上へ戻る

au版ニッカン★バトル

トップ

拳四朗「見てもらいたい」笑ってまうほど裏表のなさ

京都府スポーツ特別奨励賞を受け、山田・京都府知事(左)と記念撮影をする拳四朗(撮影・加藤裕一)

 テレビのバラエティー番組とかで、プロスポーツ選手がニコニコしているのを良く見る。MCやお笑い芸人のツッコミにはにかんでみたり、天然風にボケたり、びっくりするほど上手な返しをしてみたり。そんな様を見て、世間の人は「めっちゃ感じええがな」と思う。ええことです。プロたるもの、自分を発信するのはとても大事なことです。映像は基本、ありのままを伝える。それが持ち味のメディアですから。

 ただですね、テレビに映る姿が、映ってへん時の姿とほぼ同じ人もいれば、映ってへん時は仏頂面で「おいおい、ええ加減にせえよ」とこぼしたくなる人もたま~にいます。まあ、そこはその人の本音、魅力を引き出せない、こちらの力不足でもあるんですが。

 WBC世界ライトフライ級王者・拳四朗(25=BMB)のことを書きましょう。彼はバラエティー番組とかにすごく出たがってます。先日、京都府庁で京都府スポーツ特別奨励賞を受けた時なんか、マツコ・デラックスのフジ系「アウト×デラックス」出演が決まって「めちゃめちゃテンション上がりますわ~」と喜んでました。

 ついでに聞きました。「他にテレビ出演の話はあるの?」

 「こないだ『せやねん!』に出るチャンスあったんですよ。僕が、食べ歩くんが好きってことで、お薦めの店を紹介する形で。ところが、お薦めの店の紹介だけに終わってしまったんです。僕は出れずですわ」

 ちなみに「せやねん!」は大阪・毎日放送の情報番組です。関西ローカルやけど、漫才コンビのトミーズ、吉本新喜劇の未知やすえらが出てる、おもろい番組です。

 さて、何が言いたいかと言うと、拳四朗の笑ってまうほどの裏表のなさです。

 「僕、ボクサーに見られないじゃないですか? だから、いろんな所に出て行って、いろんな人に見てもらいたいんです。(取材する人には)どんどんいじっていただければ、と思う。まあ、ほめられて伸びるタイプなんですけど。ははは…」

 こんな風に言われたら「絶対にこの子を応援したる!」と思いますわな。確かに彼みたいなタイプは、かなりレアです。こんなありがたい取材対象者はちょっとおりません。ただ、彼ほどとは言わんまでもね。取材する側とされる側に垣根はあります。でも、基本は人と人。もうちょっとだけ取材に協力してくれたら…。

 まあ、力のない記者の愚痴なんですけどね。【加藤裕一】

たった5% ボクシング世界戦「日本人対決」の意義

小国以載(おぐにゆきのり)対岩佐亮佑(りょうすけ)6回、岩佐(右)のパンチが小国の顔面にヒットする


 最初は50年前だった。ボクシングの世界戦での日本人対決。IBFスーパーバンタム級で小国以載が岩佐亮佑の挑戦を受けたのが、35試合目だった。

 2人は高校時代に1度対戦し、11年半ぶり再戦となった。ともにプロになって3年前まではよくスパーリングし、プロではいい勝負だったという。アマでは高1の岩佐が高2の小国に8-18で快勝し、決勝にまで進んだ。今回は6回TKOで岩佐がまた勝った。

 岩佐は「初対戦はあまり覚えていないが、鼻血を出して手を上げられた」と話していた。小国は終始弱気発言。「誰だって最初が印象に残る。負けた方は忘れないでしょ」。

 小国は的確にポイントを狙っていき、ダウンを奪っても「この回はもらった」と深追いしない。捨てるラウンドもある。防衛戦だけに「引き分けでもいい」と言っていた。それが初回から前に出た。先制攻撃を仕掛ける玉砕戦法。左が大の苦手だった。逆に岩佐は「6割方下がると予想していたが来てくれた」と思いもよらぬ展開。1、2回に左で3度ダウンを奪って、悲願達成となった。

 67年に王者沼田が小林の挑戦を受けたのが、日本人対決の第1戦だった。12回KOで小林が王座を奪取した。35試合のうち2試合が正規王者と暫定王者、1試合が2団体の王者による統一戦、3試合が王座決定戦。この6試合を除く29試合で、挑戦者で勝ったのは5試合しかない。

 内外で日本人と日本のジム所属外国人が、800試合を超える世界戦を繰り広げてきた。35試合と言えば5%に満たず、5人の勝者は1%もいかない。海外の王者に挑んでいくのが世界戦の基本。日本人対決は、一般には無名の海外王者より少しでも名が通る日本人相手で、安易なマッチメーク、集客、経費抑制、視聴率期待などの思惑が見える。

 前座では昨年世界初挑戦失敗した和気が8回KOで世界ランク復帰を確実にし「勝者に挑戦したい」とアピールした。岩佐は元々「日本人対決の意識はない」と言い、「日本人なら挑戦者決定戦を勝ち上がってきてほしい」と注文をつけた。

 海外で世界初挑戦に失敗し、その後も挑戦者決定戦で相手が計量失格など、苦難の道を1歩ずつ歩んできた。「小国さんのためにも王座を守り続けたい」と先輩に敬意を示すとともに、「海外にも挑戦していって、有名より強くなりたい」。最近は粗製乱造気味と言われる世界王者だが、一家言ある新王者が誕生した。【河合香】

底が見えない「モンスター」井上尚弥、好敵手求む!

アントニオ・ニエベス(右)に強烈なボディブローを入れる井上尚弥


 「怪物」あらため「Monster」の底はどこにあるのか。

 WBO世界スーパーフライ級王者、井上尚弥(24=大橋)。

 6戦目での世界王座獲得、8戦目での2階級制覇(当時史上最速)、日本の枠にとどまらない金字塔を打ち立ててきたが、今回は恐ろしさすらも感じた。

 日本人ボクサーでは初と言っていい、本場米国からのオファーを受けての海外進出。9日(10日)にカリフォルニア州カーソンのスタブハブ・センターで開催された興行「Superfly」のセミファイナルでのV6戦で同級7位アントニオ・ニエベス(30=米国)と相まみえたが、結果は6回終了時TKO勝ち。5回に左ボディーでダウンを奪い、結末は6回を終えてニエベスが棄権したためだった。攻める意志の欠如は、おそらく初回にストレートのような左ジャブを受けたことが原因。そのあまりの威力に面食らい、予想とのギャップに「倒されないこと」に心理がシフトせざるを得なかったからだろう。「容赦なかった」と敗戦後に語ったとおり、グローブを体にぴったりと貼り付けて極端な防御姿勢を作っても、わずかなすきに連打を打ち込んでくる。怪物の恐怖におびえた30歳の銀行マンが、口座開設の仕事に異常をきたすような倒され方をされる前に、ボクサーの仕事を切り上げたのも無理はない。それほど実力差があった。戦意喪失、相手の心を折ってしまうほどの明瞭で残酷な実力差を見せつける“楽勝”だった。

 これまで日本人が米国での世界戦でKO勝ちしたのは2人しかいなかった。27回の挑戦があり、その確率は7・4%。極東の島国と本場との大きな隔たりを感じさせる数字だったが、井上の勝ちっぷりを見ると、そんな大きな隔たりがあったとはとても思えない。見る者の感覚をまひさせられるような勝利だった。海外での防衛戦という視点でも、日本人史上7人目、9例目。史上かつてないほどの圧倒劇と言っても過言ではないだろう。

 見る者の固定観念を軽やかに覆してしまう米国初参戦。11日に成田空港に帰国した際に聞いたエピソードでも、驚かされた。3日に渡米した際にベルトを日本に忘れてきたことを試合前に明かしていたが、なんと試合日にも宿泊していたコンドミニアムに忘れ、会場で気付いた関係者をあぜんとさせたという。そんなリング外でのおとぼけは、井上の常。帯同した大橋会長は「尚弥は本当に日本にいるときと変わらなかった。私たちのほうが浮足立ってしまいましたね」と、気負いや緊張とは無縁なその強心臓ぶりで、「モンスター」のすごみを証言した。

 そんな遠征だったが、今回唯一足りなかったものは、対戦相手の強さ、だろう。1つ上のバンタム級を主戦場にしてきたアマチュア全米2位の実績を持つニエベスは、好選手であったが、好敵手ではなかった。一方的な展開過ぎたことで、「イノウエ」のすごさを100%本場へ伝えられたかというと、本人も曇り顔。実際、試合後の現地メディアの報道を見ると、絶賛はあれど、そこに書き手の高揚感を感じるような記事が少なかった。評価は確実に手に入れた。ただ、心をわしづかみにしてしまうような試合ではなかった。それが「本場」の雰囲気かなと思う。

 単純に強すぎた。豪快なKO劇をみせる前に、相手が白旗を挙げてしまう。似たような状況をここ3試合続けているのは、井上の8戦という最速記録を越える7戦目での2階級制覇王者となった現WBO世界スーパーフェザー級王者ワシル・ロマチェンコ(ウクライナ)。同様に圧巻の力量差を見せつける形で、初防衛戦から3戦連続で相手の棄権を呼び込んでいる。そして、その強さにもかかわらず米国では絶対的な人気を誇ってはいない。

 理由はファンの求めるものが違うからだと思う。少なくとも対峙(たいじ)した2人のボクサーに顕著なスキルの差が見て取れるときには、勝って当たり前の心境は、興奮をもたらさない。7、8月と日本人ボクサーを追ってカリフォルニアの会場で感じた空気では、やはり打ち合い、拮抗(きっこう)した実力伯仲の両者が、紙一重のタイミングで拳を交える緊張感、それがダウンを奪う一撃で弾ける瞬間こそが、最上の熱をもたらす。それは世界王者であろうが、8回戦の試合であろうが、変わらなかった。

 いま、井上に求められるのは好敵手だ。どんなスポーツであれ、多くの関心を集めるのはライバル物語というのは世の常。絶対王者が君臨する世界において独り勝ちという状況は、勝利に予定調和の既視感がまとわりつく。人は1度見たもの、体験したことでは極度の興奮には到達しにくい。だからこそ、勝つか負けるか分からない、激しい打ち合いをできる、熱をもった戦いを繰り広げられる「相棒」がほしい。

 その時こそ、「モンスター」の底が見られるかもしれない。きっと本人もその時を待っているのではないか。これが伝説の始まりだとして、楽しみに待ちたい。【阿部健吾】

特上の福原辰弥、王者陥落の日いちげん記者に神対応

1R チャンピオン福原辰弥を果敢に攻める挑戦者の山中竜也(2017年8月27日撮影)

 何人ものスポーツ選手を取材してきた。時には「何じゃこいつ」と感じる相手もいたけど、それ以上に感じのええ相手が多かったのは間違いない。その中でも、前WBO世界ミニマム級王者福原辰弥(28=本田フィットネス)は特上の1人です。

 8月27日、熊本・芦北町民総合センター。タイトルマッチが終わって約1時間半。原稿を書いてる合間、屋外の喫煙所で1人で一服してたら、挑戦者の山中竜也に負けた彼が歩いてきた。横にいたんはきっと彼女でしょう。近づいてきて、目が合った。

 「ありがとうございました!」

 力みもなく、普通にしっかりした声。顔はちょっと腫れていたけど、自然な笑みが印象的やった。

 「ナイスファイトやったね?」

 おべんちゃらでなく、実際そう思ってた。打たれたら、必ず前に出て打ち返す。1度も下がらんかった。典型的なファイターの戦い方を見せてもらった。

 こっちの言葉にちゃんと目を見て、頭を下げて、通り過ぎていった。横にいた彼女(と思う)も、彼と一緒に笑顔で頭を下げていった。

 別に特別親しい間柄やない。世界王者になる前から取材してたわけやなく、初めて会ったのは3日前。彼にすれば“いちげんさん”ですわ。しかし、思えばその3日前も、質問に必ず相手の目を見て、質問の意味をじっくり考えてから、自分の言葉で対応してた。

 週に5、6日は朝9時半から夕方6時までは熊本市内のゲームセンターで店員として働き、週に3日は夜9時から深夜2時、3時まで通信販売のコールセンターで働く。そうやってボクシングを続けて、世界王者になった。

 9月9日に熊本でミスチルのライブを見に行くと言うてた。

 「それは君の趣味?」

 「…いや~」

 「ああ、彼女の趣味やね?」

 「…ははは」

 今後も現役を続けるんか。28歳っていう年齢を思えば、きっといろいろ考えると思う。穏やかな時間の中で、じっくり考えるんでしょう。まあでも、彼なら彼にとって正しい結論を出すのは間違いないと、信じています。【加藤裕一】

全日本に復活の兆し「明るく楽しいプロレス」が再び

全日本プロレス運営新会社設立会見で相談役を務める故ジャイアント馬場さんの元子夫人(中央)と手を合わせる社長の秋山準(右)と専務の諏訪魔(2014年7月4日撮影)

 全日本プロレスに復活の兆しが見えてきた。28日の両国国技館は6550人で満員の発表だった。午後3時から約4時間半。62人のレスラーが出場したが、第0試合から、最後の3冠ヘビー級選手権まで会場には心地よい活気が感じられ、大いに盛り上がった。

 ジャイアント馬場が創設し今年で45周年。新日本と並ぶ日本プロレス界の老舗団体は、馬場さんの死後、何度も経営者が変わり、選手の離脱などを繰り返した。それが、14年7月1日に秋山準が社長に就任し、その当時のどん底から、客足が徐々に戻っている。4月のチャンピオンカーニバルの後楽園大会では久しくなかった大入り満員を記録。大都市圏を中心に人気回復の傾向にある。

 秋山とともに経営に携わる大森隆男取締役は「団体の中にいると実感はない」と言いながらも、手応えを感じている。「残った選手たちの頑張り、少人数のスタッフが1人何役も仕事をこなし、若手の意識も変わってきた」と話す。「オレがやらなきゃ」という気持ちが、トレーニングでも試合でも出ているという。

 3冠ヘビー級王座を石川から奪い返し2度目の戴冠となった宮原健斗や、野村直矢、青柳優馬といった若手の台頭。さらに秋山や大森、渕といったベテランがそれぞれの役どころを感じて、試合を盛り上げる。馬場時代をよく知る渕は「おれたちが悪役商会でやっていた時代と、お客さんの反応が似てきた。馬場さんの言った明るく楽しいプロレスが、リングでできている」と話す。

 秋山社長体制になり、大日本や地方のインディー団体などとも交流を広げた。両国大会では、女子レスラーも登場した。また、過去に全日本に所属したレスラーたちも呼び戻され、ファンには懐かしい顔も見られる大会となった。全日本退団後初めて参戦したというグレート小鹿(75)は「全日本のリングは20年ぶり。全日本のリングはにおいがするんだよ。ボクが日本プロレスから吸収合併で来たころの初期のにおいがまだ残っている。秋山社長が地に足がついた経営をして、ここまでやってきた。秋山社長以下の努力をほめてやりたいよ」としみじみと話していた。

 現在のプロレス界は新日本プロレスの一人勝ち状態が続いている。グレート小鹿も「今は横綱が1人いて、あとはせいぜい三役か平幕以下。プロレス界活性化とために全日本には頑張ってもらいたい。全日本はオレらの心のふるさとなんだよ」と願いを口にした。大森隆男取締役も「今に見とけよ、と思っている」と反転攻勢を誓った。【桝田朗】

三浦隆司と内山高志の引退、ボクシング界の世代交代

 偶然の一致だが、今年のボクシング界は世代交代年になった。拳を交えたスーパーフェザー級の元世界王者が、7月に1日違いで引退を表明した。記憶と記録に残る2人だった。

 三浦隆司を初取材したのは09年、日本王座に3度目の挑戦の時だった。初挑戦は小堀に負け、再挑戦は矢代に引き分け、再戦でダウン応酬の末に雪辱の王座獲得。喜びのあまり幼なじみと結婚宣言し、トレーナーから「本当に大丈夫?」と冷やかされていた。まだ横浜光ジムで、初々しい地方出身青年の印象だった。

三浦隆司

 11年の世界初挑戦では内山高志からダウンを奪うも逆転負けした。心機一転して帝拳ジム移籍には驚いた。当初は日本王者だった叔父の薦めで、帝拳ジムに体験入門した。初の高校6冠で同期の粟生が注目され、いつしか姿を消したと聞いていたからだ。

 ジムに一番長くいる選手だった。多くは2時間程度だが、三浦は4時間近いこともあった。バーベルを素手でコツコツたたく姿が印象的だった。普段もリングでも外見にこだわりなく、世界をとっても同じトランクを使った。東北人らしく多くはしゃべらず。寡黙な野武士のような風貌にも好感が持てた。

 内山の世界初挑戦の時は勝てないと思った。体制が問題だった。洪トレーナーが渡辺会長と意見が合わず直前にジムを離れた。急きょチーム内山を結成。役割分担して一丸で支えたが、デビューから指導していた元アマ韓国代表の穴は大きかった。王座奪取は内山のさまざまな能力の高さあってのもの。大人だったのを見落としていた。

 ワタナベジムは来る者を拒まないおおらかムードだが、内山がいると緊張感が出る。トレーナーは同じアマ出身者が多いがいずれも年下。何事も内山が一番熟知していた。拓大では荷物番をやらされた屈辱もあり、特に体育会系の日常の自己と周囲への厳しさが原点、原動力だった。

内山高志

 練習を始めるには、1回3分の間は入り口で待つルールがある。インターバルになると「お願いします」とあいさつして入れる。昔はなかった内山流のけじめ。合宿所も荒れがちだったが、内山が入寮してから規律が確立され、寮生が集合してロードワークなども恒例になったと聞く。

 どこのジムも練習中は1回3分、休憩1分のタイマーを鳴らす。昨年だったが、タイマーがだいぶ古くなり、休憩1分がだいぶ短くなっていた。「スタミナがつく」の声も出ていたが、内山は「時間の間隔を体に染み込ませないといけないのに」と怒っていた。しばらくしてタイマーが新品になった。

 ボンバー・レフトとKOダイナマイト。乱立気味で世界王者の価値観が薄れる中で、個性的ボクサーとしての存在感があった。何よりも強打は魅力があり、たっぷり楽しませてもらった。【河合香】

東京五輪が影響、ボクシング界も頭を悩ます会場確保

笑顔でファイティングポーズを見せる村田(左)とエンダム(撮影・神戸崇利)

 20年東京五輪まであと3年。アマチュアボクシングは両国国技館にて開催されるが、向こう3年、プロにとっては頭を悩ませる問題がある。会場がない、世界戦を組みたくても、テレビ局が放送に前向きでも、肝心の試合を行う場所がない。首都圏ではそんな事態が多くなりそうな様相だ。

 先頃、WBA世界ミドル級タイトルマッチの開催が発表された。同級1位村田諒太(31=帝拳)が王者アッサン・エンダム(33=フランス)との5月以来の直接再戦に挑む大一番だが、交渉に入った両陣営、テレビ関係者を悩ませていたのは、会場をどのように確保するかだった。

 都内では、世界戦を行う会場としては両国国技館、大田区総合体育館、有明コロシアム、東京国際フォーラムなどがある。興行規模的に求められる収容人数が4000人以上の施設は限られている。その主要箇所の年末までのスケジュールがびっしりと埋まっていた。結局は10月22日に両国国技館で開催の運びとなったが、リング、大型スクリーンなどの舞台設置は興行当日に行う強行軍だという。無理を承知しなければ、確保が難しかった。

 各競技が会場確保に苦労している背景にあるのが、東京五輪だ。既存施設を使用する場合、改修工事を行う必要が出てくる。そのため一時的に使用できなくなり、その影響で開いている施設に予約が殺到するという構図。国立代々木競技場は7月2日から休館に入っている。東京国際フォーラムも17~18年に改修工事を予定している。

 競合相手はスポーツ団体だけではなく、音楽業界もいる。東京五輪に伴うコンサート用の施設不足は「2016年問題」として取り上げられ、いまも続く。先々を見ても、日本武道館が19年9月ごろから五輪後まで使用不可になる計画で、他会場の予約でバッティングの機会が多くなりそうだ。

 あまたあるスポーツ競技でも、特にボクシングは会場確保が難しい。世界戦で半年以上前から開催日が決まっていることはほぼない。両陣営が協議して、開催国が決まり、そこから会場を探すのが通例。長期的に、先々を見て予約を入れることができない。例えばある世界王者が1年間に3試合を行うとして、4カ月に1回。実質的には2、3カ月前にならなければ試合の候補日も決まらない。全日本選手権などある程度定期的な開催が見込めるような競技であれば1年先も見越して動けるが、ボクシングではそうはいかない。

 思い通りに会場が決まらなければ、過去最高の13人の国内ジム所属世界王者を抱える現状にとっては、マイナス面は大きい。首都圏を回避して探すにしても、興行的に成功の可能性が低くなり、難しい状況だと話す関係者もいる。抜本的解決策はないだけに、その影響が最小限にとどまってほしい。【阿部健吾】

田中恒成は“中京の怪物”におさまるタマやない

田中恒成

 WBO世界ライトフライ級王者の田中恒成(22=畑中)が、ついに全国デビューを果たす。9月13日、エディオンアリーナ大阪で行う2度目の防衛戦がTBS系で全国ネット中継されるわけやが…遅すぎるよな。

 15年6月、WBO世界ミニマム級王者になった。日本最速のプロ5戦目での世界奪取やった。16年の大みそかには、現在のベルトを手にした。これはプロ8戦目、WBO世界スーパーフライ級王者井上尚弥と並ぶ日本最速の世界2階級制覇。すごい経歴で、そもそもが“中京の怪物”なんて異名におさまるタマやない。

 何がすごいんか? う~ん、自分はボクサーやないから、うまく言えませんが、要は「素人目で見てもすごい」んです。

 6月5日、名古屋市の畑中ジムで田中の公開練習を見た。ライトフライ級王座初防衛後の再始動やったんで軽く動いただけやけど、その“軽く”がすごかった。リング上と大鏡の前でのシャドーボクシング。右利きのオーソドックスやのに、時々急に、ひょいっとサウスポーにスイッチする。それがまた「ほんまは左利きか?」と思うしなやかさ、素早さ、ド迫力なんですわ。

 田中は7月初旬、オーストラリアに出向いて、マニー・パッキャオの世界戦を現地観戦した。アリーナ席やったらしいが、その時のことを笑いながら説明してくれた。

 「パッキャオが米粒ですよ。目を凝らさないと…凝らしても見えなくて。ちゃんと見ようと思えば、スタンドの特大ビジョンしかない。『これ見るんなら、日本でテレビ見てても一緒やな』と。だから、現場の空気感だけを感じてました」

 口調はどっちか言えば、ほわんとしていて、つかみどころがない。それでいて、次の2度目の防衛戦に向けた抱負は「こないだはKOするって言って、判定。ウソついたんで、今度はKOします。う~ん、中盤ぐらいかな」。言いたいことは、はっきりと言う。

 次戦をクリアすれば、その次はWBA王者田口良一との統一戦が既定路線。そこも越えたら、階級を上げて、フライ級…。“中京の怪物”から、エリアが取れて“怪物”になるはずの全国デビュー戦は見逃せませんよ。【加藤裕一】

激戦続くG1クライマックス 際立つオカダの存在感

オカダ・カズチカ

 新日本プロレスのG1クライマックス27も、いよいよ後半戦に突入した。今や世界中が注目するプロレス界の一大イベントは、その期待を裏切らない戦いが続いている。7月17日、札幌の北海きたえーるで開催された開幕戦で、メインを飾った内藤哲也-飯伏幸太の激闘が、大会に勢いを与えた。

 2年ぶりに新日本マットに復帰した飯伏と、その不在の間に大ブレークした同期同士の戦いだった。試合前には内藤が「ほとんど試合もしていないレスラーが出られるほどG1は甘くない。過去の栄光だけで出てきたやつに負けるわけがない。第1戦は消化試合だ」と挑発。飯伏も「この2年間、誰にもできない経験をしてきた。その成果を出して大爆発する」と返し、ファンの注目を集めた。

 2人の戦いは、持ち前のスピードと過激なワザの応酬で盛り上がった。飯伏コールが始まると、内藤コールがそれをかき消す。ファンと一体となったプロレスは、2人の受けのうまさも相まって、すばらしい空間を作り出した。見る者を感動させる戦いだった。

 Bブロックの開幕戦となった20日後楽園大会では、ケニー・オメガ-鈴木みのる戦も見応え十分だった。さらに、23日町田大会の棚橋弘至-永田裕志の戦いは、見るものの心を打った。今大会限りでG1からの卒業を宣言した49歳の永田。そして同じ40代に足を踏み入れた後輩。新日本のエースの座を引き継いだ2人の戦いは、棚橋がリング中央で永田のほおを張り、最後ははり倒すシーンが印象的だった。「棚橋に殴り倒されたのは初めて」とかつての戦いに永田が思いをはせれば、棚橋は「永田さんの前ではいつでもチャレンジャー。それは変わらない」と先輩を立てる言葉を残した。

 G1の戦いを通して際だつのは、IWGPヘビー級王者オカダ・カズチカの存在感だ。初戦の矢野通戦から始まり、オカダのプロレスは、すごみを増している。相手の持ちワザをすべて受けきり、その上で相手を圧倒するように試合を決める。1・4東京ドームのオメガ戦から始まった絶対王者オカダの進撃はとどまるところを知らない。G1開幕直前のインタビューでオカダは「IWGPヘビー級王座の防衛記録も、IWGP王者としてG1を優勝するということも、ボクは全然考えていないんです。ボクは、ワザをかけるシーンとかが何回も再生されるような、印象に残るシーンにこだわりたいと思います」。それが、今のオカダのプロレスに現れている。

 G1の激しい戦いと、オカダの戦いは、プロレス界にかつてない歴史を刻むかもしれない。【桝田朗】

「最高の見せ物ができないなら」土屋修平の引退理由

土屋修平(2012年5月17日撮影)

 いつも通り勝利後のリングでバク宙した。8回判定も再起を飾り、王座奪回へアピールと思った。ところが、マイクを握ると「今日の試合(6月30日)を持って引退します」。突然の現役引退表明。前日本ライト級王者土屋修平。30歳だがキャリアは10年に満たない。

 なかなか踏ん切りのつかないボクサーは多い。王座から陥落直後に引退表明はまれ。引退示唆から撤回したり、移籍して続行の例もままある。正式に引退会見するのも元世界王者ですら少ない。ひっそり引退届を出す。最近はSNSで表明が多い。土屋は珍しく潔く引退となった。

 5月末のスパーリングがきっかけだった。「パンチに反応できないことがあった。かすったぐらいでダウンした」という。「90%は決めて最後に試合をやってみようと」臨んだラストファイト。「なんでもないパンチが効いた。僕の考えるプロじゃない。最高の見せ物ができないなら一線を引くべき」と決断した。

 小1で空手、中2で極真系フルコンタクト空手を始めた。バスケット、野球もやり、高校は部員不足でラグビーのSO。大東大に進学で上京し、キックボクサーになった。8勝(4KO)4敗1分と行き詰まり、ボクサーを目指そうとジムを回るうちに角海老宝石ジムにたどり着いた。

 09年に22歳で入門し、3カ月後に1回KOでプロデビュー。6戦連続KOで全日本新人王MVP。決勝ではアゴを砕き、一躍KOパンチャーとして注目され、連続KOは12まで伸ばした。判定で13連勝も14戦目は初回ダウンを奪うも9回TKOで初黒星。ここから4敗と低迷し、昨年12月に待望の日本王座初挑戦となり、3回KOでベルトを手にした。

 スポーツ万能だっただけにセンスがいい。当て勘よく強さより切れのいいパンチ。一方で防御に甘さがあった。キック経験者によると「防御はあまり練習しない」「1、2の3とタイミングが同じ」という傾向がある。今年の初防衛戦は白熱の打撃戦の末に8回TKO負けで陥落してしまった。

 激しい打ち合いを演じた元2階級制覇王者ガッティにあこがれ、米国リングを夢見ていた。「危ない戦い方だが1人ぐらいいてもいいのでは」と笑った。そのうちおえつがもれたが「いいボクサー人生。浮き沈みあるのが楽しい。最高のスポーツ。愛している」。

 「最後は田中さんとやりたかった」ともつぶやいた。田中栄民トレーナー。ジムをのぞいた時に「見に来いよ」と入場券をもらった。最後についた小堀佑介トレーナーを世界王者に育てた人と知って、入門を即断した。ジムを移った恩師への感謝の言葉だった。個性派ボクサーはすがすがしくリングを去った。【河合香】

三浦隆司が放った豪快な一撃とファンの「どよめき」

10回、ミゲル・ベルチェルトを攻める三浦隆司(7月15日)

 15日(日本時間16日)に開催されたWBC世界スーパーフェザー級タイトルマッチをメインカードとする興行を、現地の米カリフォルニア州イングルウッド「ザ・フォーラム」で取材した。

 元王者三浦隆司(33=帝拳)が王者ミゲル・ベルチェルト(25=メキシコ)に0-3の判定負けを喫し、惜しくも王座返り咲きはならなかったことは残念だったが、「本場」のファンが求める物を見せたと確信する。その象徴が、ベルチェルトの顔面をギリギリで左拳の一撃がかすめた5回途中、思わず起きた「おおーー!」というざわめきだった。

 「ザ・フォーラム」は長くNBAレイカーズの本拠地として知られ、ボクシングも数々の激闘が切り広げられてきた会場。この日も約8000人が詰め掛けたが、前座試合からファンの求めるものが明確だった。

 まず、クリンチが嫌い。追い詰められて逃げまどう意味で抱きつきにいく選手には、即座に容赦ないブーイングが飛んだ。また、バッティング、後頭部へのパンチなどで試合が止まると、それを起こした選手にはやじも飛ぶ。多くの人が早くからアルコール飲料を飲んでいる酔い気分もあるのかもしれないが、前座から一貫した空気感。ただ、逆に考えればそれだけ試合を見入っているということで、見せてほしいのは打ち合う姿なのだろう。その意志がない、その意志をみせない選手には、手厳しい。

 三浦にもブーイングは飛んだ。ただ、相手のベルチェルトがメキシコ人で、ヒスパニック系住民の多い土地柄、国籍に根ざしたものだった。それは当たり前だろう。しかし、三浦が見せたファイトスタイルへの批判めいたブーイングは一切なかった。うなり声を張り上げ、豪快な一撃を見舞うべく、打たれても前進をやめない。その愚直な姿には決して批判はなかった。それまで「メヒコ(メキシコ)」コールでベルチェルトを応援していたファンが、5回に三浦が放った空振りの一撃で漏らした「おおーー」というざわめきの声は、国籍から離れ、本場のボクシングファンの質を感じさせてくれた。

 ただ勝てばいい。そんなスタンスを絶対に許さない厳しさ。だからこそ、熱い試合が生まれる。それは観客がともに作り出す空間となり、長い年月をかけて「本場」の重み、伝統を培ってきたのだと思う。

 三浦は勝つことはできなかった。ただし、しっかりと熱い試合は見せた。来月にはWBO世界スーパーウエルター級王座決定戦に亀海喜寛、9月にはWBO世界スーパーフライ級王者井上尚弥が、同じ米カリフォルニア州で世界タイトル戦に臨む。その時、どんな「どよめき」が聞こえるのか。楽しみに待ちたい。【阿部健吾】

KENTA改めイタミ・ヒデオ WWEで苦闘の日々

イタミ・ヒデオ

 WWEデビュー1年で1軍のスマックダウンに昇格した中邑真輔(37)の華々しい活躍の陰で、もう1人の日本人レスラーが苦闘していた。元ノアのKENTA改めイタミ・ヒデオ(34)だ。14年7月にWWE入りし、3年後の6月30日、7月1日に両国国技館で行われたWWE東京公演で、入団後初めてプロレスを披露した。

 その戦いは、凱旋(がいせん)とはほど遠かった。初日の6月30日は、第1試合でWWEトップスターのクリス・ジェリコとシングル戦で完敗。2日目は、第3試合に登場したが、対戦相手アモーレのタッグ仲間との仲間割れ抗争に巻き込まれ、勝敗のつかない無効試合となってしまった。15年の日本公演は、ケガで欠場。昨年12月に大阪で行われたNXT大会でも、故障が癒えず、直前で欠場が決まっていた。WWE入団後初めてとなる日本のファンへのお披露目だったが、活躍の場は与えられなかった。

 「3年前、WWEに入れたときに思い描いていたものとは全く違うものになってしまった」。6月30日の午前中のインタビューで、イタミは苦笑いしながら語った。デビュー直後の肩の負傷は、予想以上にダメージがあった。脱臼だったが、2回も手術した。日本で活躍した時代には、両膝の前十字じん帯断裂の大けがを負ったが「膝のケガの時はリハビリで完治できるという楽観的な気持ちでいられたが、今回は、まだ完全に治りきらない」と焦りをにじませた。

 昨年は首の負傷もあった。度重なるケガとともに、心に迷いも生じたという。入団直後にKENTAからイタミ・ヒデオとリングネームが変わった。日本時代に築いたKENTAというレスラー像を意識的に変えようとした。「新しいものを作っていかないといけないと思ったが、どう表現していいのか分からなくなった」という。

 悩みもがいている中で、試合をすると、米国のファンはいつも温かくイタミに歓声を送ってくれた。「日本もそうですが、米国でもプロレスファンは温かかった。彼らは長いスパンでボクのことを見てくれているんだと思ったら、名前が変わったから違うことをやるのではなく、自分の表現したいものをやっていけばいいと思えるようになった」と、心を切り替えられた。

 試合前、イタミは「たぶん緊張すると思いますよ。ボクは日本のプロレスファンと牛乳に大きくしてもらったんで」と話していた。勝利という結果での恩返しはできなかったが、両国を埋めたファンの温かい声援、拍手をイタミはその体で受け止めた。「正直悔しかった」という中邑の1軍昇格。ケガで不完全燃焼だったプロレスへの思い。東京公演が、悔しさをバネに新たなスタートを切るきっかけとなったことは間違いない。【桝田朗】

自身の夢かなわずも…王者4人育てた葛西トレーナー

バスケス(左)に右フックを浴びせる葛西裕一(1994年3月撮影)

 「今のボクがトレーナーとしてついていたら、ボクも世界王者になれたんじゃないかって」。そう言ったのは帝拳ジムの葛西裕一トレーナー(47)。「今ならいろいろと違った指導はできたし、もっともっとやれることはあったと思う」と続けた。

 葛西トレーナーは横浜高時代に国体を制して専大に進学も、プロを目指して中退して帝拳ジムに入った。順調に白星を積み上げて日本スーパーバンタム級王座を獲得した。

 1学年下の辰吉も同じ87年にプロデビュー。翌年には鬼塚、渡久地、川島といった高校時代から注目の3羽がらすもプロ入りしている。きれいなワンツーを武器にした正統派で、黄金世代の中でも人気ボクサーだった。94年には引き分けをはさんで20戦目に、無敗でついに世界挑戦した。

 結果は初回に3度ダウンでKO負けの惨敗だった。明らかに緊張して、堅くなっていた。30秒過ぎて軽く左ジャブを出したところへ、右ストレートを返されて最初のダウンを喫した。この一発ですべてが狂った。あとは右フックで2度目、さらに攻勢をかけられて3分もたなかった。

 「控室は静まり返っていた。身体は動かしていたけど。今ならいろいろな声を掛けたり、身体をほぐしたり、汗をかかせたり、緊張を和らげることもできる。あの時は堅いままリングに上がってしまった」。

 その後は外国人トレーナーについたり、ベネズエラで単身修行もした。海外のリングにも上がったが、96、97年と通算3度世界挑戦もベルト奪取の願いはかなわなかった。

 トレーナーになると、00年からは移籍してきた西岡と世界を目指した。08年に通算5度目、移籍後4度目の挑戦で、ジムには22年ぶりの世界王者誕生となった。さらに三浦、五十嵐、下田も世界王者に。「ロードワークの目覚まし役までやったり。一生懸命やった」と自負している。

 世界王者にはなれなかったが、世界王者は4人育てた。「ボクは力がなかったのが一番。でも、時代が違ったらと思うことも。あとは運。世界王者になるには運も大事。ボクは運もなかった」と言った。

 不可解判定で世界王座を逃した村田にも、当初はトレーナーとしてついていた。「あの判定はないけど、もっと攻めていってればとも。村田は金メダルをとった。運持ってるはず」。葛西トレーナーはジムを退職し、秋にはアマチュアのジムを開く。世界王者村田誕生へ、これからは一ファンとして見守る。【河合香】

日本人3人が米国で世界戦 濃密2カ月間、転換期へ

三浦隆司

 過去を紐解いた時に、「あれが日本ボクシング界の転換期だった」、そう言われるかもしれない夏がやってくる。

 日本の3人のボクサーが立て続けに本場米国のリングに上がる。すべてが世界タイトル戦。激闘ぶりで多くの海外ファンの人気を得ている男は王座返り咲きを狙い、独自の歩みで上り詰めてきた男は史上最大とも言えるビッグネームと拳をまじえ、「怪物」と称される若者はいよいよ海を渡りそのベールを脱ぐ。

 7月15日から9月9日までのわずか56日間で3試合。これまで米国で日本人の世界タイトル戦は25試合が行われてきたが、2カ月以内に3試合は初めてとなる。1968年(昭43)に西城正三がWBA世界フェザー級王座に挑戦してから半世紀余り。ここまで詰まった日程で日本人が米国の世界タイトル戦のリングに上がったことはない。

 まずは7月15日、元WBC世界スーパーフェザー級王者三浦隆司(33=帝拳)が、ロサンゼルスで現王者ミゲル・ベルチェルト(メキシコ)に挑む。すでに15年に米国での世界戦は経験済み。カリフォルニア州インディオで開催された1月の挑戦者決定戦でも、「ボンバー」と呼ばれる左拳を爆発させるKO劇で、米国のファンを魅了した。

 続く8月26日、WBO世界スーパーウエルター級5位亀海喜寛(34=帝拳)が、同王座決定戦に臨む。相手は元4階級王者ミゲル・コット(プエルトリコ)。ファイトマネーで1500万ドル(約16億5000万円)を稼いだこともある超大物で、「日本人の世界戦史上最大の試合」という声もある。元東洋太平洋王者の亀海は、11年から主戦場を米国に移し、一歩ずつ評価を上げてきた異色の存在。たどり着いた先が「自分が20歳のころから見ていた」というコットで、本人も驚きを隠さない試合が待っていた。

 最後は9月9日、WBO世界スーパーフライ級王者井上尚弥(24=大橋)が6度目の防衛戦を西海岸で行う。米国からの「オファー」に応えての渡米は、ニュースター発掘にかける米国リングの思惑に沿う形で、日本人ボクサーとしては異例の立場での参戦となる。売り込んだのではない。その戦いぶり、強さが日本にとどまらない評価を不動のものとした上でのオファーだ。大橋会長は「これが伝説の始まりになる」と予言する。

 海の向こうから熱いニュースが届きそうな2カ月間。3人の戦いぶりが、大きな契機になることは間違いない。【阿部健吾】

ギャップ萌え王者 拳四朗が女性ファン生む救世主?

拳四朗

 いつやったか、テレビ局の人にこんな話を聞いた。

 「長谷川穂積の試合は、女性受けがいい」。

 WBC世界バンタム、スーパーバンタム、フェザー級の3階級を制した元王者。切れ味鋭いサウスポーで、かっこよかった。なので、そのファイティングスタイルのおかげと思ったら、違うらしい。「彼の試合は、あんまり血が流れないからね」。…男にはピンと来ん。とはいえ、どんなジャンルでも女性が動けば、ブームが来るのは世の常です。テレビは視聴率の要因を性別、年齢層に分けて細かくチェックしてる。信ぴょう性は高いと思います。

 女性は流血、凄惨(せいさん)なもの(それが格闘技の本質やと思うが)は嫌うとしましょう。ほな、今のプロボクサーで誰が“女性票”にハマるんか? WBC世界ライトフライ級王者拳四朗はどうでしょう。

 第一印象は強烈やった。トリプル世界戦を3日後に控えた5月17日の予備検診。都内のホテルで彼を取材して、目を疑った。顔つき、髪形、物腰。まあどう見ても、25歳には見えん。「よう高校生に間違われます」「コンビニでお酒買う時は、まず『身分証見せて』と言われます」。Tシャツ、ズボンをビシッとユニクロ製品で決めて、ニコニコ笑ってた。

 翌日の調印式も同じホテル。会見場に入ろうと思ったら「こんにちは」と声がする。ふと横を見たら、再びニコニコ笑う拳四朗。ビックリするほど、戦う人間のオーラがない。「こんな少年をボクシングのリングに上げたらあかん」と思った。ところが、見事に勝ってもた。

 彼の本名は寺地拳四朗。所属する、京都・宇治のBMBジム会長でもある元東洋太平洋ライトヘビー級王者の父永(ひさし)さん(53)が立命大に入る前に通ってた大阪・天王寺予備校近くの店で読んでたんが、週刊少年ジャンプ。お目当ては「北斗の拳」。「秘孔(ひこう)を突いたら、ほんまに体が破裂するんかな…」とほんまにちょっと悩むほどハマッてたとか。その父が「漢字3文字の名前にしたい」と主人公ケンシロウから名付けたんやけど…。名は体を表すどころか、一子相伝の伝承者の風情どころか、男臭さ、武骨さのカケラもない。

 まあ、こんな世界王者は古今東西、ちょっと見当たらんけど、女性は彼を見て、そのうち「かわいい~ハート」とキャッキャッ騒ぎ出すんやいやろか。“ギャップ萌(も)え”てな言葉にもハマる。拳四朗が女性を巻き込み、ボクシングブームの救世主になるのも、あながちない話やないと思うんやが。【加藤裕一】

致命的なケガ削減へ、新日本が健康管理を見直し

柴田勝頼

 日本のプロレス人気をけん引する業界最大手の新日本プロレスで、今年上半期にリング上での大きな事故が2件あった。3月3日、沖縄大会で「こけし」で大人気の本間朋晃(40)が中心性頸髄(けいずい)損傷。4月9日の両国大会では、柴田勝頼(37)が硬膜下血腫で緊急手術を受けた。

 本間は、試合中に邪道のハングマンDDTというワザをかけられ、首をきめられたまま頭部をマットに打ち付けられた後、リング上で動けなくなった。そのまま、沖縄市内の病院へ救急搬送。柴田は、IWGPヘビー級王者オカダ・カズチカとの壮絶な死闘の試合後、体調不良を訴えこちらも都内の病院へ救急搬送された。

 本間は、沖縄から大阪の病院へ転院。外出許可も出て、府内のゴールドジムで復帰に向けリハビリを行っているという。一方、柴田は、当初は命に関わる状況で経過報告も控えられていたが、再手術も終え一般病棟に移ったという。歩行や会話はできるが、今後についてはまだ何とも言えない状態ながら、退院へのめどもついてきているという。

 5月16日、今後の経営戦略発表会見の前に、三沢威メディカルトレーナーが、2人の病状報告を行った。その中で、三沢トレーナーは、選手の健康管理に対する社内の取り組みを発表した。それによると、新日本には選手の健康管理を行う医事委員会があり、脳神経外科医、脊髄専門医、整形外科医、団体のトレーナーで構成されている。選手の試合や練習で負った偶発的なケガについて対応し、緊急な手術が必要な場合も迅速な対応ができるような態勢を整えているという。

 所属選手に関しては、6年前からMRIやCTを含めた健康診断を国際医療福祉大、三田病院などで年に1回実施し、そのデータを蓄積しているという。

 試合会場では、選手たちが試合前に、トレーナーにマッサージを受けたり、テーピングしたりと入念な準備をしている。三沢トレーナーは、会見で医事委員会では選手の体調面を考えて、試合数を限定してシリーズ参戦を考える意向も表明した。会見に出席した木谷高明オーナーも「選手の健康管理をすべて見直していきたい」と明言した。

 新日本の選手たちがリング上で繰り広げる戦いは、今や世界一の規模を誇るWWEにひけをとらないどころか、それ以上と評価されている。年間約120試合をこなし、年々高度化する技術にともない、ケガの危険性も高まる。選手たちは、肉体を鍛え上げ、受け身の技術を高めることで、会場に詰めかけるファンに最高のパフォーマンスを見せられるように努力している。しかし、選手のケガは選手の努力だけでは防ぐことができない段階にきている。三沢トレーナーや、木谷オーナーが会見で話した企業努力と相まってこそ、致命的なケガの可能性が減っていくことになる。新日本の取り組みを見守りたい。【プロレス担当=桝田朗】

金メダリストから世界王者へ村田諒太の再挑戦に期待

村田諒太(2016年12月21日撮影)

 ボクシングの採点基準は有効打、攻勢、防御、ペース支配の4つある。醍醐味はダウンを奪うKO。世界初挑戦で判定負けした村田諒太(31=帝拳)の話題はいまだ続くが、4回にダウンを奪うなど有効打では圧倒した。相手は5回に腰砕け、7回も吹っ飛びいずれもロープに救われた。ダウンとしていいダメージだった。一方で受けた有効打は数少ない。どうみても判定負けは疑問だ。

 採点は微妙になると思った人は意外にいて、負けも少数いたようだ。日刊スポーツ判定パンチ数は村田225に対してエンダムは倍以上の464。この手数の差がジャッジによって採点に表れた。最終回のゴング後、エンダム陣営は勝利を確信して喜び、彼らにしてみれば作戦通りだった。

 村田は初回3発は様子見としても、2回以降はもっと手を出し攻めてほしかった。特に終盤4回は勝利を確実にするために。得意の左ボディーは数発。相手が一発KOの右を最後まで警戒。左は固め、右を狙う作戦に徹した。上位経験不足の懸念を吹き飛ばす世界の実力を示したが「手を出せ」の声が飛んだのも事実だった。

 「桜井を思い出した」という人もいた。日本の金メダリストの世界挑戦は東京五輪の桜井孝雄以来2人目だった。桜井は22連勝でファイティング原田から王座を奪ったローズに挑戦。2回にダウンを奪ってリードも、終盤消極的になって15回判定負けした。

 一方でエンダムも驚異的だった。2敗は世界戦で4度と6度のダウンも判定に持ち込んだ。回復力、スタミナ、身体能力の高さには恐れ入った。公開練習ではメニューとインターバルを1分間隔で心拍を高め、ダメージ想定で10秒間クルクル回ってからパンチ、リング内でシャトルラン。独特の練習を精力的にこなしていたのがうなずけた。

 リングの大きさは約5・5メートル以上7・3メートル以内と決められている。契約段階で7・2メートル以上と要求し、自慢のフットワークを使うために広いリングは不可欠だった。ディアス・トレーナーはキューバ人で多くの金メダリストに世界王者3人を指導し、ドクターも帯同していた。

 金メダリストから世界王者は1人もいないという、ミドルの壁の厚さをまた知らされた。これほどボクシングが話題になるのはあの亀田騒動以来だろうが、本来は日本のボクシング史が変わる日のはずだった。業界に意気消沈ムードもあるが、村田は事実を受け入れながらも再挑戦を目指すようだ。今度こそジンクス打破へどう歩んでいくか興味は尽きない。【河合香】

パンチを出さないという村田諒太の断固たる決意

WBA世界ミドル級王座決定戦 村田諒太対アッサン・エンダム(写真は2017年5月20日)

 場内の張り詰めた空気が忘れられない。20日に東京・有明コロシアムで開催されたWBA世界ミドル級王座決定戦。ロンドン五輪金メダリストの村田諒太(31=帝拳)が元WBO世界同級王者アッサン・エンダム(フランス)と覇権を争った国内最大級のビッグマッチは、不可解な判定により後味の悪さが残ったが、判定でエンダムが勝ち名乗りを受けるまでは「至高の味」だった。

 パワーとスピードを兼ね備える花形階級。その一流選手が日本に来ることはまれ。両者とも一発もらったら終わりという世界で、初回から会場に満ちたのは緊迫感だった。村田が固めたガードの腕越しに、じっとエンダムをにらむ。「歩くように前にプレッシャーをかける」。その練習を繰り返してきた通りに前進して重圧をかけていく。軽快なフットワークでサークリングするエンダムが打ち込む多彩なパンチを、ことごとくブロック。逆にパンチは出さない。肩や上半身の動きでフェイントをかけながら、敵の動きを見定めた。

 1回に放ったパンチは3発のみ。試合後にテレビを見た周囲から寄せられた反応には「消極的すぎたのでは?」という声もあったが、リングサイドで見た身としては、正反対の感想を持った。パンチを出す、出さないが姿勢を決めるのではない。

 村田があの舞台でパンチを出さないことを徹底したことは、むしろ積極性を感じた。相手の動きを見定めるというのは事前の作戦通り。ただボクサーの本性として、パンチを出さないことほど不安なことはない。いくら「観察」しようとしても、あれだけエンダムにパンチを打たれれば、打ち返したくなるだろう。だが、村田は違った。大一番で、乱れない断固たる決意を体現した。

 なぜ村田はパンチ打たないのか? 会場にいた観客はきっと、そんな疑問より先に、村田の覚悟を直感的に感じたのではないか。スタンドからは「打て」などのやじは飛ばない。広がったのは極度の緊迫感だ。1分30秒すぎに村田が左ジャブを放ったところで、肺にためていた空気をやっとはき出せたように、会場に一気に声が広がった。ミドル級トップボクサー同士の戦いの魅力に引き込まれた。以降のラウンドも漂った独特の緊張感。それは「また味わいたい」と思わせるものだった。もちろん、今度は「後味の悪さ」はいらないが。

 村田は23日現在、進退については明言していない。自分が続けたいと思っても、再び簡単に世界タイトル戦を組めるような階級ではない。ただ、あの会場にいた者としては、もう1度村田の「覚悟」を見たい。「世界レベルの戦いをする上で引けを取ってない」と確信を得た男は、さらに強くなると思っている。【阿部健吾】

プロ高山勝成、東京五輪へアマ転向も…なんだかなぁ

高山勝成

 元主要4団体の世界ミニマム級王者高山勝成(34=名古屋産大1年)が、このほどWBO王座を返上し、プロを引退した。アマチュアとして、20年東京五輪出場を目指すためだという。

 「1人のアスリートとして、自国開催のスポーツの祭典で思い切り戦ってみたい。東京五輪の時、僕は37歳。年齢的にラストチャンスと思う」。そもそも東京の五輪招致が決まった頃から考えはあったようで、16年リオデジャネイロ五輪でボクシングのプロ出場が解禁となり、今回の決断に踏み切ったわけだ。

 ところが、アマチュアの統括団体・日本ボクシング連盟は“元プロのアマチュアボクサー”を認めていない。同連盟の山根明会長は高山のアマ転向承認を「1000%ない」という断固たる構えを見せ、リオ五輪からのプロ解禁の流れも「それは世界の話で、日本は別」と譲る気配はない。

 山根会長に話を聞いた。

 「プロはお金のために戦うけど、アマは無償で戦うんです。日本のアマチュアはみんな、五輪を目指して頑張ってる。それをプロが『東京五輪だから、自国開催だから出場したい』なんてね。彼はそもそもアマチュア出身じゃない。アマチュア界に貢献したこともない。指導者になりたいというなら考える余地はあるけど、それも4~5年実績を積んでの話。まして選手としてリングに上がるなんて、あり得ない」-。

 個人的に、山根会長に賛同する。“そもそも論”として、五輪はアマチュアの祭典やったはずです。それがテニス、サッカーなどにプロが参入した。ゴルフなんて112年ぶりに競技復帰したと思ったら、出場資格はプロの世界ランクという物差しになった。しかも団体戦はなく、個人戦オンリー。五輪の商業路線に、金銭以外の名誉を求めるプロ選手が乗っかったためやろうけど「4年に1度を目指してやってきたアマチュアはどうなるの?」と思いませんか? テニスには4大大会、サッカーにはW杯、ゴルフにはメジャーがある。プロとして十分に成熟したフィールドがあるのに、何でアマチュアの祭典にまで手を出す必要があるの? ボクシングもそれと一緒でしょ?

 高山の意欲を否定はできません。どう考え、どう動こうが個人の自由です。でも、仮に高山のアマ転向が実現した場合、同じ階級で五輪を目指してきたアマチュアはどう思うか? 

 五輪はやっぱり、アマチュアのものであるべきやと思うんですけどねえ。【加藤裕一】

天国の力道山に届け「プロレスは盛り上がってます」

故力道山さんの墓前で、殿堂入り記念トロフィーをWWEジャパンの徳升宏臣氏(右)から手渡された息子の百田光雄

 力道山の墓は、東京・池上の池上本門寺にある。寺を訪ねると、墓は誰にでも分かるように案内の掲示板で示されている。4月24日、WWEのレガシー部門殿堂入りの記念トロフィー贈呈が、墓前で行われた。大きい墓石の前には、力道山の銅像が建っていた。

 次男でプロレスラーの百田光雄(68)は「亡くなって54年たっても、父の名前が残っていることがありがたい。私の孫の代まで伝えていってくれれば」と、感無量の表情で喜んでいた。力道山が亡くなったのは、1963年(昭38)12月15日。暴力団員にナイフで刺されたことが原因だった。

 百田が話したように、亡くなって54年。今年58歳の記者も生で見た記憶がないぐらいだから、力道山をよく知っている世代は60歳以上の人ではなかろうか。日本プロレスの父といわれ、戦後日本の最初のヒーローの記憶も、現在では徐々に薄れている。そんな中で、米国プロレス団体の殿堂入り表彰は、あらためて力道山という日本プロレス界の大功労者の存在を思い出させてくれた。

 力道山がいなかったら、ジャイアント馬場も、アントニオ猪木も生まれなかった。その後の、日本プロレス界を支えてきたヒーローたちも出てこなかっただろう。力道山は、日本にプロレスという大衆娯楽を根付かせ、その土台をつくった。土台があるからこそ、現在、新日本プロレスで大活躍するIWGPヘビー級王者オカダ・カズチカのようなスーパースターが生まれたのだ。

 記者が子どものころは、親戚のおばちゃんが、夜8時を過ぎるとテレビの前に正座して、プロレスを見ていた。外国人レスラーの反則攻撃に悔しがり、ジャイアント馬場が勝つと、両手をたたいて喜んでいた。小学校時代には、プロレスごっこで友だちにコブラツイストや卍固めをかけて遊んでいた。長崎県の五島列島で行われた興行で、初めて生のプロレスを見たことは今も大きな思い出だ。それも、力道山がいたからこそと、今回の取材で思い知った。

 百田の勧めで、力道山の墓に線香を上げ、お参りもさせてもらった。力道山がつくりあげたプロレスは、今でも日本中を熱くさせ、人々に生きる勇気を与えてもいる。「プロレスは今でも盛り上がっていますよ」。せんえつながら、記者からも天国の力道山に報告させてもらった。【プロレス担当=桝田朗】

名物会長率いた「拳闘道場」ヨネクラジムの幕引き

 元世界王者である川島ジムの川島郭志会長に言われたことがある。「顔を見るのが嫌だったんですよ。久しぶりに会うと、世界戦が近くなったと思って。プレッシャーになりました」。

94年5月、ヨネクラジム5人目の世界王者川島郭志と米倉会長(右)

 以前は系列のテレビ朝日と本紙がヨネクラジム興行は主催や後援だった。川島会長が日本王者になり、世界間近で担当になった。世界戦では発表前から顔を出し始め、恒例の長崎・諫早キャンプに毎回同行し、スパーリングに密着した。今は懐かしげに当時を話しての思い出のひと言だった。

 足しげく通い、ボクサーだけでなく、記者にとってもジムには思い出が詰まっている。その超名門が8月で幕を閉じる。90年に大橋ジムの大橋秀行会長が日本の世界挑戦失敗を21で止めた。当時は他ジムの世界戦も外国人選手の公開練習などの場になり、自然と取材機会は多くもなった。

 米倉健司会長はメルボルン五輪に出て、プロで2度世界挑戦した。アマ上がりの右ボクサーのテクニシャンで人気も、プロではファイターを好んだ。昭和ヒトケタ世代ながら、堅い伝統よりもプロらしい派手さを喜び、三度がさのガッツ石松も生まれた。

 70歳代までミットを持ち、昨年10月の最後の興行でもセコンドについていた。鼓舞する姿は会長と言うよりも熱血トレーナー。帝拳ジム本田明彦会長がプロモーター、協栄ジム金平正紀会長がマネジャーのトリオなら、理想的トロイカと思ったこともあった。

 25日で83歳で高齢が閉鎖要因になった。車の運転はスピード狂で怖い思いをした。数年前に運転を辞め、代わりに夫人が運転。昨年は興行後に夫妻がタクシーで帰る姿を見てちょっと安心した。歳には勝てずにジム閉鎖は流れだが、実に残念だ。

リングの回りには歴代王者のパネルが飾られたヨネクラジム(撮影・河合香)

 創設55年目で36人が世界、東洋太平洋、日本王者になった。63年に大塚でジムを開き、69年に目白へ引っ越し。JR山手線の車窓から見える木造2階建て。外観以上に内部は昔の趣がある。天井や壁には王者のパネル、会長の現役時のポスター、王者認定証、心構えなどの標語がところ狭しと張られている。一番奥にはトロフィーが並ぶ。

JR線沿いにある木造2階建てのヨネクラジム(撮影・河合香)

 ボクシングジムと言うよりも、拳闘道場と言った方がふさわしい。マニアにとっては垂ぜんの宝物が山のよう。ジム自体をボクシング文化遺産として保存し、業界念願のボクシング博物館にしたら。無理は承知でそう思った。一つの時代が終わった。【河合香】

井上尚弥、豪快なKOシーンで度肝を抜く男の裏舞台

トレーニングを行った階段を背にする井上尚弥

 「怪物」は変化を恐れない。だから、強い。

 ボクシングのWBO世界スーパーフライ級王者井上尚弥(23=大橋)が17日から4日間、静岡県熱海市で合宿を行った。昨年から定期的にキャンプを張る恒例の土地だが、今回の注目はその時期。従来は試合を控えて2~3カ月前に行ってきたが、今回は5月21日に同級2位リカルド・ロドリゲス(27=米国)を相手に迎える5度目の防衛戦(有明コロシアム)を1カ月後に控えての実施となった。

 その理由を聞くと「合宿後の動きがすごく調子が良い。今回は良い状態で試合を迎えるためです」と説明してくれたが、調整法を変えることを怖がらないその姿勢に、強さの秘訣(ひけつ)の一端をのぞいた気がした。成功者が過去の体験にとらわれ、それに拘泥するあまりに、いつしか成長が止まり、後退につながるということはスポーツの世界に限らずにあることだろう。井上はそうではない。

 例えば、河野公平(ワタナベ)を6回TKOで下した昨年末のV4戦を前にして試していたことも多くあった。拳を鍛えるための素手でのサンドバッグ打ちや、腰痛などの対策として体重を増やしすぎずにスーパーフライ級のリミット(52・1キロ)から5キロ増ほどの58キロ前後をキープするなど、新しいことへの挑戦に実に意欲的だった。今回の合宿に関しても、1日で階段を2700段ほど登るなど過酷なフィジカル強化合宿で「故障には気を付けたい」としながらも、従来の調整とは異なるスケジュールで動くことのリスクもあったと思う。それでも「合宿をした後はパンチのパワーの乗りが違う」という確信が、それまでしたことがない行動に移させていた。

 もちろん、重要なのは試合までの過程ではなく、その結果。勝利してこそ、それまでの取り組みも意味を持つことも事実だろう。ただ、常に新しいことに挑戦していく姿は、単純に見ていて面白く、興味を引く。豪快なKOシーンで度肝を抜く「怪物」だが、その内面にも注目していきたい。【阿部健吾】

総合格闘技界に新星 那須川天心、衝撃的強さのワケ

那須川天心

 総合格闘技界に、すごい選手が現れた。かつての山本“KID”徳郁や、魔裟斗を超えるかもしれない。RIZIN横浜アリーナ大会で、わずか67秒の衝撃KO勝利を演じた那須川天心(18)だ。昨年12月29日に、キックボクシング界から総合格闘技に参戦。デビュー戦をKOで飾ると、主催者に直訴して2日後の31日に出場。今度は1本勝ちを収め、前代未聞のデビュー戦2連勝を飾っていた。

 那須川は、対戦相手のフランチェスコ・ギリオッティーと対戦した。「開始20秒ぐらいで、相手の動きは見切っちゃいました。打った打撃は全部当たって、相手をコントロールできた」と、冷静に言ってのけた。5月20日に後楽園ホールで、キックボクシングのISAK世界バンタム級王座の初防衛戦が決まっていた。「次の試合があるので、早く倒そうと思っていた」というが、不慣れな総合の試合で思った通りのKOができるところが、並の選手とは違うところだ。

 キックボクシング界では、早くから「神童」「天才」の名前をほしいままにしてきた。格闘技アニメで見たワザを試合で初めて使ってKOしたり、観戦にきた先輩の得意技をとっさに試合で出したりと、その逸話にはこと欠かない。ハデなKO勝ちがトレードマークになっているが、那須川の強さの秘密は卓越したディフェンス力にある。

 「打ち合っているように見せといて、自分だけ当てるのが一番いいんです」というのが、那須川の真骨頂だ。空手からキックに転向した小学時代。常に那須川の相手は、自分より学年の上の選手だった。「自分の倍ぐらいの選手と対戦して、真っ向勝負しても勝てない。一発もらったらダメージが大きいし、それが命取りになることもある。だから、父とずっとディフェンスの練習をしてきました」と話す。

 高校1年の時に通ったボクシングの帝拳ジムでは、名伯楽の葛西裕一トレーナーに指導を受けた。「1カ月間、ずっと左ジャブとガードの練習だけだった。そこで、相手のパンチを避ける技術を学んだ」と話す。同ジムからは、素質を見込まれボクシングの世界王者になれると勧誘されたという。

 キック、総合、ボクシングと無限の可能性を秘めた那須川だが、当面はキックに軸足を置くという。「20歳までに、キック界を統一することが目標。その後は、ボクシングからも声がかかっているし、いろいろ選べる状況」と、しっかり将来を見据えている。20歳でどんな選択をするのか。これからのキック、総合の戦いとともに目が離せない。【バトル担当=桝田朗】

ボクシング界変える? 金メダリスト村田諒太の挑戦

村田諒太

 ボクシングという競技は紀元前の古代ギリシャ五輪からあった。他は陸上中心で、レスリングとともに歴史のある格闘技。当時は無差別級というか体重制限なく、時間も無制限だった。18世紀に競技となった当時も同じで、体格差の優劣は明らかだった。

 そのうちヘビーとライトという2つの階級制になり、19世紀半ばには3番目にミドル級ができた。重い階級と軽い階級の中間というわけだ。リミットは154ポンド超(69・9キロ)~160ポンド(72・5キロ)。現在は17階級あるが、最軽量ミニマム級から13番目、最重量ヘビー級からから5番目になる。

 中間の階級と言っても、近代ボクシングが始まった英国を中心に欧米をベースに考えられたもの。日本などのアジアでは重量級に位置付けられる。何しろ、日本は95年の竹原まで、世界挑戦すらなかった。

 竹原への期待は薄く、それまでのテレビ中継局は見送り、別の東京ローカルで深夜に録画放送だった。しかし、3回に左ボディーでダウンを奪って見事に王座を奪取。「広島の粗大ごみが勝てた」の名言を残した。その後の挑戦も保住、淵上、石田と3人しかいない。

 厚い壁に、12年ロンドン五輪金メダリスト村田が5月に挑む。試合発表はプロ転向会見した同じホテルの会場。相手は当初の標的から変わり、カメルーン生まれのフランス人エンダムとの王座決定戦となった。

 相手はこれまでヌジカムと呼ばれ、04年アテネ五輪8強後にプロ入り。10年からWBA2度にWBOと3度暫定王座獲得。昨年12月は右1発で1回22秒KOでの奪取だった。2敗は世界戦で6度と4度のダウンも判定負けに持ち込んだ。今回38戦目とキャリアあり、テクニックある右ボクサーと言える。

 村田は今回13戦目となる。7戦目で初の世界ランカーに判定、8戦目で元ランカーに判定勝ち。昨年は元米国王者らに4KOと成長を見せたが、経験の差は大きい。帝拳ジムの本田会長も「きつい勝負になる。村田の頭と体力の勝負」と言った。

 ついに言うべきか、ようやくと言うべきか。本田会長は「挑戦は1、2年早いが、いろいろ事情もある」とも吐露した。最強のゴロフキンが3団体を統一し、マッチメークがより難しい中でのチャンス。日本人が好きな五輪の金メダリストだが、あれから5年が経過し、テレビ局の待ち切れない状況もあるようだ。

 日本の現役世界王者は10人になったが、もう一つ盛り上がりに欠く。黄金のバンタムとよく言われるが、海外では黄金のミドルと言われる。古くはロビンソン、その後もハグラー、レナード、ハーンズらが王者になった。村田も名を連ねることができるか。今年というより、今後のボクシング界の命運を左右する一戦と言えるだろう。【河合香】

村田諒太、世界初挑戦へ頭脳と体力での勝利期待

サンドバッグを打つ村田(撮影・鈴木正人)

 ボクシングのロンドン五輪金メダリスト、村田諒太(31=帝拳)の世界初挑戦が決まった。5月20日、東京・有明コロシアムでWBA世界ミドル級王座決定戦で、WBA同級1位アッサン・エンダム(フランス)と相まみえる。3日に都内で行われた発表会見から、気になった言葉を取り上げたい。

 「ビッグネーム、過去のグレートになると、ベルト以上になしえたことが大きい。ただ挑戦するだけで、僕の中で比べることが出来ない、というのが正直なところ」

 質問は「尊敬するフェリックス・トリニダードやバーナード・ホプキンスらも巻いたミドル級のベルトに挑む気持ちについて」だった。先人の偉大さを深く知るからこそ、素直な謙遜が口から漏れた。

 村田の“ボクシングマニア”ぶりは、業界内では有名だ。専門誌では「ボクシング・マエストロ」の異名を授かったこともある。一流アスリートは過去の記憶に関して突出しているケースが多々あるが、村田もしかり。有名王者に限らず、階級も問わず、その脳内データベースには、おそらく1000試合以上の記録が収められているのではないか。日常の取材でも、技術的な会話で過去の事例を引いて、答えてることが多い。そして、その見方は非常に面白いし、記者としても勉強になる。

 だからこそ、誰よりも深く、重くミドル級の世界のベルトに挑戦することの意味、困難さも分かっているのだろう。決して大言は出なかった会見だったが、それが逆に覚悟をにじませた。「多くの方にサポートに支えられてキャリアを進めている。恩恵に結果で応えたい」。そんな発言にも、決意が凝縮していた。

 帝拳ジムの本田会長は「自分の事も相手のことも、誰よりも分かっているのが村田。頭と体力に期待したい」と話す。学習能力の高さだけでなく、「頭」としてはその記憶力も間違いなく武器の1つだと思う。

 「こういうプロの世界とか、いろいろなボクシングの世界、世間を見ることが出来た。あの時点で辞めていたら、見ることが出来なかった世界。ボクシングが好きな1人間として、ここまで長くやることが出来ていることに対して、うれしく思います」

 ロンドン五輪の金メダルでアスリート人生を終えなかった決断を、会見でこう振り返った。ボクシングが好きだからこそ、新たなデータベースに更新してきた情報は豊富だっただろう。プロという経験が加わった「頭」で、勝利を期待している。【阿部健吾】

柴田勝頼、3年胸に秘めたオカダ・カズチカとの約束

柴田勝頼

 遅すぎたのか、満を持してなのか、遠回りをしたのか。新日本プロレスの柴田勝頼(37)が、今年ブレークしそうな勢いだ。3月21日の長岡大会で、ニュージャパン・カップ(NJC)初優勝を果たした。優勝者は好きなタイトルに挑戦できるという権利を行使し、IWGPヘビー級王者オカダ・カズチカに、4月9日の両国国技館大会で挑戦することも決まった。

 柴田は、その立ち姿だけでファンを魅了する、男臭いレスラーだ。黒のパンツに、ガウンやTシャツなど余計な装飾は一切なし。タオル1本を首に巻いて、リングをにらみつけるように入場するシーンに、ファンは興奮する。その後ろ姿は、若き日のアントニオ猪木をほうふつさせるオーラを放っている。

 1998年に新日本に入団し、翌99年10月にデビューした。04年には、棚橋弘至、中邑真輔とともに新闘魂三銃士として売り出された期待の星だった。しかし、05年に退団し、総合格闘技へ戦いの場を求めた。その後、12年から再び新日本マットで戦い、16年3月に再入団した。

 紆余(うよ)曲折のレスラー、格闘家人生だが、その経験が現在の柴田のファイトスタイルをつくっているのだろう。その戦いぶりは、とにかく武骨。リング中央で相手を挑発するように、壮絶な打撃戦を挑み、決して引くことがない。見ている方が痛くなるような戦いには「昭和のプロレス」の匂いがして、それが多くのファンを引きつける理由になっている。

 NJCに優勝し、オカダに挑戦した理由が3年も前の、14年2月のオカダからの言葉だったというのも、いかにも柴田らしい。当時オカダに挑戦した後藤洋央紀のセコンドにについていたが、試合後に次期挑戦者に名乗りを上げた。帰ってきた言葉が「挑戦したかったら、NJCに優勝してこい」だった。それから3年かけてようやく挑戦権をつかみ、オカダの名前を口にしたのだ。

 流れの速い新日本プロレス界にあって、オカダの約束を3年間も胸に秘め、約束を実現した柴田に、昭和の匂いを感じてしまう。群雄割拠する新日本にあって、柴田もまた、シングルマッチに外れのないレスラーの1人だ。4月9日、両国国技館でのオカダ戦は、間違いなく名勝負になるに違いない。団体を超えプロレス界の顔となってきたオカダと、柴田の戦い。棚橋でも内藤でもオメガでもない、2人の戦いに今から期待が高まっている。【プロレス担当=桝田朗】

元世界王者、下田昭文の再出発 現役引退し高校入学

下田昭文

 それぞれのスポーツに引退を表す言葉がある。野球なら「バットを置く」「マウンドを去る」、相撲なら「土俵を去る」、いくつかに共通する「スパイクを脱ぐ」など。ボクシングでは唯一身につけるものである「グローブをつるす」という。最近つるした元世界王者がいた。

 WBA世界スーパーバンタム級王者だった下田昭文。2月21日にブログで「引退します」と表明した。近年はアマ経験者が増え、特に名門帝拳ジムにはエリートが集まる。その中にあって下田はたたき上げで、異彩を放つ個性豊かなボクサーだった。

 高校受験に失敗し、自宅近くの帝拳ジムに「なんとなく」入門し、2日目でスパーを許された。8回戦までろくにロードワークせず、天性のカンだけで日本、東洋太平洋王座を獲得。そして、11年の世界初挑戦で王者李を3度ダウンさせて王座に就いた。

 グアムキャンプで初の海外に紙袋1つで成田空港に表れた。日サロ通いの真っ黒。ゴルフ焼けの本田会長に「日サロ行ったんですか?」。天然の逸話には事欠かない。リングでも感性で動き、強引にパンチをねじ込む。スパーでスリップダウンも、一瞬のでんぐり返しで飛び上がった時はびっくりした。野性的だった。

 米国で初防衛に失敗し、14年にマカオで一撃KO負けし、本田会長から引退勧告された。何度も頭を下げ、こっそりジムで練習し、運転免許と高卒資格取得を条件に再起。この3年間で2度目の日本王座挑戦失敗に引退を決意した。

 「15歳からやってきて、半端だった自分が逃げずにやりきりました。世界王者になったんだから、悔いはないです」。3月に入って、後輩の応援に来た東京・後楽園ホールで明るく話していた。

 入門から指導した葛西トレーナーは「リングの中はいいけど外は全然ダメ」と振り返る。朝に母親が起こしても起きず、ずっと朝電話する目覚まし役まで務めていた。2次募集で合格した高校は中退し、通信制の高校も辞めていた。

 下田は2月からバイトをしながら、今度こそと新宿にある通信制の高校に通い始めた。「初日は気合入って、先生より早く一番に行きました。楽しいです」。今も屈託ない笑顔。将来もトレーナーなどでボクシングに関わっていきたいという。【河合香】

井岡一翔が偉業王手!具志堅持つ「世界戦14勝」へ

井岡一翔

 WBA世界フライ級王者の井岡一翔(27=井岡)が、4月23日にエディオンアリーナ大阪で同級2位ノクノイ・シットプラサート(30=タイ)と5度目の防衛戦を行うことになった。

 最大の関心は、61連勝中で世界初挑戦の相手よりも、井岡が勝って具志堅用高が持つ「世界戦14勝」の国内最多記録に並べるかどうか、だろう。WBC世界バンタム級王者の山中慎介は3月の試合で12度目の防衛に成功し、具志堅が持つ「13度防衛」の国内記録に王手をかけた。世界戦勝利数と防衛回数では、どちらが価値が高いかは判断できないが、世界3階級を制している井岡はミニマム、ライトフライ王者時代も負けて王座を失ったことはなく「世界戦14勝」も大きくたたえられるべきものだろう。

 具志堅が、WBA世界ライトフライ級王座の13度目防衛に成功して世界戦14勝目を挙げたのは、80年10月だった。それから37年間、誰も破ることができなかった記録を前にして、井岡もあらためて具志堅の偉大さを思い知った。

「僕以外にも山中選手だったり、内山選手だったり、常に13回防衛という記録は、僕たちが勝つにつれて、期待されていくにつれて、出てくる。具志堅さんが当時積み重ねて、その記録を残したという、その重みを感じてます。世代はまったく違いますけど、それだけ影響を与える選手ということは間違いないので、相当大きな刺激はもらってます」

 試合の巡り合わせもあり、山中が次戦で挑む13回連続防衛よりひと足先に、井岡は世界戦14勝の記録に挑むことができる。かつて、具志堅を取材した時、井岡について「パンチが正確だ。だからこそ、軽量級でもKOを量産できるんだ」と、安定した打撃術を評価していた。自身の力を認めてくれているレジェンドへ、肩を並べる勝利まで、あと1つ。

 「やってる限りは、防衛だったり、勝利を積み重ねたいと思ってるので。今回勝って具志堅さんの記録に並べるのはすごく光栄なこと。あと1戦まで来てますけど、油断はできないので、しっかり気を引き締めて、終わってみて並べたらいいなと思います」。井岡が目を光らせた。【木村有三】

同学年、同門、同期、同級…切磋琢磨の2人が追う夢

京口紘人(右)のベルトに悔しそうなポーズの谷口将隆

 同学年、同門、同期、同級。

 そんな2人がいる。

 ワタナベジム所属の東洋太平洋ミニマム級王者京口紘人(23)、日本ミニマム級2位谷口将隆(23)。

 名前を記す順番で京口を先にしたのは、2月28日のタイトルマッチで初のベルトを巻いたばかりだから。王座決定戦にて同2位のアルマンド・デラクルズ(フィリピン)を3回2分2秒KOで下し、昨年4月のデビューから6戦6勝(6KO)での戴冠。1年たたずに1つの頂まで駆け上がった。「2番目」に名前を書いた谷口は、現在が6戦6勝(4KO)。同じくデビューは昨年の4月。4月には日本タイトル戦が控える。

 この2人、とにかく駆け足での切磋琢磨(せっさたくま)が見物だ。ともに関西の大学の主将、京口は大商大、谷口は龍谷大。初対面は中3で、縁あっていまはワタナベジムの寮にともに住み、寝食を共にする。スパーリングもしょっちゅう。そんな2人の会話は例えば…。

--互いの初印象は?

 谷口「初めて会ったのは中3のスパーリング。国体の近畿予選。そっから因果が…。高3から話してあげてますよ」

 京口「それはこっちやな。こっちからやな」

 谷口「高1のスパーリングではRSCで負けてます。それがアマで唯一のRSC負けです。淡い思い出やな~」

 京口「谷口は中3でヤンキーですよ。襟足がえらい長くて。いなかっぺヤンキーですねえ」

 谷口「でも、僕も京口とは絶対に友達にならんともいましたよ。互いに130センチくらいでしたよ。懐かしいなあ」

--一緒のジムに抵抗は?

 京口「ないですよ」

 谷口「最初はえっと思いましたよ。でも出世争いですよ。まあライバルというか舎弟ですけど。アマの成績は僕が上なんで。チケットもおれが持っているな」

 京口「まあ、あとはルックスになってくるんですけど。これはおれでしょ。あとは食い力も」

 谷口「こいつはめっちゃくいますよ。一緒にラーメンいって、大盛りにご飯にギョーザですからね」

--好きなものは被る?

 谷口「いや、かぶらないですよ。女優なら? 僕は有村架純さんが好きですよ」

 京口「この前の試合の時(昨年12月31日に大田区総合体育館でジム頭の内山高志の世界戦で前座を務めた)恥ずかしかったわ~。試合前の画面に『綾瀬はるかに会わないとだめだ』的なVTRですよ。本当は(好きな女優)いないけど、強引に名前言って、使わないでと言ったらそれでしょ。アップしている時にうわっと思いましたよ」

 谷口「あとはほんま、よくしゃべるでしょ、京口は。ボクが1なら、10ですよ」

 京口「しゃべり続けるとエネルギー使うんですよ、一石二鳥でしょ!」

 よくしゃべり、よく掛け合う2人が同門になったのは、ワタナベジムの井上トレーナーのスカウトによる。小学校時代から京口を知っており、大学卒業後にプロとしてジムに誘うために出向いた大学の近畿リーグ。そこで対戦相手だったのが谷口だった。劣らぬ才能、甲乙つけがたい、そこで2人とも、の運びとなった。2人の評は、こうなる。「京口は大胆で華がある。谷口は控えめですけど、確実なボクシングをする。白と黒くらいの差がある」。

 当初は3年かけて2人を育てていく、チャンピオンにしていく計画が、最高のライバル心の効果か、そのペースはかなり早まって、早くも京口はベルトを手にした。その控室、2人での記念撮影を頼むと、快く快諾して、谷口は悔しそうにも、うれしそうにもベルトを指さしてのポージング。「谷口の刺激になれば」を真っ先に盟友の名前を挙げた京口の言動とともに、2人の良き対抗心がにじみ出るやりとりが続いた。

 2人の今の目標はもちろん世界王者。そこには主要4団体がある。どちらが先にその頂を極めるのか。しかし、そこで戦いは終わらないのが2人。口をそろえて言うことがある。その時が来るのが楽しみだ。

「統一戦ですね、2人で世界王者として」

 ◆京口紘人(きょうぐち・ひろと)1993年11月27日、大阪府生まれ。アマ戦績は66戦52勝(8KO)14敗。好きな選手はローマン・ゴンサレス。趣味はスニーカー集め、絵描き。161センチ。

 ◆谷口将隆(たにぐち・まさたか)1994年(平6)1月19日、兵庫県生まれ。アマ戦績は74戦55勝(16KO)19敗。好きな選手は内山高志、渡辺二郎。趣味はプロレス、岩盤浴。162センチ。

内藤哲也自戒の言葉「トランキーロ」新日でブレーク

内藤哲也(写真は2017年1月4日)

 2016年のプロレス界の流行語大賞を選ぶなら、おそらく「トランキーロ」で決まりだろう。新日本プロレスで大ブレークした内藤哲也(36)の決めぜりふだ。15年5月のメキシコ遠征から持ち帰ったロスインゴベルナブレスというユニットとともに、内藤が口にするようになったスペイン語。「トランキーロ! あっせんなよ」というセリフは、瞬く間に日本中に広まった。

 内藤の勢いは、2017年も健在だ。1月4日の東京ドーム大会で、悲願の棚橋弘至超えを果たした。2月11日の大阪大会では、マイケル・エルガンとの激闘を制し、王座防衛に成功した。内藤は、ロスインゴベルナブレス・デ・ハポン(LIJ)のメンバーとともに「今年も、我々LIJが、皆さんに楽しい時間をプレゼントしようかなと、思ってます。次の、大阪ビッグマッチ、つーまーり、大阪城ホール大会も、我々LIJが、大阪のお客様を熱くすることでしょう。まあ、大阪城ホール大会は、まだ4カ月も先の話なわけで、こういうとき、なんて言うかわかりますか? そう! まーさーに! トランキーロ!! あっせんなよ!」。会場は大歓声に包まれ、内藤コールが鳴りやまなかった。

 そんな内藤に、トランキーロを使うようになったきっかけを聞くと、意外な答えが返ってきた。「実は、あれは自分自身に向かってかけている言葉なんです」。自らの閉塞(へいそく)感を打破するために渡ったメキシコ。そこで出会った本家ロスインゴベルナブレス。ようやく悩みからの出口が見えかけた内藤は、試合中も積極的にリングに飛び出していった。そんな内藤に仲間のラ・ソンブラたちがかけた言葉が「トランキーロ」だった。

 「最初は内藤、落ち着け。慌てるな、みたいな言葉だった。ボクは楽しくて、プロレスがしたくて仕方がなかったけど、周りの仲間たちは焦らず、ゆっくりやれと言ってくれた」と内藤は振り返る。自分を生まれ変わらせてくれた仲間たちの思いを胸に、内藤はLIJとともに日本でブレーク。その勢いはとどまるところを知らない。

 観客や対戦相手に発する「トランキーロ!」の言葉は、長年の苦悩の末にトップの座をつかんだ内藤の自分に対する自戒の言葉でもある。2016年に大ブレークした内藤にとって、今年は勝負の年とも言える。滑り出しは好調だ。今後も勢いを落とさず、走り続けるために、内藤は「トランキーロ!」を発信していく。「焦らずに、自分の道を突き進め!」と。【プロレス担当=桝田朗】