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ちゃんこの味付けで大げんか/過去の不祥事引退力士

87年12月、失踪事件で廃業となり会見する双羽黒

日本相撲協会は6日、東京・両国国技館で理事会を開き、4日までに引退届を提出していた阿炎(26=錣山)について、引退届を未受理とし、出場停止3場所および5カ月50%の報酬減額の懲戒処分を決定し、本人に通知したことを発表した。

◆不祥事やトラブルで引退、廃業した力士

▽双羽黒(元横綱) ちゃんこの味付けをめぐり87年12月に師匠の立浪親方(元関脇安念山)と大げんか。仲裁に入ったおかみさんを突き飛ばし部屋を飛び出す。同親方は協会へ廃業届を提出。4日後の臨時理事会で双羽黒の廃業が決議。

▽朝青龍(元横綱) 10年初場所中に都内で泥酔して一般男性に暴行。示談になったが協会から翌2月に引退勧告を受け、引退届を提出。

▽琴光喜 10年5月に発覚した野球賭博問題で、大嶽親方(当時、元関脇貴闘力)とともに解雇処分。

▽日馬富士(元横綱) 17年10月の秋巡業中に鳥取市内で同じモンゴル出身の貴ノ岩の頭部を殴打。同年九州場所後、責任を取って処分決定前に引退届を提出。

▽貴ノ岩(元前頭) 18年12月の冬巡業中に付け人の頬を平手と拳で4、5発殴打。同日付で引退届が受理される。

▽貴ノ富士(元十両) 19年秋場所前に2度目の付け人への暴力と差別的発言が発覚。場所後、協会から自主的な引退を促されたが、1度は受け入れず、2週間後に代理人弁護士を通じて引退届を提出。

90年2月、元双羽黒はバンバン・ビガロ戦でド派手に登場
元貴ノ岩(中央)にはさみを入れ、あいさつを交わす元横綱日馬富士のダーワニャム・ビャンバドルジ氏(19年2月2日撮影)

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宇良の連勝18で止まる 湘南乃海に敗れ「悔しい」

湘南乃海(右)に突き落としで敗れた宇良(左)(撮影・丹羽敏通)

<大相撲7月場所>◇7日目◇25日◇東京・両国国技館

東幕下19枚目の宇良(28=木瀬)は、湘南乃海(高田川)に敗れ、序二段だった昨年11月の九州場所七番相撲から続いていた連勝が「18」で止まり、勝ち越しもお預けとなった。

20センチ近く大きな190センチ超の相手に、立ち合いで下に潜り込もうとしたが距離を取られた。まわしを取られまいと動き続けたが、距離を詰められないまま突き落とされた。

元横綱日馬富士から金星を挙げた経験もあるが、2度目の大ケガで序二段まで番付を落として以降、順調に白星を重ねてきた中での黒星で3勝1敗となった。「負けたのは悔しいけど、この位置は相手もみんな強い。連勝とかは意識したことがない。一喜一憂しないようにしてやりたい」と、切り替えていた。さらに「前に出る気持ちを忘れないように攻めないと、またケガしてしまうので、そこだけは気を付けてやっていきたい」と、自らに言い聞かせるようにして話した。

湘南乃海(左)に突き落としで敗れる宇良(撮影・河田真司)
湘南乃海に敗れ土俵から引き揚げる宇良(撮影・河田真司)

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優しく不器用で愛された元栃煌山、きっといい親方に

リモート引退会見に出席した元栃煌山

大相撲の元関脇栃煌山が引退し、年寄「清見潟」を襲名した。不器用だが、魅力にあふれた力士だった。

運動神経は鈍い。体は硬い。高知県安芸市出身。小2で相撲を始めた。相手が怖くて「あっちいけ!」とか「さわるな!」と声を出しながら相撲を取った。稽古を初めて見に行った両親があきれるほどだった。サッカーのPKでは、ボールが止まっているのに空振りした。

幕内力士は、運動能力にすぐれたアスリートの集まりだ。平均体重160キロにもかかわらず、その多くが自在に自らの肉体を操り、俊敏性にも富む。そんな中、栃煌山が戦ってこられたのは、なぜか? ある時聞くと、こう答えた。

「相撲は反復して覚える。体にしみつけばやれるんです」

とにかく根気強い。中学横綱になり、高校は名門・明徳義塾で鍛えられた。角界入りしてからも、センスがないことを自覚して、努力を繰り返した。

入門直後の栃煌山らしいエピソードがある。ちゃんこ番で、初めて米とぎを命じられた時のこと。「とぎ汁が透明になるまでやるんだぞ」と言われ、全力で40分も続けた。すると米は粉々になり、いつもの半分しか炊けなかったという。

生命線は、鋭い立ち合い。低く当たってからもろ差しか、右四つになって寄り切る。これしかなかった。技は少なく、劣勢になると、しのぐ動きはあまりない。だから、あっけない負けもあるが、はまれば横綱も倒す。金星は6個(白鵬、日馬富士、鶴竜から1個ずつ、稀勢の里から3個)。昭和以降10位となる三役在位25場所。三賞は殊勲賞、敢闘賞、技能賞を各2度ずつ獲得した。本場所中、全体の稽古が終わっても1人土俵に残り、若い衆を相手に立ち合いの形を納得いくまで繰り返してきた。春日野部屋でのいつもの光景が、本場所での下支えになっていた。

立ち合い変化は、めったにしなかった。負けると、支度部屋ではほとんど話さなかった。取組前、必ずユンケルを1本飲む。入場前の花道では必ず、緊張してえづいた。稽古熱心で裏表がないから、勝つと付け人が本気で喜んだ。

栃煌山。十両に上がる時に本名の影山から改名した。春日野親方(元関脇栃乃和歌)から「考えておいてください」と依頼された母の雪絵さんが、しこ名を考えた。読みは「とちおうやま」ではなく、あえて「とちおうざん」にした。やさしい性格に、もっと強さを加えたかったのだという。

分け隔てなく、誰からも好かれる性格は少年時代から変わらない。雪絵さんは中学時代のことが忘れられない。同学年に1人、不登校の子がいたが、影山少年にだけは心を開いていたという。卒業時、校長からこう言われた。「教師の立場ながら、この子の存在がありがたかった。こういう子は、最近では珍しい。やさしい、いい子っていうのとは違うオーラを持っている子やった。私だけでなく、教員全員がそう思っています」。

勝負の世界に入っても、やや天然な性格は周囲から愛され、現役生活をまっとうした。

コロナ禍にあり、15日の引退会見はオンラインだった。どんな思いで稽古してきたのか聞かれると、こう答えた。

「器用な相撲は取れなかった。しっかり課題を持って体にしみこませるように常に稽古をしていた。なかなか最後、上の番付に上がることができなかったけど、自分のやってきたことに間違いはなかったと思う」

きっと、いい親方になる。【佐々木一郎】

15年9月、秋場所で稀勢の里(手前)を寄り切り全勝対決を制した栃煌山

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栃ノ心、平幕初4連続大関撃破/夏場所プレイバック

大相撲夏場所5日目 魁皇(右)を寄り切る栃ノ心(2010年5月13日撮影)

コロナ禍により大相撲夏場所が中止になり、本場所開催まで待ち遠しい日々が続きます。そんな中、日刊スポーツでは「大相撲夏場所プレイバック」と題し、初日予定だった24日から15日間、平成以降の夏場所の名勝負や歴史的出来事、話題などを各日ごとにお届けします。5日目は、平幕初の連続撃破です。

<大相撲夏場所プレイバック>◇5日目◇10年5月13日◇東京・両国国技館

ジョージア出身の怪力が、快挙を成し遂げた。西前頭2枚目の栃ノ心が、4連勝していた大関魁皇を止めた。2日目から日馬富士、琴欧洲、琴光喜を下し、08年九州場所の豊ノ島以来9人目となる平幕の4大関撃破。さらに平幕の4日連続大関撃破は、史上初の快挙となった。

得意の右四つに持ち込み、寄り切りで魁皇を破った。「あの体勢になったら、もう負けないですよ」。この日の朝稽古。最後に春日野親方(元関脇栃乃和歌)から呼ばれ、4日連続はたき込みで勝った魁皇への対策を伝授された。頭を下げ過ぎずに強く当たり、得意とする形に持ち込んだ。

初土俵は06年の3月。入門時に190センチ、129キロだった体格は、192センチ、157キロ、ももの太さは90センチ以上に成長した。09年6月にはジョージアからの要請で母国に戻り、約1カ月の軍事訓練を受けた。銃も撃った。だが「こっち(相撲の稽古)の方が大変」というほど、当時5人の関取衆がいる春日野部屋の厳しい環境で強くなった。

「これまで上位にいた時は1回も3役に上がっていない。負けてもいいから、いい相撲を取りたい」と意気込み、戦った残りの10日間。千秋楽に勝ち越しを決め、自身2度目の敢闘賞を受賞。そして翌名古屋場所で悲願の新小結に昇進した。

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ソソルフー白鵬杯初優勝 憧れ日馬富士と対面で興奮

白鵬杯の中学生個人で優勝したソソルフー

大相撲の横綱白鵬が主催する第10回白鵬杯(世界少年相撲大会)が2日、東京・両国国技館で行われ、モンゴル出身のアルタンゲレル・ソソルフー(15=鳥取西中)が中学生個人の部を制した。

決勝ではバヤルボルドとのモンゴル対決に勝利した。小4から出場していた同大会。中学生個人の部を海外代表選手として初めて優勝し「うれしい。中学最後の大会だったので良かった」と、屈託のない笑みを見せた。

小さい頃からテレビで観戦していた大相撲の世界にあこがれ、中1から相撲留学した。小さい頃のあこがれは元横綱の朝青龍や日馬富士。この日、会場に日馬富士が訪れており「日馬富士関の相撲を目指していたので、見てうれしかった」と興奮気味に話した。日本に来て3年足らずだが、報道陣の取材にも丁寧な日本語で対応。来日時は日本の上下関係に苦労したが「今は大丈夫」と頼もしかった。

普段は高校相撲の強豪で、4月に進学予定の鳥取城北高で稽古を重ねている。175センチ、93キロ。中1から体重は40キロ増え、身長はこの1年で14センチ伸びた。「(将来的には)185センチ、体重は130キロくらいになりたい」と理想を掲げた。「城北で3年間頑張って大相撲に入りたい」と、高卒での角界入りを宣言。「みんなが目指している関取、横綱になりたい」と目を輝かせた。

第10回白鵬杯の開会式で、記念撮影に納まる横綱白鵬と長男真羽人君(前列右から4人目)と相撲少年たち(撮影・柴田隆二)

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白鵬“3横綱そろい踏み”も「スーツ似合ってきた」

第10回白鵬杯で記念撮影に納まる、左から元横綱日馬富士、横綱白鵬、荒磯親方(元横綱稀勢の里)(撮影・柴田隆二)

横綱白鵬(34=宮城野)が自ら主催し、第10回の記念大会を迎えた白鵬杯(世界少年相撲大会)が2日、東京・両国国技館で世界から13カ国・地域の小・中学生約1100人を集めて開催された。

午前8時に開会式が行われ昼休みの時間には、元横綱日馬富士と荒磯親方(元横綱稀勢の里)も会場に姿を見せ、集まった選手、観客にあいさつした。

“3横綱そろい踏み”に白鵬は「勝って当たり前の、横綱になった人でないと分からない世界。久しぶりに2人と会って緊張した」と言いつつ、着物を着用しない2人の姿を見て「かっこいい。だんだんスーツが似合ってきた」と笑った。

荒磯親方も両国国技館を使った、高校生の全国大会開催を模索している。親方として「強い力士を育てるのが一番の恩返しだと思う」と、今は部屋付きの荒磯親方に期待。また「違う形で戦えれば。ぜひ(自分が)強いチームを作って『稀勢の里杯』に参加したい」と、新たな夢をかき立てていた。

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元日馬富士「けがしない力士育てて」荒磯親方に期待

元日馬富士に話しかけられる元横綱稀勢の里の荒磯親方(撮影・鈴木正人)

1月の初場所中に引退した大相撲の元横綱稀勢の里の荒磯親方(33)が「力士の象徴」という、まげと別れを告げた。

   ◇   ◇   ◇

第70代横綱日馬富士のダワーニャム・ビャンバドルジ氏も、かつてのライバルの晴れ姿を見ようとモンゴルから駆け付けた。

断髪式ではさみを入れて「始まりもあれば終わりもある」と神妙な面持ちで話した。新入幕は同じ04年九州場所。左大胸筋のけがは、17年春場所の日馬富士戦で負ったものだった。親方として後進の指導に当たる荒磯親方に「しっかりとした育成をして、けがをしない力士を育ててほしい」と期待を寄せた。

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安美錦「家族が力に」すっかり変わった人生観/連載1

13年6月 結婚指輪を披露する絵莉夫人と安美錦

大相撲の最年長関取、安美錦(40=伊勢ケ浜)が現役を引退し、年寄「安治川」を襲名した。いかにして歴代1位の関取在位117場所にたどり着いたのか。その横顔を3回にわたって紹介する。1回目は、結婚で変わった人生観に迫る。

◇  ◇  ◇

安美錦が結婚したのは13年4月。34歳の時だった。前年12月、日馬富士横綱昇進披露パーティーで後援者から紹介された。交際2カ月未満の初場所後に求婚し、2月に婚約発表した。

当時、結婚を喜びながらも、相撲と結び付けられることを嫌った。「結婚したから勝ったとか負けたとか言われたくない。関係ないから。現役でいるうちは、相撲については好き勝手にわがままにやらせてもらう」とまで言っていた。

ところが…。妻絵莉さんの献身により、少しずつ考え方が変わっていった。

「自宅に炊飯器もなかったらしいよ」と言う妻が料理を学び、アスリートフードマイスターの資格を取得。自宅での食事には10品目以上が並んだ。地方場所になると、定期的に食事をチルドパックで送ってくれた。一緒に闘ってくれていることを実感した。

独身時代の安美錦は、女性にもてた。外食が多く、好きなものを好きなだけ食べた。栄養バランスなんて気にしなかった。若いうちはそれでよかった。

結婚後、野菜を食べることが増え、1年もしないうちにその効果を目の当たりにした。朝の目覚めがよくなり、血液検査の数値がことごとく良化した。

以来、節目の勝利、節目の記録を達成するたび、妻や家族への感謝を口にするようになった。結婚してから初の金星、結婚後初の三役…、「結婚後最初の○○」にこだわるようになった。

3年前の5月にアキレス腱(けん)を断裂してからは、回復のためになる病院、治療院などを聞き付けては妻の運転で全国を回った。巡業や地方に行っては、テレビ電話で話す子供の顔が癒やしになった。

「いろいろあった。アキレス腱を切ってからは、嫁さんは特に大変だった。だから結果を出すしかないと思ってやっていた」

結婚前、仕事と家庭を切り離すつもりだった男は、すっかり考え方を変えていた。

「変わったね。土俵に立つのは自分だけど、それを支えてくれた。何回もけがをして、こんだけやってくれた。子供が3人生まれて、子育てだけでも手いっぱいなはずなのに、俺のことにも手をまわしてくれた。一緒に闘っていた。むしろ、妻は土俵に上がっていない分、自分よりも苦しかったと思う。嫁さんは自分が勝った負けたじゃないから。俺よりつらい思いをしたんだろうな。(考えは)変わりました。こんなに力になるんだな、家族が、子供が」

記録にも記憶にも残る安美錦。人間の幅を広げた末に、この場所にたどり着いた。【佐々木一郎】

13年6月 結婚披露宴でケーキ入刀を行う安美錦と絵莉夫人

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白鵬に懲戒処分 17年厳重注意より重い「けん責」

神妙な面持ちで臨時理事会の部屋へ向かう白鵬(撮影・河田真司)

大相撲の横綱白鵬(34=宮城野)が「けん責」の懲戒処分を受けた。日本相撲協会は24日、都内のホテルで臨時理事会を開き、3月の春場所千秋楽の優勝インタビューで、白鵬が観衆を促して三本締めを行った問題について話し合った。白鵬は17年九州場所千秋楽でも、観衆とともに万歳三唱を行って厳重注意を受けており、今回はより重い懲戒処分となった。この日の理事会の最後に出席した白鵬は、八角理事長(元横綱北勝海)から「何か言いたいことは」と聞かれたが「何もありません」と、素直に聞き入れていたという。

理事会に数分間出席後は報道陣の前に現れず、無言でホテルを後にした。今回の処分は、問題を調査したコンプライアンス委員会から16日に八角理事長が答申を受け、その意見に理事会も賛同する形で決まった。

そもそも本場所は、千秋楽の表彰式後に神送りの儀式を行い終了する。その前に白鵬が勝手に手締めをしたことが、コンプライアンス規定の違反行為「土俵上の礼儀、作法を欠くなど、相撲道の伝統と秩序を損なう行為」に該当すると、問題視された。万歳三唱に続く勝手な振る舞いだが、芝田山広報部長(元横綱大乃国)によると「お客さんを喜ばせたいと思って、とっさにやった。万歳はダメだが三本締めはいいと思っていた」という趣旨の説明を前回までの3度の“呼び出し”の中で行い、繰り返しの認識はなかったという。

白鵬に続き、時間差で理事会に呼ばれた師匠の宮城野親方(元前頭竹葉山)には「3カ月間、10%減額」の報酬減額処分が通達された。白鵬よりも重い処分となったことについて、芝田山部長は「指導が不十分だったことは明らか。理事会を軽視したと言わざるを得ない」と、万歳三唱の際も理事会で厳重注意を受けたが、改善されなかったことが重く取られたと説明。師匠も素直に受け入れたが、報道陣には無言だった。

◆白鵬前回の注意処分 暴行問題の渦中にあった17年11月の九州場所千秋楽の優勝インタビューで「日馬富士関と貴ノ岩関を再びこの土俵に上げてあげたいなと思います」と発した上、観客に万歳三唱を促した。また同場所11日目の嘉風戦に敗れた後、立ち合い不成立を執拗(しつよう)にアピールした行為も合わせ、11月30日の理事会で福岡から東京に呼び出され、師匠とともに厳重注意された。

17年11月、優勝インタビューでファンと一緒にバンザイする白鵬
3月24日、春場所千秋楽で自ら音頭を取り三本締めする白鵬

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日本相撲協会の処分は7項目 厳重注意は該当せず

神妙な面持ちで臨時理事会の行われている部屋へ入る横綱白鵬(撮影・河田真司)

日本相撲協会は24日、都内のホテルで臨時理事会を開き、3月の春場所千秋楽での優勝インタビュー時に観客を促して三本締めを行った横綱白鵬(34=宮城野)に「けん責」の処分を科した。

日本相撲協会の処分は賞罰規定の第3章「懲戒」に定められている。親方、力士ら協会員の処分は軽い順にけん責(将来を戒める)、報酬減額、出場停止、業務停止(協会事業への従事を停止)、降格、引退勧告、解雇の7項目。

最近の重い懲戒処分は15年10月、マネジャーの男性を暴行して傷害罪で起訴された熊ケ谷親方(元十両金親)が解雇となった例がある。また、17年11月に引退した元横綱日馬富士、今年2月に引退した鳴戸部屋の三段目力士は、その後の理事会で引退勧告相当と判断された。旧規定で最も重い除名は、公益財団法人移行後の現行規定からなくなった。厳重注意は懲戒に該当しない。

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大転換の時代 外国人横綱誕生で歴史塗り替え

64代横綱曙

<平成とは・大相撲編(2)>

大相撲の長い歴史の中で、平成の30年は大転換の時代だ。史上初の外国人横綱が誕生し、モンゴル勢が国技の歴史を塗り替えた。戦後初の外国人力士となった高見山から始まった異国の力士たちの戦いは、平成になって大きな実を結んだ。

  ◇   ◇   ◇  

平成の前半は、ハワイ勢が活躍した。曙、武蔵丸の2人の横綱が、貴乃花、若乃花の好敵手として空前の相撲ブームといわれた若貴時代を盛り上げた。「相撲はケンカだ」と発言し「黒船襲来」と恐れられた小錦は、大関で3度優勝しながら横綱の夢はかなわなかった。その無念を教訓に、有無を言わせぬ強さで曙が昇進したのは93年(平5)春場所のことだった。4年後には武蔵丸も続いた。

92年(平4)2月、大島部屋にスカウトされてやってきた6人が、モンゴル力士の始まりだった。160人の応募者の中から選ばれ、現友綱親方の元関脇旭天鵬に、元小結旭鷲山らがいた。「最初は留学気分。学校入って、余った時間で部活するような感覚で来た」と友綱親方。独特の上下関係や食生活など相撲部屋の生活になじめず、集団脱走しモンゴルへ逃げ帰ったことも。そんな苦労の末、95年(平7)春場所、旭鷲山が初の関取となり、その多彩なワザで「ワザのデパートモンゴル支店」と脚光を浴びた。

旭鷲山に続き旭天鵬が関取になったことで、モンゴル人力士への期待が高まった。国内の相撲有力高校がモンゴルの能力の高い若者をスカウト。高校でさらに鍛えられて大相撲に入門し、明徳義塾高から横綱になった朝青龍の成功につながった。平成の大横綱、貴乃花が引退した03年(平15)初場所、朝青龍がモンゴル人初の横綱に昇進。2年後、史上最長の7場所連続優勝、年6場所完全制覇の大記録を打ち立てる。その強さは白鵬に引き継がれ、平成後半はモンゴル勢の圧倒的強さが角界を席巻した。

モンゴル人の成功を白鵬は「40年前の日本人力士に聞いてみればいいよ。そのころと同じハングリー精神があり、故郷から出て一旗揚げてやろうという気持ちでやって来る。精神的な面が大きい」と話す。続々と入ってくる後進の面倒を先に入った旭天鵬らがサポートしたことも大きい。白鵬から「兄さん」と慕われる旭天鵬は「後輩が関取になると、必ずテレビをプレゼントした。モンゴルではなかなか買えないから」。

平成の182場所で外国出身力士の優勝は114回。うち85回がモンゴル出身力士の優勝だ。特に平成後半はモンゴル勢が優勝をほぼ独占。そんな状況を喜ばない相撲ファンの声を協会も無視できなくなった。98年(平10)4月の師匠会で、外国人は1部屋2人、全体で40人という人数制限を確認。2年後の師匠会では、モンゴル人は全体で20人までという話も出た。02年(平14)2月には理事会で、外国人力士の採用定員40人という枠を外した上で、原則として1部屋1人(平成22年には日本国籍取得者も含められた)が決定した。

日本人力士の勝利や優勝を望む雰囲気をモンゴル人力士も肌で感じている。貴乃花引退前年の02年秋場所2日目。旭天鵬は横綱貴乃花に勝って金星を獲得した。また、12年夏場所千秋楽、栃煌山との平幕優勝決定戦に勝利して史上最年長40歳8カ月と10日で初優勝。そのどちらの取組でも「オレが勝っていいのか?」と対戦前に悩んだという。貴乃花は当時、負ければ引退といわれており、栃煌山は6年ぶりの日本人優勝がかかっていた。部屋には無言電話や、嫌がらせの手紙も来た。

暴行事件で引退を余儀なくされた朝青龍や日馬富士、貴ノ岩らの不祥事もモンゴルへの逆風となっている。自分より相手への声援が多くても、それをバネに白鵬は勝ち続けた。昭和の大横綱大鵬の優勝32回を抜き去り、19年春場所まで43回の優勝。八百長や賭博問題で世間の批判にさらされた角界を1人横綱として支えた。最近は、自らが壁となり続けることで稀勢の里(現荒磯親方)を日本人横綱へと導くなど、後進の育成にも目を向けている。

「余裕が出てきて周りがよく見えるようになった。次を育てないといけないし、もっと相撲界を盛り上げたい」

国は違えど、角界に入れば思いは同じだ。今後、外国人力士は増えるか聞かれると白鵬は「(予想するのは)自信がないね。40年、50年前の人たちの体と精神を(自分たちが)つないでいければいいんじゃないかな」と話した。(敬称略)【桝田朗、高田文太、佐藤礼征】

67代横綱武蔵丸
68代横綱朝青龍
69代横綱白鵬
70代横綱日馬富士
71代横綱鶴竜

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白鵬謝罪、異例2度目の呼び出し「盛り上げようと」

24日、春場所千秋楽で優勝インタビュー後、自ら音頭を取り三本締めする白鵬

大相撲の横綱白鵬(34=宮城野)が、春場所千秋楽の優勝インタビュー後に三本締めを行ったことへの聴取を受けるため、滞在先の大阪から東京に呼び出された。日本相撲協会は28日、東京・両国国技館で開いた理事会に、白鵬と師匠の宮城野親方(元前頭竹葉山)を呼んで相撲道などを諭した。17年11月の九州場所でも万歳三唱などで厳重注意を受けており、1年半足らずの短期間に、現役横綱が2度も理事会に呼ばれる極めて異例の事態。調査はコンプライアンス委員会に委嘱された。

理事会の途中で、白鵬は宮城野親方とともに理事会が行われている会議室に入室した。春場所千秋楽で観衆に促し、自ら「ヨーッ」と音頭を取って行った三本締め。これに「一力士が締めてよいのか」と、千秋楽翌日の25日に横綱審議委員会(横審)から、26日には評議員会からも苦言が呈された。千秋楽の表彰式後に行う神送りの儀式の前に手締めをしたことで、この日も「おかしい」という声が出た。さらに「(数々の記録は)単なる数字だけで終わってしまうよ」と諭されて白鵬は謝罪したという。

呼び出された白鵬と宮城野親方は、理事会に説明のため出席し相撲博物館の学芸員から「相撲は単なるスポーツではない」と、相撲道の理解を求められた。その後の聴き取りなどを含めて、理事会には10分前後滞在した。白鵬は一昨年九州場所の千秋楽でも観衆に促して万歳三唱を行い、厳重注意を受けている。その時以来の呼び出し。そもそも現役横綱が理事会に呼び出されることが極めて異例だが、1年半足らずの間に2度も呼び出される前代未聞ともいえる事態となった。

師匠は注意をしてきたと述べたが、白鵬は「平成最後の場所ということで、盛り上げようと思って締めた」という趣旨の説明をしたという。今回の三本締めは、相撲協会のコンプライアンス規定の第5条「違反行為」の第7項にある「土俵上の礼儀、作法を欠くなど、相撲道の伝統と秩序を損なう行為」にあたるかどうか、コンプライアンス委員会に調査を委嘱。コンプライアンス委から八角理事長(元横綱北勝海)に答申があり、その後、臨時理事会で検討。答申を受けて、必要な場合は処分を科す。

白鵬はこの日、報道陣と対面せず引き揚げた。理事会に出席した芝田山広報部長(元横綱大乃国)は「第一人者である以上こういうことも大事だと認識してもらう」と、再発防止を求めた。平成最後の場所についた物言いは、平成のうちに決着するか微妙になってきた。

◆白鵬前回の注意処分 暴行問題で渦中にあった17年11月の九州場所千秋楽の優勝インタビューで「日馬富士関と貴ノ岩関を再びこの土俵に上げてあげたいなと思います」と発した上、観客に万歳三唱を促した。また同場所11日目の嘉風戦に敗れた後、立ち合い不成立を執拗(しつよう)にアピールした行為も併せ、11月30日の理事会に福岡から東京に師匠とともに呼び出され厳重注意された。

両国国技館を引き揚げる白鵬を乗せたと思われる車(一部加工)(撮影・鈴木正人)

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白鵬、横綱の人数減少も「責任果たしていきたい」

住吉大社で不知火型の土俵入りを披露した白鵬(右)。左は太刀持ちの照強(撮影・高田文太)

大相撲春場所(10日初日、エディオンアリーナ大阪)に向けて、白鵬(宮城野)と鶴竜(ともに33=井筒)の両横綱が2日、大阪市の住吉大社で奉納土俵入りを行った。

一昨年11月に日馬富士、今年1月に稀勢の里が引退し、一時の4横綱から年々減っているだけに、白鵬が引き揚げる際には集まった約2300人の観衆から「やめないで~」という声援も飛んだ。

土俵入り後、白鵬は「だんだん(横綱の)数が減ってきたけど、与えられた責任は今までと変わらない。その責任を果たしていきたい」。1月の初場所では14日目から休場しただけに、巻き返しへ意気込んだ。鶴竜も2人での土俵入りには「さみしさはある」としながらも「やることをしっかりとやっていきたい」と、気を引き締めていた。

春場所に向けた調整については、白鵬が「順調」、鶴竜が「いい感じ」と自己分析し、ともに今年初の本場所皆勤への意欲をのぞかせた。白鵬は「できれば珍しい技を、15日間のうちに1つ見せたい。盛り上げたい」と、笑顔で付け加えた。

住吉大社でしめ縄を奉納した白鵬(左)と鶴竜(撮影・高田文太)
住吉大社で雲竜型の土俵入りを披露した鶴竜(右)。左は太刀持ちの錦木(撮影・高田文太)

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宝富士デレデレ挙式・披露宴「今日はよりきれい」

披露宴でケーキ入刀する、左から宝富士、長男の慶丞くん、英莉乃夫人(撮影・佐藤礼征)

大相撲の前頭宝富士(31=伊勢ケ浜)が16日、都内のホテルで17年9月に結婚した英莉乃夫人(25)と挙式・披露宴を行った。

兄弟子の元横綱日馬富士、伊勢ケ浜一門の横綱白鵬ら約450人が出席。ウエディングドレスに身をつつんだ新婦に、宝富士は「いつもきれいだけど、今日はよりきれい」と目尻を下げた。昨年10月に誕生した第1子の慶丞(けいのすけ)ちゃんもお披露目。「家族を守っていけるように、まずは上位に戻って三役に返り咲きたい」と意気込んだ。

披露宴のケーキ入刀で笑顔を見せる宝富士、長男の慶丞くん、英莉乃夫人(撮影・佐藤礼征)

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元貴ノ岩「精進したい」断髪式で元日馬富士と再会

元貴ノ岩(左)の肩に手を乗せる元横綱日馬富士関のダワーニャム・ビャンバドルジ氏(撮影・河田真司)

大相撲の暴行問題で、被害者にも加害者にもなった元前頭貴ノ岩のアディヤ・バーサンドルジ氏(28)の断髪式が2日、東京・両国国技館で行われた。約370人がはさみを入れ、自身への暴行で一昨年11月に引退した元横綱日馬富士のダワーニャム・ビャンバドルジ氏(34)らが出席。一方で先代師匠の元貴乃花親方の花田光司氏(46)は来場しなかった。

   ◇   ◇   ◇

元貴ノ岩の断髪式が始まるとほどなく、東の花道から元日馬富士が入場した。一礼して土俵に上がり、故郷モンゴルの後輩にはさみを入れ、両手を肩に乗せて「頑張ってください」と声を掛けた。

17年10月、元日馬富士に元貴ノ岩は暴行された。約2カ月前には元貴ノ岩が付け人を殴った。加害者となった2人はともに責任を取って引退。巡り巡って、再び国技館の土俵に一緒に立った。

1月中旬、2人は会食し、元貴ノ岩が謝罪して和解。「はさみ、お願いします」と要請して、元日馬富士の断髪式出席が決まった。この日、報道陣から「わだかまりはないか?」と問われた元日馬富士は「だから来ている」と明言。さらに、今後が未定の元貴ノ岩について「こういうことになってしまったが、これからも自分なりに応援していきたい」とエールを送った。

元日馬富士に加え、白鵬と鶴竜の両横綱もはさみを入れた。いずれも元貴ノ岩が被害に遭った酒席に同席した面々。それでも断髪後、ツーブロック風の髪形に整えている際に元貴ノ岩は「(はさみを)入れてもらって、うれしい。いろんなことに精進したいという気持ちでいっぱい」と、感謝の思いを語った。

一方、入門以来約10年も指導を受けてきた花田氏は来場しなかった。健康状態に問題なければ、仮に定年退職していても、入門時の師匠が関取衆の断髪式に出席するのは一般的。それでも不在の先代に対し、元貴ノ岩は「感謝の気持ちでいっぱい」と話した。止めばさみを入れた現師匠の千賀ノ浦親方(元小結隆三杉)は「(元貴乃花親方から)言葉はない。最初に『よろしく』と預かった時点でこれ(断髪式)も入っていると思う」とフォローした。

断髪式後のパーティーで、元貴ノ岩はカラオケでBEGINの「三線の花」を歌った。愛する人と過ごした日々を思い返す歌詞は、断髪式に臨んだ心境と重なったのかもしれない。暴力を振るった貴大将にも優しく接していた。【高田文太】

◆元貴ノ岩が関係した2つの暴行問題 17年10月25日、秋巡業で訪れた鳥取市での酒席で、日馬富士から暴行を受けた。素手やカラオケのリモコンで頭部を十数回殴打された。当時、貴ノ岩の師匠だった貴乃花親方が、鳥取県警に被害届を提出したことが、同11月の九州場所中に発覚。場所後、日馬富士は引退し、白鵬、鶴竜ら酒席にいた関取衆は減給などの処分を受けた。貴ノ岩は2場所全休し、十両に陥落したが昨秋に再入幕した。ところが昨年12月4日に冬巡業で訪れた福岡・行橋市のホテルで、忘れ物をした付け人の貴大将に暴行。その3日後に責任をとって引退した。

千賀ノ浦親方(右)のはさみ入れで断髪を終える元貴ノ岩(撮影・河田真司)

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三賞は外国人力士で最スロー記録/初V玉鷲こんな人

遠藤(下)を突き落としで破る玉鷲。中央左は片男波親方(撮影・河田真司)

<大相撲初場所>◇千秋楽◇27日◇東京・両国国技館

34歳2カ月の関脇玉鷲が前頭9枚目遠藤(28=追手風)を突き落としで下し、13勝2敗でうれしい初優勝を飾った。

以下はアラカルト

◆玉鷲一朗(たまわし・いちろう)

◆生まれ&家族 1984年11月16日、モンゴル・ウランバートル市生まれ。誕生時は4800グラム。

◆家族 12年に妻エルデネビレグさんと結婚、16年4月に長男テルムン君が誕生。「テルムン」はモンゴル語で「広い、晴れた日、輝く」などの意味という。

◆スポーツ歴 本格的な競技歴はなく、モンゴルではサッカーとバスケットボールに興じた。マイケル・ジョーダンが好きで、関取になってナイキのエアジョーダンを5足購入。

◆角界入りのきっかけ  体の大きさを生かせると思い、相撲に興味を持って来日し、両国へ。自転車に乗った力士を発見し、付いて行くと井筒部屋に着いた。井筒親方(元関脇逆鉾)にもてなしを受け、飲み物(ファンタグレープ)を持って来てくれた当時幕下の鶴竜から旭鷲山を紹介してもらう。旭鷲山の紹介で片男波部屋に入門、04年初場所で初土俵を踏む。

◆遅咲き 新入幕は08年秋場所。5度の再入幕を経て、初土俵から所要66場所の新三役(15年春場所、小結)同77場所の三賞(16年九州場所、技能)は外国人力士で最スロー記録。初金星は15年夏場所9日目に日馬富士から、通算2個。

◆相撲 取り口は強烈なのど輪が武器の突き押し相撲が持ち味。本人いわく「殴られるのが好き。Mみたいだけど。殴られると逆に“来いよ”と思う。だから押し相撲がいい。激しい。“男”を感じる」。

◆華麗なる盗人 勢の立ち合いにひかれて、16年名古屋場所からまねる。その後、妙義龍の低さ、当たる角度も取り入れて、今のスタイルに。

◆女子力 小物作り、菓子作り、手芸が得意。弊紙掲載の絵日記(17年夏)をテーマ「愛」で描く。理由は「人は“愛”で大きくなるから。親の愛情があるから、今がある。仕事も全部、愛。生まれてから死ぬまで、愛情だと。自分を愛してくれるお客さんもいる。1番愛しているのは妻や子ども、お母さん、お父さん、家族です」。

◆サイズ 188センチ、172キロ。

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力士仲間に愛された稀勢の里、原点土俵の教習所で幕

引退会見で涙ぐむ稀勢の里(撮影・鈴木正人)

横綱稀勢の里(本名萩原寛、32=田子ノ浦)が引退を表明し、約17年に及ぶ波乱に満ちた力士人生に別れを告げた。

東京・両国国技館で引退会見に臨み「一片の悔いもございません」と大粒の涙を流した。19年ぶりの日本出身横綱として17年初場所で初優勝後、横綱に昇進。中卒たたき上げ、愚直な姿勢から絶大な人気を誇り、誰からも愛される横綱だった。

   ◇    ◇

涙が止まらなかった。冒頭で「私、稀勢の里は、今場所をもちまして引退し」などと、あいさつした時だけ、よどみなく話した。だが最初の質問で、すぐに目には大粒の涙がたまった。「横綱として皆さまの期待にそえないことには、非常に悔いが残りますが…。私の…」。何度も言葉を詰まらせ、泣き顔を見せまいと下を向いた。意を決したように顔を上げ「土俵人生において、一片の悔いもございません」と話すと、こらえ切れずに涙をぬぐった。

前日3日目の打ち出し後に決断していた。初日から3連敗し、自宅へ戻る前に都内の部屋で約1時間半過ごした。そのうち、師匠の田子ノ浦親方(元前頭隆の鶴)と約30分の話し合いは「引退させてください」と切り出した。田子ノ浦親方は「我慢強い男ですから、引退という言葉を使うということは、それなりの覚悟があったと思う」と、決意を受け入れ、引退を慰留することはできなかった。

会見場は15歳で相撲界に入ってから半年間通った、両国国技館内にある相撲教習所だった。すぐ隣には、ほぼ同期の前頭琴奨菊、十両豊ノ島らと連日胸を合わせた、17年間の原点となる土俵があった。その琴奨菊と豊ノ島は、今場所前に「3人で、あのころを思い出してやろう」と、示し合わせて初めて田子ノ浦部屋に出稽古に訪れた。現役生活の最後の思い出もよみがえったのか、涙もろかった。

中学卒業後、鳴戸部屋に入門した。故人の先代鳴戸親方(元横綱隆の里)は「あれは将来、大物になる」と見抜き、すでに三役力士だった若の里に毎日100番も稽古を付けさせた。異例の英才教育で、貴乃花に次ぐ史上2番目に若い18歳3カ月で新入幕。一方で史上2番目のスロー初優勝。それでも愚直に努力で横綱に昇進。不器用さが多くの人に愛された。

新横綱場所で大けがを負い、8場所連続休場、前日3日まで足かけ3場所で8連敗と、ともに横綱ワースト記録を更新した。大けがはひた隠しにしたが、実は左上腕二頭筋断裂だった。「徐々に良くなってきましたが、けがする前の自分に戻ることはできなかった」と話し、号泣する場面も。

愚直に稽古に打ち込む姿勢には、白鵬や日馬富士ら同世代の横綱も「ライバルは稀勢の里」と言い、先輩横綱の朝青龍をも対戦を心待ちにさせた。ファン以上に力士仲間に愛された。先代鳴戸親方から「稀(まれ)なる勢いになれ」と期待された通り、大物になった。悔しくて仕方なくても、好きな漫画「北斗の拳」の登場人物ラオウの名ゼリフを模して「一片の悔いなし」と言い切った。日本中に愛された希代の横綱が、約2年という短い横綱人生に幕を閉じた。【高田文太】

花束を手にする稀勢の里(撮影・鈴木正人)

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復活阻んだ稀勢の里の誤算、もがいた日々を父明かす

引退会見で涙を流す稀勢の里(撮影・鈴木正人)

横綱稀勢の里は横綱昇進後、在位12場所中、皆勤2場所に終わった。新横綱として初めて臨んだ一昨年3月の春場所で負った大けが致命傷になった。けがとの闘い、その裏にあった決断などを、最後に皆勤し、2桁勝利を挙げた秋場所前の昨年9月に父萩原貞彦さん(73)が明かしていた。引退に際し、もがき続けた父子の戦いの跡に迫る。

【取材・構成=高田文太】

     ◇   ◇

稀勢の里を相撲界へと導いたのは、元アマチュアボクサーの父貞彦さんだった。後の横綱、寛少年に土日の大相撲中継を見せ、小学校2年でまわしをつけさせた。英才教育だった。

最初の進退場所となった昨年9月の秋場所前に、貞彦さんは稀勢の里のけがとの葛藤、復活プラン、素顔などを明かしている。

横綱の力士生命を縮めたのは新横綱で迎えた一昨年春場所13日目、横綱日馬富士戦で負った大けがだった。寄り倒されて左の大胸筋や肩を痛めて、うめき声を上げた。だが、千秋楽で大関照ノ富士を優勝決定戦の末に退け、逆転優勝で大きな感動を呼んだ。

ただ代償は大きく、その後、横綱として歴代ワーストの8場所連続休場。当時を振り返り、貞彦さんは「復活に向けて2つの選択肢があった」と明かしていた。(1)突き、押しを多用して相撲を変える。(2)もう1度、基礎から鍛え直す。稀勢の里は(2)を選んだ。貞彦さんは「相撲を変えるのは簡単。でも、また強い四つ相撲を取るために、基礎から鍛え直す道を選んだ。時間がかかるのは承知の上」と説明していた。長期休場をも覚悟。その上で、目先の白星より再び何度も優勝できる可能性に懸けたのだった。

しかし誤算があった。負傷した左大胸筋、左上腕二頭筋の状態だ。貞彦さんは負傷前と比べて、たった30%程度の力で一昨年夏、名古屋の両場所に臨んだとみていた。一昨年九州、昨年初の両場所でようやく50%程度。そして10勝した昨年秋場所で「70%ぐらいまで戻った」とみていた。それでもまだ7割の力だった。

そんな中、出場しては途中休場を繰り返し「回復具合を見誤った」とも父は分析する。けがをする前と同じスタイルで、稀勢の里の王道を貫き、復活を目指した。その決断は尊重しつつ、出ては休む、その判断を後悔もしていた。

大けがを押しての感動の逆転優勝。代償は大きく、8場所連続休場で風当たりが強まった。その裏で貞彦さんも息子とはまた別の厳しい現実と向き合っていた。胃がんの手術を受けたのは、昨年11月の九州場所中だった。胃の3分の2を切除。手術から10日ほどで退院した。完全復活を目指す息子より先に元気な姿になった。転移や後遺症もなく元気に過ごしている。

けがとの壮絶な闘いを続けていた稀勢の里は「良い医者を知っているから」と千葉・松戸市の病院を、人知れず手配した。心配をかけまいと父には直接連絡しなかったが、母や姉には逐一、父の経過を確認していた。父の手術は周囲に一切伏せ、成績不振で九州場所は途中休場したが、その言い訳には一切しなかった。絆で結ばれた父子は、人知れず、互いに闘っていたのだ。

横綱昇進後の約2年、貞彦さんは苦悩する稀勢の里を見続けてきた。強さで存在感を示すことができなかったが、若い衆のころは1日100番にも及ぶ猛稽古で番付を上げた。関取衆となっても、他の部屋が四股やすり足などの基礎運動に終始したり、休みに充てたりといった初日2日前に、50番も取っていた。

努力で成長してきた稀勢の里を象徴するように、貞彦さんは、中学の卒業文集の存在を明かしている。将来の横綱、寛少年はしっかりとこう書いている。

「天才は生まれつきです。もうなれません。努力です。努力で天才に勝ちます」

努力に次ぐ努力で苦難を乗り越えてきた、人間くさい横綱が、ついに土俵を去った。

元横綱になった息子について、この日、父は「(引退の話は)聞いている。なんとも言えない」とだけ口にした。言葉少なだったのにはわけがある。今場所は、あらゆる取材を断っていた。場所前には横綱審議委員会(横審)から史上初の「激励」を決議された。いよいよ後がない場所に集中させたい親心からの配慮だった。厳しい結末になったが、たくましい父子は、しっかりともがき、耐えてこの日を迎えたのだった。

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引退の稀勢の里「いつも稽古場で自問自答」一問一答

引退会見で涙を見せる稀勢の里(撮影・鈴木正人)

現役引退を決断した大相撲の横綱稀勢の里(32=田子ノ浦)が16日、東京・両国国技館で引退会見を行った。

-引退を決断しての今の心境は

「横綱としてみなさまの期待にそえられないということは非常に悔いが残りますが、私の土俵人生において一片の悔いもございません」

-今頭に思い浮かぶのは何か

「たくさんの人に支えられて1人1人の顔を思い出します」

-昨日相撲を取り終えて引退を決意するまで心の動きは

「やり切ったという気持ちが最初にありました」

-17年間の土俵人生はどんな土俵人生だったか

「いろいろな方に支えられて、僕1人ではここまで来られなかったと思います」

-一番心に残っているのは

「ありすぎてなかなか思い出せませんが、やはり稽古場が僕を強くしてくれたので、稽古場での思い出は今でも覚えています」

-今場所はどんな気持ちで土俵に上がったか

「覚悟を持って場所前から稽古しました。自分の中で「これでダメなら」という気持ちになるぐらい稽古しました。その結果、初日から3連敗して自分の中では悔いはありません」

-2年前の新横綱の場所で負傷した時の状況は

「一生懸命やってきましたから」

-相当大けがだったのか

「そうですね」

-2年たって回復具合はどうか

「徐々によくなってきましたが、自分の相撲を、ケガする前の自分に戻すことはできなかったです」

-ケガとの闘いの中でどういう思いで横綱を務めたのか

「潔く引退するか、ファンの人たちのために相撲を取るのかというのはいつも稽古場で自問自答していました」

-厳しい先代からの教えで心に残っているのは

「稽古場というのは非常に大事とおっしゃっていました。今後、次世代の力士にも大事さを教えていきたいです」

-天国で見守る先代にはどう報告するのか

「素直に感謝の気持ちを伝えたいです」

-思い出の一番は

「17年、横綱昇進を決めた後の千秋楽横綱白鵬関との一番です。11年に大関昇進した時は千秋楽で琴奨菊関に負けました。その悔しい思いがあって次に昇進する時は絶対に負けないという気持ちがありました」

-高安に声をかけるとしたら

「もう1つ上がありますから。まだまだこれから」

-横綱になって変わった部分は

「大関時代、幕内、十両もそうですけど、全く環境も変わりました。意識の部分もそうですし、環境の部分もそうですし」

-モンゴル出身力士に対する思いは

「自分を成長させてもらった。横綱朝青龍関をはじめ、モンゴルの横綱にかわいがってもらった。背中を追っかけて少しでも強くなりたいという思いで稽古しました。上に上がれない時も、日馬富士関から非常にいいアドバイスを頂いたのを覚えています。感謝の気持ちでいっぱいです」

-今後どういう力士を育てたいか

「一生懸命相撲を取る力士、そしてケガに強い力士。そういう力士を育てたいです」

-これまでで忘れられない瞬間は

「天皇賜杯を抱いた時です」

◆稀勢の里寛(きせのさと・ゆたか)本名・萩原寛。1986年(昭61)7月3日、茨城県牛久市出身。02年春場所初土俵、04年夏場所に17歳9カ月で新十両。同年九州場所に18歳3カ月で新入幕はともに貴花田(後の横綱貴乃花)に次ぐ史上2位の年少昇進記録。06年名古屋場所で新三役となり、12年初場所で大関に昇進。16年九州場所で12勝を挙げて自身12度目の優勝次点となり、在位31場所目の翌17年初場所で初優勝。第72代横綱となった同年春場所で2場所連続優勝を飾るも、翌場所から8場所連続休場。18年秋場所で10勝を挙げ皆勤も、その後、不戦勝を除き3場所にわたる8連敗で引退を決意。得意は突き、押し、左四つ。殊勲賞5回、敢闘賞3回。金星3個。通算800勝496敗。家族は両親と姉。188センチ、177キロ。

花束を手にする稀勢の里(撮影・鈴木正人)

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稀勢の里、土俵人生は「一片の悔いもございません」

引退会見で涙を見せる稀勢の里(撮影・鈴木正人)

日本相撲協会は16日、都内で理事会を行い、横綱稀勢の里(32=田子ノ浦)の引退と年寄「荒磯」襲名を承認した。稀勢の里は大相撲初場所で初日から3連敗を喫し、4日目のこの日朝、都内の部屋で師匠の田子ノ浦親方(元前頭隆の鶴)が稀勢の里の引退を明かした。

稀勢の里は午後、両国国技館で引退会見を行った。引退した現在の心境を問われると「横綱としてみなさまの期待にそえられないということは非常に悔いが残りますが、私の土俵人生において一片の悔いもございません。たくさんの人に支えられて1人1人の顔を思い出しますし、感謝の気持ちでいっぱいです」と途中で声を詰まらせながら話した。

新横綱に昇進した17年春場所の、横綱日馬富士戦で左大胸筋付近を負傷。ケガを押して出場して同場所は優勝を果たしたが、負傷の影響により8場所連続休場を余儀なくされた。あらためて負傷した箇所について問われると「徐々によくなってきましたが、自分の相撲を、ケガする前に戻すことはできなかったです」と声を振り絞りながら明かした。

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