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リングにかける男たち

もう一花…新天地で3人目世界王者育成目指す名伯楽

前島正晃会長(左)を相手にドラムミットで練習する木村蓮太朗(2020年6月12日撮影)

国内ボクシングも再開された。東京・後楽園ホールでの無観客だった2興行は同僚が取材し、いずれも録画放送で見た。関係者らは遠巻きに座っていた。リングに入れるのは、選手2人、チーフセコンド2人、レフェリーの5人だけ。1人はマスク越しに久々に見る顔だった。

22日の2試合目で東洋大主将だった木村蓮太朗(23)が、2回TKOでプロデビューを飾った。セコンドについたのが高橋智明トレーナー(43)。20年勤めたワタナベジムを昨年12月で退職し、今年から静岡・富士市の駿河男児ジムに移った。

岩手・水沢農時代にインターハイ2位で東農大に進んだ。3年で病気のため現役を断念。マネジャーとなってトレーナーを目指していると、ワタナベジムの募集広告を見つけて応募して採用された。

WBA世界スーパーフライ級王者河野公平(左)と高橋智明トレーナー(2015年10月10日撮影)

その99年から入門したての河野公平を教えてきた。未経験で「何もない選手だった」が、12年に3度目の挑戦で世界王者になった。初防衛失敗も14年には王座に返り咲き、亀田興毅らに3度防衛。その後も井上尚弥に挑戦し、18年の引退まで二人三脚で歩んだ。

10年に内山高志がジム初の世界王者となった。世界戦を控え、当時のチーフトレーナーが急に退職した。スタッフらジム一丸で内山を支えたが、チーフを務めたのが高橋トレーナーだった。

内山が連続KO防衛も果たすと、トレーナーを表彰するエディ・タウンゼント賞をチーム内山で受賞した。河野を育てたことで15年にも受賞。90年に始まった同賞では、最後に唯一の2度受賞者となった。

ワタナベジム渡辺均会長(前列左から2人目)、内山高志(同3人目)らチーム内山。前列左端が高橋智明トレーナー(2010年1月9日撮影)

そんな姿がドキュメントでテレビ放送され、駿河男児ジム前島正晃会長(41)が見ていた。10年にジムを開いてまもなくで「選手への思い入れに感動」。面識はなかったが、試合会場にも出向いて誘い続けた。

高橋トレーナーの家族は夫人の実家がある御殿場市に住む。単身赴任で週末帰宅生活に、いずれは静岡で家族と生活するつもりだった。願ってもない話だが、選手第一に踏ん切りがつかなかった。河野引退後も船井龍一にチャンスがあった。昨年5月に米国で挑戦も敗れたことで、ようやく決断できた。

木村は静岡・飛龍高出身で、東洋大で3冠を獲得、主将として初の大学日本一にも導いた。ケガで東京オリンピック(五輪)国内予選に出られず。大手ジムからの誘いもあったが「静岡から初の世界王者に」と地元ジムを選んだ。

高橋トレーナーは日中は富士市内で木材加工会社に勤めている。会長からは専任でと誘われたが、大学と高校受験を控えた息子が2人いるため、「稼がないと」と笑う。

ワタナベジムは国内最多の選手がいる。木村陣営の悩みはスパーリングパートナー。そのためデビュー前は都内のジムでスパーを積み、高橋トレーナーも休日には上京して同行した。古巣のジムにも出稽古した。

河野と船井はたたき上げだった。木村はアマエリートに「一言言えば理解できる。内山のようにボクシングIQが高い。楽です」と話す。9月には地元での主催興行で2戦目に臨み、年内にもう1試合を希望する。「もう一花咲かせたい」。高橋トレーナーも新天地で3人目の世界王者育成を目指す。【河合香】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

プロ転向会見を行った木村蓮太朗(中央)。左は前島正晃会長、右が高橋智明トレーナー(2020年3月5日撮影)

清水聡に注目 再開ボクシングのタイトルマッチ

清水聡(2018年12月3日撮影)

新型コロナウイルスの感染拡大により、2月27日から休止していたボクシング興行が、4カ月半ぶりに再開する。今月12日の名古屋での中日本新人王予選を皮切りに、16日には東京・後楽園ホールで日本、東洋王座のタイトルマッチ2試合が行われる。同興行でメインイベントを務めるのが、東洋太平洋フェザー級王者の清水聡(34=大橋)。ロンドンオリンピック(五輪)から8年。プロ転向から4年。34歳となった銅メダリストにとって、今後のキャリアを左右する重要な一戦となる。

19年7月にWBOアジアパシフィック・スーパーフェザー級王者ノイナイ(フィリピン)に挑戦も、6回TKO負け。プロ初黒星とともに、両眼窩(がんか)底、両眼窩内など計4カ所を骨折し、試合4日後に横浜市内の病院で緊急手術を受けた。描いていた世界王者への道が大きく揺らぐ敗北。そして、コロナ禍が続いた。だが、1年のブランクは、清水にとってマイナスだけではなかった。

デビューから8連勝。4戦目での東洋王座奪取と、アマの実績通りの活躍を見せてきたが、ここまでの4年間は、「思うようにいかない」という感覚のずれとの戦いだった。原因は、体の軸のずれ。あらためて自身のボクシングと向き合うと、アマ時代の「もらわずに、自分だけが当たる」という繊細な感覚を失っていることに行き着いた。「ある意味、コロナが良い期間になった」。

外食が多かった食生活は、鶏のササミを中心とした自炊に切り替えた。下半身強化に時間を割き、今春は1カ月で250~300キロを走り、土台を作り直した。「去年の敗戦はもう終わったこと。この復帰戦にすべてをかけている。1年前とは手応えも全然違う」。

五輪がなくなった「20年夏」。競輪界で戦う親友の新田祐大(34)が、東京五輪日本代表に選ばれたことも大きな刺激となった。8年前、ともにメダルを獲得した村田諒太(帝拳)は世界の頂点に駆け上がり、メダルを争った海外のライバルたちもプロで結果を出している。負けていられない。プライドもある。

「ルーク・キャンベルとも(アイザック)ドグボエともやっている。『清水はあまり強くない』と思われていると思うが、ここでバチっと変えたい。今、数年ぶりに、ボクシングが楽しい。『清水、世界行ける』っていう試合をしたい」。

対戦相手は同級14位の殿本恭平(25=勝輝)。大橋会長は「今回はスパーリングを重ねる度に良くなっていった。重圧のかかる試合だが、そこは五輪メダリスト。次が見えてくるような試合をしてほしい」と話す。つまずきは許されない。コロナ禍後、国内最初のタイトルマッチで、清水が存在感を示す。【奥山将志】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

経営難、比嘉の減量失敗…歯車狂い歴史あるジムに幕

白井・具志堅スポーツジムの外観(2020年6月6日撮影)

国内にボクシング専門誌は2誌ある。毎月15日に発売されるが、一方の雑誌のある広告に目が止まった。白井・具志堅ジムの練習生募集だった。2週間前の6月1日に営業再開も、その5日後には7月限りでジム閉鎖を発表した。まさに突然を示していた。

具志堅会長はホームページ上で「気力、体力ともに、これまでのように情熱を持って指導にあたるには難しい年齢になった」と説明した。第1号と最多防衛記録保持者。日本ボクシング界の偉大な2人の名を冠したジム閉鎖は寂しい限りだ。

ジム4人目で5度目の挑戦にして、17年に世界王者比嘉大吾が誕生した。全国には282のジムがある。世界王者が育ったジムは37だけだが、白井・具志堅ジムは新興とも言える。オープンは95年だった。

英雄2人は当時TBSの解説者で、具志堅会長はジム経営の希望を持っていた。名誉会長となる白井氏がアートネイチャー創業者阿久津氏と親交があった。阿久津氏はアマ経験者だったこともあり、全面バックアップを申し出て、引退から14年後にジム開設となった。

代々木のアートネーチャー旧本社ビルを地上4階、地下2階に建て替え、リングが3つと豪華なジムだった。オープン前に阿久津氏が急死して徐々に支援が縮小され、02年に現在の杉並区に移転することとなった。

03年に白井氏が死去し、12年の待望の世界王者は女子の山口、江藤はタイで世界王座奪取も暫定で認められず。苦難に厚い壁もついに悲願達成。故郷の英雄にあこがれ、多くの沖縄出身者が入門。世界挑戦した4人全員も、ウチナンチュー(沖縄の人)だった。

元世界王者の友利氏も同郷が縁でオープンからトレーナーになった。一時離れたが11年に復帰し、17年からチーフに。それが4月に突然退職を通告されて、SNSに「チーフなんかやるんじゃなかった」と記した。資金繰りが厳しいという理由。どこのジムも約2カ月営業自粛し、再開後も苦しい経営が続く。

それだけではない気がする。比嘉が減量失敗で王座剥奪に資格停止処分を受けた。二人三脚だった当時の野木チーフトレーナーは退職。ジムの歯車が狂いだし、次々と選手が移籍していった。顕著になったのは比嘉が再起戦で勝利も歯切れは悪く、ついにはジムと契約を解除となった。

週刊誌には夫人の口出しが要因とも書かれた。その裏には具志堅会長の姿勢もあったのではないだろうか。今やボクサーではなくタレントの顔の方が有名なほど活躍する。この稼ぎをジム運営に注いでいたとも聞くが、身の入り方がもう1つだったようにも見えた。

比嘉の減量失敗も懸念されていたことで、管理が甘かったことは確かだ。江藤がタイで世界暫定王座に挑戦した時のこと。成田空港へ出発取材に行くと、たった1人だったのにびっくりした。具志堅会長が「潮時」とも記した、丸25年の節目での決断だった。【河合香】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

18年4月14日、1回目の計量で900グラムオーバーとなりうなだれる比嘉(左)は具志堅会長から声をかけられる

本当は超乙女!?世志琥のギャップに萌え~~続出

世志琥のダイビングセントーン

プロレスラー世志琥(よしこ)が大人気だ。5月始めにTiktokに投稿したチュロス作りの動画をきっかけにブレーク。6月24日現在Tiktokのフォロワーは30万人。

ツイッターのフォロワーも4月末に4000人ほどだったのが、今は14万人超となっている。

お金をかけずにSNSでバズる。今どきのやり方で自己PRに成功した世志琥は痛快な存在だ。世志琥は以前からプロレス業界では有名だったが、世間一般での知名度はそれほど高くなかった。所属するSEAdLINNNG(シードリング)は選手4人の小さな団体。大きなスポンサーに支えられているわけでもない。それが、動画をきっかけとしてわずか1カ月で、国内で活動する現役女性プロレスラーでダントツのフォロワー数を得ることとなった。

世志琥の動画の一番の魅力はギャップ。ヒールらしく怖い形相でカメラをにらみ、「笑ってんじゃねーぞ、コノヤロー」といった口調で話しながら、かわいらしいお菓子や料理を作る。動画の最後に試食し、そこで初めてにっこりと笑う。その笑顔がまたかわいいのだ。ヒールのキャラクターとお菓子作りの特技をかけ合わせ、誰が見ても楽しめるコンテンツを作り上げた。

Tiktokでバズった直後の5月中旬ごろ、リモートでインタビューをさせてもらった。世志琥は「ほんとに、人生変わったんじゃねーかぐらいの勢いです」とうれしそうに話した。そもそも動画投稿に熱心に取り組み始めたのは、コロナの影響で試合ができないからだった。「逆にこの(自粛の)時期があって、ありがたいというか、すごく充実して、成長できていると思います」。以来、世志琥のメディア露出は続く。5月には情報番組「スッキリ」で紹介され、6月6日の「有吉反省会」は、その回まるまる世志琥特集。ドレスアップした姿で新日本プロレスの飯伏幸太に告白し、ディズニーランドデートの約束を取り付けるというかわいらしい姿をお茶の間に届けた。最近では日清食品とのコラボレーションも実現。同社の袋麺を使ったレシピ動画を6月18日から公開している。

例えば、街頭で「女子プロレスラー」の名前を挙げてくださいと人に聞けば、ほとんどの人が今の若手選手ではなく北斗晶、ダンプ松本、ブル中野、長与千種らレジェンドの名を口にするのではないだろうか。過去に地上波で試合が放送されていた時代と違い、女子プロレスは一部のファンだけが見るジャンルとなっている。その中で、世間に名前を広めた世志琥の力は大きい。プロレスラーは、試合でいいパフォーマンスを見せるのが第一の仕事だが、それだけを続けていても、プロレス業界の中にしか届かない。大事なのはリング外のきっかけをいかに作れるか。新日本プロレスが特に2012年以降多くの新規ファンをつかみ、大ブームを作り出したのは、試合の充実ぶりはもちろん、「スイーツ真壁」としてテレビに出続けた真壁刀義や、あらゆるメディアでPRを続けたエース棚橋弘至ら選手のリング外の努力もあったからだ。

世志琥は言う。「Tiktokを見ているのは小、中学生が多いんですよ。女子プロレスやプロレスに必要なのって、そういう若い年齢層だと思うので、ちょっとでも興味をもってもらって、会場に足を運んでくれたらいいなと思ってます。また、後楽園ホールを満員にしたいんです。それを目標にやってます」。SEAdLINNNGは7月13日に後楽園ホールで1月以来約半年ぶりの有観客試合を行う。また同26日には新木場1stRINGで世志琥プロデュース興行も開催する。いずれもソーシャルディスタンス確保のため座席数限定での興行となるが、世志琥の願い通り、新たなファンが来場することを期待したい。【高場泉穂】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

闘う姿を…矢田良太、引退危機とコロナ禍から再起へ

枚方市の伏見市長(左)から感謝状を贈られるグリーンツダジムの本石会長(中央)と矢田(2020年6月11日撮影)

新型コロナウイルスのせいで閉じられていたスポーツの世界も、徐々にだが、ようやく動きだそうとしている。ボクシングも7月12日に愛知県内で無観客で実施される。大阪でも。「再開」に名乗りをあげたのがグリーンツダジム。本石昌也会長(44)は、出身地の大阪・枚方(ひらかた)市で8月9日に興行を行う強い意思を示した。

6月11日に枚方市役所の伏見隆市長を訪問し、新型コロナウイルス感染症対策応援基金として、100万円を寄贈した。そして「コロナに負けず、枚方に貢献していきたい」と8月に行う興行の意義を強く訴えた。ボクシングは当面無観客も、客入れができる状況となることを期待する。ただ、会長は「無観客でも枚方でやります」。地元の市民に闘う姿を見せたい。その思いを伝えた。

その興行でメインを務めるのも、枚方市出身の元日本ウエルター級王者矢田良太(31)。昨年12月、WBOアジア太平洋ウエルター級王座決定戦で10回TKO負け。「もうダメか」と引退を考えたという。

年末年始は夫人の実家・高知へ。引退後は営む土佐文旦の農園を継ぐ約束があり、収穫を手伝うためだった。「むちゃくちゃしんどかった。農業をなめてました」。大事に育てた作物を大事に収穫する。その作業を手伝いながら、わき上がるものがあって作業の合間に走った。その気持ちは、義理の父に見透かされた。「何のために走る? (ボクシングを)やりたいんやろ。思い切りやってこい」と背中を押され、再起に向かった。

そこに襲われたコロナ禍。ジムも休業となったが、矢田は近くの公園でトレーニングを続けた。ジム再開後は「練習ができてうれしかった。普通にやれていたことをやれなかったことで、今はありがたみを感じている。地元で再起戦ということで、勇気と感動を届けられればと思っている」と誓った。

タイトル戦でもないが8・9、枚方市総合体育館の四角いリングには男たちのドラマが詰まる。コロナに負けない熱い戦いを待ち望む人々も、決して少なくないだろう。【実藤健一】

黒、黄、赤…大橋会長の験担ぎを払拭した教え子たち

WBC世界ストロー級タイトルマッチ 崔漸煥(左)の顔面に強烈な右フックを見舞う大橋秀行(1990年2月7日撮影)

今月からボクシングジムが営業を再開し、WBA、IBF世界バンタム級王者井上尚弥が所属する大橋ジムを取材で訪れた。

自粛が続き、久しぶりのジム取材とあってか、「ピーッ」というなじみ深い音がなぜか耳に残った。ボクシングの試合は、1ラウンド3分で、ラウンド間に1分のインターバルが入る。多くのジムが、この「3分-1分」をゴングやブザー音などで区切って練習しているのだが、大橋ジムのインターバルは40秒に設定してある。

ふと疑問に思い、大橋秀行会長(55)にその理由をたずねると、現役時代に所属したヨネクラジムが40秒だったからだと教えてくれた。試合より短いインターバルに慣れることで、本番で1分が長く感じられる-。だが、大橋会長が続けたのは、意外な言葉だった。

「ただ、最近、1分に変えようかなと思ったんですよ。試合と同じ長さにした方が時間の感覚にも慣れるし、しっかり回復してから全力で次のラウンドに入った方が効果が出るんじゃないかと思って」。

94年にジムを開き、26年。この「40秒」で育った川嶋勝重、八重樫東、井上尚弥、井上拓真が世界王者へと駆け上がった。「験担ぎのような気持ちはないのですか?」。そう聞くと、同会長は「今は、ないですね」と言った。

「今は」が気になったので、その真意をたずねると、恩師である米倉会長との思い出を交え、ジンクスや験担ぎについて語ってくれた。

「米倉会長は、宿泊するホテルの方角の運勢を調べたり、日付や字画などにもこだわる人なんです。黒が嫌いだったから、選手は黒のトランクスはだめ。あと『引退式』はしないという決まりもありました。ある興行で、所属選手の引退式をやったら、メインを務めた同門の選手がKO負けしたからです。僕の指導法は米倉会長のまね。だから、大橋ジムも引退式はしないし、現役中から色へのこだわりも強かったんです」。

86年12月、張正九(韓国)との世界初挑戦で5回TKO負けした。その試合で着用したのが、黄色のガウン、黄色のトランクスだった。試合前に着ていた小百合夫人からプレゼントされた手編みのセーターも黄色。それ以降、黄色はNGカラーとなった。88年6月、張正九との再戦に臨むも、またも王座奪取はならなかった。この時のトランクスの赤も、米倉会長の苦手な黒、黄色に続き、その後、避ける色になったという。

ラッキーカラーは青だった。90年2月の崔漸煥(韓国)との3度目の世界挑戦で、悲願の世界王者となった。日本人の世界戦連敗を21で止めた伝説の一戦で使用したトランクスの色だった。引退後に開いた大橋ジムの看板、チームジャージーも青にするなど、会長にとって長く幸運を呼び込む色だったという。

そんな「こだわり」に変化を与えたのは、教え子たちだった。12年6月、WBAミニマム級王者八重樫が、WBC王者井岡との国内初の2団体統一戦に臨んだ。「何かを変えないと勝てない」と思い、チームジャージーを、あえて“不吉”な赤に変えた。試合こそ敗れたものの、翌年、その赤のジャージーで、八重樫が2階級制覇を達成した。井上尚も続く。黄色と黒という、目を覆いたくなるような配色のトランクスで「怪物」ぶりを見せつけた。そんな積み重ねが、会長の色へのこだわりを、少しずつなくしていったという。

「選手たちがジンクスを全部払拭(ふっしょく)してくれたんです。プロ初黒星を喫した時、たまたま目に入った時計が1時11分だった。それ以来、ぞろ目の時間を見ると、嫌な気がしていたけど、尚弥のある試合の朝、4時44分に目が覚めたが、尚弥は圧勝した。変化を恐れず、自分が目指す方向に道を切り開いていく意識が重要なんだと思っています」。

ヒリヒリする勝負の世界で生きてきた大橋会長の経験談に引き込まれていると、会長は「思い出した!」と続けた。

リカルド・ロペスに敗れ王座から陥落した週に「こういうついていない時は当たる」と買った宝くじで100万円が当たった話…、世界王座返り咲きを果たした試合の朝、日刊スポーツの占いを見たら「最悪の運勢の日」と書いてあった話…。

仮に、大橋ジムのインターバルが1分に変わっても、力強い選手たちが「関係ない」と証明してくれるに違いない。【奥山将志】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

ヘビー級に活況の兆し、願う長者番付に井上尚弥の名

井上尚弥(2019年11月7日撮影)

米経済紙フォーブスがこの1年間のアスリート長者番付を発表した。1位はテニスのフェデラーで1億630万ドル(約117億円)だった。2~4位はロナウド、メッシ、ネイマールのサッカー・トリオで、残るベスト10はNBA、NFL、ゴルフの選手が続いた。ボクサーの1位はWBC王者タイソン・フューリー(英国)で、5700万ドル(約63億円)で11位だった。

15年にクリチコから3冠王座獲得も、引退、コカイン、ドーピング違反などの騒動を起こした。18年に再起し、2戦目にWBC王者デオンテイ・ワイルダー(米国)と引き分け。これで再浮上し、今年2月にワイルダーとの再戦に快勝で王座に返り咲いた。

5000万ドルを試合で稼いだ。ワイルダー戦以外は、昨年9月に100万ドルの再起戦と小遣い稼ぎ? のプロレスデビュー戦だけ。ワイルダー戦のファイトマネーは500万ドルで、2500万ドルが最低保障だったペイ・パー・ビューの売り上げが効いたようだ。

1度は天から地に落ちたが、昨年2月にトップランクと契約した。これをステップに身も心も入れ替え、王座奪回とともに、莫大(ばくだい)な報酬を得て、頂点に立った。

ベスト100に入ったボクサーはあと3人いた。ヘビー級3冠王者アンソニー・ジョシュア(英国)が4700万ドル(約52億円)で19位、ワイルダーが4650万ドル(約51億円)で20位に入った。

昨年9400万ドル(約103億円)で4位だったサウル・アルバレス(メキシコ)は3700万ドル(約40億円)で30位に入った。昨年100位以内のパッキャオとゴロフキンは圏外になった。

この長者番付は90年からで、マイク・タイソンが2860万ドルで1位だった。2位ジェームズ・ダグラス、3位シュガー・レイ・レナードとボクサーがトップ3。91年はイベンダー・ホリーフィールドにタイソンがワンツー。92年はホリーフィールド、93年はリディック・ボウが2位、96年にタイソンが1位に復活した。

その後はNBAのジョーダン、ゴルフのウッズらが長年トップに君臨した。ボクサーが復活したのは12年で、フロイド・メイウェザー・ジュニアが初の1位に。14、15、18年と4度トップとなった。パッキャオが3位に2度入っている。

ヘビー級が3位以内は00年の3位タイソン以来いない。ベスト10に入れなかったが、ボクシングの象徴と言えるヘビー級がトップ3。中量級スターの前に影が薄かったが、ようやく活況の兆しを示す数字と言える。フューリーとワイルダーの第3戦、その後にはジョジュアの決着戦も期待されるのに。ウイルスが憎い。

今回の100位は男子テニス選手で約24億円だった。日本選手では大坂が約41億円で29位、錦織が約35億円で40位に入った。テニスは賞金よりも破格なスポンサー収入が大きい。今後期待されるのはNBAの八村か。ひそかな願いがある。井上尚弥がいつかランクインする日がくることを。【河合香】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

井上尚弥(2019年10月28日撮影)

支え合う亀田和毅夫妻、自粛続きも第1子誕生目前

亀田和毅と妻シルセさん(亀田和毅提供)

3月、米ラスベガスにいるボクシング元WBCスーパーバンタム級暫定王者亀田和毅(28)からうれしい知らせが届いた。妻シルセさん(32)が第1子となる男児を妊娠したという。

「シルセもすごく喜んでます。自分も子どもが欲しかったのでめちゃくちゃうれしいです。シルセのサポートをしながらボクシングもがんばります」

メールの文面から喜びが伝わってきた。

亀田は19年7月にWBCスーパーバンタム正規王者レイ・バルガス(メキシコ)との統一戦で敗退。同11月から米国に拠点を移していた。この4月に再起戦を行う予定だったが、新型コロナウイルスの影響で延期となり、まだ渡航制限のない3月中にシルセさんの故郷メキシコへと移動した。今は自粛生活を送りながら、5月末の出産を待つ。

昨年の統一戦を前に、シルセさんにじっくり話を聞いたことがあった。支え合う2人の物語に心を打たれた。出会ったのは約13年前。中学卒業後すぐメキシコに武者修行に行った亀田が、アマチュアボクサーだったシルセさんと出会い、恋に落ちた。

07年、亀田はアマチュアトーナメント大会の決勝で後の世界王者バルガスと対戦する。会場は、メキシコシティの格闘技の聖地アレナ・メヒコ。大ブーイングを浴び、判定で敗れた。満員の観衆の中、亀田に声援を送るのはシルセさんと、その家族だけだった。

「メキシコだから、みんな地元のバルガスを応援していました。和毅の応援をしていたのは、私のパパ、ママ、兄弟合わせて10人ぐらい。ビール、ナッツ、水…いろんなものが私たちにもかかってきました。和毅の応援をしていたから、みんな怒っていたみたい。すごく怖かった。あの時、和毅は16歳。まだキャリアがなかったから、緊張していたと思います。試合の後は『大丈夫。いいよ、すごく頑張ったよ。最後まで倒れなかったから』と声をかけました。和毅はがっかりしながらも、『勉強になる。がんばる』って言っていました」(シルセさん)

その後、遠距離恋愛を経て、15年10月に結婚。今では亀田はスペイン語を、シルセさんは日本語を自由に使いこなす。結婚後は、主に日本での生活。慣れない場所、言葉、文化の中で、シルセさんは苦労した。だが、メキシコでシルセさんがしたように、今度は亀田と家族が彼女を助けた。

「和毅は、すごく優しい。いつも私のことを気遣ってくれます。私があげれば、和毅も私にくれる。ピンポンみたいだなと思います。日本人とメキシコ人は全然違う。でも、和毅の家族は優しかった。彼らのおかげで日本語が話せるようになりました。2人にとって、言葉をかけ合うことはすごく大切です。1日が終わると、『ありがとう。きょうもがんばったね』とスペイン語で言い合います。ハグも、チューもします。日本に来て、少し恥ずかしくなりましたが(笑い)」(シルセさん)

2人の関係から学ぶことは多い。

亀田によれば、今メキシコは「毎日2000人以上感染していて、ピークの状態」。極力外出せず、家の中で筋トレやシャドーなど練習に励んでいるという。

シルセさんの出産予定日まで約1週間。大変な状況の中、無事2人の子どもが生まれることを祈る。【高場泉穂】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

53歳タイソン氏“復帰”甦るラスベガスの硬い記憶

2年前のあの日、村田諒太に「グッド・ラック!」とサムアップポーズでエールを送るマイク・タイソン氏(18年10月19日)

ボクシングの元世界ヘビー級王者、マイク・タイソンがリングに“復帰”する。53歳になったレジェンドがチャリティー事業のエキシビションマッチに出場するため、先月から練習を再開したとの報道が今月に入って飛び交った。11日にインスタグラムに投稿したミット打ちでは、年齢からは想像できない高速コンビネーションの強打を放っていた。それを見て、あの「硬さ」が思い起こされた。

18年10月だった。「痛っ!!」と思わず顔をしかめた。米国・ラスベガスのショッピングモールでクリンチ、いやハグをしてもらった。その体は岩のように硬かった。

WBA世界ミドル級王者村田諒太の初防衛戦のために訪れたラスベガスだった。同地に住むタイソンがサイン会を開くという情報を聞きつけ、カメラマンと2人で巨大なモールを探し回った。スポーツショップの外にイベントの看板を見つけた。話を聞ければ、記事になる。ただ、不発に終わる可能性もある。それでも、高揚した勢いままに、自腹覚悟で参加権代わりの250ドルのボクシンググローブを購入した。数組の列に並び、黒カーテンの奥にその姿がちらほら。小学生時代に遊び続けた家庭用テレビゲーム機のボスとして戦い続けたレジェンドがそこにいた。そして、ついにその時が。

カーテンを開けると、緊張するこちらを一見して、とっさに日本人と判断したのだろう。「コンニチハー!」の大きな声。かみつき事件などで凶暴なイメージも付きまとい、勝手に身構えていたところに、おもむろに席を立ち上がると、こちらに迫ってきた。そして分厚い肉体で抱きしめられたのだった。

その体はゴツゴツし、一切のゆるみを感じさせなかった。わずかの接触で、驚異のパワーを拳に宿した肉体のすごみの一端に触れた気がした。その取材では、村田に「グッドラック!」とサムアップポーズでエール。無事に記事となり、グローブ代も経費で精算でき、一安心の米国遠征となった。

忘れないあの痛さ。15年ぶりの“復帰”がいつになるのか、楽しみでしょうがない。【阿部健吾】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

敵地韓国でいやがらせも徳山昌守が失神KOで存在感

WBC世界スーパーフライ級タイトルマッチ 5R45秒でKOした徳山昌守はガッツポーズ、左下はダウンしたチョ・インジュ(2001年5月20日撮影)

スポーツ記者なのに、自分の世界からスポーツが消えてどれぐらいだろう。新型コロナウイルス感染拡大防止で外出自粛、自粛。家にこもり、今までのつながりをたどって電話、オンラインで取材の日々が続く。

そんな非日常の中で悪くないこともある。日刊スポーツのウェブ上で連載しているボクシングの「一撃」で、元WBC世界スーパーフライ級王者徳山昌守氏(45)と久々につながった。妙に意気投合し、世界王座奪取前からプライベートも含めて密に接してきた。それが最近は会う機会がなく、遠い存在になっていた。今回の企画をだしに連絡をとると「うわぁ、久しぶりっすね」と変わらず、明るい感じで応じてくれた。

元世界王者らに自身の最も印象に残っている「一撃」を語ってもらう企画。徳山氏は「パッキャオのマルケス戦とかあるけど、自分のでいえばやっぱり、あの右」。話しているうちに19年前の刺激的なソウルの夜がよみがえってきた。

01年5月20日、王者徳山2度目の防衛戦は敵地だった。ベルトを奪ったチョ・インジュとの再戦。試合そのものに加え、朝鮮半島の南北統一問題が動いていた時代。朝鮮籍の徳山がソウルで試合することが、現地の注目点だった。

仁川空港に降り立った瞬間、徳山氏は大勢の韓国マスコミに囲まれた。「政治のことは知らない。自分は試合をしに来た」。その後も緊迫感の連続だった。チョ・インジュは予定の公開練習をキャンセルするなど雲隠れ。徳山陣営も、金沢英雄会長が報道陣に突然、「ちょっと出てくれ!」。窓にタオルで目隠ししての厳戒秘密練習。実際は秘密でも何でもなく、普通の練習だったが、メンタルの駆け引きがすごかった。

その後も連載に記したが徳山氏が泊まる部屋に夜中に電話がかかったり、計量のはかりのバネが外れていたり、リングの徳山のコーナーに目つぶしのようにライトが当たるようになっていたり…(いずれも原因は不明)。記者仲間で一致したのは「判定はやばい」。

不安なスタートだった。試合後に金沢会長が「体は動かんし、どないなるかと思った」と言った通り、判定狙いの相手の思うつぼにはまりかけた。しかし徐々にペースをつかんで4回に右でダメージを与え、フィニッシュは一瞬。5回45秒、ワンツーからの右ストレートで失神KOを飾った。

記者席で興奮した。過程が刺激的だからこそ、結末はよりドラマチック。ボクシングの魅力が詰まった一戦。こんな興奮を早く、もう1度味わいたい。【実藤健一】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

WBC世界スーパーフライ級タイトルマッチ 4R終了間際、徳山昌守の右がチョ・インジュにヒット(2001年5月20日撮影)

粟生隆寛引退「満足感と悔しさ」栄光と挫折の17年

プロボクシング62キロ契約体重 8回戦 粟生隆寛対ガマリエル・ディアス 4回、粟生隆寛(左)はガマリエル・ディアスに左パンチを放つ(2018年3月1日撮影)

4月6日、ボクシングの元世界2階級王者粟生隆寛(36=帝拳)が自身のSNS上で引退を発表した。36歳の誕生日だった。一時代を築いた王者の目からは涙があふれた。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、会見はできず。発表から1カ月がたった6日、栄光と挫折を経験した17年間のプロ生活をあらためて振り返りつつ、現在の思いを聞いた。(敬称略)【取材・構成=奥山将志】

   ◇   ◇   ◇

天才。エリート。粟生には、そんな言葉がいつもつきまとった。3歳でボクシングを始め、父広幸さんと二人三脚で技術を磨いた。千葉・習志野高で史上初の「高校6冠」を達成。大きな注目を集めて転向したプロの世界でも、日本人7人目の2階級制覇を達成するなど活躍を続けた。だが、減量苦の影響もあり長期政権を築くことはできず、キャリア終盤は、試合から遠ざかる日々が続いた。

「今、振り返ってみると、正直『もっといけたな』という思いもあるし、『ここまでこられた』という思いもある。世界チャンピオンになれたという満足感、3階級制覇できたんじゃないかという悔しさ、両方の感情が残っている」

同じ時代に活躍した西岡利晃、長谷川穂積のような派手さこそなかったが、切れ味鋭いカウンターを中心とした卓越した技術は、多くの選手、関係者から称賛された。対戦する相手の研究はわずか3分。「自分のボクシングをすれば勝てる」。追い求め続けてきた技術への自負が、粟生にとっての生命線でもあった。

「僕は一般受けするボクサーだったと自分でも思っていない。(元WBC世界スーパーフライ級王者の)西岡さん、(元WBAスーパーバンタム級王者の)下田だったりが持っている野性の勘というか、いけるときにいく強引さが自分にはなかった。技術に頼りすぎた部分があったのかもしれないが、それがあったからここまで戦ってこられた」

12年10月にWBCスーパーフェザー級王座から陥落。そこから約7年半、長いトンネルが続いた。層が厚いライト級での3階級制覇を目指し、チャンスが来たのは15年5月。空位のWBO王座をかけ、米ラスベガスでレイムンド・ベルトランとの対戦が決まった。試合は2回TKO負け。だが、前日計量で体重超過したベルトランに、後日、禁止薬物の使用が発覚した。試合結果こそ、無効試合に変更となったものの、待望のチャンスは、相手の“暴挙”により奪われた。

悪夢は続いた。同年11月に設定されたノンタイトル戦に向けたスパーリング中、バックステップした瞬間、左足に激痛が走った。腓骨(ひこつ)筋腱(けん)脱臼。手術を受け、練習に復帰するまで半年かかった。31歳。引退につながる大けがだった。

「復帰戦が決まり、もう1度ここからというタイミングでやってしまった。3階級制覇がそれほど遠いものだとも思っていなかったし、気持ちも切れていなかった。ただ、まったく練習できない時期があれだけ長く続いた。年齢的なことを考えても、あれで(チャンスが)遠のいていったのかなと思う」

18年3月に2年10カ月ぶりのリングに立った。対戦相手は、7年半前に世界王座を奪われたガマリエル・ディアス。判定勝ちを収めたが、それが最後の試合となった。

WBCスーパーフライ級王者川島郭志に憧れた幼少期。小学校の文集にはWBCのベルトの絵を描き、隣に夢を記した。「ぼくはプロボクサーがゆめです。プロボクサーになったら客をよろこばせたい。りっぱなチャンピオンになる」。

その言葉通り、WBCのベルトを2本取った。そして、「天才」は、苦しみ、もがきながら、グローブをつるした。今後は育ててもらった帝拳ジムでトレーナーを務めていくという。

「ボクシング、ジムへの恩返しをしないといけないと思っています。いずれは自分でジムをという思いもありますし、指導者として良い選手を育てていきたいですね」

期待という重圧とともに歩み続けてきた。豊富な経験は、今後の引き出しになる。第2の人生も、ボクシングとともに生きていく。

◆粟生隆寛(あおう・たかひろ)1984年(昭59)4月6日、千葉県市原市生まれ。3歳からボクシングを始め、千葉・習志野高では選抜、国体、総体を2度ずつ制し、史上初の高校6冠を達成。アマ戦績は76勝(27KO・RSC)3敗。03年9月にプロデビュー、07年3月に日本フェザー級王座獲得。09年3月にWBC世界フェザー級王座、10年11月に同スーパーフェザー級王座を獲得し、2階級制覇。左ボクサーファイター。168・5センチ。プロ戦績は28勝(12KO)3敗1分け1無効試合。

防衛戦2度延期で引退…ボクサー人生をも変える現状

19年、初挑戦で日本王者となって涙声でインタビューに答える高橋悠斗

新型コロナウイルスは人の生き方まで変える事態となっている。ボクシングでは日本ライトフライ級王者だった高橋悠斗氏が現役に見切りをつけた。昨年10月に初挑戦で王座奪取も、初防衛戦が今年3月15日、再設定された5月15日と2度延期されて決断した。

ジムは4月3日に「気持ちの維持が難しい」との理由で引退を発表した。後日に一般紙でも大きく報道されると「直接話も聞いていないのに」とツイート。そんな事情もあったのか、3日に元世界王者木村悠氏とのオンライントークショーで思いの丈を語っていた。

最初の延期で「結構、心が折れました」と明かすも「モチベーションが低下とはちょっと違う」と説明した。「世界を狙っていたけど、今のやり方だと収入面とか知名度とか変わらない」と続けた。

さらに「練習する時間をビジネスなど、自分の磨くことにあてたかった。食べていけないスポーツはたくさんある。そういった選手を盛り上げようと、会社設立を進めている」と今後へ意欲を示した。

高橋氏は国士大時代にキックボクシングで学生王者になり、プロでもランク2位までいった。就職の際にトレーナーと知り合ってボクシングに転向。4敗したが、ミニマム級1位まで浮上した。

1度は日本王座初挑戦が流れると、ライトフライ級に昇級してチャンスをつかんだ。その後にジムが立ち退き移転のために移籍。紆余(うよ)曲折をへて5年目で初挑戦をものにした。ダイエットジムの店長を勤めながら、次は2年で世界王者を目標に掲げていた。

現在は飲食店も開いたが休業に追い込まれ、自宅は水漏れトラブルでホテル住まい。波乱続きも次は総合格闘技への意欲も口にした。「3つの競技でチャンピオンなら日本人初だから」と。

3月19日のドイツを最後に世界中で興行が中止だったが、4月25日にニカラグアで再開された。前日計量ではマスク姿のフェースオフ。当日の観衆は1割程度の約800人に抑えられた。同国は感染者が少なく、野球やサッカーなども開催されている。韓国では翌日に無観客開催され、メキシコは5月開催が発表された。

日本は7月に新人王各地区予選で再開を目指している。全日本新人王は通常12月から、年度内の来年3月を予定する。東日本は12階級に130人がエントリー。3階級は決勝まで5試合だったが、20人が出場辞退して日程調整できた。

競技性から三密は避けられず、緊急事態宣言が解除されても練習法などにも課題は残る。まだまだ予断は許さない。辞退者は医療従事者、本人や家族の不安、ジムの判断などが理由という。高橋氏はこれまでも積極的な行動で人生を歩み、スパッと切り替えて今後へも前向きだ。一方で貴重なホープたちは無念の辞退と言える。

仕事もままならない現状に、他にもリングから離れる選手は少なからずいるだろう。選手人口が減少する業界への追い討ちだが、今の状況にどこまで耐え、踏み止まれるか。1人でも多くが再びリングに上がり、スポットライトを浴びる日が、1日でも早く来ることを願うばかりだ。【河合香】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

「本当にありがたい」大日本を支える珍グッズの売上

大日本プロレスのマスコット「デスかも」のグッズを持つ菊田一美(大日本プロレス提供)

コロナ禍でプロレス興行ができない中、大日本プロレスが“珍グッズ”通信販売に力を注いでいる。

公式通販サイトBJ-SHOPには、ステーキやお吸い物味のポップコーン、DVDと食べものを組み合わせた「BJW stay homeセット」、ロシアンルーレット的にどの選手の顔が出てくるかわからない缶バッジくじなど多種多様な商品が並ぶ。その中でも登坂社長、新土リングアナらフロント、スタッフ陣の缶バッジくじは4月の販売開始早々売り切れ。5月上旬に再入荷されるという。マニアックであればあるほどファンは手が伸びるのか…。

大日本によれば、今年4月前半の通販でのグッズ収入は前年同時期比200%。試合ができず興行収入が得られない中、グッズ売り上げが貴重な支えとなっている。登坂栄児社長(49)は「いつも面白いグッズを開発しようと考えていますが、『社長の考えるグッズはコストパフォーマンスが悪い』とスタッフに注意されます(笑い)。弊社の商品はバリエーションがあるので、こうした状況で2、3度と買ってくださる方も多い。よりお客様に利用していただいているようで、本当にありがたいことです」とファンの支援に感謝する。

選手もグッズ販売に協力的だ。現在スタッフは2つのチームに分かれて通販業務を行うが、今は選手も積極的に作業を手伝っているという。また、選手はSNSでも商品PRに努めている。登坂社長は「スタッフと選手が協力してくれている様子をほほえましく見ています」と、有事下の団結を喜ぶ。

大日本プロレスは新型コロナウイルス感染拡大の影響で2月末に政府が自粛要請を出した後も感染防止に努めた上で、興行を継続していた。だが、4月上旬の緊急事態宣言を受け、興行を中止した。厳しい状況が続くが、登坂社長は生き残る使命を口にする。「旗揚げの時(1995年3月)の直前には阪神大震災があった。その後も、大雨、大火事、東日本大震災…といろんなピンチがありました。それでも、その時々にいろんな人に助けてもらいました。いまピンチを乗り越えないと、過去に応援してくれた方々に申し訳ない。団体を途切れさせてはいけない。強い気持ちで何とか乗り切ろうと思います」。

横浜市のJR鴨居駅近くにある道場での合同練習は中止しているが、選手は3班に分かれ工夫しながら練習を続ける。「いかつい団体ですが、それでも優しさ、強さをみなさんに感じてもらえたら、社会に何か貢献できたらと思っている。興行を再開した時、さらに強く、優しくなった選手たちの姿を見てほしいです」と登坂社長。今年で旗揚げ25周年。したたかに生き残ってきた社長の言葉は心強い。【高場泉穂】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

「BJW stay homeセット」を持つ佐藤孝亮(大日本プロレス提供)

マスク寄贈したボクサー森武蔵は重傷克服し世界照準

森武蔵

まだ会ったことはない。電話を通じての会話が初めての取材だった。

今月6日、ボクシングのWBOアジアパシフィックフェザー級王者森武蔵(20=薬師寺)が、故郷の熊本県庁を訪れ、マスク3000枚を寄贈するという情報から取材を試みた。新型コロナウイルス感染拡大から現地へ赴くのは難しい実情。名古屋の薬師寺ジムに電話を入れると、元WBC世界バンタム級王者の薬師寺保栄会長につないでくれ、熊本の森までつながった。

熊本・菊池市出身の森は幼稚園から小学校5年まで空手で、その後にボクシングを始めた。そして13歳の時、選手生命の危機にあった。ロードワーク中、後ろから車に激突される事故で両足と腰を骨折の重傷。半年間の入退院の末、通常の歩行は取り戻したが、医者からは「ボクシングは無理」と宣告されたという。

そこからよみがえった経緯を聞きたかった。森は「自分の心は折れなかったんで」と言った。「必ずリングに立つ」とリハビリ、トレーニングを重ね、全国U-15ジュニアボクシング大会で優勝した。ジュニア世代の強化を目的に07年に設立された同大会の優勝者には“モンスター”井上尚弥もいる。森は奇跡の復活でエリートの扉を開けた。

複数の誘いがあった高校進学の道を断ち、「プロ以外に興味ない」と見初めた薬師寺会長の誘いで中学卒業後にプロの道に踏み出した。ここまで11戦全勝(6KO)と順調に世界へ前進しているが、伸び盛りの今、コロナ禍が阻む。

4月18日に熊本で予定されていた防衛戦は延期となった。アルバイトもやめ、現在はボクシング一本となった森の生活は「正直、苦しいです」という。それでも今回、地元に贈ったマスクは自身のファイトマネーから資金を捻出した。「ファイトマネーが入らないのは正直厳しいが、何か役に立ちたかった」。

まだ20歳とはいえ、一時は選手として再起不能の宣告を受ける苦しい経験を乗り越えてきた。人の痛みが分かるのだろう。「次は試合を見に行きますから」と約束して電話を切った。無敗の左ファイターは現在、WBO同級5位にランク。若き才能の世界挑戦が見たい。早く通常が戻ってほしい。【実藤健一】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

年度替わりもジム退会者増、1カ月休館は死活問題に

大橋ジムでミット打ちをする井上尚弥(右手前)(2019年10月28日撮影)

マスクをしてランニングなどの練習を採用しているチームや選手がいる。心肺機能を高めるためという。世界中でマスク不足の事態。これからは「そんな無駄なことに使うな」と言われそうだ。

ボクシングでも今やマスク必須のジムもある。ミット打ちを受けるトレーナー。元々は選手も引退した身で、息が上がって3分持たないこともあるそうだ。会員の練習はシャドーやサンドバッグ打ちが中心だが、ミット打ちを一番やりたがるという。中には信頼しているからとマスクを外してという会員もいるそうだ。

ウイルスの感染拡大後、ジムではさまざまな対策をしてきた。検温して入室、手だけでなく、グローブやミットなども小まめに消毒。換気で窓を開放し、寒い日は厚着を勧めるジムもあった。営業時間は短縮し、キッズ指導は自粛している。スパーリングは試合が決まっている選手限定が大半。マスボクシングやミット打ちも含めて禁止のジムもある。

興行は6日に5月30日まで中止、延期となった。最初は3月31日までとしたが、今回は3度目の期間延長。さらに緊急事態宣言で、7都府県のジムは1カ月の営業自粛を余儀なくされる。すでに完全休館のジムもあったが、首都圏では3月下旬から週末は閉館など、苦労しながらの営業だった。

2月頃から感染拡大が始まると、会員にも変化があった。テレワークや休校対策で、都心にあるジムは会社員や学生の会員が減りだした。郊外では逆にテレワークの会員などが、日中から練習する姿が増えた時期もあったという。それも週末休館で激減した。

なんとかしのいできたが、この1カ月の休館は死活問題になる。大半のジムは会員の会費で成り立つ。例年なら年度替わりで進学、進級、異動などを機に入会者が増える時期。一転して、休会や退会者が日増しだ。

ジムには後援者、スポンサー企業などもある。近隣の商店がジムや選手を応援する。休業や倒産も増加する状況で、今後も続けてもらえるかという不安も出てくる。

プロボクサーは試合がなければ収入が断たれる。多くは仕事しながらの選手生活だが、飲食店などのバイトも多い。そのバイトも減ってきた。仕方なく地方の実家に帰ろうとしたら「東京もんは帰ってくるな」と言われた選手もいたそうだ。

世界中が止まっている状況にある。国内で活動が再開したとしても、日本と海外では時差が出てくる。大会ではなく個々のマッチメークという特異の競技。世界を目指すボクサーには厳しい状況が予想される。

今年国内で開催された世界戦は日本人同士の女子1試合しかない。男子は中谷のWBOフライ級王座決定戦が4月から延期されて未定。一番期待のホープが先陣を切るはずが…。今や世界のスターとなった井上を筆頭に、ボクシング王国の一つと言える日本。再びゴングが鳴る日はいつになるのだろう。【河合香】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

3度離婚の山本美憂にとって恋愛は「生活の一部」

自身の過去の五輪挑戦と東京五輪について語った総合格闘家山本美憂

今年1月、いま一番興味がある選手へのインタビューがかなった。総合格闘家山本美憂(45)だ。五輪について語るリレー連載の取材をお願いし、女子レスリング元世界女王でありながら、3度の挑戦ともに五輪に届かなかったこと、今年開催されるはずだった東京五輪について思うことなどを聞いた。

だが、本当に聞きたいことは別にあった。山本は45歳。昨年19年には長男アーセンの娘、つまり孫も生まれ“おばあちゃん”になった。(現役引退までは“おばさん”という設定にさせておくそうだ)。それでも、体力の衰えを感じさせるどころか、試合を重ねるごとに強くなっている。そして、いつでも自然体で美しい。その力と魅力がどこから湧くのか探ってみたかった。

競技の話題だけでなく、恋愛、子育てなどプライベートに触れる質問をぶつけてみたが、山本は嫌な顔せず楽しそうに答えてくれた。恋愛とは何ですかと聞くと、「やっぱり生活の一部ですかね。自分が幸せであるために必要」。“仕方ないよね”と言いたげな笑顔に思わず「かっこいい…」と声が出た。人生の一部、ではなく、生活の一部、である。今の恋愛について聞くのはやぼだと思い、そこはあえて突っ込まなかった。

ここで、山本の経歴を説明したい。74年8月4日生まれ。父郁栄氏はミュンヘン五輪レスリンググレコローマン57キロ級代表。ミュンヘンにちなんで、美憂の名を与えられた。のちに総合格闘家となる弟の山本“KID”徳郁、妹の聖子とともにレスリングの英才教育を受ける。17歳だった91年に世界選手権に初出場し、史上最年少優勝。94、95年に世界選手権連覇も、その年にJリーガー池田伸康と結婚し、現役引退。96年に長男アーセン出産。98年に現役復帰し、99年離婚。00年に格闘家エンセン井上と再婚し、同時に引退。04年アテネ五輪で女子レスリングが正式種目になったのを機に、現役復帰も代表に届かず、3度目の引退。同年、井上と離婚。06年にアルペンスキー選手佐々木明と3度目の結婚。同年次男アーノン、08年に長女ミーアを出産。11年、ロンドン五輪挑戦のため、3度目の現役復帰。同年、佐々木と離婚。同12月の選考会で敗れ、出場を逃す。13年から拠点をカナダへ。15年にカナダ国籍を取得し、カナダ代表として16年リオデジャネイロ五輪を目指すもかなわず、16年に総合格闘技に転向。18年9月に弟徳郁が胃がんで死去。現在は、弟が亡くなったグアムで家族とともに暮らす。

3度の結婚と離婚。その間、五輪の夢を追い続けた。そして今は総合格闘技に没頭する。山本は「めちゃめちゃ自分のやりたいことをやってる。わがままなんです」と笑いながら人生を振り返る。結婚した後、しばらく夫や家族のサポートにまわった時期もあった。それも「その時に自分がしたいと思ったこと」。どんな選択も自分が選んだことだから仕方ないと思えるという。

山本はさまざまな選択に迷う女性アスリートにこう助言する。「気持ちがある以上は競技を続けてほしいなと思いますね。たとえ、結果が結びつかなかったとしても、自分がやりきったという気持ちが残る。だって、何をしても後悔はつきまとうじゃないですか。ああしていれば…とか。でも、やらなくて後悔するのが1番私の中では嫌なんです。やって失敗して、その度にあーってなるけど、しょうがない。自分が選んだことだから。常にそれの繰り返しです。その時は結果に結びつかなくても、あれがあったからこれがあるんだな、って思える時が来たりする。私も五輪に行きたくて行けなかったけど、その過去があるから今がある。残念でしたけど、今は総合格闘技という自分なりの活躍の場所を見つけることができました」。

拠点のグアムでは、2人のこどもの学校や習い事への送り迎えをしながら、その合間にジムで練習を積む。「グアムって狭いから、できちゃうんですよ。ジムも近いし、選手生活を送るには楽です。シングルマザーはすごく助かります。それに、娘は11歳、息子は13歳なんで、もう楽っちゃ、楽。皿洗い、掃除とか家事も手伝ってくれて、逆にあの子たちに助けられているんです。すごくいい環境で練習ができていますね。バタバタしてますけど、それが自分には合ってるのかな」。総合格闘家に転向して4年。「自分はまだ新人の部類にあたる気がする。やることいっぱいあるのがうれしいこと。飽きないですね」とまだ熱が冷めることはなさそうだ。

雑談で美容の秘訣(ひけつ)も聞いた。「とにかく保湿! あとは水をすごく飲む。1日4、5リットルぐらい」。年齢を忘れるほど強く、美しい山本は、私たち後輩女性に勇気をくれる。【高場泉穂】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

偉業目指す寺地拳四朗の調整にも影響、コロナ禍憎い

19年12月、7度目の防衛に成功し、一夜明け会見で笑顔を見せる寺地

新型コロナウイルスの感染拡大でスポーツイベントの自粛が続く。中でも顕著なのは屋内型で、ボクシングは3月中の興行中止が4月いっぱいまで延びた。興行を主催し、商売とするジムにとって、致し方ないとはいえ、ダメージは計り知れない。

プロ野球やサッカーJリーグでも試合日程が決まらない状況の中で、最も影響を受けるのが選手だろう。野球の先発投手であれば、登板日に合わせて逆算して調整する。ボクシングでいえば、さらに長い期間をへて、試合に合わせて調整する。しかも10キロ近い減量を伴う。その難しさは想像すらできない。

まだ感染拡大が広まっていない2月末にWBC世界ライトフライ級王者・寺地拳四朗(28=BMB)の7度目防衛の祝勝会が京都市内で行われた。寺地は「この時期に来てくださるみなさんは本当にありがたい。握手とかもあまりできないのに」。直接の接触は避けながら、写真撮影などファンとの交流に奔走した。

その一方で不安は尽きない。当初は年内3度の防衛戦を行い、防衛回数2桁10回がプランだった。しかし米国、欧州まで感染拡大が広がる中、マッチメークは容易ではない。寺地も「メンタル的な影響はないが、(次戦が)いつ決まるんやろ。当分、決まらないでしょうね」と本音を漏らしていた。

ボクサーにとって減量は、試合以上の難敵と言われる。体質的に減量苦が少ない寺地だが、明確な目標がなければ当然、モチベーションも上がらない。「(年内のV10が)無理なら無理で引きずることはない。今まで通り、流れに任せるだけです」と話したが、本音はきついと思う。

ウエート調整が厳しく、複数階級制覇が主流の中、寺地はかたくなに防衛回数にこだわる。元WBA世界ライトフライ級王者具志堅用高のV13。その偉業を応援したいからこそ、あらゆるイベントにダメージを及ぼすコロナ禍が憎い。【実藤健一】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

22歳クドゥラ金子は青かった…初黒星で引退宣言

第10R、長濱(左)に右ストレートを放つクドゥラ金子(2020年2月27日撮影)

ウイルスで世界中が静まり返っている。スポーツへの影響は多大で、再び歓声が湧く日が見えてこない。ボクシングも例外なく、4月15日までの試合が中止、延期になった。対策実施前最後の興行が2月27日に後楽園ホールであった。当日券販売なしでも1009人集まった。逆転、番狂わせなど8試合は熱気があった。

協栄新宿ジム初陣、賞金マッチ5回戦は元日本王者土屋と元東洋太平洋王者小浦が再起戦、はじめの一歩トーナメント準決勝と、いつになく話題豊富。応援団も多くが駆けつけたようだ。

注目はやはりメインで、東洋太平洋ウエルター級王座決定戦だった。アフガニスタン出身の同級2位クドゥラ金子(本多)が王座奪取なるか。15年にデビューから11連勝で8KO。18年に元日本王者有川を3回TKOで一躍名を上げた。

出稼ぎで来日の父に、11年の13歳の時に母、弟と呼び寄せられた。ボクシングとの出会いはテレビで見たタイソン。キックボクシングジムに通ったこともあったそう。来日後に自宅近くのジムに通い始めて「プロになりたい」と本多ジムに移った。

C級トーナメント優勝、東日本新人王も初戦突破したが右拳を痛めた。仕事でも手をケガして手術。ブランクを作り、対戦相手探しに苦労しながら、日本ユース王座獲得をへての初挑戦だった。

本名クドゥラ・トゥラに、本多会長は虎をリングネームにしようとした。本人が拒否。中高時代送り迎えしてくれ、ロードワークにも付き添い、手塩にかけて育ててくれた金子トレーナーの名前をもらった。

首都カブールから車で8時間のマザリシャリフ生まれ。山やパキスタンに住んだことも。授業はイスがなく床に座る。小学校から大学まで同じ場所で入れ替えのため授業は3時間程。金がない人は教科書がなかった。祖国は「戦争のあとは爆弾」と今だ戦火にある。

タイソンが手本も、生き方はパッキャオに共鳴する。「ファイトマネーで母国の人を助けたい。学校を建てたい」が夢だったが、結果は初黒星を喫した。

同級7位長浜(角海老宝石)に6~8ポイント差の0-3判定負け。長浜の顔は敗者のように腫れ上がり、クドゥラは強打も浴びせた。接近戦などで先手をとられ、スタミナも切れた。アマ経験ある全日本新人王に日本ユース王座を獲得した相手と技量、対策に差があった。

何より新王者の「パターンが同じ」という言葉が実力を示していた。終盤はイライラを募らせ、首を振ってコーナーに戻る。採点がコールされると、客席に頭を下げることなく、そそくさとリングに下りた。「話は長浜に聞いて」とだけ言い、さっさと引き揚げた。8日にはSNSで「ボクシングをやめます」と宣言した。22歳のアフガン戦士はまだ青かった。【河合香】

自粛要請も「何がなんでもやる」新間会長の大和魂

2020年2月26日、リアルジャパンの会見でコロナウイルスに関する持論を語った新間寿会長(中央)。左は藤田和之、右はスーパータイガー

プロレス界でも新型コロナウイルスへの対応が続く。ここ2週間の関連取材の中で最も印象に残っているのが、リアルジャパン新間寿会長(84)の言葉だ。

かつて猪木-アリの異種格闘技戦を実現させ、昭和プロレスの“過激な仕掛け人”と呼ばれた新間氏は2月26日、都内で行われた3月19日後楽園大会に向けた会見で「どんなことがあっても興行はやります!選手たちの熱い思いでもって、コロナウイルスなんかふっとばす!大和魂ここにあり!」と堂々と試合決行を宣言した。

会見直前、政府から2週間のイベント自粛要請が出ていた。3・19は、その2週間の後だが、それでも、このタイミングでの「何がなんでもやる」という発言は批判を浴びかねない。何が悪いと言わんばかりの新間会長の態度に驚くとともに、持ち前の過激さを感じさせられた。 それから約1週間。新日本、ノアなど他のプロレス団体が大会延期、中止を決めたり、ライブを決行したアーティストが批判を浴びるなどスポーツ、エンターテインメント業界ではさまざまな動きがある。それでもなお、新間会長の思いは変わらないのか。あらためて聞いてみた。 新間会長は「何がなんでもやりますよ!」と張りのある声で第一声。「非常時にしゅん、としてどうする。日本人は心を1つにして、相手に向かわないといけない」と会見時と変わらぬ主張を語った。さらに「コロナに負けない体を」と日課である腹筋ローラー300~400回の運動を続けていると熱弁した。 会見後には批判の声もあった。「興行の中でウイルス感染者が出たらどうするんだ、と言ってくる人もいた。でもそんな仮定の話、これから起こりうる話をしても仕方がない」。リアルジャパンでは既に配布用のマスクや消毒液などを準備。「会見後、九州など遠方から行くとわざわざ連絡をくれる方もいた。来てくれる方が喜ぶために。万全の準備をする」と感染対策に努める。 現段階で2週間の期間後のイベント開催について政府の見解は出ていない。「それが出たらその時、考える。ただ、1度決めたからにはどうにかしてやりたい」と新間氏の決行の意志は固い。当日はパーキンソン病の疑いで闘病中の初代タイガーマスク、佐山サトル(62)も来場する予定だ。 【高場泉穂】

大橋会長が八重樫東に引退勧告「激闘王」の決断注目

14年9月5日5日、WBC世界フライ級タイトルマッチ後に健闘をたたえ合う八重樫(左)とゴンサレス

激闘王が最後の決断を迫られている。大橋ジムの大橋秀行会長(54)が26日、元世界3階級制覇王者八重樫東(37)に引退勧告をしたことを明かした。世界王者同士の師弟関係。長い時間を共有した深い絆は、会長が続けた言葉ににじみ出た。

「あとは本人が考えて結論を出すと思います」

どのような結論を出そうとも、八重樫が歩んできた道が色あせることはない。

逃げない。その姿が見るものの胸を、熱くさせてきた。真っ向勝負の殴り合いから「激闘王」の異名が定着。もういいよ-。思わずそう叫びたくなるような「どつき合い」が、誰よりも似合っていた。

マイケル・ジョーダンに憧れ、バスケットボールに夢中になった中学時代。体の小ささに悩んでいた時に出会ったのがボクシングだった。「これなら言い訳は出来ない」とすぐに夢中になった。フットワークと天性のハンドスピードで素質はすぐに開花し、高校、大学とアマチュアで活躍。だが、飛び込んだプロの世界は甘くなかった。

7戦目でつかんだ世界初挑戦。イーグル京和にあごの骨を折られ、プロ初黒星を喫した。次の世界挑戦のチャンスまで4年待った。その間、進むべき道を見失わなかったのは、同門の先輩川嶋勝重の背中に見たプロとして生き抜く覚悟だった。八重樫にはずっと大切にしてきた川嶋の言葉がある。「最後は気合、根性だ」。

デビュー17戦目のポンサワン(タイ)戦で憧れ続けた世界王座を獲得すると、続く井岡一翔とのWBA、WBCミニマム級王座統一戦で人気に火が付いた。被弾により両目が塞がったまま、本能で拳を出し続けた。殴られたら、殴り返す。思わず目を背けたくなるような感情と、いつまでも見ていたくなるような感情。見るものの心に、2つの異なる思いが同居する異様な光景だった。わずか1試合で王座陥落。だが「打たせずに打つ」というボクサーの理想とは正反対のスタイルに、ファンは熱狂した。

デビューからの戦績は28勝(16KO)7敗。7回負け、その度に立ち上がり、また次の一歩を踏み出してきた。14年9月、当時「最強」と称され、多くのボクサーが対戦を避けたローマン・ゴンサレスを自ら防衛戦の相手に指名。会場の代々木第2体育館は、八重樫が入場しただけで熱狂に包まれた。ロマゴンの機械のように正確なパンチを浴び、何度も倒された。完敗だった。それでも、ファンは、八重樫の勇気がうれしかった。試合終了が告げられると、入場時以上の温かな拍手が八重樫に送られた。

リング上では、笑顔でロマゴンをたたえた。そして、控室に戻ると、長女を抱き上げ、おえつが出るほど泣いた。「お父ちゃん格好悪かったね。ごめんね」。負けた自分は、主役ではない。だから笑ってロマゴンの手を挙げ、控室まで涙を我慢した。試合の前日には部屋を片付け、ひげを剃る。「もう、ここには帰ってこれないかもしれない」。その覚悟があるから、あの戦いができたに違いない。

14年9月5日、王者陥落した八重樫(右)は控室で家族にねぎらわれる

左から松本トレーナー、八重樫、大橋会長(2019年12月10日撮影)

ロマゴンに王座を奪われ、同年末の世界戦でも敗れた。世界戦2連敗-。誰もが八重樫はここまでかと思った。だが、八重樫はリングに戻った。そして、1年後の15年12月29日。日本人3人目の3階級制覇を達成した。

拓大時代の先輩内山高志のような圧倒的な「強さ」があったわけではない。同学年の山中慎介のような「一撃必殺」のパンチがあったわけでもない。井上尚弥のような「華」があったわけでもない。同じ時代には村田諒太というスターもいた。それでも八重樫は、埋もれることなく、ボクシング界の主役の1人であり続けた。

最後に王座から陥落し、2年以上がたった昨年7月。思うように、世界挑戦が決まらない中、久しぶりにゆっくりと話を聞く機会があった。36歳。年齢からくる体の変化、衰えも素直に口にしていた。だが、闘争心は消えていなかった。

「ネットで自分へのコメントを見てると、本当にむかつく時があるんですよ。『引退した方がいい』とか『パンチドランカーになる』って心配されたり…。そういうのを見ると、みてろよって思うんですよね」

続けた言葉に、八重樫のボクサーとしての本質を見た気がした。

「しがみついている姿を、周りから格好悪いと思われてもいいんです。しがみついて、しがみついて…。でも、必至にしがみついているやつにしか、チャンスなんて絶対にこない。だから自分は、しがみつける力がある限り、とことんしがみついてやりますよ」

19年12月。2年7カ月ぶりの世界戦のリングで、八重樫は負けた。今回ばかりは、潔く……。いや、違う。そんな男なら、ここまで上り詰めることはできなかっただろう。将来を考え、迷いに迷う中で、会長からの「引退勧告」を受けたに違いない。

八重樫のベストファイトは? そう聞かれ、どの試合を思い浮かべるだろう。ロマゴン戦? 井岡戦? 負ける度に強くなり、リングに戻ってきた。負けた試合で名を上げてきた。人生、良い時ばかりではない。倒れても立ち上がる。試合を見た人は、無意識に八重樫の姿に勇気をもらった。

大橋会長が井上尚が世界王者になった当時、何度も繰り返した言葉がある。

「川島の背中を見て育った八重樫がいたから、今の(井上)尚弥がいる」

顔には幾多の縫い跡が残る。大橋会長から引退を勧められた日、八重樫は37歳になった。誰とも違う道を歩いてきた。激闘王は、果たしてどんな決断を下すのか。その言葉を待ちたい。【奥山将志】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

◆八重樫東(やえがし・あきら)1983年(昭58)2月25日、岩手・北上市生まれ。黒沢尻工3年でインターハイ、拓大2年で国体優勝。05年3月プロデビュー。06年東洋太平洋ミニマム級王座獲得。7戦目で07年にWBC世界同級王座挑戦も失敗。11年にWBA同級王座を獲得、13年にWBCフライ級王座獲得で3度防衛。15年にIBFライトフライ級王座を獲得し、3階級制覇を達成。2度防衛。家族は彩夫人と1男2女。160センチの右ボクサーファイター。

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