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プロレスの雰囲気変わっても守るものがある/連載5

12年6月、IWGPヘビー級王者棚橋弘至とのタイトル戦を前にケーキで前祝いする真壁刀義

プロレスには不思議な力がある。24年間、プロレス界の天国も地獄も見てきた真壁刀義(47)の視点からプロレスの力を見つめ直す。第5回はプロレス人気の復活について。

【取材・構成=高場泉穂】

   ◇   ◇   ◇

東日本大震災からの復興と、プロレス人気の復活は時期的に重なる。2011年に集客の手応えをつかんだ新日本プロレスは翌12年になるとPRに力を入れ始めた。

いくらリングの上の戦いが充実していても、その良さ、選手の魅力を広く伝えなければ、さらなる人気を得ることはできない。

12年1月、カードゲーム事業で成長を続けていたブシロードが新たに親会社となった。木谷高明オーナーはさまざまな形で広告を打つと同時に、選手らにツイッターなどSNSでの発信を求めた。

「おれたち選手は試合や自分のことを懸命に発信した。実はこんな人なんだ、こんなこと考えているんだってより分かってもらえたのかな」真壁の代名詞となった「スイーツ真壁」が誕生したのもこの頃だった。日本テレビの朝の情報番組で、お菓子のリポートをするコーナー「スイーツ真壁のうまいっス!!」が始まると、鎖をつけた怖そうな見た目とスイーツ好きというギャップでブレーク。たちまち知名度が上がり、全国どこでも街を歩くと声をかけられるようになった。

「そもそも日本テレビのディレクターが俺のブログを見ていてくれたらしいんだ。俺が子どもの頃は、お菓子はめったに食べられなかった。だから、給料をもらうようになってから好きなスイーツを食うようになって、それをブログで書いてたんだ。その時はほんとに忙しかった。巡業先から東京に戻って長い時は12時間撮影して、また次の日(巡業先に)戻る。この繰り返しだった。でも、ここで“スイーツ真壁”をもっと広めないと会場にお客さんを呼べねえと思ったから頑張ったよね」

新日本は次々と新しいものを生み出し、プロレス界の中で頭ひとつ抜けた存在となっていく。

躍進のきっかけの1つに中邑真輔(現WWE)の覚醒がある。00年代から若き実力派エースとして期待されながら独自色が足りないとされた中邑は、東日本震災後のメキシコ遠征で自分がやりたかったことを大胆に表現した。

マイケル・ジャクソンにヒントを得てクネクネした動きを始め「イヤァオ」と意味不明のフレーズを言い始めた。そのどこか不気味で、それでいて色気のあるふるまいで、一気に人気を得た。

長くライバル関係にあり「中邑を引きずりおろそう」と躍起になっていた真壁も、この大変身を認めざるを得なかった。

「このまま終わるんだったらクソレスラーだ、と思ってたの。そしたら、ある日、いきなりあいつ震え始めたんだ。マイケル・ジャクソンだぜ? 最初ファンは気持ち悪いって言ってたの。そりゃ気持ち悪いよね、ぶるぶるしてたら。それでも、あいつはくじけなかった。中邑がそこですごかったのは、ぶるぶるぶるって震えながらいろんなことをやり始めた。そうやって実験していたものが、数年後花開くんだよね」

さらに13年に放送されたテレビ番組「劇的ビフォーアフター」の反響も大きかった。ぼろぼろだった東京、世田谷・野毛道場の選手寮が美しく改築され、話題を呼んだ。プロレスファン以外にも届くさまざまなアプローチが、新規ファン獲得につながっていった。

「どれも世間に与えるインパクトが違う。新日本プロレスはリニューアルしたんだ、新しくなったんだと思うじゃん。作戦としては最高だよね」

高齢化社会、不況、災害…。不安が多い世の中で、人々はプロレスに非日常と幸福感を求めるのかもしれない。PR作戦が奏功し、新日本は、女性や子ども連れのファンが増えていった。

そこから現在に至るまで経営は右肩上がり。新日本プロレスは、90年代のブームを超える黄金期を迎えている。真壁は今の会場の雰囲気を「アミューズメントパーク」と表現する。

「昔のプロレスファンは、おやじさんが多かったんだよね。でも、今は若い女の子や、親子が多くなった。なんていうかなアミューズメントパーク来てるって感じじゃない? リング上で普段見ないようなでかいやつがぶつかり合う。それに対して、みんな興奮して声を出して楽しんでくれている」

会場の客層が変わるだけでなく、14年には動画配信サービス「新日本プロレスワールド」が始まったことで、ファンは世界中に広がった。

プロレスを取り巻く環境は変わった。しかし、その中でも真壁は変わらず守るべきものがあると強調する。

「アミューズメントパークみたいな雰囲気、俺はいいと思うよ。その上でお客さんが興奮する、欲しているもの。それはいつの時代も変わらないと思うんだ。俺はプロレスは闘いであって、同時に人間模様をみせるものだと思ってる。悔しさとか怒りとか、そういう感情を見てほしい。俺は10歳ぐらいのガキだった時、テレビで大男たちがリング上でぶつかり合っているのを見ながら、いつも『すごいなぁ、すごいなぁ』って素直に思ってた。何にも知らないガキの俺の心を奮わせるものがあったんだ。それは今の時代も変わっちゃいけない。見ている観客の心に何か響かせないとプロじゃねえ。それができるから、お金を出して見てもらう価値があると思ってる」

インターネットの普及によって、あらゆる分野でグローバル化が進み、世界中の興味の対象に、誰でも簡単にアクセスできる時代になった。

その中で新日本プロレスは、近年特に海外戦略に力を入れてきた。少子化が進み、日本の人口が減り、市場の縮小が見込まれる中、海外にビジネスを広げることが生き残る道だからだ。

18年から社長を務めるオランダ人のハロルド・メイ氏は「言葉、文化の壁、男女、年齢の壁、すべて乗り越えられるのがプロレス。ルールも単純明快。見てすぐ分かるスポーツ」とプロレスには普遍性があると語る。

英語での動画や記事配信などでファンは世界に広がり、米国、欧州での興行も、多くのファンを集めるようになった。

コンテンツビジネスという点において、新日本は国内エンタメ界の先端を走り、国内の他のプロレス団体はその背中を追って、努力を続ける。

今年1月4、5日に、新日本プロレスは東京ドームで初の2連戦を開催した。2日間で国内外のファンを含む計7万人超を動員し、大成功をおさめた。

ここからさらに勢いを増すはずだった春、新型コロナウイルス感染拡大という未曽有の事態が世界を襲った。

エンターテインメント界、スポーツ界、すべての興行が止まった。経済活動も、人々の生活も、“止まった”といっていいかもしれない。

今は日本中、世界中のあらゆる人々が苦しんでいる。

真壁は言う。「こういう時こそ本領発揮しなくちゃいけないのがプロレスなんだ」。今この状況で、プロレスには何ができるのか。これまで何度も苦境を乗り越えてきたプロレスの底力が試される時がきている。

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志村さん愛した犬ちび、コロナ禍も朝日山部屋で元気

朝日山部屋の愛犬ちび(朝日山親方撮影)

志村けんさん(享年70)が愛していた捨て犬のちび(7)は、大相撲の朝日山部屋で元気に過ごしている。日本テレビ「天才!志村どうぶつ園」で有名になり、2017年4月に部屋が引き取った。力士にとって癒やしの存在になり、朝日山親方(元関脇琴錦)は志村さんに追悼の意を表した。

  ◇    ◇    ◇

志村さんになついていたちびは、千葉・鎌ケ谷市の朝日山部屋で力士たちと暮らしている。朝日山親方は「元気ですよ。志村さんがおっしゃっていた通り、そうめんやうどんなど麺が好きなんです。あの時と変わらず、ちびに癒やされますし、力士は生きものを大事にするという心を持つことができます」と話した。

部屋の中で放し飼いにし、稽古がある日は夕方、ない日は朝と夕、ちゃんこ番でない力士が2、3人で散歩に行く。その際も力士はマスクを着け、帰ると手洗いを欠かさない。新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け落ち着かない日々だが、ちびと一緒に乗り越えようとしている。

ちびはもともと捨て犬だった。13年4月から番組に出演し、志村さんと旅する様子が放送され、人気者になった。出演しない時に預けられていた千葉・松戸市のドッグスクールの関係者と朝日山親方が知り合いだった縁もあり、声をかけられた。かつて愛犬の死去による苦しみを経験した親方は当初は乗り気でなかったが、3年前に弟子たちと相談して受け入れた。

「いまだに根強い人気があり、表を歩いていると『ちびちゃん元気ですか?』と声をかけられることもあります。この前は、相撲診療所の看護師さんにも言われました」と朝日山親方。受け継いだ後も2度、巡業などで親方は不在だったが、志村さんらが部屋を訪ねてきたという。訃報については「志村さんは我々世代にとって大スター。幼少のころから楽しませてもらいました。早すぎるし、残念です」と悔やんだ。

志村さんの命を奪った新型コロナウイルスの影響で、ちびや力士たちも耐え忍ぶ日が続く。4日に志村さんを追悼して放送された志村どうぶつ園は、受け入れ当時を知らなかった力士も一緒になって見たという。朝日山親方は「志村さんがかわいがっていたちびですが、うちの部屋に来て幸せになった。志村さんには、安心していただけると思います」と天国へメッセージを送った。【佐々木一郎】

◆主な相撲部屋とペット 荒汐部屋の猫のモル(モンゴル語で猫の意)が最も有名。16年に写真集が発売された。佐渡ケ嶽部屋は先代師匠(元横綱琴桜)の時からオスなら「チェリー」、メスなら「さくら子」と名前を決めており、現在はトイプードルの4代目さくら子がいる。浅香山部屋はともに犬の「シェビー」と「フォード」。車好きの師匠(元大関魁皇)が命名した。伊勢ノ海部屋には、トイプードルの「ゆき」がいる。

◆志村どうぶつ園 2004年に放送が始まった日本テレビのバラエティー番組で、毎週土曜日午後7時から。志村けんさんが「園長」となり、動物たちとの触れ合いを描いてきた。志村さんを追悼した4日放送分は、平均世帯視聴率が番組最高となる27・3%を記録した。主な出演者は、山瀬まみ、相葉雅紀、ベッキーら。

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和田アキ子ら笑顔でデストロイヤーさんの思い出語る

ザ・デストロイヤー氏の追悼セレモニーでリングに上った和田アキ子(中央)。右は長男カート・ベイヤー氏、左はドリー・ファンク・ジュニア氏(撮影・加藤諒)

<プロレス:ザ・デストロイヤー・メモリアルナイト~白覆面よ永遠に~>◇15日◇東京・大田区総合体育館

3月7日に88歳で死去した元プロレスラーの「白覆面の魔王」ザ・デストロイヤーさん(本名リチャード・ベイヤー)の追悼セレモニーには縁のある選手、著名人たちが出席した。

スタン・ハンセン、ドリー・ファンクJr.、ザ・グレート・カブキらプロレスラーをはじめ、日本テレビのバラエティー番組「金曜10時! うわさのチャンネル!!」で共演した和田アキ子、せんだみつお、徳光和夫アナウンサーが出席。リング上で故人の妻ウィルマさん、長男カート氏、長女モナさんとともに10カウントゴングで追悼した。和田、徳光、せんだの主な一問一答は次の通り。

-思い出は

徳光 付き合いが本当に長い。何から話していいか、思い出が鮮明に残っています。銀座で偶然あった時、トクミツと言われ、最初分からなかったんです。なぜか分かりますか? マスクを脱いでいたからなんです。

和田 やっぱり息子さん、お嬢様と久しぶりにお会いして。小さい頃から知っているので。当時、デス(トロイヤー)のおうちが麻布にあって。ハーイと出迎えてくれて、明るいおじちゃんが出てきて。デスのお父さんかと思って「どこにデスはいますか」と聞いたら「イッツ、ミー!」と言われてエーッと驚くほど、マスクを取ると分からなかった。今から11年前、ニューヨークのアポロシアターで日本人で初めてコンサートしたのですけれど、デスが花束を持って来てくれまして、それを思い出しました。

徳光 力道山と試合した人なんですよ。その人が今年まで存命でいらしたことがすごいことだと。素晴らしいなと思います。大きい拍手で送りたいですね。

-せんださんは

せんだ 振り返るとおふたりがいないと全国区になっていない。そしてデストロイヤーさんがいないと有名になっていない。アッコさんは歌手として有名でしたけれど、ボクはコメディアンとして有名になれた。アナウンサーから初めてコメディアンになれたのは徳光さん。これもやっぱりデストロイヤーのおかげ。おかげさまなんです。

和田 こうやって笑って話せるのもいいし、10カウントゴングも(胸に)きますね。日本で頑張ってヒーローになれた。本当に日本のことを1番よく分かっている米国人だと思います。本当にすてきな人でした。

-最後に

徳光アナ 最後に会ったのは3年前なんですけれど、最初のあいさつが「アッコは元気か? ボスは元気か?」でしたからね。

和田 ボスでしたよね。ブスじゃなかったですよね?

徳光アナ ブスのつもりでボスと言っていたかもしれませんが(笑い)。

和田 マスクを取った時は普通のおじちゃんだもんね。

徳光アナ オバQに似ていたもんね。

せんだ 天国から「よく3人がやってくれているな」と見守ってくれているんじゃないですか。

ザ・デストロイヤー氏の追悼セレモニーで、リングに上がった長男カート・ベイヤー氏(中央)、スタン・ハンセン氏(前列右から4人目)、徳光和夫(同3人目)、和田アキ子(同7人目)、せんだみつお(同9人目)ら関係者(撮影・加藤諒)

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デストロイヤー杯、長男カート氏感謝「すごい日」

ザ・デストロイヤー氏の追悼セレモニーで遺影を手に顔を拭う長男カート・ベイヤー氏(撮影・加藤諒)

<プロレス:ザ・デストロイヤー・メモリアルナイト~白覆面よ永遠に~>◇15日◇東京・大田区総合体育館

3月7日に88歳で死去した元プロレスラーの「白覆面の魔王」ザ・デストロイヤーさん(本名リチャード・ベイヤー)の追悼セレモニーが開かれ、元プロレスラーの長男カート氏が、会場に集結した縁のある選手、著名人、ファンに感謝の言葉を口にした。

同興行に合わせて来日したスタン・ハンセン、ドリー・ファンクJr.をはじめ、ザ・グレート・カブキ、力道山の息子となる百田光雄、渕正信、藤波辰爾、小橋建太、秋山準らプロレスラーがリングイン。デストロイヤーさんが日本テレビのバラエティー番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」で共演した和田アキ子、せんだみつお、徳光和夫アナウンサーとともに10カウントゴングで追悼した。

リングに上がった父とゆかりのある人たちの名前を呼び、頭を下げたカート氏は「今日は本当にすごい日。リングに上がってくれてありがとうございます。みなさんも大田区まで来てくれてありがとうございます」と会場の観客にも感謝していた。

ザ・デストロイヤー氏の追悼セレモニーで弔事を述べる徳光和夫(撮影・加藤諒)
ザ・デストロイヤー氏の追悼セレモニーでリングに上った和田アキ子(中央)。右は長男カート・ベイヤー氏、左はドリー・ファンク・ジュニア氏(撮影・加藤諒)

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藤波辰爾が出場意欲、デストロイヤーさん追悼興行

ザ・デストロイヤー・メモリアルナイトの開催発表会見に出席した藤波辰爾(左から2番目)、和田京平レフェリー(同3番目)ら関係者(撮影・藤中栄二)

今年3月に亡くなったプロレスラー、ザ・デストロイヤーさんの追悼興行が11月15日、東京・大田区総合体育館で開催されることが29日、発表された。「ザ・デストロイヤー・メモリアル・ナイト~白覆面の魔王よ永遠に~」と題し、大会プロデューサーには和田京平名誉レフェリー、木原文人リングアナウンサーが就任。試合当日にはドリー・ファンクJr.氏、スタン・ハンセン氏、日本テレビのバラエティー番組「金曜10時! うわさのチャンネル!!」で共演していた徳光和夫アナウンサーが来場する。

同日、都内のホテルで大会開催会見が開かれ、藤波辰爾、和田名誉レフェリーらが出席。大会は7~8試合を予定しており、デストロイヤーさんの必殺技である「足4の字固め」や「マスクマン」などにちなんだ選手によるマッチメークを考えているという。和田名誉レフェリーは「第1試合からメインイベントまでカードも期待してください。『あっ』『えっ』と驚かせたい。私にとって馬場さんがお父さんならデストロイヤーさんはおじちゃん。ぜひ成功させたい」と言葉に力を込めた。

藤波は「もちろん現役選手である以上、第1希望で。出るからには体調もベストで上がりたいです」と出場に意欲。さらに「リングに上がった時、ファンのみなさんが手作りのマスクとかを被っていたら、すごい異様な光景になる。考えただけでもゾクゾクします」と観客にマスク装着での来場も期待した。

またビデオメッセージで、デストロイヤーさんの息子のカート・ベイヤー氏も登場。「今回のメモリアルイベントの大田区は、力道山の昔の家の近くにあるらしく、それも素晴らしいなと思い、本当にメモリアルにぴったりなイベントになると思います。本当に素晴らしいことです。11月15日のイベントはよろしくお願いいたします」などとあいさつした。

なおチケットにはザ・デストロイヤープレミアムシート(10万円)が準備され、最前列でデストロイヤーさんの試合用マスクがセットになっている。

ザ・デストロイヤーさんの追悼興行開催会見にビデオメッセージで登場したデストロイヤーさんの息子カート・ベイヤー氏(撮影・藤中栄二)

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中邑真輔「行列-」で初食レポ、池乃めだかと初対面

日本テレビ「行列のできる法律相談所」に出演したWWE中邑真輔(中央)はあこがれの人気芸人池乃めだか(右端)と対面。左端はMCの東野幸治

WWEスマックダウン所属の元US王者中邑真輔(39)が6月16日午後9時からオンエアの日本テレビ系「行列のできる法律相談所」に出演する。

10日にWWEジャパンから発表されたもので、一時帰国した際に収録された。新日本プロレスからWWE移籍後、国内バラエティー番組に初登場となる。

スタジオではMCの東野幸治をはじめとするレギュラー陣やゲストらとの軽快なトーク、決めポーズ「イヤァオ!」も披露した。実は「スイーツ大好き」レスラーの中邑は、8席しかないカウンターで頂く超人気モンブラン専門店『Mont Blanc STYLE(モンブラン スタイル)』でロケも敢行。和栗のモンブランで人生初の「食レポ」にも挑戦している。さらにスタジオで「友達になりたい人」として挙げた関西が誇る人気芸人池乃めだかともの初対面している。

一時帰国中に日本テレビ「行列のできる法律相談所」に出演したWWE中邑真輔

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K-1が「紅白超え」テレビ史変えたサップvs曙

03年12月、ボブ・サップにKO負けした曙

<平成とは・バトル編(4)>

2003年(平15)12月31日午後11時。日本のテレビ史に新たな1ページが刻まれた。TBSの「K-1 Dynamite!!」で中継したボブ・サップ-曙の試合が「NHK紅白歌合戦」の視聴率を超えたのだ。頂点は曙がサップにKOされた11時2分。瞬間最高視聴率(ビデオリサーチ調べ)は43%に達し、NHKの35・5%を7・5%も上回った。

わずか4分間とはいえ裏番組が紅白を上回るのは初めて。平均視聴率19・5%も裏番組として史上最高だった。大会を運営したFEGのイベントプロデューサーだった谷川貞治は「絶頂を迎えたテレビ格闘技時代の象徴でした。格闘技というコンテンツは紅白を超えるほど強い。それを日本中にアピールできたことは大きな功績」と回想する。

K-1は93年(平5)に誕生した。フジテレビのスポーツイベントの一環として空手の正道会館の石井和義館長が、空手やキックボクシングなどの立ち技の格闘技世界一を決める大会を代々木第1体育館で開催した。「“賞金10万ドル世界最強決定戦”と銘打ち、まだK-1の文字は小さかった。空手やキックなど頭文字にKのつく格闘技の1番を決めるという意味で、ブームだったF1をまねた」と、マッチメークに携わった谷川は明かす。

決勝まで7試合のうち6試合がKOでの決着だった。ヘビー級のど迫力のパンチとキックに超満員の会場が熱狂した。実力者モーリス・スミスや日本のエース佐竹雅昭が、無名のアーネスト・ホーストやブランコ・シカティックに衝撃的なKO負けを喫したことで、逆にK-1のレベルの高さが際立ち、人気が急上昇した。

時代も味方した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の衰えとともにプロレス人気が下降し、新たな格闘技としてブームを起こしたUWFも90年を最後に分裂していた。そんな時代にK-1が注目を浴びた。昭和の時代に光の当たる舞台がなかった空手家やキックボクサーたちが、続々とK-1のリングを目指した。

極真空手で実績を残したアンディ・フグら世界的な空手家も参戦し、96年にはフジテレビがゴールデンタイムで放送開始。K-1の名前は全国区となって、平均視聴率も20%を超えた。97年12月の「K-1 GP決勝戦」は5万4500人の大観衆が東京ドームを埋めた。そして、02年に参戦した野獣ボブ・サップが国民的な人気者になった。

03年にK-1はTBSの「Dynamite!!」で、単独では初の大みそか興行に乗り出す。目標は打倒紅白。目をつけたのが曙だった。谷川が振り返る。「大みそかはみんなでお茶の間でテレビを見る。そのお茶の間で一番人気があるスポーツ選手はお相撲さん。だから元横綱の曙を口説いた」。サップと曙の対決は、谷川の予想通りお茶の間のテレビを紅白から奪った、

00年以降、フジテレビで「K-1 GP」、TBSで70キロ級の「K-1 MAX」、日本テレビで日本選手中心の「K-1 JAPAN」と3局で大会が放送されるようになった。93年の第1回大会で1人100万円だったファイトマネーは年々急騰し、億単位で稼ぐ選手も現れた。その一方でFEGの経営は次第に悪化。深刻な財政難に陥り、10年の「K-1 GP」が最後になった。

「経済的な破綻は自分たちの責任。いろんな問題があった」と谷川。ただ「経営状態が悪くなくても落ちていったと思う」とも話し、こう続けた「平成はテレビの時代だった。フグやサップが人気が出たのは強いからではなくて、テレビに乗ったから。でもこの10年でメディアを取り巻く状況はガラリと変わった。今は昔のようにテレビで視聴率を取る自信がない」。

現在、谷川は武道を軸に据えた新格闘技「巌流島」のイベントプロデューサーを務めているが、まだ目指す道が見つからないという。「20年前は地上波のゴールデンタイムという分かりやすい目標があった。コンテンツをつくる自信は今もある。でも、目指すメディアが見つからない。令和の時代はそれを見つけた人が勝つんだと思う」。谷川の悩みは、ネットの登場で斜陽となった既存メディアが抱えている悩みでもある。【首藤正徳】(敬称略)

03年12月、曙(左)にパンチを放つボブ・サップ

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異質な飯田覚士 TV企画、部活の延長から世界王者

平成のボクシング界について語る飯田覚士さん

<平成とは・バトル編(2)>

平成が幕を開けて間もなく、日本ボクシング界に異質なボクサーが現れた。後にWBA世界スーパーフライ級王者になる飯田覚士である。90年(平2)、日本テレビのバラエティー番組「天才たけしの元気が出るテレビ!!」の“ボクシング予備校”という企画に、プロテストを目指す練習生の1人に選ばれた。

当時、飯田は岐阜経済大3年。「ボクシング部でしたが、ツアーコンダクターになりたかったので、プロになるつもりはなかった。練習に物足りなさを感じていたのと、テレビに出れば思い出になると思って応募した」。どこにでもいる普通の大学生で、ボクサーらしからぬ甘いマスクにきゃしゃな体形。そのギャップがボクシングと無縁の若い女性のハートに響いた。

日曜の夜に放送される平均視聴率15%の人気番組で、定期的に成長ぶりが紹介されると、飯田の人気は沸騰した。90年9月の大阪城公園での公開スパーリングには1万人を超えるファンが殺到した。テレビ局の意向に応じて番組内で「チャンピオンになる」と公言していたため「引くに引けなくなった」と飯田。翌91年3月にプロデビュー。翌年の全日本新人王決勝戦には8000人の大観衆が詰めかけた。

昭和の時代、ボクシングには怖い、痛い、危ないというイメージが根強くあった。その象徴が昭和40年代に大ヒットした漫画「あしたのジョー」。貧しい不良少年が拳ひとつでのし上がっていくストーリーで、実際に漫画を地でいくボクサーも多かった。飯田はそんな近寄りがたかったボクシングを、部活の延長のような身近な存在に変えた。飯田自身「パンチパーマなどのいかつい格好で相手を威嚇するのは嫌だった」という。

この頃から飽食の時代に敬遠されつつあったボクシングジムに「僕も挑戦してみよう」と若者が足を向け始めた。飯田が全日本新人王になった翌年度には、100人台だった新人王のエントリーが265人と急増。マイク・タイソンの2度(88、90年)の東京ドーム防衛戦など複合的な要素も重なり、89年に1200人だったプロボクサーは年々増加し、06年には3200人にまで膨れあがった。

もうひとつの要因が89年から現在まで続く「少年マガジン」(講談社)の人気漫画「はじめの一歩」(森川ジョージ著)。いじめられっ子の主人公がボクサーに救われ、自らボクサーとして成長していくストーリーが、平成の若者に圧倒的な支持を受けた。元WBA、IBF世界ライトフライ級王者の田口良一をはじめ、この漫画に刺激を受けてボクシングに興味を持った世界王者も多い。

彼らは根性論が主流だったジムの練習にも新風を吹き込んだ。「根性で勝つんじゃないと自分に言い聞かせてサプリメントをとったり、インナーマッスルや動体視力も鍛えた」と飯田は回想する。元WBC、WBA世界ミニマム級王者で大橋ボクシングジム会長の大橋秀行は「今は昭和の時代と練習方法も食事も180度違う。八重樫東(世界3階級制覇王者)は科学的な筋トレを取り入れて、脂を抜いた食事を心がけている」と明かす。

飯田は世界挑戦2度失敗後の97年12月、ヨックタイ・シスオー(タイ)を判定で下してついに世界王座を奪取。2度の防衛にも成功した。普通の大学生が世界王者にたどりついて気付いたことがある。「根性論が嫌いで、科学的なトレーニングを存分にやった。でも結局、ボクシングは最後はど突き合いなんです。流血しようが構わず打ち合う。行き着いた先は、ストイックで己の身を削らないと勝てない過酷なスポーツでした」。時代は移ってもボクシングの本質、世界の頂点への厳しい道のりに変わりはない。【首藤正徳】

(敬称略)

97年12月、ヨックタイ・シスオーにパンチを放つ飯田(左)

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タイソン東京Dの衝撃 日本ボクシングのビッグバン

90年2月、WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチの10回、マイク・タイソン(右)はジェームス・ダグラスの強烈パンチでダウンを喫しKO負けする

<平成とは・バトル編(1)>

日本ボクシング界は7人の世界王者を抱えて、令和時代の幕開けを迎える。現役世界王者不在で始まった平成元年から30年。日本は世界屈指のボクシング大国に躍進した。「平成とは」バトル編のスタートはボクシングで3回連載する。第1回は元統一世界ヘビー級王者マイク・タイソン(米国)の東京ドーム防衛戦から平成の時代を検証する。

  ◇   ◇   ◇  

昭和から平成に変わるころ、日本ボクシング界は冬の時代だった。88年(昭63)、89年(平元)の年間最優秀選手は該当者なし。89年は1年を通して現役世界王者がいなかった。日本のジム所属選手の世界挑戦は、88年1月から実に21連続失敗。世界戦のテレビ中継も夜から休日の昼間の時間帯へと移行しつつあった。

そんな時代に世界ヘビー級王者マイク・タイソン(米国)は、日本にやってきた。88年3月21日、東京ドームでトニー・タッブス(米国)との防衛戦が実現した。興行した後楽園スタヂアム(現東京ドーム)の当時の興行企画部長で、日本ボクシングコミッション理事長の秋山弘志(81)は「最高10万円のチケットが2、3日で完売した。衝撃的だった」と回想する。会場は5万1000人の大観衆で埋め尽くされた。試合はタイソンの2回KO勝ち。総売上15億円は1日の興行として今も最高という。

デビューからKOの山を築き、無敗のまま3団体の世界王座を統一したタイソンは、あのムハマド・アリと並び歴代最強と評されていた。1試合の報酬が10億円を超える世界で最も稼ぐスポーツ選手で、試合はカジノでも収益が見込めるラスベガスなど米国内の一部に限られていた。タッブス戦は初めて米国以外で開催された防衛戦だった。

「完成した東京ドームを世界に広めるため、こけら落とし興行として企画したのでそれなりの資金は用意した」と秋山は振り返る。それでも交渉は難航した。暗礁に乗り上げかけた時、業界に人脈を持つ帝拳ジムの本田明彦会長がプロモーターに名乗り出た。「失敗したら私は辞職する覚悟だったが、交渉を本ちゃん(本田)に任せたら、とんとん拍子にうまくいった」。

90年2月11日、再び東京ドームでタイソンの防衛戦を実現させた。しかし、最高15万円に設定したチケットは伸び悩んだ。勝って当たり前の試合に、財布のひもが固くなった。ところが、この試合でボクシング史に刻まれる「世紀の大番狂わせ」が起きる。挑戦者ジェームス・ダグラス(米国)に、タイソンが10回KOで初めて負けたのだ。

中継した日本テレビで解説をした元WBC世界スーパーライト級王者の浜田剛史(58)は「タイソンは練習でダウンするなど調子が悪かった。アナウンサーの“時代が変わった”という言葉を覚えている。その試合を日本から発信したことは大きいと思った」と今も鮮明に記憶している。試合は米国をはじめ世界50カ国以上に放送されていた。

国内の視聴率は昼間の試合にもかかわらず38・9%(ビデオリサーチ調べ)。KO負けの瞬間は51・9%を記録。その衝撃が冬の業界に“ビッグバン”を起こした。国内の試合にも観客が押し寄せ、ジムの練習生が急増。91年のプロテスト受検者が88年の1・5倍に増えた。「タイソンはボクシングファンも、そうじゃない人も引きつけた」と浜田は言う。タイソン敗戦の4日前にWBC世界ミニマム級王座を奪取して、平成初の世界王者になった大橋秀行(54)は「タイソン戦の前後、普通の10回戦の興行でも後楽園ホールが超満員になった。ブームが来たと思った」と証言する。

一方で日本の国際的な評価も高まった。「世界の日本を見る目が変わった。試合の解説で米国に行くと対応も全然違った」(浜田)。海外との太いパイプができたことで日本選手の世界戦の興行数も急増。87年には年間5試合まで落ち込んでいたが、辰吉丈一郎が「浪花のタイソン」の異名で一気にスターに駆け上がるなど、92年には19試合に増えて世界王者も5人になった。94年12月の辰吉-薬師寺戦の視聴率は39・4%。タイソンの数字も超えた。

タイソンが東京で王座を失った半年後、日本初の民間衛星テレビ(WOWOW)の放送衛星が打ち上げられた。91年4月に本放送を開始する同局が、開局PRの目玉に選んだのがタイソンだった。復帰第2戦から独占契約で生中継した。チーフプロデューサーの大村和幸(59)は「ビジョンは世界最高峰を伝える。そこでタイソンに目をつけた。負けたとはいえ、知名度と実力は圧倒的だった」と振り返る。

番組名は「エキサイトマッチ」。タイソン戦のほか、毎週2時間枠で、世界で年間約120試合開催されていた世界戦のうち100試合以上を放送した。「当時、ドン・キングら米国3大プロモーターは、それぞれテレビ局が分かれていた。本田会長に交渉をお願いしたらその壁を超えて放送権を獲得できた。これは世界初の画期的なこと。タイソンをプロモートした信頼と人脈のおかげです」と大村は話す。

現在も続くこの同局最長寿番組は、日本人ボクサーのレベル向上に大きく貢献した。「あの番組で日本選手のレベルが飛躍的に上がった。毎週、世界一流の技術を映像で見て、選手がまねするようになった。日本のボクシングを強くした一番の要因」と大橋は分析する。「学生時代から番組を見ていた村田諒太が、俺のトレーナーはエキサイトマッチでしたと言ってくれた」と大村も明かす。

現在、日本の男子の現役世界王者は7人。王座が2団体から4団体に増えたとはいえ、世界王者の数で世界のトップ3に入るボクシング大国へと躍進を遂げた。選手のレベルも向上したが、浜田は「力があるときにチャンスがなければ王者になれない。世界戦という舞台を数多くつくれるようになったプロモートの力も大きい」と話す。

昨秋、元世界ヘビー級王者が東京ドームを訪れた。彼の名はジェームス・ダグラス。あの「世紀の大番狂わせ」を振り返る、米国のテレビ番組の収録だった。インタビュー出演した秋山がしみじみと言った。「いまだに世界で語り継がれている。タイソンの試合を日本で興行した効果は計り知れない」。あのビッグバンの衝撃波は今、令和の時代に達しようとしている。【首藤正徳】(敬称略)

平成のボクシング界について語る元WBC世界スーパーライト級王者の浜田剛史さん
日本ボクシング界の歩み

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井上尚弥いとこ浩樹が涙の初王座「ボクなんか…」

日本スーパーライト級新王者となった井上浩樹(右から2番目)。左から井上真吾トレーナー、井上尚弥、1人おいて井上拓真(撮影・高場泉穂)

<プロボクシング:日本スーパーライト級タイトルマッチ10回戦>◇6日◇東京・後楽園ホール

世界王者兄弟の井上尚弥、拓真のいとこで同級1位の井上浩樹(26=すべて大橋)が初めて王座を獲得した。

王者細川バレンタイン(37=角海老宝石)に挑み、3-0の判定勝ちを収めた。身長で12センチ低い王者が距離を詰めてきた瞬間、的確な左ストレートや右フックを打ち込み、中間距離では的確なジャブで5回以降は試合の主導権を握った。

13戦全勝で日本王者となった井上は「プロ入りの前から尚弥、拓真が当たり前のように王者になって。ボクなんかなれるか分からなかった。王者になりますとは言ってきたけれど、不安な部分はあった。日本王者になり、夢のようにうれしいです」とリングで感極まった涙を流した。

調整期間中に拳を痛め、王座戦前には満足なスパーリングができないハンディも乗り越えての王座奪取。それでも「安全運転し過ぎて面白くない試合をしてしまった。次はもっと良い試合をしたい。今日の内容では世界王者なんてと思われるので、すぐに練習再開して自信を持ちたいです」と反省も忘れなかった。

井上兄弟の父、真吾トレーナーの兄の息子にあたる。いとこの尚弥、拓真とともにアマチュアを経験し、アマ5冠を誇るホープだ。ボクシング界ではアニメオタクとして知られ、秋葉原や中野にも頻繁に出没。18年1月には日本テレビ系のバラエティー番組「ナカイの窓」にアニメオタクの1人として出演し、話題を呼んでいた。

王者細川バレンタインを破り、日本スーパーライト級新王者となった井上浩樹は、細川に祝福され涙した(撮影・高場泉穂)

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ザ・デストロイヤーさん、ファンの胸の中で永遠に

デストロイヤーさん  1963年5月撮影

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤーさん(本名リチャード・ベイヤー)が7日(日本時間8日)、米ニューヨーク州北部バファロー郊外の自宅で死去した。88歳だった。

元プロレスラーの長男カート・ベイヤー氏(58)がフェイスブックで亡くなったことを報告した。死因は不明。キャリア約40年、日米で8000試合以上を戦い、お茶の間の人気者でもあったマスクマンの草分け的存在が、この世を去った。

「白覆面の魔王」は家族に寄り添われ、天国へと旅立った。デストロイヤーさんの長男カート氏のフェイスブックによると、米ニューヨーク州の自宅で子どもたちや、妻に見守られながら永眠した。同氏は「デストロイヤーであり、ドクターXであり、ディック・ベイヤーであり、コーチである父が今日正午すぎに亡くなりました。自宅のベッドで子どもたち、妻に囲まれて安らかに眠りました」などとつづった。ここ数週間、体調が悪化し、医療処置を受けていたという。

1954年に素顔でプロレスデビュー。62年、白地に赤の縁取りを付けたマスクを装着し、覆面レスラー「ザ・デストロイヤー」に変身し大ブレーク。同年に「吸血鬼」ブラッシーを下し、WWA世界ヘビー級王座を初戴冠した。63年に日本プロレスに初来日し、同年5月24日に力道山と同級王座戦で激突。代名詞で、のちに子どもたちが競うようにまねた「足4の字固め」の攻防で白熱した展開となり、テレビ中継の平均視聴率は64%をマークした。これは今なお日本のテレビの歴史上4位の高視聴率、プロレスでは同最高。空前のプロレスブームを巻き起こした。当時、外国人レスラーは悪役が多かったが、次第にファンの心をつかみ善玉に転じ、歓声を浴びた。ジャイアント馬場のライバルとなり、アントニオ猪木とも好勝負を繰り広げた。それまで脇役的だった覆面レスラーの立ち位置も変えた。

73~79年には全日本プロレスの所属選手として活動し、ブッチャーやマスカラスと名勝負を展開。馬場やジャンボ鶴田とタッグを組み、人気を博した。日本テレビのバラエティー番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」にも出演。せんだみつお、和田アキ子、徳光和夫アナウンサーとの掛け合いでお茶の間の人気者にもなった。

93年の現役引退後も日米の懸け橋となった。体育教師になり、日米レスリング選手の育成にも尽力。東日本大震災後も被災地に寄り添い、積極的に支援活動を行った。17年秋の叙勲で旭日双光章を受章。18年2月の米国での記念式典にも白い覆面で臨んだ。覆面の奥から見える優しい青い目がトレードマークだったデストロイヤーさんは、これからもファンの胸の中で生き続けることになる。

日本テレビ「うわさのチャンネル」で共演した和田アキ子とザ・デストロイヤー(手前)(1976年10月29日撮影)
全日本横浜大会 試合後、抱き合い健闘をたたえ合うザ・デストロイヤー(左)とジャイアント馬場 (1993年7月28日撮影)

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日テレもデストロイヤーさん悼む「勇姿忘れません」

全日本横浜大会 試合後、抱き合い健闘をたたえ合うザ・デストロイヤー(左)とジャイアント馬場 (1993年7月28日撮影)

覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)に88歳で亡くなったことを受け、全日本プロレスの中継を行っていた日本テレビが8日、追悼のコメントを発表した。

同局は「ザ・デストロイヤーさんの訃報に接し心よりお悔やみ申し上げます。足4の字固めを武器に力道山やジャイアント馬場などと死闘を繰り広げるとともに、プロレスの枠にとどまらずテレビ番組などで活躍し、日本国民に愛された『白覆面の魔王』の勇姿を私たちは忘れません。どうぞ安らかに」と故人をしのんだ。

デストロイヤーさんは、日本テレビ系で放送された全日本プロレスのスターとして活躍。また63年放送された力道山戦は、同局歴代最高の視聴率64%を記録した。73~79年に放送されたバラエティー「金曜10時!うわさのチャンネル!!」にも出演。ゲストに、足4の字固めをかけるのが名物だった。

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デストロイヤーさん悼む 日本で大人気/復刻連載5

ザ・デストロイヤー(左)と和田アキ子(1973年11月9日撮影) 

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)、亡くなりました。享年88歳。日刊スポーツでは、デストロイヤーさんが現役引退した93年7月に連載を掲載しています。今回追悼をかねて復刻版として再掲載します(年齢などは当時のまま)。

 ◇   ◇   ◇

デストロイヤーの日本での幅広い人気を決定付けたのは、1973年(昭48)10月5日、日本テレビでスタートした「うわさのチャンネル」というバラエティー番組だった。和田アキ子をメーンにせんだみつお、あのねのねらのタレントが、ドタバタのコントを演じる番組だった。デストロイヤーはこの番組の救世主となった。

番組スタート時の視聴率は4・7%という低調さだったにもかかわらず、白覆面の魔王デストロイヤーが、片言の日本語と、和田アキ子ことゴッドねえちゃんにハリセンでぶたれるなどの、ボケ役を演じたことで人気が急上昇した。たった1カ月で22%にまで持っていったのだ。

このテレビ出演が、デストロイヤーに、また新たなプロレス人生を歩ませる転期になった。デストロイヤーの白覆面は、プロレスに全く興味のなかった主婦層など女性の人気を呼び、レスラーとしてはジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐ知名度を獲得したのだ。

この時期、デストロイヤーには内心の悩みもあった。コントを連発してお茶の間のファンを喜ばせるのはいいが、ひょうきんで弱いイメージが定着することと、子供たちへの影響を心配した。だが、13歳になっていた長男のカートは「女性が胸を出したり、当時のアメリカの感覚からすると、いやらしいユーモアもあったけど、学校が終わると、スタジオに遊びに行って楽しかった。ピンク・レディーとかタレントに会えたしね。友達にも自慢できた」と、親の心配とは関係なく、その状況を楽しんでいた。

また、番組登場と時を同じくして、デストロイヤーは外国人ではありながら、本業のプロレスでも日本陣営に入り、「流血試合の反則魔王」というイメージから脱却していった。Tシャツなどのキャラクターグッズも売れ、異国の地での成功に花を添えた。

現在も自分の試合が終了すると、特設売店に陣取り、自分のマスクのコピーを販売する商売っ気も発揮している。【川副宏芳】

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デストロイヤーさん悼む 必殺足4の字/復刻連載1

ザ・デストロイヤー(左)にフィギュア4レッグロック(足4の字固め)にもって行かれる力道山=1963年12月2日

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)、亡くなりました。享年88歳。日刊スポーツでは、デストロイヤーさんが現役引退した93年7月に連載を掲載しています。今回追悼をかねて復刻版として再掲載します(年齢などは当時のまま)。

「白覆面の魔王」ザ・デストロイヤー(61)が、29日の全日本プロレス日本武道館大会を最後に現役を引退する。1954年にデビューして実に39年に及ぶ現役生活。2日、東京・後楽園ホールで開幕した引退シリーズでは新人の大森隆男(23)と対戦、自慢の足4の字固めで下した。28日の横浜大会では実息カート・ベイヤー(32)との初親子タッグも決定している。シリーズ中に62歳の誕生日を迎えるデストロイヤーは、足4の字固めとともに、永久にプロレス界に名前をとどめる。

本家デストロイヤーの足4の字固めが大森の両足をとらえた。思わず沸き起こる拍手にマスクの奥でにんまりだ。1963年(昭38)5月の初来日時に力道山を苦しめて以来のオリジナル技は61歳の今になってもさび付いていない。大森がたまらずギブアップすると、足を気遣う余裕のポーズだ。足4の字固めと白いマスクで築き上げたプロレス人生が、全日本プロレスのサマーアクション・シリーズで幕を閉じる。

引退理由は、時期がきたから、という判断からだった。これに「最高のコンディションをつくるのも、保つのも難しくなった」という現実が加わった。60歳を超えてプロレスを続けることは、世界中で一番激しいプロレススタイルの日本では、難しいことだ。

日本では最も知名度のある外国人選手ということで、全日本プロレスは「引退シリーズ」を用意した。ところが本人は、リングを去ることへの悲しみなどみじんも見せない。「そんなにまじめに、考えてないんだよ」と柔和な灰色のひとみを見開いて、淡々と語る。そして「シリーズ参加はこれが最後だけど、チャンスがあればまたリングに上がってみたい」と、現役への未練も残っている。レスリング一筋の人生で、もはやプロレスを自分の体から切り離すことはできない。

28日の横浜文化体育館大会では、今年1月にデビューし「白覆面2世」を目指す長男カートと初めてタッグを結成、ジャイアント馬場(55)、力道山の次男百田光雄(44)と夢の競演をする。翌29日、東京・日本武道館大会では馬場、カートとタッグを組んで引退記念試合を行うことも決定した。

魔王といわれた悪役時代、バラエティー番組でのコメディアン。米国人でありながら日本陣営への参加と、白いマスクにもいろいろな表情を持たせてきた。「引退でマスクを脱ぐかって? 脱ぐ理由がないよ。日本のファンは脱いでほしいとは思わないだろう」。デストロイヤーは最後までデストロイヤー。本名のディック・リチャード・ベイヤーにはならずに引退する。 【川副宏芳】

★足4の字固め

(フィギュア・フォー・レッグロック)デストロイヤーのオリジナル技。テコの原理を利用し、ヒザのジン帯を伸ばす技。技をかけられた形が4の字になっている。デストロイヤーの場合は左足のつま先が相手右太モモの下にロックされ、外れにくい。技をかけられた側がうつ伏せになると、攻める側の両ヒザに体重がかかるという欠点もある。

★ザ・デストロイヤー

The Destroyer

▼生まれ 1931年7月11日、米国ニューヨーク州バッファロー生まれの61歳。本名はディック・リチャード・ベイヤー。高校時代からアメリカンフットボールを始め、シラキュース大時代は花形選手だった。183センチ、110キロ。

▼覆面の元祖 デビューした54年当時は目立たない存在だったが、62年に「マンネリを打破する」と言ってマスクマンに転向した。日本でもマスクマン選手の草分け的存在として、覆面ブームをつくった。

▼日本大好き 63年5月に日本プロレスに初来日。以後、日本びいきの外国人選手となる。73年3月から79年6月までの6年間は日本で暮らしている。73年当時は人気番組「うわさのチャンネル」(日本テレビ系)に出演し、子供から大人まで幅広く人気を得た。

▼最近のレスラーとしての活躍 全日本プロレスには年に1度来日していた。ここ数年は毎年夏のシリーズに参戦。主に若手選手と対戦し、ルーキーの登竜門となっていた。

▼レスラー一家 長男のカート・ベイヤー(32)は全日本プロレスで今年1月9日デビューした。次男リチャード(24)もレスラー志望。また長女クリス(29)は全日本の常連外国人選手のダニー・スパイビー(36)と今年2月14日に結婚した。

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デストロイヤーさん死去、88歳 子ども妻に囲まれ

ザ・デストロイヤーさん(1993年7月28日撮影)

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)、亡くなった。享年88歳。同日に複数の米メディアが報じた。元プロレスラーの息子カート・ベイヤー氏が自身のフェイスブックで報告したもので「父のデストロイヤー、ドクターXことディック・ベイヤーが今日正午すぎに亡くなりました。自宅で子どもたち、妻に囲まれながら平穏に去っていきました」などとつづった。デストロイヤーさんはここ数週間、病院のケアを受けていたという。

米バファロー出身のデストロイヤーさんは1954年に素顔でデビューしていたが、62年に白地に赤の縁取りを付けたマスクを装着し、覆面レスラーの「デストロイヤー」として変身後に大ブレーク。同年にブラッシーを下してWWAヘビー級王座を獲得。63年には日本プロレスに初来日し、力道山と対戦した。特に同年5月24日、力道山とのWWAヘビー級王座は平均視聴率64%をマークした。

以後、ジャイアント馬場のライバルとして大きな注目を集め、またアントニオ猪木とも対戦している。73~79年には日本に在住し、全日本プロレスの所属選手として活躍。馬場やジャンボ鶴田とタッグを組み、ブッチャーやミル・マスカラスと対戦し、人気を博した。そのキャリアは約40年、日米合わせて8000試合以上におよんでいる。

また日本テレビのバラエティー番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」にレギュラーで登場し、和田アキ子、徳光和夫アナウンサーとの掛け合いも人気を集めた。93年に現役を引退。たびたび来日し、17年には外国人叙勲者として旭日双光章を受章していた。

63年5月、力道山(右)に4の字固めを決めるデストロイヤー
日本テレビ「うわさのチャンネル」で共演した和田アキ子とザ・デストロイヤー(手前)(1976年10月29日撮影)

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力道山と名勝負 ザ・デストロイヤーさん略歴

ザ・デストロイヤー(右) 左は力道山=1963年5月24日

力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説のプロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが亡くなったと7日(日本時間8日)、複数の米有力メディアが報じた。享年88歳。

◆ザ・デストロイヤー 1930年7月11日、米ニューヨーク州生まれ。大学時代はアメフト選手として活躍。24歳だった54年、当時は素顔でプロレスラーとしてデビュー。62年に白地に赤の縁取りを付けたマスクを装着し、覆面レスラーの「デストロイヤー」として変身後に大ブレーク。白覆面の魔王の異名を持った。同年にブラッシーを下してWWAヘビー級王座を獲得。63年には日本プロレスに初来日元WWA王者で63年に初来日。力道山と名勝負を繰り広げた。63年5月24日、東京体育館で行われた力道山戦の視聴率は64%を記録した。ジャイアント馬場に敗れたことで73年3月から全日本入り。キャリアは約40年、日米で8000試合以上におよんだ。この間US王座を通算20度防衛した。必殺技の足4の字固めは流行語にもなった。全日本時代はジャンボ鶴田、大仁田厚、渕正信らを指導。 また日本テレビのバラエティー番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」にレギュラーで登場し、和田アキ子、徳光和夫との掛け合いも人気を集めた。93年に現役を引退。たびたび来日し、17年には外国人叙勲者として旭日双光章を受章していた。

ザ・デストロイヤーさん(1993年7月28日撮影)

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元貴乃花親方、景子夫人は「のびのびいってほしい」

元貴乃花親方(元横綱)の花田光司氏

景子夫人(54)との離婚が明らかになった元貴乃花親方の花田光司氏(46)が27日、日本テレビ系「スッキリ」に生出演して胸中を語った。

突然スタジオに現れた花田氏に司会を務める加藤浩次(49)も驚いた表情を見せた。

花田氏は「離婚のことがこんな大きなことになるとは思わなかった。報道されるだろうなと思っていた」と語った後、経緯から話し始めた。「お互いに結婚を卒業しようと言うことで2人で決めました」と話し、「私も人生の転機がたくさんきて、お互いの道を行こうと。離婚届を提出したのは先月でしたけれども、以前から兆候はあったかなと」と続けた。また「奥さんには新しい道をのびのびといってほしいなという気持ちが強かった。間接的にこれまで部屋のおかみさんとして、または横綱の奥さんとして、肩身の狭い思いもしてきましたでしょうから、これからは自分の道にいってほしい」と話した。

景子夫人とは、連絡については取り合っていると話し、「私のそばにいて私の本業を支えながらつらいきつい思いをしてきましたでしょうから、これからの人生を考えると、元家内も50歳ちょいですから、まだ年齢もこれからゆっくりいけるんじゃないかなと思いましたので」と話した。加藤からは身の回りの事を聞かれ「弟子もいなくなり、1人暮らしです。それなりに自分でやってきていますので大丈夫です。自分でやるしかないので。(食事は)近所に出かけたり、ちょこっと作ったり出来ますので、ご飯を炊いたりとかみそ汁とか作ります。あまり作ることはないですけどね」と語った。

高橋真麻(37)から過去の話を振られると「私が横綱になったばっかで結婚し、すぐに長男が生まれて、もう横綱をやることで毎日必死で暮らしていた。ごく一般的な新婚旅行とかの思い出は全くといっていいほどなくて」と話した。

加藤からお互いがプラスになる決断か聞かれ、「それでしかないですね。私も引退を機に小さなお子さん達の土俵を一緒にやっていきたい。その辺にも力を入れていきたい。お互いに元気でいけないという新たな気持ちでいます。息子たちは、両親が決めたことは、という感じですから。離婚してもわが子は変わらないので、そのためにも私自身がしっかり生きていかなくてはなと思います」と話し、今後については「少しずつ活動の拠点をつくって広げていこうかなと思う。ただ引退したばっかりで、焦ってやってもよくないので、少年少女、土の上を歩くということをしてほしい。昔、お父さんと相撲をとり、投げ飛ばされたとかで、何となく痛みを覚えたりとか、人を傷つけることをしてはいけないとか、そういった所へ携わっていきたいと思っています」と話した。

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元貴乃花親方、離婚届は「私が出しに」一問一答1

9月25日、引退記者会見で険しい表情を見せる貴乃花親方

景子夫人(54)との離婚が明らかになった元貴乃花親方の花田光司氏(46)が27日、日本テレビ系「スッキリ」に生出演して胸中を語った。

一問一答は以下。

花田氏 離婚のことがこんな大きなことになるとは思わなかった。報道されるだろうなとは思っていた。

-卒婚の経緯は?

花田氏 お互い結婚を卒業しようと、2人で決めました。人生の起点がたくさんありましたし、お互いの道を行こうと。

-離婚届は?

花田氏 先月、私が出しました。以前から少し兆候があったかなと。 

-要因は?

花田氏 これまでおかみとして、奥さんとして肩身の狭い思いをしてきたでしょうから。これからは自分の道をのびのびと行ってほしいという気持ちが強かった。

-景子さんの今後?

花田氏 聞いていない。連絡は取り合っている。

-円満離婚ですか?

花田氏 そうですね。円満で離婚する人って、あんまりいないと思うけど。そばにいて本業を支える中できつい思いをしてきたでしょうから。これから考えると、50(歳)ちょいですから、これからゆっくりできるのではと思います。

-これから1人ですが身の回りのことは?

花田氏 大丈夫です。それなりに自分でやってきましたから。自分でやるしかないですから。食事は近所に出掛けたり、ちょこっと作ったり。ごはん炊いたり、お味噌汁は作れる。

-子供が大きくなったことも要因?

花田氏 それもあるかもしれません。

-子供に報告は?

花田氏 こどもたちは両親が決めたことだから、という感じだった。離婚しても我が子が変わるわけではない。そのためにもしっかり生きていかないと。

-23年間の結婚生活で良かったこと、大変なことは?

花田氏 横綱になったばかりで結婚し、長男がすぐに生まれた。私自身は横綱やることで毎日必死だった。一般的な新婚旅行とか思い出はない。子供の成長を見ていくということですか。

-部屋をたたんだことも要因?

花田氏 大きな要因のひとつ。

-離婚届は?

花田氏 私が出しにいきました。夜遅くまでやっているので。

-この決断はプラス?

花田氏 それしかない。これからは小さなお子さんのための土俵に力を入れていきたい。そのためにもお互い元気でいないと。少しずつ拠点を作って活動をしていきたい。焦ってもしょうがない。

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元貴乃花親方、ガリットチュウ福島には“お墨付き”

元貴乃花親方(元横綱)の花田光司氏

景子夫人(54)との離婚が明らかになった元貴乃花親方の花田光司氏(46)が27日、日本テレビ系「スッキリ」に生出演し、最近話題になっていたガリットチュウ福島善成(41)のものまねについて語った。

離婚判明から一夜明けたこの日、司会の加藤浩次(49)から、現在の生活ぶりや、景子夫人への思いなどを聞かれ、言葉を慎重に選びながら落ち着いて答えていた。加藤と司会でコンビを組むハリセンボン近藤春菜(35)が、現在の心境などを聞いた後「ガリットチュウの福島さんについては…」と突然切り出した。福島は、スーツにマフラーを首に掛けた姿で悠々と歩く花田氏のものまねなどで注目されており、思わぬタイミングで飛び出した質問に加藤も苦笑いしながら「それ、俺も今聞いてみたい」と同調した。それまで離婚の話題を真剣な表情で語っていた花田氏が、戸惑いの表情など見せることなく笑顔で「(ものまねは)見たことあります。似てらっしゃいますね」と答えると、スタジオは笑いに包まれた。

福島は、花田氏が弟子の暴行騒動の渦中にいた頃の姿をまねしているが「あの時期は見てないですね。先日、番組で知りました。もうお墨付きです」と公認すると、加藤は「スゲーッ!親方からのお墨付き」と興奮した表情で大喜びしていた。

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元貴乃花親方「相撲ってヘブライ語」一問一答2

元貴乃花親方(18年5月13日撮影)

景子夫人(54)との離婚が明らかになった元貴乃花親方の花田光司氏(46)が27日、日本テレビ系「スッキリ」に生出演して胸中を語った。

一問一答は以下。

-貴景勝について?

花田氏 よくやりました。テレビで見ていた。そろそろ優勝するかなと思っていた。下半身が安定していた。当たりあって、本来の自分の力を出していた。それができるというのは、これまでの鍛錬。いい感じで勝てている。優勝するだろうと思っていた。貴景勝とは小学4年の時に会っている。背丈は大きくないが、四股を踏んだり、当たりが良くて。お父さんには連絡していない。退いた身ですから。

-貴景勝の今後は?

花田氏 この優勝は序章でしかない。これから本領発揮してくれるだろう。まだ準備運動ですから。優勝はもちろんですが、戦い続ける姿勢がこれからますます出てくる。

-貴景勝が相手に失礼になるからと笑顔を封印したが?

花田氏 私の教えというより本来の相撲道。勝った負けたは時の運。手を差し伸べることは頭に入れている。

-退職、離婚で今の心境は?

花田氏 寂しさと安堵と両方ある。これまで弟子を育てるのに重きをおいていて、活躍できる土台を作ることが師匠の仕事だった。少年少女への相撲の理解を深める活動は狭まっていたので、これからはそれができる。肩の荷が下りたというのはある。徐々に活動を進めていきたい。土の上を歩くことは、今は少なくなっている。土の上は冷たいとか、温かいとか感じやすい。地道にゆっくりと。

-今後テレビ出演は?

花田氏 ないです。得意じゃないので。コメンテーターは出来ないです。相撲の思想的なところも伝えていけたら。大相撲のビジネスを側面から勉強していきたい。

-政界進出は?

花田氏 全くないです。

-著書は?

花田氏 本にできる内容の人生を歩んでいない。相撲って日本語じゃない。ヘブライ語なんです。世界をまたにかけて、思想を広げていければ。子供たちにも分かりやすく。

-プライベートでやってみたいことは?

花田氏 見つけられていない。ゴルフはやったことも少ない。スキーとかスノーボードとかやったことないが、バランス感覚鍛えるの面白そう。スノボの方が四股の形に似ている。土踏まず使うのはどんなスポーツも同じ。

-スポーツ観戦は?

花田氏 好きです。土踏まずに四つの骨があるから四股という。子供たちが将来何になっても、昔相撲やっていた、というのがあるといい。

-今後は?

花田氏 全国ふれあい道場というような形で。表に出ることはなく。これからはいち社会人として、全国各地でお顔合わせできたらと思っている。よろしくお願いします。

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