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リングにかける男たち

支え合う亀田和毅夫妻、自粛続きも第1子誕生目前

亀田和毅と妻シルセさん(亀田和毅提供)

3月、米ラスベガスにいるボクシング元WBCスーパーバンタム級暫定王者亀田和毅(28)からうれしい知らせが届いた。妻シルセさん(32)が第1子となる男児を妊娠したという。

「シルセもすごく喜んでます。自分も子どもが欲しかったのでめちゃくちゃうれしいです。シルセのサポートをしながらボクシングもがんばります」

メールの文面から喜びが伝わってきた。

亀田は19年7月にWBCスーパーバンタム正規王者レイ・バルガス(メキシコ)との統一戦で敗退。同11月から米国に拠点を移していた。この4月に再起戦を行う予定だったが、新型コロナウイルスの影響で延期となり、まだ渡航制限のない3月中にシルセさんの故郷メキシコへと移動した。今は自粛生活を送りながら、5月末の出産を待つ。

昨年の統一戦を前に、シルセさんにじっくり話を聞いたことがあった。支え合う2人の物語に心を打たれた。出会ったのは約13年前。中学卒業後すぐメキシコに武者修行に行った亀田が、アマチュアボクサーだったシルセさんと出会い、恋に落ちた。

07年、亀田はアマチュアトーナメント大会の決勝で後の世界王者バルガスと対戦する。会場は、メキシコシティの格闘技の聖地アレナ・メヒコ。大ブーイングを浴び、判定で敗れた。満員の観衆の中、亀田に声援を送るのはシルセさんと、その家族だけだった。

「メキシコだから、みんな地元のバルガスを応援していました。和毅の応援をしていたのは、私のパパ、ママ、兄弟合わせて10人ぐらい。ビール、ナッツ、水…いろんなものが私たちにもかかってきました。和毅の応援をしていたから、みんな怒っていたみたい。すごく怖かった。あの時、和毅は16歳。まだキャリアがなかったから、緊張していたと思います。試合の後は『大丈夫。いいよ、すごく頑張ったよ。最後まで倒れなかったから』と声をかけました。和毅はがっかりしながらも、『勉強になる。がんばる』って言っていました」(シルセさん)

その後、遠距離恋愛を経て、15年10月に結婚。今では亀田はスペイン語を、シルセさんは日本語を自由に使いこなす。結婚後は、主に日本での生活。慣れない場所、言葉、文化の中で、シルセさんは苦労した。だが、メキシコでシルセさんがしたように、今度は亀田と家族が彼女を助けた。

「和毅は、すごく優しい。いつも私のことを気遣ってくれます。私があげれば、和毅も私にくれる。ピンポンみたいだなと思います。日本人とメキシコ人は全然違う。でも、和毅の家族は優しかった。彼らのおかげで日本語が話せるようになりました。2人にとって、言葉をかけ合うことはすごく大切です。1日が終わると、『ありがとう。きょうもがんばったね』とスペイン語で言い合います。ハグも、チューもします。日本に来て、少し恥ずかしくなりましたが(笑い)」(シルセさん)

2人の関係から学ぶことは多い。

亀田によれば、今メキシコは「毎日2000人以上感染していて、ピークの状態」。極力外出せず、家の中で筋トレやシャドーなど練習に励んでいるという。

シルセさんの出産予定日まで約1週間。大変な状況の中、無事2人の子どもが生まれることを祈る。【高場泉穂】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

53歳タイソン氏“復帰”甦るラスベガスの硬い記憶

2年前のあの日、村田諒太に「グッド・ラック!」とサムアップポーズでエールを送るマイク・タイソン氏(18年10月19日)

ボクシングの元世界ヘビー級王者、マイク・タイソンがリングに“復帰”する。53歳になったレジェンドがチャリティー事業のエキシビションマッチに出場するため、先月から練習を再開したとの報道が今月に入って飛び交った。11日にインスタグラムに投稿したミット打ちでは、年齢からは想像できない高速コンビネーションの強打を放っていた。それを見て、あの「硬さ」が思い起こされた。

18年10月だった。「痛っ!!」と思わず顔をしかめた。米国・ラスベガスのショッピングモールでクリンチ、いやハグをしてもらった。その体は岩のように硬かった。

WBA世界ミドル級王者村田諒太の初防衛戦のために訪れたラスベガスだった。同地に住むタイソンがサイン会を開くという情報を聞きつけ、カメラマンと2人で巨大なモールを探し回った。スポーツショップの外にイベントの看板を見つけた。話を聞ければ、記事になる。ただ、不発に終わる可能性もある。それでも、高揚した勢いままに、自腹覚悟で参加権代わりの250ドルのボクシンググローブを購入した。数組の列に並び、黒カーテンの奥にその姿がちらほら。小学生時代に遊び続けた家庭用テレビゲーム機のボスとして戦い続けたレジェンドがそこにいた。そして、ついにその時が。

カーテンを開けると、緊張するこちらを一見して、とっさに日本人と判断したのだろう。「コンニチハー!」の大きな声。かみつき事件などで凶暴なイメージも付きまとい、勝手に身構えていたところに、おもむろに席を立ち上がると、こちらに迫ってきた。そして分厚い肉体で抱きしめられたのだった。

その体はゴツゴツし、一切のゆるみを感じさせなかった。わずかの接触で、驚異のパワーを拳に宿した肉体のすごみの一端に触れた気がした。その取材では、村田に「グッドラック!」とサムアップポーズでエール。無事に記事となり、グローブ代も経費で精算でき、一安心の米国遠征となった。

忘れないあの痛さ。15年ぶりの“復帰”がいつになるのか、楽しみでしょうがない。【阿部健吾】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

敵地韓国でいやがらせも徳山昌守が失神KOで存在感

WBC世界スーパーフライ級タイトルマッチ 5R45秒でKOした徳山昌守はガッツポーズ、左下はダウンしたチョ・インジュ(2001年5月20日撮影)

スポーツ記者なのに、自分の世界からスポーツが消えてどれぐらいだろう。新型コロナウイルス感染拡大防止で外出自粛、自粛。家にこもり、今までのつながりをたどって電話、オンラインで取材の日々が続く。

そんな非日常の中で悪くないこともある。日刊スポーツのウェブ上で連載しているボクシングの「一撃」で、元WBC世界スーパーフライ級王者徳山昌守氏(45)と久々につながった。妙に意気投合し、世界王座奪取前からプライベートも含めて密に接してきた。それが最近は会う機会がなく、遠い存在になっていた。今回の企画をだしに連絡をとると「うわぁ、久しぶりっすね」と変わらず、明るい感じで応じてくれた。

元世界王者らに自身の最も印象に残っている「一撃」を語ってもらう企画。徳山氏は「パッキャオのマルケス戦とかあるけど、自分のでいえばやっぱり、あの右」。話しているうちに19年前の刺激的なソウルの夜がよみがえってきた。

01年5月20日、王者徳山2度目の防衛戦は敵地だった。ベルトを奪ったチョ・インジュとの再戦。試合そのものに加え、朝鮮半島の南北統一問題が動いていた時代。朝鮮籍の徳山がソウルで試合することが、現地の注目点だった。

仁川空港に降り立った瞬間、徳山氏は大勢の韓国マスコミに囲まれた。「政治のことは知らない。自分は試合をしに来た」。その後も緊迫感の連続だった。チョ・インジュは予定の公開練習をキャンセルするなど雲隠れ。徳山陣営も、金沢英雄会長が報道陣に突然、「ちょっと出てくれ!」。窓にタオルで目隠ししての厳戒秘密練習。実際は秘密でも何でもなく、普通の練習だったが、メンタルの駆け引きがすごかった。

その後も連載に記したが徳山氏が泊まる部屋に夜中に電話がかかったり、計量のはかりのバネが外れていたり、リングの徳山のコーナーに目つぶしのようにライトが当たるようになっていたり…(いずれも原因は不明)。記者仲間で一致したのは「判定はやばい」。

不安なスタートだった。試合後に金沢会長が「体は動かんし、どないなるかと思った」と言った通り、判定狙いの相手の思うつぼにはまりかけた。しかし徐々にペースをつかんで4回に右でダメージを与え、フィニッシュは一瞬。5回45秒、ワンツーからの右ストレートで失神KOを飾った。

記者席で興奮した。過程が刺激的だからこそ、結末はよりドラマチック。ボクシングの魅力が詰まった一戦。こんな興奮を早く、もう1度味わいたい。【実藤健一】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

WBC世界スーパーフライ級タイトルマッチ 4R終了間際、徳山昌守の右がチョ・インジュにヒット(2001年5月20日撮影)

粟生隆寛引退「満足感と悔しさ」栄光と挫折の17年

プロボクシング62キロ契約体重 8回戦 粟生隆寛対ガマリエル・ディアス 4回、粟生隆寛(左)はガマリエル・ディアスに左パンチを放つ(2018年3月1日撮影)

4月6日、ボクシングの元世界2階級王者粟生隆寛(36=帝拳)が自身のSNS上で引退を発表した。36歳の誕生日だった。一時代を築いた王者の目からは涙があふれた。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、会見はできず。発表から1カ月がたった6日、栄光と挫折を経験した17年間のプロ生活をあらためて振り返りつつ、現在の思いを聞いた。(敬称略)【取材・構成=奥山将志】

   ◇   ◇   ◇

天才。エリート。粟生には、そんな言葉がいつもつきまとった。3歳でボクシングを始め、父広幸さんと二人三脚で技術を磨いた。千葉・習志野高で史上初の「高校6冠」を達成。大きな注目を集めて転向したプロの世界でも、日本人7人目の2階級制覇を達成するなど活躍を続けた。だが、減量苦の影響もあり長期政権を築くことはできず、キャリア終盤は、試合から遠ざかる日々が続いた。

「今、振り返ってみると、正直『もっといけたな』という思いもあるし、『ここまでこられた』という思いもある。世界チャンピオンになれたという満足感、3階級制覇できたんじゃないかという悔しさ、両方の感情が残っている」

同じ時代に活躍した西岡利晃、長谷川穂積のような派手さこそなかったが、切れ味鋭いカウンターを中心とした卓越した技術は、多くの選手、関係者から称賛された。対戦する相手の研究はわずか3分。「自分のボクシングをすれば勝てる」。追い求め続けてきた技術への自負が、粟生にとっての生命線でもあった。

「僕は一般受けするボクサーだったと自分でも思っていない。(元WBC世界スーパーフライ級王者の)西岡さん、(元WBAスーパーバンタム級王者の)下田だったりが持っている野性の勘というか、いけるときにいく強引さが自分にはなかった。技術に頼りすぎた部分があったのかもしれないが、それがあったからここまで戦ってこられた」

12年10月にWBCスーパーフェザー級王座から陥落。そこから約7年半、長いトンネルが続いた。層が厚いライト級での3階級制覇を目指し、チャンスが来たのは15年5月。空位のWBO王座をかけ、米ラスベガスでレイムンド・ベルトランとの対戦が決まった。試合は2回TKO負け。だが、前日計量で体重超過したベルトランに、後日、禁止薬物の使用が発覚した。試合結果こそ、無効試合に変更となったものの、待望のチャンスは、相手の“暴挙”により奪われた。

悪夢は続いた。同年11月に設定されたノンタイトル戦に向けたスパーリング中、バックステップした瞬間、左足に激痛が走った。腓骨(ひこつ)筋腱(けん)脱臼。手術を受け、練習に復帰するまで半年かかった。31歳。引退につながる大けがだった。

「復帰戦が決まり、もう1度ここからというタイミングでやってしまった。3階級制覇がそれほど遠いものだとも思っていなかったし、気持ちも切れていなかった。ただ、まったく練習できない時期があれだけ長く続いた。年齢的なことを考えても、あれで(チャンスが)遠のいていったのかなと思う」

18年3月に2年10カ月ぶりのリングに立った。対戦相手は、7年半前に世界王座を奪われたガマリエル・ディアス。判定勝ちを収めたが、それが最後の試合となった。

WBCスーパーフライ級王者川島郭志に憧れた幼少期。小学校の文集にはWBCのベルトの絵を描き、隣に夢を記した。「ぼくはプロボクサーがゆめです。プロボクサーになったら客をよろこばせたい。りっぱなチャンピオンになる」。

その言葉通り、WBCのベルトを2本取った。そして、「天才」は、苦しみ、もがきながら、グローブをつるした。今後は育ててもらった帝拳ジムでトレーナーを務めていくという。

「ボクシング、ジムへの恩返しをしないといけないと思っています。いずれは自分でジムをという思いもありますし、指導者として良い選手を育てていきたいですね」

期待という重圧とともに歩み続けてきた。豊富な経験は、今後の引き出しになる。第2の人生も、ボクシングとともに生きていく。

◆粟生隆寛(あおう・たかひろ)1984年(昭59)4月6日、千葉県市原市生まれ。3歳からボクシングを始め、千葉・習志野高では選抜、国体、総体を2度ずつ制し、史上初の高校6冠を達成。アマ戦績は76勝(27KO・RSC)3敗。03年9月にプロデビュー、07年3月に日本フェザー級王座獲得。09年3月にWBC世界フェザー級王座、10年11月に同スーパーフェザー級王座を獲得し、2階級制覇。左ボクサーファイター。168・5センチ。プロ戦績は28勝(12KO)3敗1分け1無効試合。

防衛戦2度延期で引退…ボクサー人生をも変える現状

19年、初挑戦で日本王者となって涙声でインタビューに答える高橋悠斗

新型コロナウイルスは人の生き方まで変える事態となっている。ボクシングでは日本ライトフライ級王者だった高橋悠斗氏が現役に見切りをつけた。昨年10月に初挑戦で王座奪取も、初防衛戦が今年3月15日、再設定された5月15日と2度延期されて決断した。

ジムは4月3日に「気持ちの維持が難しい」との理由で引退を発表した。後日に一般紙でも大きく報道されると「直接話も聞いていないのに」とツイート。そんな事情もあったのか、3日に元世界王者木村悠氏とのオンライントークショーで思いの丈を語っていた。

最初の延期で「結構、心が折れました」と明かすも「モチベーションが低下とはちょっと違う」と説明した。「世界を狙っていたけど、今のやり方だと収入面とか知名度とか変わらない」と続けた。

さらに「練習する時間をビジネスなど、自分の磨くことにあてたかった。食べていけないスポーツはたくさんある。そういった選手を盛り上げようと、会社設立を進めている」と今後へ意欲を示した。

高橋氏は国士大時代にキックボクシングで学生王者になり、プロでもランク2位までいった。就職の際にトレーナーと知り合ってボクシングに転向。4敗したが、ミニマム級1位まで浮上した。

1度は日本王座初挑戦が流れると、ライトフライ級に昇級してチャンスをつかんだ。その後にジムが立ち退き移転のために移籍。紆余(うよ)曲折をへて5年目で初挑戦をものにした。ダイエットジムの店長を勤めながら、次は2年で世界王者を目標に掲げていた。

現在は飲食店も開いたが休業に追い込まれ、自宅は水漏れトラブルでホテル住まい。波乱続きも次は総合格闘技への意欲も口にした。「3つの競技でチャンピオンなら日本人初だから」と。

3月19日のドイツを最後に世界中で興行が中止だったが、4月25日にニカラグアで再開された。前日計量ではマスク姿のフェースオフ。当日の観衆は1割程度の約800人に抑えられた。同国は感染者が少なく、野球やサッカーなども開催されている。韓国では翌日に無観客開催され、メキシコは5月開催が発表された。

日本は7月に新人王各地区予選で再開を目指している。全日本新人王は通常12月から、年度内の来年3月を予定する。東日本は12階級に130人がエントリー。3階級は決勝まで5試合だったが、20人が出場辞退して日程調整できた。

競技性から三密は避けられず、緊急事態宣言が解除されても練習法などにも課題は残る。まだまだ予断は許さない。辞退者は医療従事者、本人や家族の不安、ジムの判断などが理由という。高橋氏はこれまでも積極的な行動で人生を歩み、スパッと切り替えて今後へも前向きだ。一方で貴重なホープたちは無念の辞退と言える。

仕事もままならない現状に、他にもリングから離れる選手は少なからずいるだろう。選手人口が減少する業界への追い討ちだが、今の状況にどこまで耐え、踏み止まれるか。1人でも多くが再びリングに上がり、スポットライトを浴びる日が、1日でも早く来ることを願うばかりだ。【河合香】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

「本当にありがたい」大日本を支える珍グッズの売上

大日本プロレスのマスコット「デスかも」のグッズを持つ菊田一美(大日本プロレス提供)

コロナ禍でプロレス興行ができない中、大日本プロレスが“珍グッズ”通信販売に力を注いでいる。

公式通販サイトBJ-SHOPには、ステーキやお吸い物味のポップコーン、DVDと食べものを組み合わせた「BJW stay homeセット」、ロシアンルーレット的にどの選手の顔が出てくるかわからない缶バッジくじなど多種多様な商品が並ぶ。その中でも登坂社長、新土リングアナらフロント、スタッフ陣の缶バッジくじは4月の販売開始早々売り切れ。5月上旬に再入荷されるという。マニアックであればあるほどファンは手が伸びるのか…。

大日本によれば、今年4月前半の通販でのグッズ収入は前年同時期比200%。試合ができず興行収入が得られない中、グッズ売り上げが貴重な支えとなっている。登坂栄児社長(49)は「いつも面白いグッズを開発しようと考えていますが、『社長の考えるグッズはコストパフォーマンスが悪い』とスタッフに注意されます(笑い)。弊社の商品はバリエーションがあるので、こうした状況で2、3度と買ってくださる方も多い。よりお客様に利用していただいているようで、本当にありがたいことです」とファンの支援に感謝する。

選手もグッズ販売に協力的だ。現在スタッフは2つのチームに分かれて通販業務を行うが、今は選手も積極的に作業を手伝っているという。また、選手はSNSでも商品PRに努めている。登坂社長は「スタッフと選手が協力してくれている様子をほほえましく見ています」と、有事下の団結を喜ぶ。

大日本プロレスは新型コロナウイルス感染拡大の影響で2月末に政府が自粛要請を出した後も感染防止に努めた上で、興行を継続していた。だが、4月上旬の緊急事態宣言を受け、興行を中止した。厳しい状況が続くが、登坂社長は生き残る使命を口にする。「旗揚げの時(1995年3月)の直前には阪神大震災があった。その後も、大雨、大火事、東日本大震災…といろんなピンチがありました。それでも、その時々にいろんな人に助けてもらいました。いまピンチを乗り越えないと、過去に応援してくれた方々に申し訳ない。団体を途切れさせてはいけない。強い気持ちで何とか乗り切ろうと思います」。

横浜市のJR鴨居駅近くにある道場での合同練習は中止しているが、選手は3班に分かれ工夫しながら練習を続ける。「いかつい団体ですが、それでも優しさ、強さをみなさんに感じてもらえたら、社会に何か貢献できたらと思っている。興行を再開した時、さらに強く、優しくなった選手たちの姿を見てほしいです」と登坂社長。今年で旗揚げ25周年。したたかに生き残ってきた社長の言葉は心強い。【高場泉穂】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

「BJW stay homeセット」を持つ佐藤孝亮(大日本プロレス提供)

マスク寄贈したボクサー森武蔵は重傷克服し世界照準

森武蔵

まだ会ったことはない。電話を通じての会話が初めての取材だった。

今月6日、ボクシングのWBOアジアパシフィックフェザー級王者森武蔵(20=薬師寺)が、故郷の熊本県庁を訪れ、マスク3000枚を寄贈するという情報から取材を試みた。新型コロナウイルス感染拡大から現地へ赴くのは難しい実情。名古屋の薬師寺ジムに電話を入れると、元WBC世界バンタム級王者の薬師寺保栄会長につないでくれ、熊本の森までつながった。

熊本・菊池市出身の森は幼稚園から小学校5年まで空手で、その後にボクシングを始めた。そして13歳の時、選手生命の危機にあった。ロードワーク中、後ろから車に激突される事故で両足と腰を骨折の重傷。半年間の入退院の末、通常の歩行は取り戻したが、医者からは「ボクシングは無理」と宣告されたという。

そこからよみがえった経緯を聞きたかった。森は「自分の心は折れなかったんで」と言った。「必ずリングに立つ」とリハビリ、トレーニングを重ね、全国U-15ジュニアボクシング大会で優勝した。ジュニア世代の強化を目的に07年に設立された同大会の優勝者には“モンスター”井上尚弥もいる。森は奇跡の復活でエリートの扉を開けた。

複数の誘いがあった高校進学の道を断ち、「プロ以外に興味ない」と見初めた薬師寺会長の誘いで中学卒業後にプロの道に踏み出した。ここまで11戦全勝(6KO)と順調に世界へ前進しているが、伸び盛りの今、コロナ禍が阻む。

4月18日に熊本で予定されていた防衛戦は延期となった。アルバイトもやめ、現在はボクシング一本となった森の生活は「正直、苦しいです」という。それでも今回、地元に贈ったマスクは自身のファイトマネーから資金を捻出した。「ファイトマネーが入らないのは正直厳しいが、何か役に立ちたかった」。

まだ20歳とはいえ、一時は選手として再起不能の宣告を受ける苦しい経験を乗り越えてきた。人の痛みが分かるのだろう。「次は試合を見に行きますから」と約束して電話を切った。無敗の左ファイターは現在、WBO同級5位にランク。若き才能の世界挑戦が見たい。早く通常が戻ってほしい。【実藤健一】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

年度替わりもジム退会者増、1カ月休館は死活問題に

大橋ジムでミット打ちをする井上尚弥(右手前)(2019年10月28日撮影)

マスクをしてランニングなどの練習を採用しているチームや選手がいる。心肺機能を高めるためという。世界中でマスク不足の事態。これからは「そんな無駄なことに使うな」と言われそうだ。

ボクシングでも今やマスク必須のジムもある。ミット打ちを受けるトレーナー。元々は選手も引退した身で、息が上がって3分持たないこともあるそうだ。会員の練習はシャドーやサンドバッグ打ちが中心だが、ミット打ちを一番やりたがるという。中には信頼しているからとマスクを外してという会員もいるそうだ。

ウイルスの感染拡大後、ジムではさまざまな対策をしてきた。検温して入室、手だけでなく、グローブやミットなども小まめに消毒。換気で窓を開放し、寒い日は厚着を勧めるジムもあった。営業時間は短縮し、キッズ指導は自粛している。スパーリングは試合が決まっている選手限定が大半。マスボクシングやミット打ちも含めて禁止のジムもある。

興行は6日に5月30日まで中止、延期となった。最初は3月31日までとしたが、今回は3度目の期間延長。さらに緊急事態宣言で、7都府県のジムは1カ月の営業自粛を余儀なくされる。すでに完全休館のジムもあったが、首都圏では3月下旬から週末は閉館など、苦労しながらの営業だった。

2月頃から感染拡大が始まると、会員にも変化があった。テレワークや休校対策で、都心にあるジムは会社員や学生の会員が減りだした。郊外では逆にテレワークの会員などが、日中から練習する姿が増えた時期もあったという。それも週末休館で激減した。

なんとかしのいできたが、この1カ月の休館は死活問題になる。大半のジムは会員の会費で成り立つ。例年なら年度替わりで進学、進級、異動などを機に入会者が増える時期。一転して、休会や退会者が日増しだ。

ジムには後援者、スポンサー企業などもある。近隣の商店がジムや選手を応援する。休業や倒産も増加する状況で、今後も続けてもらえるかという不安も出てくる。

プロボクサーは試合がなければ収入が断たれる。多くは仕事しながらの選手生活だが、飲食店などのバイトも多い。そのバイトも減ってきた。仕方なく地方の実家に帰ろうとしたら「東京もんは帰ってくるな」と言われた選手もいたそうだ。

世界中が止まっている状況にある。国内で活動が再開したとしても、日本と海外では時差が出てくる。大会ではなく個々のマッチメークという特異の競技。世界を目指すボクサーには厳しい状況が予想される。

今年国内で開催された世界戦は日本人同士の女子1試合しかない。男子は中谷のWBOフライ級王座決定戦が4月から延期されて未定。一番期待のホープが先陣を切るはずが…。今や世界のスターとなった井上を筆頭に、ボクシング王国の一つと言える日本。再びゴングが鳴る日はいつになるのだろう。【河合香】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

3度離婚の山本美憂にとって恋愛は「生活の一部」

自身の過去の五輪挑戦と東京五輪について語った総合格闘家山本美憂

今年1月、いま一番興味がある選手へのインタビューがかなった。総合格闘家山本美憂(45)だ。五輪について語るリレー連載の取材をお願いし、女子レスリング元世界女王でありながら、3度の挑戦ともに五輪に届かなかったこと、今年開催されるはずだった東京五輪について思うことなどを聞いた。

だが、本当に聞きたいことは別にあった。山本は45歳。昨年19年には長男アーセンの娘、つまり孫も生まれ“おばあちゃん”になった。(現役引退までは“おばさん”という設定にさせておくそうだ)。それでも、体力の衰えを感じさせるどころか、試合を重ねるごとに強くなっている。そして、いつでも自然体で美しい。その力と魅力がどこから湧くのか探ってみたかった。

競技の話題だけでなく、恋愛、子育てなどプライベートに触れる質問をぶつけてみたが、山本は嫌な顔せず楽しそうに答えてくれた。恋愛とは何ですかと聞くと、「やっぱり生活の一部ですかね。自分が幸せであるために必要」。“仕方ないよね”と言いたげな笑顔に思わず「かっこいい…」と声が出た。人生の一部、ではなく、生活の一部、である。今の恋愛について聞くのはやぼだと思い、そこはあえて突っ込まなかった。

ここで、山本の経歴を説明したい。74年8月4日生まれ。父郁栄氏はミュンヘン五輪レスリンググレコローマン57キロ級代表。ミュンヘンにちなんで、美憂の名を与えられた。のちに総合格闘家となる弟の山本“KID”徳郁、妹の聖子とともにレスリングの英才教育を受ける。17歳だった91年に世界選手権に初出場し、史上最年少優勝。94、95年に世界選手権連覇も、その年にJリーガー池田伸康と結婚し、現役引退。96年に長男アーセン出産。98年に現役復帰し、99年離婚。00年に格闘家エンセン井上と再婚し、同時に引退。04年アテネ五輪で女子レスリングが正式種目になったのを機に、現役復帰も代表に届かず、3度目の引退。同年、井上と離婚。06年にアルペンスキー選手佐々木明と3度目の結婚。同年次男アーノン、08年に長女ミーアを出産。11年、ロンドン五輪挑戦のため、3度目の現役復帰。同年、佐々木と離婚。同12月の選考会で敗れ、出場を逃す。13年から拠点をカナダへ。15年にカナダ国籍を取得し、カナダ代表として16年リオデジャネイロ五輪を目指すもかなわず、16年に総合格闘技に転向。18年9月に弟徳郁が胃がんで死去。現在は、弟が亡くなったグアムで家族とともに暮らす。

3度の結婚と離婚。その間、五輪の夢を追い続けた。そして今は総合格闘技に没頭する。山本は「めちゃめちゃ自分のやりたいことをやってる。わがままなんです」と笑いながら人生を振り返る。結婚した後、しばらく夫や家族のサポートにまわった時期もあった。それも「その時に自分がしたいと思ったこと」。どんな選択も自分が選んだことだから仕方ないと思えるという。

山本はさまざまな選択に迷う女性アスリートにこう助言する。「気持ちがある以上は競技を続けてほしいなと思いますね。たとえ、結果が結びつかなかったとしても、自分がやりきったという気持ちが残る。だって、何をしても後悔はつきまとうじゃないですか。ああしていれば…とか。でも、やらなくて後悔するのが1番私の中では嫌なんです。やって失敗して、その度にあーってなるけど、しょうがない。自分が選んだことだから。常にそれの繰り返しです。その時は結果に結びつかなくても、あれがあったからこれがあるんだな、って思える時が来たりする。私も五輪に行きたくて行けなかったけど、その過去があるから今がある。残念でしたけど、今は総合格闘技という自分なりの活躍の場所を見つけることができました」。

拠点のグアムでは、2人のこどもの学校や習い事への送り迎えをしながら、その合間にジムで練習を積む。「グアムって狭いから、できちゃうんですよ。ジムも近いし、選手生活を送るには楽です。シングルマザーはすごく助かります。それに、娘は11歳、息子は13歳なんで、もう楽っちゃ、楽。皿洗い、掃除とか家事も手伝ってくれて、逆にあの子たちに助けられているんです。すごくいい環境で練習ができていますね。バタバタしてますけど、それが自分には合ってるのかな」。総合格闘家に転向して4年。「自分はまだ新人の部類にあたる気がする。やることいっぱいあるのがうれしいこと。飽きないですね」とまだ熱が冷めることはなさそうだ。

雑談で美容の秘訣(ひけつ)も聞いた。「とにかく保湿! あとは水をすごく飲む。1日4、5リットルぐらい」。年齢を忘れるほど強く、美しい山本は、私たち後輩女性に勇気をくれる。【高場泉穂】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

偉業目指す寺地拳四朗の調整にも影響、コロナ禍憎い

19年12月、7度目の防衛に成功し、一夜明け会見で笑顔を見せる寺地

新型コロナウイルスの感染拡大でスポーツイベントの自粛が続く。中でも顕著なのは屋内型で、ボクシングは3月中の興行中止が4月いっぱいまで延びた。興行を主催し、商売とするジムにとって、致し方ないとはいえ、ダメージは計り知れない。

プロ野球やサッカーJリーグでも試合日程が決まらない状況の中で、最も影響を受けるのが選手だろう。野球の先発投手であれば、登板日に合わせて逆算して調整する。ボクシングでいえば、さらに長い期間をへて、試合に合わせて調整する。しかも10キロ近い減量を伴う。その難しさは想像すらできない。

まだ感染拡大が広まっていない2月末にWBC世界ライトフライ級王者・寺地拳四朗(28=BMB)の7度目防衛の祝勝会が京都市内で行われた。寺地は「この時期に来てくださるみなさんは本当にありがたい。握手とかもあまりできないのに」。直接の接触は避けながら、写真撮影などファンとの交流に奔走した。

その一方で不安は尽きない。当初は年内3度の防衛戦を行い、防衛回数2桁10回がプランだった。しかし米国、欧州まで感染拡大が広がる中、マッチメークは容易ではない。寺地も「メンタル的な影響はないが、(次戦が)いつ決まるんやろ。当分、決まらないでしょうね」と本音を漏らしていた。

ボクサーにとって減量は、試合以上の難敵と言われる。体質的に減量苦が少ない寺地だが、明確な目標がなければ当然、モチベーションも上がらない。「(年内のV10が)無理なら無理で引きずることはない。今まで通り、流れに任せるだけです」と話したが、本音はきついと思う。

ウエート調整が厳しく、複数階級制覇が主流の中、寺地はかたくなに防衛回数にこだわる。元WBA世界ライトフライ級王者具志堅用高のV13。その偉業を応援したいからこそ、あらゆるイベントにダメージを及ぼすコロナ禍が憎い。【実藤健一】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

22歳クドゥラ金子は青かった…初黒星で引退宣言

第10R、長濱(左)に右ストレートを放つクドゥラ金子(2020年2月27日撮影)

ウイルスで世界中が静まり返っている。スポーツへの影響は多大で、再び歓声が湧く日が見えてこない。ボクシングも例外なく、4月15日までの試合が中止、延期になった。対策実施前最後の興行が2月27日に後楽園ホールであった。当日券販売なしでも1009人集まった。逆転、番狂わせなど8試合は熱気があった。

協栄新宿ジム初陣、賞金マッチ5回戦は元日本王者土屋と元東洋太平洋王者小浦が再起戦、はじめの一歩トーナメント準決勝と、いつになく話題豊富。応援団も多くが駆けつけたようだ。

注目はやはりメインで、東洋太平洋ウエルター級王座決定戦だった。アフガニスタン出身の同級2位クドゥラ金子(本多)が王座奪取なるか。15年にデビューから11連勝で8KO。18年に元日本王者有川を3回TKOで一躍名を上げた。

出稼ぎで来日の父に、11年の13歳の時に母、弟と呼び寄せられた。ボクシングとの出会いはテレビで見たタイソン。キックボクシングジムに通ったこともあったそう。来日後に自宅近くのジムに通い始めて「プロになりたい」と本多ジムに移った。

C級トーナメント優勝、東日本新人王も初戦突破したが右拳を痛めた。仕事でも手をケガして手術。ブランクを作り、対戦相手探しに苦労しながら、日本ユース王座獲得をへての初挑戦だった。

本名クドゥラ・トゥラに、本多会長は虎をリングネームにしようとした。本人が拒否。中高時代送り迎えしてくれ、ロードワークにも付き添い、手塩にかけて育ててくれた金子トレーナーの名前をもらった。

首都カブールから車で8時間のマザリシャリフ生まれ。山やパキスタンに住んだことも。授業はイスがなく床に座る。小学校から大学まで同じ場所で入れ替えのため授業は3時間程。金がない人は教科書がなかった。祖国は「戦争のあとは爆弾」と今だ戦火にある。

タイソンが手本も、生き方はパッキャオに共鳴する。「ファイトマネーで母国の人を助けたい。学校を建てたい」が夢だったが、結果は初黒星を喫した。

同級7位長浜(角海老宝石)に6~8ポイント差の0-3判定負け。長浜の顔は敗者のように腫れ上がり、クドゥラは強打も浴びせた。接近戦などで先手をとられ、スタミナも切れた。アマ経験ある全日本新人王に日本ユース王座を獲得した相手と技量、対策に差があった。

何より新王者の「パターンが同じ」という言葉が実力を示していた。終盤はイライラを募らせ、首を振ってコーナーに戻る。採点がコールされると、客席に頭を下げることなく、そそくさとリングに下りた。「話は長浜に聞いて」とだけ言い、さっさと引き揚げた。8日にはSNSで「ボクシングをやめます」と宣言した。22歳のアフガン戦士はまだ青かった。【河合香】

自粛要請も「何がなんでもやる」新間会長の大和魂

2020年2月26日、リアルジャパンの会見でコロナウイルスに関する持論を語った新間寿会長(中央)。左は藤田和之、右はスーパータイガー

プロレス界でも新型コロナウイルスへの対応が続く。ここ2週間の関連取材の中で最も印象に残っているのが、リアルジャパン新間寿会長(84)の言葉だ。

かつて猪木-アリの異種格闘技戦を実現させ、昭和プロレスの“過激な仕掛け人”と呼ばれた新間氏は2月26日、都内で行われた3月19日後楽園大会に向けた会見で「どんなことがあっても興行はやります!選手たちの熱い思いでもって、コロナウイルスなんかふっとばす!大和魂ここにあり!」と堂々と試合決行を宣言した。

会見直前、政府から2週間のイベント自粛要請が出ていた。3・19は、その2週間の後だが、それでも、このタイミングでの「何がなんでもやる」という発言は批判を浴びかねない。何が悪いと言わんばかりの新間会長の態度に驚くとともに、持ち前の過激さを感じさせられた。 それから約1週間。新日本、ノアなど他のプロレス団体が大会延期、中止を決めたり、ライブを決行したアーティストが批判を浴びるなどスポーツ、エンターテインメント業界ではさまざまな動きがある。それでもなお、新間会長の思いは変わらないのか。あらためて聞いてみた。 新間会長は「何がなんでもやりますよ!」と張りのある声で第一声。「非常時にしゅん、としてどうする。日本人は心を1つにして、相手に向かわないといけない」と会見時と変わらぬ主張を語った。さらに「コロナに負けない体を」と日課である腹筋ローラー300~400回の運動を続けていると熱弁した。 会見後には批判の声もあった。「興行の中でウイルス感染者が出たらどうするんだ、と言ってくる人もいた。でもそんな仮定の話、これから起こりうる話をしても仕方がない」。リアルジャパンでは既に配布用のマスクや消毒液などを準備。「会見後、九州など遠方から行くとわざわざ連絡をくれる方もいた。来てくれる方が喜ぶために。万全の準備をする」と感染対策に努める。 現段階で2週間の期間後のイベント開催について政府の見解は出ていない。「それが出たらその時、考える。ただ、1度決めたからにはどうにかしてやりたい」と新間氏の決行の意志は固い。当日はパーキンソン病の疑いで闘病中の初代タイガーマスク、佐山サトル(62)も来場する予定だ。 【高場泉穂】

大橋会長が八重樫東に引退勧告「激闘王」の決断注目

14年9月5日5日、WBC世界フライ級タイトルマッチ後に健闘をたたえ合う八重樫(左)とゴンサレス

激闘王が最後の決断を迫られている。大橋ジムの大橋秀行会長(54)が26日、元世界3階級制覇王者八重樫東(37)に引退勧告をしたことを明かした。世界王者同士の師弟関係。長い時間を共有した深い絆は、会長が続けた言葉ににじみ出た。

「あとは本人が考えて結論を出すと思います」

どのような結論を出そうとも、八重樫が歩んできた道が色あせることはない。

逃げない。その姿が見るものの胸を、熱くさせてきた。真っ向勝負の殴り合いから「激闘王」の異名が定着。もういいよ-。思わずそう叫びたくなるような「どつき合い」が、誰よりも似合っていた。

マイケル・ジョーダンに憧れ、バスケットボールに夢中になった中学時代。体の小ささに悩んでいた時に出会ったのがボクシングだった。「これなら言い訳は出来ない」とすぐに夢中になった。フットワークと天性のハンドスピードで素質はすぐに開花し、高校、大学とアマチュアで活躍。だが、飛び込んだプロの世界は甘くなかった。

7戦目でつかんだ世界初挑戦。イーグル京和にあごの骨を折られ、プロ初黒星を喫した。次の世界挑戦のチャンスまで4年待った。その間、進むべき道を見失わなかったのは、同門の先輩川嶋勝重の背中に見たプロとして生き抜く覚悟だった。八重樫にはずっと大切にしてきた川嶋の言葉がある。「最後は気合、根性だ」。

デビュー17戦目のポンサワン(タイ)戦で憧れ続けた世界王座を獲得すると、続く井岡一翔とのWBA、WBCミニマム級王座統一戦で人気に火が付いた。被弾により両目が塞がったまま、本能で拳を出し続けた。殴られたら、殴り返す。思わず目を背けたくなるような感情と、いつまでも見ていたくなるような感情。見るものの心に、2つの異なる思いが同居する異様な光景だった。わずか1試合で王座陥落。だが「打たせずに打つ」というボクサーの理想とは正反対のスタイルに、ファンは熱狂した。

デビューからの戦績は28勝(16KO)7敗。7回負け、その度に立ち上がり、また次の一歩を踏み出してきた。14年9月、当時「最強」と称され、多くのボクサーが対戦を避けたローマン・ゴンサレスを自ら防衛戦の相手に指名。会場の代々木第2体育館は、八重樫が入場しただけで熱狂に包まれた。ロマゴンの機械のように正確なパンチを浴び、何度も倒された。完敗だった。それでも、ファンは、八重樫の勇気がうれしかった。試合終了が告げられると、入場時以上の温かな拍手が八重樫に送られた。

リング上では、笑顔でロマゴンをたたえた。そして、控室に戻ると、長女を抱き上げ、おえつが出るほど泣いた。「お父ちゃん格好悪かったね。ごめんね」。負けた自分は、主役ではない。だから笑ってロマゴンの手を挙げ、控室まで涙を我慢した。試合の前日には部屋を片付け、ひげを剃る。「もう、ここには帰ってこれないかもしれない」。その覚悟があるから、あの戦いができたに違いない。

14年9月5日、王者陥落した八重樫(右)は控室で家族にねぎらわれる

左から松本トレーナー、八重樫、大橋会長(2019年12月10日撮影)

ロマゴンに王座を奪われ、同年末の世界戦でも敗れた。世界戦2連敗-。誰もが八重樫はここまでかと思った。だが、八重樫はリングに戻った。そして、1年後の15年12月29日。日本人3人目の3階級制覇を達成した。

拓大時代の先輩内山高志のような圧倒的な「強さ」があったわけではない。同学年の山中慎介のような「一撃必殺」のパンチがあったわけでもない。井上尚弥のような「華」があったわけでもない。同じ時代には村田諒太というスターもいた。それでも八重樫は、埋もれることなく、ボクシング界の主役の1人であり続けた。

最後に王座から陥落し、2年以上がたった昨年7月。思うように、世界挑戦が決まらない中、久しぶりにゆっくりと話を聞く機会があった。36歳。年齢からくる体の変化、衰えも素直に口にしていた。だが、闘争心は消えていなかった。

「ネットで自分へのコメントを見てると、本当にむかつく時があるんですよ。『引退した方がいい』とか『パンチドランカーになる』って心配されたり…。そういうのを見ると、みてろよって思うんですよね」

続けた言葉に、八重樫のボクサーとしての本質を見た気がした。

「しがみついている姿を、周りから格好悪いと思われてもいいんです。しがみついて、しがみついて…。でも、必至にしがみついているやつにしか、チャンスなんて絶対にこない。だから自分は、しがみつける力がある限り、とことんしがみついてやりますよ」

19年12月。2年7カ月ぶりの世界戦のリングで、八重樫は負けた。今回ばかりは、潔く……。いや、違う。そんな男なら、ここまで上り詰めることはできなかっただろう。将来を考え、迷いに迷う中で、会長からの「引退勧告」を受けたに違いない。

八重樫のベストファイトは? そう聞かれ、どの試合を思い浮かべるだろう。ロマゴン戦? 井岡戦? 負ける度に強くなり、リングに戻ってきた。負けた試合で名を上げてきた。人生、良い時ばかりではない。倒れても立ち上がる。試合を見た人は、無意識に八重樫の姿に勇気をもらった。

大橋会長が井上尚が世界王者になった当時、何度も繰り返した言葉がある。

「川島の背中を見て育った八重樫がいたから、今の(井上)尚弥がいる」

顔には幾多の縫い跡が残る。大橋会長から引退を勧められた日、八重樫は37歳になった。誰とも違う道を歩いてきた。激闘王は、果たしてどんな決断を下すのか。その言葉を待ちたい。【奥山将志】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

◆八重樫東(やえがし・あきら)1983年(昭58)2月25日、岩手・北上市生まれ。黒沢尻工3年でインターハイ、拓大2年で国体優勝。05年3月プロデビュー。06年東洋太平洋ミニマム級王座獲得。7戦目で07年にWBC世界同級王座挑戦も失敗。11年にWBA同級王座を獲得、13年にWBCフライ級王座獲得で3度防衛。15年にIBFライトフライ級王座を獲得し、3階級制覇を達成。2度防衛。家族は彩夫人と1男2女。160センチの右ボクサーファイター。

堀口恭司は変態?KIDさん参考に焦らずリハビリ中

9月の復帰を目指す総合格闘家堀口恭司

2月5日、総合格闘家の堀口恭司(29)はツイッターで「早く走りたいな…」とつぶやいた。

昨年11月に右膝前十字靱帯(じんたい)断裂と半月板損傷を負い、今はリハビリ中。無理しがちな堀口の性格を知ってか、ファンからは「焦らず」「我慢してください」など、なだめるコメントが多数寄せられた。

昨年12月に拠点のフロリダから日本に帰国した堀口はこの1月末、米国へ戻った。住居は練習拠点であるアメリカン・トップ・チーム(ATT)の2階。そのリビングからは窓越しに練習場が見下ろせるという。きっと仲間が動く姿を毎日眺めながら、うずうずしているのだろう。

1月末、日本をたつ前に堀口に話を聞いた。昨年大みそかのRIZINの会場でつけていたギプスは取れ、普通に歩いて待ち合わせのカフェに現れた。リハビリの成果で膝の可動域が増え、当初の見立てより早く回復しているという。早ければ今年9月のRIZINで復活し、12月に現在マネル・ケイプが巻くベルトを奪還するプランを描く。

大きなけがはすねを骨折し1年間動けなかった高校2年生以来。プロでは初めてのことだった。腰や膝に痛みを感じ始めたのは昨年初めから。それでも周囲に隠し続けた。昨年8月に朝倉海に負けた時も、「言い訳になっちゃうので言いたくないですが…」と前置きしつつ、「練習は1カ月ぐらいできていないというのはありました」と明かした。不調を感じながらも「自分はRIZINの顔。盛り上げなくては」という責任感から、試合のオファーを受け続けた。

靱帯(じんたい)が切れたのは8月の敗戦から約1カ月後、10月の大会に向けた練習中だった。「寝技の練習して、ちょっとだけ膝をおされたんです。そしたらバコっとずれちゃって。全然痛くないんです。普通にスっとずれて。だから、痛くないから大丈夫だろうとその場で自分で戻して、また練習を始めて。でも、その後のスパーリングでぴょんぴょん跳ねているだけで、またバコっと外れちゃったので。『あぁ、これだめだ』と思って。病院にいったら、靱帯(じんたい)きれているねと言われました」。そう笑いながら話す堀口を、取材に同席したマネジャーは「変態。訳が分からないです」。今回のけがを受けての堀口陣営の合言葉は“Don‘t trust Kyoji(恭司を信じるな)”。堀口は「ことごとく信用を失いました」と笑った。

膝の前十字靱帯を切るアスリートは多い。焦って復帰して元の状態に戻れないまま引退するか、じっくり治してむしろけが以前よりパフォーマンスが上がるか。医師に聞くと、その両極端に分けられるという。身近な例もあった。師匠の故山本“KID”徳郁さんは、08年7月に右膝前十字靱帯を断裂。堀口はその後のKIDさんを間近で見てきた。「自分がテレビで見ていた時と、けがした後、ちょうど自分が(KIDさんのジムに)入った時の動きは全然違うと思った。あんまりリハビリをしなかったって言っていました」。1番の敵は焦り。「ちゃんと制御しないと」と自分に言い聞かせて、じっくりリハビリに励んでいる。

昨年末のRIZIN20大会のオープニング映像には、堀口の入場曲「My time」が使われた。リングに立たずとも堀口が総合格闘技、RIZINの顔であるというメッセージにも読み取れた。会場に曲が流れどよめきが起きる中、堀口は「俺、死んじゃったの?」と笑っていたという。「たぶん復帰したらパフォーマンス上がると思いますよ。それも楽しみなんです。世間一般では前十字靱帯きったら、もう無理でしょ、みたいなノリがある。それを覆すのがすごい楽しみ」。今年の目標は「リベンジ」だ。【高場泉穂】

(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

元小結旭道山の波田和泰氏、おいっ子応援団長が本業

懐かしい人に会った。元小結旭道山の波田和泰さん。100キロ台の軽量ながらも、南海のハブと言われ、三賞も4回受賞するなど、90年代前半に活躍した。後楽園ホールに、おいっ子の応援にきていた。

日本ユース王座を獲得した波田大和

波田大和はスーパーフェザー級で、1日の日本ユース王座決定戦でタイトルに初挑戦だった。昨年9月の予選は4回TKO勝ち。決勝の決定戦は日本ライト級10位石井(伴流)と23歳のサウスポー対決となった。

「緊張しいなんで」と序盤は硬さがあったが、2回に左ストレートでダウンを奪った。3回以降は力んで手数が減り、なかなか詰め切れなかった。5回にワンツーから連打でストップ勝ち。帝拳ジム初のユース王者になった。

長谷川穂積をテレビで見て、中2から自宅近くのキックボクシングジムに通った。強豪の埼玉・花咲徳栄に進み、3年でインターハイと国体に準優勝。卒業した15年に帝拳ジムに入門し、10月にプロデビューで10勝1敗。勝ちはすべてKOで、名門にホープ誕生となった。

「見すぎてパンチをもらった」と反省しきりも「いつもは下がってしまう。練習してきた通りに前に出ることができた」と目を細めた。

波田のトランクスには旭道山の文字

薄茶の毛皮のトランクスはライオンをイメージした。「メンタルが課題なんで。荒々しいライオンで怖がらないようにと思って」という。左太もも裏には旭道山の文字も入れていた。

ボクシングのきっかけは父寿和さん。大相撲幕内格行司木村寿之介だが、ボクシング好きで大島部屋に入門したころジムに通っていたという。今はジムでのスパーリングの動画を一緒に見て、アドバイスもしてくれるそうだ。

「大和会」という後援会もあり、300人以上が応援に駆けつけた。父と叔父の師匠だった元大関旭国の太田武雄さんの姿も。試合後に会場近くのカフェで祝勝会。元旭道山の波田さんと二十数年ぶりで話をした。

こちらも現役時には強烈な張り手に、何人もKOしている。極意を伝授したか問うと「いやいや。ぼくなんて。それより1発の怖い世界。それだけ気をつけろと」。おいっ子は4戦目に逆転TKO負けしている。同じ勝負師として知る、その怖さを強調していた。

96年に突如廃業して、衆院議員に立候補して当選した異色の経歴を持つ。現在は事業やタレント活動しているが「世界王者になってもらわないと。協力お願いします」。おいっ子応援団長が本業のようだ。【河合香】

(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

旭道山(89年)

ボクシング界に寂しさ、願う井上尚弥の4団体統一

アリトロフィーを掲げる井上尚弥(2019年11月7日撮影

ボクシングで昨年の日本人男子世界戦は、海外含めて27試合あった。日本人対決2試合入れて通算14勝15敗。勝ったのは田中が3勝、井上、京口、寺地、村田、井岡が2勝、岩佐が1勝。王座獲得は井岡、村田、岩佐の3人で、いずれも返り咲き。外国人相手に限ると12人が挑戦に失敗した。新王者誕生はなく、ちょっと寂しい。

田中の3勝は光るが井上に尽きるだろう。ワールド・ボクシング・スーパー・シリーズ(WBSS)を制するとにわかファンが増えた。NHKの紅白歌合戦で審査員など、年末年始のテレビ出演も多かった。女子中高生にも声を掛けられるようになったそうだ。

ボクシングは昭和の時代からある、数少ないプロ競技の一つ。十分認知されているが、人気沸騰した時代は昔のこと。白井、原田、具志堅…。近年でいえば辰吉でもう20年前。当時は全国のジムで練習生が増えた。

今は競技が激増し、きついものは敬遠されがち。ボクシングは個人競技で試合も少なくブームになりづらい。昨年はラグビーの年で、2大会連続の大番狂わせも初の8強入りで力は本物を証明。にわかファンを沸騰させたがこちらも競技人口は減少傾向で、人気というより認知されたと言えるだろう。

日本では重量級でプロアマ制覇の村田と両輪と言える。村田もビッグマッチ実現の期待があるが、井上にはどこまで強さを高めていくかの期待が大きい。全階級を通じてランキング、パウンド・フォー・パウンドという用語が世間一般に通じるようになるかだ。

今年初戦は4月にラスベガスに進出となり、WBO王者カシメロ(フィリピン)との統一戦が有力だ。WBC王者ウバーリ(フランス)も標的。WBA、IBFと王座を統一した井上。ぜひとも今年は2試合を実現して勝利し、4団体完全制圧をしてほしい。

4団体で最新のWBOは88年に設立された。この22年間で4団体統一王者は4人だけ。ミドル級のホプキンス(米国)が最初。テイラー(米国)はホプキンスに勝ってのもの。スーパーライト級クロフォード(米国)とクルーザー級ウシク(ウクライナ)は、2団体統一後に2冠対決を制したものだった。

4本のベルトを1本ずつ獲得していったのは、いまだにホプキンスしかいない。チャンスすら、そうあるものではない。WBSS制覇でトップランク社と契約したのも、こうしたマッチメーク、ビッグマッチ実現のため。今年一番の願いである。【河合香】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

ドネアに勝利しアリ・トロフィーを掲げる井上尚弥(2019年11月7日撮影)

史上初2冠の内藤、昨年11月末に右目手術していた

1月5日、2本のベルトを手中に収めいつものポーズを決める内藤哲也

5日の新日本プロレス東京ドーム大会でIWGPヘビー、IWGPインターコンチネンタル(IC)の2冠王者となった内藤哲也(37)は、昨年11月末に極秘で右目の手術をしていた。

異変に気付いたのは昨年5月ごろ。試合の最中に、ものが二重に見えるようになった。「ロープが6本にみえるし、2階席と3階席が重なってみえる。それでずっとやっていた」。もともと病院嫌いだが、このままでは試合に集中できないと意を決し、眼科、脳外科、耳鼻科とさまざまな病院をまわった。それでも原因は分からない。「このまま引退になっちゃうのかな…」と不安を抱えたまま夏のG1に臨み、優勝決定戦進出はならず。18年5月に戴冠したIC王座から同9月に陥落。結果も出ず、焦りの日々が続いた。

やっと原因が判明したのは10月。大学病院で、目の筋肉がまひしていると診断された。11月27日の浜松大会まで試合に出場し、翌28日に帰京。同29日に都内の病院で手術を受けた。まひしてゆるんでいた目の周囲の筋肉を縫合したことで、視界のピントが元に戻った。

3週間のオフを経て、12月19日の後楽園大会で復活。「久々に見えた。上を向くと、ぼやけちゃうけど、正面や下はちゃんと見えている。見える範囲が広がった」と試合をして初めて回復を実感。長く抱えていた心身の不安を解消できたことが、史上初の2冠の偉業につながっていた。【高場泉穂】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

1月5日、オカダ・カズチカ(右)にデスティーノを決める内藤哲也

拳法極めた前田稔輝が“間合い”克服し世界を狙う

2019年12月22日 フェザー級新人王決勝戦 3回、亀田(左)に左フックを見舞う前田(撮影・山崎安昭)

12月22日はボクシングの全日本新人王決勝戦が、東京・後楽園ホールで行われた。日本ボクシング界の未来を担う逸材発掘の場で、最大の注目を集めたのがフェザー級。亀田3兄弟のいとこ、亀田京之介(21=花形)が、その主役だったが結果は判定1-2で敗戦。勝ち名乗りを受けたのは、グリーンツダジムの前田稔輝(じんき、23)だった。

互いに探り合うスタート。前田も「今日は0点。いつもの自分じゃなかった」と振り返った。手数もなく、ラウンドだけを重ねていく。最終4回、前田が仕掛けた打ち合いでようやく試合が動く。その差が勝敗に響いたか。微妙な判定結果を前田がものにした。

ジムの本石昌也会長は「彼の実力はまだこんなもんじゃない。キャリアさえ積めば」と話す。前田は小学校1年から日本拳法をはじめ、大商大2年時には日本一に輝いた。段位は師範クラスの4段。そこから将来を見据え、ボクシングに転向。ジムに入門したのは昨年11月で、デビューは今年4月。キャリアの浅さが、最大の弱点だった。

ボクシングの聖地、後楽園ホールの独特の空気に「のみこまれた」という。その中で勝利を手にしたのが最大の収穫。「やばいと思ったが、大阪からもたくさん応援に来てくれて、何とか勝つことができた」。

父の忠孝さん(44)も日本拳法3段の腕前だが、息子のプロボクシングデビューを機にトレーナーライセンスを取得した。「息子と同じ、最初から始めるつもりです」。将来的に本石会長も「ついてもらいたい」と父子鷹に期待する。

強打のサウスポーだが、試合のスタイルは日本拳法が抜けていない。前田も「距離感がつかめなかった」と“間合い”の違いを打ち明ける。裏返せば、克服した先に伸びしろがある。新人王を制して、日本ランク入りは確実となり「世界に早く近づけるようになりたい」。拳法で頂点を極めた強打が、世界を狙う。

【実藤健一】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

2019年12月22日 フェザー級新人王となった前田(撮影・山崎安昭)

何ともみっともない協栄ジム休会、先代も泣いている

協栄ジム

プロボクシングの名門協栄ジムが休会となった。オーナー側と金平桂一郎会長の金銭トラブルが原因。あまりに突然のこと。選手、スタッフには説明もなく、報道で知ったという。

アマチュアのジムとしては存続するが、プロ選手は宙に浮いた。しかも2人が2週間後に全日本新人王を控えていた。緊急対応で移籍が決まった。東日本協会会長の花形会長が手を差し伸べたのは救いだった。

金平会長は再開を目指すと言ったが、12年に大久保の自社ビルを売却前後から、閉鎖のうわさがくすぶっていた。経営難からオーナーと契約したが、その資金源がなくなった。

あまりにも無責任な行動に、協会も再開には厳しい条件をつけることで一致した。休会が5年続くと自動的に退会となる。このまま消滅する可能性が強い。

59年に金平ジムとして、現会長の父正紀氏が開いた。現役時は日本ランキング1位までいき、引退後はマネジャー。トンカツ屋を開き、バイト募集広告に「ボクシング教えます」の1行を加えた。これが国内最多となる13人の世界王者育成ジムの始まりになった。

応募したのが海老原博幸だったという。才能を見初めて、店を畳んでジムを開いた。その後は西城、具志堅、上原、渡嘉敷、鬼塚、勇利、ナザロフを育て、佐藤、坂田も死去後に世界を射止めた。

鬼塚、勇利時代によくジムへ通った。過去に対戦相手に薬物入りオレンジを食べさせたと、一時期追放されていた。怖いイメージだったが、なかなかユニークなやり手だった。

具志堅は拓大進学で上京も強引に入門させ、「100年に1人の天才」と売り出した。旧ソ連だった勇利とナザロフは輸入ボクサーとして最初の成功例。鬼塚は陥落翌日に網膜剥離を告白して引退した。水面下では次戦で辰吉と対戦させる計画が夢となり、とても残念がっていたのを思い出す。

5人の世界王者を生んだヨネクラジムは17年に閉鎖した。米倉会長が高齢などで55年目に幕を閉じた。協栄は今年61年目。昭和、平成とこの世界を支えた。先代もスキャンダルの人だったが、策士ぶりは誰もが認めた。今回の休会騒動は何ともみっともない。草葉の陰で泣いていることだろう。【河合香】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

団体間の“直接対決”日米プロレス界で熱くなる

GHCヘビー級王者清宮海斗

刺激的なライバルがいてこそ、その競技は盛り上がる。レスラー同士だけではなく、プロレス団体同士もそうだ。今、団体間の“直接対決”が米国で、日本で熱くなっている。

10月2日、米プロレス界はライバル団体同士の「視聴率戦争」がスタートした。米最大の団体WWEのブランドNXTが9月18日から毎週水曜日、USAネットワークでの放送が始まった。これまでロウ、スマックダウンの2ブランドのみがテレビ放送される形式だったが、NXTというブランドもインターネット配信からテレビに切り替えた。そして10月2日からは新日本プロレスで活躍していた元IWGPヘビー級王者ケニー・オメガ、Cody、ヤングバックス、元WWEスーパースターのクリス・ジェリコが在籍するAEWが毎週水曜日にTNTでテレビ放送を開始。ほぼ同じ時間帯で視聴率戦争を繰り広げている。

視聴者数は11月中旬まではAEWが7週連続で勝利していたが、WWEは巻き返した。まず初代ユニバーサル王者フィン・ベイラーがNXTに電撃復帰。ロウ、スマックダウンの王者クラスが投入され、最近ではWWEインターコンチネンタル王者中邑真輔、WWE女子タッグ王者のカブキ・ウォリアーズ(アスカ、カイリ・セイン組)らもNXTに久々登場した。充実したテコ入れもあり、11月下旬は2週連続でNXTが視聴者数を上回った。WWEにとってWCW以来、18年ぶりのライバル団体の登場で、よりアクティブになっている。

そして、日本も。来年1月、新日本プロレスが4日、5日に東京ドーム大会を開催することに合わせ、国内業界2位を目指すと宣言しているノアが1月4日、5日と東京ドームに隣接する後楽園ホールで興行を開催する。既に4日はGHCヘビー級選手権(王者清宮海斗-潮崎豪)、GHCナショナル選手権(王者杉浦貴-マサ北宮)、GHCジュニアヘビー級選手権(王者HAYATA-小川良成)に加え、中嶋勝彦-マイケル・エルガンのシングル戦と王座戦を含め、話題カードを惜しみなく組んだ。対抗心を燃やしている姿勢が伝わってくる。

男子だけではない、女子もだ。新日本プロレスの親会社ブシロードの傘下に、人気の女子団体スターダムが入った。スターダムが女子の独壇場になりそうなムードが高まってきたが、女子団体マーベラスを率いる長与千種が8日の後楽園大会を持って代表取締役を辞任。裏方に専念することを明かした上で「必ず横に並びます」とブシロードと良い意味のファイトを宣言したばかりだ。

2020年のプロレス界は日米そろって“直接対決”でしのぎを削り、人気面を争う形になるのだろう。国内外関係のなく、業界全体の盛り上がりが、世間の注目度を上げていくことになるだろう。【藤中栄二】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

 日刊スポーツのバトル担当記者のとっておきコラム。プロレス、ボクシング、総合格闘技の現場からお届けします。