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テンコジ競演!藤波辰爾デビュー50周年記念ツアーに天山広吉、小島聡参戦

藤波辰爾

テンコジとドラゴンの懐かしの競演が実現する。プロレスラーの藤波辰爾(67)のデビュー50周年を記念して開催されるツアー『TATSUMI FUJINAMI 50th ANNIVERSARY THE NEVER GIVE UP TOUR』に、新日本の天山広吉(50)、小島聡(51)が参戦することが分かった。藤波主宰のプロレス団体ドラディションが22日、一部カードとともに発表した。天山と小島は10月31日大阪大会(ATC南港ホール)と、11月9日後楽園大会(後楽園ホール)に出場する。

藤波は17日のヒートアップ川崎大会で、23年ぶりのシングル王者に輝くなど、調子を上げてきた。さらに10月16日には5年半ぶりに全日本のリングにも登場することが決まった。そして31日、今度は新日本のテンコジを自らの大会に招待し、50周年ツアーをスタートさせる。

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10・16藤波辰爾5年半ぶり全日本登場 息子LEONAと組んでタッグ戦

藤波辰爾

<全日本プロレス後楽園大会>◇21日◇後楽園ホール

ドラゴンが久々に全日本のリングに登場する。5月にデビュー50周年を迎えた藤波辰爾(67)が、10月16日の大田区大会に出場することが発表された。藤波の全日本への参加は16年5月以来約5年半ぶりとなる。

藤波は息子のLEONAと組んで、青柳優馬、亮生の兄弟タッグと対決する。「新日本育ちの自分としては全日本と聞くと燃えてくる。デビュー50周年ということで頑張りたい」とビデオメッセージを届けた。

今月17日のヒートアップ川崎大会では23年ぶりのシングル王者に輝くなど、調子を上げてきた。LEONAとの親子タッグで青柳兄弟に勝利し、10月末からの自身の50周年ツアーに弾みをつけたい。

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67歳藤波辰爾、23年ぶりシングル戴冠「50周年にビッグなプレゼント」

藤波辰爾はTAMURAを破り2冠王者に輝いた(撮影・柴田隆二)

<プロレスリング・ヒートアップ川崎大会>◇17日◇とどろきアリーナ

67歳の藤波辰爾が、98年の新日本IWGPヘビー級以来となるシングルのベルトを手にした。ヒートアップの「ユニバーサル&PWLWORLDCHANPIONSHIP」2冠王者のTAMURAからコブラツイストでギブアップを奪い、タイトルを奪取した。勝利後、帰ろうとするTAMURAを呼び止め「(デビュー)50周年の年にこんなビッグなプレゼントがあるとは。若いころを思い出させてくれてありがとう」と感謝の言葉を伝えた。

15分を戦い抜き、疲れ切った67歳には、久しぶりの2冠ベルトを抱え上げるのも一苦労だった。息子でプロレスラーのLEONAから腰に巻かれ、もう1つを肩にかけたが、わずか数分ほどで下ろす場面も。「本当に重かったんだよ」と苦笑いした。

23年ぶりのシングル戴冠。シングルタイトルマッチへの挑戦も、01年の全日本3冠ヘビー級王座戦で武藤敬司に敗れて以来20年ぶりだった。近年はタッグでの試合が多く「シングルマッチに少し(気持ちが)引いた部分があった」という中で、TAMURAの挑戦を受けた。「ベルトは重いもの。簡単には答えられない」といったんは保留したが、その後快諾。「50年経っても飽きないんだな」と貪欲にベルトを追い求めた。

闘志みなぎるTAMURAの姿を見て、88年にIWGPヘビー級王者として、アントニオ猪木氏の挑戦を受け、引き分けた試合を思い出した。「あの時とは立場が逆だが、捨て身で向かってきた猪木さんのシーンが浮かんだ」。右足を集中して攻められ、劣勢の展開が続いたが、すべて受け止め、立ち上がった。バックブリーカーでTAMURAの腰を破壊し、ドラゴンスクリュー、ドラゴンスリーパーなど得意技を次々と決め、勝利をつかんだ。

「彼がチャンスをくれた。これからも期待に応えないと。このベルトに色を付けて恩返ししたい」と次なる防衛にも意欲を見せた。5月にデビュー50周年を迎え、今月14日にはプロレス殿堂入りを果たした藤波。久しぶりのシングルのベルトを腰に巻き、来月末から始まる50周年ツアーに向かう。【松熊洋介】

藤波辰爾はTAMURAを破り2冠王者に輝いた(撮影・柴田隆二)
藤波辰爾(左)はTAMURAにドラゴンスリーパーを決める(撮影・柴田隆二)
藤波辰爾(下)はTAMURAに雪崩式ドラゴンスクリューを決める(撮影・柴田隆二)
藤波辰爾(左)はTAMURAにコブラツイストを決める(撮影・柴田隆二)

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殿堂入り藤波辰爾「体が続く限りリングに」入江茂弘にドラゴンスクリュー

藤原喜明(右)にパンチを浴びせる藤波辰爾(撮影・中島郁夫)

<日本プロレス史70周年記念大会「LEGACY」>◇15日◇後楽園ホール

レジェンドのプロレスを見せた。14日に殿堂入り表彰を受けた藤波辰爾(67)が8人タッグマッチに出場。越中詩郎、新崎人生、阿部史典と組み、藤原喜明、AKIRA、佐藤耕平、入江茂弘組と対戦。敗れはしたが、軽快な動きで会場を盛り上げた。

久しぶりのリングにも往年の力強いプロレスは健在だった。いきなり藤原と激突した藤波は、コーナーに追い込みエルボーを連発。レフェリーが止めに入るも、気にせず蹴りを浴びせた。

中盤には入江にドラゴンスクリューを見舞うと、会場からは大きな拍手が沸き起こった。それでも、約1カ月ぶりの試合とあり、「ちょっと感覚が違った」と納得がいかない様子。敗れたことにも悔しさをみせ「試合数を多くしていかないと、浮足立ってしまっている。(新崎所属の)みちのくプロレスに行って修行でもしようかな」と語った。

今大会で殿堂入りした6人の中で、唯一現役レスラーとしてリングに立つ。「気持ちはいつでも現役。体が続く限りリングに上がりたい」と語る。10月末からはデビュー50周年ツアーが控える藤波。来年10月には殿堂会第2回開催も決定した。これからも歴史と自らのプロレスを後生に伝えていく。【松熊洋介】

作戦を練る左から新崎人生、藤波辰爾、阿部史典、越中詩郎(撮影・中島郁夫)
藤波辰爾(右)にパンチを浴びせる藤原喜明(撮影・中島郁夫)

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猪木氏らがプロレス殿堂入り「元気ですかー」ビデオメッセージで登場

殿堂入りを果たしたアントニオ猪木氏はビデオメッセージで「1・2・3・ダァー!」を披露(撮影・丹羽敏通)

日本プロレス殿堂会主催のプロレス史70周年記念大会「LEGACY」が14日後楽園ホールで行われ、新日本で一時代を築いたアントニオ猪木氏(78)、藤波辰爾(67)、全日本などで活躍した天龍源一郎(71)の殿堂入りが発表された。

藤波は猪木氏と一緒の受賞に「先輩と肩を並べるのはおこがましい」と言いつつも「昭和45年にプロレス界に入るきっかけを作ってくれた。殿堂の賞をまさかいただけるとは思っていなかった」と喜びを語った。

8月29日に退院した猪木氏はビデオメッセージでの登場。「元気ですかー。70周年おめでとうございます。ブラジルに行って、こういう形で入門するとは思わなかったが、これも運命とか宿命だと思う」と元気よくコメント。映像を見た藤波は「今の頑張っている姿を見るとこみ上げてくるものがある」とかみしめた。来場はかなわなかったが、藤波は「仕方ないことだけど、もし入場してくれたら、ファンの人たちも喜んだと思う」。最後は猪木氏に届けと「行くぞー。1、2、3ダー!」と叫び、大会を締めた。

藤波は15年に米団体WWEの殿堂入りを果たした際の豪華なセレモニーに衝撃を受けた。「プロレスをやっていて本当に良かった。日本でもこんな風にレジェンドたちをたたえられたら」。2世たちの力を借り、昨年2月に殿堂会を発足させた。藤波の息子でプロレスラーのLEONA、長州の娘婿の池野氏、天龍の娘の嶋田氏らと活動を始めた。コロナ禍でイベントの中止が続いたが、今年4月に藤波、長州らがトークショーを開催。ようやく第1歩を踏み出し、この日の大会につなげた。「本当はもっと早くするべきだったが、力道山先生が作ってくれたものを残すという意味では、いいスタートになったのでは」と目を細めた。

15日には故・ジャイアント馬場さん、故・ジャンボ鶴田さん、長州力の受賞セレモニーが行われ、藤波はプロレスラーとしてリングに上がる。「ライバルやファンの力があってのこと。自分は体が続く限りプロレスをやっていきたい」と力強く誓った。プロレス界に新たな1ページを刻んだ藤波は、これからもリング上からプロレスの魅力を伝え続ける。【松熊洋介】

殿堂入りを果たしたアントニオ猪木氏のメッセージが会場に流れた(撮影・丹羽敏通)
殿堂入りを果たしてプレゼンターの木村健吾氏(右)と写真に納まる藤波辰爾(撮影・丹羽敏通)
殿堂入りを果たしてプレゼンターの小橋建太氏(右)と写真に納まる天龍源一郎氏(撮影・丹羽敏通)

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退院した猪木氏「顔もふっくら」「元気もらった」藤波辰爾が様子明かす

藤波辰爾(2021年4月3日撮影)

プロレスラーの藤波辰爾(67)が、8月28日に長期間の入院から無事に退院したアントニオ猪木氏(78)の様子について明かした。

同日の猪木氏のユーチューブでは、オンラインで藤波と会話した模様が配信されていた。藤波は「声にも張りがあって元気そうだった。一時は心配だったが顔もふっくらしていた」と印象を語った。入院前は家族ぐるみで食事をするなど交流を続けていた。「(亡くなった)奥様の三回忌のタイミングで本当に良かった。元気を与えるつもりだったけど、元気をもらった」と喜んだ。

今年5月に50周年を迎えた藤波は、10月末からツアーを開催する。「猪木さんにぜひ来てもらって『1、2、3ダー』を言ってもらいたい。サプライズが好きな人だから、みんなを驚かせて欲しい」と来場を期待した。

この日は17日のプロレスリングヒートアップ川崎大会(とどろきアリーナ)での調印式に出席。「今度は自分が元気な姿を猪木さんに見せたい」と意気込んだ。同大会ではユニバーサルとPWLWORLD2冠王者のTAMURAに挑戦する。7月にオファーを受けたが1度は保留。ここ数年はシングルでの対戦をほとんど行っていないだけに「ベルトの価値は重い」と慎重に検討していた。その後8月の大会で息子でプロレスラーのLEONAを通じ、対戦を承諾。「やってきたプロレスは今の時代と違うかもしれないが、彼に合わせる気は一切ない。持っているものをすべて出したい」と語った。昭和のプロレスで勝利し、猪木氏の退院に花を添える。【松熊洋介】

アントニオ猪木氏(2020年2月28日撮影)

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アントニオ猪木氏「元気ですかー!元気が出てきましたよ」退院を力強く報告

公式YouTubeチャンネル「最後の闘魂」に投稿した最新動画で「元気ですかー!!! 1・2・3 ダァーーー!!!」と力強く退院を報告したアントニオ猪木氏(「最後の闘魂」より)

腸捻転の治療などで入院していた、アントニオ猪木氏(78)が28日夜、公式YouTubeチャンネル「最後の闘魂」を更新し、19年8月27日に亡くなった妻田鶴子さんの三回忌を迎えたタイミングで退院し、自宅に戻ったと報告した。

猪木氏は「元気ですかー!!! ということで、元気ですかー! もね、元気が出てきましたよ。私も病院を出たり入ったりしてましたけど、病院から一時退院じゃなくて一応、様子を見ながらということで今、自宅の方に戻ったところで」と力強く退院を報告した。

猪木氏は1月から具合の悪い腰を中心にリハビリを行っていたが、3月7日に投稿した動画で、病院のベッドから「耳の検査だけの予定が、いろいろな病気が分かってきてね」と明かした。5月21日に投稿した動画では「元気ですかー!! 声がね、大分、張り上げて元気ですかー!! が言えるようになりました」と笑みを浮かべ、回復を強調していた。

ところが、6月12日の動画では一転、かなりやせた姿でベッドに横たわり「元気ですかー!! と言いたいんですが、今、あんまり大きな声を出すとね」と苦しげな表情で語った。その上で「腸がはがれちゃったみたいで、また再入院。せっかくいいところまできたんですが」と再入院したことを明かした。関係者によると、5月に腸捻転の手術を受けたものの、患部の具合が良くなかったといい、インターネット上には心配の声が多数、寄せられていた。

猪木氏は入院中、病院の天井を見ることが多いと語っていたが「本当に久しぶりの、天井ばっかり見ていたのがね、皆さんと、ちょっとだけお話が出来るというのが、本当にうれしいです」と自宅に戻ることが出来たことを、心から喜んだ。その上で「食事がとにかくね、おいしいんですよ。食べるものが、みなおいしく感じるんでね、逆に今度は、太り過ぎを気を付けなきゃいかんなと」と、食事もおいしく感じられるほど回復していることを強調した。

一方で「私も一歩前進、二歩前進ということで、皆さんの思いを共有できるように、私も体をしっかり治して。まずは心と体のバランスが崩れちゃっているんでね。頭の中ではね、あっ、これは出来ると思いながら、実際は体が動かなかったりとか。でも、徐々に今、リハビリをやり、元気になってきています」と、頭で思った通りに体が動かない状況であることも吐露。その上で「早くコロナも終われば、また、みな近寄って大きな声でいくぞ! 元気ですかー!!! 1・2・3 ダァーーー!!!」と、首にかけたトレードマークの真っ赤な闘魂タオルの、端を持った右手を突き上げて絶叫した。

また猪木氏は、仏壇に手を合わせる模様や、藤波辰爾(67)とパソコンを通じて、リモートで語り合う様子も公開。藤波に「俺も、この3年、病院を出たり、入ったりだったんだけど、やっと病院から解放された。まだまだ慎重じゃないといけないんだけど…ということで、みんなに会いたいけど(中略)できるだけ早い内に、またそっちに行けるように頑張ります」と呼び掛けた。

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2冠TAMURAの初防衛戦に藤波辰爾 LEONAの”条件”満たし実現へ

ヒートアップ新百合ヶ丘大会 LEONA(左)とTAMURAは試合前に握手をする(撮影・松熊洋介)

<プロレスリング・ヒートアップ新百合ヶ丘大会>◇9日◇新百合21ホール

2冠王者TAMURA(41)から9月の川崎大会(17日、とどろきアリーナ)での初防衛戦の相手に指名され、態度を保留していた藤波辰爾(67)が、受けて立つ意志を示した。

藤波は会場に現れなかったが、息子でプロレスラーのLEONAがリング上で明かした。LEONAは「父とのタイトルマッチを要望していただいてから、タイトルマッチのあるべき姿を、父なりに考えててここまでやってきた」と話した。さらに「父が参戦するにはもう1つ条件がある。今から僕と試合をして(僕から)勝利を収めること。僕だってそのベルトを狙っている」と、その場でTAMURAとのシングルマッチが始まった。

藤波は指名を受け、7月17日にヒートアップのジムを訪れるも「ここで即答はできない」と調印書にサインせず、態度を保留。TAMURAから何度も頭を下げられたが、首を縦に振らなかった。「入門して以来、猪木さんや馬場さんのベルトに触れることすらできなかった。それだけベルトは重いもの」。藤波自身でしっかり考え、この日に何らかの回答をすることをほのめかしていた。

試合ではTAMURAが逆さ押さえ込みでLEONAから勝利。これにより藤波の正式参戦が決まった。TAMURAは「直接交渉していたけど、LEONAも一緒になって説得に当たってくれた。プロレス人生すべてをかけて勝ちたい」と気合を入れた。9月17日、久しぶりのシングルのタイトルマッチとなる藤波がいよいよ登場する。

ヒートアップ新百合ヶ丘大会 9月17日大会での藤波辰爾参戦を発表するLEONA(左)。右は2冠王者のTAMURA(撮影・松熊洋介)

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藤波辰爾、TAMURAとの対戦を保留も8・9大会で「答え出したい」

TAMURA(左から4人目)らヒートアップの選手たちが見つめる中、会見を行う藤波辰爾(右)(撮影・松熊洋介)

決断は持ち越された。プロレスリングヒートアップのユニバーサル&PWL WORLD2冠王者TAMURA(41)から初防衛戦の相手に指名された藤波辰爾(67)が17日、川崎市のヒートアップ道場に登場。TAMURAと並んで会見に臨むも、「ここで即答はできない」と調印書のサインに応じなかった。

笑顔はなく、真剣な表情で話す藤波の姿に、穏やかな会見が一転、張り詰めた空気に変わった。11日の試合後、2冠を奪取したTAMURAが「9月17日とどろきアリーナ大会で藤波選手と対戦したい」と突然リング上で宣言。伝え聞いた藤波は返答を保留していたが、この日も「大事な試合に自分の名前を出してくれたのは光栄」と思いを受け止めながらも、首を縦に振ることはなかった。

後ろ向きな保留ではない。「8月(9日)の大会には出場する。その時に自分も何らかの答えを出したい」と語った。TAMURAのベルトに対する覚悟を確かめたかった。「即答できないというのは、この問題を大きなものとして考えているから」と藤波自身もコンディションなどを考えた上で決断をしたい意向を明かした。

ベルトへの思いは誰よりも強い。「昭和45年に入門して以来、猪木さんや馬場さんのベルトに触れることすらできなかった。それだけベルトは重いもの」。88年8月、当時新日本のIWGP王者だった藤波は師匠でもあるアントニオ猪木氏の挑戦を受けた。「教え子に挑戦しなきゃいけないというのは、猪木さんもプライドもあっただろうし、勇気を持った大きな決断だったと思う」。結果は60分戦って引き分けだったが「長いプロレス人生の中で一番印象に残っている試合」と語る。今回のTAMURAの要求も当時の自身の思いと重ね合わせ「簡単な問題じゃない」と真剣な表情で語った。

最後はヒートアップの選手たちが登場し、次々とお願い。TAMURAからも「とどろきはたくさんの人に見てもらいたい。そのためには早くタイトルマッチを決めたい」と再度念を押されたが、受け入れなかった。「本来なら電話で済む話かもしれない。でもそれはしたくなかった。ベルトにかける思い、とどろきアリーナ大会にかける熱意は伝わった。だからといってサインしましょう、とはいかない」と改めて強調した。

今年デビュー50周年を迎えた藤波。ベルト挑戦となれば約20年ぶりで、最近では体調も考慮し、シングルマッチも行っていない。「久しぶりに会見や、調印書を見てちょっと緊張した」。決断は8月に持ち越しとなった。「僕も大会を主催する側の人間。気持ちは非常によく分かる。やりたくないわけではない。TAMURAの覚悟をリング上で見たい。自分も50周年で節目の戦い。それだけ重いものがある。8月まで待ってもらえますか」。最後にようやく笑顔を見せ、会場を後にした。果たしてタイトルマッチは実現するのか。藤波の答えは8月9日に明かされる。【松熊洋介】

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藤波辰爾、王者TAMURAの初防衛戦での対戦要求に「まだ早い」態度保留

プロレスリングヒートアップのユニバーサル&PWL WORLD2冠王者TAMURA(41)から初防衛戦の相手に指名された藤波辰爾(67)が、日刊スポーツの取材に応じ「お前の挑戦なんてまだ早い」と態度を保留した。

TAMURAは、11日のヒートアップの大会で、ベルト奪取後に「とどろきアリーナでこのベルトを掛けて戦いたい相手がいる。藤波選手とやりたい」と明かし、9月17日大会(川崎・とどろきアリーナ)での対戦を要求していた。

これまで何度もヒートアップのリングに上がっている藤波。14年にはシングルマッチで対戦経験があり、18年にはTAMURAと組んでユニバーサルタッグ王者にも輝き、2度の防衛に成功している。

それでも近年は痛めている腰の影響もあって、シングルマッチには参戦していない。5月にデビュー50周年を迎えたこともあり、秋にはツアーを開催予定。「シングルはここぞ、という時に取っておきたい」と明かしており、体調も考慮し、慎重に答えを出したい考えだ。

現在返答は保留中だという藤波だが、もし対戦が実現すれば、シングルマッチのタイトル挑戦では、01年12月の新日本IWGPヘビー級で王者武藤に敗れて以来、20年ぶり。タイトル獲得なら、98年の同王者戴冠以来23年ぶりとなる。

ヒートアップでは昨年12月に、元SPEED今井絵理子参院議員の息子である礼夢がデビューし、注目度も上がっている。そんな中、TAMURAは「とどろきアリーナはヒートアップを世間にアピールする絶好の場。無謀な挑戦だと分かっているが、コロナ禍の中で、藤波さんに参戦してもらって、元気を与えてもらいたい」と、藤波戦での初防衛に意欲を見せる。

現在藤波は腰の状態は改善しており「試合をすることで調子を維持している。もっと試合に出たい」と前向きな姿勢も見せている。

TAMURAが突然発表したレジェンドへの挑戦状。藤波は「もしやったとしても、俺が勝つのは明らか」と強気な姿勢を見せる。参戦は果たして実現するのか。藤波の決断に注目が集まる。【松熊洋介】

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ホーガンの好敵手 オーンドーフさん死去、71歳 80年代に新日本で活躍

80年代に新日本プロレスに参戦したポール・オーンドーフ(本名ポール・パーレット・オーンドーフ・ジュニア)さんが米ジョージア州フェイエットビルで死去した。

12日(日本時間13日)、WWEなどが発表した。71歳だった。死因は明らかにされていない。アメフト選手として活躍し、76年にプロレスラーとしてデビュー。80年10月に新日本で初来日し、長州力、藤波辰爾、アントニオ猪木と対戦した。83年4月には前田日明の欧州からの凱旋(がいせん)試合の対戦相手を務めた。

83年にはWWF(現WWE)に参戦し「ミスターワンダフル」の愛称でハルク・ホーガンのライバルとして抗争を繰り広げ、リングで躍動。85年の祭典レッスルマニア1大会ではメインイベントで、ロディ・パイパーと組み、ホーガン、ミスターT組と対戦した。ボディービルダー並みの肉体に「鋼鉄男」とも呼ばれ、人気を博した。00年には現役引退し、05年にはWWE殿堂入りも果たしていた。

ライバルだったホーガンは「オーンドーフの死去のニュースに打ちのめされた。ブラザーのご冥福をお祈りします。我々の試合はすべてあなたのおかげで好ファイトになった。愛している、ありがとう。天国はさらにワンダフルなものになるだろう」などと公式SNSにつづり、故人をしのんだ。

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TAMURAが2冠奪取、初防衛戦に藤波辰爾を指名「昨日思いついた」

試合後、新井健一郎(左)と握手を交わすTAMURA(撮影・松熊洋介)

<プロレスリングヒートアップ:新百合ケ丘大会>◇11日◇新百合トゥエンティワンホール

「ドラゴン」に挑戦状をたたきつけた。11日プロレスリングヒートアップ新百合ケ丘大会で、TAMURA(41)が、新井健一郎(48)との対決を制し、ユニバーサル&PWL WORLD2冠王者に輝いた。

試合後「藤波選手と戦いたい」と9月17日大会(川崎・とどろきアリーナ)での初防衛戦の相手に、藤波辰爾(67)を指名。藤波は18年に腰の手術を行ったこともあり、最近はシングルへの参戦はほとんどしていない。「昨日思いついたので、何も言ってないけど、デビュー50周年を迎えた藤波さんとベルトをかけてやりたい」。藤波は挑戦を受けるのか。決断に注目が集まる。

試合後に大会を締めるTAMURA(中央)らヒートアップの選手たち。右から2人目は今井礼夢(撮影・松熊洋介)

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藤原喜明「復帰したときの相手は私」師匠アントニオ猪木との“再戦”熱望

トークショーを行った藤波辰爾(左)と藤原喜明(撮影・松熊洋介)

プロレスラーの藤原喜明(72)が、師匠であるアントニオ猪木(78)との“再戦”を熱望した。

4日、藤波辰爾(67)とのトークショーの前に日刊スポーツの取材に応じ「復帰したときの相手は私でしょう。ぜひ対戦したい」と心待ちにした。数年前に猪木から病状を聞いていたという藤原。昨年3月に会ったときには元気な姿を見せていたという。最近は会っていないが、先日ユーチューブでアップされた猪木の様子は見たといい「早く元気になって欲しい」とエールを送った。

藤原は入門後、猪木のスパーリングパートナーにも抜てきされ、海外遠征にも同行。カバン持ちをしながら、毎日練習をともにし、技術を身に付けてきた。「(猪木さんは)練習が好きで朝早かった。自分は走るのが嫌いだったのによく走らされた」。試合後には酒を酌み交わしながらいろんな話を聞き、技術や知識を習得していった。「練習ではあまり話せないから、食事の時に酔っぱらったフリをしてよく絡んでいた」と話した。

「プロレスは戦いである」という精神のもとに現在もリングに上がり続ける藤原。07年に胃がんを患い、手術。ステージ3で5年での生存率40%と宣告された。その後復帰したが、抗がん剤治療で筋肉が大きくならず、苦しい時期が続いたという。それでも現在は半年に1度の検査では毎回良好で「医者からは、悪いところが1つもないから、つまんないと言われてるよ」と笑い飛ばす。大好きなお酒も毎日飲んでいるという。現在はタレント活動も行いながら、リングでも戦い続ける。「今があるのは猪木さんのおかげ。本当に感謝しかない」と話す。

下ネタ話も絶口調。若いころには遠征先の旅館で佐山聡らと女風呂をのぞいたり。「いたずらなんだよね」と笑顔を見せる。「1回死んでいるからな。もし死ぬならリングか女の腹の上がいい」。オファーがある限りリングに上がり続ける。「生」と「性」。心も体も元気いっぱいの「昭和のテロリスト」は、これからもリングで暴れ続ける。【松熊洋介】

■トークショーご招待

【カイリ・セイン(WWE)1人トークイベント「海賊姫が往く」ただいま、大阪! 海賊姫、関西帰着】(11日13時、大阪・梅田スカイビル スペース36L)に「リングにかける」読者5名様をご招待します!

【応募方法】 タイトルに「日刊スポーツチケットプレゼント(7/11)」と明記の上、名前、住所(市区町村まで)年齢、電話番号をご記入ください。

【締め切り】 7月8日(木)午前9時まで

【応募先】 メールで「(株)シャイニング イベント運営事務局」info@shining-event.sakura.ne.jpまでご応募ください。(※上記アドレスからのメールが受信できる設定・環境でご応募ください)。

【注意事項】出演選手が負傷その他理由により欠場、またイベントが中止、延期する場合がございます。 また上記イベントの特設サイトはhttp://shining-event.sakura.ne.jp/210711/となっておりますので、こちらをご覧ください。

当選発表・賞品受け取り方法などは、同事務局からの返信にて代えさせていただきます。(※個人情報は、同運営事務局が取り扱います)。

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藤波辰彌×藤原喜明トークショー、3日に猪木と電話「元気そうだった」藤波

トークショーを行った藤波辰爾(左)と藤原喜明(撮影・松熊洋介)

プロレスラーの藤波辰爾(67)が病気療養中のアントニオ猪木(78)に「一時も早く元気になってもらいたい」とエールを送った。

4日、都内で「組長」こと藤原喜明(72)とトークショーに参加した藤波は、前日3日に猪木と電話で話したことを明かした。「昨日(3日)夕方に話をした。とても元気そうだった。(病院の)食事がおいしくないと言っていたので、何かお持ちしましょうか? と話した」。これまでも定期的に電話をしていたという。最近は会うことができていないが、猪木が配信したユーチューブを見て元気にな姿を確認している。藤原も師匠である猪木に「元気になって欲しい」とエールを送った。1年ほど前に会った時には元気な姿を見せていたという。

藤波は猪木の付き人を、藤原はスパーリングパートナーを務めたこともあり、この日のトークショーでは猪木との“思い出”にも言及。選手の中で1番殴られたと言われる藤波は「ある地方大会で、後輩が音楽をかけて練習していたことがあって、気に障ったのか、その時にたまたまあいさつに行った自分が運悪く殴られた」。それでも「巡業が長引くと練習がだらけてくるから引き締めたかったんだと思う」と振り返る。藤原は「(猪木さんは)練習が好きで朝早かった。自分は走るのが嫌いだったのによく走らされた。練習ではあまり話せないから、食事の時に酔っ払ったフリをしてよく絡んでいた」と話した。さらに「昔は夜中11時ごろによく電話がかかってきて、六本木に連れ出された」とエピソードを明かした。

厳しい練習や走り込みをさせられ、試合後には酒を酌み交わしながらいろんな話を聞き、技術や知識を習得していった。時にはやんちゃもしたが「いい時代だった」と振り返る。藤波も藤原も、元気に復活し、再びリングに上がる猪木の姿を待ち望む。【松熊洋介】

プロレスIWGPヘビー級選手権  藤波辰巳(上)にアルゼンチンバックブリーカーを決めるアントニオ猪木(1988年8月8日撮影)
新日本愛知大会で藤原喜明(右)にスリーパーホールドを決めるアントニオ猪木(1995年3月19日撮影)

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【藤波辰爾50周年連載6】67歳引退はしない 受け継いだ魂を残していく

9日にデビュー50周年を迎えた藤波辰爾(撮影・松熊洋介)

<藤波辰爾のプロレス人生50年(6)>

プロレスラーの藤波辰爾(67)はリングに上がり続ける。9日にデビュー50周年を迎えたが、引退の2文字はない。「体が動く限りリングに上がりたい」と情熱は衰えない。連載最終回は「生涯現役」【取材・構成=松熊洋介】

50年を振り返った藤波は「いろんな人と話をするとよみがえってくるので年月は感じる。いろんな状況を見てきて、いい経験をさせてもらっている」と語る。89年のベイダー戦で腰を痛め長期離脱を強いられた。歩くのも困難で「選手生命が終わった」と引退もよぎったが、奇跡的に回復した。1年半後に復帰し、痛み止めを飲みながら二十数年戦い続けた。恐怖から手術をためらってきたが、6年前にメスを入れ、ようやく不安を取り除いた。

藤波 試合中はアドレナリンが出ていたので、分からなかったが、終わってからは痛みが出ていた。レントゲンでは首の骨とか頸椎(けいつい)がゆがんでいる。正常な状態で(リングに)上がっている人はいないのかなと。

それでも戦い続けるのは「プロレスが好きだから」。コロナ禍で試合の機会が減り、物足りなさを感じている。全盛期のパフォーマンスを披露するのは難しいが、気持ちだけは当時と変わっていない。

藤波 いい時を記憶しているから、思うように体が反応しないのがもどかしい。若い時は体が反応していたけど、今は「せーの」って言わないと体が付いてこないのが情けないなあ。

リングに上がることが健康のバローメーター。今でも週の半分以上はジムに通い、体を維持している。息子でプロレスラーの怜於南(れおな)とトレーニングをすることもあり、若い人を見ると張り合いたくなるという。

藤波 恥ずかしい姿ではリングに上がれない。負けてられないと意地を張ってしまう。息子は肌つやが違うし、うらやましい。風呂上がりでも水がはじくけど、自分は染み込んでいく感じ(笑い)。周りからは「もう60歳過ぎてるし、若い人と同じことやってたら化け物ですよ」と言われる。でももっと動けると思っているし、オファーがあればいつでも準備できている。

4月には久しぶりにドラディションを開催。人数制限こそあったが、コミュニケーションを大事にしてきた昔からの手法で自らもお客さんに声を掛け、ほとんど手売りでチケットを完売させた。10月からは50周年ツアーで全国を回る。

藤波 各地に思い出がある。レジェンドバスツアーとかいいね。つえをつきながらでもやってみたい。リングに上がったらあちこちばんそうこう貼って出てくるみたいな。それぐらいになるまで上がってみたい。

67歳。引退は考えていない。「リングに上がれば勝負ですから」と対抗心を燃やす息子との対戦は最後まで取っておくつもりだ。

藤波 70歳では間違いなくリングに立っている。(息子とは)今だったら負けない。知らない間にすごい差がついてたらどうしようと思うことはあるけどね。

最後に夢を聞いてみた。

藤波 昔、力道山先生が作ったリキ・スポーツパレスというのがあったが、そんなプロレスの歴史が全部詰まった会場を作って、そこでみんなを集めて試合をしたい。力道山先生が亡くなった後に猪木さん、馬場さんが魂を受け継いだ。馬場さんが亡くなり、プロレスラーのトーンが下がった部分もあった。これからは僕らがそれを後世に残していかないといけない。

藤波はこれからもリングに上で躍動し続け、レジェンドたちから受け継いだ魂を残していく。(おわり)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

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【藤波辰爾50周年連載5】プロレスの証しを残す「殿堂会」を設立

WWEに殿堂入りしリング上であいさつする藤波辰爾(2015年7月3日撮影)

<藤波辰爾のプロレス人生50年(5)>

プロレスラー藤波辰爾(67)は2015年、アントニオ猪木以来となる日本人2人目のWWE殿堂入りを果たした。今月9日にはデビュー50周年を迎えたばかり。プロレス人生を振り返る連載第5回は、レジェンドたちの偉業の継承。【取材・構成=松熊洋介】

夢のような時間だった。15年のある日の夜中、自宅にいた藤波はWWEからの電話で、殿堂入りの知らせを受けた。妻・伽織さんと2人で招待された。毎年各都市の招致合戦が繰り広げられるほどの大イベント。空港に降り立つと、カリフォルニア州・サンノゼの街全体が祝福ムードに包まれていた。殿堂入りの英雄たちの垂れ幕が掲げられ、ホテルまではパトカー10台以上に先導されて向かった。

藤波 国賓級の扱いだった。今思い出しても鳥肌が立つくらい。プロレスラーになってこんなことがあるのかと…。長くやっていてよかったなあと思った。

選手だけでなくプロレス界に貢献した人物も対象で、13年には前米大統領のドナルド・トランプ氏なども表彰されている。セレモニーで藤波の隣にいたのは、元カリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツェネッガーだった。ライバルだったフレアーに紹介され、藤波はタキシード姿で登壇した。「すべての人々、WWEへこの名誉に対し感謝します。61歳で、43年間戦い続け、まだ戦っています。これは私の使命。私をサポートしてくれた家族に感謝したい」と英語でスピーチ。数万人が詰め掛けた会場は大歓声に包まれた。翌日にはMLBサンフランシスコ・ジャイアンツの球場でリングに上がり、大観衆の前でプロレスを披露した。

藤波 昨年は獣神サンダー・ライガーが殿堂入りした。将来的にはコラボして、日本でも開催されるような時代が来ればいい。こういうのを知ってしまうと、みんな目指すべきだろうと。日本のプロレスラーたちも目指す欲を持って欲しい。

昨年2月、「日本のレジェンドたちの功績をたたえたい」と天龍や長州らと「日本プロレス殿堂会」を設立。コロナ禍でなかなか動けなかったが、今年4月、小橋、田上らとトークショーを行い、活動をスタートさせた。

藤波 僕らが殿堂入りしたいわけではなくて、猪木さんとか、させなきゃいけない人のためにそういう組織をつくらないといけないと思って。プロレス界は、なかなか横のつながりがなかったが、どこかで作っておかないと自分たちが生きてきた証しがなくなっちゃうんじゃないかと。

故ジャイアント馬場さんや猪木らの時代をともにしてきた。先輩から学んできたものを後世に伝える使命があると考える。

藤波 誰かが言い伝えていかないと。今でも当時の光景が頭に浮かぶ。今の選手たちに、あれだけ繁栄した時代があったんだよと思い出を残しておきたい。

現役としてリングに立つ一方で、プロレスの証しを残そうと動きだした。50周年を迎えたが、残りのプロレス人生、藤波にはまだやるべきことが残っている。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付け人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

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【藤波辰爾50周年連載4】カール・ゴッチさんから指導受け学んだこと

新日本プロレス旗揚げ戦でカール・ゴッチさん(中央)に手を上げられるアントニオ猪木(1972年3月6日撮影)

プロレスラー藤波辰爾(67)が9日にデビュー50周年を迎えた。連載第4回は、「プロレスの神様」カール・ゴッチさんから学んだこと。海外修業中、自宅に住み込みながら指導を受け、WWWF(現WWE)でのブレークにつながった。【取材・構成=松熊洋介】

藤波のプロレス人生に、猪木ともう1人欠かせない人物がいる。07年に亡くなった故・カール・ゴッチさん。61年、日本プロレスのワールド・リーグ戦で初来日。自ら編み出したジャーマン・スープレックス(原爆固め)を日本に広め、アントニオ猪木、藤波辰爾らを輩出するなど、日本プロレス界の「育ての親」だった。米国へ戻ってからも米フロリダの道場で佐山サトル、前田日明らを指導するなど、功績を残した。

藤波も入門当初からゴッチさんの指導を受けた。ドイツ人ながら、礼儀や作法に厳しく、関節技やパフォーマンスよりも、力と力のぶつかり合いで相手を倒すパワフルなプロレスを重視。小さくても戦える技術と体作りを徹底してたたき込まれた。新日本プロレス4年目の75年にドイツに遠征。その後米国に渡り、ゴッチさんの自宅に約1年間住み込んで修業した。

藤波 朝練習して、掃除や草むしりなどお手伝いをしながら修業を続けた。そもそも格闘技は知らなかったので、技術的なことも含め、プロレスのイロハをすべて教えてもらった。自宅に住み込んで一緒に修業したのは自分だけだったと思う。

当時は全日本と違って、新日本と米プロレス団体NWAとの交流はなかった。そんな中、藤波はゴッチさんのはからいで米国やメキシコの試合に参戦。その後の新日本の米国参入のさきがけとなった。78年1月にはニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデン(以下MSG)でWWWFジュニアヘビー級王座に挑戦。王者カルロス・ホセ・エストラーダをドラゴン・スープレックスで破って第3代王者に輝いた。米国の多くのファンに「フジナミ」の名を知らしめた瞬間だった。

藤波 ゴッチさんと一緒にやっていたということもあって推薦してもらったし、やっていけるという後押しにもなった。

その後帰国した藤波は、日本でのドラゴンブームで女性や子どものファンをとりこにし、一時代を築いた。礎を作ってくれたのはゴッチさんだった。

ゴッチさんは、日本と海外の懸け橋となって新日本の立ち上げにも携わった。

藤波 新日本旗揚げの立役者。ゴッチさんがいなかったら新日本プロレスは存在していない。

藤波はベビーフェイスで、日本でもWWEでもファンに愛された。妻・伽織さんとの結婚発表は、MSGの大観衆の前で発表されるほどの人気だった。米国で確たる地位を築き、今度は自分が懸け橋となって両団体の交流に尽力した。長きにわたる功績が評価され、15年には猪木に続く日本人2人目のWWE殿堂入りを果たした。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

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【藤波辰爾50周年連載3】今でも緊張で直立不動…アントニオ猪木と50年

新日本IWGPヘビー級選手権 試合後、王者藤波辰爾(左)と祝杯をあげるアントニオ猪木(1988年8月8日撮影)

プロレスラーの藤波辰爾(67)が9日、デビュー50周年を迎えた。連載第3回は、アントニオ猪木との50年。入門時から家族よりも長い時間をともにしてきた師匠は、藤波にとって今でもかけがえのない存在だ。【取材・構成=松熊洋介】

藤波は日本プロレス入門から半年後、除名された猪木と一緒に脱退、翌年の新日本旗揚げに参加した。「今の新日本を作っている」という当時の猪木の練習はとにかく厳しかった。年200日以上の試合をこなしながら、練習も手を抜くことは許さなかった。つまらないパフォーマンスをすれば、試合中でもリングに乱入してきて殴られた。試合前に角材で殴られ、流血しながらリングに上がったこともあったという。藤波が78年に海外から帰国し、「ドラゴンブーム」の人気絶頂時でも、全体に気合を入れるための見せしめとして、殴られ続けた。

藤波 試合を止めることもよくあった。お客さんはただ猪木さんが乱入してきただけだと思っていて、実際には何が起こっているのか分かっていない。相手のことよりも、いつ猪木さんが控室から竹刀を持ってやってくるか、びくびくしながら試合をしていた。馬場さんの全日本に負けるな、というのもあったと思う。

ファンの目も肥えていき、つまらない試合には容赦なくヤジが飛んだ。ファン同士のケンカも日常茶飯事だった。

藤波 リングに上がったら鳥肌が立って、ぞくぞくしていた。緊張感で殺気立っていたし、試合前に控室で相手と話したり、笑ったりすることもなかった。

練習や試合後は毎日のように猪木と食事をともにした。「昼間殴られていても関係なかった」と猪木の周りに集まり、故・力道山など昔の話を聞き入った。朝でも夜中でも走る猪木について行き、一緒にトレーニングした。朝まで飲み明かしたり、羽目を外す選手もたまにはいたが、藤波含め、ほとんどの選手は厳しい練習の疲れを取るために休養を優先していた。

藤波 一番上の人が1番練習するから僕らも休むことができない。みんな気が張ってダラダラしていられなかった。

猪木の「お客さんから金をとれる体を作れ」という教えを守り、プロレスラーとして長くリングに上がる体を作り上げた。日本プロレス入門から半世紀以上の付き合いになる猪木とは、引退後も交流は続く。2年ほど前まで毎月1回、夫婦で食事会をしていた。猪木の前では今でも緊張して直立不動になることもあるという。

藤波 妻は「お互いに良い年なのに」と不思議がるが、50年たっても関係性は変わらない。僕にとっては永遠の師匠。

今の藤波のプロレスを作ったのは間違いなく猪木の存在が大きいが、実はもう1人、50年現役の藤波にとって「今の自分がいるのは彼のおかげ」という男がいた。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

アントニオ猪木(下)に卍固めを見舞う藤波辰爾(1988年8月8日撮影)
藤波辰爾(右)に闘魂注入したアントニオ猪木(2019年4月26日撮影)

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【藤波辰爾50周年連載2】北沢幹之氏との出会いがプロレス人生の始まり

19年4月、恒例の「ダーッ!」を決める、左から越中詩郎、坂口征二氏、アントニオ猪木氏、長井満也、北沢幹之氏、獣神サンダー・ライガー、藤波辰爾

<藤波辰爾のプロレス人生50年(2)>

プロレスラーの藤波辰爾(67)が9日にデビュー50周年を迎える。「藤波辰爾のプロレス人生50年」第2回は、プロレスとの出会いについて。同郷の先輩、北沢幹之氏と苦労の末に出会ったことが、藤波のプロレス人生の始まりだった。【取材・構成=松熊洋介】

藤波は陸上部だった中学時代、テレビを見てプロレスラーへのあこがれを抱いた。親に内緒で実家のある大分・東国東郡(現・国東市)から、大分市内へプロレスを見に行っていた。チケットは市内で働いていた兄が用意してくれた。頭の中はプロレスでいっぱい。自転車で約4時間。山越えの険しい砂利道も全く苦にならなかったという。

藤波 ただプロレスが見たいという一心で勇気を振り絞って。たまに学校をサボって行ったこともあるくらい(笑い)。親には怒られたが、授業のことなんか頭になかった。今から思えばよく行ったなと。

興味とは反対にケンカは嫌いだった。体が大きくいじめには遭わなかったが、痛いのが嫌で、学校での柔道ですら怖かったという。中学卒業後、工場で働いていたが「プロレスラーに会いたい」という欲求を押さえきれず、自ら行動に出た。同郷の北沢氏が足の療養で別府温泉に来ていることを聞き付け、探しに行った。兄と旅館を何十軒も歩き回り、やっとのことで北沢と対面した。

藤波 プロレスラーは怖いイメージがあったから、兄についてきてもらった。(北沢は)小さい方だったけど、大きく見えたなあ。足も震えていた。あの熱意は今でも不思議に思う。何かに取りつかれていたような感じだった。

藤波の熱意に北沢が応え、一緒に上京した。格闘技をやる性格でないことは親も承知。意志を伝えると驚かれ、反対されたが、押し切った。日本プロレスの門をたたいた。周りは相撲や柔道、格闘技の経験がある猛者ばかり。正式な入門もしていない藤波は当時、第一線で活躍していたアントニオ猪木に出会う。初めて聞いた猪木の言葉は「おい北沢、あいつ誰だ?」だった。北沢氏が「同じ田舎のプロレス好きで、猪木さんのファンだから連れて来たんです」と紹介してくれた。

藤波 相撲部だったら親方がスカウトしてくれる。プロレスは大衆化していないので、よほどケンカが強いか、柔道の有段者とかしか入って来られなかった。自分は異例中の異例だった。

「北沢さんに会ってなかったら今の自分はない」。心優しい藤波少年の熱い思いが運命の出会いを呼び、夢の実現につながった。日本プロレス入門後、家族以上の付き合いとなる猪木の厳しい指導が始まる。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し凱旋(がいせん)帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

72年、新日本プロレスを設立したアントニオ猪木(左から2人目)は世田谷区の自宅を道場に改装し、道場開きを行う。右端は18歳の藤波
72年、新日本旗揚げ当時の藤波

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【藤波辰爾50周年連載1】78年飛龍原爆固めで初戴冠「ドラゴン」ブーム

78年、WWWFジュニア王座タイトルマッチで剛竜馬(後方)をやぶり、王座を防衛しベルトとトロフィーを掲げる藤波

<藤波辰爾のプロレス人生50年(1)>

プロレスラーの藤波辰爾(67)が9日にデビュー50周年を迎える。新日本プロレスを立ち上げから支え、99年には社長にも就任。低迷期を乗り越え、1度も引退することなく、現在でもリングに立ち続ける。日刊スポーツでは「藤波辰爾のプロレス人生50年」と題して、6回にわたり連載する。第1回はプロレスラー藤波辰爾。【取材・構成=松熊洋介】

★必殺技「ドラゴン・スープレックス・ホールド(飛龍原爆固め)」 1978年(昭53)1月23日、無名ながらWWWF(現WWE)ジュニアヘビー級王座を獲得。王者エストラーダにフルネルソンを決めたまま、原爆固めの要領で後方に投げ、そのままフォールした。

★「ドラゴン」ブーム 78年の王座獲得で一気にスターダムに。日本でも女性や子供のファンを獲得。ジュニアながら、ブルース・リーをほうふつさせる肉体美、軽快な動きから名前の「辰=龍」にちなんだ「ドラゴン」ブームを巻き起こした。

★「オレはお前のかませ犬じゃねえ」 81年にはヘビー級転向。82年からは「飛龍十番勝負」でホーガン、ブッチャーらと戦った。同10月には長州との抗争が勃発。「オレはお前のかませ犬じゃねえ」という暴言を吐かれ、大乱闘。その後も感情むき出しの“ケンカ”が続いた。

★師匠アントニオ猪木との激戦 85年12月のIWGPタッグ・リーグ優勝戦でも、この大技で師匠アントニオ猪木からフォールを奪った。88年にはIWGPヘビー級の防衛戦に猪木が挑戦、60分間戦った末に引き分けた。

★ケガとの戦い 89年にベイダーとの一戦で腰を負傷。選手生命の危機に立たされた。「立って歩けないくらいくらいになった」。1年半後に復帰も、痛み止めを飲みながらの戦いはその後も続いた。93年にはG1クライマックス、94年にはIWGPヘビー級王座を獲得。

★社長就任 99年に新日本プロレスの社長に就任し、第一戦から退いた。格闘技ブームや他団体の盛況もある中で低迷期を支え続けてきた。04年に社長を辞任。06年に新日本を退団する。

★現在 「ドラディション」を立ち上げ、11年には長州らと「レジェンド・ザ・プロレスリング」も旗揚げ。15年3月には、猪木に次いで日本人2人目となるWWE殿堂入りを果たした。昨年からは「日本プロレス殿堂会」を発足させて、後世の育成にも尽力する。「50年という感じはしないが、いろんな人と話をするとよみがえってくるので年月は感じる。いろんな歴史を見てきた中でいい経験をさせてもらっている」と話した。

第2回は、波瀾(はらん)万丈の人生を歩む藤波のプロレスとの出会いに迫る。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し凱旋(がいせん)帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

83年10月26日、タッグ戦で長州力(下)に逆サソリ固めで攻める藤波
83年11月19日、新日本プロレス千葉大会でリングに上がった左から藤波、アントニオ猪木、ハルク・ホーガン

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