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輝が地元で大歓声浴び発奮 輪島さん一周忌に責任感

地元七尾市での巡業で申し合い稽古に参加する輝(撮影・佐藤礼征)

大相撲秋巡業が5日、石川・七尾市で始まり、七尾市出身の前頭輝(25=高田川)が地元の観客を盛り上げた。幕内力士による申し合い稽古では、しこ名をアナウンスされると大歓声を浴び「予想以上に声援が大きくて頑張ろうと思えた」と発奮。平幕の碧山、松鳳山らと計11番取って7勝と存在感を放った。

3日後の10月8日が第54代横綱の輪島大士さん(本名・輪島博)の一周忌。遠縁に当たる輝は「僕も名前(大士)をいただいたので、その名前に恥じないように頑張りたい」と、責任感を口にした。

大器として期待されながら、ここ数場所は幕内下位を抜け出せていないだけに「足踏みをしている。もっと地力をつけないといけない」と静かに闘志を燃やした。押し相撲が武器だが、最近は「土俵際で攻めるときの安定性をつけたい」と、差して寄る相撲にも取り組んでいる。最高位は前頭4枚目。「早く上位に戻っていろんな人と対戦したい」と話した。

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具志堅用高氏「よく銀座や赤坂に」輪島さんしのぶ

輪島大士さんの告別式に参列する具志堅氏(撮影・横山健太)

大相撲の元横綱で、下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱のため、8日に70歳で亡くなった輪島大士さんの葬儀が15日、東京・青山葬儀所で営まれ、ボクシングの元WBA世界ライトフライ級王者の具志堅用高氏が参列した。

同氏が世界王者、輪島さんが横綱という、ともに全盛期から交流があったという。中でも夜中に呼び出され、具志堅氏が減量中にもかかわらず、大きなおにぎりを食べるよう、半ば強引に勧めてくるような、豪快な性格が強烈に印象に残っているという。「よく銀座や赤坂に呼び出されましたよ。しゃぶしゃぶとかも連れて行ってもらった。相撲も何回か見に行っています。さみしいね」と、故人をしのんでいた。

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輪島さん最期は「静かに眠るように」留美夫人明かす

輪島大士さんの遺影を手に一礼する、左から長男の大地さん、長女、妻の留美さん(撮影・横山健太)

大相撲の元横綱で、下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱のため、8日に70歳で亡くなった輪島大士さんの葬儀が15日、東京・青山葬儀所で営まれ、妻留美さんが喪主あいさつを行った。

亡くなった時の様子として「最後は、主人は自宅のソファでテレビを見ながら静かに眠るように、座ったまま亡くなっておりました」と明かした。続けて「ご迷惑をおかけすることも多かった人生ですが、最後は1人で誰にも迷惑をかけず、静かにとてもいい顔で眠っておりました。とてもにぎやかなことが好きだった人なので、本日、皆さまにお集まりいただき、さぞ喜んでいることと存じます」と、涙をすすりながら話していた。

クラクションの合図で輪島大士さんの大相撲での通算勝利数である673個の風船が空に舞い上がる(撮影・横山健太)

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北の富士氏「華があった横綱でした」輪島さん悼む

輪島さんの告別式に参列する北の富士氏(撮影・横山健太)

下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱のため、8日に70歳で亡くなった、大相撲の元横綱で、プロレスラーやタレントとしても活躍した輪島大士さんの葬儀・告別式が15日、東京・青山葬儀所で営まれた。日本相撲協会の八角理事長(元横綱北勝海)、NHK解説者の北の富士勝昭氏、プロ野球巨人の原辰徳前監督、好角家のデーモン閣下ら約500人が参列した。

輪島さんと現役時代に対戦して通算7勝5敗と勝ち越した北の富士氏は「一番取りにくい力士でした」と振り返った。輪島さんの代名詞となった「黄金の左」の強さはもちろんのこと「右からのおっつけが効いた。あれは素晴らしかった。同じ左四つでこっちが十分になっても相手はもっと十分だった。足腰も強かった」と話した。

輪島さんは現役引退後に花籠部屋を継承するも、年寄名跡担保問題で相撲協会を退職。その後はプロレスラーに転向し、アメリカンフットボールの学生援護会総監督やタレント活動も行った。波瀾(はらん)万丈人生を送った輪島さんを、北の富士氏は「北の湖相手に14回も優勝するのはすごいこと。華があった横綱でした。いろいろあったけどそれも含めて話題性のあった力士でした」としのんだ。

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輪島さん最後の“土俵入り”格好良かった遺影勇姿

土俵をかたどった祭壇に置かれた輪島さんの棺と遺影(撮影・中島郁夫)

下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱のため、8日に70歳で亡くなった、大相撲の元横綱で、プロレスラーやタレントとしても活躍した輪島大士さんの通夜が14日、東京・青山葬儀所で営まれた。

土俵をイメージした祭壇に飾られた遺影は、喪主の妻留美さんが選んだという横綱時代の土俵入りだった。朱色のひつぎは、昨年まで毎年のように見学に訪れていた、地元石川県七尾市の石崎奉登祭に由来。ひつぎの中では、横綱時代に最も好んで着ていた薄緑色の着物姿で安らかに眠っていた。

輪島さんの付け人を約1年務めた芝田山親方(元横綱大乃国)は「土俵入りのかっこよさを学んだ。付け人をしたのは名誉」と、優勝14度の功績をたたえた。故人とは遠縁で、しこ名に「大士」をもらった同郷の前頭輝は「偉大な方。強くなることでしか恩返しできない」と出世を誓った。芸能界からも関口宏、五木ひろし、とんねるずらが駆けつけるなど、参列した約500人が、誰からも好かれる故人の人柄をしのんだ。

輪島大士さんの通夜に参列した芝田山親方(撮影・中島郁夫)

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輪島さん通夜に花田虎上氏、とんねるずら500人

土俵をかたどった祭壇に置かれた輪島大士氏の棺と遺影(撮影・中島郁夫)

下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱のため、8日に70歳で亡くなった、大相撲の元横綱で、プロレスラーやタレントとしても活躍した輪島大士さんの通夜が14日、東京・青山葬儀所で営まれた。現在、相撲協会の広報部長を務める芝田山親方(元横綱大乃国)、元武蔵川理事長で元横綱三重ノ海の石山五郎氏、3代目元横綱若乃花の花田虎上氏ら元力士や、現役力士では前頭輝、幕下豊響、芸能界からは関口宏、五木ひろし、とんねるずの石橋貴明と木梨憲武、勝俣州和らが参列。約500人が集まった。

土俵をイメージした祭壇に飾られた遺影は、喪主の妻留美さんが選んだという横綱時代の土俵入りだった。朱色のひつぎは、昨年まで毎年のように見学に訪れていた、地元石川県七尾市の石崎奉登祭に由来。同祭への、輪島さんの出身地域からの参加者が着用する衣装の色という縁で朱色にした。ひつぎの中で輪島さんは、横綱時代に最も好んでいた薄緑色の着物を着ていた。

参列した野球解説者の田淵幸一氏は、阪神での現役時代から続く、40年以上の付き合いだと明かした。当時、輪島さんは大阪での春場所中とあって、合間を縫って甲子園球場に招き、本人の意向で打撃練習に参加したところ「5、6球打って膝を痛めて休場した」(田淵氏)というエピソードを明かした。互いを「横綱」「監督」と呼び合い、深い交流があったという。田淵氏は「豪放磊落(らいらく)。純粋で、誰かをだまそうというところがまったくなかった。最高の男だった。お通夜で、こんな話ができるのはあいつだけ」と、故人と一緒に現役時代に撮影した写真を何枚も持参し、当時を思い出していた。

他にも五木ひろしは、日本レコード大賞を受賞した際に、お祝いに駆けつけてくれたこと。芝田山親方は約1年務めた付け人時代に、当時、付け人の中でも最も若いぐらいだった自身にも気さくに話しかけてくれた話。元3代目若乃花の花田虎上氏は、父で故人の元二子山親方(元大関貴ノ花)と輪島さんが親友だった関係から「輪島ちゃん」と親しみを込めて呼んでいたエピソードなどを明かした。通夜にもかかわらず、参列者が口々に型破りな輪島さんとの思い出話を語り、笑顔の絶えない、故人の人柄を表すような通夜となった。葬儀は15日に行われる。

土俵をかたどった祭壇に置かれた輪島さんの棺と遺影(撮影・中島郁夫)

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輪島さん 親方時代も豪快 芸人にまわし着けさせる

元横綱輪島大士さん

大相撲の元横綱でプロレスラーやタレントとしても活躍し、8日に死去した輪島大士さんの通夜が14日、葬儀が15日に、ともに東京・青山葬儀所で行われることが10日、分かった。この日は東京・世田谷区の自宅に、同じ石川県出身の森喜朗元首相らが弔問に訪れた。森元首相はSP(警護官)を伴い、輪島さんの自宅に約5分滞在。遺族とみられる見送った女性は「昔から親交があったようです」とだけ話した。

死去判明から一夜明けても、輪島さんの型破りな取り口や性格を物語るエピソードは後を絶たなかった。大関豪栄道は巡業先の甲府市で「天才じゃないですか」と、輪島さんを表現。「相撲をやっている人間からしたら、あの取り方はまねできない。普通は上手から攻めろと教わるが、輪島さんは平然と下手で攻める。理にかなっていない」と舌を巻いた。

入門から輪島さんが引退するまで6年間、付け人を務めた若者頭の花ノ国(元前頭)は、引退後の話として「ビートたけしさんと島田洋七さんと一緒に飲んで朝5時に部屋に戻って、そのまま、芸人さんにまわしを着けさせて大笑いしていた」と、親方時代も豪快だったと明かした。

角界と距離を置いた時期も長かったが、多くの人の胸に、今も輪島さんは生きていた。

77年3月、春場所での輪島さん
ビートたけし(18年4月3日撮影)

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渕正信「豪快な人」全日で輪島さん追悼10カウント

全日本プロレス後楽園大会で輪島さんの追悼セレモニーが行われ、リング上で輪島さんの遺影を抱く渕正信

全日本プロレスは10日、後楽園大会で8日に亡くなった故輪島大士さん(享年70)の追悼セレモニーを行った。

試合開始前に、全選手、スタッフがリングを囲み、遺影を持った渕正信がリング中央に立った。場内スクリーンに輪島さんの全日本時代の姿が映し出され、観客と一緒に黙とうと追悼の10カウントのゴングが鳴らされた。

デビュー前にスパーリングパートナーを務めたという渕は「昭和の大横綱だったのに、偉ぶったところはなく、プロレスで一からやり直す覚悟があった。先輩から散々投げられて、慣れない受け身の練習を繰り返す姿に、胸を打たれた。よく一緒に飲みに連れて行ってもらって、明るい豪快な人だった」と話した。名誉レフェリーの和田京平さんは「プロレスをメジャーにしてくれた立役者。入団させた馬場さんが、知名度の高さに驚いていたほど。横綱が来ただけで、日本テレビがゴールデンタイムにスペシャル番組を放送してくれた。話をすると、自分の世界に入っちゃって、なかなかかみ合わない。それで、最後は笑っちゃう。底抜けに明るくて、真っすぐな人だった。みんなに好かれていて、悪く言う人はだれもいなかった」と故人を偲んでいた。

全日本プロレスの後楽園大会で輪島さんの追悼セレモニーが行われ、10カウントで黙とうする秋山準社長

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輪島さん 借金、親方廃業、「大事件」プロレス入り

86年11月、全日本七尾大会で国内マットでのデビュー戦を故郷で迎えた輪島さん(右)はタイガー・ジェット・シンをコーナーに追い詰める

輪島大士さんは、大相撲の横綱として史上2人目のプロレスラー転身を果たした。年寄名跡を借金の担保に入れたことが発覚して角界を廃業し、86年に鳴り物入りで全日本プロレスに入門。特別待遇の英才教育を受けデビューした。絶大な知名度でテレビの視聴率、地方興行の集客と話題を集めたが大きな実績を残せず、3年足らずで引退した。

大相撲で一時代を築いた名横綱のプロレス入りは、一大事件だった。85年12月に廃業。アントニオ猪木率いる新日本プロレスと激しい興行戦争を展開していたジャイアント馬場が、集客の目玉として輪島さんをスカウトした。日刊スポーツは輪島さんの全日本入りを86年4月8日付の1面スクープとして伝えた。輪島さんのプロレス転向をきっかけに、日刊スポーツにまるまる1枚のプロレス面がスタートした。

輪島さんは馬場から特別待遇で迎えられた。ジャンボ鶴田や天龍ら、当時のトップレスラーにコーチ役を頼まず、いきなりハワイで練習。初代AWA世界ヘビー級王者のパット・オコーナーの指導を受け、馬場とタッグ戦で米国でデビューを飾った。当時、日本でスパーリングのパートナーを務めた渕正信は「38歳がスタートだったから、米国で涙の出るような練習をしたと聞いた。『渕君、オレにはこれ(プロレス)しかないから、1年、2年(練習を)しっかりやるよ』と明るく話していた」と言う。

米国での集中特訓で腹をへこませ、背筋を鍛えた。大相撲時代ののど輪をヒントにゴールデン・アームボンバーを開発。リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座挑戦や、スタン・ハンセンとPWF世界ヘビー級王座決定戦を行うなど実績を積んだ。帰国後、全日本デビュー戦のテレビ視聴率は20%を超えた。地方興行も常に大入り、タイトル獲得はなかったがプロレス入りの反響は絶大だった。

全日本には天龍を始め、角界出身の先輩がいたが、輪島さんは横綱のプライドを捨てて、溶け込もうと努力した。角界出身のグレート小鹿は「オレは相撲界に3年しかいなかったけど、オレのことを先輩と言ってくれた。気さくで、人懐っこい人だった」と話す。天龍との試合では、靴ひもの跡が顔につくほど蹴られたが、それもプロレス界で一流になってほしいという、天龍の愛情からだった。

88年12月に、輪島さんはひっそりと引退した。引退発表も引退試合もなかった。膝や首など、約3年間のプロレス生活で体はボロボロになっていた。「プロレスの世界ではチャンスに恵まれず、自分の道を歩けなかった。でも、まだ70歳でしょ。ちょっと早いよ」と小鹿は残念がった。【桝田朗】

85年12月、廃業を発表した輪島さん

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黄金の左、のど輪落とし/輪島さん波瀾万丈人生

77年3月、春場所での輪島さん

第54代横綱でプロレスラーにもなった輪島大士さん(本名輪島博)が8日午後8時、東京・世田谷区の自宅で亡くなった。70歳。死因は下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱だった。

<輪島さん波瀾万丈人生>

◆虫嫌い 1948年(昭23)1月11日に石川県七尾市に理髪業の輪島家の長男として生まれる。4500グラム。ケガをすると家族は反対も石崎小3から相撲の町内大会などで優勝。香取中では野球部も相撲も稽古し、1年の奥能登、3年の県大会で優勝。蛇、カエル、ミミズと虫嫌い。東京五輪石川県聖火ランナー。

◆サイン稽古 金沢高では岡大和監督宅に下宿して1年で山口国体を制し、高2の夏に大鵬親方らから勧誘される。「有名になる」とサインを練習し、このため本名で通したともいわれる。監督の薦めで日大進学で新人戦優勝。3年で初めて学生横綱になる。

◆貴ノ花圧倒 日大時代に当時新十両で親友となる貴ノ花(初代元大関)に稽古で2勝1敗と勝ち越し。当時の二子山親方(元横綱若乃花)が貴ノ花に「関取の白まわしを締める資格がない」と激怒。2年連続学生横綱など大学通算14冠を引っ提げ、合宿所隣で気心知れた元前頭大ノ海の花籠部屋に入門。

◆快進撃 花籠親方は雑用を免除し、食事は親方宅、大部屋は3日で日大合宿所の2人部屋に戻った。70年初場所幕下尻付出で誕生日にデビューし、日大応援団も駆けつける中で7戦全勝優勝。「蔵前の星」と呼ばれ連続全勝優勝で夏場所最速新十両昇進。ザンバラが目に入ると美容室でパーマをかけ怒られた。

◆特例懸賞 70年夏3日目にプロ初黒星で連勝は16でストップし、名古屋で初負け越し。秋はライバルだった東農大出身の長浜(のちの小結豊山)と5戦全勝で対決。観客投票で幕内にかける懸賞の森永賞が特例でつき、この一番を制して13勝で十両優勝を飾る。

◆最短V 71年初に新入幕を果たし、夏は11勝で初の敢闘賞。72年初場所は新小結で北の富士から横綱初勝利し、初の殊勲賞となる。夏に関脇で12勝を挙げて最短15場所で初優勝を飾る。学生相撲出身では山錦以来42年ぶり。

◆貴輪時代 72年秋の千秋楽は貴ノ花と水入りの一番を制して、13勝の準優勝で貴ノ花と大関同時昇進し、貴輪時代到来といわれた。昇進を機にしこ名を博から大士に改名。63勝で初の年間最多勝。豪華マンションに住み、リンカーン・コンチネンタルを乗り回し、外国製腕時計をして、プロ野球や芸能人と交流した。引退後の81年、2人はそろって資生堂のテレビCMに出演した。

◆稽古嫌い 稽古が嫌いで、まだ若手の千代の富士が1度出稽古に来ると、部屋に入る前に「帰れ」と追い返した。腰が軽くなるといわれたランニングを導入。二子山親方が「マラソンで強くなるなら(メキシコ五輪銅の)君原は大横綱だ」と吐き捨てたという。貴ノ花は「本当に稽古しないのに強く天才」と言った。

◆本名横綱 73年春の13勝まで3場所連続準優勝で、夏に初の全勝優勝で54代横綱に昇進。学生相撲出身、本名の横綱は史上初で、石川出身は阿武松以来145年ぶり。秋に全勝で横綱初優勝。九州は貴ノ花を下して12連勝も、右手指の間を3センチ裂いて6針縫う。13日目に負けたがV4が決定し、14日目から2日間休場と史上初めて休場して優勝となった。

◆黄金の左 75年春から3場所連続休場した。秋から気分一新して黄金の締め込みに替え、「黄金の左」と呼ばれるようになった。78年から休場が多くなり、この年は優勝なし。80年九州では外出を控えて体力温存し、最後となる14度目の優勝となった。

◆親方廃業 師匠が定年を迎える81年春は3日目で引退し、12代目として花籠部屋を継承した。審判委員などを務め、82年夏には輪鵬、花ノ国が新十両など4人の関取を育てた。85年11月に実妹が年寄名跡を借金の担保にし、2階級降格と無期限謹慎処分。借金4億円などで12月に廃業し、力士らは放駒部屋に移籍した。

◆転身 86年4月に全日本プロレスに入門し、米国やプエルトリコで修行。8月に米国でジャイアント馬場とタッグを組んで白星デビュー。11月に地元石川で国内デビューし、凶暴さで鳴らすタイガー・ジェット・シンとシングルで対戦。両者反則で引き分けも場外乱闘にもひるまなかった。

◆存在感 レスラー時代の必殺技はゴールデン・アームボンバー(のど輪落とし)。初のテレビ中継の視聴率は20%を超えた。87年にはリック・フレアー、スタン・ハンセンとタイトル戦でも対戦し、元前頭の天龍から妥協なき攻撃を受けて語り草に。88年12月に体力の限界で引退した。

◆家族 留美夫人と1女1男。長男大地さんは17年夏の甲子園に天理高の一員として出場。準々決勝明豊戦に2番手投手として登板した。

70年5月、夏場所の輪島さん。パーマがかかっているように見えるが…
74年7月、名古屋場所の優勝決定戦で横綱輪島さんは「黄金の左」下手投げで北の湖(右)を大逆転する
スタン・ハンセン(右)にコブラツイストを決める輪島さん(1987年4月24日撮影)

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輪島さん「もう1度裸に」忘れられぬ全日入り/悼む

87年3月、全日本武道館大会でリック・フレアー(右)を絞め上げる輪島さん

第54代横綱でプロレスラーにもなった輪島大士さん(本名輪島博)が8日午後8時、東京・世田谷区の自宅で亡くなった。70歳。死因は下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱だった。

   ◇   ◇

角界時代の輪島氏のことはあまり取材していない。担当になった時はすでに親方で、そのうち年寄名跡騒動が起きた。九州場所では博多の百道海岸の宿舎を遠巻きに張り込んだ。そんな合間に若い衆から数々の逸話を聞き、天然ぶりに笑わせられ、感心もさせられた。

当時の地方の宿舎には、ピンク色の公衆電話が臨時設置された。親方用と部屋用。力士が親方へ連絡する時も公衆電話で、長電話に備えて10円玉に両替が必須だった。当時元十両輪鵬は10円玉が足りなくなって「かけ直しします」と切ろうとした。すると親方は「大丈夫だ。こっちから10円玉入れるから」と答えたという。「熱いのはダメ。猫背だから」、「その先を右へ左折して」。天然も発想は実に奇抜だった。

プロレスデビュー前の海外修行中、米ニューヨークで息抜き時に取材した。頼まれた土産は週刊誌。日本の情報に飢えていて、その場でむさぼるように読み始めた。「美女と対談したこともある」と自慢していた。その遠征中の取って置きの話。機中のドリンクサービスで牛乳が飲みたくなったが「ミルク」という単語が浮かばない。そこで客室乗務員に向かって「モー、モー」と牛の鳴きマネをした。通じなかったそうだが。

日大はアメリカンフットボールの名門で、名将と言われた篠竹監督と親交があった。91年には学生援護会総監督に就任し、日本社会人協会理事にも就任した。日大のビッグゲームには応援に来て顔を合わすようになった。「和倉温泉に連れて行ってやる」と約束してくれていたのに。

86年に全日本プロレス入り会見での名言は忘れられない。「自分は裸(力士)になって、裸(借金4億円)になってしまったのだから、もう1度目いっぱい裸(プロレスラー)になって頑張るしかない」。憎めない、面白い人だった。【河合香】

81年10月、断髪式で親友貴ノ花(左)からはさみを入れられる輪島さん

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輪島さん甘え上手 記者の自腹でビジネスに/悼む

86年11月、全日本七尾大会で国内マットでのデビュー戦を故郷で迎えた輪島さん(中央)。右はジャイアント馬場

第54代横綱でプロレスラーにもなった輪島大士さん(本名輪島博)が8日午後8時、東京・世田谷区の自宅で亡くなった。70歳。死因は下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱だった。

   ◇   ◇

相撲では大横綱だった輪島さんだが、私には大きな甘えん坊に見えた。困ったことが起こると、「お願いだから~、頼むよ~」と、大きな体を丸めて、モジモジ。そんな姿を見せられると、ついやってあげたくなる。得な性格だった。

プロレスラーとして最初の洗礼は、デビュー前のハワイでの最終調整を終えて、米国デビュー戦に向かうホノルルの航空機チェックインカウンターだった。故ジャイアント馬場さんが用意していたのは、プロレスではあくまで「新弟子」という扱いだからエコノミー席だった。

ここで輪島さんは、「体が入らないからさあ、ビジネスにならないかなあ」と、大胆にも記者にアップグレードを要求。普通に言われたら、「無理です」と断れたのだが、上目遣いで頼まれたのもあって「馬場さんには内緒ですよ」と、記者の自腹でビジネスに交換してしまった。これが最初の甘えん坊被害となった。その後も、ことあるごとに、甘えに乗せられてしまった。他社の記者も同様のようで、ある意味、輪島さんの人間性にひかれていってしまうのだと感じた。

約3年という短い期間のプロレス生活では不器用さが目立ってしまい、本領は発揮できなかった。だが、輪島大士というレスラーがその時代にいたことは誰も忘れないと思う。【元バトル担当=川副宏芳】

87年12月、勝ち名乗りを受ける輪島さん(左)とジャイアント馬場。中央はジョー樋口

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輪島さん死去 波瀾万丈の70年、最期はひっそり

81年1月、初場所で雲竜型で土俵入りをする輪島さん

「黄金の左」と呼ばれた型破りな元横綱が逝った。第54代横綱でプロレスラーにもなった輪島大士さん(本名輪島博)が8日午後8時、東京・世田谷区の自宅で亡くなった。70歳。死因は下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱だった。日大からプロ入りして学生出身では初の横綱に昇進し、左下手投げを得意に歴代7位の14度優勝。年寄名跡を借金の担保にして廃業後、全日本のプロレスラーでも活躍した。土俵の内外で自由奔放な個性的な横綱だった。葬儀・告別式は未定で、喪主は妻の留美(るみ)さんが務める。

輪島さんは4年前に引っ越した世田谷区の自宅で亡くなった。近所の住民によると、前日深夜に自宅へ救急車、パトカー、消防車が相次いで到着したという。以前は1人でよく散歩し、顔を合わすとしゃべる代わりに肩をたたいたり、手をたたいて、気さくにあいさつされたそうだ。1年前から散歩に出なくなったが、3日前にはつえをついてデイサービスの車に乗る姿を見たという。

13年に咽頭がんの手術を受けた後は声が出ないこともあり、公の場に出ることは減った。遠縁の輝が所属する高田川部屋の稽古を定期的に訪れていたが、今年はなし。そのほかは、日大の後輩である境川親方(元小結両国)の弟子の挙式に出席する程度。角界だけでなくプロレス、日大などの関係者とも疎遠となり、一時代を築いた横綱はひっそりとこの世を去った。

幕下での初土俵には日大応援団まで駆けつけた。「蔵前の星」と期待されるも、たたき上げから「学生さん」と見下された。大成しないと言われた学生相撲から、初めてで唯一の横綱昇進でジンクスを打破した。

得意は左四つからの下手投げ。右の絞りが強かった。これも大成しないと言われたが、角界では異端のランニングも重視し、安定した下半身を作った。大型化が始まった時代で昇進時は120キロ。下半身の瞬発力に天性のタイミングで、このジンクスも打破した。

北の湖とは44度対戦した。74年名古屋場所で逆転優勝したが、北の湖も横綱に昇進した。ここから「輪湖時代」と呼ばれて毎場所賜杯を争った。75年に腰痛などで3場所連続休場し、気分一新に締め込みを金色に替えた。カラー化時代の先駆けで「黄金の左」が代名詞に。レスラー時代も同系色の黄色いパンツがトレードマークだった。

81年春場所で連敗すると現役を引退した。花籠部屋を継いだが、年寄名跡を借金の担保にしていたことで大騒動に発展。親方は4年半で廃業し、86年にはプロレスラーに転身した。馬場社長にかわいがられたが、約3年で2度目の引退となった。

日大相撲部で1学年上に頭の上がらない現日大田中理事長がいた。大学3年時に決勝で破って学生横綱になると、当時の理事長にプロを勧められた。日大からは66人が入門して51人が関取に。その道筋をつけ、燦然(さんぜん)と輝く第1号。型破りで奔放な性格と言動で一世を風靡(ふうび)した昭和の横綱は、波瀾(はらん)万丈の人生を送った。今年は騒動続きの日大にあって大スターだった横綱が旅立った。

◆輪島大士(わじま・ひろし)本名輪島博。1948年(昭23)1月11日、石川県七尾市生まれ。金沢高で相撲を始め、日大で2年連続学生横綱など14タイトル。花籠部屋に入門し70年初場所幕下尻付け出し初土俵。連続全勝優勝で夏場所新十両、71年初場所に新入幕。72年初優勝、秋場所後に大関昇進。73年夏場所後に54代横綱昇進。優勝14回、三賞5回。現役時185センチ、125キロで、得意は左四つ、下手投げ、寄り。81年春に引退して花籠部屋継承も85年に年寄名跡担保問題で退職。86年プロレスラー転向し、88年引退後アメリカンフットボールの学生援護会総監督やタレント活動も、13年に咽頭がん手術を受けた。

87年4月、全日本PWFヘビー級選手権でスタン・ハンセン(右)にゴールデン・アームボンバーを決める輪島さん
16年2月、豊響の挙式・披露宴に出席した輪島さん

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宿敵他界から3年…輪島さん「輪湖時代は私の誇り」

76年9月、優勝額贈呈式で互いの健闘を誓い合う輪島さん(左)と北の湖さん

70歳で死去した輪島大士さんは、横綱北の湖と「輪湖(りんこ)時代」を築いた。対戦成績は輪島さんの23勝21敗。横綱を務めた73年から81年は北の湖の全盛期と重なり、2人の熱戦は昭和の相撲史を色濃く彩った。

輪島と北の湖。左の相四つでがっぷりと胸を合わせての力比べは、最高の見せ場だった。72年名古屋の初対戦から、13度目の対戦となった74年名古屋場所。輪島が1人横綱で大関北の湖を1差で追っていた。千秋楽に本割、優勝決定戦とも輪島が下手投げで連勝して逆転優勝した。場所後に北の湖が横綱に昇進して輪湖時代が始まった。

76、77年の12場所はすべて千秋楽結びで対戦して両者とも5度優勝。通算22場所あり、相星4度を含めて8度がともに優勝圏内で対戦。水入りが3度あった。決定戦を含めず輪島が通算23勝21敗だった。

後に日本相撲協会の理事長になった北の湖親方は生前「常に輪島さんとの一番を意識していた。絶対に負けられんぞと気合が入ったものだ」と明かしていた。

レスラー時代の全日本プロは国技館から締め出され、疎遠になっていた。それでも20年ほど前にサウナで会って以来、北の湖理事長から番付が送られるようになり、輪島さんは全て大事に保管していたという。09年初場所のNHK中継にゲストで23年ぶりで本場所観戦した。13年がんが判明した後、15年には雑誌の対談で両雄が再会した。「輪湖時代は私の誇り」と話していた。

15年11月に北の湖理事長が死去した際には、声が出ないために文書でコメントを寄せた。「お互いに病気と闘っていたが、先に逝かれて寂しい」「(北の湖は)運動神経が抜群だった。1度掛けた技は2度は通用せず、頭のいい力士だった」「俺はもう少し頑張る。よく頑張ったね、お疲れさまと言いたい」。あれから3年。輪湖はともに旅立った。

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元貴乃花親方が輪島さんを追悼「輪島のおじちゃん」

元貴乃花親方(2018年9月28日撮影)

1日付で日本相撲協会を退職した元貴乃花親方(元横綱)の花田光司氏(46)が10日、貴乃花応援会公式サイト内のブログを通じ、大相撲の第54代横綱輪島で死去したことが分かった輪島大士氏(本名・輪島博=享年70)の死を悼んだ。

花田氏は「輪島さんに哀悼を告げます」と題し、以下の文章をつづった。

「哀悼を告げます。輪島さんに最後にお会いしたのは、未だに私の尊敬する、亡き北の湖前理事長との対談をされていたときで、その際傍でご挨拶ができました。その時は、声帯の手術と治療をされていると聞きましたが、かすれながらに『こうじ、こうじ、』と、元気にお声がけ頂いたことが思い出されます。それが輪島さんと最後にお会いした時でした。その時期の私は、北の湖理事長の下で職務を学んでいた頃でした。輪島さんに久しぶりにお会いできて大変嬉しく、同時に北の湖理事長の輪島さんに対する労わりの精神を垣間見させていただきました」

花田氏は、輪島氏との最後の対面を明かした。その上で、敬愛した当時の理事長で15年11月に亡くなった北の湖敏満氏も、輪島氏には一目置き、尊敬の念を持って接していたことをつづった。

「北の湖理事長も横綱を張った輪島さんとあって緊張された様子でした。その御心を察して、手を引くように国技館をご案内され、労わるように輪島さんの前を歩いておられたそのお姿。神が降臨したかのような北の湖理事長の優しさ、美しさ。そして、近年の実績でも追従をゆるさない横綱北の湖関に、私は魅了されてしまいました。輪島さんの緊張を察してそれをほぐすかのように、川の流れのように、自然体で深くて美しくゆったりとした風格。それこそが私には印象的でした」

そして輪島氏が気さくな人柄で周囲から愛されていた思い出話を明かした。

「輪島さんとその前にご同席できたのは、石川県にあります、かの有名な加賀温泉の加賀屋様でのひと時でした。一晩、加賀屋様にお泊めいただいた私は、「この世に竜宮城のような、こんな絢爛豪華なお宿があるのか」と思った次第です。それに加えて、従業員さんたちの礼儀正しさと、気品溢れる大女将様の仕草と語らいは、日本国を代表するこの世の居留地であり、人生のあらゆる場面で生じた喜怒哀楽を青く澄んだ海に浮かべることができるようなお宿で、展望台の中に佇んで旅情を包んでくれる御心与えしおもてなしでした。輪島さんの気さくで誰も真似のできない会話のユニークさ、そして、演出できない輪島さん節を聞きながら、天空のお宿、加賀屋様で過ごした思い出は私の人生の財産です」

また輪島氏が85年に花籠名跡を担保に借金したことで日本相撲協会を離れた後も、各界で支援されていたと明かした。

「輪島さんは定年以前に角界を去りましたが、後援会長や支援者に長年にわたり愛され、大切にされた方です。個人名は出せませんが、輪島さんを永年ご支援された方々は存じております。私の父、先代貴ノ花の師匠からも輪島さんが人々に愛され大切にされてきたお話はたくさん聞いておりました」

また幼少期に輪島氏に出会った思い出もつづった。

「私が幼い頃ですが、輪島さんは先代貴ノ花の自宅へ遊びに来られていました。夜に突然来られてあっという間に残り香を遺して帰られるような輪島さんは、私の子供の頃の記憶を辿ると、宇宙人みたいな、それこそ天孫降臨されたような方でした」

さらに父の貴ノ花親方が生前、輪島氏が代名詞「黄金の左下手」を、より光らせる技を持っていたと明かしたこともつづった。

「大相撲の時代を作った輪島さんの黄金の左下手は天才です。ふと私の父の遺した言葉が蘇りますが、"輪島は黄金の左下手といわれるがそれは違う、左を差した時の右からのおっつけが強かった。"黄金の左下手には、そんな秘訣もありました。これも私の父が遺した言葉です。"北の湖は天才。北の湖は若い頃から孤独でそれに打ち勝って横綱になった。北の湖は強かった。"もう一つ父の言葉が蘇ってきます。"俺は、玉の海関に強くしてもらった。玉の海関がいなかったら今の自分は存在しない。"輪島、貴ノ花が若手の筆頭株で、二人で幕内上位に昇り龍のごとくに活躍していた前から、バリバリの若手を相手にして息も上がらずに、一番も負けずに何十番と稽古をつけられた方が、横綱玉の海関でした。玉の海関は、解説でも著名な北の富士親方の盟友でもあった方です。私も本場所中は花田家の仏前に祈りを捧げて通っておりましたが、玉の海関の戒名もうちの仏前には書き込んでありました。毎回、私は御先祖様と玉の海関に蝋燭とお線香をたいて祈りを告げておりました」

花田氏は最後に「輪島さんの思い出を辿ると、先代貴ノ花の師匠が遺して下さったお話も尽きないほどに思い出されますが、どれもが懐かしいことばかりです。輪島さんのあの愉快な楽しい話がまた聞きたいです。グァム旅行にご一緒したこともありました。大きな大きな背中の輪島のおじちゃんとの大切な思い出を、いつまでも心にしまっておきたいと思います」(原文のまま)と、輪島さんへの思いをつづった。

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親交深い高田川親方「器の大きな方」輪島さん悼む

元関脇安芸乃島の高田川親方(2018年3月28日撮影)

第54代横綱の輪島大士さんが70歳で死去し、親交のあった高田川親方(元関脇安芸乃島)は9日、故人をしのんだ。

現役時代の師匠、藤島親方(元大関貴ノ花)が親しかったこともあり、輪島さんには新弟子のころからかわいがってもらったという。「輪島さんは変わった人。他の部屋の親方は、新弟子なんか相手にしないけど、かわいがってくれた。反物をくれたりもした」。

近年は、弟子の幕内力士、輝が輪島さんと同じ石川県出身ということもあり、本場所前は稽古を見に来てくれていたという。

輝が関取になる時は、輪島さんが愛用していた金色のまわしを締め、下の名前「大士」を使わせてもらうことを願い出た。「てっきり、『たいし』と読むのだと思っていたので『たいしをいただいてもいいでしょうか?』と聞いたら『いいよ。でも、これはひろしって読むんだぞ』と」。名前の読みを間違えながらも、怒ることもなく、やんわり指摘され「器の大きな方」とあらためて感じたという。

「横綱なのに、いばりちらしたりしない。人間的にすごい。亡くなった親方(元貴ノ花)と相通じるものがあったのかもしれない」と話していた。

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同郷の輝大士「地元の英雄」悼む、しこな輪島氏由来

土俵入りを披露する輝

大相撲の第54代横綱の輪島大士氏(本名・輪島博)が死去したことが分かった9日、静岡・東伊豆町では秋巡業が行われた。輪島氏と同じ故郷の石川・七尾市出身で平幕の輝(24=高田川)は「小学校にも公民館にも(輪島氏の)額があって一番身近な地元の英雄でした」としみじみと話した。

直近で会ったのは去年の春場所前で、大阪で食事をしたという。輪島氏は13年に咽頭がん手術を受けたため、やりとりは筆談で行われた。そのため多く“語る”ことはなかったというが「『今場所も頑張れよ』と言われた」と明かした。当時の様子については「元気は元気でしたけど、少しやせてたかな」と話した。

しこ名の「輝大士」は輪島氏の「大士」が由来。新十両昇進を確実にした14年秋場所後の千秋楽パーティーで、師匠の高田川親方(元関脇安芸乃島)とともに、パーティーに出席していた輪島氏に相談。「『名前をもらっていいですか』と聞いたら『いいよ』って言ってもらいました」と明かした。読み方は「ひろし」ではなく「たいし」だが「名前負けしないように恥ずかしい相撲を取らないようにしたい」と話した。

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遠藤、同郷で日大先輩「目指さないと」輪島氏悼む

ぶつかり稽古で栃ノ心に胸を出す遠藤(右)

大相撲の第54代横綱の輪島大士氏(本名・輪島博)が死去したことが分かった9日、静岡・東伊豆町では秋巡業が行われた。

巡業に参加している、同郷の石川出身で日大の後輩にあたる平幕の遠藤(27=追手風)は、報道陣から輪島氏の死去を知らされて驚きの表情を浮かべた。

小学時代と角界入り後に1度ずつ会ったことがあるという遠藤。小学時代は、地元石川で行われた相撲大会に輪島氏が訪れたという。騒ぐ周囲に対して「みんなが輪島、輪島と言っていたけど、当時は何のことだか分からなかった」というが、相撲を続けているうちに輪島氏の偉大さに気が付いた。

角界入り後は「新入幕に上がる前」に会った。話の内容は「緊張して覚えていない」と偉大な先輩を前に頭が真っ白になったというが「気まずいとかはなかった。ユーモアのある方。向こうから話しかけてくれた」と印象を語った。

輪島氏の現役時代の相撲は、映像で何度か見たという。「左の下手投げと右のおっつけの印象が強い。まわしがからし色。学生出身で唯一の横綱で日大出身。目指さないといけない」と話した。

第54代横綱の輪島大士氏

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白鵬が輪島大士さん悼む「我々を上から見守って」

輪島大士さん(左)と白鵬(2006年7月23日撮影)

大相撲の第54代横綱の輪島大士氏(本名・輪島博)が死去したことが分かった9日、秋巡業が静岡・東伊豆町で行われ、親交のあった横綱白鵬(33=宮城野)が悲しみを口にした。

最後に会ったのは「1年半前か、2年ぐらい前になるかな」と食事をともにしたのが最後だという。13年に咽頭がん手術を受けたため、筆談でのやりとりに苦労したことを明かした。過去には、輪島氏の故郷・石川県七尾市で2人でトークショーを開いたこともあり「一緒に飲んだり食べたり、ゴルフもした。本当に良くしてもらいました」としみじみ。「天国で歴代の横綱たちと相撲を取ってるかもしれないね。我々を上から見守ってくれれば」と話した。

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元横綱三重ノ海の石山五郎氏「残念」輪島さん悼む

元横綱輪島大士さん

大相撲の第54代横綱輪島で、14度の幕内優勝を果たした輪島大士さん(本名・輪島博)が死去したことが9日、関係者への取材で分かった。70歳だった。

輪島さんと同年齢で、日本相撲協会理事長も務め第57代横綱三重ノ海として活躍した、現相撲博物館の石山五郎館長は「ニュースで(訃報を)知ってビックリした」と話した。2年前の名古屋場所で現地を訪れた際、ホテルのロビーで偶然、顔を合わせたのが最後だという。会話はできなかったが「こっちの方で一方的に『今後、飯でも食おう』と話しました。普通に歩いていたし元気だった。それきりです」と続けた。

同じ昭和23年の早生まれで同学年。たたき上げと大卒の違いで、初土俵は同館長の方が6年半早かったが、横綱昇進は輪島さんの方が約6年、早かった。当時を振り返り「それまで我々が教わった相撲界の中では、考え方も含めて番外でした。(地方場所で)ホテルから部屋に通うなど考えられなかった。うらやましかった」と、豪放磊落(らいらく)な性格をうらやんだ自分がいたという。

思い出の一番に挙げたのは77年(昭52)九州場所、4勝3敗で迎えた8日目の相撲だったという。「私は大関でしたが、それまで何場所か勝ってなくて(4場所連続黒星)、その場所も調子が良くなくて、彼は全勝。思い切って張り差しにいって二本差していっぺんに持って行った。翌日、支度部屋で『あんなに思い切り、ひっぱたかなくてもいいじゃないか』と言われました(笑い)。あれから俺のことを苦手にしたみたいでした」。幕内対戦成績は16勝27敗だが、その一番を含め以降は10勝3敗と得意にした。

現役引退後も、食事会を設け、年寄としては2場所“先輩”だったこともあり職務のアドバイスなどもしたという。年寄名跡を借金の担保にしたことなどで輪島さんは廃業に追われたが「その前に2人で食事した時も、心配で何度も聞いたけど『大丈夫。持っている土地を処分すれば大丈夫』と言っていた。あんな形で(廃業したのは)残念」と惜しんだ。

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