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隆の勝、麒麟児さん訃報は「知り合いから連絡来た」同郷柏出身で同じ関脇

すり足で下半身を鍛える隆の勝(代表撮影)

大相撲の関脇隆の勝(26=常盤山)が15日、同じ千葉県柏市出身で3月1日に死去した元関脇麒麟児の垂沢和春さんについて言及した。都内の部屋での稽古後、代表取材に応じ「(今月13日の訃報は)知り合いから連絡が来て、すぐニュースを見て、亡くなったと知りました」と話した。

18年3月の定年まで北陣親方として協会に所属していた間に「2、3回話したけど、向こうも(同郷だとは)知っていないと思う」と隆の勝。柏市出身で大関はいない。新関脇から3場所連続で勝ち越している大関候補は「(柏市出身)第1号になれるように」と、大関昇進に意欲を示した。

3月の春場所では6日目まで5勝1敗と好調だったが、中盤戦から終盤戦にかけて失速し、8勝止まりに終わった。「4連敗したときはメンタルもどんどん悪い方向に進んだ。あきらめかけたことも若干あった。自分の相撲が分からなくなっていった」と、精神面で課題を残したという。

自身より番付が上の朝乃山、正代の2大関、大関復帰を決めた照ノ富士の3人から白星を挙げられず、地力の差を感じた。「立ち合いでは(差を)感じなかったが、そのあと動きで落ち着いて対応されるので、余裕がなかった。その余裕があるから大関なのかな、と」。まだ上位に定着して1年ほど。「壁にぶち当たっていかないと強くならないし、いい機会、いい経験。勝ち越すまでの相撲内容をしっかりしないと。大関(相手)だから負けてもいいや、ではなくて、大関を倒してやろう、という気持ちの強さがもっと必要。今まで以上にもっと必要だと思った」と前を向いた。

夏場所に向けて稽古に励む隆の勝(中央)。左は貴源治(代表撮影)

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元大善の富士ケ根親方「お母さん元気になる」と角界誘われ 恩人麒麟児悼む

富士ケ根親方(元大善)

元関脇麒麟児の先代北陣親方(本名・垂沢和春)が67歳で死去し、富士ケ根親方(56=元小結大善)が13日、恩人を悼んだ。

幼少時から家族ぐるみで麒麟児を応援していた縁があり、高1の時にスカウトされた。麒麟児は当時27歳。富士ケ根親方は、本名の高橋徳夫にちなんで「徳(とく)」と呼ばれていた。「おふくろはすごく体が弱くて、30代半ばで総入れ歯に近かった。麒麟児さんに『徳が相撲取りになったら、お母さんは喜ぶぞ、元気になるぞ』と言ってくれて…。もちろん、相撲界に興味はあったけど、力士になろうと思わせる言葉でした」。

二所ノ関部屋に入門すると、師匠(元関脇金剛)はもちろん、兄弟子の大徹(現在の湊川親方)が胸を出してくれて、麒麟児が指導をしてくれた。23歳で関取になった。母明代さんは、家から徒歩10分の春場所会場まで毎年応援に駆けつけてくれた。病気と闘いながら、70すぎまで生き抜いた。麒麟児が入門時に言ってくれた通りだった。

「親方(元麒麟児)は、いてくれるだけで周囲が明るくなる、太陽のような人でした」と富士ケ根親方。先代北陣親方は、NHKの大相撲中継やサンデースポーツの解説でファンから親しまれた。富士ケ根親方が大相撲中継で解説を務めた日、放送を終えるといつも先代北陣親方から留守電が入っていたという。

「『徳、聞いたよ~。もうちょっとゆっくりしゃべれよ』などと、言っていただきました。聞いてくれているんだなと思うと、それがうれしくてね。アドバイスをいただいたのですが、親方の域には達しませんでした。でも、声を聞くだけで童心に戻れました」

先代北陣親方の葬儀は家族葬として執り行われた。最期には立ち会えなかったが、富士ケ根親方は恩を忘れない。「(師匠だった)金剛さんは『井戸を掘った人を大事にしろ』と、つまり導いてくれた人を大事にするんだぞとよく言っていました。感謝してもしきれません。協会も苦しい時期ですけど、しっかり自分もまっとうできるようにしっかりしていきたいです」。【佐々木一郎】

麒麟児
断髪式を終えタキシード姿になった元関脇麒麟児の北陣親方=1989年1月29日

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幕内格行司の式守錦太夫「今日の自分は親方のおかげ」元関脇の麒麟児悼む

現役時代の元関脇麒麟児(1978年撮影)

元関脇麒麟児の先代北陣親方(本名・垂沢和春)が67歳で死去し、親戚でもある幕内格行司の式守錦太夫(47=二所ノ関)が故人を悼んだ。

先代北陣親方は、錦太夫にとって義理の叔父。母の妹が、先代北陣親方の妻だった。錦太夫は「僕が中2の時に『行司になってみないか?』と誘われました。この世界に入って三十数年ですけど、やっぱり何度もくじけそうになったことがあるわけで、そのつど支えてくれたのが親方。今日の自分があるのは親方のおかげだと実感しています」と感謝した。

断髪式を終えタキシード姿になった元関脇麒麟児の北陣親方=1989年1月29日

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しこ名でも最難関の漢字「麒麟児」子どもには学びのきっかけ/悼む

現役時代の元関脇麒麟児(1978年撮影)

<とっておきメモ>

日本相撲協会は13日、元関脇麒麟児(本名垂澤和春氏)が3月1日に多臓器不全のため死去したと発表した。67歳だった。

   ◇   ◇   ◇

大相撲で元関脇の麒麟児は、私にとっては「漢字の先生」だった。幼稚園年長から小学校低学年くらいまで、午後4時前からテレビの前に陣取る相撲少年だった。ノートに手書きで、力士名、勝ち負け、決まり手などの勝敗表を、幕内全取組でつけていた。

当時、私の好きな力士は「若嶋津」(現二所ノ関親方)。だが、小1か小2の習字の時間に、担任の先生から「好きな漢字を書いて」と言われ、筆で記したのは「麒麟児」だった。私にとって、力士の中でもっとも書くことが難しかったのが「麒麟児」だった。ようやくきれいに書けるようになったことがうれしかったのだろう。平仮名で書く妥協はせず、泣きながらでも書き続けた成果だった。「鳳凰」「鷲羽山」「魁輝」なども難しかった記憶がある。先生からも、同級生の前で「漢字の横綱」と呼ばれ、鼻を高くした記憶もある。それが、次の力士名を覚える原動力でもあった。女性だった担任は「北の湖」の大ファンだった。若嶋津が北の湖に勝った翌日は、子どもながらに私に対して不機嫌な先生の態度も鮮明に残っている。

大相撲担当時代、元麒麟児の北陣親方に「僕は親方のおかげで漢字をたくさん覚えられたんです」と話したことがある。返ってきた言葉は意外だった。「私は最初、麒麟児のしこ名が嫌だったんですよ。書くことも難しいし、大人にもちゃんと呼んでもらえない時もある。子どもにはキリン(麒麟)なのに、なんで背が低いの? なんて言われたこともあるんですよ」。私が「親方が得意の張り手、突っ張りしなかったんですか?」と冗談を言うと「背が低いキリンもいるんだよ、と言ったんですよ」と笑った。続けて、「おじちゃんの名前は麒麟児でしょ。児というのは子どもってこと。キリンの子どもだから小さいんだよね」と言ったらしい。その子にとっても「児」の意味を教えてくれた、優しい先生になった。【13~14年相撲担当=鎌田直秀】

84年夏場所、北の湖(右)を突っ張りで激しく攻める麒麟児
断髪式を終えタキシード姿になった元関脇麒麟児の北陣親方=1989年1月29日

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元関脇の麒麟児が死去、多臓器不全で67歳 108発の突っ張り合いも

1976年1月、大相撲初場所4日目 富士桜(左)と麒麟児

日本相撲協会は13日、元関脇麒麟児の垂沢和春さんが3月1日に多臓器不全のため死去したと発表した。67歳だった。

強烈な突っ張りを武器に、幕内通算84場所で三賞受賞は11度。昭和28年生まれで「花のニッパチ組」の1人として土俵を沸かせた。現役引退後は北陣親方として後進の指導に当たり、18年に日本相撲協会を退職していた。

   ◇   ◇   ◇

また1人、名力士がこの世を去った。日本相撲協会は、元関脇麒麟児の垂沢さんの死去を発表。協会関係者によると、15年夏ごろに頭部の腫瘍摘出手術を受けた影響で顔面にまひの症状が残り、体調が悪かったという。18年3月に65歳の定年を迎えたが、再雇用制度は利用せずに協会を退職。3年後の3月1日に、自宅で多臓器不全により死去した。近年は糖尿病と腎臓を患っていたという。葬儀・告別式は家族葬で執り行われた。

1967年夏場所で二所ノ関部屋から初土俵を踏んだ。昭和28年生まれで「花のニッパチ組」の1人として、元横綱北の湖、元横綱2代目若乃花らとともに人気を誇った。1975年夏場所8日目の天覧相撲では、富士桜との計108発に及ぶ壮絶な突っ張り合いを披露。昭和天皇が身を乗り出して観戦された一番は、今も語り草となっている。幕内優勝こそ果たせなかったが、金星6個、三賞受賞は11度と実績を残した。

88年秋場所を最後に35歳で現役引退後、北陣親方として二所ノ関部屋で後進を指導した。相撲協会では主に巡業部に所属。大相撲中継では爽やかな語り口の解説で親しまれた。

◆麒麟児和春(きりんじ・かずはる)本名・垂沢和春。1953年(昭28)3月9日、千葉県柏市生まれ。67年夏場所初土俵、74年初場所新十両。同年秋場所で新入幕。強烈な突っ張りを武器に金星6個、殊勲賞4回、敢闘賞4回、技能賞3回と三賞計11回受賞。最高位は関脇。幕内通算84場所で三役は通算17場所。通算773勝792敗34休。88年秋場所限りで引退し、年寄「北陣」を襲名。18年3月に日本相撲協会を定年退職。

麒麟児
北陣親方(元関脇麒麟児)(2008年09月6日撮影)
断髪式を終えタキシード姿になった元関脇麒麟児の北陣親方=1989年1月29日

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二子山部屋が旧東関部屋に移転へ 一門の枠超え継承

二子山部屋

寅さんの街に相撲部屋は残ります-。

3月いっぱいで部屋が閉鎖された東京・柴又にある旧東関部屋に、埼玉・所沢に拠点を構える二子山部屋が移転することで調整が進んでいることが5日、分かった。関係者によれば、細部の条件が整えば今月中旬にも移転するという。

東関部屋は2代目師匠の先代東関親方(元前頭潮丸)が、初代師匠(元関脇高見山)が開設した東京都墨田区東駒形から、18年1月に葛飾区柴又へ移転。翌2月に部屋開きが行われた。だが先代は翌19年12月に死去。年明けの20年1月に、現在の東関親方(元小結高見盛)が部屋を継いだが、精神的負担の重さから難色を示し、1年をかけて高砂一門内で後継者探しを模索。それでも適任者が見つからず3月の春場所を最後に封鎖され、今年4月1日付で東関親方や力士は八角部屋(元横綱北勝海)に移籍した。

柴又の部屋は、葛飾区が観光戦略など地域活性化を狙って相撲部屋を誘致。区有地を50年間の有償で借し出して建てられた。完成から3年あまりとリフォームも必要ない築浅で、約150坪の広大な敷地に2階建ての建物。先代(故人)の「3階建ても考えたけど、ケガした力士でも2階に上がらないで済むように、力士の生活が1階だけで全部できるようにした」という弟子への愛情から、稽古場や風呂場、ちゃんこ場がある1階に大広間も作った。2階にも20畳ほどの部屋と関取用の個室2部屋を用意するなど環境は抜群。その部屋が閉鎖されたことを惜しむ多くの声が、角界や地元・柴又からもれていた。

後継師匠捜しが難航し、断念の方向に向かうと同時に、両国まで公共交通機関を使っても30分足らずという、絶好の環境にあるその部屋を、何とか継続使用できないかと関係者間で話し合いが進められていた。そんな中で浮上したのが二子山部屋の移転だ。二子山親方は藤島部屋から分家独立し、18年4月に所沢に部屋を創設。農地に囲まれた自然豊かな環境にあり、所沢市としても西武線沿線としても初の相撲部屋として話題となった。

ただ、最寄り駅から両国までは、電車を数本乗り継いで最速でも1時間以上かかり、力士の負担は大きかった。前日、明らかになった立浪部屋の茨城県つくばみらい市から、東京・台東区への移転同様、解禁された際の出稽古や東京場所で両国まで通う“通勤負担”の軽減など、稽古環境を整えたいという師匠としての思いがあった。

関係者によれば、先代東関親方の遺族や葛飾区との折衝が進み、詰めの交渉は最終段階に入っている。二子山親方は電話取材に、全てがクリアされたことを前提に「亡くなった(先代東関親方の)潮丸さんとは現役時代から仲が良かったので、その遺志を引き継ぎたい。今はコロナ禍で、すぐには難しいかもしれませんが、地元の方々と触れ合って地域の活性化に貢献したい」と話した。41歳の若さで死去した先代東関親方は、柴又に部屋を構えた際、「寅さんシリーズ」となった映画「男はつらいよ」の舞台となった「帝釈天でパレードできるような力士を育てたい」と夢を膨らませていた。志半ばで他界し「東関」の部屋名もなくなったが、その思いは一門の枠を超え、新たに部屋を構えることになる二子山部屋に継がれようとしている。

二子山部屋の看板

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極真から総合系武道「大道塾」創立の東孝さん死去

打撃系武道の空道創始者で大道塾を創立した武道家の東孝さんが3日午後2時35分、胃がんのために死去した。大道塾が3日、公式サイトで発表した。71歳だった。昨夏から末期の胃がんの診断を受け、闘病していたという。

宮城・気仙沼市出身の東さんは早大在学中の71年に極真会館に入門。早大の極真空手部の創部に携わり、初代主将を務めた。81年2月には顔面攻撃、投げ技、絞め技ありの大道塾を設立。09年3月には一般社団法人全ん日本空道連盟を創設した。94年2月、米総合格闘技UFC2大会でホイス・グレイシーと対戦した元北斗旗王者市原海樹らを育成した。現在、K-1クルーザー級で活躍する加藤久輝も門下生となる。

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「キックの鬼」沢村忠さんが死去 肺がんで入院

沢村忠氏(右)は「キックの鬼」と呼ばれ国内では連戦連勝、キックボクシングが大ブームになった(1969年1月4日撮影)

「キックの鬼」の異名で一世を風靡(ふうび)した元キックボクサーの沢村忠さん(本名・白羽秀樹)が、3月26日に死去した。1日、親族が発表した。78歳だった。葬儀は近親者で行った。昨年から肺がんを患い、千葉県内の病院に入院していた。

目黒ジムで沢村さんの付け人も務めた後輩で、元WKBA世界ウエルター級王者でもある伊原道場の伊原信一会長は「今朝(1日)連絡を受けました。肺がんで闘病されているのは聞いていましたが、病気になって彼は人と会わなくなり、コロナ禍で見舞いにも行けなかった。本当に残念です」と語った。

日大3年の時に空手の全日本学生選手権で優勝した沢村さんは、キックボクシングを創設した野口修プロモーターにスカウトされ、66年にデビュー。「真空飛びひざ蹴り」を武器にKO勝利を重ね、67年に獲得した東洋ミドル級王座を14度、その後、同ライト級王座を20度防衛。昭和40年代に空前のキックボクシングブームを巻き起こした。

沢村さんの半生を描いたテレビアニメ「キックの鬼」(TBS系列)は視聴率30%を超え、映画やテレビドラマにも出演。73年にはプロ野球3冠王の巨人王貞治氏らを抑えて、日本プロスポーツ大賞を受賞した。

77年10月に232勝(228KO)5敗4分けという驚異的な戦績を残して、34歳で現役を引退。その後は格闘技界との関係をすべて断ち切り、かねて興味を持っていた自動車整備士の資格を取得。80年に独立して都内で整備工場を経営していた。関係者によると子どもたちを指導するなど後進の育成にもあたっていたという。

野口氏の継承者として新日本キックボクシング協会の代表も務める伊原会長は「沢村さんは人一倍の努力家で、気配りも一流だった。女性が列をつくるほどもてた。キックをやっている人間として、彼が作り上げてきたものに感謝の気持ちを持ち、一層頑張っていきたい」と思い出を語り、故人をしのんだ。

◆沢村忠(さわむら・ただし)本名は白羽秀樹。1943年1月5日、旧満州の新京生まれ。法大一-日大芸術学部映画科。大学3年の全日本学生選手権で優勝。66年にキックボクシングデビュー。2戦目にタイ人選手に16度のダウンを奪われて4回KO負けを喫したことで発奮。以降「真空飛びひざ蹴り」を武器に、東洋ミドル級と同ライト級王座を通算34度防衛。77年引退。現役時代は174センチ、61キロ。家族は妻と1男2女。次女の白羽玲子さんは元タレント。

沢村忠氏(2004年1月15日)
沢村忠氏は「キックの鬼」と呼ばれ国内では連戦連勝、キックボクシングが大ブームになった(1969年1月4日撮影)

元大関前の山・先代高田川親方が多臓器不全で死去

高田川親方(元大関前の山)

日本相撲協会は29日、先代高田川親方で元大関前の山の清水和一氏が、11日に多臓器不全により死去していたことを発表した。

76歳だった。大阪・守口市出身で、高砂部屋に入門して61年春場所で初土俵。70年秋場所で新大関昇進を果たし、大関在位は10場所だった。74年春場所で引退し、年寄「高田川」を襲名。同年に高砂部屋から独立して、高田川部屋を創設した。協会では理事を務めるなどし、10年に定年退職した。

前の山(1966年9月12日撮影)
大関前の山(1971年11月28日撮影)
前の山(1966年9月12日撮影)
高田川親方(元大関・前の山)(1995年9月16日撮影)

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漫画で花咲かせた琴剣さん、人懐っこい姿忘れられず

結婚式の引出物で配られた琴剣さんのマンガ入り大皿

大相撲の元力士で、日本相撲協会公認の漫画家でもある琴剣淳弥(ことつるぎ・じゅんや、本名・宮田登=みやた・のぼる)さんが26日、千葉県習志野市の病院で死去した。60歳だった。葬儀・告別式は30日午前9時から千葉県船橋市北本町1の3の11、セレモ船橋駅北口ホールで。喪主は妻鈴代(すずよ)さん。

◇  ◇  ◇

琴剣さんの所属していた佐渡ケ嶽部屋では、朝稽古取材のあと、必ず「ちゃんこを食べていきなさい」と当時の佐渡ケ嶽親方(元横綱琴櫻)やマネジャーから声をかけられた。「食べないと、今後は取材させないよ」と半ば強制的にちゃんこ場に座らせられた。

おいしかった。そのちゃんこをつくっていたのが、当時ちゃんこ長だった琴剣さんだった。気さくで人懐っこくて、すぐに仲良くなった。「ボク、漫画が好きなんです」と部屋の風景や力士の日常生活などを描いたものを見せられた。プロ顔負けの腕だった。

「もったいないですね。うちにも描いてくれませんか」とお願いして、日刊スポーツの紙面に使わせてもらった。86年秋場所で引退すると、高田馬場にあった、佐渡ケ嶽部屋の先輩が経営するちゃんこ店で修業を始めた。琴剣さんの紹介でよく通い、いつも名物の豚の角煮をサービスしてもらった。「桝田さん、ありがとうございます」。店に行くたびに満面の笑みで頭を下げた人懐っこい姿が忘れられない。

引退後に結婚した鈴代夫人とその後ちゃんこ店を開き、夫人の勧めでまた漫画を描き始めた。その後の活躍は、テレビや雑誌、新聞などで拝見させていただいた。相撲の最高位は三段目46枚目と関取にはなれなかったが、大好きな漫画で人生の花を咲かせた。「結婚したんです」と送ってくれた記念の大皿が、今でもわが家にある。お祝い事のあるときに使わせてもらっています。剣さん、安らかに-。【桝田朗】

元琴剣の宮田登さん(1987年撮影)

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琴剣さん60歳死去、元力士で相撲協会公認の漫画家

元琴剣の宮田登さん(1987年撮影)

大相撲の元力士で、日本相撲協会公認の漫画家でもある琴剣淳弥(ことつるぎ・じゅんや、本名・宮田登=みやた・のぼる)さんが26日、千葉県習志野市の病院で死去した。60歳だった。

葬儀・告別式は30日午前9時から千葉県船橋市北本町1の3の11、セレモ船橋駅北口ホールで。喪主は妻鈴代(すずよ)さん

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鶴竜突然の引退「夏場所出る気満々」も周囲反応で決断

14年9月、秋場所5日目に土俵入りする横綱鶴竜

日本相撲協会は24日、理事会を開催し、第71代横綱鶴竜(35=陸奥)の現役引退と年寄「鶴竜」襲名を承認したことを発表した。鶴竜は5場所連続休場中で、5月の夏場所で再起を懸けるはずだったが心身共に限界を迎えた。01年九州場所で初土俵を踏んでから20年。歴代10位の横綱在位41場所、6度優勝の横綱が土俵人生に幕を下ろした。横綱の引退は19年初場所の稀勢の里以来。最高位は白鵬だけとなり、12年秋場所以来9年ぶりに一人横綱となる。

   ◇   ◇   ◇

大相撲春場所11日目。午後1時の開門に合わせて観客が会場入りし始めた頃、協会が鶴竜の現役引退を発表した。昨年11月場所後に横綱審議委員会(横審)から「注意」の決議を下されるも、1月の初場所を腰痛で休場。春場所では進退を懸けるはずが、初日直前の稽古中に左足を負傷して一転、休場。当初は現役続行の意思を強く示していたが、師匠の陸奥親方(元大関霧島)は「思うように治らなかった。気持ちは切れていなかったけど、体が駄目だった。本人が決めたこと」と引退理由を明かした。

実際は気持ちも切れていた。白鵬が3日目に途中休場した際、横審の山内昌之委員が「横綱の番付が下がらないのは長期休場や成績不振と関係なく、無期限に地位にとどまれることを意味しない。2日勝って休場したのだから、余力を持って今場所中に進退を決してほしいというのが個人的な意見」などと発言。白鵬に対してのコメントが、自身の胸にも刺さった。

部屋関係者は「夏場所に出る気満々だった。最後は土俵に上がって終わりたがっていたけど、周囲から厳しい声があったのも事実。最後は横綱が決めたことだけど…」と話した。鶴竜は、この日も稽古場に姿を現したが、体が思うようには動かなかった。周囲からの厳しい声も重なり、突然の引退を決心したようだ。

最後の取組は、昨年7月場所初日の東前頭筆頭の遠藤戦となった。右裾払いをかわされ、体勢を崩して尻もちをつく「腰砕け」で負けた。再び土俵に立つことはかなわず、無念の引退。横綱は引退後5年間、自身のしこ名で年寄を名乗れることから、鶴竜親方として協会に残って、年寄名跡取得を目指す。後進の指導にあたる前に、まずは25日に行われる引退会見で20年分の土俵人生を語る。

◆鶴竜力三郎(かくりゅう・りきさぶろう)本名・マンガラジャラブ・アナンダ。1985年(昭60)8月10日、モンゴル・ウランバートル市生まれ。バスケットボール、レスリングなどを経験して01年9月に来日し、同年九州場所で初土俵。06年九州場所で新入幕、12年春場所後に大関昇進。初優勝した14年春場所後に横綱昇進。19年9月に師匠の先代井筒親方(元関脇逆鉾)が死去し陸奥部屋に移籍。優勝6回。三賞は殊勲賞が2回、技能賞が7回。得意は右四つ、下手投げ。186センチ、154キロ。家族は妻と1男2女。血液型A。

笑顔で優勝パレードに出発する鶴竜(2019年7月21日撮影)

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相撲診療所に糖尿病専門医 力士のコロナ対策も期待

日本相撲協会の直属機関で東京・両国国技館内にある相撲診療所に、4月から新たに糖尿病の専門医が常駐することが21日、関係者の話で分かった。新型コロナウイルスは糖尿病など基礎疾患を抱える人に重症化のリスクが高いとされており、身近な診療体制の構築でさらなるコロナ対策としても期待される。

角界では昨年5月、糖尿病の持病があった三段目力士の勝武士さんが新型コロナに感染し、28歳の若さで死去した例がある。相撲診療所に専門家が加わることに、協会幹部は「新型コロナ禍の中で今まで以上に糖尿病を気にする人もいる。われわれにとっては心強い存在になると思う」と話した。

相撲診療所は力士や親方らに対してけがや病気の治療、定期的な健康診断を実施して健康面をサポート。一般外来の診療も行っている。(共同)

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WWEオートン叔父バリー・オートンさん死去

米国人プロレスラーのランドール・バリー・オートンさんが死去したと20日(日本時間21日)、米メディアが報じた。62歳だった。死因は明らかにされていない。

オートンさんは現在、WWEでスター選手として活躍するランディ・オートンの叔父となる。77年にテキサス州でデビュー。85~86年にWWF(現WWE)でバリー・Oのリングネームでも活躍した。他団体で活動後、90~91年に再びWWFでファイトした。オートンの父となる兄ボブ・オートンJr.とタッグコンビを組んでICWでタッグ王座を獲得。マスクマンのゾディアックとして活躍していた時期もあった。

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白鵬「最後を懸ける」大横綱の覚悟示す時/記者の目

白鵬(2021年3月15日撮影)

さすがの白鵬も、進退を懸ける覚悟を示さないといけない状況になった。

久しぶりの本場所出場も、出場はわずか2日。初場所こそ新型コロナ感染で休場を余儀なくされたが、これで5場所連続休場となり、もう言い訳はできない状況に追い込まれた。横綱審議委員会(横審)は「引退勧告」の決議を下すことができるが、勧告に強制力はない。また、横綱は他の地位と違い、成績不振によって番付が落ちることがない。だからこそ力量、品格が求められる。裏を返せば、横綱として出場するのは当然で、結果も常に求められる。残念ながらここ数年の白鵬に、その姿は見られない。

白鵬は以前から、東京五輪までの現役続行にこだわりを見せている。18年に死去した父ムンフバトさんは、レスリング選手として64年の東京五輪に出場。「同じ景色を見たい」と青写真を描いている。1年延期となった東京五輪は、目前に迫ってきている。

だからと言って休場が続いては、横綱の務めを果たしたとは言えない。これまで数々の偉業を達成してきた大横綱だからこそ、引き際も腹を決めて欲しい。きれいでなくても良い。泥臭くても良い。ただ「最後を懸ける」と言った名古屋場所では、白鵬の覚悟を見せて欲しい。大横綱に二言があってはならない。【佐々木隆史】

白鵬(2021年3月15日撮影)

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「マーベラス」元世界王者ハグラー氏が死去 66歳

マービン・ハグラー氏(2011年撮影=ロイター)

プロボクシング元統一世界ミドル級王者のマービン・ハグラーさん(米国)が、米ニューハンプシャー州の自宅で死去した。66歳だった。13日にケイ夫人がフェイスブックに「残念ながら私の最愛の夫であるマービンは、ここニューハンプシャーの自宅で突然亡くなりました」と記した。息子のジェームス氏は「呼吸が苦しくなり、胸に痛みを訴えて病院に運ばれた」と米メディアに話した。

ハグラーさんは73年にプロデビュー。80年に2度目の挑戦でWBA、WBC同級王座を獲得。87年まで通算12度防衛(11KO)に成功した。ムハマド・アリ(米国)の引退でヘビー級人気が低迷した80年代、ロベルト・デュラン、トーマス・ハーンズ、シュガー・レイ・レナードとスーパーファイトを繰り広げて、ミドル級に黄金時代を築いた。

驚異的を意味する「マーベラス」と呼ばれ、打撃戦もアウトボクシングもこなす万能型で、サウスポーながら左右どちらでも倒せる強打を誇り、そり上げた頭に筋骨隆々の肉体は無類のタフネスを誇った。デュランには技巧で判定勝ち。ハーンズとは真っ向打ち合って3回TKO勝ち。87年4月のレナード戦では相手のアウトボクシングに微妙な判定を落とした。これが現役最後の試合になった。

生涯戦績は62勝(52KO)3敗2分け。13日に米ダラスで行われたローマン・ゴンサレスとファン・エストラーダの世界スーパーフライ級王座統一戦の前に追悼のテンカウントゴングが鳴らされた。

マービン・ハグラー氏(1982年撮影=AP)

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東関部屋が春場所最後に消滅 精神的負担がネックか

東関親方(2020年1月30日撮影)

日本相撲協会は12日、東京・両国国技館で理事会を開き、4月1日付で東関部屋の師匠である東関親方(元小結高見盛)や力士6人ら全員が、八角部屋に転属することを承認した。また、同日付で東関部屋を封鎖することも承認した。

東関親方は19年12月に先代東関親方(元前頭潮丸)が死去したことに伴い、部屋付き親方だったことから、昨年1月に部屋を継承。ただ、部屋の運営には師匠としての精神的負担から難色を示し、関係者によれば1年ほどの“暫定的”な継承として師匠の座を引き継いだという。高砂一門内で次期継承者を模索したが、後任選びは難航していた。

今回の承認を受けて、東関親方は協会を通してコメントを発表した。「私なりに精進して参りましたが、部屋の力士たちにとって、よりよい環境などを求め、八角理事長に相談させて頂き、3月場所を最後に東関部屋を封鎖して、力士たちと八角部屋に転属させていただく決断をいたしました」と部屋移籍および封鎖の経緯を説明した。

東関部屋は、ハワイ出身で高砂部屋付きだった12代東関親方(元関脇高見山)が、86年2月に高砂部屋から分家独立して東京・東駒形に創設。横綱曙、高見盛や潮丸らの関取を輩出した。09年6月の定年後は、当時小野川親方の先代東関親方が部屋を継承。話題を集めた人気部屋だったが、大相撲春場所(14日初日、東京・両国国技館)を最後に、約35年の歴史に幕を閉じることになった。

東関部屋の入口(2021年2月6日撮影)

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東関部屋が春場所を最後に閉鎖か、継承者選びが難航

東関部屋を継承し、報道陣の取材に対応する東関親方(2020年1月30日撮影)

外国人力士のパイオニアが創設し、優勝11回の横綱を輩出した東関部屋(東京都葛飾区柴又)が、大相撲春場所(3月14日初日、東京・両国国技館)を最後に、閉鎖される可能性があることが8日、関係者への取材で分かった。

現師匠である東関親方(44=元小結高見盛)の後任選びが難航しているためで、このままの状況が続けば約35年の歴史に幕を閉じるという。

東関親方は、19年12月に41歳の若さで死去した先代東関親方(元前頭潮丸)の死去に伴い、部屋付き親方だったことから、年明けの昨年1月、部屋を継承した。ただ、部屋の運営には師匠としての精神的負担から難色を示し、関係者によれば1年ほどの“暫定的”な継承として師匠の座を引き継いだという。

そのため高砂一門内で、次期継承者を模索。先代高砂親方(現錦島親方=元大関朝潮)の定年に伴い、高砂部屋を継承しなかった若松親方(元前頭朝乃若)らが候補に挙がったが、不調が続き現状では候補者不在。前述の「1年間」のリミットが切れる状況では、部屋封鎖もやむなしの方向で話が進んでいるという。

東関部屋は、ハワイ出身で高砂部屋付きだった12代東関親方(元関脇高見山)が、86年2月に高砂部屋から分家独立して東京・東駒形に創設。外国出身者による初めての部屋で、ジェシーの愛称で人気を博したこともあり話題を集めた。同じハワイ出身の曙が横綱に上り詰め、高見盛や潮丸らの関取を輩出。09年6月の定年後は、当時小野川親方の先代東関親方が部屋を継承。18年1月に現在の部屋に移転した。

現在の部屋は、地域活性化の狙いで誘致した葛飾区が、区有地を有償で貸し出した土地に建築された。行政側との問題なども残り「完全には(撤退は)決まっていないが、その方向にはある」と関係者は話し、その際には東関親方と力士6人は、同じ高砂一門の八角部屋(師匠=元横綱北勝海)に移籍する方向性も示されているという。

○…部屋の存続問題について東関親方は、電話取材に「自分がどうこう言っても悪い方にとられてしまう。正直、ノーコメントです」と話した。14日初日の春場所が迫っていることもあり「場所も近いし余計なことは言いたくありません」とも付け加えた。コロナ禍で力士の生活環境も厳しい状況が続く。「自分も力士も外出はしてませんが、こんな状況ですから、いつ感染するかもしれない。(いつ感染するか分からないという)覚悟はしています」と予断を持たずに責務を全うする姿勢を示した。

◆東関大五郎(あずまぜき・だいごろう)本名・加藤精彦、元小結高見盛。1976年(昭51)5月12日、青森・板柳町生まれ。99年春場所で幕下付け出しデビュー。00年名古屋場所で新入幕。愛称は「ロボコップ」。13年初場所で現役を引退し同年10月に年寄「振分」を襲名、20年1月に年寄「東関」を襲名して部屋を継承

東関部屋の入口(2021年2月6日撮影)
東関部屋の外観(2021年2月6日撮影)

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拳四朗泥酔で「弔い合戦」に原田会長「怒ってます」

4・24世界戦発表会見に臨んだ王者・寺地(左)と挑戦者の久田(撮影・実藤健一)

WBC世界ライトフライ級王者寺地拳四朗(29=BMB)の8度目防衛戦が8日、大阪市内で発表された。4月24日にエディオンアリーナ大阪で同級1位・久田哲也(36=ハラダ)と対戦する。

同カードは昨年12月19日に指名試合として予定されていた。しかし寺地が昨年7月に泥酔して都内マンションに侵入し他人の車を傷つける騒動を起こしたことが発覚。日本ボクシングコミッション(JBC)より12月1日から3カ月のライセンス停止、制裁金300万円などの処分を受けて、中止となっていた。寺地の処分は2月末で解除となり、今回の“再戦”が正式発表された。

待たされた挑戦者の久田は「弔い合戦」となる。先代の原田実雄会長が昨年12月末に死去した。当初の予定通り、試合が実施されていれば愛弟子の戴冠を見守ることもできた。息子の現会長・剛志氏は「個人的には怒ってます」。久田は「前会長に王者の姿を見せられなかった。100%の力を発揮するだけです」と王座奪取を誓った。

ソーシャルディステンス、マスク姿でフェイスオフの王者寺地(左)と挑戦者久田(撮影・実藤健一)

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バディ・コルトさん死去 81歳 国際プロレス参戦

国際プロレスにも参戦していた米国人プロレスラーのバディ・コルト氏が5日(日本時間6日)に死去した。現役時代に主戦場としていたNWAが同日に発表した。81歳だった。死因は明らかにされていない。

1962年にプロレスラーとしてデビューしたコルト氏は翌年からWWWF(現WWE)に参戦し、WWWF世界ヘビー級王者バディ・ロジャースに挑戦。その後にNWAに主戦場を移し、テリー・ファンクらと抗争を開始。当時のNWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンクJr.にも挑戦した。69年に国際プロレスで初来日。金髪をなびかせ、グレート草津、サンダー杉山、ストロング小林らとファイトした。

70年代に入るとフロリダ州、ジョージア州を活動拠点とし、NWAジョージア・ヘビー級王者ニック・ボックウィンクルを下し、王座を獲得していた。しかし75年2月、飛行機墜落事故による大けがで現役を引退。以後はアブドーラ・ザ・ブッチャーらのマネジャーを務めていた。

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