を受けてきた貴乃花親方(元横綱)の退職には「ずっと稽古を見ていただいて、教えていただいた。相撲にどれだけ真っすぐ取り組むか。そこをしっかり考えてやりたい。いい相撲を取るのが一番の恩返し」と話した。

全日本力士選士権相撲選抜戦で初優勝を飾り選士権章を腕に巻く阿武咲(撮影・小沢裕)

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稀勢の里「いい稽古」力士選士権3連覇逃すも充実

決勝で阿武咲(左)に寄り切りで敗れ3連覇を逃した稀勢の里(撮影・小沢裕)

<第77回全日本力士選士権>◇1日◇両国国技館

秋場所を9場所ぶりに皆勤した横綱稀勢の里(32=田子ノ浦)が、3連覇を逃した。

初戦から順当に勝ち進んでいき、決勝で平幕の阿武咲と対戦。秋場所前には出稽古に行き、復活の足がかりとして胸を合わせた相手に、寄り切りで負けて優勝を譲った。「花相撲だけど全力で来ますからね。稽古といったらおかしいけど、いい稽古かなと思います」と、敗れはしたが充実した表情を浮かべた。

秋場所後は、体を休めながらも体を動かしていたといい、3日から始まる秋巡業も初日から参加する。「また基本からやって最後までしっかりやりたい。よりよくするために」と話した。

秋場所は10勝5敗。優勝争いに絡めなかったからこそ「しっかり上で戦えるようにしたいですね」と、九州場所(11月11日、福岡国際センター)では優勝争いに加われるように、秋巡業で準備を整える。

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貴乃花アナウンスラスト?に貴景勝「細かいこと」

貴景勝(17年12月撮影)

<第77回全日本力士選士権>◇1日◇両国国技館

関取衆でただ一人、貴乃花部屋から出場している小結貴景勝(22)は、2回戦で敗れた。初戦は千代大龍(29=九重)を突き落としで破ったが、2回戦は竜電(27=高田川)に寄り切りで敗れた。

前日9月30日、幕内取組で出場した横綱日馬富士引退相撲で両国国技館を訪れた際、報道陣に「入門した頃から師匠に教えていただいたことを全部、思い出しながら実践したい」「相撲で活躍することで何よりの恩返しにしたい」「心の中では貴乃花親方の根本的な考え方を忘れず、しっかり自分の幹にたたき込んで行こうと思う」などと貴乃花親方(元横綱)や慣れ親しんだ部屋に対する惜別の念などを語っていた。

この日は臨時理事会で、正式に部屋の消滅が決定。それは形式上のことととらえてか「それは分かっていることで、区切りも何もない。きのう話した通りです」と特別な反応は示さなかった。

この日の臨時理事会は午後1時から始まり、30分あまりで終了。貴乃花部屋の消滅が決まった。貴景勝の1回戦の取組は、それから約1時間後だったが、取組前の場内アナウンスの力士紹介は「西方、貴景勝。兵庫県出身、貴乃花部屋」と、部屋名は秋場所のままだった。2回戦以降は、東西の出方としこ名だけのアナウンス。3日から秋巡業が始まるが、力士紹介で「貴乃花部屋」がアナウンスされるのは、この日が最後になるかもしれない。それにも「そんな細かいことは気にしていません。今まで通り、相撲を頑張って磨いていくだけです」と話して引き揚げた。

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貴乃花部屋アナウンスは最後?貴景勝が選士権出場

<第77回全日本力士選士権>◇1日◇東京・両国国技館

関取衆でただ一人、貴乃花部屋から出場している小結貴景勝(22)が、千代大龍(29=九重)を突き落としで破り、1回戦を突破した。

この日午後1時から理事会が開かれ、30分あまりで終了。貴乃花部屋の消滅が決まった。貴景勝の取組は、それから約1時間後だったが、取組前の場内アナウンスの力士紹介は「西方、貴景勝。兵庫県出身、貴乃花部屋」と、部屋名は秋場所のままだった。

3日から秋巡業が始まるが、力士紹介で「貴乃花部屋」がアナウンスされるのは、この日が最後になるかもしれない。

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警察官ボクサー杉田4連勝「タイトルを」2回TKO

デビュー4連勝でインタビューを受ける警察官ボクサー杉田ダイスケ

<プロボクシング:58・5キロ契約ノンタイトル8回戦>◇26日◇東京・後楽園ホール

警察官プロボクサーの杉田ダイスケ(29=ワタナベ)がデビュー4連勝(3KO)を飾った。2勝1敗のソムポート・シーサ(19=タイ)を相手に、2回に右ボディーを効かせた。さらに右フックでひざまずかせて先制のダウンを奪った。立ち上がってきたところに連打で2度目のダウン。これも立ち上がってきたが、右フックで3度目のダウンを奪ってレフェリーストップ。2回1分46秒TKO勝ちした。

東農大出身で、警察官になっても現役を続け、全日本社会人で連覇した。「仕事を第一に、余暇を使って強い警察官を体現したい」と4月にプロデビューした。「今日もあがることなく、場数を踏めてよかった。盛り上がる試合をしたかった」とTKO勝ちに笑み。半年で4試合目と精力的に試合をこなす。まだ日本ランクにも入っていないが「次は海外で試合ができるかもしれない。タイトルをとりたい」と意欲満々だった。

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K1武居由樹が特別ゲスト、地元足立区で武道フェス

武居由樹(C)M-1 Sports Media

K-1スーパー・バンタム級王者の武居由樹(22)が10月8日、地元の足立区・東京武道館で行われる「武道・スポーツフェスティバル2018」に、特別ゲストとして出演する。

午後0時10分から大武道場特別ステージ、同2時から玄関前広場でミット打ちを披露するもので、同2時30分からは一般来場者を対象としたミット打ち体験も無料で実施される。

武居のほか、アテネ五輪柔道90キロ級銀メダリストの泉浩さん、シドニーパラリンピック800メートル銀メダリストでプロ車いすランナーの広道純さん、全日本少年少女空手道選手権大会6連覇の高野万優、サッカー日本代表本田圭佑のモノマネでおなじみのじゅんいちダビットソンもゲスト出演する。

同イベントの詳しい情報は、https://www.tef.or.jp/tb/topics_01.jsp?id=273685へ。

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山本KIDさん胃がん死だった 戦う魂は美憂に託す

山本“KID”徳郁さん

プロ格闘家でK-1、HERO's、UFCなどで活躍した日本を代表するファイター、山本“KID”徳郁さん(本名岡部徳郁=おかべ・のりふみ、旧姓山本=KRAZY BEE)が18日、胃がんのため療養中のグアムの病院で亡くなった。41歳だった。姉で同じくレスリングから転向した美憂(44=同)と一緒に、RIZINで戦うことを目標に病と闘っていた。美憂は30日のRIZINさいたまスーパーアリーナ大会に、故人の遺志を継いで出場する。

総合格闘技界の巨星が、この世を去った。KIDさんがインスタグラムでがん闘病を公表したのは、先月の26日のことだった。それから、1カ月もたたないうちの悲報。41歳。あまりにも若すぎる死に、格闘技界に衝撃が走った。

KIDさんの看病のため、練習拠点を5月からグアムに移していた姉の美憂は、7月のRIZINインタビューでKIDさんのことを語っていた。闘病中のKIDさんのことを考え、7月29日のRIZINさいたまスーパーアリーナ大会欠場の意思を伝えると、KIDさんは「やっぱり出ないとダメ。ここで勝ち癖つけないとだめだよ。絶対勝てるから」と、病床からメールで出場を勧められたという。

美憂は「ノリは、自分が必ず生きてリングに上がること。『美憂と一緒にRIZINに出たい』と言ってくれた。絶対、有言実行だから、うちの弟は」と気丈に答えていた。父、姉、妹とレスリング一家の中で、常に家族に元気を与える強さの象徴が、KIDさんだった。

レスリングで00年シドニーオリンピック(五輪)を目指したが99年の全日本選手権で準優勝に終わり、プロ転向を決意した。K-1、HERO's、DREAMなどで活躍。「KID」の愛称の通り、60キロそこそこの体で、70キロ近い階級で戦い、相手をバタバタとKOして名を上げた。そんなKIDさんも、00年代終盤から大きな故障が相次ぎ、戦績が下降線をたどった。UFCに挑戦した12年以降は欠場が続き、実戦から遠ざかっていた。

それでも美憂がRIZIN参戦を表明した16年8月以降は、東京・馬込のKRAZY BEEジムで姉のトレーニングを見守った。美憂に向けるKIDさんの表情は優しかった。美憂が練習中は、美憂の子どもの相手をし、大会の際はセコンドにも入った。姉や、姉の長男アーセンの戦いぶりを見ながら、再びRIZINのリングに立つことを思い描いていた。

KIDさんが亡くなった後、美憂は30日に開催が迫るRIZINスーパーアリーナ大会への出場意思を、あらためてRIZINに伝えたという。KIDさんの闘う魂は、姉の美憂に引き継がれた。

◆山本“KID”徳郁(やまもと“きっど”のりふみ)1977年(昭52)3月15日、川崎市生まれ。72年ミュンヘン五輪レスリング日本代表の父郁栄氏の手ほどきで幼少からレスリングを始め、姉美憂、妹聖子は元世界選手権王者。シドニー五輪を目指した99年全日本選手権フリー58キロ級で2位。01年に修斗でプロ格闘家デビュー。04年にK-1MAX参戦、同年大みそかに魔裟斗からダウンを奪った。05年にHERO'sミドル級王座を獲得。09年からDREAM、11年からUFC参戦。KRAZY BEE主宰。163センチ。

16年9月、RENAに敗れ涙を見せる山本美憂(左)に声を掛ける山本“KID”徳郁さん
06年5月、開始4秒で宮田(後方)にKO勝ちし、歓喜のジャンプ

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山本KID、5歳からたたき込まれた勝負魂/復刻版

山本KID徳郁=06年3月31日

格闘家の山本KID徳郁さん(41=KRAZY BEE)が亡くなったことがわかった。アマレスからプロの格闘家として活躍してきた。倒すか、倒されるかの格闘家人生。日刊スポーツでは06年4月23日、そのときの旬の人を紹介する「日曜日のヒーロー」のコーナーでインタビューした。復刻版として振り返る。

今、日本で最も面白い闘いをみせる男だ。山本“KID”徳郁(29=KILLER BEE)。昨年のK-1の総合格闘技イベントHERO’Sでミドル級世界王者に輝いた。倒すか、倒されるか−いちかばちかへのこだわりは、ミュンヘン五輪でメダルを逃した父親郁栄氏(61)譲り。小さな体に備わる動物的な勘や身体能力も、家族があったからこそはぐくまれた。家族関係が希薄になり、子供をめぐる問題が深刻化する現代に、その生きざまはヒントを与えている。

KIDは文字通り、子供を意味する。中学時代、小柄だったからつけられた。5歳から始めたレスリング。今まで自分より小さい選手と戦ったことはない。現在は163センチ、64キロ。主戦場のHERO’Sのリミット体重は70キロだから、減量の必要はないが、前日計量のため常に10キロ以上重い相手と戦っている。

「周りから『小さいのにすごいね』と言われて、あらためて気付かされる。そういえば、自分は小さいのかって。子供のころからずっと、相手の方が大きかったから、それが当たり前。小さいなんて、今まで気にしたこともない」。

体のハンディを全く感じさせない。それが最大の魅力だ。04年2月にK-1デビューすると、瞬く間にスターにのし上がった。04年大みそかの魔裟斗戦では瞬間最高視聴率31・6%をマーク。05年大みそかには須藤元気を倒して、HERO’Sの初代ミドル級世界王者に輝いた。

「K-1に参戦した時から、盛り上げる自信はあった。お客さんがスカッとする試合を、意識せずにできるから。この前、サラリーマンから『あなたの試合を見ると、仕事に張り合いが出る』と言われた。オレが大きい人に立ち向かうことで、仕事へのチャレンジ精神が生まれるなら、戦いがいがある

強いだけでは、ここまで支持されない。激しく、スピーディーな展開。勝つか負けるか。倒すか倒されるか。ただそれだけ。判定勝利は狙わない。試合を引き延ばしたり、勝ちを拾ったりすることは絶対にない。そんなスタイルは、父親によってつくられた。郁栄氏は「疑惑」ともいわれた不利な判定が響いて、メダルを逃した。子供のとき、何度も父親の無念を報じる新聞を見せられた。その悔しさが、自分のことのように感じられるほど、何度も読んだ。

「おやじからは『判定決着はだめだ』としつこいほど言われた。判定では、審判の主観、時には人種の違いなども影響する。勝つならKOか、1本勝ちだと。だから、子供の時に誓った。負けてもいい。白黒はっきりつくまで戦うんだと。今は倒すことしか考えないし、体が勝手に反応しちゃう。無難に勝つことは、オレの中ではあり得ない。だから、コロッと負けることもあるんだけど」。

「心」だけでなく「技」「体」の面でも過酷なほど鍛えられてきた。5歳からレスリング漬けで、正月も誕生日もなかった。

「しょっちゅう、ぶん殴られてた。中学1年でたばこを見つけられた時は、ぐちゃぐちゃにされた。でも、子供はたたかないと分からないでしょ。理不尽なものはいけないけど、意味のある体罰は必要なんじゃないかな。おやじには、殴られたことを感謝してますよ」。

鬼の父親が、仏に変わる瞬間があった。レスリングの試合に勝った時だ。特大の機動戦士ガンダムのプラモデルなど、欲しいものは何でももらえた。勝てば、楽しいことがある。父親の優しい顔も見られる。体に刷り込まれていった。

「祝い事は一切なかったから、試合に勝って、プレゼントをもらうことだけを考えてた。何かを得るためには、勝ち取らなければならない。プロ根性みたいなものが自然と身に付いた。今はおもちゃが賞金に変わっただけで、やっていることは変わらない。プロとしてやっていけてるのは、おやじのおかげかもしれない」。

レスリング一家のサラブレッドだが、格闘人生は決して順風満帆ではなかった。母親の死は、この半生で最大の悲しみだった。99年9月14日、憲子さん(享年51)が亡くなった。やはりレスリング経験者で、審判の資格を持っていた。栄養士の資格も取り、子供たちをサポートしていた。悲報の3日後、全日本大学選手権で優勝した。

「落ちたよ。その時は。でも運命だし、くよくよしても、おふくろは喜ばないから。今はね、上を見れば、いつもいて、オレを見てくれている。だから悪いことできないんだよね。生きてる時は、練習さぼっても分からなかったけど、今は全部見てるから。試合も最高の特等席で見てる。だから負けられない」。

その年の11月、シドニー五輪予選を兼ねた全日本選手権で出場切符を逃し、プロ転向を決意したが、壁に突き当たった。

「自信満々で、総合格闘技の世界に飛び込んだ。みんな倒せると信じてた。だけど、現実は違った。知らない関節技を簡単にきめられたり…。打ちのめされた。悔しくて悔しくて…」。

さいたま市のジムにこもった。1日6時間以上、食事と睡眠以外は汗を流した。当然、金はない。電気も止められた。ろうそくの火を頼りに暮らす極貧生活が、約1年続いた。アマレスで活躍する姉美憂(31)、そして妹聖子(25)の注目度が増す中、1人取り残されたようだった。

「こいつら(ジム仲間)の3倍(練習を)やれば、強くなると思った。とことんまで体をいじめてやろうと。『プロになるまでは、どこにも行かない』って決めた。常に体中が痛かったけど、強くなるためだから苦じゃなかった」。

ろうそく1本の暗い部屋でも、孤独に負けなかった。5歳から父と厳しい練習を積んだ自分を信じることができた。「今はチャンスに恵まれないだけなんだ」と言い聞かせた。

「テレビで格闘技を見ても、こんなの偽者じゃないかって。オレが出れば、みんな注目するぞと。運とチャンスがあれば、絶対に格闘技界を変えてやると思い続けた。1年後にプロデビューできたけど、あの1年があるから、今の自分があると思っている」。

家族に鍛えられ、支えられてきた歩み。今は自分も2児の父親になった。真里有夫人(22)との間に長男海鈴くん(3)と二男愛郁くん(1)がいる。勝った時はいつもリングで抱き上げる。毎朝、車で保育園まで送る。「家族のためなら死ねる」とてらいもなく言い切る。

「うちの子供には不自由はさせてない。いいところに行って、いいものを食わせて、いい服を着させる。だけど、ニュースを見ちゃうとね。もしオレが、ろうそくで暮らしてた時代だったら、オレもストレスをためて、子供に害を与えたかもしれない」。

幼児虐待、少子化問題…子供をめぐる問題はひとごととは思えない。自然と言葉が熱くなった。

「国は、まず第1に子供にお金を使ってほしい。貧しかったり、共働きで子供を育てられない夫婦をサポートするとかね。お金お金は良くないかもしれないけど、お金は満たされるから。援助があれば、子供に被害はいかないでしょ」。

母親が願っていた五輪のメダル。父親の悔しさを晴らす気持ちは、今も忘れたことはない。

「チャンスがあれば、北京五輪に出たい。子供のころからメダルが目標だったから。中途半端ではだめだから、挑戦となれば、アマ一本に専念しないといけないだろうな」。

プロの次は、アマで世界の頂点に立つ。トップファイターの中で最も小柄な男の夢は、誰よりも大きい。【取材・田口潤、松田秀彦】

山本KID徳郁=06年3月31日

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山本KID徳郁さん(2005年12月31日撮影)

格闘家の山本KID徳郁さん(41=KRAZY BEE)が亡くなったことがわかった。KRAZY BEE公式ツイッターが18日、伝えた。

山本KID徳郁さんの略歴は以下の通り。

山本KID徳郁(やまもと“きっど”のりふみ)さん 1977年(昭52)3月15日、川崎市生まれ。72年ミュンヘン五輪レスリング日本代表の父郁栄氏のてほどきで幼少からレスリングを始める。姉美憂、妹聖子も世界選手権制覇のレスリング一家。99年全日本選手権フリー58キロ級2位。01年に修斗でプロ格闘家デビュー。04年からK-1MAXに参戦。同年大みそかに魔裟斗と対戦しダウンを奪った。05年に総合格闘技興行HERO’sに参戦し、ミドル級王座を獲得。「神の子」と呼ばれた。09年からDREAMに参戦。数年前までは、世界最強の総合格闘家が集う米国のUFCを舞台に活躍していた。163センチ、61・2キロ。

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ジェイク・リー大金星!秋山準破り「自信になった」

王道トーナメント1回戦で秋山にシングルで初めて勝利したジェイク・リー

<全日本:後楽園大会>◇17日◇後楽園ホール

王道トーナメント1回戦で、ジェイク・リー(29)が秋山準を破る大金星を挙げた。

2年ぶり2度目の出場となるリーは、秋山と壮絶な膝蹴り合戦を展開。場外では秋山の非情な膝攻撃を受け、終始攻められたが、カウンターの膝蹴りで逆転。最後もランニングニー2連発で勝利した。

192センチ、105キロと恵まれた体格も、デビューした11年に引退。プロレスへの思いが断ちきれず15年に再デビューした。エース候補としての期待からか、秋山から前哨戦では何度もダメ出しをされ、厳しい戦いに耐えてきた。

シングルで秋山に初めて勝ったリーは「まだまだ認められたとは思っていないが、自分が認められる過程が、すごくうれしかったし自信になった」と話した。2回戦では宮原健斗と対戦する。宮原については「あの人はずっと1人で戦っている気がするから、ここでオレが行かないと」と思いを語った。

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