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アントニオ猪木氏77歳誕生日 古舘伊知郎がコール

「アントニオ猪木の喜寿を祝う会」で、仁王像の写真の奥から拳で突き破って登場したアントニオ猪木氏(撮影・浅見桂子)

アントニオ猪木氏(77)が誕生日の20日、都内のホテルで開かれた「アントニオ猪木の喜寿を祝う会」に出席した。

昭和プロレスを名実況で彩ってきた古舘伊知郎に呼び込まれ、テーマ曲「燃える闘魂」が流れる中、スクリーンを破ってど派手に登場。「今日からまた、新しいスタート」とあいさつ。「もう飽きました。みなさんの方が元気じゃないですか」とぼやきながらも「元気ですかー。1、2、3、ダー!!」と大きなかけ声で盛り上げた。

まだまだ意欲に燃える。会の中で、現在熱心に取り組んでいる水プラズマ開発について説明。「政府と話をしながら確実に進んでいる。世界に向けて、バカヤローと言える時期が来る」と自信をみせた。また、新たにYouTubeチャンネルを開設したことも報告。ともに日本プロレス殿堂会入りした天龍、長州、藤波3人のほか、故力道山の妻田中敬子さん、藤原喜明、歌手の川畑要らが出席。親交のあるボクシング世界6階級制覇王者マニー・パッキャオからのビデオメッセージも届いた。

「アントニオ猪木の喜寿を祝う会」で、「1、2、3、ダーッ!」と気合を入れるアントニオ猪木氏(撮影・浅見桂子)

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77歳グレート小鹿3度目の防衛成功「80歳まで」

グレート小鹿(2008年12月18日撮影) 

<新潟:村上大会>◇24日◇村上市民ふれあいセンター

国内最年長現役レスラーのグレート小鹿(77=大日本)が24日、新潟プロレス村上大会で、新潟タッグ王座の防衛戦を行い、3度目の防衛に成功した。

小鹿はシマ重野と組んで、MAZADA、KAZUMA SAKAMOTO組と対戦。激戦の末、21分20秒、小鹿がチョークスラムからの体固めでMAZADAからフォール勝ちした。小鹿は4月に同タイトルの初代王座決定戦に勝利して、77歳、喜寿での王座獲得という国内最年長記録を更新していた。小鹿は「77歳でもワシはまだまだやれる。こうなったら80歳まで防衛してやる」と鼻息荒く語っていた。

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グレート小鹿 タッグ王座守る「80歳まで防衛を」

新潟タッグ王座の2度目の防衛に成功したグレート小鹿(左)とシマ重野

国内最年長現役レスラーのグレート小鹿(77=大日本)が11日の新潟プロレス「アイスリボン新潟大会」で、新潟タッグ王座の防衛戦を行い、防衛に成功した。シマ重野と組んで2度目の防衛戦に臨み、ビッグ・THE・良寛、前田誠組と対戦。激闘の末13分15秒、重野が前田から3カウントを奪い勝利した。

4月28日、77歳の喜寿の誕生日に初代王座決定戦で獲得したベルトを守った小鹿は、防衛戦から一夜明けた12日、日刊スポーツのインタビューに答え「お客さんの応援がものすごくて、オレたちの背中を押してくれた。77歳と4カ月で年長ベルト保持記録を更新したけど、まだまだ。こうなったら、80歳まで防衛を続けてやる!」と鼻息荒く宣言した。

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グレート小鹿77歳誕生日に王座奪取「この勢いで」

グレート小鹿(08年12月撮影)

現役最年長プロレスラーのグレート小鹿(大日本)が77歳の誕生日の28日、新潟プロレスの初代タッグ王者になった。

新潟市内で行われた同団体の大会でシマ重野と組んで、8チーム出場の同決定トーナメントに出場。決勝はビッグ・ハマー・ベイダー、スタン・小林組と対戦。重野が小林からフォールを奪い勝利した。喜寿の小鹿は「77歳の誕生日に、記念すべきベルトを取ったぞ。自分で自分に誕生プレゼントだ。この勢いで、全日本のアジアタッグ王座も手に入れるぞ」とご機嫌で話していた。

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馬場元子さん死去、19年ぶり…馬場さんのもとへ

95年9月、35周年パーティーでジャイアント馬場さんと笑顔で話す元子さん

 全日本プロレスの創始者、故ジャイアント馬場さん(享年61)の夫人で同団体の社長も務めた馬場元子(ばば・もとこ)さんが14日、肝硬変のため亡くなった。全日本プロレスが23日に発表した。78歳だった。通夜・告別式は19、20日に親族のみで執り行われた。日本のプロレス界のスターとして一時代を築いた馬場さんを裏方で支えた。

 元子さんは、昨年1月に東京・恵比寿の自宅で「喜寿を祝う会」に出席したが、腹水のため体が膨れ上がり、動くのも大変そうだった。死期を悟っていたのか、同5月にメキシコのホスピスへ行く計画も明かしていた。同6月に体調が悪化し都内の病院に入院。医師から「余命2週間」と宣告された。一時は回復したものの、今月13日に容体が急変し、14日に帰らぬ人となった。

 馬場さんとは、15歳の時、まだプロ野球巨人の投手時代に出会った。1966年に婚約し、72年の全日本立ち上げなど陰から支えた。82年に馬場さんが結婚を公表するまで、表舞台には出なかった。99年に馬場さんが亡くなると、社長を引き継いだ故三沢光晴さんを取締役としてサポートした。00年に経営方針の違いから三沢さんらが離脱すると社長に就任。残った川田利明らと全日本存続に奮闘した。離脱していた天龍源一郎を10年ぶりに復帰させ、新日本から武藤敬司を招き、団体を立て直した。

 馬場さんを守るための人生だった。巨人と呼ばれた馬場さんを「怪物」扱いし好奇の目を向ける人に厳しく、「ちゃんと1人の人間として見て下さい」と話していた。全日本生え抜きの渕正信(64)は「元子さんは馬場さんの私設マネジャー。苦しい時も『全日本をつぶすわけにはいかない』と必死だった」と語り、「ボウリングがうまくてね、馬場さんの指に合うボウリングのボールを作ったんだよ。『うちのかあちゃんにはかなわない』って笑っていた」と2人をしのんだ。

 元子さんは馬場さんの死後、遺骨をずっと手元に置いていた。馬場さんと、馬場さんが作った全日本プロレスを心から愛していた。【桝田朗】

17年1月、恵比寿の自宅で行われた喜寿お祝い会で
83年1月、「馬場をますますテレさす会」「結婚・処女出版・誕生日」を祝って開催された会で、ケーキカットする馬場さんと元子さん夫妻
15年1月、ジャイアント馬場さんの十七回忌追善興行で、馬場さんの等身大フィギュアに寄り添う元子さん
15年6月、元子さんから譲り受けた馬場さんの愛車キャデラックに乗り笑顔を見せる曙

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