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阿武咲24歳迎え危機感「若くない」現状打破誓う

千葉県内の部屋で汗を流す阿武咲

大相撲の西前頭2枚目阿武咲(24=阿武松)が4日、24歳の誕生日を迎えた。千葉・習志野市内の部屋での稽古後、代表取材に応じ「16、17で(相撲界に)入って、これからの相撲人生は長いなと思っていたが、一瞬で24になっていつまでも若くないと思った。23と24では(年齢の)重みが違う。危機感を持たないと」と自らに言い聞かせた。

17年九州場所に21歳の若さで新三役となったが、右膝の負傷で一時は十両に転落。23歳の1年は、幕内下位で戦う場所も多く「苦しかった。けがをしてからなかなか勝てないし、思うような相撲を取れなかった」と振り返った。

現状を打破するため、尊敬する元横綱から助言を求めた。初場所後、2月の押尾川親方(元関脇豪風)の断髪式で、荒磯親方(元横綱稀勢の里)に教えを請うた。

「相撲の技術、気持ちの臨み方の面で自分がいま思っていることを確認させていただいた」

直後の3月に行われた春場所では、優勝した横綱白鵬から金星を挙げ、9勝6敗で殊勲賞を獲得。「23歳終わりがけで少しずつ形になってきた。悔しい部分もあったが、プラスになっている部分もあると感じられた」と、手応えを感じた。

7月場所(19日初日、東京・両国国技館)では、小結だった18年初場所以来の上位総当たりとなる。成績によっては返り三役も見えてくるが「細かいことは考えず、自分と向き合ってやるべきことをやれればいい」と冷静に話した。

約4カ月ぶりの本場所へ、徐々に調整のペースを上げている。この日は若い衆を相手に約30番。「今のところ順調にこれているし、感覚はものすごく良くなっている」。相撲を取れない期間は、自重トレーニングに重点的に軸に取り組んできた。

「軸を意識してやった。相撲は一瞬で勝負が決まってしまうが、(それに生かす)爆発力を鍛えるためにウエートトレーニングにだけ頼ってしまうと、(体の)軸が安定せず、その効果が(十分に)出ないと思う。自分の力を100%出せるようにするための体づくりをやっていました」

7月場所で成果を発揮する。【佐藤礼征】

千葉県内の部屋で稽古をする阿武咲

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五城楼、史上2度目の珍事とは/夏場所プレイバック

取り直しの1番が取れないため琴春日の不戦勝が決まる(2005年5月14日撮影)

コロナ禍により大相撲夏場所が中止になり、本場所開催まで待ち遠しい日々が続きます。そんな中、日刊スポーツでは「大相撲夏場所プレイバック」と題し、初日予定だった24日から15日間、平成以降の夏場所の名勝負や歴史的出来事、話題などを各日ごとにお届けします。7日目は“チン事”ではない、57年ぶりに起きた珍事です。

<大相撲夏場所プレイバック>◇7日目◇2005年5月14日◇東京・両国国技館

それは十両の五城楼(現浜風親方)-琴春日戦で起きた。土俵際で相手を突き落とし軍配をもらった五城楼だが、物言いがつく。ただ、この一番で右膝を負傷した五城楼は人の肩を借りなければ土俵から下りられなかった。協議が行われている間、土俵上の審判団と五城楼が何やら意思確認。直後、五城楼は車いすで退場した。そして押尾川審判長(元大関大麒麟)の場内説明。「土俵に着くのが同時とみて同体取り直しと決定致しましたが五城楼が負傷しており、相撲が取れず琴春日の不戦勝と致します」。

取り直しの一番が一方の力士の負傷で不戦決着となるのは、48年秋場所6日目の力道山-前田山戦(力道山の不戦勝)以来、史上2度目の珍事。呼び出しが慌てて持ってきた「不戦勝」の旗が掲げられ琴春日が勝ち名乗りを受けた。もちろん五城楼の不戦意思と、琴春日の取り直し意思は確認された末の結末だ。ちなみに琴春日にも不戦意思があれば「痛み分け」になる。

五城楼の診断は右ひざ半月板損傷および同外側側副靱帯(じんたい)損傷の疑い。場所中も酸素カプセル(通称「ベッカムカプセル」)に入り体調管理には万全を期し、場所後の俳優松方弘樹とのマグロ釣りを楽しみにしていた。ここまで休場14回、うち途中休場5回と満身創痍(そうい)が続き「どこかに、靱帯とか筋肉は売ってないかな」と嘆いたことも。1場所2度の反則負け(03年九州場所)という史上初の不名誉記録も持ち「記憶に残る力士」ともいえそうだ。

車椅子で待機中の五城楼は、不戦敗の裁定と負傷の痛みでガックリ(2005年5月14日撮影)

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鶴竜、初場所前に体調崩す「入院レベルと言われた」

横綱鶴竜

昨年の初場所限りで現役を引退した元関脇豪風の引退、年寄押尾川(40)襲名披露大相撲が1日、東京・両国国技館で行われた。

初場所を休場した両横綱は花相撲で割に入り、相撲を取った。右かかとの蜂窩(ほうか)織炎を治療中の白鵬は「まだ右足が使えない。傷口がふさぎきっていない」と、苦い表情を浮かべた。鶴竜は場所前、白血球の数値が通常の3300~9000から1万2000に跳ね上がり、体調を崩していたことを明かした。「(医者に)『入院レベルですよ』と言われていた。体のシンに力が入らなかった」。ともに再起を目指す春場所(3月8日初日、エディオンアリーナ大阪)。白鵬は「しっかり稽古をしなければ」と意気込んだ。

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貴景勝、先輩豪栄道引退に「埼玉栄みんなが憧れた」

貴景勝、豪栄道(右)(2019年10月16日撮影)

大相撲の大関貴景勝(23=千賀ノ浦)が引退した“先輩大関”に感謝の言葉を並べた。

1日、東京・両国国技館で行われた元関脇豪風、年寄押尾川の襲名披露大相撲に参加。28日に現役を引退し、年寄「武隈」を襲名した元大関豪栄道について「豪栄道関らしい辞め方。それだけしかない」と神妙な面持ちで話した。

貴景勝にとって豪栄道は埼玉栄高の先輩。「10個下の自分が軽はずみなことは言えないけど、本当に埼玉栄のみんながあこがれていた。みんなが豪栄道関みたいになりたいと目指していた」と、高校時代を回顧した。

数々の印象的な思い出がある。高1のときには、すでに三役として活躍していた豪栄道に、同校の稽古場で胸を出してもらった。

「(厳しい稽古で)死ぬかと思ったし、めっちゃきつかったけど、うれしかった。『沢井(豪栄道の本名)先輩に胸を出してもらった』と」

若い衆だった時代にも、各段優勝した際に声をかけてもらったことがある。歴代10位の大関在位33場所を誇る豪栄道の人物像を「器が大きい。男らしい人」と簡潔に表現した。

初めての大関とりでは、壁として立ちはだかっていた存在だった。勝てば大関昇進を手中に収める昨年1月の初場所千秋楽。豪栄道に立ち合いから一気の出足で押し出され、完敗を喫した。当時の苦い経験は「ありがたかった」と貴景勝。「大関としての力はこうと教えてくれた。歯が立たなかった。身をもって教えてくれた」。

昨年大関昇進を決めた春場所(3月8日初日、エディオンアリーナ大阪)は、豪栄道の陥落、引退により、貴景勝が38年ぶりの1人大関となる。2度目の優勝へ。「ますます求められるものは高い。しっかり、一生懸命やらなければ」と、気を引き締めていた。

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白鵬、豪栄道引退に「うまさや相撲勘忘れられない」

元豪風の押尾川親方(左)の断髪式に参加する白鵬(撮影・中島郁夫)

大相撲初場所を4日目から途中休場した横綱白鵬(34=宮城野)が1日、東京・両国国技館で行われた元関脇豪風、年寄押尾川襲名披露大相撲に参加した。

初場所は「腰部挫傷、右踵部裂傷蜂窩(ほうか)織炎により約2週間の加療を要する」との診断書を提出して休場。2週間以上が経過したこの日、割に入って相撲を取ったが「(不安がある)右足はまだ使えていない。(休場してから)汗をかいたのは今日が初めて」と、回復途中にあることを明かした。

支度部屋で報道陣に取材対応している途中、傷口が塞がっていない右足裏を披露した。「これが(再び)割れるか分からない」と渋い表情。右足を気にすることで体のバランスが崩れ、腰にも違和感を覚えることになったという。

自身と鶴竜の両横綱が不在の中で、初優勝を勝ち取った前頭徳勝龍の姿をテレビで見ていた。「(優勝を争っていた正代と)どっちが優勝しても初優勝。初優勝というのは、見ていても感動しますね」。

先月28日には長年戦ってきた大関豪栄道が引退した。「びっくりした。(同年代の力士が)だんだんいなくなるのは寂しい」。豪栄道が大関昇進を決めた14年名古屋場所で、浴びせ倒しで敗れたことが印象に残っている。「自分十分になって負けた。あの辺のうまさや相撲勘が忘れられない」と、懐かしそうに振り返った。

昨年全勝優勝した春場所(3月8日初日、エディオンアリーナ大阪)で再起を目指す。まずは右足裏の状態を回復させることから。「しっかり稽古を積んで、割れ目をなくさないといけない」と、淡々と意気込んだ。

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元関脇豪風に地元北秋田から「市民栄誉賞」授与

北秋田市の津谷永光市長(左)から顕彰状を贈られる長元豪風の押尾川親方(撮影・中島郁夫)

昨年1月の初場所限りで現役を引退した元関脇豪風の引退、年寄押尾川(40=尾車)襲名披露大相撲が1日、東京・両国国技館で開催された。

秋田県森吉町(現北秋田市)出身の押尾川親方の断髪式では、最後に止めばさみを入れた師匠の尾車親方(元大関琴風)はじめ、関係者約270人がはさみを入れ、地元秋田からきた「応援する会」の会員約60人や、首都圏在住の北秋田市出身者らも駆けつけた。また断髪式前には、津谷永光・北秋田市長から「北秋田市市民栄誉賞」も授与された。

応援する会の北林丈正会長も、土俵上のパイプいすに座る押尾川親方のマゲにはさみを入れた。同じ森吉中で柔道部の先輩にあたる押尾川親方について「一本背負いとか足技とか、柔道の技もよく取組で出していましたね。昔の親方タイプとは違った新しい親方像を作ってほしいですね」と期待。津谷市長も「気は優しくて力持ち。小兵なんだけど、本当の相撲道をしっかり踏襲されている方です。体が小さくても十何年間も現役でやれたのは、トレーニングと精神力と鍛錬のたまもの。鍛え方次第、努力次第では横綱になれるんじゃないか、そういうことを彼にはやってほしい。期待してます」と第2の角界人生に期待を寄せた。

亡き両親への感謝を語り涙ぐむ押尾川親方(撮影・中島郁夫)

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元関脇豪風が断髪式で涙「最後の取組」12歳長男と

師匠の尾車親方(上)に最後のハサミを入れてもらう元豪風の押尾川親方(撮影・中島郁夫)

昨年1月の初場所限りで現役を引退した、元関脇豪風の引退、年寄押尾川(40=尾車)襲名披露大相撲が1日、東京・両国国技館で行われた。

断髪式前には、12歳の長男海知(かいち)君と「最後の取組」で土俵に。何度も押しを受け止め、最後は自身が関取として3勝を挙げた、決まり手「一本背負い」で仕留められ土俵に正座して「参りました」と言わんばかりに頭を下げ、館内の大歓声を浴びた。

十両の取組後、出身地の秋田・北秋田市の津谷永光市長から市民栄誉賞を授与された。そして迎えた断髪式には、約270人の関係者が出席。横綱白鵬、元横綱稀勢の里の荒磯親方らがはさみを入れ、最後に師匠の尾車親方(元大関琴風)が止めばさみをいれて、約18年間のマゲに別れを告げた。

その後、国技館内で整髪し取材対応。「髪を洗っている時、入門してマゲを結う前のことを思い出しました。約18年、(頭に)あったもの(マゲ)がなくなるのは寂しい。頭にあったというより、身内みたいなもので『(頭に)いた』という、体の一部以上のものだったから」と、散髪してもらいながら、しみじみと話した。

最後に師匠から止めばさみを入れられた時は、さすがに「(こみ上げて)くるものがありました。人前では…と思っていたけど、耐えきれなかった」と大粒の涙を流した。最後の土俵上から見えた光景に「相撲をやっていなかったら、あの景色は見られなかったし、今の自分はない。相撲に感謝です」とも。地元秋田から、大勢の後援者が駆けつけてくれたことには「秋田から来てもらえなければ、豪風の断髪式にはならないと思っていた。秋田から、自分の想像をはるかに上回る、先輩や同級生や年齢の近い人とか、あれだけの人が来てくれて本当にありがたい」と喜んだ。

整髪後は、スーツにネクタイ姿で相撲案内所など各所をあいさつまわり。その間に行われた幕内の取組後、再び国技館の土俵下に足を運び、マゲを落としたスーツ姿で来場者にあいさつ。最後に、既に他界した両親の遺影を持ち「自分の息子に、綱渡りのような人生を歩んでもらいたくないと入門時も大反対した、お父さん、お母さんに引退した姿を見てもらいたかった。『お疲れさん』と言ってもらいたい一心で17年間、現役でやってきました」と、すすり泣くような声で話し、館内の涙を誘っていた。

断髪を終え「相撲に感謝」の書を手に土俵に別れを告げた元豪風の押尾川親方(撮影・中島郁夫)
長男・成田海知くん(左)と最後の取り組みを行う豪風(撮影・中島郁夫)

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豊ノ島が現役続行を明言、引退傾くも長女の涙で再起

初場所千秋楽の取組を終え引き揚げる豊ノ島(撮影・小沢裕)

去就が注目されていた大相撲の現役最年長関取で十両の豊ノ島(36=時津風)が1日、現役続行を明言した。同日、東京・両国国技館で行われた元関脇豪風の引退、押尾川襲名披露大相撲に参加。十両での取組後、支度部屋で明かした。

豊ノ島は東十両11枚目で臨んだ1月の初場所で4勝11敗と負け越し。2度目の幕下陥落が決定的となっていた。千秋楽では「自分ではやりきったという思いはある」と話し、この日も「あの日の時点では9対1だった」と引退に傾いていたことを明かした。

それを翻意されたのは、一粒種の長女希歩ちゃん(7)の言葉だったという。幕下に陥落すれば、無給生活になることを7歳ながら知っていたようで「私が貸してあげる」と泣きながら相撲を続けることを訴えたという。沙帆夫人も、ライバルで旧知の仲の幕内力士・琴奨菊との再戦を果たしていないことを挙げて「それで悔いはないの?」と語りかけられたという。

さらに豊ノ島自身も、初場所は場所前の稽古も申し合いが出来ず、万全でない状態で臨んだことにも悔いを残したという。千秋楽時点で「これでまた(土俵に)上がろうと思えたら、すごい心の強い人間」と話していたが「気力が1回、切れたけど、強い人間になってやろうと思った。今やめるのは中途半端。もう1回、しっかり準備して、それでも大阪で負け越したら、それはそれで」と、腹を決めて幕下力士として大阪の土俵に上がる。

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嘉風、一番の思い出は負けた稀勢の里戦/引退会見1

引退会見に臨む嘉風。右は尾車親方(撮影・小沢裕)

大相撲秋場所5日目に現役引退を発表した元関脇嘉風の中村親方(37=尾車)が16日、東京・墨田区のホテルで引退会見を行った。以下、会見前半。

尾車親方(元大関琴風) 本日は皆さま足元の悪い中、また早くからお集まりいただき、誠にありがとうございます。このたび嘉風が約16年の土俵生活を終え、引退することになりました。皆さまにはこの間、大変かわいがっていただき、お世話になり、本当にありがとうございました。今後は年寄中村として後進の指導にあたってまいりますので、今後とも一つご指導のほどよろしくお願いいたします。本日は誠にありがとうございます。

元嘉風 おつかれさんでございます。本日は足元の悪い中、また場所中のお忙しい中、お集まりいただき、ありがとうございます。私、嘉風は現役を引退し、年寄中村を襲名させていただきました。入門した時はまさか37歳まで現役を続けるとは想像できませんでしたが、親方のご指導のもと、そして、親方とおかみさんがつくる尾車部屋という最高の環境で現役をつづけさせていただくことでこの年までやれたと思います。お集まりの皆さま、応援してくれたファンの皆さま、そして現役中にケガを支えてくれた先生方、私にかかわってくださったすべての方にこの場をお借りして感謝申し上げたい。今後は親方になりますが、尾車親方のもとで、親方というものをまた指導いただきたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

-本当にお疲れさまでした。引退発表後数日たちました。今の気持ちは

何とも言葉にできないというか、自分が現役をやめたということと、親方になったことの実感がまだわいていません。

-引退決断の経緯を説明してください

少し報道でも、師匠からもお話していただいたと思うんですけど、6月に地元佐伯市で地元をPRするという目的で、佐伯市が企画した、誘致された合宿の行程の中で、これはあんまり言いたくはないのですが、土俵の上ではなくて、佐伯市内の渓谷でキャニオニングという渓流下りというか、調べていただければ分かりますが、キャニオニングを市のPRの目的のもとで行っている最中に、右の膝をケガしてしまって、病院に運ばれまして。その時の診断ではものすごく大きな診断をされて、これは土俵にもう1回立つのは難しいのではないかという先生の見方があったのですが、なかなかその時点で土俵を下りるのが想像できずに、先生の見解をくつがえしてやろうと思ってリハビリに励んでいたのですが、やっぱり、このケガを負って、アスリートが復帰した例が少ないというか、ほぼないということもあって、腓骨(ひこつ)神経まひと診断書には書かせてもらったんですけど、足首が動かないので、足首にまひがのこってしまって、装具をつけなければ、歩行も難しいということで、来場所、幕下に落ちるタイミングということを記事の方に書かれていたのですが、タイミング的にそういうことになったということで、自分としては土俵に戻りたいということでリハビリを続けていましたが、非常に残念ですが、土俵に立つことが厳しいということを実感したというか、あきらめざるを得ない状況になったので、そこで親方に引退しますという思いを伝えました。

-現在のリハビリ状況、ケガの回復は

順調だと思うんですけど、9月場所前に出した診断書の通り、全治は未定ということで。今後の見通しが今のところ立っていないんですけど、本当にいろんな方の支えで、皆さんが、相撲は取れないにしてもなんとか私生活はもとの状態に戻るようにということで、いろいろと考えてくれて、今後何度か手術が必要かもしれないんですけど、土俵に戻れなくても、もう1つの夢である指導者という親方になって若い衆を指導するという、その目標に向かってリハビリを続けている最中です。

-16年間を振り返って

どうかって言われますと困るんですが、相撲が好きという気持ちで始めて、相撲の厳しさに直面した高校時代があって、大相撲ではできないという思いで、体育の指導者を目指して日体大にはいりましたが、相撲がずっと好きなので、相撲を生活の中心、人生の中心にしたいと思って、大相撲の世界に入らせていただいた。学生時代より、仲良くというとちょっとおかしいですが、声をかけていただいた元豪風関の押尾川親方に「尾車部屋は最高の環境だから、ぜひうちの部屋にこい」と言われ、相撲界のことが分からない時期でしたので、豪風関の後押しもあって尾車部屋に入門させていただいて、自分が想像していたものすごい厳しい相撲部屋というのは尾車部屋にはなく、本当は師匠もいいたいことはたくさんあったのかもしれないですけど、わがままを言わせてもらったと。同期生にうちの部屋はこうだという話をしたんですけど、他の部屋の厳しさみたいなのは尾車部屋にはなかった。だからこそ、16年、入った時は関取になれるかどうかも分からないまま手探りというか必死にやってきたんですけど、振り返って37まで相撲が取れたのは最高の環境で相撲がとれたのではないかと。本当にありがたい相撲人生を送らせてもらいました。

-アマ横綱のタイトルを取ったが資格の期限がすぎて序ノ口から。その決断は

3年生の時にアマチュア横綱になって、そのまま順調に大学の4年生をすごしていれば大相撲の世界に入っていないと思う。3年生の最後に大きなタイトルを自分の中ではとってしまったので、4年生でキャプテンを任されて、なかなか気持ち良く相撲が取れなくて、それがプレッシャーになって不本意な、成績も内容もまったく自分の満足いく1年間を送れなかったので、自分の好きだった相撲を取り戻すのは大相撲の世界しかないと思って、そういう決断をさせてもらったのも3年生の時のアマ横綱のタイトルだと思います。

-決断は間違っていなかった

そうですね。間違っていなかったと思います。

-嘉風関は30歳超えてから初金星、新三役。30を超えて強くなった

自分の中では3つのターニングポイントがあって、1つは師匠が巡業部長を務めておられる時、大阪で大負けした。番付下がるのが分かった伊勢神宮での春巡業の初日にあいさつにいったら「嘉風はこのまま終わるのか。幕内上位で名前を覚えてもらったのに、下に落ちるのは、早いよ」と。自分にとっては激励だったんですけど、「稽古してもう1回上でとれるように頑張れ」と声をかけていただいて、自分なりに巡業で土俵に立つようにして、そのころ、タイミングが良かったというか、横綱稀勢の里関に声をかけていただき、三番稽古やるぞと、いうことで少し稽古をやるようになった。これが1つ。あとは、いつかの九州場所で地元から応援団がきている目の前で、相手は今は幕下の旭日松だったと思うんですけど。旭日松相手に勝つ姿見せたくて、安易にはたきにいったところ、全然通用せず、なんとも恥ずかしい相撲で負けてしまった。その前の秋場所でケガをして途中休場していたので、その復帰場所だった九州場所で、帰り道のバスの中での応援団の方の声を母親が代弁してくれたんですけど、勝つ姿を見るためでなく、土俵に立つ姿を見られた、それができたのでみんな喜んでいたという言葉をいただいたので、安易に変化にはしったことを本当に恥ずかしく思った。そこから勝つ相撲でなく、自分が相撲をとっている姿をみてもらいたいと強く思えた。もう1つは、なかなか上位に上がれない時に、妻にふと「あなたが対戦する相手が三役になっているのに、あなたは何で三役になれないのかな」と、感情のない感じで言われたのが心に響いた。言い返す言葉もなく、確かになと。家族も悔しい思いをしているんだなと思ったのと、そこでちょっと奮起して、上を目指して頑張ろうと思った。この3つで、30を超えていい相撲をとれるようになった。

-若い頃はスピード、30超えて左四つ、うまい相撲に変わってきた。何か精神面で変わったのか

精神面しか変わっていないと思うんですよね。同級生の立田川親方のような猛稽古はしたことがなくて。ただ知人に、「好きで始めた相撲がやっていて楽しくないのはおかしい」と言われたんです。「好きでやっているのに、土俵の上で楽しくないとか、成績ばかり気にして後ろ向きになっているのはおかしくないか」と言われて。確かになと思って。相撲界は30を超えると晩年というか、30半ばで終わる人が多いので、自分もそういう言葉をいただいて、いつやめてもおかしくない年齢なので、完全燃焼で終わりたいとそこで強く思った。スピード相撲からうまい相撲に変わったのは、解説をしていただく親方によく「無駄な動きが多い」と言われていたんですけど、そういう言葉も相手より少し早く動こうと思ったり、特別変えたことはないんですけど、周りの方に言っていただく言葉を自分に合うように変換できたのがよかったのかなと思います。

-引退を関取衆に伝えると、いろんなアドバイスもらったという声が多かった

それぞれ力士には師匠がいるので、自分がアドバイスは大変おこがましいので、そういうつもりはないのですが、その力士と相撲の話をするのが好きで。アドバイスといってもらえると大変うれしいですが、自分としては、自分の思いを話して楽しませてもらったという感覚です。

-琴奨菊には「相撲愛が足りないのでは」と言ったとか

元大関なんですけど、ずっと昔から顔を知っていて、ここ数年は巡業などでいろんな話をさせてもらった。相撲愛が足りない? 菊関はどういう解釈をしてくれたのかもしれない。元大関なんですけどいろいろ探求心があって、菊関自身が自分のことを信じられていないと思ったので、もっと自分を信じてやっていくというのがそうとらえられたのかもしれない。

-思い出の一番は

やめていく力士の引退会見を見て、この質問は定番だったので、考えたんですけど、思い出の一番を出すと、例えばそれが勝った相撲だと、いわゆる負けた相手を出すことになるので、それはあんまりしたくないと思ったのと、そんな中で強いて挙げるなら、確か自分が新小結で7日目か8日目か、確か刈屋さんが実況していた。まだ横綱になる前の稀勢の里関とめいっぱいの力を出し切って負けた。負けた時の声援が、負けて今までもらった声援の中で一番大きかった。体の芯から震えるような拍手をもらって、花道も堂々と引き揚げた思いがある。声援は9割9分、稀勢関へのものだったと思うんですが、ものすごくあの一番が印象に残っています

-新三役の稀勢の里戦というと26年夏場所の9日目。自分が負けた相撲が思い出の相撲というのは、嘉風関らしい

負けましたけど、すべて出しました。師匠が解説をしていたと思います。持っているものを全部だして通用しなかったんですけど、あの時の達成感、充実感は今までの勝ち星にも替えられないと思います。(後半に続く)

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十両豊ノ島、勝ち越しお預け「苦手」大翔丸に屈して

<大相撲夏場所>◇13日目◇24日◇東京・両国国技館

1場所での再入幕を目指す東十両筆頭の豊ノ島(35=時津風)が、7勝5敗で臨んだ初顔合わせの西8枚目大翔丸(27=追手風)戦に敗れ、勝ち越しはお預けとなった。

押し相撲を相手に、立ち合いは踏み込んで圧力をかけた。だが、押しが“本職”の大翔丸に押し込まれ、引いて体勢を立て直した。ここから二本を差そうとしたが、両脇を固める相手に差せず、逆に押し込まれ正面土俵下に押し出された。

本場所での対戦はないが、場所前に出稽古に来た大翔丸とは何番か手合わせした。少しだけ感じたのは「豪風関(現押尾川親方)とやってる感じで、苦手なイメージがあった」。よし来い! とばかりに構える「相手の高さに合わせてしまった。ぶつかり稽古ぐらいの高さに」と、体を反らせ対応しようにも、下から持ち上げられるような押しに屈した。

相撲そのものには気負いは感じられないように見えたが「勝てば勝ち越しという気負いは?」という問いかけに「ないと言ったらウソになる」と否定はしなかった。修羅場は、いくらでもくぐり抜けてきた。「泣いても笑っても、あと2番しかないから思い切って」とこの日の黒星を踏ん切って、残り2日の土俵に勝ち越しをかける。

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荒磯親方「怖さ」体感の消防訓練も相撲の火消さない

消火器を使った消火訓練を行う荒磯親方

火災の火は消しても、相撲人気の火は消さない-。1月の初場所で引退した、元横綱稀勢の里の荒磯親方(32=田子ノ浦)らが5日、大相撲春場所(3月10日初日)の会場となる大阪・浪速区のエディオンアリーナ大阪で行われた消防訓練に参加した。

訓練は午前11時5分、地下1階の調理場で火事が発生し2、3階に観客がいる想定で始まった。まず荒磯親方は2階で倒れている負傷者を、やはり初場所限りで引退した押尾川親方(元関脇豪風)らとともに担架で、1階まで階段を下りて搬出。今度は、担架を持ったまま「煙体験」として、煙が充満するテントを通過した。

次は地震体験車に乗車し、震度5から6弱、6強、7までの揺れを体験。その後はAED(自動体外式除細動器)の講習を含めた心肺蘇生の訓練も行った。最後はs消火器を使った消火訓練で、約40分間の消防訓練を終えた。

現役時代も、春場所前には大阪市内の宿舎で消防訓練をした経験があってか、動じることなく冷静に対処した。地震体験車については「(乗車は)初めて。地震の怖さというか、いい体験をした。立っていられないし、座っているのもきつかった。(東日本大震災の)関東は、あれほどじゃなかった」と話した。

親方として初めて臨む春場所は、5日後に迫る。その時の自分の姿、心境は「想像もつかない感じ」という。その春場所では、会場の警備にあたる予定で、大阪のファンも間近で見られるかもしれない。初場所では引退翌日、関係各所を回るため、両国国技館内を移動するたびに、黒山のファンに囲まれた。消防訓練は、そつなく「消火」に務めたが、相撲人気の火は鎮火させない。

地震体験車に座る荒磯親方
担架に乗せたケガ人を運ぶ荒磯親方(左)と押尾川親方
心肺蘇生の訓練をする荒磯親方

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元横綱稀勢の里は年寄荒磯襲名 引退、改名など一覧

元横綱稀勢の里の荒磯親方

日本相撲協会は25日、大相撲春場所(10日初日、エディオンアリーナ大阪)の新番付を発表した。降下、改名、引退などの力士、年寄は以下の通り。

【降下】

<三役から平幕>

妙義龍(32=境川)東小結→西前頭2枚目

<幕内から十両>

琴勇輝(27=佐渡ケ嶽)西前頭13枚目→東十両2枚目

大奄美(26=追手風)東前頭16枚目→西十両3枚目

大翔丸(27=追手風)西前頭16枚目→西十両5枚目

<十両から幕下>

常幸龍(30=木瀬)西十両13枚目→東幕下3枚目

【改名<1>】(しこ名の上の部分)

<幕下>

池川→北勝陽(ほくとよう=八角)

琴稲垣→琴裕将(ことゆうしょう=佐渡ケ嶽)

<三段目>

佐藤山→北勝翼(ほくとつばさ=八角)

滝口→益湊(ますみなと=阿武松)

竹井→東照山(とうしょうやま=玉ノ井)

琴の秀→琴乃秀(ことのしゅう=佐渡ケ嶽)

湊竜→鷹翔(おうか=湊)

若中谷→八女の里(やめのさと=西岩)

若苫龍→若錦翔(わかきんしょう=二所ノ関)

宮崎山→北勝龍(ほくとりゅう=八角)

<序二段>

大国里→大國里(おおくにさと=中川)

伊藤→北勝伊(ほくとよし=八角)

江塚→爽(さわやか=式秀)

琴宇留賀→琴孝玉(ことこうぎょく=佐渡ケ嶽)

今井→剛秦龍(ごうしんりゅう=式秀)

志戸→肥後乃双(ひごのそう=木瀬)

魁隼→魁舞翔(かいぶしょう=浅香山)

勇錦→廣中(ひろなか=朝日山)

神宮→北勝泉(ほくといずみ=八角)

錣迅→永谷(ながや=錣山)

<序ノ口>

山下→若一輝(わかいっき=二所ノ関)

衣川→武東(たけあずま=玉ノ井)

田中→阿稀(あき=錣山)

伊佐→穂嵩(ほだか=尾上)

【改名<2>】(しこ名の下の部分も含める)

勇錦佑紀→廣中龍(ひろなか・りゅう)

伊佐穂嵩→穂嵩常征(ほだか・つねまさ)

田中明人→阿稀慶喜(あき・よしのぶ)

竹井健太郎→東照山恵太朗(とうしょうやま・けいたろう)

琴稲垣善之→琴裕将由拡(ことゆうしょう・よしひろ)

琴宇留賀響→琴孝玉裕丈(ことこうぎょく・ひろたけ)

錣迅功→永谷海登(ながや・かいと)

山下一樹→若一樹昇(わかいっき・のぼる)

若苫龍宏哉→若錦翔広也(わかきんしょう・ひろや)

【引退年寄襲名】

稀勢の里→荒磯

豪風→押尾川

【引退】

貴ノ岩、諫誠、朝日龍、琴鳳、彩翁、笹山、栃港、北勝花、伊勢ノ花、大翔虎、辰ノ富士、大一心、白海竜、舛天隆、渡井、若小山、井口、畠山、伊那の富士

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元豪風も初スーツ姿披露、親指立て遠くを見つめる

スーツ姿で両国国技館を訪れ、ポーズを決める元豪風の押尾川親方

初場所中に引退を表明した、元関脇豪風の押尾川親方(39)が31日、スーツ姿を初披露した。東京・両国国技館で行われた年寄総会に出席。同じく初場所中に引退を表明した、元横綱稀勢の里の荒磯親方が登場した数分後に現れ「新米は早く来ないといけないから」と、初々しく話した。

黒のスーツに白いワイシャツ、赤と白のストライプのネクタイ姿は、既製品だといい、首のあたりを窮屈そうにしていた。写真を納めようと報道陣に囲まれると「ちょっと待ってくださいよ」と言いつつ、左手でサムアップポーズ。遠くを見つめていた。

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稀勢の里、豪風ら21人 引退力士発表

元稀勢の里の荒磯親方

日本相撲協会は30日、年寄荒磯を襲名した元稀勢の里、年寄押尾川を襲名した元豪風、元前頭貴ノ岩ら21人の引退を発表した。

<引退が発表された力士>

▽稀勢の里(田子ノ浦)豪風(尾車)貴ノ岩、舛天隆、渡井(以上千賀ノ浦)諫誠(境川)朝日龍(朝日山)琴鳳(佐渡ケ嶽)彩翁、伊那の富士(以上錦戸)笹山(木瀬)栃港(春日野)北勝花(八角)大翔虎(追手風)伊勢ノ花、辰ノ富士、大一心(以上伊勢ケ浜)白海竜(宮城野)若小山(西岩)井口(玉ノ井)畠山(尾上)

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貴公俊あらため貴ノ富士、1年ぶりの十両返り咲き

1年ぶりの再十両を決めた貴ノ富士

日本相撲協会は30日、東京・両国国技館で大相撲春場所(3月10日初日、エディオンアリーナ大阪)の番付編成会議を開き霧馬山(22=陸奥)と若元春(25=荒汐)の新十両昇進を決めた。再十両は大成道(26=木瀬)、貴ノ富士(21=千賀ノ浦)となった。

若元春は弟の十両若隆景に続く関取昇進となり、史上20組目の兄弟関取となった。貴公俊のしこ名を改め初場所に臨んだ貴ノ富士は、東幕下3枚目で5勝を挙げて再十両を決めた。付け人への暴行による出場停止を経て、新十両だった昨年春場所以来1年ぶりの返り咲き。弟貴源治(21)との双子関取が復活した。

引退力士も発表され、年寄荒磯を襲名した元稀勢の里、年寄押尾川を襲名した元豪風、昨年12月に付け人に暴力を振るった貴ノ岩や、現役力士で2番目の高齢力士だった伊勢ノ花(44=伊勢ケ浜)ら21人のしこ名が番付から消える。

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豪風「温かい声援送ってくれた」感謝の引退会見

引退会見で笑顔を見せる豪風(撮影・河田真司)

最高位関脇の十両豪風(39=尾車)が23日、都内のホテルで引退会見に臨んだ。9日目に8敗目を喫し、負け越しが決まって決断。「ここ1、2年は豪風らしい相撲が取れなくなった」。今後は年寄「押尾川」として尾車部屋付きの親方として後進の指導に当たる。約16年の大相撲人生の中で熱く語ったのは、故郷の秋田への思い。県勢唯一の関取として奮闘した。「勝っても負けても秋田の人は温かい声援を送ってくれた」と感謝した。断髪式は来年2月1日、国技館で行う予定。

身長172センチと小兵ながら、学生出身として史上最多の幕内出場1257回。14年秋場所には、35歳2カ月の戦後最年長で新関脇に昇進するなど、数々の記録を打ち立ててきた。師匠の尾車親方(元大関琴風)は「豪風が頑張ったから嘉風や、今の若手が続いている。いい弟子に巡り会えた」と話した。

14年秋場所には、35歳2カ月の戦後最年長で新関脇に昇進。今場所は9日目に8敗目(1勝)を喫し、負け越しが決定していた。

◆豪風旭(たけかぜ・あきら)本名・成田旭。1979年(昭54)6月21日生まれ、秋田県北秋田市出身。鷹巣小1年から相撲を始める。昨年夏の甲子園で準優勝した秋田・金足農高を経て、中大4年時に学生横綱。02年夏場所に幕下15枚目格付け出しで初土俵。得意技は突き押し。172センチ、152キロ。通算687勝746敗46休。

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39歳豪風の去り際の美学 前夜尾車親方に引退意思

豪風(2018年5月18日撮影)

最高位関脇の十両豪風(39=尾車)が初場所10日目の22日、現役を引退した。日本相撲協会理事会で年寄「押尾川」襲名を承認され、今後は尾車部屋付きの親方として後進の指導に当たる。23日に記者会見する予定。

後悔は残さなかった。前夜の午後11時頃、師匠の尾車親方(元大関琴風)に「自分はもうすっきりしています」と報告した。今場所は9日目に8敗目(1勝)を喫し、負け越しが決定。「力士として自分なりの潔さを」と決意を固めた。15年以上、土俵で活躍を続けた弟子に、師匠は「俺からは不満不平はない。あんな小さな体で戦えたのは節制と努力のたまもの」とねぎらった。

幕内出場1257回は史上8位で、学生出身力士として史上最多。14年秋場所には、35歳2カ月の戦後最年長で新関脇に昇進した。16日に引退した元横綱稀勢の里に続き、角界を支えた名力士が土俵を去る。

◆豪風旭(たけかぜ・あきら)本名・成田旭。1979年(昭54)6月21日生まれ、秋田県北秋田市出身。鷹巣小1年から相撲を始める。昨年夏の甲子園で準優勝した秋田・金足農高を経て、中大4年時に学生横綱。02年夏場所に幕下15枚目格付け出しで初土俵。得意技は突き押し。172センチ、152キロ。通算687勝746敗46休。

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豪風は年寄押尾川襲名 尾車の部屋付き親方で指導へ

豪風(18年3月20日撮影I

日本相撲協会は22日、元関脇豪風(39=尾車)が引退し、年寄「押尾川」を襲名したと発表した。

今後は尾車部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたる。23日に師匠の尾車親方(元大関琴風)同席のもと、引退会見を行う予定。

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豪風引退 尾車親方も「節制と努力」をねぎらう

21日、若元春(右)は豪風を押し出しでやぶる

大相撲の元関脇で東十両12枚目の豪風(39=尾車)が初場所10日目の22日、現役引退を表明した。9日目に8敗目(1勝)を喫し、負け越しが決まっていた。今後は年寄「押尾川」を襲名し、後進の指導に当たる見込み。

昨夜午後11時ごろ、師匠の尾車親方(元大関琴風)に「自分はもうすっきりしています」と電話で報告した。今場所が通算100場所目と長年にわたって角界で戦ってきた弟子の決断に対し、師匠も「俺から不満不平はない。あんな小さな体で戦えたのは、節制と努力のたまもの」とねぎらった。

中大4年時に学生横綱に輝き、2002年夏場所に幕下15枚目格付け出しで初土俵。02年秋場所で新十両、03年春場所で新入幕を果たし、08年春場所で新小結、14年秋場所には35歳2カ月の戦後最年長で新関脇に昇進した。

小柄ながら突き、押しを武器に、史上10位の幕内在位86場所、史上8位の幕内出場1257回と長く活躍した。

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阿武松親方が初当選の痛感「活力ある組織にしたい」

役員候補選挙を終え引き揚げる阿武松親方(撮影・小沢裕)

 日本相撲協会は2日、東京・両国国技館で役員候補選挙の投開票を実施。理事候補選で初当選を果たした阿武松親方(56)は、貴乃花一門のトップに立つことの重みをかみしめるように、言葉を選んだ。「仕事をさせていただく可能性ができたので相撲協会の一員として、ファンの皆さんに愛される、そして活力ある組織にしたい」。いつもの柔和な顔ではない。事実上の所信表明を終始、引き締まった表情で口にした。

 一門としての痛手は負った。総帥の貴乃花親方が理事選で、志を追い合流した無所属の錣山親方は副理事選で完敗した。それは目に見える「票」という数字であり、意義は別のところにある-。無防備で選挙戦に飛び込んだ総帥の志は受け継ぐつもりだ。貴乃花親方の落選を問われて「大切な仲間、友人。今回投票していただく(投票選になる)ことが協会の活力になると思って(立候補を)届けさせていただいた。投票していただくことが大事なんです」と大義を強調した。

 現役時代、横綱千代の富士になぞらえて“白いウルフ”の異名で人気を得た。一時は部屋の不祥事などで昇格見送りなどの憂き目にあったが、心血注ぐ覚悟はできた。再び総帥の落選を受け「私が一生懸命、仕事をさせていただきたい」と力を込めた。

 ◆阿武松広生(おうのまつ・ひろお)本名・手島広生、元関脇益荒雄。1961年(昭36)6月27日、福岡県生まれ。押尾川部屋に入門し、79年春場所初土俵。85年秋場所新入幕。87年名古屋場所新関脇。90年名古屋場所限りで現役引退。年寄「錣山」から92年9月に「阿武松」を襲名し、94年10月に阿武松部屋創設。小結若荒雄(現不知火親方)、小結阿武咲らを育てた。2010年1月に二所ノ関一門を離脱し、貴乃花一門に所属。現在は巡業部、指導普及部。

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