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大相撲裏話

九州場所13日目の26日から外食解禁 思い思いの初日の夜

負けたら街で酒を飲んで験直し。勝ったら気分よく酒を飲む。そんな力士は多く、年に1回の地方場所なら味も気分も格別だ。だが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、力士らは1年半以上、本場所中の外食が禁止となっていた。しかし、世間の感染者数が低位置で推移しているのを受け、日本相撲協会は大相撲九州場所13日目の26日から、午後10時までに宿に戻るなどの制限付きで外食を許可。力士らは早速、思い思いに解禁日の夜を過ごした。

千代翔馬は、宿舎近くの焼き鳥屋に付け人と一緒に行った。その後、ラーメン屋にはしご。「いつもよりおいしかった」と久しぶりの本場所中の外食を堪能した。また、自身のリフレッシュはもちろんだが「やっぱり付け人を連れていってあげたかった。いつもお世話になっているので」と感謝を込めた外食でもあった。天空海は、九州は宮崎名物の「辛麺」に舌鼓を打った。「久々の現場はいいですね。我慢してたので。気分転換になりますね」と声を弾ませた。

一方、志摩ノ海は後援会関係者と食事をしたが「ずっと同じ生活リズムだったので体がびっくりした」という。寄り道や外食をしない生活に慣れ「それはそれで体調管理ができていた。自分と向き合う時間が作れていたので」とコロナ禍での生活が自身に合っていたことを実感。また、本場所中は何度か外食に行く程度だった琴ノ若は「この生活に慣れてあまり考えなくなった」と外食への欲が出なくなったといい、今場所の外食の予定はないとか。力士らは、外食解禁日にさまざまな思いを持った。【佐々木隆史】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

「相撲をエンターテインメントに」元大関小錦、来日40年へ鼻息荒く

元大関小錦のタレントのKONISHIKI

新時代に突入した角界を注視する人物がいる。ハワイ出身で元大関小錦のタレントのKONISHIKI(57)は「(一人横綱となった)照ノ富士はたいしたもんだよ。でも他と(実力)差がありすぎる。早くニュースターが出てこないかな」と、若手の台頭を期待した。

求めるのが出稽古などの外出制限緩和だ。「俺たちの時代と比べられないけど、もっと稽古しないとね。部屋にこもっててもしょうがないよ」。気軽に外食できない状況も、力士にとって精神的な負担になっているという。「外から見ていると厳しすぎる。刑務所だよ。お相撲さんはよく我慢している」と同情していた。

自身は来年6月で来日から丸40年となり、両国国技館などの大規模な会場での記念イベントの開催に意欲を示している。「40周年だから非常に大事な1年だよ。アメリカでもやってみたいね」と鼻息は荒い。九州場所後の12月5日には大相撲を話題にしたトークメインのイベント「抱きしめてツナイト六本木場所」(ビルボードライブ東京)に出演。「相撲をもっと分かりやすいエンターテインメントにしたいんだ」と生き生きと語った。【佐藤礼征】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

まげつかむ反則でも取組続行「後に物言いを」きっかけは12年“誤審騒動”

九州場所8日目 貴景勝(右)のまげをつかみ反則負けになる逸ノ城(2021年11月21日撮影)

見慣れない光景だった。8日目の貴景勝と逸ノ城との一番。

逸ノ城が序盤の攻防で貴景勝のまげをつかむ反則があったものの、勝敗を決定づける場面ではなく取組は2分以上続行。貴景勝を土俵下に吹っ飛ばした逸ノ城に軍配が上がった直後、二子山親方(元大関雅山)は素早く手を挙げた。「(勝負の)後に物言いをつけるように指導されている。確認事項で物言いをつけました」。

同じく土俵下で審判を務めていた友綱親方(元関脇旭天鵬)によると、5人の審判のうち3人が逸ノ城の「まげつかみ」に気付いていたという。「基本は流れとしては止めちゃいけない。(協議では)みんなで話し合って、最後はビデオでも確認してもらった。あんなにがっちりつかんでいたから、確認するまでもなかったんだけどね(笑い)」。冗談を飛ばしつつ、入念に確認を行った。

SNSでは「反則があった時点で勝負を止めればいいのに」という意見も広がったが、審判部では、勝負がついたか自信がないときは取組後に物言いの手を挙げるよう指導されている。きっかけは12年九州場所9日目、日馬富士と豪栄道の一番。日馬富士の足が出たとして、湊川審判委員(元小結大徹)が取組を止めさせたものの、勝負はついておらず異例の「やり直し」に。日馬富士の左かかとが俵に残っている写真が報道されるなど“誤審騒動”になった経緯があった。

翌日には当時審判部長の鏡山親方(元関脇多賀竜)が、確信がないときは取組後に物言いの手を挙げるように周知させた。「(当時現役だったため)俺はまだ審判部にはいなかったけど、審判になった(配属された)ときはしっかり言われましたね」と友綱親方。審判部の親方衆が定期的に入れ替わる中で、指導は引き継がれているという。

【佐藤礼征】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

九州場所8日目 貴景勝と逸ノ城の一番で物言いが付き協議する審判団(2021年11月21日撮影)

巨体支える力士に乾燥は大敵「水分量多めに」奮闘支える土俵の“荒木田土”

大相撲九州場所 6日目の幕内土俵入り(2021年11月19日撮影)

2本足で巨体を支える力士にとって「乾燥」は大敵になる。

肌ではなく、土俵の話。名古屋場所など地方場所の土俵が「滑りやすい」との指摘が力士から挙がり、17年九州場所から本場所で使用する土が統一された。全6場所で「荒木田土」を納入する初野建材工業(埼玉・川越市)特販部の内田英明さん(53)は「福岡は名古屋よりも運ぶのに1日ほどかかるので、水分量を多めにします」と話す。

川越市内で採取する同社の荒木田土はプロ野球のマウンドや春季キャンプなどで重宝されるなど、他競技からも信頼が厚い。角界でも近年は、本場所の環境に近づけたい部屋持ちの親方衆から発注が増えているという。元横綱稀勢の里が興した荒磯部屋も、九州場所宿舎の土俵で使用。需要は強まっている。

2年ぶりの九州場所の土俵。大関正代は「(季節的に)乾燥はしているけど、滑るような感じはそこまでしない」と感触を語る。「一番(大事なこと)は水分量。四つ相撲の方は特にそうですけど、力士の方は土が足につく方がいいと聞いているので、非常に気を使っています」と内田さん。力士の奮闘を支えている。【佐藤礼征】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

新十両昇進目指す塚原 力士として床山として兄弟奮闘中

塚原

新十両昇進を、そろって待ち遠しくしている兄弟がいる。中学横綱に輝いた東幕下17枚目塚原(22=春日野)は、17年九州場所で初土俵を踏んで以来、ここ最近は幕下上位で奮闘中。この日は日体大で学生横綱に輝き、幕下15枚目格付け出しデビューした欧勝馬を強烈な突き押しで圧倒した。新十両昇進に向けて、毎場所力が入っている。

その兄の背中を追うようにして、9月の秋場所後に弟の床栃(18)が床山として春日野部屋に入門した。小学校時代はともに地元・埼玉の相撲クラブで汗を流した仲だが、床栃は中学進学以降は野球に打ち込んだ。しかし、兄が奮闘している姿を見て「兄(塚原)の大銀杏(おおいちょう)を結いたい」と、高校を中退して角界入りを決意。五等床山として日々、兄弟子らのまげを結って鍛錬中だ。

弟の熱い思いに当然、兄も刺激を受けている。現在は毎日、弟の床栃にまげを結ってもらっているという。入門したばかりの床栃にはまだ、大銀杏を結う技術がないというが「まずは自分が十両に上がらないと始まらない。1日でも早く上がれるように、しっかり頑張ります」と兄。弟のため、兄のため、ともに夢に向かって精進する。【佐々木隆史】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

引退相撲にもコロナ禍 元大関豪栄道「やっと動けるようになった」

元大関豪栄道の武隈親方(2020年1月29日撮影)

新型コロナウイルス感染症予防で大相撲の力士、引退した親方も苦戦が続く。元大関豪栄道の武隈親方(35)が開催中の大相撲九州場所4日目(福岡国際センター)の17日、来年1月29日に東京・両国国技館で引退相撲を行うと発表した。

武隈親方は「10月から動きだせるようになった」と明かし、「引退しても来てよかったと思ってもらえるように頑張るだけです」。引退した力士は少なくないがコロナ禍で引退相撲ができない状況が続いていた。

それだけに本人の意欲も強い。「やっと動けるようになった。頑張っていきたい」。引退相撲=まげを切る儀式でもあるが長年、土俵を盛り上げてきた力士にとっての節目となる。それが、コロナ禍で阻まれてきたのが現状だ。

今後は親方として、強い力士を育てていく。「自分ができなかったことを成し遂げてほしい。必死に頑張りたい」。自身は横綱への夢を果たせなかった。その夢を託す力士を育てることが最大の夢。最初のスタートが、引退相撲の大舞台となる。【実藤健一】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

引退から1年…元琴奨菊の恩返し「このご時世で何を伝えられるか考えたい」

現役時代の琴奨菊(2020年9月27日撮影)

元大関とはいえ、さすがに現役の関取には敵わないという。

引退して15日でちょうど1年。稽古場でまわしを締めて力士を指導する秀ノ山親方(元大関琴奨菊)は、気分次第で相撲を取ることもある。「この前は(弟弟子で十両の)琴勝峰と三番(稽古)をやったけど、1発で持っていかれましたね。さすがにもう厳しいかなあ」と苦笑い。1年前の引退会見では「できるならまだ相撲を取りたいのが本音」と語っていたが、徐々に力士としての踏ん切りはついてきた。

東京開催だった昨年11月場所中に現役引退を発表した。2年ぶりの九州開催。福岡県柳川市出身で、ご当所場所では大歓声を浴びた。7月の名古屋場所後に取り外された16年初場所の優勝額は、今場所後に地元柳川市の文化体育館に寄贈する予定。「今振り返ってみても九州の方々の応援は本当に力になった。地元に何かしら還元したい」。形にして“恩返し”する。

コロナ禍で先は見通せない状況だが、断髪式は来年の開催を目指している。「自分にできるのは相撲普及しかない。このご時世で何を伝えられるかじっくり考えたい」。19年の力士生活を支えてくれたファンや関係者に思いを伝える。

【佐藤礼征】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

大相撲見据えた日体大2年花田秀虎 学生の段階で「大関」レベル意識

7大会ぶりに相撲の学生王者となった日体大

11月6、7日と大阪・堺市大浜公園相撲場で行われた全国学生相撲選手権を取材した。文字通り、学生相撲の頂点を争う。この大会から大相撲の世界へとつながった力士は少なくない。「金の卵」を発掘する意味でも楽しみな大会だ。

初日、個人戦の決勝は日大4年の川副圭太と日体大2年の花田秀虎が対戦した。身長165センチと小柄な川副が、鋭い立ち合いから懐に潜り込み、休まず攻めたて最後は寄り倒した。「ずっとけがしてたんで、試合に出ることもできず、この大会にすべてをかけていた」。今年5月ごろに右アキレス腱(けん)を部分断裂し、10月になってようやく相撲がとれるようになった。最終学年、最後の学生選手権にすべてをかけた意地は見事だった。

一方、負けた花田は大相撲まで見据えた「金の卵」か。昨年度の全日本選手権で1年生でアマ横綱となった。184センチ、138キロ。体格的にも伸びしろは多い。アマ横綱を獲得したことで、大相撲にいけば幕下15枚目格付け出しの資格を得られる。今回、学生横綱も獲得していれば、10枚目格の超エリートコースだが、資格期限は2年。いろいろな制限をかけられているが、花田は将来を見据えて学生の期間を有効にすべく考えている。

日体大は団体で7年ぶりの優勝を飾った。大将を務めた花田の試合後の言葉が印象的だった。「学生の間に(大相撲の)大関クラスの力をつけたい。その力を持って(大相撲に)行きたいです」。学生の段階で、すでに「大関」レベルを意識する。その思いの深さに感心するしかなかった。

花田は卒業してから大相撲に行く方針。アマ横綱の“特典”は期限外となるがこの先、タイトルを積み重ねる自信もあるのだろう。大相撲ファンが望むひとつが「日本人横綱」。まだ先になるかもしれないが、花田には楽しみな可能性が詰まっている。【実藤健一】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

待ちわびた2年ぶり九州場所「喜久家」軍配モチーフのイヤリングが反響

大相撲九州場所の売店「喜久家」で販売される予定の軍配をモチーフとしたイヤリング(喜久家提供)

2年ぶりの福岡開催を控えて、グッズ販売もにぎわっていきそうだ。

大相撲九州場所(14日初日、福岡国際センター)まで2週間を切った11月3日、九州場所のグッズなどを扱う「大相撲売店喜久家」(福岡市)(@sumokikuya)がツイッターに投稿したオリジナルイヤリングの画像が話題になった。行司の軍配がモチーフとなっており、土俵上のつり屋根の4色の房も表現されている。同市のアクセサリーブランド「Jemy」とのコラボ商品。5日時点で400以上の「いいね」が付くなど反響を呼んでおり、喜久家担当者の清水沙恵さん(28)は「びっくりしております」と、想像以上の反響に驚いたという。

イヤリングの他にピアスや、マスクの耳などに引っかけて使う「マスクチャーム」を会場内の売店で販売する。「マスクチャームはお相撲さんの形や、呼び出しさんを意識した扇子、他にもダルマなど縁起のいいものをそろえる予定です。これからSNSでも画像をアップしていきます」。ツイッターだけでなく、インスタグラムでも精力的に情報を発信している。

「喜久家」が大相撲と携わるようになったのは1974年(昭49)で、50年近い歴史があるという。沙恵さんの母のり恵さん(55)が3代目社長。九州出身の“ご当地力士”をプッシュしながら、さまざまなグッズを取り扱っている。

昨年の新型コロナウイルス感染拡大の影響で11月場所は東京で開催され、同時期の福岡国際センターは閑散としていた。19年以来2年ぶりの九州場所は、有観客で開催を迎える見通し。沙恵さんは「無事に15日間が終わればいいなと思っています」と願うように話した。

5日に取材に応じた熊本県出身の大関正代(30=時津風)は「見に来る人も楽しみにされていると思う。成績の面でこだわっていきたい」と奮起を誓った。土俵に上がる力士も、開催に携わる地元関係者も、さまざまな思いを胸に、待ちわびた2年ぶりの九州場所に臨む。【佐藤礼征】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

65歳まで細く長くやれれば、ギラン・バレー症候群克服した式守勘太夫

トンボ柄の装束を着た式守勘太夫

ギラン・バレー症候群を克服して土俵に上がっている行司がいる。

幕内格行司の式守勘太夫(52=宮城野)は、2017年12月の冬巡業中にギラン・バレー症候群を発症し、18年初場所から5場所連続休場。同年九州場所で本場所復帰を果たし、今年の九州で丸3年になる。土俵での所作を見る限り、特に問題はない。近況を聞くと「まだ100%ではないんです。だいたい8割くらいで、あとの2割くらいは不自由なところがあるんですよね」と明かしてくれた。

突然、症状が出たのは、17年12月8日。式守与之吉を名乗っていた当時の宮崎市巡業の朝。腕に力が入らなくなり、顔が洗えなくなった。緊急帰京したが、羽田空港に着くころには自力で歩けなくなった。原因は不明。四肢に力が入らなくなる病気、ギラン・バレー症候群だった。緊急入院し、5日間点滴を受け続け、リハビリ開始。当初は首しか動かせず、歩けるようになったのは18年4月から。復帰をあきらめた時期もあったが、懸命の治療の末、同年九州場所から土俵に戻った。

あれから3年。いまだ、完全回復の途上にある。

「一番は、握力が戻らないんですよ。一時は40何キロくらい両方あったんですけど、今は片方で15~20キロで。思い切りぐーっとつかむのが難しいところなんですよね。あとは、小刻みに手が震えます」

握力をカバーするため、右手に持つ軍配は軽いものに代えた。毎日1時間、硬めのゴムを指に引っかけ、指で引っ張るリハビリを続けている。通院は2カ月に1回。経過を報告し、今後のリハビリについて医師から助言を受ける。もともと76キロあった体重は一時、10キロ以上も減ってしまったが、今は70キロまで戻ったという。

飲み薬も服用している。効き始めると、3、4時間だけは手の震えが止まる。本場所中は自分の出番がくる1時間前に、2種類の錠剤を1錠ずつ飲む。仕事をまっとうしようとする強い気持ちで取組を裁き、復帰後もミスはほとんどない。1度だけ、力士とぶつかって転倒したくらいだ。

行司を務められる喜びに加え、励みとなる後押しもあった。

かねて支援してくれた後援者、エド川薬局が復帰を祝って装束を贈ってくれた。デザインは、勘太夫が自ら担当した。1年半かけて仕立て、今年の夏場所で初披露した。

上半身などに5色のトンボがあしらわれている。前にしか飛ばない「勝ち虫」として相撲界では特に縁起がいいとされ、浴衣地のデザインに組み込む関取衆も多い。勘太夫は左右の羽の大きさに工夫を凝らし、横綱土俵入りの「雲竜型」と「不知火型」を表現したというこだわりの装束だ。

日ごろは東京・荒川沿いを自転車で往復するなど、下半身強化に努めており、100%の体調回復まで少しずつ歩みを進めている。リハビリ期間とコロナ禍が重なったため、常に用心してきた。

今年7月には、米食品医薬品局が、米ジョンソン・エンド・ジョンソン製の新型コロナウイルス感染症のワクチン接種により、ギラン・バレー症候群の発症リスクが高まる可能性があると発表した。ギラン・バレー症候群は大半の人は完全に回復する。米国の例ではあったが、当事者としてはワクチン接種に慎重にならざるを得ない。熟考の末、ワクチン接種に踏み切り、発熱などの副反応もなし。前向きに、九州場所へ向けて体調を整えている。

病気を経験し、仕事へ向き合う気持ちには少し変化も表れた。「やる気がないわけじゃないんです」と前置きし、勘太夫はこう続ける。

「偉くなりたいとかそういう気持ちは一切なく、65歳まで細く長くやれればいいという気持ちですね。(定年まで)まっとうすることが夢ですね。欲は頭の別のどっかにいっちゃっています。寝たきりで首しか動かなかったので、こうやって歩いてご飯を食べられるのが不思議ですよ」

行司の世界は、基本的には年功序列。定年は65歳。行司なら誰でも、最後は立行司になることを夢見る。式守伊之助をへて、木村庄之助を襲名することが、何よりの名誉だ。

12代式守勘太夫-。端整な顔立ちに、張りのある声、そして背筋が伸びる美しい所作。行司としての華がある。

勘太夫は今、出世に目を向けるより、目の前を生きている。【佐々木一郎】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

◆式守勘太夫(しきもり・かんだゆう)本名・菊池浩。1968年(昭43)11月15日、東京生まれ。1984年春場所初土俵。これまで式守国浩、式守錦之助、式守与太夫、式守与之吉を名乗り、19年夏場所から12代式守勘太夫を襲名。現在は幕内格行司。

ライバルであり友人「友情の土俵入り」が示した北の富士と玉の海の結びつき

優勝額を手に写真に納まる玉の海(左)と北の富士(1971年9月11日撮影)

「悲運の横綱」玉の海のわずか27年8カ月の生涯に触れる機会を得た。詳細は日刊スポーツのウェブ企画「ストーリーズ」で、ぜひ読んでいただきたい。

1971年(昭46)10月11日に第51代横綱玉の海が急逝した。今年が没後50年にあたる。現役当時の記憶はない。ただ、本などの読み物で、その人物像に興味を抱いていた。「双葉山の再来」と言われ、将来を嘱望されていた中で突然、この世を去った。生きていれば長く、相撲界に貢献する存在になったことは間違いなかった。

無念の短い生涯を語る上で、NHK大相撲解説者の元横綱、北の富士勝昭さんに話を聞けたことは、貴重だった。新型コロナウイルス感染症の影響で直接の対面はかなわず、電話での取材だったが、NHKでの解説同様、その語り口は深く、心に響いた。

かつて読んだ玉の海の物語の中で、最も心に残っていたのが北の富士さんの「友情の土俵入り」だった。雲竜型の横綱土俵入りの北の富士さんが、玉の海の不知火型土俵入りを披露した。記憶の中で勝手に亡くなった後の出来事と認識していたが、亡くなる2カ月前、秋田での夏巡業でのことだった。

虫垂炎を再発した玉の海が離脱。先に日程を終えて帰京していた北の富士が、急きょ秋田・八郎潟巡業に向かい、不知火型の土俵入りを披露した。北の富士さんは「体ひとつ持っていけばよかったから。(付け人が)不知火型の綱の結び方しか知らなかったんだよ」と振り返る。真相は不明だが、2人の強い関係性を示す事として語り継がれる。

当時は「死ぬなんて思っていなかった」。ライバルであり、友人のまさかの死に「驚いたというより、肉親が亡くなった時よりも泣いたな。人が死んで、あれだけ涙が出たのは生まれて初めてだった」。

時には相手を蹴落とし、勝ち上がっていくのが「番付社会」。一方で稽古で張り合い、高め合っていく相撲界は同期やライバルとの結びつきが強いと感じる。玉の海、北の富士さんの取材を通じ、あらためてそう思った。【実藤健一】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

決まり手係35年の大山親方「見ていて楽しかった」“希代の業師”舞の海

八艘(はっそう)跳びを披露した平成の牛若丸こと舞の海(後方)(1992年1月18日撮影)

場内に伊勢ケ浜審判部長(元横綱旭富士)の、行司軍配差し違えのアナウンスが流れる。勝ち名乗りが行司から発せられた8秒後、場内アナウンスが再び流れる。「ただいまの決まり手は一本背負い、一本背負いで豊昇龍の勝ち」。めったにお目にかかれない豪快な珍手に、館内のファンからマスク越しのどよめきが起きた。

5日目には大栄翔戦で宇良が、幕内では16年ぶりとなる「送りつり出し」でみせた。同じ日に英乃海は「後ろもたれ」で勝った。今年春場所では翔猿が「首ひねり」、霧馬山が「送り引き落とし」の珍手。照強も「小褄取り」「網打ち」など多彩な技で白星を収めてきた。上背のそれほどない、業師たちの面目躍如といえるだろう。

ただ最近の傾向としては、押し出しや寄り切り、突き落とし、はたき込みなど、直線的な動きの中で勝負が、あっけなく決まることが多い。この傾向に、寂しさを隠せない親方がいる。10月16日に69歳の誕生日を迎えた大山親方(元前頭大飛)だ。決まり手係として35年あまり。現在は十両を担当し、心血を注いできた人ならではの切なさだ。

大山親方 力士の体重が重くなって攻防が少なくなりましたね。行司の「残った、残った」の声にも残れない。自分の体重を支えられない力士が多くなったことが1つの原因でしょう。

そう言って「例えば」として挙げたのが、うっちゃりだ。「うっちゃる前に自分の体がつぶれてしまうんです」。さらに「取ったり」についても“物言い”がある。

大山親方 今でも取ったりの決まり手は出ますが、昔の取ったりと違うんです。本来の取ったりは2度、3度と、しつこくかけて決めるもの。それが今は1度か2度かける途中で相手が手をついてしまう。アッサリと決まってしまうんです。(元大関)旭国さん(元大島親方)なんか、しつこかった。栃赤城さんの逆取ったりなんかも見応えがありました。技を出された相手が辛抱して、踏ん張って、こらえた末に決まるのが醍醐味(だいごみ)なんですよ。

決まり手へのこだわり。それは今から30年ほど前にさかのぼる。決まり手係と並行して任務していた相撲教習所で、モンゴル出身の新弟子、後に小結まで昇進する旭鷲山を指導していた時のことだ。

大山親方 基本的に、丸い円(土俵)の外に相手を出せば勝つのが相撲。それが旭鷲山は、投げるわ、ひねるわ、反るわで内掛けも外掛けもする。それを見ながら、ふと思ったんです。これが本場所で決まったら何という決まり手になるのかな、と。その当時に制定されていた決まり手に、当てはまらないものがあったんです。たとえば後ろ向きのまま相手を土俵の外に出す。当時なら寄り切りです。でも、ラジオで聴いていた人が想像する寄り切りは、相手に正対して四つに組んで出すことでしょう。でも実際は違う。違う決まり手の名前があっても、いいんじゃないかなとね。

“決まり手魂”がうずく。すぐに実行したのが、江戸時代の決まり手本を、教習所の教官らの手助けを借りて探しまくること。そこで目にした本をひもとくと、何と決まり手が100以上もあった。わが意を得たり-。

大山親方 あの教習所で今まで見たこともなかった技に、決まり手を用意しなければいけないと思いました。あの後ろ向きの寄りは「後ろもたれ」だと。他にも考えれば、首をかしげるものもあって、これは付け加えなければ駄目だと思いました。

60年初場所から決まり手は70手のまま。周囲の親方衆にも賛同を求めたが、耳を貸してくれる人はいなかった。あの“旭鷲山の衝撃”から8年がたとうとしている。文献も調べ尽くした。もう自分が腰を上げるしかない。20世紀最後の年、機は熟した。

大山親方 それまで誰も話を聞いてくれなかったし、話をしてもイタチごっこ。ええい、行っちゃえと。もう直談判でした。時津風理事長(元大関豊山)の所に行って「これはこうですよ」と1つ1つ説明しました。まあ怒られて終わるだろうと思ったのに、理事長は私の説明を聞き入れてくれました。本当に懐の深い人で良かった。感謝しています。

決まり手名人は、それだけでは飽き足らない。

大山親方 本当は、あと2つ3つ、追加したいものがあったんです。肩透かしを上手や下手を取って引っ張り落とした場合、これは投げでもない、ひねりでもない。私からすれば「上手すかし」「下手すかし」なんです。それも追加してもらおうと思って説明したんですが「もう、そのへんにしておけ」と笑って却下されましたけどね(笑い)。

熱意が実ったのは翌01年1月。この初場所から、それまで70手だった決まり手が、約40年ぶりに82手に増やされた。それから1年半後。全身に電流が走るほど興奮する、思い出の一番が土俵で起きた。翌02年9月の秋場所3日目。大関朝青龍が小結貴ノ浪を「伝え反り」で勝った一番だ。もちろん、熱意が結実し追加された12手のうちの1つ。日本相撲協会の公式ホームページによれば、この決まり手が出る割合は0・01%という希少な技だ。当時を振り返る口調は、69歳の年齢を感じさせない熱っぽさだ。

大山親方 これだっ、出た! と興奮しながらドキドキしたことを覚えています。間違いない、伝え反りだと。ただ、確認も入念に行いました。(自分がいるビデオ室と電話でつながる)場内アナウンスの行司さんには『ちょっと待って』と言って時間をもらいました。確信を持ちたかったからです。決まり手を伝えた後、場内アナウンスが流れた時は『どうだ、出たろ!』と全国に言いたかったですね。高見盛が後ろもたれで勝った(04年名古屋場所と11年初場所)時も、新しい決まり手を作って本当に良かったな、と思いましたね。

そんな大山親方の頭を悩ませる、決まり手係泣かせの力士は、どんなタイプなのか-。それには、強いて言えば「速い動きの人ですかね」と短く答えた大山親方が「というより一番、見ていて楽しかったのが舞の海ですね」と希代の業師の名前を挙げた。土俵上の動きを、一瞬の隙も作らず、つぶさに目を凝らすプロならではの観察眼だ。

大山親方 私が見て、完璧な手順通りの相撲を取るんです。左が入って右の前みつを取ると、彼の左膝を見ます。舞の海は、その左膝で芸をするんです。下手投げ、切り返し、足取り、無双を切る-。そうやってイメージ通りに相撲を取れるのが舞の海のすごいところなんです。私たち決まり手係は、力士が次に何をするか予想するんです。舞の海の場合は、次に下手ひねりが出る。切り返す、というのが分かる。必ずそうなります。それを出来るのがすごいんです。

決まり手に、これほどの「こだわり」を持つ大山親方だが、相撲ファンには寛容な心で構えている。

大山親方 お客さんも一緒になって「今の決まり手は何だろう」と楽しみながら考えて観戦してもらえたら、うれしいです。たとえ、その決まり手が場内アナウンスと違ってもいいんです。「ああ、そうなんだ」でも「いや、アナウンスが違う」でもいいんです。決まり手を楽しんでもらえればいいんです。私たち決まり手係は、協会の公式記録として残さなければいけない立場なので1つに決めます。でも係の中でも見解が違うかもしれません。どちらも正解です。そう決めた解釈の説明を、しっかり持っていれば「こうでもあり、ああでもあり」でいいと思います。そうやって、ファンの皆さんにも楽しんでもらえたらと思います。

現役時代は千代の富士の横綱土俵入りで露払いを務めたこともある大山親方だが、引退後は陰に日なたに協会を支えてきた。決まり手係、相撲教習所以外にも、真面目な性格や角界屈指の知識人としての力量も買われ、相撲寺子屋の講師役、巡業先での相撲講座、相撲健康体操など普及活動に汗を流してきた。そうして歩んできた相撲人生だが「大山親方」として日本相撲協会に残れるのも、ちょうど残り1年。退職を1年後に控え、今の力士たちに伝えたいことを聞いてみた。相撲教習所時代に、新弟子たちに伝えていた言葉を今でも大切に、胸に刻んでいる。

大山親方 力士の「士」は、武士の「士」でもあるけど、紳士の「士」でもあります。身内だけでなく、一般の人に対しても紳士らしく礼儀正しく、人に親切にしなさいと。それを伝えたいですね。

【渡辺佳彦】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

伝え反りで貴ノ浪を破った朝青龍(右)(2002年9月10日撮影)
大山親方(2011年2月1日撮影)

3ミリのズレに気づく元横綱白鵬 功績残した裏に抜群のバランス感覚

19年7月、名古屋場所で土俵入りする白鵬

大相撲の元横綱白鵬が、9月の秋場所後に、ついに引退した。通算1187勝、史上最多の45度の優勝、16度の全勝優勝…。20年間の土俵人生で数々の功績を残した。では一体、何が優れていたからこれだけの成績を残すことができたのか。記者は、抜群のバランス感覚が1つだと感じる。土俵際での柔らかさ、相手の当たりや技を受けてからの攻防。他の力士にはない、優れたバランス感覚が光った。

結果的に最後の本場所出場となった7月の名古屋場所前、7年以上にわたって白鵬の主治医を務めてきた整形外科医の杉本和隆氏(苑田会人工関節センター病院長)は、こう証言していた。

杉本氏 動作解析をしたら重心が右に3ミリずれてたんです。そしたら横綱が「やっぱりそうなんだ」って。普通は気付かないですよ。

3月に右膝を手術し、名古屋場所に向けて懸命にリハビリに励んでいた白鵬。全身を精密機械で検査した際に判明した、重心のズレに気付いていたという。杉本氏によると力士は長年の現役生活の中で、相撲の型や踏み込む足、まわしを締める方向などで、どうしても体の重心がずれてしまうという。しかし、それに気付かない力士がほとんどの中、白鵬は3ミリのズレに気が付いた。

杉本氏 だからリハビリで四股の踏み方を変えたんです。重心がズレたことで後ろ体重になっていました。リハビリで四股の踏み方をやるのもおかしな話。しかも、横綱に理学療法士が教えるのもおかしいかもしれないけど、横綱は素直に聞いていました。彼は科学的なものも取り入れました。

白鵬は病院のリハビリ室に、慣れ親しんでいる宮城野部屋の土俵の土を持参。約1カ月半かけて四股やすり足などの徹底した基礎運動で3ミリのズレを解消した。そして、進退を懸けて臨んだ名古屋場所。4場所全休を含む6場所連続休場明けで、相撲勘を不安視されながらも全勝優勝を果たした。

仕切り線から大きく下がってからの立ち合いや張り手など、物議を醸す取組があったものの、「今日はどんな取り口を見せてくれるのか」という期待も持たせてくれた。優れたバランス感覚が、さまざまな取り口を可能としていた。

稽古中やマッサージを受けている時など、体に異変があるとすぐに察知したという。「普通の人なら気付かない異変にすぐ気付く。しかも、かなり早く。病院に行かないといけないケガなのか、それともそのままでも大丈夫なのか。頭の先から足の先まで。自分の体がよく見えている。これほどのアスリートはいない」と杉本氏。自分の体をすみずみまで理解していたからこそ、数々の偉業を成し遂げられた。【佐々木隆史】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

サービス精神が旺盛の元横綱白鵬、誰よりも精力的だったファン対応

引退会見を行う横綱白鵬(代表撮影)

横綱白鵬(36=宮城野)が、記録と記憶を残して土俵を去った。土俵上の実績以外だと、白鵬といえば「サービス精神が旺盛」というイメージが強かった。巡業や花相撲が顕著だった。

時間に限りがあるときは付け人が制止するが、ファンのサインや握手対応には誰よりも精力的だった印象がある。ひとつひとつの行事を無駄にしない。2年前の19年夏巡業。初代若乃花が生まれた青森・弘前市からほど近い板柳町の巡業で、初代若乃花の得意技だった「呼び戻し」を披露した。駆け付けた2000人ほどの観客も大喜びだった。

相撲史に対する勉強熱心な面と、持ち前のサービス精神がよく表れていた場面だったと思う。白鵬は当時「呼び戻しといえば青森。初代若乃花といえば呼び戻し。『地元にきた』と縁を感じられるからね」と意図を説明した。関取になって17年、横綱になって14年。看板力士として相撲界の行事は何回も、きっと何百回も参加してきたはずだが、何か“見せ場”をつくろうとする姿勢は際立っていた。

もう一つ、白鵬は家族という存在の重要性を、自ら説くことが多かったように感じる。モンゴル人として初のメダリストになるなどした、父ムンフバトさん(故人)が偉大だったことが大きく影響しているのかもしれない。相撲記者の中でも若手中の若手だったためか、取材の中で白鵬に人生の“助言”みたいなものを言われることもあった。印象に残っているのは「若者は早く独り立ちして、親孝行することが大事だ」という言葉。同じようなことを、部屋の力士にも言い聞かせているのかもしれない。かつて引退した弟弟子には「親の足を洗ってみなさい。自分を育ててくれた人が支える足に触れることで、その重さを実感できるから」と伝えたことがあるそう。15歳でモンゴルから来日。家族との結びつきが、白鵬の大きな力だった。

10月1日の引退会見には、紗代子夫人や子どもたちも駆け付け、「パパ」にねぎらいの花束を渡していた。会見で「奥さんと子どもたちが支えてくれたことで、ここまでこれたのは間違いありません。『強い男の裏には賢い女性がいる』。この場を借りて妻に感謝したい」と語っていた白鵬の表情は、とても柔らかいように感じた。【佐藤礼征】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

編集に悪戦苦闘…立田川親方は“ユーチューバー”兼業

立田川親方

美しい所作と誠実な土俵態度で人気を博した立田川親方(元小結豊真将)が“ユーチューバー”を兼業している。今場所までに、日本相撲協会公式YouTubeチャンネルを通じて自身が撮影、編集した動画を2本投稿した。1本目は稽古まわしの作り方、2本目は国技館カレーのアレンジレシピ。計7万回以上も再生視聴されるなど注目されている。

「ユーチューバーの苦労が分かりますよ。撮影も編集もして…なかなか難しい。でも、これが意外と面白いんです」と楽しそうに話す。協会が公式YouTubeでさまざまな動画を発信していることに刺激を受け、今年1月ごろに挑戦してみようと決心した。「お相撲さんも動画に映れば喜ぶし、ファンの方にうちの部屋のことを知ってもらえる機会にもなる」。所属する錣山部屋の力士に協力してもらい、自身のスマホで動画を撮影。1万円ほどの動画編集ソフトを購入し、編集に慣れない1本目は完成まで2週間かかったが、2本目は1週間ほどで形になった。

普段の親方業務もある中で「コロナ禍で外に出られない時間を有意義に使えた」。秋場所後には、3本目の動画を撮影するプランを練っている。【佐藤礼征】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

大関対決なし珍ケース発生か 白鵬休場で番付重み重視し、終盤まで割崩せず

貴景勝

大関戦の有無に注目が集まっている。慣例通り出場最高位の照ノ富士が14日目に貴景勝、千秋楽に正代と両大関との対戦が続けば、両大関同士の一番が組まれないことになる。2人以上の大関が千秋楽まで出場しながら大関戦が組まれなければ、19年夏場所以来2年ぶり。1場所15日制が定着した49年(昭24)夏場所以降では2例目と珍しいケースになる(大関陣が同部屋の場合や「一門別総当たり制」だった64年以前を除く)。

2年前の夏場所は、平幕の朝乃山が西前頭8枚目の地位で平幕優勝した場所。高安と豪栄道の両大関が9勝止まりで賜杯争いに絡むことができず、割を崩す大きな要因となった。

横綱と大関の人数に違いはあるが、昭和後期や平成初期では、8~10日目に大関戦を組むケースは頻繁に見られた。白鵬の休場により今場所は1横綱2大関の陣容。番付の重みを重視するためか、今場所は終盤まで割を崩せなかった。取組編成を担う審判部の伊勢ケ浜部長(元横綱旭富士)は「(大関戦が組まれない)可能性はある」と示唆。優勝争いの展開次第で、状況は変わっていきそうだ。【佐藤礼征】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

大成道→大成龍 恩師からもらった「雅」…力士が改名に込めた思い

大成龍(2017年7月17日撮影)

力士は皆、改名に思いを込める。東幕下57枚目の大成道改め大成龍(28=木瀬)は「何かを変えたかった。勝ち越してほっとした」と安堵(あんど)した。

19年春場所以来の再十両を目指すも遠く、名古屋場所後に師匠の木瀬親方(元前頭肥後ノ海)から改名の提案を受けた。「即答でした。『龍』は師匠が弟子によくつける字。昇り龍などの意味もありますから」。笹ノ山→大成道と改名し、大成道の時には下の名前を3度変えた。それも木瀬親方の提案だったが「成績が伸びなくて申し訳なかった。今回は『道』を『龍』に変えて勝ち越せた」。勝ち越しを決めて「大成龍~」の勝ち名乗りを受けた時に誇らしい気持ちだった。

元プロ野球巨人、ヤンキースなどで活躍した松井秀喜氏の遠縁にあたる序二段4枚目の松井改め豊雅将(18=時津風)は「お世話になっている方」の文字を使って改名した。「雅」は高校時代の恩師の新田雅史氏、「将」は小中学時代の恩師の粂田将和氏からもらった。それに時津風部屋伝統の「豊」をつけて「名前に恥じないように気合を入れたい」と意気込み、3場所連続の勝ち越し。共に恩師らに吉報を届けた。【佐々木隆史】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

全ては力士になるため…イスラエル人のヤルデンさんはチャンス到来を待つ

角界入りを願って母国でトレーニングに励むイスラエル出身のヤルデン・ヤトコヴィスキーさん(本人提供)

力士になることを熱望するイスラエル人がいる。

秋場所8日目の19日に新序出世力士が発表された一方で、ヤルデン・ヤトコヴィスキーさん(23)はなかなか角界入りにこぎつけられない。「自分がどれだけ相撲が好きか(親方衆に)知ってほしい」。母国でトレーニングに励みながら機会を待つ。

イスラエルの小さな町「クファル・シルキン」で生まれ育った。祖父がスポーツ観戦を趣味にしており、テレビで相撲観戦にも興じていたためヤルデンさんも4歳の時に「相撲に恋をした」。近隣に相撲の指導者がいなかったため、相撲に近い柔術を始めると11年間の競技人生で国内大会の優勝も経験。さらに15歳で家族とともに引っ越した際に、知人の紹介でハンドボールを始めた。

「最初はハンドボールにそんなに興味がなかったのですが、柔術のコーチが退職したこともあり、柔術のトレーニングを少しの間休むことにし、ハンドボールをやってみることにしました。しばらくして、ハンドボールでいい成績がでるようになり、だんだん楽しめるようになってきました」。

イスラエルでは高校卒業のタイミングで兵役を義務づけられている中で、ヤルデンさんは同時にハンドボールのプロ選手になった。兵役義務と並行しながらの活動となるが、イスラエルではアスリートや音楽アーティストなどの分野で活躍する若者には一定の理解が示される。「ハンドボールは、軍隊の任務をいいコンディションでこなせるような体力を作ってくれました。軍隊の任務自体も、忙しく体を動かし続けることになりましたので、相撲に取り組むための準備になりました」。全ては力士になるための体づくりだった。

兵役義務を終えて資金の準備も整った昨年3月に、角界入りを目指して来日する予定だったが、コロナ禍による渡航制限で断念した。当時21歳。身動きが取れない状況の中で、入門への道を模索する。各相撲部屋のホームページなど「公開されている電話番号やメールフォームがあるすべての部屋に」連絡をした。自身がトレーニングに励んでいる動画も送って、勤勉さも印象づけた。返信があったのは5つの相撲部屋。「私が送ったメールや電話よりもはるかに少ない数だった」と肩を落とす。返信があった相撲部屋からは断られたか、返事を保留されているという。

状況が改善しないまま、今年の6月で23歳になった。25歳未満でも相撲や柔道、レスリングなどの格闘技で一定の成績を残した上で、入門部屋の師匠が提出した「年齢制限緩和」の申請が日本相撲協会の理事会で承認されれば、新弟子検査を受けられることは知っていた(協会員規則によると、各競技経験者は高等学校以上の全国大会への出場を原則とし、中学生以下の実績を除く)。

学生時代に柔術の大会で優勝したことはあったが「その実績だけでは不十分だと気がつきました」と、コロナ禍以降で柔道を始めたという。92年バルセロナ五輪の男子71キロ級で銅メダルを獲得した同国のオレン・スマジャの指導も受けて、「イスラエル柔道協会チャンピオンシップ」で準優勝、「イスラエル柔道協会カップ」で優勝を果たしたという。「これらの実績は、相撲協会の指す実績に該当すると思われますが、その意味で重要な実績であり、必要な実績を得ることができた」とアピールする。

ネットの動画を参考に四股、すり足、テッポウなどの相撲の基本運動も行っているという。力士の食生活を参考に、1日2食に変更して昼は自作のちゃんこ鍋を食べる。1日1万キロカロリーを目安に、この1年間で体重は30キロ増加して140キロ。「コーシャ」という宗教上の理由で豚肉などを食べられないルールもあったが、日本の食事に合わせるためにコーシャもやめた。週に1回の家庭教師も雇って日本語の勉強にも着手。ケガのリスクを避けるため、今年1月にハンドボールのプロ契約も終えた。

ヤルデンさんは受け入れ先の相撲部屋が現れることを期待するが、現時点で見通しは立っていない。返信があった5つの部屋のうち、木瀬部屋、鳴戸部屋の2部屋はすでに外国人力士を入門させている。電話取材に応じたある親方は「(ヤルデンさんから)連絡はあったけど、その前にモンゴル人で話をしている子がいた。砂浜で友達と相撲を取っている動画も送ってくれたけど、先約がいる以上は断らざるをえない」と申し訳なさそうに語った。

ヤルデンさんは「私が相撲と日本がどれだけ好きかを知ってもらいたい。相撲のために何でもする準備ができていることも知ってもらいたい」と力説した。SNSでも協力を呼びかけており、チャンスの到来を待っている。【佐藤礼征】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

角界入りを願って母国でトレーニングに励むイスラエル出身のヤルデン・ヤトコヴィスキーさん(右)(本人提供)
角界入りを願って母国でトレーニングに励むイスラエル出身のヤルデン・ヤトコヴィスキーさん。砂浜で相撲を取っている(本人提供)

口癖は「若いのに負けられない」26年間休場なし45歳「鉄人」翔傑

口癖のように「若いのにまだまだ負けられませんから」と語る表情は、充実感に満ちあふれている。西三段目40枚目翔傑(芝田山)は、場所前の9月5日に45歳の誕生日を迎えた。年6場所制が定着した58年以降、45歳以上の力士が本場所で相撲を取るのは4人目となる。特筆すべきは、4人の中で唯一初土俵から休場がない点。高齢力士といえば51歳で現役の序二段華吹(立浪)が話題を呼ぶが、翔傑の“鉄人”ぶりも際立っている。

12日、初日の取組で香富士(左)を攻める翔傑

元大関魁傑が師匠の放駒部屋に入門して、18歳の95年春場所に初土俵を踏んだ。4年後の99年に部屋付きの芝田山親方(元横綱大乃国)が部屋を興し、翔傑は13年に放駒親方が定年に伴い部屋を閉鎖したことをきっかけに転籍。同親方は「どこの部屋に出しても恥ずかしくない。稽古はしっかりやるし、後輩もしっかり叱る」と評価。部屋の最年長として全幅の信頼を寄せている。

最高位は西幕下4枚目で、ここ2年は三段目で奮闘。翔傑は「回復力はさすがに若手にかなわない」と加齢の影響を実感するが「諦めがつけば力は抜けるけど、それがまだないから」とニヤリ。モチベーションが落ちない理由。「相撲が好きなんで」という言葉に詰まっている。【佐藤礼征】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

44歳聡ノ富士 2人の弟弟子の横綱が現役の時に弓取り式「最後まで」

結びの一番を終えた後、懐かしい光景が飛び込んできた。大きな弓を巧みに操り、堂々と四股を踏む。弓取り式を行うのは、東序二段45枚目の聡ノ富士(44=伊勢ケ浜)だ。初日に弓取り式を行った西幕下22枚目将豊竜が初日の取組で肩を負傷。代役が回ってきた。「年も年なので見せられる体ではないけど、何とかやっています」と笑った。

弓取り式を行う聡ノ富士(撮影・河野匠)

18年初場所以来3年8カ月ぶりの弓取り式。自身の持つ弓取り力士の最高齢記録(戦後)を更新した。この日、自身の取組が終わったのは午前10時半過ぎごろ。コロナ禍の感染対策により自由な外出ができないため、弓取り式が行われる午後6時までは「支度部屋でぼーっとしてるだけ。それもつらいですよ」と苦笑。また、感染対策で歓声がなく「やっぱり『よいしょ』がないとね。拍手だけだと物足りないかな」と率直な胸の内を明かした。

とはいえ、今場所は弟弟子の照ノ富士の新横綱場所。「うれしいですね。近くで頑張っているのを見ていましたから」と感慨にふけった。かつては日馬富士の横綱時代にも行っていた。2人の弟弟子の横綱が現役の時に弓取り式を行うことになり「またできるとは思わなかった。代役でも任された限りは最後までやる」と言葉に力を込めた。【佐々木隆史】

(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)

 取組を見るだけじゃ分からない、日刊スポーツの大相撲担当記者が土俵周辺から集めてきた「とっておきネタ」をお届けします。