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山中慎介氏「プレッシャーに打ち勝つ」特別レッスン

山中慎介氏と東京五輪代表内定選手らによるオンライン講座の様子。2段目左から2人目が山中氏

ボクシングの東京五輪日本代表らが23日、元WBC世界バンタム級王者の山中慎介氏(37)から特別講義を受けた。「プレッシャーに打ち勝つ」をテーマにしたオンライン講座で、経験を基にしたトップ選手ならではの試合への心身の臨み方、独自のコンディションの計り方などが語られた。

同氏は日本歴代2位の12連続防衛記録を持ち、「神の左」と呼ばれた左ストレートでもリングで光り輝いた。アマチュア時代は専大で突出した結果は残せなかったが、プロ入り後に類い希なストレート系のパンチに威力を発揮し、数々のKOシーンを生んできた。講座ではその技術についても触れられるなど、選手にとってはかけがいのない時間となった。

ウエルター級の岡沢セオンは「名チャンピオンからのとても貴重なお話を聞くことができて勉強になりました。特に、良いイメージだけでなく悪いイメージもしておくことが平常心につながると言うお話を聞き、自分も取り入れようと思いました」、女子フライ級の並木月海は「1人1人戦い方も違ければ試合前のメンタルも違う。でも、なにより自分のルーティンや、やって来た事。周りで応援してくれている方々への感謝などでプレッシャーに打ち勝つ事は出来るという事が分かりました」と感謝した。

オンライン講義はコロナウイルスによる自粛期間に日本ボクシング連盟が企画し、今回が6回目。先月の初回ではWBA世界ミドル級王者の村田諒太が講師を務めた。

辰吉も会場も泣いた激闘/記者が振り返るあの瞬間

辰吉丈一郎(2018年4月30日撮影)

<スポーツ担当記者 マイメモリーズ>(34)

政府の緊急事態宣言が延長され、スポーツ界も「自粛」状態が続いている。

日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

  ◇  ◇  ◇

殺されるんちゃうか。リングに立った両者を並び見て、身震いした。

97年11月22日、大阪城ホール。辰吉丈一郎(当時27=大阪帝拳)は、挑戦者として戦場に向かった。相手は20歳の王者シリモンコン・ナコントンパークビュー。当時16戦無敗、「翡翠(ひすい)の顔」と呼ばれた男前でもあり、タイの若い女性の間で人気急上昇でモデルの仕事の依頼もあった、若き英雄だった。

一方の辰吉は左目網膜裂孔、同剥離と2度の眼疾による引退危機を乗り越えるも、薬師寺との世紀の統一戦に敗れ、その後もスーパーバンタム級に上げてサラゴサに連敗と世界戦3連敗を喫していた。試合前、世界初奪取時から子どものようにかわいがってきたWBCのホセ・スライマン会長が「これ以上誇りを傷つけるな」と最後通告。大阪帝拳の吉井清会長も「負ければ次はない、最後の花道」と腹をくくっていた。

事実、辰吉の勝つイメージはわかなかった。シリモンコンはムエタイでも60戦のキャリアを誇り、辰吉を「年をとって前よりスピードがない」と年寄り扱いするなど、発言も自信に満ちていた。可能性は海外での試合キャリアと減量苦。その兆候が前日に見えた。

前日計量前の健診でシリモンコンの体温は38・2度。吉井会長は「熱が出るほどだから、胃を荒らしてるんでしょうな」と冷静に言った。陣営によると、一日中サウナにこもり、計量当日だけで1キロ近く落としたという。それまでの自信に満ちた王者の顔はどこえやら。やつれきった顔から精気は失われていた。

ところが。試合当日のシリモンコンは精気に満ちた顔に、はちきれんばかりのボディーだった。バンタム級のリミットは55・3キロだが、一晩で10キロ近く戻してきた。一方の辰吉は2キロ程度の回復で、比べて見れば、失礼を承知でいえば貧弱でしかなかった。辰吉ものちに「『でかっ』と思って二度見した」と語っている。圧倒的な体格差に「殺される」を予感した。

そんな序章から幕を開けた試合はドラマだった。「作戦通り。上を意識させてボディーを狙った」と試合後。5回に強烈な左ボディーでもん絶させてからの右ストレートでダウンを奪う。その後はシリモンコンの猛打に足がもつれる場面もあったが7回、右フックから左ボディーで再びダウン。立ち上がったところに猛ラッシュでレフェリーのリチャード・スティールが試合を止めた。辰吉が泣き、会場全体が感動で泣いた。

スポーツ記者として、その場に立ち会えて幸せと思える瞬間は少なくない。ただ、記者の立場も忘れ、涙を流すほどの場面にはそうそう出会えない。そんな経験ができた喜びは、20年以上たった今も体に刻まれている。「人生に不可能はない」と教えられた。だから辰吉というボクサーはずっと愛されている。【実藤健一】

◆試合VTR 辰吉が壮絶な打撃戦を制した。序盤から左ジャブでけん制。シリモンコンのガードが高くなって、ガラ空きになったボディーを狙い打った。5回、強烈な左ボディーがヒット。過酷な減量で動きの悪い相手に、続けざまに放った右ストレートで最初のダウンを奪った。6回に王座防衛に必死の相手に反撃されたが、ガードを下げて応戦。7回、右フックから左ボディーで2度目のダウンを奪い一気にラッシュ。1分54秒TKO勝ちした。

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重傷克服の薬師寺愛弟子…森武蔵が来春世界初挑戦へ

森武蔵

WBO世界フェザー級5位で同アジアパシフィック同級王者森武蔵(20=薬師寺)が来春にも世界初挑戦を計画していることが19日、分かった。実現すれば元WBC世界バンタム級王者薬師寺保栄会長(51)の愛弟子で初の世界戦となる。

森は13歳の時、交通事故で両足と腰の骨を折る重傷を負うも、そこから奇跡の再起を遂げた。“モンスター”井上尚弥らを輩出した全国U-15ジュニア大会で優勝した実力者。素質を買う薬師寺会長が「チャンスを与えたい」と、WBO同級王者シャクール・スティーブンソン(22=米国)陣営と交渉している。

王者はリオデジャネイロ五輪銀メダリストで13勝(7KO)無敗の超難敵。計画では7月にノンタイトル戦を行い、年内にアジアパシフィック王座の防衛戦を行った後に返上し、世界戦に向かう。

森は薬師寺会長に素質を見いだされ、「プロ以外に興味ない」と複数の高校の誘いを断り、プロ入りした。王者スティーブンソンとは同じサウスポーで、「最近はファイタースタイルに近づいている」という攻撃型。勢いに乗って成長をとげている時に新型コロナウイルスの影響を受けた。4月に地元の熊本でアジアパシフィック王座の防衛戦も中止となり、現在は熊本の実家でトレーニングを積んでいる。

「とにかく早く試合がしたい」と願うが、7月の試合も世間の情勢で流動的ではある。とはいえ、未知の、そして大きな可能性を秘めた若武者。その未来を開く夢舞台が実現するか。コロナ終息後の楽しみは間違いない。【実藤健一】

◆森武蔵(もり・むさし)1999年(平11)11月27日、熊本県菊池市生まれ。幼稚園から小学5年まで空手、その後にボクシング。16年12月にプロデビュー。17年度フェザー級の全日本新人王。18年11月にWBOアジアパシフィック同級王座を獲得し、2度防衛中。戦績は11勝(6KO)無敗。身長170センチの左ファイター。

森武蔵と薬師寺会長(右)(2017年12月23日)

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東京Dより広い英国庭園でボクシング興行プラン浮上

英国で庭園でのボクシング興行プランが浮上した。マッチルーム社のエディ・ハーン・プロモーターが15日に英メディアに明かしている。

ロンドン近郊ブレントウッドにある本社敷地内の庭園でファイト・キャンプと題し、7月中旬から4週連続で開催するという。

この敷地はハーン氏の生家で、15エーカー(約6万平方メートル)と東京ドームよりも広い。その屋敷の庭園にテントを張ったリング、控室、スタジオを設置するという。観客は入れない。

8月にはWBC世界ヘビー級暫定王者ディリアン・ホワイト(英国)に、元WBA世界同級王者アレクサンデル・ポベトキン(ロシア)が挑むタイトル戦が計画されている。

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コロナ禍でもぶれず、50歳辰吉丈一郎が貫く現役道

息子寿以輝の試合の観戦に訪れた丈一郎氏(2019年12月17日撮影)

元WBC世界バンタム級王者の“カリスマ”辰吉丈一郎が15日、50歳の誕生日を迎えた。09年3月にタイで試合を行ったのを最後に11年。現実的に試合を行う可能性がない今でも現役を続け、父粂二さん(享年52)と約束した「世界王者で引退」を追い求める。世間が新型コロナウイルスに苦しむ中、どんな苦境にもぶれない「浪速のジョー」の生き様は励みになる。

電話取材で辰吉は「50やからな。年とったなぁ思うし。世間的にいうたら若いかもしれんけど」。誕生日祝いについては「もう50やで。楽しみなわけないやん」と穏やかに語った。

節目を迎えても変わらない。「練習はずっとやってるよ。絶え間なく。意地を張ってるわけやなく、自分のしたいことをやってるだけ。好きやからやってるんや」。国内外を問わず今後、辰吉が試合を行える可能性はほぼない。それでも辰吉は戦い続ける。「自分の目標に向かってやっている。その答えは自分にしか分からん。自分の人生は自分のためにあるんやから」。

男手ひとつで育ててくれた父の年齢に近づいてきた。「父ちゃんとは違うしな」。ただ、粂二さんとの約束は心に刻まれたままだ。

亡くなる前の粂二さんから「(最初に当時最速の8戦目で世界王座を奪取した)リチャードソンに勝って、辞めてたらよかったんや」と何度も聞いた。決められたルール、周囲の視線や声などかまわず、己を貫く。ジョーの生き様はやはり格好いい。【実藤健一】

◆辰吉丈一郎(たつよし・じょういちろう)1970年(昭45)5月15日、岡山県倉敷市生まれ。4戦目で日本バンタム級王者、8戦目で当時日本選手最速の世界王座獲得。引退危機を乗り越えるも薬師寺との世紀の王座統一戦で判定負け。スーパーバンタム級に上げるも連敗で迎えた97年11月、バンタム級に戻してのシリモンコン戦で劇的勝利。2度防衛後、ウィラポンに敗れて陥落。1度は引退表明も撤回し、タイで2戦。戦績は20勝(14KO)7敗1分け。次男寿以輝は13勝(9KO)無敗で日本スーパーバンタム級8位。

09年3月、ノンタイトル10回戦でサーカイ(右)の右フックを顔面に浴びる辰吉丈一郎(2009年3月8日撮影)

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辰吉丈一郎50歳「世界王座とって引退」練習は継続

息子寿以輝の試合の観戦に訪れた辰吉丈一郎氏(2019年12月17日)

ボクシングの元WBC世界バンタム級王者辰吉丈一郎が15日、50歳の誕生日を迎えた。電話取材に応じた辰吉は「50やからな。年とったなぁ思うし。世間的にいうたら若いかもしれんけど」。誕生日祝いについては「もう50やで。楽しみなわけないやん」と和やかに話した。

50歳の節目を迎えても「世界王座をとって引退」の思いは変わらず、練習を続けているという。「練習はずっとやってるよ、絶え間なく。意地を張ってるわけやなく、自分のやりたいことをやってるだけ。好きやからやっている。自分の目標に向かっている」と人生の目標はぶれていない。

54キロ契約ノンタイトル戦10回戦 辰吉丈一郎対パランチャイ・チュワタナ 勝ち名乗りを受ける辰吉丈一郎(2008年10月26日撮影)

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寺地会長が拳四朗の年内「0防衛」覚悟「動けない」

寺地拳四朗(中央)。左は父の永会長、右は加藤トレーナー(2019年12月24日撮影)

WBC世界ライトフライ級王者寺地拳四朗(28=BMB)の父で、所属ジムの寺地永会長(56)は、年内「0防衛」も覚悟した。

政府は14日、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、発令されていた緊急事態宣言を解除する方向を示した。当初は、BMBジムがある京都府も含まれる見通しもあったが、見送られていた。

寺地会長は、解除の時期にかかわらず「今月いっぱいは休業」と決めていた。一方で、王者の8度目防衛戦のマッチメークについては「全くですわ。動けない」と現状を説明した。

7月から、ボクシング興行再開の動きはあるが、世界戦で海外から挑戦者を呼ぶとなれば、相手国の事情も絡んでくる。当初の計画は今年、3回の防衛で2桁「V10」を遂げ、元WBA同級王者具志堅用高氏の日本記録、13回連続防衛に迫るものだった。

しかし、現状を冷静に見据え、寺地会長は「年内に1試合できるか。試合できないことも頭に入れている」と語った。

勢いがあり、脂が乗りきった1年を棒に振るのは苦渋の選択。拳四朗は年明け1月6日には29歳の誕生日で、寺地会長も「この先は年齢との戦いになる」と話す。

新型コロナウイルス禍の出口は、ようやく見えつつある。だが、ボクサー、特に世界王者レベルはまだまだ闇の道を進んでいる。【実藤健一】

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WWE王者がヘビー級王者フューリー戦を希望 英紙

WWEヘビー級王座を防衛に成功し、挑戦者のロリンズ(右)に握手を求める王者マッキンタイア(C)2020WWE,Inc.AllRightsReserved.

<WWE:PPVマネー・イン・ザ・バンク大会>◇10日(日本時間11日)◇米フロリダ州WWEパフォーマンスセンター&WWE本社

WWEヘビー級王者ドリュー・マッキンタイア(34)が、ボクシングWBC世界ヘビー級王者タイソン・フューリー(31)との英国人王者対決を希望したと10日、英紙サンが報じた。

4月のレッスルマニア36大会でブロック・レスナーを下して同王座を初戴冠し、この日は挑戦者セス・ロリンズとの防衛戦に臨んだ。白熱したシーソー戦を制し、最後は必殺のクレイモアを挑戦者に蹴り込み、防衛に成功した。マッキンタイアは「バトル・オブ・ブリテン」スタジアムと名付けた英国人王者対決を提案し、フューリーに向け「明らかに将来のプロジェクトになる。英国がフューリーとの試合が組まれる場所になる」と対戦を呼び掛けた。プロレスルールでの試合になる見通しだ。

今年2月、デオンテイ・ワイルダー(米国)を下してWBC世界ヘビー級王座を獲得したフューリーは既に昨年10月、プロレスデビューしている。WWEサウジアラビア大会に参戦し、現WWEユニバーサル王者ブラウン・ストローマンと対戦し、右拳を打ち込んでリングアウト勝ちを収めている。新型コロナウイルスの影響で、ボクシング興行はストップしているものの、WWEはフロリダ州のパフォーマンスセンターで無観客による興行を継続している。

マッキンタイアは「フューリーは賢い人間。WWEの世界的規模を知っている。彼はエンターテイナーであり、フューリーVSマッキンタイアがビッグマッチであることを理解している」と強調。英国人王者対決を通じ「重要なのはファン層を増やすこと。WWEの選手の対戦では見られないような試合で世間の目をひきつけたい」と意欲を示していた。

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パッキャオKOしたマルケスの右/川島郭志氏の一撃

ファン・マヌエル・マルケス

<ボクシング、忘れられない一撃~18>

一発のパンチですべてが変わるボクシング。選手、関係者が「あの選手の、あの試合の、あの一撃」をセレクトし、語ります。元WBC世界スーパーフライ級王者川島郭志氏(50)の一撃は、4階級制覇したファン・マヌエル・マルケス(メキシコ)の「パッキャオ戦の右ストレート」です。4度目の対戦で倒し倒され、最後はマルケスがKOで初勝利となった一撃です。(取材・構成=河合香)

▼試合VTR 12年12月に米ラスベガスで、WBO世界スーパーライト級王者マルケスが、前WBO世界ウエルター級王者マニー・パッキャオ(フィリピン)とウエルター級で対戦した。WBOが「過去10年間で最高王者」という認定ベルトをかけた決戦。両者は04年はフェザー級で引き分け、07年はスーパーフェザー級で2-1、11年の第3戦はウエルター級で2-0と、パッキャオが僅差判定も連勝していた。試合は3回にマルケスが右のロングフックでまずダウンを奪った。5回にはパッキャオが右ストレートでダウンを奪い返す。続く6回はパッキャオ攻勢も、ゴング寸前にマルケスが右ストレートで2度目のダウンを奪う。パッキャオは失神して6回2分59秒KO。まさに一撃KOで、マルケスが4戦目で初勝利となった。

  ◇   ◇   ◇

あの一撃は衝撃的だった。前のめりに倒れたパッキャオが、しばらくピクリともしなかった。5回にパッキャオがダウンを返して、やや有利になったかと思った6回。パッキャオが攻勢で、あの場面も右ジャブをついて出ていった。そこへマルケスが、きれいに右ストレートを決めた。

同じ相手との再戦は、互いに手の内を知っているので、大抵は慎重な戦いになるもの。3戦まではパッキャオが2勝1分けだったが、いずれもそう差はなかった。4度目の対戦に、互いに今度こそ決めてやろうと、実に攻撃的な試合だった。

マルケスは3回に左フックで最初にダウンを奪った。パッキャオはストレートで来ると思っていたと思う。そこへ外から打ち込んだ。最後もカウンター。マルケスのうまさも光った。

サウスポーに対しての左ボディーがうまい。下を打つふりをして上、上のふりで下と打ち分ける。パッキャオも下を意識させられた面もあっただろう。マルケスにはメキシコ人独特のリズムがある。日本人はとてもマネできない。あの体のうまさも強み。

パッキャオもリズムよく攻める。テクニックもあるが、階級を上げていくことでパンチ力優先になった。力ずくに変わっていった。そこにスキがあったのかも。それでもいまだ現役なのには驚かされる。

◆川島郭志(かわしま・ひろし)1970年(昭45)3月27日、徳島県海部郡海部町(現海陽町)生まれ。小さいころから父の指導を受け、海南高時代にインターハイ優勝。ヨネクラジムに入門し、88年に1回KOでプロデビュー。連続KO負けに左拳骨折の挫折を乗り越え、92年に日本スーパーフライ級王座を獲得し、3度防衛した。94年に世界初挑戦し、WBC世界同級王者ブエノ(メキシコ)からダウンを奪い、判定勝ちで王座を獲得した。97年に7度目の防衛に失敗して引退。通算20勝(14KO)3敗1分の左ボクサー。00年に東京・大田区内に川島ジムを開設した。

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マルケスの右にパッキャオ動けず/川島郭志氏の一撃

ファン・マヌエル・マルケス

<ボクシング、忘れられない一撃~18>

一発のパンチですべてが変わるボクシング。選手、関係者が「あの選手の、あの試合の、あの一撃」をセレクトし、語ります。元WBC世界スーパーフライ級王者川島郭志氏(50)の一撃は、4階級制覇したファン・マヌエル・マルケス(メキシコ)の「パッキャオ戦の右ストレート」です。倒し倒されの末に、4戦目で初勝利となった一撃です。(取材・構成=河合香)

▼試合VTR 12年12月に米ラスベガスで、WBO世界スーパーライト級王者マルケスが、前WBO世界ウエルター級王者マニー・パッキャオ(フィリピン)と対戦した。契約体重はウエルター級で、WBOが「過去10年間で最高王者」という認定ベルトをかけた決戦。両者は04年はフェザー級で引き分け、07年はスーパーフェザー級で2-1、11年の第3戦はウエルター級で2-0と、パッキャオが僅差判定も連勝していた。試合は3回にマルケスが右のロングフックでまずダウンを奪う。5回にはパッキャオが右ストレートでダウンを奪い返す。続く6回はパッキャオ攻勢も、ゴング寸前にマルケスが右ストレートで2度目のダウンを奪う。パッキャオは失神して6回2分59秒KO。まさに一撃KOで、マルケスが4戦目で初勝利となった。

    ◇    ◇

あの一撃は衝撃的だった。前のめりに倒れたパッキャオが、しばらくピクリともしなかった。5回にパッキャオがダウンを返して、やや有利になったかと思った6回。パッキャオが攻めていて、あの場面も右ジャブをついていった。そこへマルケスが、きれいに右ストレートを決めた。

同じ相手との再戦は、互いに手の内を知っているので、大抵は慎重な戦いになるもの。3戦まではパッキャオが2勝1分けだったが、いずれもそう差はなかった。4度目の対戦に、互いに今度こそ決めてやろうと、実に攻撃的な試合だった。

マルケスは3回に左フックで最初にダウンを奪った。パッキャオはストレートで来ると思っていたと思う。そこへ外から打ち込んだ。最後もカウンター。マルケスのうまさも光った。

サウスポーに対しての左ボディーがうまい。下を打つふりをして上、上のふりで下と打ち分ける。パッキャオも下を意識させられた面もあっただろう。マルケスにはメキシコ人独特のリズムがある。日本人はとてもマネできない。あの体のうまさも強み。

パッキャオもリズムよく攻める。テクニックもあるが、階級を上げていくことでパンチ力優先になった。力ずくに変わっていった。そこにスキがあったのかも。それにしても、いまだ現役なのには驚かされる。

◆川島郭志(かわしま・ひろし)1970年(昭45)3月27日、徳島県海部郡海部町(現海陽町)生まれ。小さいころから父の指導を受け、海南高時代にインターハイ優勝。ヨネクラジムに入門し、88年に1回KOでプロデビュー。連続KO負けに左拳骨折の挫折を乗り越え、92年に日本スーパーフライ級王座を獲得した。3度防衛。94年に世界初挑戦し、WBC世界同級王者ブエノ(メキシコ)からダウンを奪い、判定勝ちで王座を獲得した。97年に7度目の防衛に失敗して引退。通算20勝(14KO)3敗1分の左ボクサー。00年には大田区内に川島ジムを開設した。

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「悪魔王子」の右フック/井上真吾トレーナーの一撃

ナジーム・ハメド

<ボクシング、忘れられない一撃~17>

一発のパンチですべてが変わるボクシング。選手、関係者が「あの選手の、あの試合の、あの一撃」をセレクトし、語ります。

世界3階級王者井上尚弥(27=大橋)を指導する父の真吾トレーナー(49)は、「プリンス」「悪魔王子」の異名を取った元WBO、WBC、IBFフェザー級王者ナジーム・ハメド(英国)の「右フック」を選んだ。セイド・ラワル戦の衝撃の一撃を振り返った。(取材・構成=奥山将志)

    ◇    ◇    ◇

▼試合VTR 96年3月16日、前の試合でWBO世界フェザー級王座を獲得した当時22歳のハメドが、ナイジェリア人のラワルとの初防衛戦に臨んだ。

両腕を下げたままガードをしない。相手の攻撃はダンスを踊るようなステップと、柔らかな上半身の動きでかわす。ひとたび攻撃のスイッチが入れば、予測不能、変幻自在な動きからスピードに乗った強烈なパンチを放ち、KOの山を築く。そんな「天才」のV1戦はわずか35秒で終わった。

ゴングと同時に両者がゆっくりとリング中央に歩み寄ると、やや重心を下げながら急激にスピードを加速させたハメドが強烈な右フックを振り抜いた。後ろに崩れ落ちたラワルはどうにか立ち上がったが、ダメージは深く、その後右アッパー2発を浴びてストップ。ハメドが放ったパンチはわずか3発、ラワルは0発で試合が終わった。

    ◇    ◇    ◇

うそでしょ!? 世界戦でこんなことあるの!? って、この試合は本当に驚きましたね。当時、私は25歳。まだ尚弥も拓真もボクシングを始める前で、デラホーヤやトリニダードなど、海外の試合をよく見ていた頃です。

ハメドは、見たことがない独特のスタイルで、試合当時は、まだ穴を指摘されたり、実力が完全に認められる前だったと思います。

この右フックの瞬間は、放送したテレビの映像も、試合開始に合わせて、遠目から観客席を含めたリング全体を映していました。その直後、2人が接近した瞬間に、相手が倒れたので、最初は何が起きたのか分かりませんでした。

サウスポーから右にシフトして下から突き上げるようなアッパーでKOしたり、その動きは、とにかく予測不能。ただ、ガードこそしていませんが、防御をしながら、相手の攻撃はしっかりと見切っている。多くの選手がハメドのまねをしましたが、誰もあの域には近づけませんでした。

指導者の立場でみれば、参考にしにくいボクサーですが、変則的であれ何であれ、それを徹底して追求し、自分のものに出来れば、それは技術なんです。驚きという意味で、この試合、最初の右フックは忘れられないですね。

◆井上真吾(いのうえ・しんご)1971年(昭46)8月24日、神奈川・座間市生まれ。中学卒業後、塗装業の仕事に就いて修業。20歳で明成塗装を起業。ボクシングはアマで戦績2戦2勝。39歳でアマチュアの井上ジムを設立したが、長男尚弥の大橋ジム入門に合わせ、大橋ジムのトレーナーに就任。14年に最も功績を残したトレーナーに贈られる「エディ・タウンゼント賞」を受賞。家族は美穂夫人と1女2男。

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ハーンズ大の字!ハグラーの右/畑中清詞会長の一撃

畑中清詞会長(19年3月撮影)

<ボクシング、忘れられない一撃~16>

一発のパンチですべてが変わるボクシング。選手、関係者が「あの選手の、あの試合の、あの一撃」をセレクトし、語ります。

元WBC世界スーパーバンタム級王者で、4階級制覇を狙う田中恒成を指導する畑中清詞会長(53)の印象深い一撃は「ハグラーの右」。85年に行われた統一ミドル級王者マービン・ハグラー(米国)-のちの初の5階級制覇王者トーマス・ハーンズ(米国)は「黄金の中量級」と称された80年代を象徴する一戦。劣勢の展開からハーンズを沈めたハグラーの右ストレートを畑中会長が語った。(取材・構成=実藤健一)

▼試合VTR 85年4月15日、米国ラスベガスで行われたビッグマッチ。開始早々、スロースターターだったはずのハグラーが逆手にとるように仕掛け、打ち合いに持ち込む。パンチのキレはハーンズで1回にハグラーの右目上、2回には額から流血させる。3回、出血のドクターチェックを受けてストップの危険を感じたハグラーが一気にギアを上げ、サウスポースタイルから右構えにスイッチして猛ラッシュ。ハーンズの弱点あごに右をヒットさせてぐらつかせ、さらに右ストレートを打ち抜くと、ハーンズは大の字に倒れ、10カウントが告げられた。

◇ ◇ ◇

俺が18の時だから、すでにプロになってた時だね。映像で見たのは覚えているけど、テレビ中継なのか、後でビデオで見たのかはっきりしないけど、すごいパンチだったのは記憶に残っている。あのハーンズが大の字に倒れて動けない。強烈に刺激を受けたよ。

といっても体格やバネは外国人特有のものだから。練習でまねしようとしたけど、すぐにあきらめた。日本人には無理だ、と。

黄金の中量級と言われた時代でね。4人(ハグラー、ハーンズ、シュガー・レイ・レナード、ロベルト・デュラン)の戦いが、楽しみでしょうがなかった。自分のボクシングの参考というより、違う次元のものとして見ていた。4人ともスーパーチャンプだからね。それぞれに個性があって、そのぶつかり合いにわくわくした。ファンだね。

ボクシングのスタイルはまねできないけど、当時のような活気は目指したいと思っているよ。その一環でU-15(ジュニア世代の強化を目的に07年に設立された全国U-15ジュニアボクシング大会)ができて、この大会から(WBA、IBF世界バンタム級王者)井上尚弥らがでてきた。

近い世代、階級にはうちの田中恒成もいる。それぞれが刺激し合い、いずれは「黄金の軽量級」となればいいね。あんなすごいKOシーンは、だれもが見たいもの。

◆畑中清詞(はたなか・きよし)1967年(昭42)3月7日、愛知県生まれ。中学からボクシングを始め、享栄高3年時にプロ入り。84年11月のデビュー戦で1回KO勝ちを飾り、その後5戦連続1回KO勝利。88年9月、15戦無敗でWBC世界スーパーフライ級タイトルに挑戦も、ヒルベルト・ローマンに完敗。91年2月、WBC世界スーパーバンタム級王座に挑み、計6度のダウンを奪って8回TKO勝ちでベルトを奪取した。戦績は22勝(15KO)2敗1分け。現在は畑中ジム会長。

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リナレス、プロ初ダウン奪った一撃/木村悠氏の一撃

ホルヘ・リナレス

<ボクシング、忘れられない一撃~15>

<ボクシング、忘れられない一撃~15>

一発のパンチですべてが変わるボクシング。選手、関係者が「あの選手の、あの試合の、あの一撃」をセレクトし、語ります。元WBC世界ライトフライ級王者木村悠氏(37)の一撃は、3階級制覇したホルヘ・リナレスの「ロマチェンコ戦の右ストレート」です。現役最強と言われる相手に敗れはしたが、プロ初ダウンを奪った一撃。生で見た感動を話してくれました。(取材・構成=河合香)

▼試合VTR リナレスはWBA世界ライト級王者として、18年5月にWBO世界スーパーフェザー級王者ワシル・ロマチェンコ(ウクライナ)を迎え撃った。会場は聖地と言われる米ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン。ロマチェンコのスピードあるパンチにリナレスは徐々に押され気味になったが、6回残り30秒で放った右カウンターをアゴに命中させる。プロ12戦目で初めてとなるダウンを奪った。ほぼ互角の展開となり、9回までの採点は三者三様のドロー。10回に回復したロマチェンコの細かいパンチを浴び、最後は左ボディーでついにダウン。10回2分8秒TKO負けで4度目の防衛に失敗したが、本田会長は「商品価値は高めた」と評した。ロマチェンコは世界最速での3階級制覇となった。

    ◇    ◇    ◇

あの試合は現地へ見に行った。米国での試合を見るのは初めて。一緒にずっと練習してきた仲間が、世界最強とも言われる相手に、どこまで通じるか、楽しみだった。

ともにスピードがあり、手数も多く、ロマチェンコが攻めてきても、リナレスも劣っていなかった。互角に近い劣勢ぐらいの感じ。そんな中で6回に、リナレスが右ストレートでダウンを奪った。彼らしい、すばらしいパンチだった。

その瞬間、会場が静まり返った。完全にアウェーだったのに、あの一発で雰囲気が一変した。完全に流れが変わり、9回で採点もドローとなって、ここから逆転できると思った。あの大きな舞台であと一歩、寸前まで追い込んだ。最後は負けたが、しびれた。

10回にダウンを喫したパンチは、ボクが座った席からは見えなかった。あとで見たら、左ボディーがいい角度で入っていた。リナレスは前の試合で脇腹を折っていた。治っていたが、ロマチェンコは試合後に「狙っていた」と言っていたそう。リナレスはまた折ったようで、ロマチェンコもすごかった。

リナレスの応援も兼ねての観戦だったが、行ったかいは十二分にあった。あらためてボクシングの面白さや深さを知ることができた。すでに会社を辞めて、新たな道に進み始めていた。あの試合を見たことで、ボクシングをもっともっと広めていきたいと思うようになった。

◆木村悠(きむら・ゆう)1983年(昭58)11月23日、千葉市生まれ。中2でボクシングを始め、習志野高をへて法大に進み、1年で全日本優勝。卒業後は帝拳ジムに入門し、06年10月にプロデビュー。6戦目で初黒星を機に、専門商社に入社してサラリーマンボクサーとなる。14年に日本ライトフライ級王座決定戦に判定勝ちで王座を獲得。3度防衛。15年11月に仙台市でWBC世界同級王者ペドロ・ゲバラ(メキシコ)に挑戦し、判定勝ちで王座獲得に成功した。翌年初防衛に失敗して引退。通算18勝(3KO)3敗1分。引退後は退職し、解説、執筆、講演やオンラインジム(オンラインサロン)を運営している。

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頭部陥没させたドネア左フック/山下正人会長の一撃

ノニト・ドネア(19年11月撮影)

<ボクシング、忘れられない一撃~14>

一発のパンチですべてが変わるボクシング。選手、関係者が「あの選手の、あの試合の、あの一撃」をセレクトし、語ります。

元世界3階級王者の長谷川穂積らを育てた、真正ジムの山下正人会長(58=西日本ボクシング協会会長)があげた一撃は「戦慄(せんりつ)の左フック」。11年2月のWBO、WBC世界バンタム級タイトルマッチで、挑戦者ノニト・ドネア(フィリピン)が、統一王者フェルナンド・モンティエル(メキシコ)を沈めた一撃。倒す要素が詰まった理想の1発を振り返る。(取材・構成=実藤健一)

▼試合VTR 11年2月19日、米ラスベガスでのWBO、WBC世界バンタム級タイトルマッチ。3階級制覇の統一王者モンティエルと2階級制覇王者のドネアが激突。軽量級屈指の好カードは、挑戦者のドネアが圧倒した。立ち上がりから右ストレートからの左フックのコンビネーションで主導権を奪い2回、強烈な左フックでキャンバスに沈んだモンティエルは大の字で動けず2分25秒TKO負け。モンティエルの右側頭部は陥没していた。

◇ ◇ ◇

最もインパクトあったんがドネアの左フック。モンティエルが衝撃的な倒れ方やった。パンチというのは当てるだけやない。大事なのは呼吸、タイミング。それをあらためて思い知らされた一撃やった。

選手を指導する上で、常に選手に教え込むのがタイミング。言葉にするのは難しいけど、そこは0コンマ何秒の世界。たいがいはタイミングが早かったり遅かったり。ここで打たなあかん! というのは練習で体に覚え込ますしかない。その点でドネアの左フックはすごい、完璧なパンチやった。

ドネアの場合、あの左フックにたどり着くまで、いっぱいの伏線があった。右ストレート、ジャブ、いろんな伏線を張り巡らして、最後だけは左フックで仕留めると決めている。

1発で、狙い澄まして、というのは難しい。自分が最も自信があるパンチをいかに効果的に打てるか。そういう視点からも、あの試合から学ぶものは少なくなかった。

選手には「半呼吸」を教えている。打たれてすぐに打ち返しがちだが、そこで半呼吸ためることができれば、相手もタイミングがとれずに隙が生まれやすい。倒すのは決して力ではない。ドネアの左フックは、自分が指導する上で理想としている。

◆山下正人(やました・まさと)1962年(昭37)4月30日、兵庫県伊丹市生まれ。伊丹東中から村野工へ。野球部で俊足巧打の1番打者として活躍。3年夏の県大会ではベスト4と甲子園に迫った。卒業後、兵庫県警で暴力団対策の刑事。99年に民間の警備会社に移り、千里馬神戸ジムでトレーナー。長谷川穂積を世界王者に育て、05年度にトレーナーのMVP「エディ・タウンゼント賞」。07年に真正ジムをたち上げる。昨年度から西日本ボクシング協会会長。

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WBC会長が再開ガイドライン、自宅ジャッジ提案

WBCのスライマン会長(2016年4月8日撮影)

ボクシングWBCのスライマン会長が5日、オンライン会見でジャッジが自宅で採点を提案した。新型コロナウイルスの感染拡大で興行がほぼ中止する中、再開に向けてのガイドラインを作成し、各国のコミッションやプロモーターに送付した。

その中でジャッジは会場外でテレビやネットを通して各ラウンドを採点し、アプリケーションを使用して会場内のスーパーバイザーが集計する、リモート・スコアリングシステムを提案している。会場内の人数を極力減らす狙い。

また、ボクサーやトレーナーらのスタッフは、試合の2週間前からホテルなどに隔離し、日々の検温などで健康をチェックする。記者会見や計量は公開せずに、ネットで配信を推奨している。

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海老原博幸カミソリ左ストレート/柴田国明氏の一撃

63年9月18日 世界フライ級選手権 1Rから王者ポーン・キングピッチ(左)を果敢に攻める挑戦者海老原博幸

<ボクシング、忘れられない一撃~13>

一発のパンチですべてが変わるボクシング。選手、関係者が「あの選手の、あの試合の、あの一撃」をセレクトして語ります。『天才パンチャー』の異名を取った元世界2階級制覇王者(WBCフェザー、WBA、WBCスーパーフェザー)柴田国明さん(73=ヨネクラ)の忘れられない一撃は「キングピッチを初回にKOした海老原の左ストレート」です。

▼試合VTR 1963年(昭38)9月18日、東京都体育館で世界フライ級王者ポーン・キングピッチ(タイ)に、同級4位の海老原博幸(協栄)が挑戦した。初回終盤、海老原はサウスポースタイルから『カミソリパンチ』と呼ばれた左ストレートで痛烈なダウンを奪うと、立ち上がった王者に連打でラッシュ、最後は再び左ストレートをさく裂させて1回KO勝ち。白井義男、ファイティング原田に続く、日本人3人目の世界王者になった。足をけいれんさせたキングピッチはしばらく立ち上がることができなかった。

あの海老原さんの左ストレートは、今も鮮明に覚えています。それほど美しかった。“前、後ろ、前、後ろ”と彼特有のフットワークのリズムに合わせて、“パーン”と放ったパンチ。足と手のタイミングがぴたりと合って、体重移動から拳の握り具合まで完璧でした。まさにサウスポーのお手本とも言える左ストレート。挑戦者のリズムに引き込まれていたキングピッチはよける術がなかった。あれを正面からアゴに食らったら立てません。

海老原さんの左は“カミソリ”と呼ばれるほど切れ味鋭かった。パンチの威力は筋力やパワーだけでは生まれません。スピード+正確性+パワー。この3つが1つになって初めて破壊力のあるパンチが打てるのです。それが海老原さんの左ストレート。あのタイミングは理屈ではなくて、金平会長との長い練習の中で体に染み付いていたのでしょう。だからあの一瞬に出せたのだと思います。

キングピッチ-海老原戦は、まだプロデビューする前にテレビで見ました。衝撃を受けたというより、ただ感激しましたね。後年、海老原さんとゴルフをした時にあのパンチについて聞いたら「柴田くん、あれはよく分からないんだよね」と答えました。狙ったのではなくて、無意識に打ったからだと思います。僕もKOしたパンチは不思議と力が入っていなかった。体感で打っていたとしか言いようがないですね。

海老原さんはパンチも強かったけど、特にすごかったのは足の動きなんです。前後のフットワークは世界一。一方、ファイティング原田さんは首を左右に振ってリズムを取るのが抜群でした。僕は上体や肩を小刻みに動かすボディーワークを生かしたリズムボクシング。ボクシングで強くなるには、自分のリズム、つまり型をいかにつくるか。当時の世界チャンピオンは、みんな自分の型を持っていました。私も自分の型にはまったときは負けませんでしたよ。

◆柴田国明(しばた・くにあき)1947年3月29日、茨城県日立市生まれ。65年3月プロデビュー。才能は日本歴代屈指と言われ『天才パンチャー』の異名を取った。70年12月に敵地メキシコで名王者サルディバルを13回KOで下してWBC世界フェザー級王座獲得。3度目の防衛戦で敗れたが、73年3月にWBA世界スーパーフェザー級王座を獲得して2階級制覇。2度目の防衛戦で王座を手放すも、74年2月にWBC同級王座を獲得。3度の防衛に成功した。77年に引退。通算戦績は47勝(25KO)6敗2分け。163センチの右ファイター。名門ヨネクラジムの最初の世界王者。

63年9月18日 世界フライ級タイトルマッチ 王座に輝き関係者らに抱えられる海老原博幸(左)と金平正紀ジム会長 
63年9月18日 世界フライ級タイトル 王座に輝いた海老原博幸(左)を祝福する力道山(中央右)

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赤井英和8連続KO劇の左フック/井岡弘樹氏の一撃

浪速のロッキーこと赤井英和(1984年5月30日撮影)

<ボクシング、忘れられない一撃~12>

一発のパンチですべてが変わるボクシング。選手、関係者が「あの選手の、あの試合の、あの一撃」をセレクトし、語ります。

   ◇   ◇   ◇

元世界2階級王者の井岡弘樹氏(51=井岡弘樹ジム会長)の人生を変えたのが「浪速のロッキー」の左フック。現在はタレントで活躍する赤井英和が、1回KOでデビュー以来8連続KO勝利を飾った一撃をあげた。この試合で赤井にあこがれ、所属するグリーンツダジムに入門。世界王者への道を歩みだしたという。(取材・構成=実藤健一)

▼試合VTR 81年12月18日、デビューから7戦連続KO勝ちで「浪速のロッキー」と呼ばれ、人気の赤井はノンタイトル10回戦ながらテレビ中継された。相手はアウトボクサーの桑田修孝。距離をとりたい相手にさせず、立ち上がりから前に出てラッシュ。1回1分25秒に打ち下ろす右フックで最初のダウンを奪い、立ち上がったところに連打で2度目のダウン。最後は強烈な左フックで試合を終わらせ、デビューから8連続KO勝ちとした。

自分がボクシングをやろうと決めたきっかけが、赤井先輩の左フック。中1の冬やった。テレビで見ていて、最後はものすごい左フックでKOした。いっぺんにあこがれましたね。

スポーツ全般、好きやった。もちろん、格闘技もボクシングに限らず。そんな中で、あの試合が自分の運命を決めた。中2から赤井先輩と同じジムに入った。日本王者じゃなく、世界王者になろうと決めた。

赤井先輩は派手な言動が注目されがちやけど、ものすごい練習する。キャンプも一緒させてもらったけど、すごい練習量でした。自分にも世界の目標があるから、絶対に音を上げない。でも実際は、頭が下がる思いでした。

赤井先輩は大けが(85年2月の試合で意識不明に陥り開頭手術、その後に引退)で世界王者の夢を果たせなかった。自分も病院に行かせてもらったけど、ものすごいショックでした。先輩の分も夢をかなえたい。その思いは当然あった。

結果的に世界王者になれたのは、練習のおかげ。きつい練習も「頑張ろう」と踏ん張れたのは、赤井先輩のおかげやと思ってます。

◆井岡弘樹(いおか・ひろき)1969年(昭44)1月8日、大阪・堺市生まれ。もともとは野球少年だったが、赤井にあこがれて中学2年の時にグリーンツダジムに入門。86年1月プロデビュー。87年10月、日本選手最年少の18歳9カ月でWBC世界ミニマム級王座を獲得。91年12月にWBA世界ライトフライ級王座を獲得し2階級制覇。その後、3階級制覇を狙ったがならず、98年12月にノンタイトル戦でのちのWBC世界スーパーフライ級王者徳山昌守に敗れ、引退した。戦績は33勝(17KO)8敗1分け。現在は井岡弘樹ジム会長。

◆オンライン教室 井岡弘樹会長は外出自粛で自宅にこもる人たちへ、オンラインを利用してボクシングを絡めたエクササイズ教室を開設中。ボクシングとダイエットを融合して「ボクシエット」と命名し、午後8時からライブ配信。「井岡弘樹のボクシエット」で検索。

井岡弘樹氏

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畑中ジム会長、田中恒成の次戦「何も進めようない」

畑中ジムの畑中清詞会長(2018年9月18日撮影)

4階級制覇を目指す田中恒成(24)が所属する畑中ジムの元WBC世界スーパーバンタム級王者・畑中清詞会長(53)は、緊急事態宣言の期間延長を冷静に受け止めた。

当初は6日までの期間が今月いっぱいに延びた。プロボクシングはすでに6月いっぱいまでの興行中止、7月から条件付きで興行再開を目指す方針を示していた。政府の今後の方針を受けた畑中会長は電話取材で「変わりないよ。(それ以前に)5月いっぱいは(活動再開は)無理だろうと思っていた」と話した。

田中のマッチメークに関しても「何も進めようがない」としながら、ゴールデンウイーク明けにも単独でのジムワークは認める方向。日本フライ級2位の畑中建人(21)と時間差で使用する意向。通常に戻る日を見据え、徐々に動きだしていく。

田中恒成(中央)、畑中ジムの畑中清詞会長、左は田中の父・斉トレーナー(2019年3月17日撮影)

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西岡利晃、帝拳魂の左ストレート/葛西裕一氏の一撃

西岡利晃(11年10月撮影)

<ボクシング、忘れられない一撃~10>

一発のパンチですべてが変わるボクシング。選手、関係者が「あの選手の、あの試合の、あの一撃」をセレクトし、語ります。帝拳ジムの元トレーナー葛西裕一氏(50)の一撃は、西岡利晃氏の「ゴンサレス戦の左ストレート」です。日本人初の北米で防衛を逆転KOで決めた、技術と裏話を披露してくれました。(取材・構成=河合香)

▼試合VTR 西岡は09年5月に敵地メキシコに渡り、WBC世界スーパーバンタム級王座のV2戦に臨んだ。相手は同級2位の指名挑戦者ジョニー・ゴンサレス。2階級制覇を狙った人気の強打者で、1回には右ストレートを浴びてダウンを喫した。長いリーチにも苦戦となったが、3回1分すぎに左ストレートを打ち込み、くの字になって吹っ飛ばしてダウンを奪い返した。立ち上がってはきたがふらついてレフェリーストップ。3回1分20秒TKOで劇的逆転勝ちを決めた。日本人の海外防衛は24年ぶり2人目で、本場の北米では初の偉業だった。王座獲得までは5度目の挑戦で39戦かかったが、現地で「モンスター・レフト」と呼ばれたこの一撃で名を上げ、通算7度防衛に成功した。

    ◇    ◇

あの瞬間、鳥肌が立った。そんなことは、後にも先にもあの試合だけ。一発で倒すのがボクシングの魅力。西岡が自信を持って打ち込んだ、奇跡とも言える逆転の一撃だった。

あの時、西岡は2ステップして打ち込んだ。普通は5センチぐらい1度だけステップする。それが最初15センチ、さらに8センチぐらい踏み込んだ。

ゴンサレスはリーチがあって懐が深く、さらにバックステップする。1度では入り切れなかった。2ステップは教えてないし、やったこともなかった。西岡もあとで「2度とできない」と言っていた。天才肌を示した一撃だった。

ゴンサレスは左フックが強く、まずは右腕を上げて徹底ガードした。それが初回に右をもらってダウン。前評判も不利と言われ、地元の人気者を相手に普通は負け試合。でも、西岡は相手に近づけていて、距離感では勝てると思った。

実は本田会長あっての一発と言っていい。試合前最後の食事で、ホテルでランチを食べた。その後はみんなで近くを散歩した。そうしたら、広場かなんかで、西岡が左ストレートを打ち出した。

それを見た会長が「もっと肘を絞めろ」と教えだした。「もっと上」とか「伸ばせ」とか言っての軌道調整。そのうち、きれいなフォロースルーで打ち切ると「それだ!それだ!」って。そのパンチで試合を決めたので、鳥肌も立ったんだと思う。

世界挑戦は4度失敗したが、元々才能があり、のみ込みも早かった。フィジカルやスタミナがなかった。ケガもあって時間はかかったが、その分、しぶとい帝拳魂がすり込まれ、つないでくれた。その象徴があの一撃だった。

◆葛西裕一(かさい・ゆういち)1969年(昭44)11月17日、横浜市生まれ。横浜高3年でインターハイ優勝。専大中退で帝拳ジムから89年プロデビュー。94年に20戦無敗でWBA世界スーパーバンタム級王座挑戦も1回KO負け。96年にラスベガス、97年に横浜でも世界挑戦は3度とも失敗した。右ボクサーファイターで通算24勝(16KO)4敗1分け。引退後はトレーナーとなり、西岡を皮切りに三浦、五十嵐、下田を世界王者に育てる。17年に退職して、東京・用賀にフィットネスジムのGLOVESを開いた。

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前王者沈めた自賛の右ストレート/徳山昌守氏の一撃

01年5月20日WBC世界スーパーフライ級タイトルマッチ、チョ・インジュ(左下)を5回45秒でKOした徳山昌守は統一旗を手にガッツポーズ

<ボクシング、忘れられない一撃~9>

一発のパンチですべてが変わるボクシング。選手、関係者が「あの選手の、あの試合の、あの一撃」をセレクトし、語ります。

元WBC世界スーパーフライ級王者徳山昌守氏(45)があげたのは「ソウルの一撃」。自身の防衛戦、敵地ソウルで前王者チョ・インジュを返り討ちにした右ストレート。試合前からさまざまなトラブルに見舞われた裏話とともに振り返る。(取材・構成=実藤健一)

▼試合VTR 01年5月20日、徳山は敵地のソウルに乗り込み、ベルトを奪った相手のチョ・インジュとのリマッチで2度目の防衛戦に臨んだ。試合は立ち上がりから距離をとるチョ・インジュを徳山が追いかける展開。左ジャブでペースをつかみ、4回に右を当ててダメージを与える。そして5回45秒、右ストレートで失神KO勝ちした。朝鮮半島の南北問題が動いた時代で、朝鮮籍の徳山がソウルで行う世界戦とあり、現地の注目度を含めて試合前から異様な空気だった。

◇ ◇ ◇

自分にとって生涯一の一撃。ただ、驚くほど手ごたえはなかった。ゴルフのティーショットで、きっちりスイートスポットで捉えたら当たった感触がないって言うでしょ。手にガツンとくるときは、変なところに当たっている。あごをきれいに打ち抜くから、脳にダメージを与える。気持ちいいほど感触がなかった。

打った瞬間、相手が倒れる前にクルッと背を向けた。マンガのように。立ってくるかと思ったけど、ニュートラルコーナーで振り向いたら失神していた。

試合前からいろいろあった。(韓国で試合した)先輩から聞いてたんで警戒して、相手陣営が指定したホテルに泊まらず。出された食事も手をつけなかった。ホテルも特定されないよう複数の部屋を借りていたけど試合の前の日、夜中に電話。男性の声で「徳山選手が泊まってますか」って。「違います」と言って、電話線を抜いて寝た。試合当日も自分のコーナーの目線に強烈なライトが当たるようになっていたそう。関係者が気づいて抗議したけど、そのままなら目をやられていた。(※前日計量も予備計量でオーバーも、はかりの不具合を発見して修理し本計量はアンダーで一発クリア。ただ起きたすべての事象の原因は不明)。

倒さないと勝てない。ファイタースタイルで闘おうと思っていた。でも自分のボクシングが崩れると、考えを変えた。変な判定になったら、みんなの助けで再戦はできるだろうと。そう切り替えたのが、結果的にKOになったと思う。

36戦して、あんなパンチは1発だけ。あの感触、気持ちよさはもう一生、味わえないでしょう。

◆徳山昌守(とくやま・まさもり)1974年(昭49)9月17日、東京生まれ。在日朝鮮人3世で本名は洪昌守(ホン・チャンス)。94年9月プロデビュー。99年9月に東洋太平洋スーパーフライ級王座を獲得し、00年8月に世界初挑戦でWBC世界同級王座を獲得。8連続防衛も9度目の防衛戦で川嶋に1回TKO負けで陥落。05年7月の再戦で返り咲き、初防衛に成功後引退した。戦績は32勝(8KO)3敗1分け。

※チョ・インジュは■仁柱。■は十の下に日を二つ縦に並べ、十の縦棒が一つ目の日を貫く

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