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プロレスの月曜日

エルビス・プレスリーの夢はプロレスラーだった

エルビス・プレスリーの夢はプロレスラーになることだった-。伝説のロックスターはプロレスを愛し、死ぬ間際までプロレス映画を作ろうとしていた。元週刊プロレス、週刊ゴング外国人レスラー番のスポーツライター、トシ倉森氏(65)が生前のプレスリーを知るレスラーの証言をもとに、秘話を語ってくれた。【取材・構成=高場泉穂】

没後43年目の夏、エルビス・プレスリーの名前がニュースを賑わせた。プレスリーの孫、ベンジャミン・キーオさんが27歳の若さで亡くなったからだ。ベンジャミンさんはプレスリーの娘、リサ・マリーの長男で俳優兼ミュージシャン。プレスリーによく似た顔立ちと雰囲気を持っていた。7月13日、彼の訃報が報じられると、その話題は瞬く間に世界中に広がった。ビートルズ、ボブ・ディランにも影響を与えた伝説のロックスター、プレスリー。その偉大な功績は今もあせることはない。

プレスリーは実は大のプロレス好きだった。長く米マット界を取材してきた倉森氏は生前、プレスリーと交流があったレスラーからさまざまなエピソードを聞いてきた。「空手が好きで、高段者なのは知られていますが、プロレスが好きなことは今もあまり知られていないんです」。

1935年にミシシッピ州テュペロの貧しい家庭に生まれたプレスリーは、少年時代にテネシー州メンフィスへと移った。高校卒業後は電気工事のトラック運転手を務めながら、エリス・オーディトリアムなどのプロレス会場に出入りし、レスラーのかばん持ちをしていた。「エルビスはレスラーになりたかったんです。プロモーターには『お前は、やせっぽちだからだめだよ』とかけ合ってもらえず、チャンスはつかめませんでした」。

同時に音楽活動を続けていたプレスリーは、ラジオやコンサートで評判を得て1956年に出した曲「ハートブレークホテル」で大ブレーク。スター街道を歩んでいった。歌手として大成功した後も、プロレスへの愛は変わらなかった。ミッドサウス・コロシアムなど地元メンフィスのプロレス会場にはお忍びで頻繁に観戦。2階席の1番後ろや、ステージのカーテンの隙間から見たりしていた。また、マット界のスーパースター、ハーリー・レイスを自身のラスベガスのショーに招待したり、自宅のグレースランド内にリングを作り、私的なプロレス大会を開催したりしていた。58年に陸軍に入隊し、西ドイツに行く前まで付き合っていた彼女はペニー・バーナーという美しい女子プロレスラーだった。

2014年に来日したダニー・ホッジ氏(左)とトシ倉森氏(トシ倉森氏提供)

1977年の春、プレスリーはマネジャーを通し、憧れのプロレスラーへ連絡を取った。相手はNWA世界ジュニアヘビー級王座に長年君臨したダニー・ホッジ氏だった。1956年メルボルン五輪レスリング・フリースタイルミドル級銀メダリストでありながら、58年にはアマチュアボクシング全米最大の大会、ゴールデングローブのヘビー級王者も戴冠。日本の国際プロレス、日本プロレスにも参戦し、ジャイアント馬場、アントニオ猪木とも熱戦を繰り広げた。「レスリングのメダリストとボクシングの全米王者になったのはホッジさんだけです。今でも歴代最強のレスラーの1人。エルビスは彼の大ファンだったんです」。

プレスリーはプロレスの映画を作ろうとしていた。その中でレスラー役を演じるためにホッジ氏にトレーニング役を頼んだ。倉森氏はホッジ氏本人とマネジャーから後に、この話を聞いた。「エルビスはプロレスラーになりたかった夢を映画の中でかなえようとした。でも話はそこで止まってしまいます」。その約半年後の8月16日、プレスリーは自宅のバスルームで倒れて息を引き取った。42歳だった。

プレスリーの歌う、ミュージカル「ラ・マンチャの男」の曲「見果てぬ夢」は名カバーとして知られる。“いかに望みが薄く、いかに遠くにあろうとも、あの星の後を追う”。歌手として大成功したエルビスも、プロレスラーになるという一番の夢は最後までかなえられなかった。

◆トシ倉森 1954年(昭29)12月2日、長崎県長崎市出身。京都産業大学外国語学部英米語学科卒業後、79年に渡米し週刊ファイトの特派員として全米マット界を取材。81年にカリフラワー・アレイ・クラブの正会員となる。83年に帰国後、ベースボール・マガジン社に入社し、「週刊プロレス」の創刊号から主に外国人レスラーを担当。「相撲」編集部を経て、日本スポーツ出版社に入社し、「週刊ゴング」編集部勤務。退社後、SWSの設立メンバーとして広報担当。現在はスポーツライター。著書「これがプロレスのルーツだ!カリフラワー・レスラーの誇り」(電子書籍)、共著として上田馬之助自伝「金狼の遺言」。

ジュリア 怒りを力に変え終わりなき戦いに挑む

<プロレスの女>

プロレス界の輝く女性たちを紹介するコーナー第10回はスターダムのジュリア(26)。昨年10月にアイスリボンから電撃移籍。“お騒がせ女”として、故木村花さんとの攻防や新ユニット「ドンナ・デル・モンド(DDM)」結成などで話題を振りまいてきた。7月26日後楽園大会ではシングル主要ベルトの1つ、ワンダー・オブ・スターダムを初戴冠。成長を続ける彼女に、今の思いを聞いた。

美貌と圧倒的な強さでスターダムに嵐を巻き起こすジュリア(撮影・横山健太)

電撃移籍から約9カ月。ジュリアは「本当に、すべてが変わった」としみじみと語った。昨年10月14日、前所属団体アイスリボンとの交渉が終わらぬうちに、スターダムの後楽園大会に現れ、移籍を発表。その後、両団体の話し合いの末、正式に移籍が発表されたが、“お騒がせ女”として賛否両論を浴びた。その後、故木村花さんとの“ハーフ抗争”が勃発。同12月24日の初シングルで名勝負を繰り広げた。今は美女軍団「DDM」を率い、スターダム看板選手として確固たる地位を築きつつある。

ハーフで、元キャバクラ嬢。刺激の強い肩書をひっさげ、17年10月にデビューした。「ヘアメークの専門学校に行きながら、その学費を払うために都内のキャバクラで働いていました。そこのお客さんでプロレス好きの方がいて、同伴で見に行ったのがきっかけでした」。学校に通い、そのまま寝ないで働いていた当時のジュリアは、リングで死にものぐるいで戦う女性の姿に「元気をもらった」。自然と1人で観戦するようになり、アイスリボンのプロレスサークルに通い始めると、テレビ局の密着ドキュメンタリーの話が決定。そのままプロレスラー人生が始まった。

小波(左)を攻める

しかし、現実は厳しかった。「何もできなかった。受け身なんてとんでもない。前転、後転も危ういし、腕立て伏せもできない。そういうレベルだった。しかも元キャバ嬢、っていう目で見られるから、先輩たちの当たりはかなり強かった。でも、逆にそれで、『なんでこんなやつらに言われなきゃなんねえんだ。負けてたまるか』という気持ちが芽生えて打ち込めた」。怒りを力に変えた。

スターダムに嵐を巻き起こすジュリア(撮影・横山健太)

「死ぬときにプロレスラーになって良かったと思って死にたい」。ジュリアは移籍を決めた理由をこう語る。「(前所属は)小さい団体だったから、どんなに頑張っても雑用が多く自分の練習時間も取れない。お給料も少ないから、治療や自分磨きにお金をかけることができない。お金じゃないっていったら、すごいロマンチックで夢があってかっこいいかもしれないけど、自分が30歳、40歳になった時、体はどんどんボロボロになり、貯金もできませんでした。どうやって生活していくんだろう、って将来を考えた時に不安になって…。すべてプロレスのために生きる。それができるのはスターダムしかない」。トップになるために迷わず業界最大手に移る道を選んだ。

移籍後は「やりたかったこと、でもできなかったことを1つずつ今できるようになってきている」。特に今は体作りに力を入れる。コロナ禍でジムに行けない時期の3月にはトレーニング器具を購入し、“自宅ジム”を整備。この6月からは故木村花さんが通っていたパーソナルジムに声をかけてもらい、週4回本格的なボディーメークを始めた。「写真を見れば一目瞭然だけど、腹筋も割れてきた。私の試合スタイルはバチバチ系だから、それなりにダメージが大きい。それに耐えられる体作りもしている。プロレスラーである限り、終わりなき戦いです」。

20年7月17日、スターダムエクスプロードインサマー2020で小波(左)を攻める

ジュリアが目指すのは、「心を揺さぶるプロレス」だという。参考とするのは80年代から90年代にかけて日本中を熱狂させた全日本女子プロレスだ。「昔の全女のプロレスはすべてがリアルに見える。今は(リアルを)あまり感じることがなくて、そこが問題点というか…。全盛期の女子プロレスは人間の感情がすべてさらけ出されていた。リングの上はやるかやられるか、食うか食われるか。それに刺激を受けて、それを見た人が何かを感じる。私たちは人の感情を揺さぶらなきゃいけない。私ができるのはそれしかない。苦しい、悲しい、つらい、嫉妬、いろんな感情を隠さず出していきたい。それが少しでもスターダムや女子プロレス業界の刺激になればいい。それが今の時代に受け入れられるかどうかは分からないから、怖くもあるけれど…」。

5月に急逝したライバル木村花さんについては「まだ話せない…」。強烈なプロ意識と葛藤を胸に、さらに成り上がる。【高場泉穂】

スターダムエクスプロードインサマー2020で小波に勝利し拳を突き上げる

◆ジュリア 1994年(平6)2月21日、英国・ロンドン生まれ。イタリア人の父と日本人の母を持つ。アイスリボンの練習生を経て、17年10月にデビュー。18年にはAbemaTV「格闘代理戦争」で総合格闘技にも挑戦。19年10月にSNSでアイスリボン退団を発表し、同11月にスターダム正式入団。20年1月4日には新日本東京ドーム大会のスターダム提供試合に出場。162センチ、55キロ。得意技ステルス・バイパー、グロリアスバスター。

ノアDDT高木社長、動画ビジネスを語る

名称変更した動画配信サービス「WRESTLE UNIVERSE」をアピールするDDT、ノアの高木三四郎社長

DDTプロレスリンググループが17年から提供する動画配信サービス「DDT UNIVERSE」が5月12日、「WRESTLE UNIVERSE(レッスルユニバース)」(https://www.ddtpro.com/universe)に名称変更した。また、1月から同じくサイバーエージェントグループとなったプロレスリング・ノアの動画も見られるようになった。DDT、ノア両団体の高木三四郎社長(50)に、サービス改称の理由と今後の動画ビジネスについて話を聞いた。【取材・構成=高場泉穂】

◇   ◇   ◇

-まず名称を変えた理由を教えてください

このサービスでは、DDTだけでなく、ノア、DDTグループ団体の東京女子プロレス、ガンバレ☆プロレスなどさまざまな団体の試合が見られます。ただ、それぞれのファンにとって「DDT」という名前が入っていると、入りづらい部分がある。「DDT」ではなく「WRESTLE」とすることで、多くのファンの方に抵抗なく見ていただけると思い、変更しました。

-変わった点は

新型コロナウイルスの影響で、ノアは3月末から無観客試合を行い動画を配信していますが、それによって圧倒的に視聴者数が増えました。3月から4月にかけて、それまでの視聴者数の30%増となりました。大きく伸びたきっかけは3月29日のGHCヘビー級選手権、潮崎豪対藤田和之戦です。(王者潮崎と挑戦者の藤田が試合開始から約30分間、無接触でにらみ合いを展開。その後、壮絶な戦いとなり57分47秒で潮崎が勝利)。あれでめちゃくちゃ伸びたんです。プロレス史における事件や名勝負、ビッグマッチはやっぱり見られるということがあらためて分かりました。

-ノアはこれまで動画配信サービスを持っていませんでした。DDTと別に作ることは考えませんでしたか

ノアの過去の動画はほとんど日本テレビが持っていて、会社に資産として残っていないんです。今後資産を残していくうえで、提携のアベマTVで全部の試合を中継するのは難しい。それで、「ユニバース」で配信することになりました。別にゼロから作るとなると、お金も時間もかかる。「ユニバース」の形は、まだまだ十分ではないと思っていますが、そのまだまだの形に持ってくるまでに3年ぐらいかかっています。だったら今あるものにくっつけた方がいいと考えました。この資産というのが、大事なんです。DDTは97年の旗揚げから現在までの映像をほとんど持っているんですよ。一時期、他の媒体で配信してもらっていましたが、後にその権利を全部買い取りました。いまだに飯伏幸太(元DDTで現在新日本プロレス所属)の路上プロレスの動画を貸してほしいとテレビ局に依頼されることが多いです。コンテンツビジネスをやっていくのであれば、動画、選手の肖像権は資産になり、今後より大事になってくる。ノアの過去の動画を買い取るのは現段階では難しいので、ゼロから資産を構築していきます。

-プロレス界の動画サービスビジネスについて考えをお聞かせください

僕たちが始めたのは17年からですが、もうちょっと早くやっていれば…という思いはあります。WWEが14年に「WWEネットワーク」を始めた時、すぐにこれからの時代はこの定額サービスがスタンダードになると思いました。その他にも、モノ自体が売れなくなってきている、というのを他業界から学んでいたので、これは絶対プロレスを動画で見る時代がくるな、と。分かってはいたんですけど、当時は開発費用に3、4000万かかり、すぐに取りかかるのは無理でした。すぐ後に新日本プロレスもテレビ朝日と共同で「新日本プロレスワールド」を始めました。誰の目にも明らかなんですけど、WWEと新日本が大きく伸びたのは、その独自の動画配信サービスを持ったからです。今新しくテレビを買うと、配信系のデータがあらかじめ入っている。そこに新日本ワールドは入っているんですよね。そこは企業努力だし、すごいなと思います。

-レッスルユニバースの強み、独自性とは

間違いなく強い部分が一つある。とにかくいろんなプロレスを見られることです。ノアのような正統派から、DDTのエンタメ系、そして女子プロレス。現在は7500本の動画を提供していますが、さらに数を増やし、コンテンツの幅も広げていきたいと思っています。その中で、人気なども考慮し、内容を取捨選択していく予定です。

-今後の課題や目標は

新日本さんが約10万人の視聴者を持っているといわれている。最低でもその半分には、来年中にいきたいですね。海外の視聴者を獲得するためにも、英語サービスは大きな課題の1つ。今も一部の動画には英語実況をつけていますが、もっと充実させていきたいです。今までのデータで分かっていることですが、やはり見られるのは、試合なんですよね。いい試合を届けることが1番なんです。扱う団体が増えれば、扱う動画の本数も増えるので、その精査もしないといけないと思っています。現在、映像スタッフは常駐6人に外注3人。緊急事態宣言前から明けるまで、一番忙しかったのは彼ら映像班です。今後その人数は増やしたいです。いつでも募集しています!

世志琥、見た目と裏腹“ギャップ萌え”大ブレーク中

女子プロレスラーの世志琥(よしこ、26=SEAdLINNNG)が“ギャップ萌え”のSNS動画で大ブレーク中だ。動画サービスTikTok(ティックトック)での、こわそうな見た目と裏腹のかわいらしいお菓子作りの動画が話題を呼び、5月中旬現在、フォロワー数はTikTokで約20万人、ツイッターで約10万人を超えた。この人気をどう感じているのか、世志琥に聞いてみた。

「コロナ」と書かれた障子を破る(本人のTikTokから)

TikTokのフォロワーは20万人、ツイッターは10万人。この1カ月でSNS界のスターとなった世志琥は「ほんとに、人生変わったんじゃねーかぐらいの勢いだよ」とZoomの画面越しにうれしそうな笑顔を見せた。

新型コロナウイルスの影響で自宅待機となったのを機に、4月14日から1カ月連続投稿チャレンジをスタート。「コロナ」と書かれた障子を破ったり、浜崎あゆみ風のメークをするなどのユニークな動画で少しずつフォロワー数が増えていった。大きな転換点となったのは5月1日にあげたディズニーランド風のチュロスを作る動画。話題を集め、1日で約5万人ものフォロワーが増えた。「ちょうどディズニーランドが休園中で、行きたくても行けない人がたくさんいると思ったから園内で売ってるチュロスを再現しようと思ったんだ。それがこんなに反響を呼ぶとは…」。うれしい誤算だった。

眼光鋭く「作るぞ」とにらむ(本人のTikTokから)

ディズニーランド風のチュロスを作る動画でかわいい笑顔(本人のTikTokから)

その後も、世志琥の快進撃は止まらない。ディズニーシーのキャラクター、ダッフィーのオムライス、プードルクッキーなど、“映える”料理動画を続々投稿。眼光鋭くこちらをにらみ、「作るぞ、コノヤロー」といった荒っぽい言葉で説明する一方、手つきは丁寧で出来上がった料理は美しく、最後の試食後にとびきりかわいい笑顔を見せる。そのギャップが話題となり、フォロワーはどんどん増えていった。

ダッフィーのオムライスなど出来上がった料理は美しい(本人のTikTokから)

相棒の力も大きい。動画をプロデュースしているのが、あぃりDXさん(22)。90年代に一世風靡(ふうび)した全日本女子プロレスの故今井良晴リングアナを父に持ち、今年からシードリングの宣伝部長を務めている。連続投稿チャレンジを持ちかけたのもあぃりさんで、アイデア、編集など献身的にサポートしてくれているという。「あぃりちゃんがすごく自分のことを生かしてくれている」と世志琥。特技の料理が、人々が自粛するこの時期にうまくはまった。

浜崎あゆみ風のメークも(本人のTikTokから)

新たに注目してくれた人の多くはプロレスになじみがない。今いるのは所属選手4人の小さな団体。フォロワーの人を、会場へと誘導するのが今の目標だ。「TikTokを利用しているのは、本当に若い世代の子、小、中学生が多い。これからの女子プロレスやプロレスに必要なのも、そういう若い年齢層だと思うんだ。そういう子たちがちょっとでも興味を持ってくれて、会場に足を運んでくれたらいいなと思ってる」。

3月23日の試合を最後に団体も自粛期間に入り、自宅で1人練習する日々が続く。「プロレスラーなんで、リングの上に立って、お客さんに見てもらってなんぼ。早く試合がしたい。自粛が明けたら初めて見にきてくれる方も増えると思う。自分の中にあるプロレスLOVEな気持ちを爆発させて、みんなの心に届くプロレスをしたい」。日課となった動画制作に励みながら、再開の日を待つ。「コロナでストレスがたまる世の中だけど、うちの動画みて、楽しめよな。てめーら、コロナが収束したら、うちの試合みにこいよ! そこんとこ、よろしく」。【高場泉穂】

◆世志琥(よしこ)1993年(平5)7月26日、東京・葛飾区生まれ。11年にスターダムに入団し、同1月23日に美闘陽子戦でデビュー。15年に1度引退するが、16年にミャンマーで復帰とSEAdLINNNG入団を発表。160センチ、75キロ。得意技はダイビング・セントーン、ラリアット。

創始者三沢光晴の魂引き継ぐノアGHCヘビー級王座

新型コロナウイルス感染拡大の影響でプロレス興行はできない状況が続く。この機にプロレス界の主要ベルトの歴史をひもとき、その価値をあらためて探る。第3回はプロレスリング・ノアのGHCヘビー級王座。

   ◇   ◇

◆創設 01年に団体創始者の三沢光晴が創設。GHCはグローバル・オナード・クラウンの略で、地球規模の崇高なる王位を意味する。01年以降初代ベルトが使用されてきたが、19年11月2日の両国大会から新調。裏面は三沢のイメージカラーである緑が残された。

三沢光晴は初代GHCチャンピオンに輝く

◆絶対王者小橋建太 03年3月1日に三沢光晴を破り、第6代GHCヘビー級王座を獲得。以降13度防衛。04年4月に高山善広を破り8度目の防衛を記録した際に、秋山準が「絶対王者」と命名。05年、V13を達成した当時独身の小橋は嫁取り宣言も。「結婚はさ、勢いってこともあるからね。すぐあるかもしれないし、分かんないよ。芸能人なら国仲涼子がタイプだな」と話していたが5年後の、10年に演歌歌手のみずき舞と結婚した。腎臓腫瘍、度重なるケガを乗り越え、熱いファイトを見せ続けた鉄人として今も愛される。

2003年3月1日 小橋建太は三沢光晴(左)を破り、第6代GHCヘビー級王座を獲得

◆最年長戴冠 杉浦貴の47歳10カ月。18年3月11日の横浜大会で拳王を破り、最年長記録とともに最多4度目の戴冠を果たした。拳王の「丸藤、杉浦の時代は終わった」の言葉に反発し、挑戦を表明。拳王の強烈な蹴りや張り手に耐え、最後は回転式フロントネックロックで失神させレフェリーストップ勝ち。若さを見せつけ、「オレがこれから時代をつくる」と宣言。

◆最多防衛 杉浦が第16代時代に達成した14度。11年5月13日から英国、ドイツで異例の3日連続海外防衛戦を決行。英国でデイブ・マスティフ、鈴木鼓太郎を破った後、15日にドイツ・オーバーハウゼンでクラウディオ・カスタニョーリに勝利。小橋建太と並んでいた連続防衛記録を更新した。

杉浦貴は最年長戴冠、最多防衛、最多戴冠の記録を持つ

◆最年少戴冠 第32代王者清宮海斗の22歳5カ月。18年12月16日横浜大会で、王者杉浦貴を猛虎原爆固めで破り、史上最年少戴冠を達成。「ノアの新しい顔はオレだ!」と高らかに宣言。その後も三沢を表す緑のコスチュームを身につけ、若きエースとして団体をけん引。12年12月以来約7年ぶりに進出した19年11月の両国国技館大会では、メインで拳王に猛虎原爆固めで勝利し、6度目の防衛に成功。「業界2位と言わず、1位にいきたい。みんなで一緒に1番まで駆け上がっていきましょう」と約束した。

2018年12月16日 清宮海斗は横浜大会で、王者杉浦貴を猛虎原爆固めで破り、史上最年少戴冠を達成

◆最多戴冠 杉浦貴(第16、25、27、31代)と潮崎豪(第15、17、26、33代)の4度。2人とも10年以上ノアのトップ戦線を戦い続け、今も衰えず。現王者潮崎は20年1月4日に清宮から王座を奪取。3月29日に無観客で行われた後楽園大会では、藤田を下し、初防衛。藤田とは試合開始から約30分間距離を取ったままにらみ合うという異例の試合を展開。その後、ようやく組み合い、最後は豪腕ラリアットで勝利。テレビカメラに向かって「アイ・アム・ノア」と豪語した。興行中止が続く中、2度目の防衛戦は未定だ。

最多戴冠の記録を持つ潮崎豪

全日本の至宝 多くのスターを生み出した3冠ヘビー

新型コロナウイルス感染拡大の影響でプロレス興行は止まり、各団体のトップ戦線は、ほぼ休戦状態にある。この機にプロレス界の主要ベルトの歴史をひもとき、その価値をあらためて探る。第2回は全日本プロレスの3冠ヘビー級王座。

   ◇   ◇

◆創設 インターナショナル、UN、PWFという由緒ある3本のヘビー級ベルトを統合して創設されたもの。最強を決めようと機運が高まる中、89年4月18日、大田区体育館大会でインター王者ジャンボ鶴田が、UN、PWF両王者スタン・ハンセンを下し、初代王者となる。3冠戦は天龍と鶴田の鶴龍対決や90年代の三沢、小橋、川田、田上らによる四天王プロレスなど時代ごとに名勝負、スターを生み出していった。

89年4月18日、初の3冠統一を果たしたジャンボ鶴田は両肩にベルトを掲げる

◆ベルト統合 3冠ヘビー級王座が定められてから24年4カ月となった13年10月、老朽化により1本に改められ、3本のベルトはジャイアント馬場の遺族に返還された。3本をかけた最後のタイトル戦は王者諏訪魔対挑戦者潮崎豪で、諏訪魔が防衛した。19年2月19日に両国国技館で行われたジャイアント馬場没20年追善興行では当時の3冠王者宮原健斗が馬場家から借りた旧ベルト3本を体に巻いて登場した。

◆最年長戴冠 第29代王者天龍源一郎の52歳2カ月。02年4月13日全日本武道館大会で、王者川田が負傷返上で空位になっていた王座を武藤敬司と争い、垂直落下式ブレーンバスターで勝利した。前年01年に天龍は新日本所属だった武藤に敗れ、王座を流出させていた。武藤は02年に全日本に電撃移籍したが、天龍は1年前の借りをきっちり返した。

02年4月13日の全日本武道館大会で武藤敬司にパワーボムを見舞う天龍源一郎。最年長戴冠となった

◆最年少戴冠 第55代王者宮原健斗の26歳11カ月。16年2月12日後楽園ホール。宮原はゼウスとの王座決定戦でジャーマンスープレックスホールドを決め、勝利。「小さい頃からの夢をつかめた。俺たちの世代で新しい輝きを作っていく」と決意を語った。宮原はその後、57、60、62代と4度戴冠。「最高ですかー」の決めぜりふとともに宮原時代を構築し、62代時代には川田と並ぶ最多V10を達成した。

宮原健斗は16年2月に最年少戴冠、20年2月には最多タイの10度目の防衛に成功

◆唯一の4冠同時戴冠 第33代小島聡が達成。05年2月16日代々木体育館大会で、小島聡が川田を破り初戴冠。そのわずか4日後の2月20日両国国技館大会で、新日本のIWGPヘビー級王者で元パートナーの天山広吉と両タイトルをかけて対戦し、59分49秒でKO勝ち。初の4冠王者となり、「オレみたいなサラリーマン上がりのレスラーが、4本のベルトをつかんだ。たくさんの人に夢、希望、元気を与えられればいい」とコメントした。「試合後にはIWGPベルトを投げ捨てて、花道に向かった。追いかけてきた中邑ら新日本勢に向かってまくし立てた。『よく聞け。オレは元新日本じゃない。全日本の小島だ』」(翌日本紙から)。その後、陥落するまでIWGPのベルトは巻かなかった。

05年2月の新日本両国大会で、天山広吉(左)に強烈なローリングエルボーをぶち込む小島。初の4冠王者となった

◆最多戴冠 諏訪魔の7回(37、43、46、49、54、58、63)。20年3月23日、後楽園大会で王者宮原健斗を破り、2年5カ月ぶり7度目の返り咲きを果たした。史上最多11度防衛をかけた宮原と最多記録更新をかけた諏訪魔の戦いは30分超の大熱戦となり、諏訪魔がドロップキックから岩石落とし固めに持ち込み勝利した。感染防止のため、1200人超の観客がマスクをする異様な雰囲気の中での試合となったが、諏訪魔は「気持ちは今日が一番最高だったんじゃないかな」と喜びをかみしめた。初防衛戦は未定だが、無観客テレビマッチでの王者諏訪魔の動きに注目だ。

3本のベルトをかけた最後のタイトル戦は王者諏訪魔が防衛

新日本IWGPヘビー級 初代王者はアントニオ猪木

新型コロナウイルス感染拡大の影響でプロレス興行は止まり、各団体のタイトル戦線も休戦状態だ。この機にプロレス界の主要ベルトの歴史をひもとき、その価値をあらためて探る。第1回は新日本プロレスIWGPヘビー級王座。

新日本IWGPヘビー級選手権 マサ斎藤を下し王者に輝いたアントニオ猪木は祝杯をあげる(1987年6月12日)

◆創設 アントニオ猪木が、世界に乱立するベルトを統一して、真の世界王者を作るためのリーグ戦を構想。83年6月2日、「IWGP=International Wrestling Grand Prix」第1回を開催。日本、北米、米国、中南米、欧州代表計10人で争われ、米国代表ハルク・ホーガンが決勝で猪木を失神KOさせ、優勝を果たした。第5回大会の87年からタイトル化され、初代は猪木。100キロ以上の選手が対象だったが、現在制限はなし。

武藤敬司をスリーパーで攻める天龍源一郎。49歳10カ月は最年長戴冠(1999年5月3日)

◆最年長戴冠 第25代王者天龍源一郎の49歳10カ月。タイトル戦は99年12月10日、大阪府立体育会館。当時の王者武藤敬司に北斗ボム2連発を決め、26分32秒で勝利。「大阪へ向かう新幹線の中で『リストラされたっていうおっさんに、頑張ってくれ、と言われた』。(中略)まだまだ現役であることは『きょうは肝臓が破裂するまで飲みますよ』の言葉に凝縮されていた」(翌日本紙)。これでベイダーに続き、日本人選手初の全日本3冠ヘビー級王座との両メジャー制覇を達成。華麗な技を持つ武藤に逆水平など武骨な攻めに徹し、昭和のプロレスラーの意地を見せた試合だった。

天山広吉を倒し史上最年少でIWGP王者となった中邑は雄たけびを上げる(2003年12月9日)

◆最年少戴冠 第34代王者中邑真輔の23歳9カ月。03年12月9日、王者天山広吉に逆十字固めで勝利。最年少、かつデビュー最速戴冠。その後、大みそかのDynamite!!でイグナチョフ(ベラルーシ)と、年明け1・4東京ドーム大会で高山善広と戦うなど連戦のダメージで、2月に王座返上。当時は総合格闘技ブーム。中邑は王者として総合のリングでも活躍し、若きエースとしてプロレスというジャンルのプライドを守った。

最多戴冠は棚橋の8度。ケニー・オメガを下しベルトを巻いてエアギターを披露(2019年1月4日)

◆最多戴冠 棚橋弘至の8度。06年2月の初戴冠以来、新日本のエースとして団体の人気回復に貢献してきた。膝のけがを乗り越え、19年1・4ドーム大会で約4年ぶり8度目の王者に返り咲き、「『初めて巻いたよう』と新鮮な喜びにつつまれた」(翌日本紙から)。

最多防衛はオカダ・カズチカ。ベルトを巻きポーズを決める(2013年5月3日)

◆最多防衛 オカダ・カズチカが12度の最多連続防衛、30度の最多通算防衛記録を持つ。20年1月5日のIWGPヘビー、同インターコンチネンタル(IC)両王座戦で内藤に敗れ陥落も、その実績は現在の日本プロレス界でずぬけている。オカダはIWGPヘビー級王座を「金メダル」と表現。昨年12月の王者時代には「世界一の団体のチャンピオンだから、世界一のプロレスラー。僕以上のことができる人はいない」と言葉を残している。

◆返上 王座返上、剥奪合わせ過去10度。88年初代王者猪木がジョギングで左足を痛め返上。第3代藤波、第16代橋本はともに日米ソ3国代表トーナメントにベルトをかけて権威を高めるため。第22代蝶野は身内の不幸。第26代佐々木は川田に敗れたため。第29代藤田は右アキレス腱(けん)断裂。第34代中邑は前述。第37代ボブ・サップは総合の試合に藤田に敗れたのをきっかけに返上。第44代ブロック・レスナーは契約問題により剥奪。第52代棚橋は09年G1準決勝中邑戦で右目眼窩(がんか)内側壁骨折で長期離脱のため。

長州力SNSでも革命戦士…バズる秘密は「塩修正」

昨年6月にプロレスラーを引退した長州力(68)のツイッターが話題を集めている。昨年12月末の開設以来、“ハッシュドタグ”“井長州力”など数々の珍ツイートでバズり続け、現在のフォロワー数は40万人超え。3月にYouTubeチャンネルを開設するなど革命を続ける長州力のSNSの秘密を、スタッフに聞いた。

長州力(2020年2月22日撮影)

長州力のツイッターは自由だ。「ところで源ちゃん(天龍源一郎)いますか?」と個人的なやりとりに使ったり、おにぎり、ヘビなど意味不明の絵文字も多用。解読できない面白さが話題となり、昨年12月の開設からわずか3カ月でフォロワー数は40万人を超えた。

その魅力について長州本人へのインタビューを申し込んだところ、NG。「谷やん」としてツイッターにも登場する谷口マネジャーに理由を聞くと、「ツイッターについていろいろと質問を受けると、『あれ?おかしいのかな?』と思ったり、自然なつぶやきができなくなるのではと危惧しています」と回答。代わりにツイッターを始めた理由など事情を教えてくれた。

「昨年6月に引退し、悠々自適に暮らしている中で、時間もあるしツイッターでもやってみようという本当に気楽な気持ちで開設しました。本人はツイッターのことなど知らないので、最初の頃は奥さんにLINEで文章を送って、奥さんからアップしてもらっていました。今年2月に沖縄に行った頃、自分でも投稿したいという感じになりまして、やり方をみんなで教えました。基本は本人→奥さんから投稿のスタンスでお願いしたのですが、我慢できないのか自分でも投稿し始めていきました。それが孫の全裸写真投稿事件につながっていきます。あれに懲りたのか、本人もかなり慎重になっていますね」。

「事件」が起こったのは3月11日。長州は孫由真くんの入浴写真を投稿。その股間が丸出しだったため、コメントが殺到し、数時間後にスタッフが削除した。その後、ブログを更新した長州は「うそだろ…まだ生後7カ月だぞ…!?」「規制だらけだな」と納得いかない気持ちをつづった。それでも長州の自由さは変わらなかった。翌12日には最大のバズりが起こる。ハッシュタグを間違え、「ハッシュドタグ」「井長州力」とツイートすると瞬く間に何十万もの「いいね」がついた。

3月には、コンビニエンスストアチェーンのファミリーマートから声をかけられたのを機に、YouTubeチャンネルも開設。元新日本で現在WWEのスーパースター中邑真輔との対談など長州独特の語りが楽しめるコンテンツをそろえ、登録者数は1カ月で3・7万人となった。

SNSで人気者となった今でも谷口氏らスタッフは長州の自由なツイートに目を光らせるが、「修正することはほとんどありません。しても、ほんの少し塩をかける程度です」。新型コロナウイルスの感染が広がる中、長州のSNSはまだまだ我々を癒やしてくれそうだ。【高場泉穂】

<長州力のツイッター用語と使用例>

▼セーブ…フォロワーの誤り。「なんだかセーブが突然増えてますね」(1月24日)

▼井…「ハッシュタグ」の記号である#を誤って漢字の井で表記。「井長州力」(3月12日)

▼ハッシュドタグ…「ハッシュタグ」の誤り(3月12日)

<登場する主な人物>

▼慎太郎…長女有里さんの夫、池田慎太郎氏。「慎太郎いますか?連絡ください!?」(19年12月27日)

▼正男…元レフェリーのタイガー服部氏

▼武田くん…ノア・グローバルエンターテインメントの武田有弘社長。「武田くん!正男は間違いなくニューヨークのトランプだよ!」(19年12月27日)

▼栗ちゃん…担当の美容師。「栗ちゃん、少しおくれるかもわかんない」(1月28日)

◆長州力(ちょうしゅう・りき)本名・吉田光雄。1951年(昭26)12月3日、山口県周南市生まれ。73年に新日本入り。74年8月8日のエル・グレコ戦でデビュー。84年12月に新日本を離脱し、ジャパンプロレス旗揚げ。87年に復帰。98年1月に引退も01年に復帰した。02年5月に新日本を退団。03年3月にWJを旗揚げも崩壊。その後、リキプロを設立。19年6月に引退。184センチ、120キロ。得意技はリキラリアット、サソリ固め。

DeNAをV字回復させた男はなぜ全日本を選んだか

今年1月、昨年までプロ野球DeNAのボールパーク部部長を務めていた五十嵐聡氏(41)が全日本プロレス副社長に就任した。ベイスターズの観客動員数を数年で劇的に伸ばした仕事人が、次のステージとして全日本を選んだ理由とは-。就任から3カ月を迎えた五十嵐氏に就任の経緯や今後のプランを聞いた。

全日本プロレス新副社長として改革を進める五十嵐聡氏

故ジャイアント馬場が48年前に創設した全日本プロレスに頼もしいフロントが加わった。今年1月に就任した五十嵐副社長だ。元高校球児で前職は横浜DeNAベイスターズのボールパーク部部長。横浜では、平日の集客にも困る状況から、ファンサービスを充実させることで、毎試合満員となるまで人気を回復させた。昨年、その経験を別のスポーツに生かそうと動き始めた時、さまざまなスポーツ団体、チームからオファーが届いたという。その中で選んだのが全日本プロレスだった。

同じスポンサーを持つ縁で初めて全日本プロレスを観戦したのは昨年2月の横浜文化体育館大会。それが五十嵐氏にとって、初のプロレス観戦だった。その後福田剛紀社長と話を進め、昨年10月に入社を決断した。決め手は“シンクロ”だった。「試合を見たり、話を聞いて、ベイスターズで経験してきたことが全日本プロレスにシンクロしたんです。自分の経験が生かせる、近いストーリーがあるなと思いました」。

重なるキーワードは「継承と革新」。ベイスターズは11年にオーナー企業がDeNAとなって以来、青のチームカラーを踏襲し、地元横浜とのつながりを大事にするなど伝統を守る一方、球団マスコット、チケットの売り方、試合時のエンターテインメントなど他の部分を大幅に革新。旧来のファン層に加え、新たなファンを獲得することに成功した。「全日本プロレスもあと2年で50周年。歴史と、素晴らしい遺産がある。それを生かしながら、今の時代に合った、新しい見せ方を追求していきたい」。全日本でも、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田ら過去のレジェンドが築いていた伝統を大切にしつつ、思いきった新たな戦略で新旧ファンの増加を目指す。

プロレスに関しては、ほとんど知識がない状態からのスタート。現在は選手、スタッフとコミュニケーションを取りながらプロレスを一から学んでいるという。「不安がないといったらうそになるんですけど、逆にその部分はみなさんと会話をすることによって補っていけばいい。逆に、知らないからこそ新しい目線で新たな発想がわくんじゃないかという思いがあります」。

元上司のベイスターズ三原一晃球団代表からも背中を押された。「三原さんは、野球はまったくの素人だった。でも、高田繁さんがGMだったときにホームもビジターも全部一緒にまわって、野球の見方、駆け引きなど1年間隣で必死で学んだと聞いていました。ぼくが全日本に来るときにも『おれがそうだったように謙虚に学ぶ姿勢で教えてもらえば絶対わかるから』と送り出していただきました」。

幸い、全日本には渕正信(66)、和田京平レフェリー(65)らプロレス界の生き字引がいる。「過去の正確な情報は、それを体験している人からしか得られない。渕さん、京平さんにかわいがっていただき、勉強させてもらっています」。新型コロナウイルス感染拡大の影響で全日本も興行を中止、延期するなど大変な状況が続く。そんな中、渕からは励ましのショートメールが度々届く。「こういう時にリーダーはどっしり構えてなきゃだめだ。馬場さんも会社が大変な時でも常に『大丈夫、大丈夫』と言ってた」。大先輩に支えられながら苦境でも前を向く。

頭の中に変革のプランはある。だが、コロナの影響により、短期的に収益を上げることを優先せざるをえない状況だ。本来ならば、顧客情報を把握するために自社のチケット販売システムを新たに構築。女性向けや、来場者全員にプレゼントを行うなど一風変わったイベントゲームを企画する予定だったが、興行はいつ再開できるか分からない。今注力するのは、動画サービス「全日本TV」の普及とコンテンツの充実。アーカイブ動画を増やして古いファンを引きつけるほか、字幕、英語解説を付け、海外のファン獲得も目指す。6日には無観客試合の生配信にも挑戦した。

見る人にいかに喜んでもらうか。大事なのは「一体感の醸成」だと五十嵐副社長は言う。「選手もお客様も含めて会場の一体感をどう醸成していくか。そこに団体とファンとの強いロイヤルティー(信頼、つながり)が発生してくる」。3月23日後楽園ホールではその「一体感」を高めることに成功した。王者宮原健斗対諏訪魔の3冠ヘビー級戦に向け、武藤敬司、川田利明ら第三者が試合の魅力を語る動画を作成。当日までに期待感を盛り上げる試みを行ったところ、当日のタイトル戦は大盛況。終始選手へのコールが響き、諏訪魔が勝利すると会場の熱は最高潮に達した。「こんな社会情勢の中で来場していただくありがたさもありましたけど、それ以上にこの試合を楽しみにしていただいたお客様の思いが爆発した。それを目の当たりにした喜びがありました」。

2年後の団体創設50周年イヤーには、大きな会場のビッグマッチを予定している。それまでは後楽園ホールを中心に地道に観客数を伸ばし、地固めに励むつもりだ。「それまではたとえ状態がよくなったとしても、復調したというイメージを世の中には与えられないと思う。まずは地固めをしっかりして、徐々に新たな全日本プロレスを見せていく。そして2年後、全日本プロレスが息を吹き返したということを世間に広く認識していただけるようにしたいです」。一体感の積み重ねを、大きな夢につなげる。【高場泉穂】

全日本プロレス新副社長の五十嵐聡氏

◆五十嵐聡(いからし・さとし)1978年(昭53)6月27日、新潟県長岡市生まれ。中越高では高2のセンバツ、高3の甲子園に投手として出場。上武大を経て、01年ゼビオ入社。07年から星野リゾート入りし、「星のや軽井沢」支配人を務める。12年からプロ野球西武ライオンズ。同年秋横浜DeNAベイスターズ入りし、14年からボールパーク部部長。18年からはバスケットBリーグ川崎の立ち上げにも尽力。20年1月、全日本プロレス副社長就任。家族は妻、長男、長女。趣味はランニング。

オカダ・カズチカ、日曜早朝ラジオでレインメーカー

オカダが日曜6時の男になる。新日本プロレスの「レインメーカー」ことオカダ・カズチカ(32)の初冠ラジオ番組「オカダ・カズチカ SUNDAY RAINMAKER」(TOKYO FM毎週日曜午前6時~同30分)が5日、始まった。念願の冠番組スタートに合わせ、ラジオの魅力、番組の展望を語ってもらった。

新番組「オカダ・カズチカSUNDAY RAINMAKER」をスタートさせたオカダ・カズチカ(撮影・たえ見朱実)

プロレスの人気選手オカダの初ラジオ番組が始まった。放送時間は日曜朝6時から30分。夜のイメージが強いプロレスラーには縁のない時間に思えるが、オカダはそこに価値と新鮮さを見いだしている。

「正直、自分たちプロレスラーは日曜の朝にあまり関係がない人間。自分も平日、休日関係ない生活をしている。だからこそ、これを機に日曜の朝の大事さを知りたいし、日曜を充実させようと思っている方々に元気になってもらえる番組にしたい」

番組内では、オカダおなじみの「3つ言わせてください」のマイクパフォーマンスにちなみ「Sunday Morning Three」と題したコーナーを設け、3つのテーマを軸にトークを展開。「週刊プロレスニュース」コーナーでは、プロレスの見方や最新ニュースなどを易しく伝える。初回放送は自己紹介が中心。2回目では母富子さんとのほっこり電話トークを届ける予定だ。

今後ゲストを呼ぶことも検討中だが、あえてプロレスラーはNGにする。「レスラーだと、ぼそぼそ話したり、滑舌が悪かったり、朝向きな人はいないと思うので(笑い)、はきはき話せる、さわやかな声の人に来てほしいですね」。朝にふさわしく、さわやかな番組作りを心がける。

IWGPヘビー級選手権試合 初防衛戦を勝利で飾ったオカダ・カズチカ

ドロップキックを見舞うオカダ・カズチカ

オカダが、ラジオにはまったのはここ数年のこと。それまでは暇があれば動画サイトやテレビを楽しむことが多かったが、釣りに出かける車中、家で過ごす時に何げなくラジオをつけるようになり、その気軽さ、豊かさに気付いた。「話をするだけでこんなに面白いことがあるんだ、と思いました。ぷぷっと笑っちゃうことがよくあります。運転中はテレビも見られないし、本も読めない。それでもラジオを聴けば面白い情報や話、知らない曲や、交通情報も流れたりする。すごくいいんです。最近は家にいる時もラジオをかけることが増えてきました」。

自分が世界を広げることができた分、ラジオ離れの人が聴くきっかけを作りたいと願う。「自分をきっかけにラジオっていいんだな、って知ってもらいたい。それはプロレスと一緒です。プロレスを多くの人に届けたいと思うのと同様に、ラジオの良さを知ってもらいたい」。ラジオもプロレスも古くから愛され続けるエンターテインメント。自分の番組を通して、相乗効果を狙う。

飯伏幸太(奥)にレインメーカーを連発するオカダ・カズチカ

本業のプロレスでは、新型コロナウイルス感染拡大の影響で1カ月以上試合ができない状態が続く。その中でもオカダは前向きの姿勢を崩さない。「いつでも試合ができるように準備はしている。また、いつもできない体のケアに時間を使えています。痛めているところも長い間休まないと治らない。だから、プラスにとらえています。試合が再開できた時に、オカダ、コンディションいいじゃん、って見てもらえるように整えていきます」。

世界中で外出が制限される今だからこそ、家の中で楽しめるラジオの価値は大きい。「自粛で外出もできないかもしれないけど、朝から笑わせてもらった、元気もらった、きょうも家の中でできることやってこう、掃除しよう、こんな時でもそう思って、楽しんでもらえる番組にしたい。2020年はコロナの年じゃない。2020はオカダのラジオが始まった年。新日本プロレスの年。そうこれから持っていくんです。ワールドプロレスリングに負けないぐらいの長寿番組に…って、あれは50年やってましたっけ?(笑い)。とにかく長く続けられるようがんばります」。【高場泉穂】

コーナーに上がりレインメーカーポーズをとるオカダ・カズチカ

◆オカダ・カズチカ 本名岡田和睦。1987年(昭62)11月8日、愛知県安城市生まれ。中学校卒業後にメキシコにあるプロレスラー養成学校闘龍門に入門し、04年8月にメキシコでデビュー。07年8月に新日本プロレス入り。12年2月には棚橋を下し、初めてIWGPヘビー級王座を獲得。同年8月、初出場のG1クライマックスで史上最年少優勝。IWGPヘビー級は第57、59、63、65、69代王者で通算29度の最多防衛記録を持つ。65代王者として12度の防衛も1代では最多。得意技はレインメーカー。191センチ、107キロ。

◆プロレスラーの主なラジオ冠番組 アントニオ猪木は、過去にニッポン放送「アントニオ猪木 闘魂・ザ・ワールド」、FMヨコハマ「日曜夜は馬鹿になれ 847ダー!!」など数番組を経験。武藤敬司は、96年に文化放送で「武藤敬司の喝!」を担当していた。

マーベラス彩羽匠“脱・長与千種”で描く未来予想図

<プロレスの女>

プロレス界の輝く女性たちを紹介するコーナー9回目は、女子プロレス界のレジェンド長与千種が主宰するマーベラスのエース彩羽匠(27)。恵まれた体とパワーを生かし、最近は他団体のマットでも活躍。女子プロレス界のさらなる活性化とともに、「脱・長与」を目指す。

ポーズを決める彩羽匠(撮影・中島郁夫)

彩羽はその日、古巣の興行を見事に食った。今年2月8日、女子プロレススターダム後楽園ホール大会。メインでワールド・オブ・スターダム王者岩谷麻優が、WWEへの移籍が決まっていたディアナのエースSareeeの挑戦を受ける予定だったが、前日7日にSareeeが発熱。彩羽に代役の話が舞い込んだ。

「本当はチケットを買っていて、客席で見る予定だったんですよ。でも前日夜に長与さんから『お前明日参戦だ。リングに立つんだよ』と電話がかかってきて…」。とまどいながらの参戦だったが、そのチャンスをものにした。メインに急きょ組まれた岩谷との2年ぶりのシングルは満員の会場を爆発させた。170センチの恵まれた体から繰り出す力強いキック、投げ技で細身の岩谷を容赦なく攻め立てる。鈍い蹴り音が響く度にどよめきが起こる。最後は師匠長与から伝授されたランニングスリーで3カウントを奪取。試合後には、オーナー企業がついて勢いにのるスターダムに対し、「引きずり下ろす団体がいても面白くないですか?」と団体抗争まで持ちかけ、存在感を存分に見せつけた。

笑う彩羽匠(撮影・中島郁夫)

長与千種というプロレスラーと出会い、人生が変わった。世代は違う。高校生の時、たまたまYouTubeで北斗晶対神取忍(93年4月2日、横浜アリーナ)の試合を観戦したことがプロレスにはまるきっかけとなった。すぐに、興味を持った神取忍の自伝をネットオークションで落札。読むと、そこには尊敬できる相手として長与の名前が記されていた。最初に見た長与の試合は伝説の髪切りマッチ(85年8月28日、大阪城ホール)だった。

「何度もお客さんの顔が映ったんですよ。泣いてる顔。喜んでる顔。心配している顔…。なんでこんなに流血してまで戦うんだろうという疑問を持ちながら見ていたんですが、お客さんが悲鳴をあげているのを見たとき、この人たちも戦っているし、選手はこの人たちのために戦っているのかなと感じて。人からこれだけ支持されるのって、すごいかっこいい。そうなりたい、と思いました」。

安納サオリ(左)にキックを浴びせる彩羽匠(撮影・中島郁夫)

当時は剣道に打ち込み、競技での大学推薦も決まっていたが、プロレスラーになりたい気持ちは膨らむばかり。家族に反対され、1度は大学進学するが、入学してすぐにSNSの「ミクシィ」を通じて長与にメッセージを送った。すぐに返信があり、東京に会いにいった。「長与さんには、大学卒業まで待てと言ってもらったんですが会ったことで心が止まらなくなりました」。後日、部活の休みの日に再びプロレスを見るために上京。その時見たスターダムに入団することを即決した。

13年に女子としては異例の両国国技館デビューを果たしたが、2年後に長与がマーベラスの旗揚げを発表。心が動いた。育ててくれたスターダムへの恩義もあり、引き留めもあったが「自分に正直になろう」と退団を決意。長与に「長与さんのもとでもう1度プロレスを学びたいです」と申し出て、移籍が決まった。

テープを浴びる彩羽匠(撮影・中島郁夫)

長与には文字通り、一からたたき直された。2人きりの寮生活。まず、教えられたのは立ち方だった。「まず『リングに立て、ここにお客さんがいると思え』と言われて。すぐ『お前、指先、足先まで神経入ってんの?』と怒られました。『髪の1本1本も全部武器』『眼球の動きさえも怠るな』とか。今でも覚えています」。どうやって見ている人を引きつけるか。その意識改革に特化した練習が2週間ほど続くと、今度は増量。1食パスタ6人分など長与が作る大量の食事を数時間かけて腹におさめ、数カ月で63キロから10キロの増量に成功した。

長与千種の弟子で、シードリングをけん引する彩羽匠

厳しい指導を受け止め、彩羽は日本の女子プロレス界トップの1人となった。昨年12月には長与から団体代表の座を譲り受け、いまはマッチメークや経営に苦心する。今の目標は「脱・長与」だ。「長与さんの名前が強すぎる。自分がいい時も悪い時も「長与の~」と言われる。あれだけ強烈な存在を上回らないと、その冠は取れない。簡単ではないけど、自分をもっと世間に売り出して、どうにかして、自分たちの力でお客さんをいっぱいにしたい」。選手兼代表として、勉強の日々が続く。

◆彩羽匠(いろは・たくみ)1993年(平5)1月4日、福岡市生まれ。12年にスターダムに入団し、13年2月、両国国技館大会でデビュー。15年2月に長与が旗揚げしたマーベラスへ移籍。19年12月から、長与に代わりマーベラス代表となる。170センチ、74キロ。得意技ランニングスリー。

モスクワ五輪「幻の金メダリスト」谷津嘉章の思い

昨年右足を切断し今年6月に「義足プロレスラー」として復帰する谷津嘉章(63)は、モスクワ五輪時に犠牲になった「幻の金メダリスト」。世界的な新型コロナウイルス感染拡大による東京オリンピック(五輪)開催危機の中、自分の経験をもとに五輪を目指す選手へ助言を送った。

 ◇  ◇  ◇

「谷津って男はとことん五輪に見放された男。縁がないみたいです」と谷津は笑った。レスリングで76年モントリオール五輪フリースタイル90キロ級に出場し、8位入賞。80年モスクワ大会は金メダルを期待されながら政治的事情による日本のボイコットで出場できなかった。プロレスラー転向後、日本レスリング協会から声がかかり、88年ソウル五輪を再び目指したが、世界連盟がプロの参加を禁じたため再び五輪の舞台を踏むことはなかった。

アマチュアレスリング時代の谷津

開催が危ぶまれる今夏の東京五輪と、80年モスクワ五輪の状況は重なる。もし開催にこぎつけたとしても、世界中の選手が最高のコンディションで日本に集結するのは難しい状況だ。過去に五輪に出場できずに涙をのんだ谷津が考える五輪とは「世界の祭典」。祭典にならないのなら、1年延期すべきと提案する。「一個人の意見ですが、コロナの問題が停滞して、安全宣言をしたとしても、アジア地域ということで『行っても大丈夫なのか』という風評が残る。1年間待って、同じスケジュールでやれれば今よりももっと安心してできると思う」。

また、予想外の事態で進んでいない五輪代表選考についても思いをはせた。「まだ、代表は半分も決まっていない。となるとここまでの結果、データで選手を決めていくと思う。最後の代表選考で起死回生をかける連中は却下される。協会の線引きでどういう選手を選ぶのか。どうしても、公平ではなくなる。その辺は選手も覚悟しなくてはならない。だけど選ばれても、五輪が中止になればもれなくばっさり切られる。僕は、ばっさり切られた人間。4年をかけて、照準を合わせて調整しているから、いま調整している選手らの気持ちは理解できます」。

モスクワ五輪に出場できなかった谷津はすぐにプロレスラーに転向した。アマレス選手としてピークを迎えながら次の84年ロサンゼルス五輪を目指さなかったのは「魅力がなかったから」と言う。「モスクワ五輪の時は、西側諸国がボイコットをした。だから、西がそれをやったってことは、ソ連や共産圏の国も報復でボイコットするだろうと思った。(東西の)片方だけが出た五輪だから、実績は残りますよ。メダリストになるのはたやすい。だから、全然自分には価値を感じられなかった。わずかの差で勝つ喜び、達成感。そういうのが薄いだろうと。それだったら、かねてやりたかったプロレスの世界にいってしまえ、と」。五輪とは、メダルの価値とは何なのか。犠牲になった谷津の言葉は重い。

聖火トーチを持つ姿でポーズをとる谷津嘉章

いまだ消化しきれぬ五輪の思いを、聖火に託す。3月29日に、足利工大付高卒業という縁もあり足利市の聖火ランナーを務める。区間はわずか200メートルだが、昨年糖尿病により右足を切断し、義足となった谷津にとって大変な仕事だ。依頼を受け、ラン専用の義足をつけて本格的な練習を始めたのは今年1月から。2月に入り、ようやく走れるようになった。新型コロナウイルスの影響で沿道無観客で実施される方向だが、「走るからには美しく走りたい」と実際のトーチと同じ重さの棒を持ち、下を向かずに走る練習を続ける。

「谷津がどんな走りをするんだろうと楽しみにしてくださっている人がいる。できれば生で見せてあげたい。そのつもりで走り込んで、美しく走る練習をしてきました。東京五輪のトーチを持って、区間から区間に渡すまでの責任をまっとうして思いをぶつけながら、五輪というものへの自分なりのピリオドを打てればいいなと思っています」。【高場泉穂】

◆谷津嘉章(やつ・よしあき)1956年(昭31)7月19日、群馬県明和町生まれ。レスリングで76年モントリオール五輪8位。80年モスクワ大会は日本のボイコットで不参加。「幻の金メダリスト」と呼ばれた。80年に新日本プロレスでデビュー。その後、全日本などさまざまな団体を渡り歩き、ジャンボ鶴田との「五輪コンビ」で88年に世界タッグ初代王者となる。10年に現役引退も15年に復帰。19年6月に右足膝下切断。186センチ、115キロ。

◆モスクワ五輪 1980年7月19日~8月3日にモスクワで開催。開会式の入場行進に参加した国と地域は81(当時のIOC加盟国・地域は145)。ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議した米国、日本、西ドイツなど50カ国近くが不参加。英国など参加した西側諸国の17カ国・地域が国旗ではなく、五輪旗やNOC(国内オリンピック委員会)旗を使用した。日本は18競技で178人の代表がいた(最終選考を行わなかった馬術の候補選手10人含む)。そのうち、次のロサンゼルス五輪に出場したのは50人だけだった。

清野茂樹アナ ゲストはみんな“プロレスラー”

プロレス実況を中心に活躍する清野茂樹アナウンサー(46)がパーソナリティーを務めるラジオ日本のプロレス番組「真夜中のハーリー&レイス」(毎週日曜午後11時~同30分)が4月5日に10周年を迎える。唯一無二のプロレス番組を長く続けてきた清野アナに話を聞いた。

ラジオ日本「真夜中のハーリー&レイス」の収録ブースに座る清野茂樹アナウンサー。手前は毎回ゲストと争うNWAベルト

番組にはいつも“プロレスラー”がやって来る。本物のレスラーはもちろん、芸人、小説家、ジャーナリストと過去500人超のゲストの肩書はさまざまだ。毎回「NWAベルト」をかけて戦う設定だが、内容はプロレスの話題に特化しない。パーソナリティーである清野アナが受け役となって、ゲストの仕事やプライベートの話を自由に引き出す。

清野アナは番組について、こう説明する。「プロレスの番組といってプロレスラーを呼ぶのは容易だと思うんです。他ジャンルの人を呼ぶのはプロレス関係の人だけ呼ぶとプロレスファンの方しか聞かなくなるから。見方を変えれば番組に来る人はすべてプロレスラー。リングに上がってもらっている時点でみんなプロレスラーなんです」。内容が良くても悪くても編集はなし。「それもプロレスの試合と一緒。こういうのがプロレスなんだよ、というぼくなりの提示なんです」。狭い時は約3畳、広くて6畳ほどの収録ブースで毎週試合が行われている。

スタートは10年4月。初回はグレート・カブキが電話越しに登場。2回目に当時格闘技団体DREAMを運営していた笹原圭一氏が生出演して以来、毎回ゲストを呼びノーカットで話す形が出来た。ゲストである挑戦者は表向きはNWA総会で決定とされているが、有名、無名は問わず清野アナが話を聞きたい相手、光を当てたい人に自らオファーをする。

「今でも断られることが多いです! 『私プロレス詳しくないんで』と。いや、そうじゃないんです、あなたの話が聞きたいんですと熱意を相手に伝えて、ここまでやってきました。電話で直接お話ししたり、メール送ったり、手紙をかくこともあります」。撮りだめをせず毎週収録し、同じゲストを2度呼ばないことも信条。あえて負荷をかけて10年続けてきた。

一発勝負だからこそアクシデントも多い。最もつらく、思い出にも残るのは「(話が)ハネないこと」。酒に関わるエピソードも多い。前田日明(12年2月21日)は六本木で約6時間飲んだ後、「水割りだったら何杯でも大丈夫なんだよ」とほろ酔いで15分前にスタジオ到着。去年タレント壇蜜と結婚した漫画家清野とおる氏(11年8月30日)も痛飲した様子で現れ、谷津嘉章(13年2月5日)は足がふらつくほどの泥酔で生放送に臨んだ。

肌と肌を合わせるプロレスのように「1対1でスタジオに入った時間というのは濃密なんです」。収録後、ゲストとの関係が続き、深まることも多いという。「プロレスラーもキャリア10年ぐらいたってやっと味が出てくる。ラジオも一緒。ぼくは受け身専門ですけどね」。10年続けて「山の頂上にのぼった感じ」と達成感はありつつも「間違いなくぼくの代表作で、ライフワーク。なくなったらさみしい」と継続を願う。ただ、10周年を機に、「プロレスラーのヒール転向のように」と形式を変えることも検討中だ。【高場泉穂】

◆清野茂樹(きよの・しげき)1973年(昭48)8月6日、神戸市生まれ。青山学院大卒業。18年に早大大学院政治学研究科修士課程修了。広島エフエム放送でアナウンサーを経験後、06年からフリー。新日本プロレス、WWE、UFCなどプロレス、格闘技の実況を中心にCMナレーション、司会など幅広く活動。

新日本メイ社長、コロナ禍にも「まだやることある」

新日本プロレスの人気は、日本から世界へと広がり続ける。その飛躍を進めてきたプロ経営者のハロルド・メイ社長(56)に今後のプランや、現在頭を悩ませる新型コロナウイルス感染拡大への対応について聞いた。

新日本プロレスの未来を熱く語る、ハロルド・メイ社長

自らを“百戦錬磨”と称するメイ社長でさえ、今回の新型コロナウイルス対応に関しては「かじ取りが難しい」と嘆く。イベント自粛の波が広がる中で、新日本は3月1日から15日までの11大会を中止。再開の見通しが立たない9日現在、「再開する、しない両方のプランを考えている」と明かす。米国で興行する案も計画したが、実現は難しく頓挫した。

ただ、次の行動を起こすのは早かった。中止決定と同時に、ファンのための新サービス「新日本Togetherプロジェクト」を立ち上げた。「すぐに選手、社員、スポンサー、関係各所に説明して、4日に(企画を)スタートできた。社内の団結があったからこそです」。メイ社長は日々、1フロアの社内を違うルートでまわり、社員と会話することを欠かさない。四半期ごとの社の報告会議には選手の一部も出席する。社員全員が経営状況を把握し、一丸となって前に進む環境があったからこそ、今回もスムーズに事は進んだ。第一弾の内藤哲也、高橋ヒロム無観客トークショーは、国内のツイッタートレンド最高6位になるなど注目を集めた。

この未曽有の事態でも「まだまだやることがある」と信念は揺るがない。18年6月に社長に就任してから約1年9カ月。その間、力を入れ、成果を出してきたのが海外展開の拡大とブランド力アップだ。海外進出を進める理由は「日本の市場、人口が間違いなく減る」から。外に出なければ経営は傾くだけで「必要だからです」。今は米国、欧州で土台固めをし、その先にアジア進出を見据える。

世界に通用する確信もあった。「言葉、文化、男女、年齢の壁。すべて乗り越えられるのが、プロレス。ルールも単純明快。極端にいえば、2000年前のローマ帝国でもやっている」。英語での動画配信や情報を充実させると、狙い通り、ファンは世界中に拡大。今年1月4、5日の史上初の東京ドーム2連戦の7万人の観衆のうち、約2割が外国人だった。さらに、初日の4日はツイッターの世界トレンドの首位を約6時間独占。「世界でこんなこと誰ができます? できないですよ。誇りに思います」。ドーム2連戦の成功は、大きな自信となった。

選手のマスコット人形を肩に付けて、笑顔でポーズをとる新日本プロレスのメイ社長

一方で、国内での価値向上にも努力は続く。メイ社長は昨年末に出版した著書でこう記している。「プロレス業界で働くようになってから、世の中にはプロレスを少し見下していたり、偏見や誤解をしている人がまだまだ結構いるのだなと思うようになりました」。負のイメージを払拭(ふっしょく)するために選手、スタッフとともに取り組んだのがリング外での露出だ。

選手がテレビ、映画など他媒体に出るのはもちろん、社長自身も経済誌やNHKのドキュメンタリー番組の取材を受けるなど、プロレスに触れるきっかけを増やすことに努めた。「どのドアから入っても好きになれる。そのドアを増やしていくイメージです」。その成果もあり、最近は三越伊勢丹、アンダーアーマーなど有名企業とのコラボレーションが続く。「今まで以上に、新日本が認められ始めている証し。あらゆる分野でもっと広げていきたい」と攻勢を続ける。

日本で暮らした幼少期、言葉が分からない中でも楽しめるプロレスに助けられた経験がある。だからこそ、「残るキャリアを新日本にささげる」と思いは強い。今、特に力を入れるのがIP(知的財産)ビジネスだ。選手や試合のコンテンツをいかに他の収益に変えていくか。「出版、ゲーム、テレビ放映権…。未知の新しいビジネスもあるかもしれない」とアイデアは尽きない。【高場泉穂】

◆ハロルド・ジョージ・メイ 1963年12月4日、オランダ出身。8歳から13歳まで日本で過ごす。ニューヨーク大大学院修了。87年にハイネケンジャパンに入社。数社を経て、06年に日本コカ・コーラの副社長、14年にタカラトミーの社長に就任。赤字経営を立て直し、V字回復に導き17年退社。18年6月に新日本プロレス社長に就任。19年12月に初の著書「百戦錬磨 セルリアンブルーのプロ経営者」を出版。

決行?中止?プロレス各団体新型コロナウイルス対策

新型コロナウイルス感染対策のため、日本政府は2月26日に今後2週間のスポーツ、文化大規模イベントを中止、延期するよう要請。その影響はプロレス界にも波及している。現段階での各団体のさまざまな対応をまとめた。

主なプロレス団体の新型コロナウイルス感染拡大への対応(3月1日現在)

3月に国内で予定されているプロレス興行は数百人から数千人まで団体や大会によって集客の規模が異なり、政府の定義する「大規模なイベント」にあてはまるかは難しいところだ。興行開催可否は各団体の決定に委ねられた状態で、そのため対応はさまざまに分かれた。

最大手の新日本プロレスは2月26日、3月1日から15日までの11大会を中止すると発表。3月3日に大田区総合体育館で予定していた旗揚げ記念大会では、メインでIWGPヘビー、同インターコンチネンタル2冠王者内藤哲也対IWGPジュニアヘビー級王者高橋ヒロムが初の師弟シングル戦を行う予定だったが、流れてしまった。内藤は公式サイトの日記で「いまは残念でしかないけど…。またいつか、最高のタイミングでオレは彼の名前を叫びますよ。『高橋ヒロム!』ってね」と実現を願った。3月4日開幕予定のシングルトーナメント戦「ニュージャパン杯」を代替日程で開催するかは未定だ。

試合中止の代わりに無観客試合を動画配信すると決めたのが女子プロレス団体のスターダムと、DDTグループ。スターダムは、3月8日の後楽園大会を無観客で実施し、その模様をYouTubeで無料配信。「スーパーチャット」と呼ばれる支援金を募る。自社の動画配信サービスを持つDDTは道場マッチを配信する。

2月28日、アントニオ猪木60周年記念大会を開催したプロレスリング・マスターズ

一方、予定通り試合を行う団体も多い。初代タイガーマスク、佐山サトルが主宰するリアルジャパンは3月19日の後楽園大会を決行する。76年の猪木対アリの異種格闘技戦を実現させた“過激な仕掛け人”こと新間寿会長は2月26日都内で行われた会見で「コロナウイルスなんかふっとばす」と世間のイベント自粛ムードに否定的な意見を示した。やや過激な発言だっただけに、2日後あらためて平井丈雅社長に反響を聞くと、「批判は少なく、むしろ『よく声をあげてくれた』と言ってくださる方が多い」と明かした。

大日本プロレスも3月16日横浜文化体育館での旗揚げ25周年記念大会など予定通り決行。登坂栄児社長は「今はすべて開催する予定だが、開催場所の市町村から自粛要請などがあれば対応する」と柔軟に応じる構えだ。団体によっては経営的に興行中止とできない場合もある。1日に後楽園で旗揚げ19周年大会を行ったゼロワンの笹崎勝巳取締役は「うちは難しい」と苦しい胸のうちを明かした。

武藤敬司がプロデュースするプロレスリング・マスターズは2月28日後楽園ホールで今回はアントニオ猪木氏のデビュー60周年記念大会を開催。キャンセルが約300件あったものの1328人の観衆を集め、大盛況に終わった。武藤は「今回やらなかったら、1人欠けるかもしれないから必死でやったんだよ」とブラックジョークで決行理由を説明。「今の時点ではやってよかった」と悩んだ末の開催に胸を張った。

アントニオ猪木の夢は終わらない 喜寿を祝う会詳報

プロレス界のレジェンド、アントニオ猪木氏が20日、77歳の喜寿を迎えた。同日に都内ホテルで行われた「アントニオ猪木の喜寿を祝う会」を詳細リポートする。

「アントニオ猪木の喜寿を祝う会」で、古舘伊知郎アナウンサー(左)の呼び込みで登場したアントニオ猪木氏(撮影・浅見桂子)

猪木氏の喜寿を祝うパーティーが開かれたのは、ホテルオークラの大きな宴会場。まず、迎えるのは大量の花と昨年8月に他界した妻田鶴子さん撮影の写真パネル。現在病気療養中の初代タイガーマスク、佐山サトルや武藤敬司、新日本プロレスの棚橋弘至、オカダ・カズチカら多くの関係者からの花が並んだ。カメラマンだった田鶴子さんによる写真には、ひげが伸びた姿など普段は見られない猪木氏がおさまっていた。

カメラマンだった田鶴子さんによる写真には、ひげが伸びた姿など普段は見られない猪木氏がおさまっていた

開会すると昭和プロレスの名実況で知られる古舘伊知郎が登場。「燃える闘魂アントニオ猪木が入ってまいります!」とコールされると、肩から紫の布をかけた猪木氏がスクリーンを破って登場した。古舘は「戦う旅人、アントニオ猪木。定住することを好まない猪木。自分を固定することを好まない猪木。まさに人生のホームレス!」と破天荒な人生を表現。

「アントニオ猪木の喜寿を祝う会」で、仁王像の写真の奥から拳で突き破って登場したアントニオ猪木氏(撮影・浅見桂子)

マイクを渡された猪木氏は「77歳と紹介されましたけど、あれ? 俺、そんなになってたかな?」とボケた上で、「今日から新しいスタートを歩みだそうと思っています」。さらに「もう飽きたんですけどね…」と言いながらも、「元気ですかー。1、2、3、ダー!!」と大きなかけ声で盛り上げた。

「1、2、3、ダーッ!」と気勢を上げるアントニオ猪木氏。左から天龍源一郎、1人おいて藤波辰爾、長州力(撮影・浅見桂子)

会には新日本プロレスの坂口征二相談役、天龍源一郎、長州力、藤波辰爾、佐々木健介、北斗晶夫妻ら豪華ゲストを含め、約300人が出席した。

この日、発足を発表したプロレス殿堂会の報告をした長州らは壇上に立ち、4ショットも実現。長州はマイクを取ると、「会長! 会長が元気じゃないと、我々はどうするんですか」と食ってかかり、それを受けた猪木氏は藤波の制止を振り払い、長州に闘魂注入。長州は「もうリングを降りてるのに、まだたたかれるのかよ」とうれしそうにぼやいた。

「アントニオ猪木の喜寿を祝う会」で、アントニオ猪木氏(右から2人目)に、ビンタを食らう長州力(左から2人目)。左奥は天龍源一郎、右は藤波辰爾(撮影・浅見桂子)

夢がまだある。会の中では現在熱心に取り組む水プラズマ開発について説明。「鉄のパイプもプラズマで一瞬で消えてしまう。政府と話をしながら、確実に進んでいます。世界に向けて、『バカヤロー』と言える時期が来る」。また、YouTubeチャンネルを開設したことも報告。77歳にしてYouTuberデビューを果たした。ジャズに合わせた歌を披露するなど終始、自由に、楽しそうにふるまっていた。

戦ったから分かるその凄さ 引退中西学の素顔(下)

新日本プロレスの“野人”こと中西学(53)が2月22日の後楽園ホールで引退を迎える。ともに歩んできた第三世代の永田裕志(51)、天山広吉(48)、小島聡(49)の鼎談(ていだん)下編は、プロレスラー中西学のすごさについてです。【取材・構成=高場泉穂】

中西との思い出を笑顔で語る、左から小島、永田、天山(撮影・横山健太)

-中西選手との試合の思い出は

天山 95年にぼくが凱旋(がいせん)帰国した時の東京ドームでのシングルマッチの相手が中西さん。もっと弱い相手にしてくれって感じでした。「インパクト残さないと」「負けられない」という気持ちで必死にやりました。(結果は天山勝利)

永田 僕はとにかく(タッグで)組んで、最初は僕が中西さんを意識していた。あっちはオリンピック選手で、僕は行けなかった。ライバルじゃないですけど、常に意識していた。勝ちにいくには僕が相手をひきつけて、中西さんに暴れて爆発してもらえば勝率は良くなる。でも、中西さんに負けたくないという気持ちが強かったので、あうんの呼吸とかそういうタイプのタッグじゃなかった。ぼくがシングルトップ戦線で活躍するようになっても、中西さんの背中は絶対前にあるんですよ。あの人がやるだけで、ドッカンドッカン。当時そういうことは悔しいから言いませんでしたけど。

小島 94年のヤングライオン戦の決勝戦の相手が中西さん。当時若かったので、むきになってエルボーとかやるんですけど、序盤で中西さんのエルボーがすごすぎて、僕が記憶なくしちゃったんですよ。とんでる状態で試合して、勝ったら安堵(あんど)感とかいろんな感情が入り交じって、泣いちゃって。中西さんも隣でもらい泣きしていました。

天山 1発1発重いしね。逆水平はニシオくんが1番だと思う。

永田 僕も。いろんな人いるけど、1番。昔、ノアに参戦するときに、小橋さんのチョップ痛いよって聞かされてたんです。でも、中西さんのチョップをくらってたので、痛みという意味では免疫があった。

-そばで見ていてどんな選手だったか

永田 けっこう不器用で、自分のスタイルを悩んでた時期もありました。カール・ゴッチさんのとこに行って、急にテクニシャンになろうとしたり。時間はかかりましたけど、中西学はこれ、という自分のスタイルを確立しましたよね。中西さんが技を決めると、ドカーンと沸く。そして、あの人、空中バランスいいんですよ。トップロープからミサイルキックしたり。

天山 トップロープに上って静止するのは簡単なようで、すごい。

16年8月、G1クライマックスで野人ダンスをする中西学

-11年に中西選手は試合中のけがで脊髄損傷

永田 特上すしと焼き肉弁当を持ってお見舞いに行ったんですが、体がシューとしぼんじゃってて。リハビリで必死に手ぬぐいを引っ張っている。何回も。運動時間終わってもやってる。あれみたら、言葉が出なかったです。

-中西選手は状態が戻らなかった、と話している

永田 ロープ走る時は、やっぱり…。でも、他の部分は元気。膝も悪くないからいまだにフルスクワットをやっている。

天山 ここ最近でも、アルゼンチンとか、いつも「腰痛くなんないの?」って聞いても、絶対痛いって言わない。負担くると思うんですけど、ニーパッドもしてないし。

-引退表明を受けて

永田 何年か前は60ぐらいまでやりたい、って言ったんだけどね。どういう心境だったのか。体きつかったんじゃないですか。自分の中で葛藤はあったんでしょうね。本人はすごい周りを気にするんですよ。でも、今はそこまで考えなくていい。引退試合まで全力でやってほしいし、一緒に張り合っていきたい。

天山 タッグは敵対する時より、リラックスできるんですけど、試合となるとこっちも必死にやらなくちゃと気合が入る。最後の中西学を見せるのに、ヘルプしたいし、100%がっちり組みたい。

小島 寂しいとしか言いようがない。今のプロレス界はカムバックする方もいる。それを前提にする引退もないですが、もし、中西さんが体調が悪い、首が痛い、そういうことが理由で引退を決めたのであれば、元気になればまた戻ってきてよと自分の中で勝手に思っている。お客さんは中西さんを求めてる。あんなプロレスラーらしい人いないじゃないですか。あそこまで、プロレスを体で表せる人はいない。(終わり)

オレたちは知っている 引退中西学の素顔(上)

新日本プロレスの“野人”こと中西学(53)が今月22日の後楽園ホールで引退を迎える。ともに歩んできた第三世代の永田裕志(51)、天山広吉(48)、小島聡(49)が中西をテーマに語った鼎談(ていだん)を2週にわたってお届けします。【取材・構成=高場泉穂】

中西学の決めポーズをまねる、左から小島、永田、天山(撮影・横山健太)

-186センチに100キロ超の巨体。初対面の印象は

永田 初めて会ったのは、僕が大学1年生の時の全日本レスリング夏合宿。中西さんは自主参加で来てたけど、当時から体格が日本人離れしていて、力も強かった。僕は軽い階級でしたし、直接練習で絡むことはなかったですけど、日本協会のコーチ陣からの期待はすごかったですね。

小島 自分は91年2月に新日本に入門して、いつも道場の電話番をしてたんです。当時、和歌山県庁所属だった中西さんからしょっちゅう「馳浩さんいますか」と電話があって。だから、「だれだこの中西さんって人」とずっと思っていました。電話越しで、すごくきちょうめんな話し方をされていました。しばらくして、闘魂クラブの選手として道場に出入りするようになったんですが、最初に見た時のインパクトはすごかった。筋肉ががっちりしていて、これが全日本クラスの人かと。

永田 ウエート必死にやって、という体じゃない。最初からああいう体だった。

引退会見を終えポーズを決める中西

-性格も天然気質と聞きます

天山 普段から会話してても、かみあわない時がある(笑い)。そういうのがニシオくんらしさ。言いたいことは分かるんだけどね。

小島 試合以外で本気で怒っているのは見たことないです。

永田 本当にこのスポーツにアクシデントはつきもの。でも、自分の技でけがした相手がいると泣いたりするんですよ。

天山 思い出すのは、大阪のタイトルマッチ(02年6月5日、IWGPタッグ選手権王者蝶野、天山組対中西、西村組。60分引き分けで王者組防衛)。なかなか勝負がつかなくて、ニシオくんとお互いへろへろになりながら戦っていたら、いきなりがーんと鼻にジャンピングニーを決められて。骨折して、どろどろどろーって出血しちゃって。「くそー、このやろー」と思いながら、ふっと顔あげたら、ニシオくんは「うわー、しまったー」って顔してるんですよ。試合だからね。でも、ほんと優しい人。

中西との思い出を笑顔で語る、左から小島、永田、天山(撮影・横山健太)

永田 名古屋レインボーホールでの武藤さん対パワー・ウォリアー戦(93年3月21日、武藤勝利も左膝を痛めその後1カ月欠場)。ウォリアーが武藤さんを場外にぶん投げたんです。それがちょうどセコンドしていた中西さんの前に落ちて。本当はキャッチしなきゃいけないんだけど、床に落ちて膝を打っちゃって。その後、武藤さんは2発のムーンサルトをやったんです。1発目やって、浅かったので膝を痛めながらももう1発。試合後に長い通路の向こうから中西さんが大泣きしながら「武藤さんの膝が、俺のせいだー」って歩いてきて

(一同爆笑)。

永田 武藤さんに言わせると、場外に落ちた時は大したけがにならず、1本目のムーンサルトの時に痛めた、と。中西さんの取り越し苦労というか。なんで泣いてるの? って感じでした。

天山 けっこうオーバーよね、若い時から。ちょっとドン引きですよね。必死なんですよ。泣きっ面がまたね、笑っちゃうんですよ。

-特に永田さんは詳細までよく覚えている

永田 中西さんのこんな話は、いっぱいありますよ。語ったら、一晩かかる! ((下)につづく)

日刊バトル大賞内藤哲也MVP「俺はまだ上がれる」

日刊バトル大賞MVPを獲得した内藤哲也

読者が選ぶ第24回日刊バトル大賞(対象は19年1月15日~20年1月14日)の19年プロレス部門は、今年1月5日の新日本東京ドーム大会でIWGPヘビー、インターコンチネンタルの2冠王者となった内藤哲也(37)が3年ぶり2度目の最優秀選手に輝いた。

年間最優秀選手

年明けのドーム2連戦で2冠を手にした内藤が、ニッカン読者の支持を得てバトル大賞MVPもつかんだ。内藤に16年度以来となる授賞を告げると一瞬喜んだが、すぐに表情を曇らせた。「この賞は1月までが対象? もし、12月までだったら俺は選ばれていないですよね? 東京ドームの2試合で評価されたということ。それこそ、逆転の内藤。でも、僕がプロレスファンだったら、納得いかないと言うでしょうね」。

19年は5月ごろから目の不調に苦しんでいたこともあり、際立つ活躍はできなかった。事実、19年末までを選考対象としたプロレス大賞でのMVPは前IWGPヘビー級王者オカダが選ばれている。2冠王者としてスタートした20年度こそは「プロレスの結果以外でも目立った活躍をして、だれもが納得できる状態でのMVPを取りたいですね」と自他ともに認める受賞を誓った。

年間最高試合

年間最高試合も、1・5のオカダとの2冠戦が選ばれた。「5、10年後に振り返ったときに、プロレスラー内藤哲也の上位にあげられるような試合だったと思う」と納得するばかりか、その試合を機にさらに欲が深まった。「あの後、動画を何回も見返しました。『あそこをこうしておけばよかったな』とか、出てくるんですよね。俺はまだ向上心があるんだ。俺はレスラーとして上がっていけるな、と」。自分で驚くほどの意欲がまた湧いてきた。

2020年1月5日、新日本プロレス東京ドーム大会 オカダ・カズチカ(下)にデスティーノを決める内藤哲也

2月9日の大阪城ホール大会では、2冠をかけてKENTAと初防衛戦を行う。KENTAには1・5の2冠戦の勝利後に襲撃され、歓喜のひとときをぶち壊された。さらにその後も、SNSや試合後のコメントで挑発され続けている。内藤は「さすが世界を経験した男。確かに面白いよ」と巧みな言葉遣いをたたえつつ、「でも、あなたは何をやりたいんですか」とリングの戦いでは見えてこないKENTAの意思を問うた。「肝心のリングで何を見せるのか…。大阪ではお客様と僕に見せてよ」と敵に奮起を呼びかけた。もちろん、手にしたばかりの2冠は渡さない。「まぁ、遊んでやりますけどね」と格の違いを見せつけるつもりだ。【高場泉穂】

新日のヤングライオン辻陽太と上村優也が吠えた!

「ヤングライオン」と呼ばれる新日本プロレスの若手辻陽太(26)、上村優也(25)は今年4月でデビュー3年目を迎える。徐々に個性を表現し始めた2人に、今後の抱負を聞いた。【取材・構成=高場泉穂】

自信に満ちた表情で今後について語った上村(左)と辻(撮影・横山健太)

ヤングライオンの2人が個性を咲かせつつある。1月のメキシコCMLLとの合同シリーズ「ファンタスティカ・マニア」で辻はメキシコの関節技“ジャベ”を披露。一方、上村はIWGPジュニア王者高橋ヒロムへの挑戦を表明。13日の名古屋大会では試合後に高橋から急襲を受け、「もっとやれ」と歓迎された。

辻 僕はメキシコ遠征に行きたいとずっと言っているんですが、その気持ちが強くなりましたね。

上村 まさかヒロム選手が僕のコメント中に乱入してきたりとか全然思ってなくて…。後にひけない状態。やるしかないです。

今年でデビュー3年目。風貌や戦い方にも独自性が見えてきた。辻は髪とひげを伸ばしワイルドな風貌に。体も大きくなり、技1つ1つの力強さが増してきた。

辻 髪は長くなりすぎないようにしていますが、いずれは胸まで伸ばしたいんです。(エル・)テリブレさん(メキシコの人気選手)がすごく好きで。すごい野獣感があるじゃないですか。もっと迫力のある選手になりたいです。

上村は昨年、伸ばしっぱなしだった髪をカット。高い身体能力を感じさせる動き、負けん気の強さで観客を沸かせている。

上村 クラシカルな試合が好き。今だとSANADAさん、昔だと藤波さん。基本技で面白い試合をしたいです。髪はテレビ出演(水曜日のダウンタウン)の時に見た目が良くないからと指摘されて切ったんです。今後、できればモヒカンにしてみたいですね。

今年の目標を聞くと、辻は「ニュージャパン杯出場、LA道場の若手撃破、付き人を務める棚橋弘至と組んでのワールドタッグリーグ出場」の3つを挙げた。上村は「大爆発。大爆発がなんなのか分からないですけど…」と曖昧ながらも活躍への意志を口にした。

飛躍を願う一方で、雑用に追われる日々が続く。昨年10月、1つ上の先輩海野翔太と成田蓮が武者修行へ出発。それに伴い、仕事量がだいぶ増えたという。

辻 2人がいなくなったので寮のちゃんこ番は日替わり。試合のセコンドも、どちらかが試合していたら、1人でセコンドをしなくてはいけない。もちろん1人ではまわらないので、スタッフの人が手伝ってくれるんですが…。

練習、試合、雑用で日々忙しい2人の癒やしは甘いものを食べること。スターになることを夢見ながら、今年も地道に足元を固める。

◆上村優也(うえむら・ゆうや)1994年(平6)11月18日、愛媛県今治市生まれ。福岡大レスリング部時代の16年に西日本学生レスリング選手権グレコローマンスタイル71キロ級優勝。17年に福岡大を卒業し、同年新日本プロレス入門。18年4月、成田蓮相手にデビュー。180センチ、82キロ。好きな食べ物はシナモンロール。

◆辻陽太(つじ・ようた)1993年(平5)9月8日、横浜市生まれ。16年に日体大を卒業し、17年4月新日本プロレス入門。18年4月、岡倫之戦でデビュー。大学時代はアメリカンフットボール部に所属。テコンドー、野球の経験もあり。182センチ、91キロ。好きな食べ物はモンブランとクロワッサン。