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天龍、藤波、長州らが「日本プロレス殿堂会」発足

日本プロレス殿堂会発足会見で記念撮影する、左から天龍源一郎、藤波辰爾、長州力(撮影・浅見桂子)

天龍源一郎(70)、藤波辰爾(66)、長州力(68)らが20日、都内で会見し「日本プロレス殿堂会」の発足を発表した。日本プロレス界の発展に貢献した選手の功績を後世に伝え、引退した選手支援のために立ち上げられた。

初期メンバーは3人に、故ジャイアント馬場さん、アントニオ猪木氏を加えた5人。今後、会独自の選考基準をクリアした選手が殿堂に加入していく予定。15年に米WWE殿堂入りした藤波は「日本にもできたらという思いが強かった。レスラー全員、ファンの願いでもある」と喜びを語った。

日本プロレス殿堂会発足会見で、笑顔で記念撮影する、前列左から天龍源一郎、藤波辰爾、長州力。後列左から嶋田紋奈、LEONA、池野慎太郎(撮影・浅見桂子)

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タイガー服部「もう時間」レフェリー生活44年で幕

引退セレモニーでオカダ(左)から花束を受け取り労われるタイガー服部レフェリー(撮影・河田真司)

タイガー服部(74)が44年のレフェリー生活に幕を下ろした。

19日、新日本プロレス後楽園大会のセミ、メイン2戦を裁き、メイン後の引退セレモニーでは10カウントゴング、胴上げで送られた。

76年に米国でレフェリーデビュー。以来、95年北朝鮮・平壌でのアントニオ猪木-リック・フレアー戦、99年1月4日の橋本真也-小川直也戦などプロレス史に残る数々の試合を裁いてきた。

優秀な海外選手を招くなど、コーディネーターとしても新日マットを支えた。レフェリーが引退試合を行うのは異例。それだけ選手からの信頼は深かった。

セレモニーには、ザ・グレート・カブキ、馳浩、武藤敬司、長州力ら豪華ゲストが来場。天龍源一郎、アントニオ猪木からはビデオメッセージが届き、猪木氏からは「長い間本当にご苦労さまでした」とねぎらわれた。

会場は1600人の超満員。マイクを取った服部レフェリーは「コロナという不気味なものに負けないで、これだけたくさん来られて感謝しております」とまずあいさつ。

そして、「自分はこのユニークなスポーツに出会えて、一生プロレスというものを愛し、だけど自分の人生という感じがします。素晴らしいことも友情もいろいろありますが、裏切りもあります、悲しいこともあります。まるで自分の人生みたいな感じがします」とプロレスと自分の人生を重ねた。

選手、スタッフ、ファンに感謝を述べ、「こういう思い出は一生忘れないように頭の中に刻んで生きていきたいと思います」と目を潤ませた。10カウントゴングの後、米国時代の盟友、故マサ斎藤さんの入場テーマが流れる中、選手らに胴上げされた。

レフェリーとしての哲学は「選手を邪魔しない。無駄な場所にいないこと」。それがうまくできなくなったため、「もう時間だな、と思って」と自ら引退を決めた。

最後の3カウントをたたき、「やり切った感があった。燃え尽きました」。1年新日本との契約を延長し、米国での興行、イベントを裏方で支える予定だ。

【高場泉穂】

引退セレモニーでタイガーマスク(左)と握手を交わすタイガー服部レフェリー(撮影・河田真司)
後藤(右奥)にオコーナーブリッジを仕掛けるSANADA(手前右)にカウントをとりにかかるタイガー服部レフェリー(撮影・河田真司)
タイガー服部レフェリー(中央)引退セレモニーでリングに上がり写真に納まる、左から武藤敬司、長州力、1人おいてザ・グレートカブキ、馳浩(撮影・河田真司)
引退セレモニーでアントニオ猪木のサプライズビデオメッセージを見つめるタイガー服部レフェリー(右)(撮影・河田真司)

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天龍氏「髪を結ってもらった」同期ナガサキさん悼む

天龍源一郎氏

「ケンドー・ナガサキ」のリングネームで知られるプロレスラー桜田一男さんが71歳で亡くなったことが13日、分かった。訃報を受け、角界の同期でともにSWS創設メンバーだった元プロレスラー天龍源一郎氏(69)がコメントを発表した。

「突然の訃報に驚いています。相撲の同期でプロレス入り、後に二人でファンクス道場へ私と一緒に行き、まげをつけたまま渡米した私の髪を結ってもらったことが昨日の事のようです。(桜田さんは)アメリカで成功し、共に過ごした時期もありました。最近は会う機会はありませんでしたがやはり気になる人でした。あまりにも早すぎる訃報に、あんなに頑丈な人がと思うと残念でなりません。心よりのご冥福をお祈りいたします」。

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ケンドー・ナガサキさん死去、デスマッチ戦線をけん引

バラ線パーフェクトホールデスマッチに臨むケンドー・ナガサキさん(1995年3月16日撮影)

「ケンドー・ナガサキ」のリングネームで知られるプロレスラー桜田一男さんが亡くなったことが13日、分かった。71歳だった。死因は不明。元所属先の大日本プロレスによれば、12日に千葉の自宅で亡くなっているところを知人に発見されたという。

桜田さんは64年に大相撲立浪部屋で初土俵を踏み、71年に日本プロレスでデビュー。70年代後半から80年代にかけて米国で落武者姿のヒールレスラーとして活躍した。95年には大日本旗揚げに参加。同団体デスマッチ戦線をけん引するだけでなく、総合格闘技にも挑戦。プロレス界「ケンカ最強」と言われてきた。

この日の大日本後楽園大会では、10カウントゴングでの追悼が行われ、試合中は遺影がリングサイドに飾られた。グレート小鹿会長(77)は「彼の協力がなかったら、今の大日本はない」と感謝。米国に子どもはいるが、日本では独り身だったと明かし、「もし親戚、知り合いの方ががいれば大日本まで名乗り出てほしい。あらためてお別れの会を開きたい」と話した。140キロの巨体を誇るデスマッチエース、アブドーラ小林(43)は「入門時に体重75キロだったのが数カ月で100キロまで増えたのは竹刀を持ちながらちゃんこを食わせてくれたおかげ」と故人をしのんだ。

かつて米国で生活をともにした武藤敬司(57)は「若手時代に海外で大変お世話になり、本当に良くして頂きました。実は自分がプロデュースする大会にも来て頂こうと構想があったのですが…、残念です」。角界の同期でともにSWS旗揚げメンバーだった元プロレスラー天龍源一郎(69)氏は「あまりにも早すぎる訃報に、あんなに頑丈な人がと思うと残念でなりません」と急逝を悼んだ。

◆ケンドー・ナガサキ 本名桜田一男(さくらだ・かずお)1948年(昭23)9月26日、北海道網走市生まれ。中学卒業後、大相撲立浪部屋に入門。1971年(昭46)に日本プロレス入門。同年6月27日、戸口正徳戦でデビュー。73年の団体解散後に全日本入りし、76年から米マットなど海外で活躍。81年にケンドー・ナガサキとなる。90年にSWS旗揚げに関わり、NOWを経て、95年に大日本旗揚げに参加。98年に退団し、フリー。188センチ、120キロ。

13日後楽園ホールで行われた大日本プロレス後楽園大会では、創設メンバーだったケンドー・ナガサキさんの遺影がリングサイドに飾られた(撮影・高場泉穂)
ケンドー・ナガサキさんの思い出を語る大日本プロレスグレート小鹿会長(撮影・高場泉穂)

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天龍源一郎「元気ですかー」脳梗塞公表以来初公の場

都内でトークショーを行った天龍源一郎(左)と高田延彦

小脳梗塞を発症していたことを今月9日に公表した天龍源一郎(69)が22日、都内で高田延彦(57)とトークショーを行った。

病を公表したのは最近だが発覚したのは4月で3度の入院を経て、6月に退院。その後もトークショーやテレビ出演をするなど精力的に活動していた。この日集まった約180人のファンの前に登場すると、「元気ですかー!」と第一声。アントニオ猪木のフレーズで、いきなり笑いを誘い、健康ぶりをアピールした。

天龍と高田といえば96年の2度の一騎打ちが知られる。場が温まってきたところで、その年の年間最高試合となったUWFインターナショナル神宮大会での初シングルに話が及んだ。高田は「不思議なファイターであり、アーティストであり、もちろんプロレスラーであり、格闘家であり、すべて兼ね備えている、人一倍なにくそという気持ちをもっている方。そういう天龍さんと交える幸福感があった。会社がきついとかそういうことふっとばして、たくさんの人が見ている前でやらせてもらえる、これを私のキャリアーにとって、大きな勲章にしたいという思いが強かった」と回想。「あの短い時間の中で、宇宙にいったり、観客を俯瞰(ふかん)してみれたりした。名勝負製造器である天龍さんが相手だったから、評価をいただいた。ありがたい気持ちでいっぱい」とあらためて先輩天龍に感謝した。天龍は「キックの打ち出すとき、佐山と高田は見えないんですよ。すっと入る」と高田の天性のキックを思い出し、たたえた。

病気公表以来初の公の場に姿を現し、変わらぬ元気っぷりを示した天龍に対し、高田は「156歳ぐらいまでしっかり生きていただいて、天龍魂を後生に伝えてほしい」とエールを送った。

登場するなり「元気ですかー」とアントニオ猪木氏のフレーズで笑いをとる天龍源一郎

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89年6月全日3冠ヘビー級王者/天龍源一郎略歴

天龍源一郎引退試合 天龍源一郎(左)はオカダ・カズチカにラリアットを決める

元プロレスラー天龍源一郎(69)が小脳梗塞を起こしたことを9日、報告した。症状は安定しているという。

◆天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)本名・嶋田源一郎。1950年(昭25)2月2日、福井県生まれ。63年に大相撲二所ノ関部屋入門。天龍のしこ名で前頭筆頭まで務めたが76年秋場所で引退、同年10月全日本プロレス入団。89年6月に3冠ヘビー級王者。90年SWS移籍、92年WAR設立、フリー、WJプロレス、天龍プロジェクトとあらゆるマットで活躍。得意技はグーパンチ、パワーボム。189センチ。

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元プロレスラー天龍源一郎が「小脳梗塞」症状は安定

天龍源一郎

元プロレスラー天龍源一郎(69=本名・嶋田源一郎)が小脳梗塞を起こしたことが9日、分かった。症状は安定しているという。長女・嶋田紋奈さんがホームページで報告した。以下原文まま

いつも天龍源一郎に温かいご声援を頂きまして誠にありがとうございます。

この度、弊社所属・天龍源一郎に関しまして日頃ご声援を頂いておりますファンの皆様とご支援下さいます関係者の皆様にご報告が御座います。

2019年4月中旬から2度にわたり自宅において体調不良を訴えたため検査・入院をいたしましたところ『小脳梗塞』の診断が下されました。

そこから、症状などが出る機会が多く、3度の入院を経て、幸いな事に現在、目立った後遺症などは現れておらず、完治はしないものの、症状としては安定しております。

主治医と相談の上、定期検診、治療を継続しながら体調も考慮しつつでは御座いますが、今後も出来うる限りファンの皆様方とのひと時を少しでも多く過ごして参りたいと考えております。

ファンの皆様、関係者各位にはこのような突然のご報告となり、謹んでお詫び申し上げます。

病気の発覚や症状の経緯に関しましては簡潔では御座いますが先に記した通りとなります。

既に病状は安定しており、現在は皆様方の前で元気に務めを果たしております。

この様なご報告となり、多大なるご心配をおかけすることと存じますがこれもひとえに長年にわたるご声援におきまして、今日(こんにち)まで多岐にわたり活動をさせて頂いて参りました。

大相撲、プロレスと身体を酷使する時間が長かったことや年齢の事もあり、皆様方に一層のご心配をお掛けするだけになってしまうのではないかと悩みましたが、今日(こんにち)まであのような激しい生業を務めながらも救われた命でもありますので、包み隠さずに公表をする事でほんの微かでも同じ病の方々へ勇気を与え、共に闘うことが出来ればという本人の強い想いがありこの度のご報告となりました。

この様なご報告をいたしますと、近年の天龍の滑舌やしゃがれ声に対して皆様方にお気遣いを頂く事になるのではないかと、本人が一番に懸念しております。

しかしながら、こちらに関しましては病状と関係は御座いませんので、今後とも、お茶の間の皆様にはハスキーボイス=天龍源一郎で、遠慮なさらずに大いに笑い、お楽しみいただけましたらそれが何より本人の望みでもあり、その笑顔がまた大きな力となると考えております。

相撲、プロレス、芸能と、五十数年にわたり、広く愛して頂きました折に、改めて命の尊さを鑑み、今後も天龍の選択したこの公表という決断が病と闘う皆様の少しでもの鎹(かすがい)になれましたら幸いで御座います。

この度は突然のご報告となりましたが、今後とも天龍源一郎への変わらぬ温かいご声援の程何卒よろしくお願い申し上げます。

また、昨今のSNS普及により本人も出回る数多の情報を目にする機会が在ります故、心無いご発言などにより他者や本人を傷つけるようなことが無い皆様でありますことを併せて心よりお願い申し上げます。

ルネッサンス株式会社(天龍プロジェクト)

代表取締役 嶋田紋奈

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天龍がコメント「今この瞬間を出来る限り生き抜き」

天龍源一郎(15年11月15日撮影)

元プロレスラー天龍源一郎(69=本名・嶋田源一郎)が小脳梗塞を起こしたことが9日、分かった。症状は安定しているという。長女・嶋田紋奈さんがホームページで報告した。

ホームページで発表した天龍のコメントは以下の通り。

「この度は私事でご心配をおかけすることになりましたが、身体一つで69歳までやってこられるほどタフに産んでくれた親にまず感謝しています。そして、この病気になったときに一番に支えてくれた家族や近親者のみんなにも感謝をしています。相撲、プロレスと多くの時間を過ごしてきた中でこれからいつまで天龍源一郎としての歩みがあるのか私自身見当もつきませんが、今この瞬間を出来る限り生き抜き、まだファンの皆さんと楽しく過ごしたいと思います。ですのでこれからも変わらずに心配なく、楽しくやっていけたらそれが一番だと思っています。

そして、同じ症状では無くとも色々な病と闘う方々、それを支える方々、日々懸命に過ごしている方々も、皆さんそれぞれに毎日きっと一生懸命過ごしていることだと思います。その皆さんと一緒になって闘い、笑いあい、そういうことを大事にしていけたらと、この病気を機に改めて考えさせられました。今のこの自分がいる事も、支えてくれている皆さんのおかげだと深く感謝をしています。今こうして天龍プロジェクトとしても、TVにしても自分の居場所を作り出してくれている人たちと共により大切にしながらこれからも残りの人生を『天龍はしぶといナ』と言われるほどに十二分に謳歌していきたいと思います!天龍源一郎は今日も元気です!」

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30年続く「ドームプロレス」令和へ新たな進化も

89年4月、チョチョシビリに抑え込まれるアントニオ猪木

<平成とは・バトル編(5)>

昭和末期のプロレス界は新日本、全日本、国際の3団体だった。平成を迎えて団体の乱立、交流戦を通じた淘汰(とうた)、そしてK-1、PRIDEの隆盛による人気低下の時期を乗り越え、2010年(平22)以降から新日本が中心となって復活を遂げた。そんな激動続きの平成の時代に幕を開け、30年間続いたのは「ドームプロレス」だった。

平成元年の89年4月24日、アントニオ猪木がけん引した新日本が最初に東京ドームに進出した。前年にマイク・タイソンの世界戦が開かれていたこともあり、世界的規模を意識。「日ソ異種格闘技戦」と題し、旧ソ連VS新日本を演出した。メインではロープのない円形リングで、猪木が72年ミュンヘン五輪柔道金メダリストのチョチョシビリと対戦。裏投げ3連発でKOされる結末に大きなインパクトを与えた。

豪華かつ派手、話題性を加えるため、選手移籍などで緊張感のあった団体間の「壁」が崩れた。翌90年2月、2度目の新日本の東京ドーム大会で全日本勢が参戦。ジャンボ鶴田、谷津嘉章、2代目タイガーマスク、天龍源一郎がタッグ戦に出場。ビッグバン・ベイダーVSスタン・ハンセンという新日本と全日本のトップ外国人が激突した。同年4月には米WWF(現WWE)、新日本、による「日米レスリングサミット」も開催。ハルク・ホーガンらも参加し、ドームプロレスならではの夢対決が実現していった。

ドーム大会で実現させた新日本の交流戦は、特に注目度が高かった。高田延彦のUWFインターとの対抗戦では、闘魂三銃士の1人、武藤敬司が輝きを増した。95年10月9日の東京ドーム大会のメインで高田と対戦し、ドラゴンスクリューからの足4の字固めで勝利。翌96年1月の東京ドーム大会での再戦は5年ぶりに地上波で生中継され、当時の武藤は「史上最大のイベントなんだから派手にやらなきゃ」と豪語した。97年には大阪、ナゴヤ、福岡を含めた4大ドームツアーが行われ、98年4月に猪木引退試合も開催。プロレス参戦した小川直也VS橋本真也との抗争など注目興行は00年初頭まで続いた。

その同時期からわき上がってきたK-1とPRIDEの隆盛で、ドームプロレスはピンチを迎えた。当時について武藤は「三銃士時代はドームと同じ時代を生きてきた。三銃士の成長曲線は、ドームのそれと一致している。オレたちが本流から外れ、ドームが寂しがっているようにも感じる」(09年日刊スポーツのインタビュー)と00年初頭まで続いた第1次ドームプロレスの終結を分析した。年2、3回のドーム大会を続けてきた新日本は集客に苦しみ、サイモン猪木社長(当時)は06年限りの撤退まで示唆する事態となった。

しかし危機こその結束感が当時の新日本にあった。中邑真輔は「新しい時代をつくる。絶対に最後のドームにしない」と全選手の言葉を代弁。社内会議は揺れ動いたが、菅林直樹副社長(現会長)は開催に反対意見があったことを認めた上で「待っているだけでは追い風は吹かない。最後は全員一致でした」と存続を決めた経緯を明かしていた。

一転、開催された07年1月4日のドーム大会は新日本35周年記念興行だった。武藤率いる全日本の全面協力を得て大会名も「レッスルキングダム」へ。06年以降は1月4日の年1回のドーム大会となったものの、年間最大の祭典に据えたことで全体の展開も分かりやすくなった。12年に凱旋(がいせん)帰国したオカダ・カズチカの活躍も重なり、団体の人気が回復を遂げた。16年以降は新日本、海外招請選手のみでマッチメーク。平成最後のドーム大会でIWGP王者となった棚橋弘至は「東京ドーム大会を見れば全部分かる。1年間のゴールであり、スタート」と分かりやすさを強調。新規ファンを増やそうとする姿勢、環境も人気回復のポイントとなった。

令和初となる来年の「1・4」は、翌5日も続くドーム2連戦に決まった。フルサイズでのドーム連戦は初の試み。新日本が平成元年から30年間定期的に続け、死守してきたドーム大会。90~00年代の交流戦、対抗戦を通じた人気とは違い、新日本独自の世界観で演出する第2次ドームプロレスに変貌を遂げた。

ドームプロレスという「文化」は令和でも新たな進化を遂げていくに違いない。(敬称略)【藤中栄二】(この項おわり)

90年2月、スタン・ハンセン(左)にドロップキックを見舞うビッグ・バン・ベイダー
94年1月、アントニオ猪木(右)にパワーボムを見舞う天龍源一郎
95年10月、高田延彦にドラゴンスクリューを決める武藤敬司
99年10月、橋本真也(手前)を蹴り上げる小川直也
04年5月、アントニオ猪木は得意のパフォーマンスを見せる

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ブロディ、新間寿氏、タナカらWWE殿堂入り

ブルーザー・ブロディ

WWEは6日(日本時間7日)、レガシー部門で「超獣」ブルーザー・ブロディ、元新日本プロレス専務取締役兼営業本部長を務めた新間寿氏、全日本プロレスなどでも活躍したプロフェッサー・タナカらの19年WWE殿堂入りを発表した。同日に米ニューヨークのバークレイズセンターで殿堂入り式典で当日発表された。

ブロディは76年にWWE前身のWWWWFに参戦し、同団体ヘビー級王座に挑戦。アンドレ・ザ・ジャイアントらと対戦した。79年に全日本プロレスで初来日し、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎らと対戦。「不沈艦」スタン・ハンセンと「超獣コンビ」として活躍した。85年には新日本プロレスにも参戦するなど日米で活躍した。

新間氏は前身のWWF会長を務めた経験を持ち、「過激な仕掛け人」と呼ばれてアントニオ猪木-ムハマド・アリ戦を実現させるなどプロレス界を盛り上げる裏方として尽力した。レガシー部門では力道山、ヒロ・マツダに続く日本人の受賞となる。

◆19年WWE殿堂入りレガシー部門受賞者 ワフー・マクダニエル、ルナ・バション、S・Dジョーンズ、プロフェッサー・タナカ、プリモ・カルネラ、ジョセフ・コーエン、新間寿、バディ・ローズ、ジム・バーネット。

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北尾光司さん波乱の人生に幕 豊かな才能開花できず

土俵入りを行う双羽黒さん(1987年9月13日)

大相撲の第60代横綱で、現役横綱双羽黒のまま廃業し、プロレスラーに転身した北尾光司さんが、2月10日に慢性腎不全で亡くなっていたことが29日、分かった。55歳だった。87年12月にトラブルで立浪部屋を飛び出し、その後は冒険家、タレント、格闘家へと転身。98年に格闘家も引退した。波乱に満ちた人生が幕を閉じた。

   ◇   ◇   ◇

北尾さんは2月10日午前7時30分に慢性腎不全のため千葉県内の病院で亡くなっていた。13年より腎臓を患い闘病生活送っていたという。生前の本人の希望で家族葬が執り行われ、2月13日に通夜、同14日い告別式、3月28日に納骨された。

北尾さんは立浪部屋から79年(昭54)3月の春場所で初土俵を踏み、86年(昭61)1月の初場所から大関、同年9月の秋場所から横綱に昇進。横綱として8場所務めた後、87年12月にちゃんこの味付けをめぐってトラブルになり、部屋を飛び出した。その後、師匠から当時の「廃業届」が提出された。1909年(明42)に優勝制度が導入されて以降、唯一、優勝経験のない横綱となった。これをきっかけに、横綱昇進は慎重な見方をされるようになり、大関として連続優勝、またはそれに準ずる成績が求められることになった。

相撲界を離れた後、スポーツ冒険家と名乗り、第2の人生をスタートさせた。米国冒険旅行などタレントとして活動を2年ほど続けた後、90年2月10日に新日本プロレスの東京ドーム大会でプロレスデビュー。バンバンビガロとのデビュー戦に、ギロチン・ドロップで勝利し、華々しい船出を飾ったかに見えた。

しかし、新日本プロレスでは、単調な試合運びに目の肥えたファンからブーイングを浴びせられるなど、人気は上がらなかった。そのうちに、現場監督を務めていた長州力に暴言を吐き、契約解除を言い渡された。その後、天龍源一郎のSWS、WARでもトラブルを起こし解雇された。

プロレスで居場所がなくなった北尾さんは、総合格闘家へ転身。UWFインターナショナルや、初期のPRIDEなどで試合を行ったが、さしたる実績を挙げられず、98年に現役引退を表明。同年10月のPRIDE4で引退セレモニーを行った。相撲時代同様、プロレス、総合の世界でも周囲とうまくいかず、その才能を開花させることはなかった。

03年9月には、自身が相撲界にいた時とは代替わりしていたが、16年ぶりに立浪部屋を訪れ、部屋のアドバイザーに就任した。その際には「名門立浪復活の手助けをしたい」と、意気込みを語っていた。当時から師匠を務める立浪親方(元小結旭豊)は「交流はその時の一瞬で、その後は連絡を取っていなかったから、最近の様子は知らなかった」と話していた。

◆双羽黒光司(ふたはぐろ・こうじ) 本名北尾光司。1963年(昭38)8月12日、三重県津市生まれ。中学卒業と同時に立浪部屋に入門し、79年春場所で初土俵。84年初場所で新十両を果たし、同年秋場所で新入幕。85年九州場所後に大関、86年名古屋場所後に第60代横綱昇進。同じ昭和38年生まれの北勝海、小錦、寺尾らと「花のサンパチ組」と呼ばれた。ちゃんこの味付けをめぐり87年12月27日、師匠の立浪親方(元関脇安念山)と大げんか。仲裁に入ったおかみさんを突き飛ばし部屋を飛び出した。4日後の大みそかに臨時理事会を開き、双羽黒の廃業を決議した。通算348勝184敗24休、優勝次点7回、三賞7回。引退後はプロレスラーなどとして活動し、03年に立浪部屋のアドバイザーを務めた。

高田延彦(右)に腕ひしぎ逆十字固めを決められる北尾光司さん(1992年10月23日撮影)
アントニオ猪木(左)と握手をする北尾光司さん

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越中詩郎、馬場さんに桑田佳祐が…エピソード披露

トークショーを行った天龍源一郎(左)と越中詩郎

天龍源一郎(69)と越中詩郎(60)のプロレス界のレジェンド2人が21日、都内でトークイベントを行った。

全日本プロレス時代の苦労話、後に天龍が加わった平成維新軍での海外合宿など2人のプロレス人生の思い出話だけでなく、縁深いレスラーの話題にも及んだ。故ジャイアント馬場さんについて、天龍は「おれに言わせると馬場さんは悪い人じゃないですよ。いい人じゃないけど」と笑わせた。馬場さんの付け人だった越中は、富山の巡業中にホテルで偶然会ったサザンオールスターズの桑田佳祐があいさつに訪れたエピソードを披露。「向こうは直立不動で『馬場さん、お疲れさまです!』と言って、馬場さんは座って葉巻をくわえながら『あぁ、そう』って。で、桑田さんが帰った後に、『あれ、ゴダイゴか』と。僕はゴダイゴ知ってるのかと思った」と笑いながら、懐かしんだ。

現役引退を発表した獣神サンダー・ライガーについては、かつて新日本で「ドラゴンボンバーズ」を結成していた越中は「海外遠征に行く直前も、道場で2、3時間練習していたことがあって、これはすごいな、と。自分のそれに負けちゃいけないと思っていました」とジュニアの後輩をたたえた。

ファンからの質問にも応じ、つらい時に気持ちを奮い立たせるためのアドバイスを、との問いに2人はそれぞれ熱い答えを返した。天龍は「こんなところでへこたれてたまるか、と思えば足が1歩前に出ます。もういいと思えば、立ち止まる。立ち止まるというのは、後退すること。なにくそこのやろーと思えば、足が1ミリでも前に出る」と熱弁。越中は「僕は何回も(プロレスを)やめようと思ったし、地方にたくさん行く中で、鉄道を見る度に『これに乗って東京に帰ったら楽だなぁ』って、何十回、何百回も思った。でもその度に、好きな道で生きているんだから幸せなんだ、と自分に言い聞かせた。自分を信じること。いいことばかりじゃないからね。辛抱する、というのが大事」と万事を受け入れる大切さを語った。

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ライガー「MSG出して」最後まで明るい引退会見

来年1月の東京ドーム大会を最後に引退することを発表した獣神サンダーライガー(撮影・桝田朗)

新日本プロレスのジュニアの象徴、獣神サンダーライガーが7日、20年1月4、5日の東京ドーム大会を最後に現役引退することを発表した。89年4月に覆面レスラーとしてデビュー。100キロ以下のジュニアヘビー級の地位を高め、数々の名勝負を残した。世界的な人気を誇る名レスラーは、平成の30年を華麗に駆け抜けた。 

  ◇   ◇   ◇

涙はなかった。「リングに上がる以上、チャンピオンを目指さなきゃレスラーじゃない」。プロレス人生を支えてきた熱い思いを最後まで燃やした6日のIWGPジュニアヘビー級選手権。史上最多12度目の戴冠を逃したが、自分の戦いを見詰め、ライガーは自分で区切りをつけた。

「あの試合を通して、自分はもう伸びしろがないことが分かった。今まで培ってきたテクニックはいくらでも生かせるけど、伸びしろがないと、試合をやってて感じた。タイトルを取っていても辞めていた」

すがすがしい表情で話した。新日本にとどまらず、他団体、海外と世界中にファンをつくり一時代を築いた。そんな男が今年に入り、限界を感じて会社と引退について話し合ってきた。その中で、新日本から来年1月の東京ドーム大会での引退を提案された。新日本所属のレスラーで、東京ドーム大会で引退試合を行うのは、創始者のアントニオ猪木、長州力(後に復帰)に続き3人目。「東京ドームでデビューして、平成が終わるとともに東京ドームで引退なんて、カッコよくね?」と、笑顔で自慢した。

引退には、自分なりの美学があった。以前、65歳で引退した天龍源一郎に「腹いっぱいやれ」とアドバイスされた。その言葉を胸に刻んできたが、最近考えが変わったという。「まだできるじゃん、ライガーまだできるのにもったいない。天龍さんの腹いっぱいより、そういう風に言われたらかっこいい。ファンに失笑を買ってしまうようなシーン、それだけは絶対嫌なんだ」。「プロレスラーは強くあれ」と言われたアントニオ猪木や、山本小鉄の教えを最後は貫いた。

ライガーは引退後も、寮にとどまるという。今後の役割については言葉を濁したが、寮にいて、若手レスラーの育成を担う可能性が高い。「やり残したことは何もない。こんな幸せなプロレス人生はない」と断言したが、1つだけ希望を口にした。新日本が4月6日に開催する米ニューヨークのマジソン・スクエアガーデン(MSG)大会だ。「MSG出してほしい。引退するんだから、出してよ」。最後まで明るく、引退会見を締めくくった。【桝田朗、高場泉穂】

◆獣神サンダーライガー

▽正体 不明とされているが、本名は山田恵一。1964年(昭39)11月30日、広島市生まれ。藤波辰爾にあこがれ、高校卒業後単身メキシコで修業。そこで出会った山本小鉄に新日本入団を認められる。

▽変身 平成元年の89年4月24日、東京ドーム大会でテレビ朝日系列で放送されたアニメ「獣神ライガー」のタイアップ企画として獣神ライガーに変身。小林邦明戦でデビュー。

▽ジュニアの象徴 IWGPジュニアヘビー級王座を史上最多11回戴冠。ノアのGHCジュニア王座や、米国WCW世界ライトヘビー級王座など、多数のタイトルを獲得。100キロ以下のジュニアの盛り上げに貢献。他団体と新日本の橋渡しをし、94年にはジュニアのオールスター戦「スーパーJカップ」開催を実現した。

▽技の先駆者 シューティングスタープレスや垂直落下式ブレーンバスターなど、現在多くのレスラーが使う技を開発、流行技の発信源となっている。

◆名勝負 数ある名勝負の中で、94年2月24日、日本武道館での橋本真也戦は話題を呼んだ。ライガーがIWGPジュニアヘビー級王者、橋本がIWGPヘビー級王者で、階級を超えたノンタイトル戦。ライガーは敗れたが、ジュニアを超えたパワーを見せつけた。

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デビュー40年、還暦の越中詩郎が大暴れ「今後も」

勝利した平成維新軍、左からAKIRA、ザ・グレート・カブキ、青柳政司、越中詩郎、真霜拳號、斎藤彰俊(撮影・柴田隆二)

<越中詩郎40周年記念大会>◇30日◇後楽園ホール

平成維震軍を率いるサムライ、越中詩郎(60)の40周年記念大会が30日、後楽園ホールで行われた。

93年結成から26年、軍団に新たな戦力・真霜拳號(40=KAIENTAI DOJO)も加わり、平成生まれ5人を相手に大暴れ。プロレス界を駆け抜けたサムライは、元号が変わる新たな時代にも、大暴れを誓った。

「おし、いくぞ~!」。越中が、お尻をたたいて必殺技「ヒップアタック」を予告すると、超満員の会場が一気にヒートアップ。越中はコーナートップから、さらにエプロンから場外へと、何度もヒップアタックを繰り出した。かつて長州力に「あんな技、効かないよ」とやゆされたヒップアタックを磨き続けて40年。60歳になっても、越中は唯一無二の得意技で観客を喜ばせた。

「何とか仲間の力とファンのおかげで、40周年を終えられた。若いやつには、まだまだ負けないよ」と、笑顔で話した。93年、当時の新日本プロレス選手会に反旗を翻し結成した平成維震軍。斎藤彰俊、青柳政司、AKIRAの常連に、新たなメンバーが加わった。真霜の加入に「直感でこいつと思った。維震軍自体に新しい風を吹き込んでくれる」と期待を寄せた。

決して主役にはならなかった。新日本ジュニアでの高田延彦との抗争。ヘビー級に転向してからは、長州力やタイガー・ジェット・シンとも絡んだ。平成維震軍では、自主興行も行うなど注目されたが、その後は蝶野正洋率いるnWo人気に存在はかすんでいった。

それでも、年齢を重ねた脇役俳優が主役を食うほど輝くように、越中の存在感は増していった。60歳近くなっても、日々のランニングで鍛えた体力で、若手にひけを取らないプロレスを披露。この日も、試合開始早々に、ノアのGHCヘビー級王者清宮のドロップキックを仁王立ちで受け、ヒップアタックでなぎ倒した。

その侍魂を、若手の体に刻み込んだ。試合後のセレモニーでは、武藤敬司、長州力、天龍源一郎にお祝いの花束をもらった。武藤には「80歳までプロレスやりましょう」とハッパをかけられた。そんな励ましに照れながら「こんなに長く続いたチームもないと思うので、誇りにしながら今後も戦っていきたい」と最高の笑みを浮かべて言った。【桝田朗】

◆平成維震軍(へいせいいしんぐん) 92年に越中と小林邦明が、青柳政司の主宰する誠心会館自主興行に参加したことで、新日本プロレス選手会(蝶野正洋会長)と対立。越中は選手会を脱退し、小林、木村健吾、青柳、斎藤彰俊らと反選手会同盟を結成。93年に後藤達俊、小原道由、ザ・グレートカブキが加わり、平成維震軍と名前を変えた。名前の由来は「プロレス界を震撼(しんかん)させる活躍をする」(越中)という意味。発足当初は、全員が髪を剃り、そろいのはかまを履いて登場した。新日本本隊やタイガー・ジェット・シンらとの抗争で人気を博した。96年には野上彰(現AKIRA)が加わった。

越中(左)は清宮にエルボーを決める(撮影・柴田隆二)
越中(右)は清宮にヒップアタックを決める(撮影・柴田隆二)

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故障復帰の棚橋、稀勢の里引退に「すごく感情移入」

プロレス大賞MVPとなった棚橋弘至はベルトを大事に抱えながら喜びを語る(撮影・足立雅史)

新日本プロレスの棚橋弘至(42)が17日、都内で行われた「2018年度プロレス大賞授賞式」(東京スポーツ新聞社制定)に出席し、元横綱稀勢の里の引退を惜しんだ。

満身創痍(そうい)だった元横綱と膝の故障で苦しんだ自分を重ねた。「すごく感情移入して見てましたね。そうするしかなかったんだろうな、と心中を察しました。僕もけがで苦しんだんですけど、またこうしてチャンピオンで戻れたことは幸運だな」と話した。

昨年は右膝故障から復活しG1クライマックス優勝。テレビ、映画などのリング外の活躍なども評価され、4度目のプロレス大賞MVPを獲得した。4度は天龍源一郎、武藤敬司に並ぶ歴代2位の記録。この日の式に出席した天龍氏に「MVPの回数並ばせていただきました」とあいさつし、「お前抜かすつもりじゃないだろうな」と圧力を受けたことを明かした。

プロレス大賞MVPの棚橋はアンドレザ・ジャイアントパンダから「幸運のヘッドバット」を食らう(撮影・足立雅史)
記念撮影に臨むMVPの棚橋(中央)らプロレス大賞受賞者たち(撮影・足立雅史)

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棚橋弘至MVP「元号またいで」2年連続受賞宣言

MVPを受賞しポーズする棚橋(撮影・鈴木正人)

東京スポーツ新聞社制定18年度プロレス大賞の選考が12日に都内で行われ、新日本の棚橋弘至(42)が4年ぶり4度目のMVPに選ばれた。

リング内外でプロレス界を盛り上げた功績が評価され「今までの中で一番うれしい」と感慨ひとしお。平成最後の勲章と受賞回数歴代2位タイに満足せず、「元号をまたいで1発目もとる」と自身初の2年連続受賞を宣言した。

棚橋が記念すべき平成最後のMVPに輝いた。8月のG1クライマックスで3年ぶり3度目の優勝を果たし、完全復活をアピール。9月には映画「パパはわるものチャンピオン」で主演。NHK「クローズアップ現代+」、TBS「情熱大陸」など人気番組への出演で自身の知名度を上げるのみならず、プロレスの魅力を広く社会に伝えた。充実の1年を評価されての4度目の受賞に「今までの中で1番うれしいです」としみじみと喜んだ。

「クソ有名になります」。06年以降、リング上で言い続けてきた願いが「成就した年だった」。棚橋が思い描くのは、昭和のプロレス黄金期の風景だ。お茶の間で試合がテレビ中継され、老若男女がプロレスラーの名前を知り、近くに興行に来れば喜々として試合を見に行く-。そんな風景を再びつくるため、「自分が有名になればいいんじゃん」とずっと自らを鼓舞してきた。「道半ばですけど」と謙遜しながらも、その努力が開花した1年を満足そうに振り返った。

4度目の受賞は天龍源一郎、武藤敬司と並ぶ歴代2位タイ。「すごいとこ、入ってきましたね」と笑いながらさらなる野望も口にした。オカダ、内藤ら過去5人が達成している2年連続受賞はまだなし。「元号をまたいで、新しい元号の1発目をとれれば2年連続もできる。19年はのっけからとりに行きます」。“100年に1人の逸材”の名にふさわしく、史上初の元号またぎの連続受賞を狙うつもりだ。

来年1月4日のメインでIWGP王者オメガに挑む。「(ベルトを)巻いたら、新しい扉が開かれるような気がする」。年明け1発目の勝利で太陽がまた昇る。【高場泉穂】

以下、各賞

▽最優秀選手賞(MVP) 棚橋弘至(新日本プロレス)

▽年間最高試合(ベストバウト) ケニー・オメガ対オカダ・カズチカ(6月9日、新日本プロレス大阪城ホール大会、IWGPヘビー級3本勝負)

▽最優秀タッグチーム賞 諏訪魔(全日本プロレス)、石川修司(フリー)

▽殊勲賞 丸藤正道(プロレスリング・ノア)

▽技能賞 内藤哲也(新日本プロレス)

▽新人賞 林下詩美(スターダム)

▽女子プロレス大賞 藤本つかさ(アイスリボン)

▽レスリング特別表彰 ブダペスト世界選手権金メダリスト須崎優衣、奥野春菜、向田真優、川井梨紗子、乙黒拓斗

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天龍氏、神取忍の顔面をボコボコにした試合振り返る

伝説のシングル戦から18年、トークバトルで再戦した天龍源一郎氏と神取忍

00年7月2日、男女トップレスラーによる伝説のシングル対決を行った天龍源一郎氏(68)と神取忍(54)が、18年ぶりにトークバトルで“対決”した。23日、東京・目黒のスタジオCLASKAのステージで、2人は笑顔で思い出話に花を咲かせた。

注目の一戦は、神取からの対戦要求で実現した。「日本全国で、何で天龍さんと戦うんだっていう空気でいっぱいだった。この日本で、アントニオ猪木とジャイアント馬場を倒した男は天龍さんしかいない。絶対負けるんだけど、1%の可能性にかけた」と、神取は当時の思いを語った。

神取が対戦をお願いに行ったとき、天龍は「オレは男だから容赦なくいくよ」と神取に念押しした。神取は即座に「覚悟は決まっています」と返答。「だったらいいよ」と天龍も対戦を承諾した。

試合は1回3分のラウンド無制限1本勝負で行われた。天龍は、逆水平チョップや、背中へのサッカーボールキックなど手加減のない打撃を神取に加える。2回には神取の顔面にグーパンチの連打。顔面が大きく腫れ上がり、ふらふらになったところで、神取のセコンドからタオルが投げ入れられた。天龍のTKO勝ちで試合は終わった。

「あの頃、男子が女子とやると、手加減したり、わざと技をかけられたり、お遊びのような試合になった。でもオレは、結果的にああいう展開になって良かったと思っている」と天龍氏は話した。それでも「試合中は、オレも神取を殴りながら、『もう、ギブアップしろよ!』って叫んでいたよ」と明かした。

一方、神取は「あのときは気が遠くなって、終わったんだ、自分はどうなっちゃうんだという思いと悔しさが入り交じっていた。いろんな試合をしたけど、あのときの痛みを越えるものはない」と振り返った。

試合後、控室で倒れている神取を天龍氏が訪ね「これを腫れているところで転がすと、腫れが引くぞ」と生卵を渡した。半信半疑で試してみると、腫れは少しずつ引いていき、2日後には治ったという。神取は「私は、山本小鉄さんにプロレスは思いやりと教わった。天龍さんの根底にも、やさしさや愛をすごく持っていた」と神取は言う。

伝説の一戦について天龍氏は「あの時代は、ああいうプロレスのやり方しかなかった。思い出に残る試合の1つだよ。真っ向からぶつかっていったつもり」と言った。神取は「あの試合から気持ちの持ち方が変わった。怖いものが無くなった。次にいける気持ちの強さをもらった」としみじみと話した。

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天龍源一郎氏が馬場さん追悼興行の実行委員を退任

天龍源一郎(15年11月15日撮影)

元プロレスラーの天龍源一郎氏(68)が15日、来年2月19日に予定されている「ジャイアント馬場没20年追善興行」の実行委員を退任すると発表した。

天龍氏及び所属会社はファクスで「天龍源一郎が現役から退き三年という記念すべき良き日ではありますが、この度、大変ありがたいことに僭越ながら『ジャイアント馬場没20年追善興行』の実行委員として名を連ねておりました天龍源一郎ですが、社内検討の結果、本人の信念を尊重し、主催者側と協議の結果ご了承いただき実行委員会から退くことを決意いたしました」と報告した。同大会の運営には一切関わらないという。

天龍氏は声明文で「この度わたくしが名を連ねておりました馬場さんの没20年追善興行につきましてですが、各団体の協力も仰げ、運営としての機能も十分に皆様方が発揮されていると伺いました。無事に立ち上げの役目を終え、実行委員会からは外れ、全日本プロレス出身の元プロレスラー天龍源一郎として陰ながら応援させて頂きたいと思います。ひと時ではありましたが実行委員として馬場さんのご恩に少しでも報いる事が出来、感謝しております。沢山の方にご賛同を賜る本大会、今後2月の大会当日までファンの皆様に喜んでいただける大会にするために存分に励まれることと思いますのでどうか、楽しみにその日を迎えて頂ければ何よりです。本大会の成功を心より祈念しております」(原文のまま)とつづった。

今回の件について、所属会社は「取材などは一切お受けできませんのでご了承ください」としている。

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棚橋、秋山ら出場 ジャイアント馬場没20年興行

棚橋弘至

ジャイアント馬場没20年追善興行は来年2月19日、東京・両国国技館で開催される。1日、同大会実行委員会から第1弾の出場選手が発表され、新日本プロレスの棚橋弘至、本間朋晃、鈴木軍のタイチ、金丸義信、全日本プロレスの秋山準、宮原健斗、大森隆男、渕正信、大日本プロレスのグレート小鹿、関本大介、ノアの丸藤正道らの参戦が決定。また馬場さんと直弟子となる太陽ケア、馬場元子夫人が全日本社長時代、ターメリック・ストームとして活躍した宮本和志、橋本友彦の出場も決まった。

なお大会実行委員会は新日本プロレスの坂口征二相談役、天龍源一郎、全日本の秋山準社長らが名を連ねている。

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全日黄金期築いた田上明氏、胃の全摘手術受けていた

川田利明プロデュースの大会で、川田(右)とのトークバトルに参戦したかつての盟友田上明氏

全日本プロレスで活躍したレジェンド、川田利明(54)がプロデュースするプロレス興行「FOLY WAR」新宿大会が1日、新宿FACEで行われ、全日本の四天王時代の盟友・田上明氏(57)が参戦した。

2人は、第4試合のトークバトルで“対戦”。近況は、全日本時代の思い出に花を咲かせた。2人は、川田が天龍源一郎の元で、田上がジャンボ鶴田の軍団に属し敵対関係にあったが、その後タッグも組み、三沢光晴、小橋建太と全日本の四天王として黄金期を築いた。

タッグパートナーとして川田は「組むようになって随分楽だった。気を使わないで、自分の自由に戦えた」と振り返った。これに対し田上は「オレは気を使ったよ」と返し、会場は大爆笑。2000年、全日本から三沢、田上らが大量離脱した際には、田上が川田に電話して、一緒に移籍するように勧めたという裏話も披露。川田は「あのとき電話をくれたのは田上さんだけ」となつかしんだ。

川田はラーメン店、田上はステーキ居酒屋を経営し、お互いの店を行き来する仲だという。川田は、4月に胃がんのため胃の全摘手術を受けたという田上に対し「いい飲み友だちだから、しっかり健康管理して、タバコもやめてください」と気遣っていた。

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