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【復刻】史上初の幕尻優勝 2000年の貴闘力も涙

貴闘力の史上初の幕尻優勝を伝える2000年3月27日付の日刊スポーツ紙面

<大相撲初場所>◇千秋楽◇26日◇東京・両国国技館

前頭17枚目徳勝龍(33=木瀬)が結びの一番で大関貴景勝(23=千賀ノ浦)を破り、貴闘力以来20年ぶり2度目の幕尻優勝を達成した。

優勝を記念して、2000年の貴闘力の史上初の幕尻優勝を紙面記事で振り返ります。

   ◇   ◇   ◇

<大相撲春場所>◇2000年3月26日◇千秋楽◇大阪府立体育会館

東前頭14枚目貴闘力(32=二子山)が、史上初の幕じり優勝を飾った。勝てば優勝、負ければ決定戦にもつれ込む雅山(22)との大一番。土俵際まで攻め込まれながら執念で回り込み、最後は送り倒した。初土俵から103場所、入幕から58場所は過去の記録を大幅に塗り替えるスロー記録。32歳5カ月の年齢も、年6場所の1958年(昭33)以降の最高齢記録となった。殊勲賞、敢闘賞も獲得。土俵生活18年目で花を咲かせ、涙、涙の初賜杯だった。

貴闘力 13勝2敗(送り倒し 4秒6)雅山 11勝4敗

子供のように泣きじゃくった。武双山に力水をつけながら、花道を引き揚げながら、そしてインタビュールームで。貴闘力は、何度も青い手ぬぐいを両目にあてた。「泣くなんて、絶対オレはないだろうなって思ってた」。家族が待つ東の支度部屋。美絵子夫人(25)は「涙を見たのは初めてです」と声を震わせた。長男の幸男君(5)も「アイスが食べたい」と泣きじゃくっていた。

「運がよかったとしか言えない。本当に夢のようで、オレみたいのがとってええんかなみたいな」。史上初の幕じりの快進撃は、フィナーレも劇的だった。雅山の強烈な突き放しに後退した。両足が俵にかかる絶体絶命から、執念を発揮した。はねるように右へ回り込み、雅山を送り倒した。

がけっぷちに追い込まれた男の強さだった。持病の痛風、高血圧に悩まされ、気力もなえかけた。幕内58場所目で初めて幕じりまで落ちた。場所前のけいこでは幕下に負けた。引退も覚悟していた。だが、二子山親方(50=元大関貴ノ花)の言葉で消えかけた闘志に火がついた。「師匠にまだ老け込む年じゃない。今からでも遅くないぞ、と言われたのが一番励みになった」。14日目夜には、横綱貴乃花から「緊張しないで思い切りいったらいい結果が出るから、頑張ってください」と激励された。部屋の大きな支えがあって、栄冠を手にした。

「貴闘力」のシコ名は89年3月、新十両昇進時におかみさんの憲子さん(52)が付けてくれた。当初は「貴闘志」だったが、字画を調べて今のシコ名になった。いずれも「ただ暴れるだけじゃなく、道徳を持って闘って」との願いが込められた。それほどの熱血漢だった。今場所も獲得した敢闘賞は通算10回で史上1位。一時は若乃花、貴乃花以上のけいこ量を誇った角界一のファイターが、どん底から奇跡を起こした。

90年秋場所、若乃花と同時入幕だった。その若乃花が土俵に別れを告げた春の土俵に、遅咲きの花が鮮やかに咲いた。弟弟子たちの優勝に、ひそかな思いもあった。「いつかは自分もと……。幕内で優勝するのが夢でした」。初土俵から所要103場所、入幕から58場所、そして32歳5カ月の最高齢。長い苦労を裏付ける記録ずくめの初優勝には、大粒の涙が似合った。【実藤健一】

   ◇   ◇   ◇

◆同級生柔道古賀「俺も」

貴闘力の優勝は、4度目の五輪出場を狙う「平成の三四郎」の奮起を促すことにもなった。バルセロナ五輪柔道71キロ級金メダリスト古賀稔彦(32、慈雄会)は、優勝の瞬間をテレビでしっかり見届けた。2人は同い年で、古賀が東京・弦巻中、貴闘力が福岡・花畑中の3年時、全国中学柔道大会団体戦で対戦した縁がある。直接対決はなかったが、古賀にとって貴闘力は気になる存在で、角界での活躍も注目していた。

右足首のねんざに苦しむ古賀は、五輪代表最終選考会となる4月2日の全日本選抜体重別(福岡)に強行出場する。今回挑戦する81キロ級の代表の争いはライバルたちと横一線。優勝者が代表になる可能性が高い。今場所の貴闘力の相撲に力づけられた古賀は「その年齢に応じた集中力とテクニックを発揮すればやれるんだということを証明してくれた。僕も柔道界でそれが証明できるようにしたい」と決意を新たにしていた。

(2000年3月27日紙面から)

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デストロイヤーさん悼む 61歳で引退/復刻連載終

全日本横浜大会 試合後、抱き合い健闘をたたえ合うザ・デストロイヤー(左)とジャイアント馬場 (1993年7月28日撮影)

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)、亡くなりました。享年88歳。日刊スポーツでは、デストロイヤーさんが現役引退した93年7月に連載を掲載しています。今回追悼をかねて復刻版として再掲載します(年齢などは当時のまま)。

 ◇   ◇   ◇

29日の全日本プロレス東京・日本武道館大会で現役引退をするデストロイヤーは「日本のファンは望まないだろう」ということで、マスクを脱ぐことはない。1963年(昭38)の初来日時は「白覆面の魔王」の異名をとったが、マスクの下は質素な努力家だ。一生懸命日本の生活に溶け込もうと努力した。

現在も全日本プロレスの売店では元気に白マスクを売っているが、73年から79年の日本滞在中には東京・港区麻布の夏祭りで、ホットドッグ店を開店していた。地域住民とのコミュニケーションを目的としたものだったが、デストロイヤー自らがつくってくれるとあって人気があった。また、米アクロンの自宅には日本式の木のふろをつくってもいる。日本から持ち帰った日本人形も部屋にディスプレーし、オリエンタルムードに一役買っている。

子供時代は、ドイツ系移民ということでいじめられもした。貧困のどん底で兄弟で一つのベッドを共有していた。その経験から現在も暮らしぶりはつましく、庭には家庭菜園もある。奨学金を得てニューヨークのシラキュース大大学院を卒業したインテリレスラーということで、「ザ・インテリジェンス・センセーショナル・デストロイヤー」というリングネームを使わせたがったが、仕事を離れるとそれをひけらかすことは全くなかった。日本では84年6月に、ベースボール・マガジン社から自伝「4の字固めのひとりごと」を出版。口だけではなく、形としてインテリぶりを示した。

61歳という現在まで現役を続けられた裏には、徹底した節制と、自己管理があった。「強いアルコールは体に悪い」と、酒はビールだけをたしなんだ。

来日回数がデストロイヤーを超える外国人選手は数多くいるが、これほど日本に親しんだ選手はいない。「チャンスがあったらまた試合をしたい」というデストロイヤーの名前は、白覆面とともに、永久に日本のプロレス史に残るだろう。

【川副宏芳】

(おわり)

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デストロイヤーさん悼む 長男デビュー/復刻連載7

全日本金沢大会 親子で初のタッグを組むザ・デストロイヤー(右)とカート・ベイヤーは握手を交わしてリングに上がる(1993年7月26日撮影)

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)、亡くなりました。享年88歳。日刊スポーツでは、デストロイヤーさんが現役引退した93年7月に連載を掲載しています。今回追悼をかねて復刻版として再掲載します(年齢などは当時のまま)。

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カエルの子はカエル。今年1月9日、デストロイヤーの長男カート・ベイヤー(32)が全日本プロレスからレスラーとしてデビューした。カートが1960年9月23日に米ロサンゼルスの聖ジョージ病院で、15時間の難産の末に誕生した時は、「手がすごく大きかったから、プロフットボールのQBにしたいと思った」と、自分が果たせなかった夢を託そうとした。

だが、少年時代から強い父にあこがれ、尊敬していたカートはレスラーになりたいと常々訴えるようになった。83年から5年間、東京にある英字新聞のデイリーヨミウリ社に記者として勤務。88年からは広告関係の仕事をしたが、その間「レスラーになりたい」と、父に訴え続けた。カートの粘りに負け、90年にOKの返事を出したが「もう少し、早くOKを出してやれば良かった」という後悔もあった。カートの32歳という年齢は、レスラーを志すには遅いものだったからだ。

父親からOKの返事をもらったカートは、サンフランシスコ大に進んでいた弟のリチャード(24)とともに、トレーニングを開始した。現在米国陸軍少尉として韓国に駐留しているリチャードも「カートの収入とかを見てから正式に決めたいね」とはいうものの、レスラーになることを決めている。

また、29歳の長女モナ・クリスも、今年2月14日のバレンタインデーに、知り合ってから1年でプロレスラーのダニー・スパイビー(36)と結婚式を挙げたばかりだ。いつの間にやら、デストロイヤー一家はプロレスファミリーになってしまっていた。プロレスでは、親子レスラーは珍しい存在ではない。不慮の事故や自殺などで、「呪われた一家」として有名なエリック一家、4人の息子をレスラーにしたスチュ・ハート。マイク、テッドのデビアス親子。ボブ、ブラッドのアームストロング親子と、数え上げたら切りがない。

引退シリーズということで、カート、スパイビーとファミリータッグを組み、馬場ファミリーと試合をすることを楽しみにしていたが、スパイビーが肩を故障したため急きょ来日を中止。夢は実現しなかった。「まさか自分の息子とチームを組めるとはね。待ったかいがあったよ。とても楽しみにしている」。28日、横浜文化体育館大会でカートとの初タッグ決定に、白マスクの下でデストロイヤーは、はにかんだ。 【川副宏芳】

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デストロイヤーさん悼む 米国に戻る/復刻連載6

ザ・デストロイヤーさん(1993年7月28日撮影)

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)、亡くなりました。享年88歳。日刊スポーツでは、デストロイヤーさんが現役引退した93年7月に連載を掲載しています。今回追悼をかねて復刻版として再掲載します(年齢などは当時のまま)。

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1973年(昭48)から6年にわたる日本滞在に終止符を打つことになったのは、長男カート(現プロレスラー)の大学進学がきっかけだった。カートはハワイ大を経て、サンフランシスコ大へと進んだ。生まれ故郷のニューヨーク州バファローに戻ったデストロイヤーは、地元のアームハースト高校の水泳コーチ、同小学校では体育の教師として第2の人生を送り始めた。シュラキュース大時代にアメリカンフットボールで活躍。オレンジボウルでは全米学生オールスターに選ばれ、レスリングでは全米学生ヘビー級チャンピオンにも輝いた実績。これに加え、水泳などスポーツ万能という面が買われての抜てきだった。

米国に戻ってからは、サマーアクション・シリーズなど年に1、2回、全日本プロレスに来日して元気な姿を披露するほかはプロレス活動を行わず、覆面をしないディック・ベイヤーとして地元の青少年の育成に専念した。そのかいあって昨年、同高水泳チームは地元アクロンの大会で総合優勝を果たした。

米国でプロレスから離れたのは当時50歳という年齢のほかに、WWF、WCWという2大プロレス団体が、米国のプロレス勢力を二分していたことも原因となった。小規模な独立団体もあるにはあったが、長年日本を主戦場にしてきたデストロイヤーには、出場への足掛かりもなくなっていた。また、2大団体からこぼれたレスラーたちが安いギャラで働いており、働きに見合うだけの収入を得ることが難しかったことも重なった。

83年に、アームハースト高で保健婦をしていたウイルマーさん(57)と再婚した。離婚した前夫人と、くしくも同じ名前だ。地元での足固めも済み、デストロイヤーはいつ現役を引退してもおかしくない状況にあった。だが、子供たちがプロレスへの道を意識するようになり、きっかけがつかめなくなっていったことも事実だった。

【川副宏芳】

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デストロイヤーさん悼む 日本で大人気/復刻連載5

ザ・デストロイヤー(左)と和田アキ子(1973年11月9日撮影) 

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)、亡くなりました。享年88歳。日刊スポーツでは、デストロイヤーさんが現役引退した93年7月に連載を掲載しています。今回追悼をかねて復刻版として再掲載します(年齢などは当時のまま)。

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デストロイヤーの日本での幅広い人気を決定付けたのは、1973年(昭48)10月5日、日本テレビでスタートした「うわさのチャンネル」というバラエティー番組だった。和田アキ子をメーンにせんだみつお、あのねのねらのタレントが、ドタバタのコントを演じる番組だった。デストロイヤーはこの番組の救世主となった。

番組スタート時の視聴率は4・7%という低調さだったにもかかわらず、白覆面の魔王デストロイヤーが、片言の日本語と、和田アキ子ことゴッドねえちゃんにハリセンでぶたれるなどの、ボケ役を演じたことで人気が急上昇した。たった1カ月で22%にまで持っていったのだ。

このテレビ出演が、デストロイヤーに、また新たなプロレス人生を歩ませる転期になった。デストロイヤーの白覆面は、プロレスに全く興味のなかった主婦層など女性の人気を呼び、レスラーとしてはジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐ知名度を獲得したのだ。

この時期、デストロイヤーには内心の悩みもあった。コントを連発してお茶の間のファンを喜ばせるのはいいが、ひょうきんで弱いイメージが定着することと、子供たちへの影響を心配した。だが、13歳になっていた長男のカートは「女性が胸を出したり、当時のアメリカの感覚からすると、いやらしいユーモアもあったけど、学校が終わると、スタジオに遊びに行って楽しかった。ピンク・レディーとかタレントに会えたしね。友達にも自慢できた」と、親の心配とは関係なく、その状況を楽しんでいた。

また、番組登場と時を同じくして、デストロイヤーは外国人ではありながら、本業のプロレスでも日本陣営に入り、「流血試合の反則魔王」というイメージから脱却していった。Tシャツなどのキャラクターグッズも売れ、異国の地での成功に花を添えた。

現在も自分の試合が終了すると、特設売店に陣取り、自分のマスクのコピーを販売する商売っ気も発揮している。【川副宏芳】

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デストロイヤーさん悼む 力道山と死闘/復刻連載3

力道山(右)に4の字固めを決めるデストロイヤー(1963年5月24日撮影)

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)、亡くなりました。享年88歳。日刊スポーツでは、デストロイヤーさんが現役引退した93年7月に連載を掲載しています。今回追悼をかねて復刻版として再掲載します(年齢などは当時のまま)。

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ザ・デストロイヤー(61)の初来日は1963年(昭38)5月17日のことだった。178センチ、110キロの体は、2メートル6センチのキラー・コワルスキーらを見慣れた当時のファンには小兵に映った。

おしゃれだった。来日第1戦では赤いトランクスに赤い縁取りをした白マスク。第2戦では緑色で統一するなど、コスチュームに気をつかっていた。来日から1週間後の5月24日、東京都体育館で力道山とWWA世界王座をかけて戦った。28分15秒、足4の字固めにも力道山が降参しなかったため、引き分けとなった壮絶な試合だ。小兵ながら侮れない実力。これが余計にデストロイヤーのすごさを助長させた。1万2000人を収容した会場に入り切れなかった観客が、街頭テレビに殺到した。当時のビデオ・リサーチ社調べで視聴率は64%という驚異的な数字が残っている。

戦闘不能になった両者は抱えられて控室へ。デストロイヤーが「おどろいたやつだ。オレの4の字固めでギブアップしなかったのは、あいつが初めてだ」と言えば、力道山も「東郷が引っ繰り返れと教えてくれなかったら大変だった」と語っている。この死闘は、足4の字固めとともに、日本人の心に深く刻み込まれることになった。

この試合は、デストロイヤー自身にも大きな影響を与えた。日本のプロレスなど三流と思って来日したが、ふたを開けてみると、意外や実力者ぞろい。プロレス人気も高く、日本を中心に試合をしてみよう、との気持ちが強くなった。日本に重点を置いたシリーズ参戦が始まった。

この日本参戦が、デストロイヤーに大きな試練を与えた。当時から流れの早い米プロレス界では、次第にその名前も風化していった。巻き返しを図るには、本名のディック・ベイヤーからデストロイヤーに変身した時のように、大きなイメージチェンジが必要だった。ヨーロッパに新天地を求めて転戦。ドイツのトーナメントで活躍すると米国に戻りマスクマンのドクターXとして、再度売り出しを図った。

68年8月にバーン・ガニアからAWA認定世界ヘビー級王座を奪い、再びトップレスラーの仲間入りを果たしたのだ。今でも、米国ではデストロイヤーよりも、ドクターXとしての方が通りがいい。その間も日本では依然としてデストロイヤーで通した。ザ・インテリジェンス・センセーショナル・デストロイヤーと呼ばせたがった男は、状況に応じた変身という形で修士レスラーの知恵を遺憾なく発揮していた。 【川副宏芳】

◆両者とも戦闘不能でレフェリーストップ 63年5月24日・東京都体育館、デストロイヤー対力道山戦VTR WWA王座奪回を狙う力道山が、序盤からチョップで攻め込んだ。だがデストロイヤーも凶器をマスクに隠して頭突き、かみつきの反則攻撃。額を割られた力道山は、空手チョップで場外に落とすと、パンチ、チョップで猛反撃。だが、無抵抗を装っていたデストロイヤーに足4の字固めを決められてしまった。インターナショナル王者の意地にかけてもギブアップのできない力道山は耐えた。試合は無制限1本勝負。10分間に及ぶ絞め合いにブレークが入り、2分間の休憩が入ったが、その後両者は立って戦いを続けられる状態でなく28分15秒、レフェリーストップの引き分け試合となった。

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デストロイヤーさん悼む 教育熱心/復刻連載4

ザ・デストロイヤーさん(1993年7月28日撮影)

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)、亡くなりました。享年88歳。日刊スポーツでは、デストロイヤーさんが現役引退した93年7月に連載を掲載しています。今回追悼をかねて復刻版として再掲載します(年齢などは当時のまま)。

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リングから離れたザ・デストロイヤー(61)は、非常に教育熱心な男だ。1971年、デストロイヤーはウイルマー夫人(後に離婚)長男カート(当時10歳)長女クリス(同7歳)次男リチャード(同2歳)を引き連れ、1年間に及ぶアジア、ヨーロッパへの大遠征を敢行した。

ハワイ、サモア、フィジー、オーストラリア、ニュージーランド、日本、ドイツ、インド、シンガポール、香港など約20カ国を、試合や観光のために回った。これは、子供たちに「アメリカ以外にもいろいろな世界があることを見せてやりたかった」(デストロイヤー)からだという。「5、6カ国で試合をして、いろいろな国に足を延ばした。今までで、あんな楽しいことはなかった」とも言う。

この旅行で子供たちは世界の多様さ、言葉の違いなど、子供なりに多くのものを吸収した。長男のカートは「黒人、白人、黄色人種と知り合い、その生活を見てきた。だから、人間を見るとき、勤める会社や、乗っている車ではなく、その人の本質を見抜く自信ができた」と言う。次男のリチャードは2歳でオムツもとれていなかったが、「飛行機の中でトイレの使い方を覚えたんだよ」とデストロイヤーは笑った。

日本に遠征してくる外国人選手は、来日の回数が増えてくると、家族を同伴することが多い。これは、家を空ける機会の多いレスラーの苦肉の家族サービスともなっている。シューズとタイツをバッグに詰め込み、世界を転戦して歩くレスラーでなければできない、社会教育法だ。

また、73年から79年にかけ家族で日本に住み、子供たちは東京・世田谷のセントメリーズ校に通わせた。だが、カートの大学進学の時期となり「大学だけは母国の学校へ」と決心し、日本を離れてもいる。その子供たちも今は手を離れた。現在は生まれ故郷のニューヨーク州バファローで少年少女のスポーツ振興に尽くしてもいる。 【川副宏芳】

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デストロイヤーさん悼む マスクマンに/復刻連載2

デストロイヤーさん  1963年5月撮影

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)、亡くなりました。享年88歳。日刊スポーツでは、デストロイヤーさんが現役引退した93年7月に連載を掲載しています。今回追悼をかねて復刻版として再掲載します(年齢などは当時のまま)。

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「今日からお前はマスクをかぶるんだ」。1962年(昭37)、米ロサンゼルス地区に遠征していたディック・リチャード・ベイヤーは、同地区のプロモーター、ジュール・ストロングホーンにサンディエゴの控室で声をかけられた。当時のことをザ・デストロイヤー(61)は、「ほんとに突然だった。マスクはどうするんだと聞くと、バックステージ(舞台裏)に用意してあるから、という具合にね」と言う。世界をまたにかけた名レスラーの誕生はあまりにも唐突だった。

54年にデストロイヤーは、ニューヨーク州バファローのプロモーター、エルドン・ジョージに勧められてプロレスの道に入ったが、アマレス仕込みの卓越した技術も次第に飽きられ、プロとしてはどん底の生活をしていた時期だった。ストロングホーンが用意してくれたマスクをかぶって、マスクマンとして再デビューを飾ると、うわさがうわさを呼び、その生活は一変した。当時の米国には町ごとにプロモーターが存在し、引っ張りだこの存在となった。一時人気が低迷したが、62年7月にフレッド・ブラッシーからマスクマンとして初めてWWA認定世界王座を奪うと、デストロイヤーの名前は世界中に知れ渡ることになった。

大祖父が南ドイツから米国に移住。祖父デューイ・ビクターの代から、ドイツ系移民の多いニューヨーク州のバファローに定着した。高校を1年延長し奨学金を得てニューヨーク州のシラキュース大に進むと、レスリングとフットボールに熱中した。レスリングでは全米学生選手権を制し、フットボールでは同校がオレンジボウル優勝時に全米学生オールスターにも選ばれたほどの活躍だった。

大学院にも進み、フットボールでプロになることも考えたが、173センチという体格を考え、同校のコーチを選んだ。だが、コーチの収入だけでは生活も苦しく、レスリングの経験を生かしたてっとり早い副業としてプロレスの道に入ったのだ。

力道山からブラッシーと渡っていたWWA王座を奪ったデストロイヤーは、戦いの場を日本に求めた。63年5月に初来日。デストロイヤーは「それまでアメリカをメーンに戦ってきたが、日本に行ったことが、私のターニングポイントになった」というほど後に大きな意味を持つものになった。 【川副宏芳】

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デストロイヤーさん悼む 必殺足4の字/復刻連載1

ザ・デストロイヤー(左)にフィギュア4レッグロック(足4の字固め)にもって行かれる力道山=1963年12月2日

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)、亡くなりました。享年88歳。日刊スポーツでは、デストロイヤーさんが現役引退した93年7月に連載を掲載しています。今回追悼をかねて復刻版として再掲載します(年齢などは当時のまま)。

「白覆面の魔王」ザ・デストロイヤー(61)が、29日の全日本プロレス日本武道館大会を最後に現役を引退する。1954年にデビューして実に39年に及ぶ現役生活。2日、東京・後楽園ホールで開幕した引退シリーズでは新人の大森隆男(23)と対戦、自慢の足4の字固めで下した。28日の横浜大会では実息カート・ベイヤー(32)との初親子タッグも決定している。シリーズ中に62歳の誕生日を迎えるデストロイヤーは、足4の字固めとともに、永久にプロレス界に名前をとどめる。

本家デストロイヤーの足4の字固めが大森の両足をとらえた。思わず沸き起こる拍手にマスクの奥でにんまりだ。1963年(昭38)5月の初来日時に力道山を苦しめて以来のオリジナル技は61歳の今になってもさび付いていない。大森がたまらずギブアップすると、足を気遣う余裕のポーズだ。足4の字固めと白いマスクで築き上げたプロレス人生が、全日本プロレスのサマーアクション・シリーズで幕を閉じる。

引退理由は、時期がきたから、という判断からだった。これに「最高のコンディションをつくるのも、保つのも難しくなった」という現実が加わった。60歳を超えてプロレスを続けることは、世界中で一番激しいプロレススタイルの日本では、難しいことだ。

日本では最も知名度のある外国人選手ということで、全日本プロレスは「引退シリーズ」を用意した。ところが本人は、リングを去ることへの悲しみなどみじんも見せない。「そんなにまじめに、考えてないんだよ」と柔和な灰色のひとみを見開いて、淡々と語る。そして「シリーズ参加はこれが最後だけど、チャンスがあればまたリングに上がってみたい」と、現役への未練も残っている。レスリング一筋の人生で、もはやプロレスを自分の体から切り離すことはできない。

28日の横浜文化体育館大会では、今年1月にデビューし「白覆面2世」を目指す長男カートと初めてタッグを結成、ジャイアント馬場(55)、力道山の次男百田光雄(44)と夢の競演をする。翌29日、東京・日本武道館大会では馬場、カートとタッグを組んで引退記念試合を行うことも決定した。

魔王といわれた悪役時代、バラエティー番組でのコメディアン。米国人でありながら日本陣営への参加と、白いマスクにもいろいろな表情を持たせてきた。「引退でマスクを脱ぐかって? 脱ぐ理由がないよ。日本のファンは脱いでほしいとは思わないだろう」。デストロイヤーは最後までデストロイヤー。本名のディック・リチャード・ベイヤーにはならずに引退する。 【川副宏芳】

★足4の字固め

(フィギュア・フォー・レッグロック)デストロイヤーのオリジナル技。テコの原理を利用し、ヒザのジン帯を伸ばす技。技をかけられた形が4の字になっている。デストロイヤーの場合は左足のつま先が相手右太モモの下にロックされ、外れにくい。技をかけられた側がうつ伏せになると、攻める側の両ヒザに体重がかかるという欠点もある。

★ザ・デストロイヤー

The Destroyer

▼生まれ 1931年7月11日、米国ニューヨーク州バッファロー生まれの61歳。本名はディック・リチャード・ベイヤー。高校時代からアメリカンフットボールを始め、シラキュース大時代は花形選手だった。183センチ、110キロ。

▼覆面の元祖 デビューした54年当時は目立たない存在だったが、62年に「マンネリを打破する」と言ってマスクマンに転向した。日本でもマスクマン選手の草分け的存在として、覆面ブームをつくった。

▼日本大好き 63年5月に日本プロレスに初来日。以後、日本びいきの外国人選手となる。73年3月から79年6月までの6年間は日本で暮らしている。73年当時は人気番組「うわさのチャンネル」(日本テレビ系)に出演し、子供から大人まで幅広く人気を得た。

▼最近のレスラーとしての活躍 全日本プロレスには年に1度来日していた。ここ数年は毎年夏のシリーズに参戦。主に若手選手と対戦し、ルーキーの登竜門となっていた。

▼レスラー一家 長男のカート・ベイヤー(32)は全日本プロレスで今年1月9日デビューした。次男リチャード(24)もレスラー志望。また長女クリス(29)は全日本の常連外国人選手のダニー・スパイビー(36)と今年2月14日に結婚した。

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輪島さんが贈った北の湖さんへの弔いの言葉/復刻版

76年9月、輪島と握手を交わす北の湖

大相撲の元横綱で、北の湖と輪湖時代を築いた第54代横綱の輪島大士氏(本名輪島博)が死去したことが9日、分かった。

輪島さんはかつてしのぎを削ったライバル、北の湖理事長さんが急死した際、文書でコメントを発表した。15年11月22日付の日刊スポーツ記事で振り返ります。(年齢は当時)。

  ◇  ◇  ◇

北の湖理事長と現役時代にしのぎを削り「輪湖(りんこ)時代」を築いた元横綱、輪島大士氏(67)が21日、かつてのライバルの急死について文書でコメントを寄せた。咽頭がんの手術を受けて発声が困難なため。訃報について「最近、理事長は元気だと聞いたばかりだったので、とても驚いた。お互いに病気と闘っていたが、先に逝かれて寂しい」とした。

対戦成績は輪島の23勝21敗だが「運動神経が抜群だった。1度掛けた技は2度は通用せず、頭のいい力士だった」と説明。思い出の対戦には74年名古屋場所を挙げた。千秋楽の本割、優勝決定戦と輪島が得意の下手投げで2連勝して逆転優勝。この場所後に北の湖は横綱に昇進した。

輪島氏は引退後、日本相撲協会を退職した。その後はあまり付き合いがなかったというが「偶然、ホテルのサウナで会い、『裸の付き合いだね』と笑った。その後食事に行き、酒は強かった」と懐かしむ。

その縁もあり理事長からは毎場所、番付表が送られてきた。「昔のライバルが相撲界で頑張り続けていることが、とてもうれしかった。もらった番付表は全て取ってある」。そして「俺はもう少し頑張る。(理事長には)よく頑張ったね、お疲れさまと言いたい」と弔いの言葉を贈った。

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山本KID、5歳からたたき込まれた勝負魂/復刻版

山本KID徳郁=06年3月31日

格闘家の山本KID徳郁さん(41=KRAZY BEE)が亡くなったことがわかった。アマレスからプロの格闘家として活躍してきた。倒すか、倒されるかの格闘家人生。日刊スポーツでは06年4月23日、そのときの旬の人を紹介する「日曜日のヒーロー」のコーナーでインタビューした。復刻版として振り返る。

今、日本で最も面白い闘いをみせる男だ。山本“KID”徳郁(29=KILLER BEE)。昨年のK-1の総合格闘技イベントHERO’Sでミドル級世界王者に輝いた。倒すか、倒されるか−いちかばちかへのこだわりは、ミュンヘン五輪でメダルを逃した父親郁栄氏(61)譲り。小さな体に備わる動物的な勘や身体能力も、家族があったからこそはぐくまれた。家族関係が希薄になり、子供をめぐる問題が深刻化する現代に、その生きざまはヒントを与えている。

KIDは文字通り、子供を意味する。中学時代、小柄だったからつけられた。5歳から始めたレスリング。今まで自分より小さい選手と戦ったことはない。現在は163センチ、64キロ。主戦場のHERO’Sのリミット体重は70キロだから、減量の必要はないが、前日計量のため常に10キロ以上重い相手と戦っている。

「周りから『小さいのにすごいね』と言われて、あらためて気付かされる。そういえば、自分は小さいのかって。子供のころからずっと、相手の方が大きかったから、それが当たり前。小さいなんて、今まで気にしたこともない」。

体のハンディを全く感じさせない。それが最大の魅力だ。04年2月にK-1デビューすると、瞬く間にスターにのし上がった。04年大みそかの魔裟斗戦では瞬間最高視聴率31・6%をマーク。05年大みそかには須藤元気を倒して、HERO’Sの初代ミドル級世界王者に輝いた。

「K-1に参戦した時から、盛り上げる自信はあった。お客さんがスカッとする試合を、意識せずにできるから。この前、サラリーマンから『あなたの試合を見ると、仕事に張り合いが出る』と言われた。オレが大きい人に立ち向かうことで、仕事へのチャレンジ精神が生まれるなら、戦いがいがある

強いだけでは、ここまで支持されない。激しく、スピーディーな展開。勝つか負けるか。倒すか倒されるか。ただそれだけ。判定勝利は狙わない。試合を引き延ばしたり、勝ちを拾ったりすることは絶対にない。そんなスタイルは、父親によってつくられた。郁栄氏は「疑惑」ともいわれた不利な判定が響いて、メダルを逃した。子供のとき、何度も父親の無念を報じる新聞を見せられた。その悔しさが、自分のことのように感じられるほど、何度も読んだ。

「おやじからは『判定決着はだめだ』としつこいほど言われた。判定では、審判の主観、時には人種の違いなども影響する。勝つならKOか、1本勝ちだと。だから、子供の時に誓った。負けてもいい。白黒はっきりつくまで戦うんだと。今は倒すことしか考えないし、体が勝手に反応しちゃう。無難に勝つことは、オレの中ではあり得ない。だから、コロッと負けることもあるんだけど」。

「心」だけでなく「技」「体」の面でも過酷なほど鍛えられてきた。5歳からレスリング漬けで、正月も誕生日もなかった。

「しょっちゅう、ぶん殴られてた。中学1年でたばこを見つけられた時は、ぐちゃぐちゃにされた。でも、子供はたたかないと分からないでしょ。理不尽なものはいけないけど、意味のある体罰は必要なんじゃないかな。おやじには、殴られたことを感謝してますよ」。

鬼の父親が、仏に変わる瞬間があった。レスリングの試合に勝った時だ。特大の機動戦士ガンダムのプラモデルなど、欲しいものは何でももらえた。勝てば、楽しいことがある。父親の優しい顔も見られる。体に刷り込まれていった。

「祝い事は一切なかったから、試合に勝って、プレゼントをもらうことだけを考えてた。何かを得るためには、勝ち取らなければならない。プロ根性みたいなものが自然と身に付いた。今はおもちゃが賞金に変わっただけで、やっていることは変わらない。プロとしてやっていけてるのは、おやじのおかげかもしれない」。

レスリング一家のサラブレッドだが、格闘人生は決して順風満帆ではなかった。母親の死は、この半生で最大の悲しみだった。99年9月14日、憲子さん(享年51)が亡くなった。やはりレスリング経験者で、審判の資格を持っていた。栄養士の資格も取り、子供たちをサポートしていた。悲報の3日後、全日本大学選手権で優勝した。

「落ちたよ。その時は。でも運命だし、くよくよしても、おふくろは喜ばないから。今はね、上を見れば、いつもいて、オレを見てくれている。だから悪いことできないんだよね。生きてる時は、練習さぼっても分からなかったけど、今は全部見てるから。試合も最高の特等席で見てる。だから負けられない」。

その年の11月、シドニー五輪予選を兼ねた全日本選手権で出場切符を逃し、プロ転向を決意したが、壁に突き当たった。

「自信満々で、総合格闘技の世界に飛び込んだ。みんな倒せると信じてた。だけど、現実は違った。知らない関節技を簡単にきめられたり…。打ちのめされた。悔しくて悔しくて…」。

さいたま市のジムにこもった。1日6時間以上、食事と睡眠以外は汗を流した。当然、金はない。電気も止められた。ろうそくの火を頼りに暮らす極貧生活が、約1年続いた。アマレスで活躍する姉美憂(31)、そして妹聖子(25)の注目度が増す中、1人取り残されたようだった。

「こいつら(ジム仲間)の3倍(練習を)やれば、強くなると思った。とことんまで体をいじめてやろうと。『プロになるまでは、どこにも行かない』って決めた。常に体中が痛かったけど、強くなるためだから苦じゃなかった」。

ろうそく1本の暗い部屋でも、孤独に負けなかった。5歳から父と厳しい練習を積んだ自分を信じることができた。「今はチャンスに恵まれないだけなんだ」と言い聞かせた。

「テレビで格闘技を見ても、こんなの偽者じゃないかって。オレが出れば、みんな注目するぞと。運とチャンスがあれば、絶対に格闘技界を変えてやると思い続けた。1年後にプロデビューできたけど、あの1年があるから、今の自分があると思っている」。

家族に鍛えられ、支えられてきた歩み。今は自分も2児の父親になった。真里有夫人(22)との間に長男海鈴くん(3)と二男愛郁くん(1)がいる。勝った時はいつもリングで抱き上げる。毎朝、車で保育園まで送る。「家族のためなら死ねる」とてらいもなく言い切る。

「うちの子供には不自由はさせてない。いいところに行って、いいものを食わせて、いい服を着させる。だけど、ニュースを見ちゃうとね。もしオレが、ろうそくで暮らしてた時代だったら、オレもストレスをためて、子供に害を与えたかもしれない」。

幼児虐待、少子化問題…子供をめぐる問題はひとごととは思えない。自然と言葉が熱くなった。

「国は、まず第1に子供にお金を使ってほしい。貧しかったり、共働きで子供を育てられない夫婦をサポートするとかね。お金お金は良くないかもしれないけど、お金は満たされるから。援助があれば、子供に被害はいかないでしょ」。

母親が願っていた五輪のメダル。父親の悔しさを晴らす気持ちは、今も忘れたことはない。

「チャンスがあれば、北京五輪に出たい。子供のころからメダルが目標だったから。中途半端ではだめだから、挑戦となれば、アマ一本に専念しないといけないだろうな」。

プロの次は、アマで世界の頂点に立つ。トップファイターの中で最も小柄な男の夢は、誰よりも大きい。【取材・田口潤、松田秀彦】

山本KID徳郁=06年3月31日

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【復刻】パーキンソン病からの復活を目指すマサ斎藤

連載「日刊スポーツ 東京オリンピック特集」 栃木の病院でリハビリに励むマサ斎藤(マサ斉藤)=2016年12月31日

<復刻版・2017年1月18日付の東京オリンピック(五輪)特集>

 プロレス界のレジェンドで1964年東京五輪レスリングヘビー級代表としても活躍したマサ斎藤さんが14日に死去した。75歳だった。

 引退した99年ごろに難病のパーキンソン病を発症。懸命のリハビリと闘病生活を長く続けていた。日刊スポーツでは2017年1月18日付けの東京五輪特集で、病と闘いながらも前向きな姿勢を失わない斎藤さんの姿を取り上げていました。

                      ◇   ◇   ◇   ◇

 日米プロレス界のレジェンドで、1964年東京五輪レスリングヘビー級代表のマサ斎藤(74)が、2020年東京五輪を励みに懸命の闘病を続けている。引退した99年ごろに難病のパーキンソン病を発症。リハビリを休めば体の自由はさらに奪われる。だが、「GO FOR BROKE(当たって砕けろ)」の信条は失っていない。戦い続けてきた男の激動の半生、根底にある五輪への思いに迫った。【取材・構成=奥山将志】

 栃木県内のリハビリ病院にいる斎藤を訪ねたのは、昨年大みそかの午後1時だった。現役時代、はち切れんばかりに鍛え上げられていた体は小さくなり、体重は120キロから70キロまで落ちた。74歳。白髪交じりの頭に、背中も少し丸まっていた。だが、あいさつした記者を車いすから見上げた目は、戦いの中にいる男のそれだった。

 病は急に襲ってきた。99年、56歳でリングに別れを告げたころ、少しずつ体に異変が起きていた。ろれつが回りにくくなり、顎が細かく左右に震え始めた。1年以上も国内外の病院を転々とした結果、パーキンソン病だと分かった。原因は現役時代に蓄積された脳へのダメージ。暴飲暴食、リングに上がり続けるために飲んでいた強い鎮痛剤も関連していると言われた。ゴールのない、壮絶な戦いが始まった。

 16年がたった現在、進行は「末期」に入っている。1日に数回襲ってくる発作が始まれば、全身の震えが治まるまでじっと待つしかない。1回1時間のリハビリを1日に3回。365日、少しでも怠れば体の自由はさらに奪われる。何度も絶望し、何度も自分の運命を恨んだ。だが、逃げることは許されない。

 午後2時-。歩行、スクワットのリハビリを歯を食いしばって乗り越えた斎藤に、胸の内を聞いた。震える顎を自らの手で固定するように押さえ、息を整える。ゆっくりと、一言一言を紡ぐように言った。「パーキンソンは恐ろしい病気だ。だが、俺はこうして戦っている。絶対に負けるもんかと。こいつをやっつけないと、俺は生きていけないんだ」。 

  戦い続けてきた。明大4年時の1964年に東京五輪に出場。コーチからは4年後のメキシコ五輪を目指すことも打診されたが、65年に馬場、猪木らがいる日本プロレスに入団した。五輪出場選手のプロレス転向第1号だった。翌66年に東京プロレスの旗揚げに参加するも、すぐに経営難に陥り、米国に活躍の場を求めた。後ろ盾など一切ない。わずかな荷物を手に、1人で海を渡った。

 日系人が日本人を演じ、ヒールとして活躍していた時代。確かな技術と、「元オリンピアン」という肩書は米国でうけた。「俺は東京五輪のレスリング日本代表だ。一番強いんだ」。現地のプロモーターに自らを売り込んだ。スター選手だったキンジ渋谷のタッグパートナーに抜てきされると、サンフランシスコ、ロサンゼルスを中心に大ブレーク。

 その後もNWA、WWF(現WWE)、AWAと3大メジャー団体を転戦し、全米にその名をとどろかせた。日本でも猪木との「巌流島の戦い」など数々の伝説を残し、99年に引退。だが、斎藤の屈強な体に病が迫っていた。

 解説を務めていたテレビ局関係者からの一言が最初だった。「もう少し、はっきりと話してもらえませんか」。斎藤自身も身に覚えがあった。倫子(みちこ)夫人を呼び「なあミチ、僕の顎、少し震えていない?」と聞いた。医師から診断が告げられると、華やかな現役生活から一転、谷底へ突き落とされたような気分だった。「何で俺だけが、こんな目に遭わないといけないんだ」-。自らの運命を恨んだ。

 顎が震え始めると、拳でゴツンゴツンと何度も殴りつけた。ぶつける場所のない怒り。そんな日々が何年も続いた。13年11月には恐れていた「転倒」も始まった。つえ、車いすがないと生活ができなくなり、その後は、薬の副作用による幻覚にも苦しんだ。倫子夫人は「人生を諦めたように表情がなくなっていった。気持ちが前を向かないから、リハビリも続かない。五輪にまで出たファイティングスピリットが燃え尽きてしまったのかなと思うと、本当につらかった」。夫婦仲も壊れかけていた。

 だが、そんな暗やみに一筋の光が差した。13年9月、20年の東京五輪開催が決まった。斎藤にとって2度目となる日本での夏季五輪。胸に熱いものがこみ上げた。「僕は、2020年に絶対にカムバックするよ」。倫子夫人に言った。久しぶりの力強い言葉だった。

 昨年12月、斎藤は17年ぶりにリングに立った。旧知のプロレス関係者の計らいで大阪で斎藤を応援する小さな興行が開かれた。ファンに姿が見えない、リングぎりぎりまで車いすで近づいた。だが、そこからは「レスラー・マサ斎藤」だった。入場曲が鳴り響くと、すっと立ち上がり、自らの足でロープをくぐる。用意されたいすに座ることなくファンの声援に手を挙げて応えた。乱入した武藤敬司の猛攻を受け切ると、チョップから踏みつけ攻撃4連発。斎藤の状況を知るすべての関係者が驚いた。

 試合の前夜、斎藤は言った。「俺も普通の人みたいに、町を歩きたいんだ。絶対に歩いてみせる」。心の叫びだった。倫子夫人は涙が止まらなかった。東京五輪、プロレスのリング。斎藤の戦いのスイッチが入った。これまで以上にリハビリに熱が入り、担当する大柄な理学療法士を相手にした“スパーリング”も始めた。体1つで世界の頂点に駆け上がった男が、再び前を向いた。

 五輪-。昔話を聞いていると、突然昨今のスポーツ界にかみついた。矛先は試合後の選手がよく口にする「エンジョイできました」というフレーズだ。「エンジョイの意味を分かっているのか。試合でエンジョイ? 勝負だよ。エンジョイは結果を出したやつが使う言葉だ」。勝つことで未来を切り開いてきた男の自負がにじみ出た。

 約1時間の取材を終えた。感謝の意を伝え、記者がいすから立ち上がろうとした時だった。斎藤から質問が飛んだ。「今、何年だ?」。「明日から、2017年です」。それを聞くと、視線を下げ、ゆっくりと指を折って数え始めた。「18、19、20…」「もつな」。わずかにほおが緩んだ。

※敬称、年齢などは当時のものです

長州力(中央)はマサ斎藤(マサ斉藤=左)、永島専務とともに総合格闘技イベント「X−1」開催の発表をした(03年7月10日)
90年2月、AWA世界ヘビー級選手権でラリー・ズビスコを破り念願のタイトルを獲得したマサ斎藤

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天龍&ホーガン夢タッグ!観衆6万人震えた/復刻

1991年3月31日付の日刊スポーツ紙面

<日刊スポーツ:1991年3月31日付>

 プレーバック日刊スポーツ! 過去の3月31日付紙面を振り返ります。1991年の1面(東京版)は天龍、ホーガンの夢のドームタッグを報じています。

 ◇ ◇ ◇

 天龍、ホーガンの夢のドームタッグは不満の残るリングアウト負けとなった。

 6万4618人と観客動員新記録の熱狂のなか、天龍源一郎(41)、ハルク・ホーガン(35)が初めてタッグを組み、アニマル、ホークのザ・ロード・ウォリアーズと激突した。流血の壮絶な戦いは14分3秒、場外乱闘からウォリアーズが一瞬早く戻り勝ちを拾った。

 試合開始早々6万人を超す大観衆が揺れた。アニマルがホーガンを、ホークが天龍を高々とリフトアップした時だ。天龍はアニマル、ホークにすぐさま反撃の延髄斬りを見舞い、ホーガンとの夢のタッグコンビは、きらきらと輝きだした。ホーガンとウォリアーズの対決は米国でも実現したことがない。一番エキサイトしたのは、ほかならぬホーガンだった。ホークに場外戦に誘い出されると、イスを持って応戦した。ベビーフェース(善玉)として、世界のちびっ子ファンから親しまれているホーガンにしては、異例のラフファイトだった。

 ホーガン、ホークが流血するという激しい展開のなか、ひとり冷静に試合を進めたのが天龍だった。アニマルに逆水平打ち、ラリアットと着実にポイントを稼ぎ、代わったホークを伝家の宝刀パワーボムで切る大活躍ぶりだ。ホーガンとのタッチワークにしても、「すごく後につなぎやすかった」と試合後に話していた。

だが、勝負は非情だった。ホーガンが、場外戦に誘われている間に、天龍はアニマルに肩車されたところを、ホークにラリアットを食ったのが致命傷となった。なんとかはねのけ、場外に逃れたものの、場外戦からいち早くカウントアウト内にリングに滑り込んだのは、アニマルとホークだった。

 勝敗を分けたのは何だったのか。チームプレーに徹したウォリアーズと、昨夏の旗揚げからとうとうこぎつけた東京ドームで、SWSの将来を背負って戦った天龍。その中でWWFの人気を2分するウォリアーズとの対決に、いつもの余裕を忘れてしまったホーガンだったともいえる。しかし、リングアウト負けという決着だったが、試合はドーム新記録の大観衆を満足させるエキサイティングなファイトだった。天龍は3年前に後援者からプレゼントされた、ここ一番のときにしかそでを通さないガウンをまとってリングに立った。「充実感はあったけど、満足という感じじゃない」と言ったが、戦い切ったという顔つきから、納得のいく試合であったことがうなずけた。

 唯一、残念だったのは、試合後のホーガン一流の観客との歓声比べが出なかったことだろう。これには不満の声も聞こえたが、それだけ選手たちが、勝敗に重点を置き戦ったことのあかしといえる。SWSの田中八郎社長は「お祭りにならないかと心配したが、それ以上のものが出た。結果が良かったので、責任の重さも感じる」と言う。心配された観客動員も、過去最高を記録するなど、あすのSWSにつなげる大会になったことは確かだった。

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若花田、弟貴ノ花従えVパレードに4000人/復刻

1993年3月29日付日刊スポーツ紙面

<日刊スポーツ:1993年3月29日付>

 プレーバック日刊スポーツ! 過去の3月29日付紙面を振り返ります。1993年の1面(東京版)は、初優勝を決めた若花田のVパレードでした。

◇ ◇ ◇

<大相撲春場所>◇千秋楽◇1993年3月28日◇大阪府立体育会館

 お兄ちゃんが鮮やかにフィナーレを飾った。14日目に初優勝を決めた東小結若花田(22=二子山)は、千秋楽も霧島に快勝。14勝1敗で春の幕を閉じた。大関どりがかかり、シコ名が若ノ花に変わる来場所へ、最高のステップとなった。

 天皇賜杯が、やけに大きく映った。幕内では4番目に軽い115キロの若花田が、ズッシリ重い賜杯を出羽海理事長(元横綱佐田の山)から手渡される。伯父の花田相談役、父である二子山親方、そして弟の貴ノ花が味わった感触を若花田もじっくりと味わった。「重たかった。(表彰式が長くて)腰が痛くなっちゃった」。優勝を決めた前日に、たっぷり流した涙はない。笑顔、笑顔。明るいお兄ちゃんの素顔に戻った。

 表彰式を終え、支度部屋に戻ると、弟が待っていた。言葉は交わさない。かすかに緩んだ口元だけで通じ合う。「おめでとう」。貴ノ花からのテレパシーを感じた若花田の顔が緩んだ。過去2度、弟のVパレードの旗手を務めたが、今度は若花田が、華やかなスポットライトを浴びる番だ。

 春雨が降りしきる中、優勝旗を手にした貴ノ花を従え、オープンカーが滑り出した。「お兄ちゃん、おめでとう」。沿道に詰め掛けたファンの大歓声に包まれる。冷たい雨など、関係なかった。優勝の実感が、喜びが心の底から込み上げてきた。

 数カ所で将棋倒しのアクシデントも起こったほどの熱狂ぶりだった。午後5時から東大阪市小阪駅前で祝いの日本酒も振る舞われ、同駅から二子山部屋まで200メートルのコースに4000人のファンが押し寄せた。小阪メルシィ商店会の小原博久会長は「お兄ちゃんの人気は根強いからね。これで商店街もまた活気づく」と大喜びだった。宿舎で部屋関係者に囲まれての万歳三唱の間、若花田は初めての体験とあって恐縮した面持ちだったが、なみなみと美酒がつがれた大きな銀杯を親方と貴ノ花に支えられながら口にすると、ようやく表情が和んだ。

 鮮やかに、「若サマの春」のフィナーレを飾った。霧島を電車道で白房下へ押し出す快勝で締めくくる。積み重ねた白星は14個。「非常に良かったと思います」。来場所は大関どりがかかる。シコ名も「若ノ花」に変わる。慣れ親しんできた「若花田」に、笑顔で別れを告げた。

 春場所前に発足した「若花田・貴ノ花関西後援会」会長のサントリー・佐治敬三会長(73)も多忙の合間を縫って、激励に駆けつけた。「こんな幸せなことはない。本当によくやってくれました」。発足直後の二人の快進撃に、感無量の思い。「(優勝のご褒美は)慣習に従って考えたい。大関も近いことでしょう」と笑いが止まらない。

 「15日間、長かった」。初優勝、そして殊勲、技能賞を手にして、長い15日間が終わった。そして、新たな挑戦の幕が開く。

 「相談役に似てきたと言われるが、われわれには相談役が大関、横綱のときのイメージがある。今はまだ三役の力、これから近づいていくだろう」という出羽海理事長の言葉を若花田も心得ている。「まだまだこれからです。がむしゃらに相撲を取っていくだけです」。

 “土俵の鬼”とうたわれた名横綱の域に達するには、まだ長い階段が待ち受けている。だが、若花田が大きな第一歩をしるしたのは間違いない。真価を問われる来場所、大関どりにも「何も考えず、無心になることです」。頭上に輝いた栄冠にも、おごりはない。

 「今夜はパーッと騒ぐ? それは内証。個人的なことだからね」。いたずらっぽく笑った若花田。激闘、プレッシャーに痛めつけられた小さな体を休め、まずは英気を養う。そして、「若ノ花」の挑戦が始まる。

※記録と表記は当時のもの

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若乃花、引退を表明「体力を補う気力が…」/復刻

2000年3月17日付日刊スポーツ紙面

<日刊スポーツ:2000年3月17日付>

 プレーバック日刊スポーツ! 過去の3月17日付紙面を振り返ります。2000年の1面(東京版)は横綱若乃花の引退表明でした。

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<大相撲春場所>◇5日目◇2000年3月16日◇大阪府立体育会館

 横綱若乃花(29=二子山)が引退を表明した。進退をかけて臨んだ大相撲春場所5日目、明大中野高の後輩・関脇栃東(23)に押し出されて3敗目。取組後、東大阪市の宿舎に戻り師匠の二子山親方(50=元大関貴ノ花)に「体力を補う気力が限界に達しました」と引退の意向を伝え、承諾された。今日17日、日本相撲協会に引退届を提出する。横綱在位11場所は史上9位の短命だが「お兄ちゃん」のキャラクターでファンに愛された横綱。大相撲人気を支えてきた功労者が、丸12年の土俵生活に別れを告げた。

 最後の相撲も、雨の日だった。初優勝を飾った1993年(平5)春場所、史上初の兄弟横綱を決めた98年夏場所千秋楽、その場所後の奉納土俵入り、いつも雨だった。この日も未明から春の雨。88年(昭63)2月21日、貴乃花とともに入門して4408日目、雨に送られて第66代横綱若乃花は土俵に別れを告げた。

 らしい散り際だった。前日4日目、玉春日戦に死力を尽くして勝ち、この日につないだ。慕われてきた栃東に結果的に渡された引導。「強くなったか? うん、うれしかった」。後輩の成長を肌に染み込ませ、心の区切りをつけた。

 取組後の支度部屋では「ここまできたら怖いものはない。やれるところまでやります」と話していた。だが、宿舎に向かう車中で冷静に限界を悟ったという。「体力を補う気力が限界に達しました」と師匠に伝えた。宿舎で行われた会見。「全く悔いはない」。若乃花にはひと粒の涙もなかった。

 横綱ではケガとの闘いだった。横綱在位11場所は昭和以降歴代9位の短命、29歳2カ月の年齢は6位の若年。11場所中休場5場所、横綱昇進後の優勝ゼロは7人目となる。だがそんな記録よりも、記憶に残る横綱だった。

 今場所、連日館内を手拍子が包んだ。憎らしいほど強いのが今までの横綱像だったが、勝負をあきらめない執念の相撲がファンに愛された。

 最高の思い出を「兄弟で横綱になったこと」、逆に最もつらかったことを「(95年九州場所の)兄弟での優勝決定戦」と振り返った。当初は高校卒業後に入門予定だった。だが「弟のために」と中退してともに初土俵を踏んだ。その弟から98年秋場所前に「絶縁宣言」された。若乃花は傷ついた心を隠し、じっと耐えて関係を修復した。

 耐え続ける力士人生もこれで終止符を打った。「いろいろ経験して楽しかった」。若乃花らしく明るく締めくくった。小さな体で数々のドラマを生み出してきた気力の横綱。20世紀最後の年、大相撲人気を支えた「若・貴時代」が終わった。

<若乃花と一問一答>

 若乃花 体力を補う気力が限界に達したので、本日をもって引退致します。支えてくださった方々には心から感謝致します。

 -いつ、引退を決意したか

 若 今日の取組後の帰り道で考え、こういう結果になりました。

 -夏場所復帰でも良かったのでは

 若 心の問題です。今場所前に、やるぞっという気持ちになったので。

 -後悔は

 若 やることはやった。

 -横綱としての2年間は

 若 夢の中にいるようだった。

 -一番の思い出とつらかったことは

 若 思い出は兄弟で横綱になったこと。つらかったのは兄弟での優勝決定戦。

 -思い出の一番は

 若 初優勝した大阪(93年)で曙関を破った一番。初土俵も大阪だったので「最後」も春にかけてみたかった。

 -今後は

 若 3番目の娘と優勝記念撮影できなかったのが、土俵へ残した忘れ物ですが、協会に残り、後進の指導をしたい。強い力士、一般社会でも通じる人間を育てたいです。

 ◆若乃花勝(わかのはな・まさる)本名花田勝。1971年(昭46)1月20日、東京都杉並区生まれ。88年春場所、若花田のシコ名で弟の貴乃花(当時貴花田)とともに初土俵を踏む。90年(平2)春場所新十両、同年秋場所に新入幕。93年春場所14勝1敗で初優勝。翌夏場所から若ノ花に改名、同年7月大関昇進。94年九州場所から3代目若乃花。98年5月第66代横綱に昇進し、史上初の兄弟横綱が誕生。180センチ、134キロ。得意は左四つ、寄り。通算573勝286敗124休、幕内通算487勝250敗124休。家族は美恵子夫人(31)長男将希君(4)長女瑞希ちゃん(3)二女麻美ちゃん(1)。

※記録や表記は当時のもの

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曙、歴史的1勝 史上初外国人横綱で初白星/復刻

1993年3月15日付日刊スポーツ紙面

<日刊スポーツ:1993年3月15日付>

 プレーバック日刊スポーツ! 過去の3月15日付紙面を振り返ります。1993年の1面(東京版)は初の外国人横綱となった曙が琴錦を押し出しで下し、横綱として初白星を挙げた様子を伝えています。

 ◇ ◇ ◇

<大相撲春場所>◇初日◇14日◇大阪府立体育会館

 曙貴新時代の幕が開けた。新横綱曙(23=東関)は新横綱場所初日の緊張を立ち合い、両手のかち上げ一発で吹き飛ばした。琴錦の重い腰も一瞬にして反り返る破壊力。昨年春場所2日目以来、6場所、370日ぶりの横綱土俵入りも披露。わずか2秒7の圧勝劇で3連覇へ豪快発進した。

 主役の座はだれにも渡さない。曙は自らの豪快な相撲内容で館内のファンにそう主張していた。204センチ、212キロ。史上初の外国人横綱、緊張する新横綱の初日と両肩にのしかかってくる重圧を見事にパワーで粉砕した。最近5連勝中だが、それ以前は7連敗の苦手琴錦への不安も感じさせない。土俵に上がれば、たった一発、ホンの一瞬で相手を吹き飛ばした。

 記念すべき「綱・初白星」は、全体重を乗せたかち上げで決まった。「落ち着いていた。かち上げは思いっ切りいくこと、という考えから」。迷うことなく、琴錦のあごにぶちかました。こん身の一撃に、重心が低く腰の重い琴錦の体が簡単にのけぞった。「納得いく相撲だった」。文句ない横綱相撲だ。右のど輪で押し込み、一直線に押し出した。

 大入り満員の館内が揺れ、役員室も感嘆の声しか上がらない。「オー、足が出るな良く、オー」。出羽海理事長(元横綱佐田の山)が叫ぶ。そして、「(横綱)合格だね、合格だ」と力を込めて曙の新横綱場所の門出を祝福した。日本相撲協会のトップとして、自らが送り出した初の横綱。1909年(明42)夏場所に優勝制度制定後、43横綱が誕生したが、新横綱場所のプレッシャーに8横綱がのみ込まれ、初日黒星を喫した。28年前の65年(昭40)のこの春場所で新横綱場所を迎えた理事長自身も重圧に押しつぶされ、苦いデビューだった。それだけに喜びもひとしおだ。

 気合の入った朝げいこをこなした。同じ区内に宿舎を構える友綱部屋から同期生の十両魁皇が「場所中は初めて」(曙)という出げいこにやってきた。同じ88年春場所初土俵。5番胸を出したが「いいけいこになったよ」と顔をほころばせた。懸賞金の数でも、曙11本に貴ノ花8本。横綱への注目度の高さを示した。

 初日の取組はハワイへ衛星生中継された。NHK衛星放送の画像が故郷のCATV「チャンネル13」を通じ、現地時間13日午後9時過ぎから放送された。会心の横綱デビュー戦についつい笑みがこぼれた。「勝ち名乗りがいつもと違ったね。気持ち良かった」。東支度部屋の一番奥。横綱の正位置に陣取った曙の快進撃が始まった。

※記録と表記は当時のもの

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小川直也に猪木魂注入、ロスで弟子入り/復刻

1997年3月4日付日刊スポーツ1面(東京版)

<日刊スポーツ:1997年3月4日付>

 プレーバック日刊スポーツ! 過去の3月4日付紙面を振り返ります。1997年の1面(東京版)で元柔道世界王者の小川直也がアントニオ猪木に弟子入りしたことを報じています。

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 元柔道世界王者の小川直也(28)が、新日本プロレス会長のアントニオ猪木(54)に弟子入りした。小川は1日、2月27日に渡米した猪木を頼ってロサンゼルス入り。今日3日(日本時間4日)から現地のグレイシー柔術、キックボクシング・ジムなどを渡り歩き、総合格闘家としてのトレーニングをすることになった。猪木の「闘魂」を胸に秘めた小川は4月12日、東京ドーム大会で格闘家、小川直也としてデビューする。

 新日本プロレスとの契約が秒読みとなっている小川は、米ロサンゼルスにいた。小川が頼ったのは、世界格闘技のネットワークづくりのために渡米していた猪木。現在、猪木と行動を共にしている佐山聡(元タイガーマスク)と一緒に、既に米国に飛んでいたのだ。

現役時代から「柔道がすべてではない」と話していた小川にとって、すべての格闘技を通じ「最も強いものは何か」は永遠のテーマ。それを追求するために、1976年(昭51)の柔道王ウイリアム・ルスカ戦を皮切りに、ムハマド・アリ(ボクシング)ウイリー・ウイリアムス(空手)らとの対戦で、異種格闘技路線を確立させた猪木は最高の師だった。

 小川は今日3日から、猪木のもとで本格的な格闘技修行に入る。プロレスを含め現在の格闘技界は、異種格闘技戦と呼ばれる種類、流派を問わない戦いが人気。その頂点が、急所打ち、目つぶし、かみつき以外はOKというケンカ大会(アルティメットファイト)だ。もともと「格闘技はすべて好き」という小川は、プロレスでなく格闘家から始めることになる。

 柔道家としては完成されている小川だが、ルールに縛られた戦いしか経験がないのが弱点。ノールールに対応することを目的に、日本古来の柔術からブラジルで発展を遂げたグレイシー柔術からトレーニングを始める。佐山と親交の深い第一人者ヒクソン・グレイシーの道場に出向く今日3日が、小川の新しい格闘人生の始まりとなる。

また、マーシャルアーツと呼ばれるキックボクシング系のジムにも入門し、蹴り、打ち、組み、投げを自在に扱える総合格闘家への変身も目指す。このほかにもロサンゼルスにはあらゆる種類の格闘技のジムが点在していることから、ジャンルに捕らわれない修行ができる。

 現在、プロレスから離れて独自の格闘技路線を行く猪木への弟子入りで、小川のレスラーとしての新日本プロ入門は当面見送られる。「今度、大きいヤツが来る」とうれしそうに話していた猪木にとっても、まずは素質を持つ小川を世界最高の格闘家に育てることが最大の目標となる。

いくら世界王者といっても、プロレスでは素人。一人前になるには時間もかかる。しかし、柔道を生かした「総合格闘技」なら即戦力間違いなし。39日後に迫った4月12日の東京ドーム大会では、柔道世界一の誇りを胸に柔道着を着用しての登場となる。猪木の「闘魂」をその巨体に宿し、小川がリングに上がる。

 ◆小川の今後 小川が第二の人生をいきなりプロレスではなく、総合格闘家に求めた選択は正しい。現在最も注目されているのはどんな試合にも対抗できる格闘家で、スタイルが幅広い日本のプロレスでいえばパンクラスが筆頭株だ。

現に総合格闘家としてWWFに入ったケン・ウェイン・シャムロックもパンクラスで活躍した選手だ。相手が距離を保った場合は蹴りやパンチで応戦。組んでくる選手には投げからひじ、腕などの関節技に入る。また、後ろに回っては首絞めなどの攻撃にも移行できる。

 小川には柔道というきちんとした下地があり、投げから抑え込みに入るタイミングなどは、柔道の試合でも実証済み。足払いを発展させた本格的な蹴りをマスターできれば、怖いものなしの格闘家となる。

☆輪島と北尾の修行

 ◆輪島大士(元横綱) 1986年(昭61)4月13日に全日本プロレス入りを発表し、ハワイで修行生活に入った。砂浜でのランニング、腕立て伏せ200回、スクワット1000回などがノルマだった。7月にはミズーリ州セントルイスに移り、元NWA王者パット・オコーナーに師事。8月7日、ジャイアント馬場とのタッグで海外プロレスデビュー。その後もプエルトリコなど各国を回って技を磨き、11月1日に日本デビューを果たした。

 ◆北尾光司(元横綱) 89年(平元)6月2日にプロレス入り。バージニア州ノーフォークで、鉄人ルー・テーズからプロレスの基礎をみっちりとたたき込まれる。朝は砂浜でのランニング、午前中はウエートトレを行い、夕方からテーズ道場での特訓。スクワット、ブリッジ、受け身、グラウンド練習をこなし、フリースパーリングで終了。10月にはミネソタ州ミネアポリスに移り、アマレス出身のブラッド・レイガンズの下で実戦練習。12月に帰国し、翌90年2月10日に新日本プロレスからデビューした。

 ◆小川直也(おがわ・なおや) 1968年(昭43)3月31日、東京・杉並区生まれ。私立八王子高入学と同時に柔道を始め、明大1年の86年全日本学生選手権で優勝した。翌87年に、史上初めて10代(19歳7カ月)で世界選手権優勝を果たすなど、同大会通算優勝4回(無差別級3回、95キロ超級1回)。全日本選手権優勝7回は、山下泰裕氏の9回に次いで史上2位を誇る。五輪での金メダルに縁がなく、92年バルセロナ大会(95キロ超級)は銀、昨年のアトランタ大会(同)は5位に終わった。家族は葉子夫人と1男。193センチ、130キロ。五段。

※記録と表記は当時のもの

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「何で止めるんや!」辰吉丈一郎TKO負け/復刻

1996年3月4日付日刊スポーツ1面(東京版)

<日刊スポーツ:1996年3月4日付>

 プレーバック日刊スポーツ! 過去の3月4日付紙面を振り返ります。1996年の1面(東京版)ではボクシング辰吉丈一郎の世界戦を報じています。

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<ボクシング:WBC世界Jr.フェザー級タイトル戦>◇1995年3月3日◇横浜アリーナ◇観衆1万7000人

 壮絶な流血戦の末、辰吉丈一郎(25=大阪帝拳)が散った。王者ダニエル・サラゴサ(38=メキシコ)に1回、左ストレートを浴びせられてペースを乱し、終始老かいなテクニックにほんろうされた。辰吉は両まぶたを切り、11回、サラゴサに連打を浴びたところで出血がひどくなり、3回目のドクターチェックでストップ。11回2分47秒、TKOで2階級制覇の夢が消えた。試合後、引退か現役続行かについては、明言を避けた。

王者 サラゴサ TKO 11回2分47秒 辰吉丈一郎

55.3キロ(メキシコ) 55.3キロ(大阪帝拳)

 両まぶたから鮮血をしたたらせながら、それでも辰吉は訴えた。首を振りながら「何でや、まだオレは元気やないか」と叫び、グローブをはめた両手をロープにたたきつける。「レフェリー、何で止めるんや」と場内の声もわき起こる。だが、止められた試合は、動かない。ベルト奪取、2階級制覇の夢は、血の海の中に消えた。

傷ついた顔をキャンバスにこすりつけた。王者が高々とベルトを掲げる隣で、辰吉は土下座した。「ファンに謝るしかないでしょう。僕のようなしようもない人間のために、あんなに応援してくれて。死んだらええと思ってほしい。僕も死にたい」と、試合後の記者会見でつぶやく。リングを下りるときも、ファンに向かって両手を合わせ謝った。

 万全を尽くした世界戦で、最悪のシナリオが待っていた。1回、サラゴサの左ストレートを顔面に食い、フラつく。リズムを狂わされ手が出ない。左を殺され、右ストレートも決定的なダメージを与えられない。大ベテランの術中にはまっていく。4回に左、8回に右まぶたを切り、流れる血で視界を失った。11回は、棒立ちで連打を浴びた。試合続行を訴える辰吉の声も強がりだった。

 負ければ引退の薬師寺戦に敗れ、それでもワガママを貫き、JBCのルールを変えた。網膜はく離から復活したボクサーが、再び世界王座に就く。日本ボクシングの新たな歴史を刻むはずの試合で完敗した。「才能なかったんでしょうね。サラゴサは、尊敬できる強い王者だった。すべての面で数段上。大人と子供でした」。サングラスで腫(は)れた目を隠し、辰吉は完敗を認めた。

 この試合にかけていた。島田信行トレーナー(33)が「今度負けたら、表を歩けない。絞首刑の気持ちでしょうね」と話していたほど。

「この場でまたやりたいと言ったらカッコ悪い。僕も男ですから」と、今後については明言を避けた。気持ちに整理をつけながら、辰吉は二つに一つの結論を出す。

 ★井出ドクター 2回のチェックまでは、これ以上ひどくならなければ、いけるという判断だったが、11回はかなり打たれて傷が広がっていた。あれ以上試合続行不可能ということ。両目とも3センチ、深さは左が1センチ、右が0・5センチ。

※記録と表記は当時のもの 

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白鵬が歌手デビュー 復興応援でデュエット/復刻

2016年2月21付日刊スポーツ紙面

<日刊スポーツ:2016年2月21日付>

 プレーバック日刊スポーツ! 過去の2月21日付紙面を振り返ります。2016年の芸能面(東京版)は大相撲の横綱白鵬の歌手デビューでした。

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 大相撲の横綱白鵬(30)が歌手デビューする。大阪出身の歌手Kae(35)とデュエットする、東日本大震災応援ソング「アサガオ」が24日に発売される。現在、歌手としてCDを発売する現役力士は白鵬だけだ。同曲は14年6月にテレビ東京系バラエティー番組「志村&白鵬のすごいんでないの」内の企画で、東日本大震災の復興応援ソングとして制作された。番組内で歌唱したところCD化を望む声が殺到。その反響の大きさから発売が決まった。

 当初、番組用に収録した音源を使用する予定だったが、白鵬が「より良い作品を作りたい」と〝待った〟をかけ、再度レコーディングを実施した。収録当日、音楽プロデュースを担当した俳優柏原収史(37)がOKを出しても、白鵬は何度も歌い直しを直訴。納得のいくまでやり抜く姿に、柏原は「頂上を極めた人の集中力には脱帽です」と驚いたほどだ。

 レコーディング前、白鵬は、移動の車中などで何度も曲を歌唱して本番に備えたという。周囲には「少しでも、この曲が被災地の皆さんの力になれば」と語っている。Kaeも「歌に対する横綱の真剣な姿勢を間近で見て、被災地に対する強い思いを感じた」と感激しきりだ。

 もうじき震災から5年を迎える。復興への願いを込めた〝平成の大横綱〟の歌声が、24日から全国で流れる。

※記録と表記は当時のもの

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亀田大毅リベンジ 日本初の兄弟王者が誕生/復刻

2010年2月8日付日刊スポーツ1面(東京版)

<日刊スポーツ:2010年2月8日付>

 プレーバック日刊スポーツ! 過去の2月8日付紙面を振り返ります。2010年東京版は、亀田大毅がWBA世界フライ級タイトルマッチで勝ち、日本初の兄弟世界王者が誕生したことを伝えています。

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<プロボクシング:WBA世界フライ級タイトルマッチ12回戦>◇7日◇兵庫・神戸ワールド記念ホール

 日本初の兄弟世界王者が誕生した。亀田3兄弟の次男大毅(21=亀田)が、WBA世界フライ級王者デンカオセーン・カオウィチット(33=タイ)との再戦に3-0判定でリベンジし、新王者となった。クリンチの連続でリズムに乗れなかったが気持ちを切らさず、WBC同級王者の長男興毅(23)に続き、3度目の挑戦で世界王座を獲得。反則を連発した07年10月の前WBC同級王者内藤大助(宮田)戦の苦い敗戦からはい上がり、リング上で男泣きした。日本ジム所属の男子世界王者は最多タイの7人に並んだ。

 抑えていた感情があふれ出した。判定勝利を聞いた大毅は、兄興毅と、弟和毅とリング上で泣きながら抱き合った。デンカオセーンへのリベンジを果たし、日本初の兄弟世界王者が誕生。「この日のために練習してきて、ううっ、ありがとうございます。21年間生きて来て、一番うれしいです」。人目もはばからず、震える声が響きわたった。

 18歳で迎えた07年10月の内藤戦で、大毅の人生は一変した。初の世界挑戦で反則行為などもあり大差判定負け。1年間の謹慎処分と世間からの大バッシングを受け、亀田家の風向きも変わった。それから2年。兄興毅は昨年11月に2階級制覇を達成。弟和毅も1月にメキシコでベルトを手にした。一方、大毅は昨年10月のデンカオセーンとの世界戦も敗退。3兄弟の次男で「昔からみんな『強いな興毅君、和毅君』やった。オレはほめられたことなかった」という男は、プロでも置いてけぼりをくった。「オレは亀田家で邪魔なんかな…」。自分を卑下するしかなかった。

 だが、前世界戦の数時間後に起きた出来事が大毅の心を救った。当初、亀田側は大阪の宿泊先ホテルの1室を大毅の祝勝会会場として押さえて案内も出していたが、王座奪取に失敗し中止になった。亀田兄弟が会場に片付けに訪れると、扉の前に約200人が立っていたという。中に招き入れ、急きょ残念会を開催。「おれらは元気がないし大毅はシュンとしてる」(興毅)というほど空気は重かった。だが、周囲は笑顔で大毅を励まし続けた。

 大毅 みんなが『もう1回やろう』って…。やるしかないんや、おれもな。ありがたかった。

 再起の決断が事態を動かした。翌朝に亀田ジムがWBAに判定を不満として再戦要求し、WBA総会で認められ合意に至った。それでも「オレの2009年はまだ終わってない」と、大みそかの柴又帝釈天での鐘つきも欠席。前回の対戦翌日からほぼ無休で練習し、スパーリングは約100回を消化した。練習法も、慣れ親しんだ入場曲も変えた。すべてをかけ、やっと結果を出した。大毅は「21年間で最大の仕事をやり遂げた」と胸をなで下ろした。

 ただ、内容はもろ手を挙げて喜べるものではなかった。前半こそ足を使った新スタイルを見せようとはした。だが、相手が2度の減点を受けるほどのホールディングとクリンチを終盤にかけ多発したこともあり、内容が乏しい世界戦になってしまった。大毅も「内容は全然」と認めつつも「プレッシャーに打ち勝った。負けたら亀田家におられへんって思ってたから。最終的には勝つことだけやった」と振り返った。

 リング上で大毅は「2年間、ご迷惑かけてすみませんでした」と謝罪した。次戦は元同級王者の坂田(協栄)との対戦が義務づけられているが「ちょっとゆっくり休むわ」と笑った。大毅がようやく重い十字架をおろし、新たな道を歩き始めた。

※記録や表記は当時のもの

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