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【復刻】メイウェザー“神童”那須川天心を子ども扱い 3度のダウン奪う

メイウェザー対那須川天心 1回、メイウェザー(右)のパンチを食らいダウンする那須川(2018年12月31日撮影)

ボクシング元世界5階級制覇王者フロイド・メイウェザー(44=米国)が6日(日本時間7日)、米マイアミのハードロック・スタジアムで世界的人気の米国人ユーチューバーで、プロボクサーのローガン・ポール(26)とのエキシビション8回戦(1回3分)に臨んだ。

そのメイウェザーは、過去に日本で那須川天心とのエキシビションマッチを経験済み。当時の記事を、日刊スポーツ紙面から復刻版でお届けする。

 ◇   ◇   ◇

<RIZIN14>◇2018年12月31日◇さいたまスーパーアリーナ◇観衆2万9105人

ボクシングの元世界5階級制覇王者フロイド・メイウェザー(41=米国)が本気になった。ボクシング・エキシビションマッチで、キックボクシング界の“神童”那須川天心(20)から3度のダウンを奪い、1回2分19秒、TKO勝ちを収めた。那須川のパンチが左ほおをかすめた瞬間、本気モードに突入。33連勝の那須川を子ども扱いし、格の違いを見せつけた。

試合開始のゴングが鳴ると、メイウェザーは笑いながら戦い始めた。最初の打ち合いで、那須川の左ストレートがほおをかすめると、顔つきが変わった。右ボディーの後、右フックを那須川の側頭部にたたきこみ、1度目のダウン。さらに、右アッパーで2回目。そして左フックでとどめをさした。

日本マット界に、世界トップの大物が上がり、日本人選手と対戦するのは、ムハマド・アリ対アントニオ猪木戦以来の“歴史的事件”だった。エキシビションながら、容赦なく襲いかかり15発で那須川を沈めた。那須川のパンチも当たったが、次元が違った。

試合後はまた、へらへら笑いに戻った。予定になかった会見を開き、上機嫌で15分間話し続けた。「那須川は若いライオンだ。成長する余地はたくさんある。この試合は記録には残らない。これからも頑張ってほしい」と惨敗した相手を持ち上げた。

世紀の一戦とも言われた戦いは、公式戦でないにもかかわらず、ルール問題で試合当日までもめた。最後は、RIZIN側の説得を受け入れ、メイウェザーが「ハンディ」として10オンス、那須川が8オンスのグローブを着けることを承諾。今回の来日で、初めてメイウェザーが折れた。それでも会場に遅れてくると、いったん巻いた那須川のバンデージをもう1度巻き直させるなど、ぎりぎりまでやりたい放題だった。

那須川も、試合が決まるとボクシングの本格トレーニングのため渡米。メイウェザーと同じラスベガスの元3階級制覇王者ホルヘ・リナレスのジムで特訓した。それでも子どもの頃から那須川を見ているテッペンジムの那須川弘幸会長は「本当は怖くてたまらないんですよ。メイウェザーが本気になったら、天心が壊されるかもしれないじゃないですか」と、試合前に苦しい胸の内を明かした。その心配が当たった形だ。

メイウェザーは試合の後の会見を終えると、米ラスベガスへ帰るために羽田空港へ直行した。嵐のようにRIZINを席巻したメイウェザーは、そのニックネーム「マネー」の言葉通り、わずか50時間あまりで約10億円のファイトマネーを稼ぎ出した。

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杉浦貴、桜庭和志破り初防衛 ササダンゴ・マシンら登場に「またぐな」

桜庭(右)に関節技で攻め込まれる杉浦(撮影・小沢裕)

<プロレスリング・ノア:後楽園大会>◇5月31日◇後楽園ホール

GHCナショナル王者の杉浦貴(51)が桜庭和志(51)を破り、初防衛に成功した。

寝技を得意とする桜庭の術中にはまり、攻撃を仕掛けるもスカされ、足や腕をキメられた。「痛い、痛い」と言いながらロープに逃げるのがやっとだったが、一瞬の隙を突いてスクールボーイで丸め込み、3カウントを奪った。同じ杉浦軍としてよく知っていたのが奏功し「練習の延長みたいだった」と笑顔を見せた。 試合後にはDDTのスーパー・ササダンゴ・マシンと男色ディーノがリングに登場。サイバーファイトフェスティバル(6日、さいたまスーパーアリーナ)で杉浦、桜庭組との対戦を要求した。実は5月にササダンゴが2度、ノアの会場を訪れたが、会うことすらできなかった。杉浦は「何しに来た? お前らが上がるリングじゃねえんだよ、またぐな」と突き放すも、2人は引き下がらず。最後は粘り負けしたのか「杉浦軍は、いつ何時、誰の挑戦でも受ける」とアントニオ猪木風に受け答え、対戦が決定した。

「三沢光晴メモリアルマッチ」のリングで、51歳の誕生日にしっかりとベルトを守った。気持ちが高ぶったのか、後に試合が控えているにもかかわらず「俺のクビをかき切ってみろ!」とまたも猪木ばりに叫び「1、2、3、ノア! ありがとう」と締めくくった。バックステージに現れた杉浦は、苦笑いを浮かべながら、少し恥ずかしそうに控室に消えていった。

桜庭(上)をかつぎ上げる杉浦(撮影・小沢裕)

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天龍源一郎が退院後初めて公の場、杖つき登場し越中詩郎と記念撮影

退院後、初めてファンの前に姿を見せつえを持ち上げあいさつする天龍源一郎(撮影・中島郁夫)

<天龍プロジェクト SURVIVE THE REVOLUTION>◇12日◇新木場1stRING

4月28日に退院した元プロレスラー、天龍源一郎(71)が、退院後初めて公の場に姿を見せた。

つえをつきながら、ゆっくりと歩を進め、解説席に向かうと、隣に座っていた越中詩郎と並び、記念撮影に応じた。その後は「リラックスできて、見ているうちに楽しくなった」と、時折笑みを見せながら若手選手の試合を見守った。

試合後には選手に支えられながらリングに上がった。マイクを取り、ファンに向けて「40日間も入院していて、こんなぶざまな格好ですが、いつかはアントニオ猪木さんのように元気ですかー、と言いたいので、みなさん、もう少し我慢してください」とメッセージを届けた。全快でリングに上がることができず「不本意だった」と言いながらも、すべてをさらけ出したことで「吹っ切れた」と力強く言い放った。

天龍の復帰を選手たちも待ち望んでいた。第1試合で勝利した河野真幸は「リング下から見られていたので、緊張感があった。いつかは挑戦者に指名するので、頑張って復帰してください」とエールを送った。また藤波辰彌の息子、LEONAは「小さいころはよく見ていたけど、天龍さんの前でやるのは初めて。泥臭く行けと言われ、心に染みた」と愛のあるアドバイスに気を引き締めた。盟友である父も天龍復帰を自分のことのように喜んでいたという。

天龍は3月19日に動悸(どうき)、息切れなどの体調不良で入院した。その後の小橋建太とのトークバトルや、日本プロレス殿堂会設立1周年記念イベントも欠席していたが、順調に回復し、先月28日に退院。「長い入院生活でしたけど、ちょっとずつ調子を上げて、気候も良くなったことだし、元気いっぱいに無理せずやっていきます!」とリング復帰を心待ちにしていた。

この日、天龍プロジェクトは再始動後、初の有観客での試合を行った。今後も7月末までに5大会が決定。同団体代表で、天龍の娘でもある嶋田紋奈氏は「ご心配をおかけしましたが、病状は心配なく、ご覧の通り、元気いっぱい。これから天龍とともにどんな状況でも希望を持って進んでいきたい」と決意を見せた。慣れ親しんだリングに上がり「もう怖いものはない」という天龍。自分の居場所を再認識したレジェンドは、これからも歩みを止めずに進み続ける。【松熊洋介】

解説者席で越中詩郎(右)とポーズを決める天龍源一郎(撮影・中島郁夫)

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【藤波辰爾50周年連載5】プロレスの証しを残す「殿堂会」を設立

WWEに殿堂入りしリング上であいさつする藤波辰爾(2015年7月3日撮影)

<藤波辰爾のプロレス人生50年(5)>

プロレスラー藤波辰爾(67)は2015年、アントニオ猪木以来となる日本人2人目のWWE殿堂入りを果たした。今月9日にはデビュー50周年を迎えたばかり。プロレス人生を振り返る連載第5回は、レジェンドたちの偉業の継承。【取材・構成=松熊洋介】

夢のような時間だった。15年のある日の夜中、自宅にいた藤波はWWEからの電話で、殿堂入りの知らせを受けた。妻・伽織さんと2人で招待された。毎年各都市の招致合戦が繰り広げられるほどの大イベント。空港に降り立つと、カリフォルニア州・サンノゼの街全体が祝福ムードに包まれていた。殿堂入りの英雄たちの垂れ幕が掲げられ、ホテルまではパトカー10台以上に先導されて向かった。

藤波 国賓級の扱いだった。今思い出しても鳥肌が立つくらい。プロレスラーになってこんなことがあるのかと…。長くやっていてよかったなあと思った。

選手だけでなくプロレス界に貢献した人物も対象で、13年には前米大統領のドナルド・トランプ氏なども表彰されている。セレモニーで藤波の隣にいたのは、元カリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツェネッガーだった。ライバルだったフレアーに紹介され、藤波はタキシード姿で登壇した。「すべての人々、WWEへこの名誉に対し感謝します。61歳で、43年間戦い続け、まだ戦っています。これは私の使命。私をサポートしてくれた家族に感謝したい」と英語でスピーチ。数万人が詰め掛けた会場は大歓声に包まれた。翌日にはMLBサンフランシスコ・ジャイアンツの球場でリングに上がり、大観衆の前でプロレスを披露した。

藤波 昨年は獣神サンダー・ライガーが殿堂入りした。将来的にはコラボして、日本でも開催されるような時代が来ればいい。こういうのを知ってしまうと、みんな目指すべきだろうと。日本のプロレスラーたちも目指す欲を持って欲しい。

昨年2月、「日本のレジェンドたちの功績をたたえたい」と天龍や長州らと「日本プロレス殿堂会」を設立。コロナ禍でなかなか動けなかったが、今年4月、小橋、田上らとトークショーを行い、活動をスタートさせた。

藤波 僕らが殿堂入りしたいわけではなくて、猪木さんとか、させなきゃいけない人のためにそういう組織をつくらないといけないと思って。プロレス界は、なかなか横のつながりがなかったが、どこかで作っておかないと自分たちが生きてきた証しがなくなっちゃうんじゃないかと。

故ジャイアント馬場さんや猪木らの時代をともにしてきた。先輩から学んできたものを後世に伝える使命があると考える。

藤波 誰かが言い伝えていかないと。今でも当時の光景が頭に浮かぶ。今の選手たちに、あれだけ繁栄した時代があったんだよと思い出を残しておきたい。

現役としてリングに立つ一方で、プロレスの証しを残そうと動きだした。50周年を迎えたが、残りのプロレス人生、藤波にはまだやるべきことが残っている。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付け人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

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【藤波辰爾50周年連載4】カール・ゴッチさんから指導受け学んだこと

新日本プロレス旗揚げ戦でカール・ゴッチさん(中央)に手を上げられるアントニオ猪木(1972年3月6日撮影)

プロレスラー藤波辰爾(67)が9日にデビュー50周年を迎えた。連載第4回は、「プロレスの神様」カール・ゴッチさんから学んだこと。海外修業中、自宅に住み込みながら指導を受け、WWWF(現WWE)でのブレークにつながった。【取材・構成=松熊洋介】

藤波のプロレス人生に、猪木ともう1人欠かせない人物がいる。07年に亡くなった故・カール・ゴッチさん。61年、日本プロレスのワールド・リーグ戦で初来日。自ら編み出したジャーマン・スープレックス(原爆固め)を日本に広め、アントニオ猪木、藤波辰爾らを輩出するなど、日本プロレス界の「育ての親」だった。米国へ戻ってからも米フロリダの道場で佐山サトル、前田日明らを指導するなど、功績を残した。

藤波も入門当初からゴッチさんの指導を受けた。ドイツ人ながら、礼儀や作法に厳しく、関節技やパフォーマンスよりも、力と力のぶつかり合いで相手を倒すパワフルなプロレスを重視。小さくても戦える技術と体作りを徹底してたたき込まれた。新日本プロレス4年目の75年にドイツに遠征。その後米国に渡り、ゴッチさんの自宅に約1年間住み込んで修業した。

藤波 朝練習して、掃除や草むしりなどお手伝いをしながら修業を続けた。そもそも格闘技は知らなかったので、技術的なことも含め、プロレスのイロハをすべて教えてもらった。自宅に住み込んで一緒に修業したのは自分だけだったと思う。

当時は全日本と違って、新日本と米プロレス団体NWAとの交流はなかった。そんな中、藤波はゴッチさんのはからいで米国やメキシコの試合に参戦。その後の新日本の米国参入のさきがけとなった。78年1月にはニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデン(以下MSG)でWWWFジュニアヘビー級王座に挑戦。王者カルロス・ホセ・エストラーダをドラゴン・スープレックスで破って第3代王者に輝いた。米国の多くのファンに「フジナミ」の名を知らしめた瞬間だった。

藤波 ゴッチさんと一緒にやっていたということもあって推薦してもらったし、やっていけるという後押しにもなった。

その後帰国した藤波は、日本でのドラゴンブームで女性や子どものファンをとりこにし、一時代を築いた。礎を作ってくれたのはゴッチさんだった。

ゴッチさんは、日本と海外の懸け橋となって新日本の立ち上げにも携わった。

藤波 新日本旗揚げの立役者。ゴッチさんがいなかったら新日本プロレスは存在していない。

藤波はベビーフェイスで、日本でもWWEでもファンに愛された。妻・伽織さんとの結婚発表は、MSGの大観衆の前で発表されるほどの人気だった。米国で確たる地位を築き、今度は自分が懸け橋となって両団体の交流に尽力した。長きにわたる功績が評価され、15年には猪木に続く日本人2人目のWWE殿堂入りを果たした。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

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【藤波辰爾50周年連載3】今でも緊張で直立不動…アントニオ猪木と50年

新日本IWGPヘビー級選手権 試合後、王者藤波辰爾(左)と祝杯をあげるアントニオ猪木(1988年8月8日撮影)

プロレスラーの藤波辰爾(67)が9日、デビュー50周年を迎えた。連載第3回は、アントニオ猪木との50年。入門時から家族よりも長い時間をともにしてきた師匠は、藤波にとって今でもかけがえのない存在だ。【取材・構成=松熊洋介】

藤波は日本プロレス入門から半年後、除名された猪木と一緒に脱退、翌年の新日本旗揚げに参加した。「今の新日本を作っている」という当時の猪木の練習はとにかく厳しかった。年200日以上の試合をこなしながら、練習も手を抜くことは許さなかった。つまらないパフォーマンスをすれば、試合中でもリングに乱入してきて殴られた。試合前に角材で殴られ、流血しながらリングに上がったこともあったという。藤波が78年に海外から帰国し、「ドラゴンブーム」の人気絶頂時でも、全体に気合を入れるための見せしめとして、殴られ続けた。

藤波 試合を止めることもよくあった。お客さんはただ猪木さんが乱入してきただけだと思っていて、実際には何が起こっているのか分かっていない。相手のことよりも、いつ猪木さんが控室から竹刀を持ってやってくるか、びくびくしながら試合をしていた。馬場さんの全日本に負けるな、というのもあったと思う。

ファンの目も肥えていき、つまらない試合には容赦なくヤジが飛んだ。ファン同士のケンカも日常茶飯事だった。

藤波 リングに上がったら鳥肌が立って、ぞくぞくしていた。緊張感で殺気立っていたし、試合前に控室で相手と話したり、笑ったりすることもなかった。

練習や試合後は毎日のように猪木と食事をともにした。「昼間殴られていても関係なかった」と猪木の周りに集まり、故・力道山など昔の話を聞き入った。朝でも夜中でも走る猪木について行き、一緒にトレーニングした。朝まで飲み明かしたり、羽目を外す選手もたまにはいたが、藤波含め、ほとんどの選手は厳しい練習の疲れを取るために休養を優先していた。

藤波 一番上の人が1番練習するから僕らも休むことができない。みんな気が張ってダラダラしていられなかった。

猪木の「お客さんから金をとれる体を作れ」という教えを守り、プロレスラーとして長くリングに上がる体を作り上げた。日本プロレス入門から半世紀以上の付き合いになる猪木とは、引退後も交流は続く。2年ほど前まで毎月1回、夫婦で食事会をしていた。猪木の前では今でも緊張して直立不動になることもあるという。

藤波 妻は「お互いに良い年なのに」と不思議がるが、50年たっても関係性は変わらない。僕にとっては永遠の師匠。

今の藤波のプロレスを作ったのは間違いなく猪木の存在が大きいが、実はもう1人、50年現役の藤波にとって「今の自分がいるのは彼のおかげ」という男がいた。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

アントニオ猪木(下)に卍固めを見舞う藤波辰爾(1988年8月8日撮影)
藤波辰爾(右)に闘魂注入したアントニオ猪木(2019年4月26日撮影)

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【藤波辰爾50周年連載2】北沢幹之氏との出会いがプロレス人生の始まり

19年4月、恒例の「ダーッ!」を決める、左から越中詩郎、坂口征二氏、アントニオ猪木氏、長井満也、北沢幹之氏、獣神サンダー・ライガー、藤波辰爾

<藤波辰爾のプロレス人生50年(2)>

プロレスラーの藤波辰爾(67)が9日にデビュー50周年を迎える。「藤波辰爾のプロレス人生50年」第2回は、プロレスとの出会いについて。同郷の先輩、北沢幹之氏と苦労の末に出会ったことが、藤波のプロレス人生の始まりだった。【取材・構成=松熊洋介】

藤波は陸上部だった中学時代、テレビを見てプロレスラーへのあこがれを抱いた。親に内緒で実家のある大分・東国東郡(現・国東市)から、大分市内へプロレスを見に行っていた。チケットは市内で働いていた兄が用意してくれた。頭の中はプロレスでいっぱい。自転車で約4時間。山越えの険しい砂利道も全く苦にならなかったという。

藤波 ただプロレスが見たいという一心で勇気を振り絞って。たまに学校をサボって行ったこともあるくらい(笑い)。親には怒られたが、授業のことなんか頭になかった。今から思えばよく行ったなと。

興味とは反対にケンカは嫌いだった。体が大きくいじめには遭わなかったが、痛いのが嫌で、学校での柔道ですら怖かったという。中学卒業後、工場で働いていたが「プロレスラーに会いたい」という欲求を押さえきれず、自ら行動に出た。同郷の北沢氏が足の療養で別府温泉に来ていることを聞き付け、探しに行った。兄と旅館を何十軒も歩き回り、やっとのことで北沢と対面した。

藤波 プロレスラーは怖いイメージがあったから、兄についてきてもらった。(北沢は)小さい方だったけど、大きく見えたなあ。足も震えていた。あの熱意は今でも不思議に思う。何かに取りつかれていたような感じだった。

藤波の熱意に北沢が応え、一緒に上京した。格闘技をやる性格でないことは親も承知。意志を伝えると驚かれ、反対されたが、押し切った。日本プロレスの門をたたいた。周りは相撲や柔道、格闘技の経験がある猛者ばかり。正式な入門もしていない藤波は当時、第一線で活躍していたアントニオ猪木に出会う。初めて聞いた猪木の言葉は「おい北沢、あいつ誰だ?」だった。北沢氏が「同じ田舎のプロレス好きで、猪木さんのファンだから連れて来たんです」と紹介してくれた。

藤波 相撲部だったら親方がスカウトしてくれる。プロレスは大衆化していないので、よほどケンカが強いか、柔道の有段者とかしか入って来られなかった。自分は異例中の異例だった。

「北沢さんに会ってなかったら今の自分はない」。心優しい藤波少年の熱い思いが運命の出会いを呼び、夢の実現につながった。日本プロレス入門後、家族以上の付き合いとなる猪木の厳しい指導が始まる。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し凱旋(がいせん)帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

72年、新日本プロレスを設立したアントニオ猪木(左から2人目)は世田谷区の自宅を道場に改装し、道場開きを行う。右端は18歳の藤波
72年、新日本旗揚げ当時の藤波

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【藤波辰爾50周年連載1】78年飛龍原爆固めで初戴冠「ドラゴン」ブーム

78年、WWWFジュニア王座タイトルマッチで剛竜馬(後方)をやぶり、王座を防衛しベルトとトロフィーを掲げる藤波

<藤波辰爾のプロレス人生50年(1)>

プロレスラーの藤波辰爾(67)が9日にデビュー50周年を迎える。新日本プロレスを立ち上げから支え、99年には社長にも就任。低迷期を乗り越え、1度も引退することなく、現在でもリングに立ち続ける。日刊スポーツでは「藤波辰爾のプロレス人生50年」と題して、6回にわたり連載する。第1回はプロレスラー藤波辰爾。【取材・構成=松熊洋介】

★必殺技「ドラゴン・スープレックス・ホールド(飛龍原爆固め)」 1978年(昭53)1月23日、無名ながらWWWF(現WWE)ジュニアヘビー級王座を獲得。王者エストラーダにフルネルソンを決めたまま、原爆固めの要領で後方に投げ、そのままフォールした。

★「ドラゴン」ブーム 78年の王座獲得で一気にスターダムに。日本でも女性や子供のファンを獲得。ジュニアながら、ブルース・リーをほうふつさせる肉体美、軽快な動きから名前の「辰=龍」にちなんだ「ドラゴン」ブームを巻き起こした。

★「オレはお前のかませ犬じゃねえ」 81年にはヘビー級転向。82年からは「飛龍十番勝負」でホーガン、ブッチャーらと戦った。同10月には長州との抗争が勃発。「オレはお前のかませ犬じゃねえ」という暴言を吐かれ、大乱闘。その後も感情むき出しの“ケンカ”が続いた。

★師匠アントニオ猪木との激戦 85年12月のIWGPタッグ・リーグ優勝戦でも、この大技で師匠アントニオ猪木からフォールを奪った。88年にはIWGPヘビー級の防衛戦に猪木が挑戦、60分間戦った末に引き分けた。

★ケガとの戦い 89年にベイダーとの一戦で腰を負傷。選手生命の危機に立たされた。「立って歩けないくらいくらいになった」。1年半後に復帰も、痛み止めを飲みながらの戦いはその後も続いた。93年にはG1クライマックス、94年にはIWGPヘビー級王座を獲得。

★社長就任 99年に新日本プロレスの社長に就任し、第一戦から退いた。格闘技ブームや他団体の盛況もある中で低迷期を支え続けてきた。04年に社長を辞任。06年に新日本を退団する。

★現在 「ドラディション」を立ち上げ、11年には長州らと「レジェンド・ザ・プロレスリング」も旗揚げ。15年3月には、猪木に次いで日本人2人目となるWWE殿堂入りを果たした。昨年からは「日本プロレス殿堂会」を発足させて、後世の育成にも尽力する。「50年という感じはしないが、いろんな人と話をするとよみがえってくるので年月は感じる。いろんな歴史を見てきた中でいい経験をさせてもらっている」と話した。

第2回は、波瀾(はらん)万丈の人生を歩む藤波のプロレスとの出会いに迫る。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し凱旋(がいせん)帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

83年10月26日、タッグ戦で長州力(下)に逆サソリ固めで攻める藤波
83年11月19日、新日本プロレス千葉大会でリングに上がった左から藤波、アントニオ猪木、ハルク・ホーガン

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WWE、IGF出身の鈴木秀樹と契約 コーチングスタッフに

WWEパフォーマンスセンターのコーチングスタッフ入りした鈴木秀樹

米プロレスWWEは24日(日本時間25日)、アントニオ猪木が主宰していたIGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション)出身のプロレスラー鈴木秀樹(41)と契約したと公式サイトで発表した。22日配信のNXT大会でデビューした日本女子レスラーのSareeeことサレイらとともに新加入したメンバーの1人として名を連ねた鈴木はWWEパフォーマンスセンターのコーチングスタッフになったと報告された。

公式サイトでは「レジェンドの(人間風車)ビル・ロビンソンのもとスネーク・ピット・ジャパン(東京・杉並区)でキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの訓練を受けた北海道出身の日本人」などと紹介されている。

08年にIGFでデビューした鈴木は14年からフリーに転向し、ゼロワンや全日本プロレス、大日本プロレス、女子プロレスのアイスリボンなど多くの国内団体に参戦。今年1月に渡米していた。

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佐山サトルがリング上がった「40周年お祝いしたい」杖使わず足取り軽やか

リング上であいさつする初代タイガーマスクの佐山サトル氏(撮影・中島郁夫)

初代タイガーマスクの佐山サトル(63)が22日、19年9月以来となるリングに立った。

23日にデビュー40周年を迎える初代タイガーマスクの記念大会第1弾「ストロングスタイルプロレス後楽園大会」に登場し、元気な姿を見せた。「体調が良くなかった」と言いつつも、車いすもつえも使わず、軽やかな足取りでリングに上がった。「気持ち良かった。みなさんと一緒にお祝いしたい」と熱く語った。

レジェンドたちもビデオメッセージでお祝いした。長州は「以前は連絡し合ってごはんを食べに行く仲だった。今は心配しているが、タイガーマスクは病気にも負けない。1日も早くリングでお会いしたい」とコメント。藤波は「4次元殺法。あなたの動きが大好きだった。またいろんなところで夢を与えて欲しい」とエールを送った。

佐山は15年に狭心症と診断され、心臓を手術。16年に復帰するも昨年再び体調を崩し、リングからは離れていた。昨春のアントニオ猪木(78)の同窓会も欠席していたが、現在は自力で歩行できるまで回復。日刊スポーツの取材にも「日によって変わるが、暖かくなれば大丈夫」と笑顔を見せていた。

今後もストロングスタイルの魂を継承していく。「力道山先生、猪木さん、藤波さん、長州さん、私によって作られた。このナチュラルな試合を世界に広げて、最高のプロレスを作っていきたい。僕らがやっていかないといけない」と決意を語った。

「基本の技をしっかり身に付け、リング上で表現する。そこにリアリズムがあってそれを追求する」。現役時代は練習不足でリングに上がれば、パフォーマンスの低下を観客から見抜かれた。「基本も知らずにやっているとヤジを飛ばされ、殺気や緊張感もあった。お客さんを引きつけるプロレスをしていかないと先輩に怒られた」と話した。もちろん、現在のプロレスを否定しているのではない。「分かってくれる人もたくさんいる。技も複雑になっていて、作り上げていくのは大変。そんな中で殺気を見せていけたら素晴らしい試合になる」と語る。

この日はかなわなかったが、いずれはコーナーポストに上ることも考えているという。「高さを調べようと思ったけど、できなかった。いつか上がることを夢見て頑張ろうと思う」。40周年記念第1弾の今大会を無事に終えた。今後はすでに7月と10月の2大会が予定されている。ストロングスタイルを受け継いでいくため、これからもリングに立ち続ける。【松熊洋介】

リング上であいさつする初代タイガーマスクの佐山サトル氏(撮影・中島郁夫)
リング上であいさつする初代タイガーマスクの佐山サトル氏(撮影・中島郁夫)

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猪木、小鉄…プロレス道たたき込まれた/タイガーマスクの40年2

笑顔を見せるアントニオ猪木(右)と初代タイガーマスク(2011年1月17日撮影)

「タイガーマスク」佐山サトル(63)には、プロレス道の魂が宿る。

23日にデビュー40周年を迎える初代タイガーマスクの記念大会「ストロングスタイルプロレス」(22日、後楽園ホール)に向け、佐山が日刊スポーツの取材に応じた。「タイガーマスクの40年」と題した連載第2回(全3回)は、佐山とアントニオ猪木。

佐山の原点は、アントニオ猪木(78)にあった。76年5月デビュー後、猪木の付き人を2年間務めた。そのプロレス道は「基本をしっかり身に付けた上で、リング上で表現する。ナチュラルにみせることができるのが昭和のプロレス」と明かす。観客は持っている食べ物を食べ忘れるほど引き込まれた。佐山自身もかつて、都内にある猪木酒場(昨年閉店)で観戦時、「最初はにらみ合ってばかりで、地味な展開のように思えたが、いつの間にか引き込まれて最後まで見てしまった。これが猪木さんの天才的なところ」と話すほどだ。

その魅力は、圧倒的な練習量と地道な基本の積み重ねがあった。試合がない時は常に練習。「寝技のスパーリングばかりしていた」。当時は練習公開され、ファンの厳しい目にさらされることもあった。本番でつまらない試合をするとヤジが飛んできた。練習での猪木は厳しかったという。「サボるといつもみんな怒られていた。自分は(練習が)結構ちゃんとやっていたのであまりなかったけど(笑い)」。闘魂注入のビンタは、受けたことはない。「目の前で(人が)張り手を受けている姿を見てきたので、やられたいとは思わないよ」と語った。

先輩たちも猪木イズムを継承して厳しかった。故・山本小鉄さんには礼儀を教わった。半年に1回来日する故・カール・ゴッチさんからは服装やマナーをしつけられた。「麺を食べる時、音を出すなと言われた。忠実に守ってきたから、今でも音を出してすすれない」と笑顔で振り返る。

猪木とは昨年行われた同窓会で対談の機会があったが、自身の体調が良くなかったため、実現しなかった。今年に入って入院している猪木の姿をユーチューブで見て「また会いたくなった」と心配な表情を見せた。ただ、「プロレスラーはみんな体が強い。猪木さんのことだから、つくっているかもしれないよ」と笑い飛ばした。

佐山には、猪木ら厳しい先輩たちに教わったプロレス道の魂が宿る。現在は礼儀と基本を重視し、表現できるレスラーを育てている。

プロレスから新たな世界へ。「タイガーマスク」として衝撃的なデビューから2年がたち、3年目に突入した83年。佐山は大きな決断を下す。(続く=第3回は格闘技の世界へ)【松熊洋介】

◆佐山サトル(さやま・さとる) 1957年(昭32)11月27日、山口県生まれ。小学校で格闘技に興味を持ち、高3時にはレスリングで国体出場。75年7月新日本プロレスに入門し、76年5月デビュー。山本小鉄、アントニオ猪木の付け人を務める。その後メキシコ遠征から帰国し、81年タイガーマスクとしてデビュー。83年8月に一時引退。84年スーパータイガーに改名し、UWFで現役復帰。85年に脱退、格闘技「シューティング」(後の修斗)を設立。94年新日本で4年ぶりにリング復帰。99年には掣圏真陰流を設立した。

初代タイガーマスクデビュー40周年記念大会に向けてインタビューに応じた佐山サトル(撮影・松熊洋介)
新日本入門以降、アントニオ猪木とUFO創設などで密接に関わる
84年、手を合わせるUWFのメンバー
84年、前田日明と対戦
04年、3代目(中央)4代目タイガーマスク(右)と
07年、小林邦昭と対戦
16年、アレクサンダー大塚と対戦
18年、新間氏(右)とダイナマイト・キッドさんを追悼する
タイガーマスクのライバル、ダイナマイト・キッド
20年、新間寿氏と長期休養中にあいさつ

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静かな会場に落胆…実は引き込まれていた観客/タイガーマスクの40年1

84年2月、「タイガージム」を開設

佐山サトル(63)が、1年半ぶりにリングに上がる。23日にデビュー40周年を迎える初代タイガーマスクの記念大会「ストロングスタイルプロレス」(22日、後楽園ホール)に向け、佐山が、日刊スポーツの取材に応じた。「タイガーマスクの40年」と題して、3回にわたって連載する。第1回はタイガーマスク誕生秘話。

衝撃デビューから40年。あの初代タイガーマスクがリングに戻ってくる。40周年記念大会第1弾で、昨年9月以来となるリング登壇に意欲を見せる。「リングには上がれるがコーナーポストは無理かな」とジョーク交じりに笑顔を見せた。

15年に狭心症と診断されて心臓を手術。16年に復帰するも再び体調を崩し、リングからは離れていた。その後自力で歩行できるまでに回復し、昨年からは公の場にも登場。体調について「寒い時は少し悪いが暖かくなると大丈夫」とガッツポーズをつくってみせた。

81年4月23日。新日本プロレスの蔵前国技館大会でタイガーマスクはデビューした。虎の覆面をかぶった身長173センチの小柄な男は、リングに革命をもたらした。「4次元殺法」と呼ばれた華麗な空中技で、血なまぐさいマットを華やかな舞台へと変えた。

もともとタイガーマスクは1試合限定の予定だった。テレビ朝日で放送開始したアニメ「タイガーマスク2世」の番組宣伝を兼ねたタイアップ企画だった。その主役に佐山が抜てきされた。アントニオ猪木や当時営業部長だった新間寿氏の指名だった。佐山は、当時サミー・リーとして英国で絶大な人気を誇っていた。最初は「帰れないと断った」。すると新間氏から「猪木の顔をつぶさないでくれ」と言われ、1試合で英国に戻るつもりで帰国した。

「期待されている」と思って受け入れたが、違っていた。用意されたマスクとマントは、シーツのような薄っぺらな生地で一夜漬けで作製したような代物だった。ファンからのヤジも聞こえ、予想外の反応に戸惑った。

このデビュー戦は「伝説の一戦」といわれる。ダイナマイト・キッドとの9分29秒の激闘は、それほど衝撃的だった。見たこともない飛び技と、切れ味鋭い打撃。美しいフォームのソバットを繰り出し、ジャーマンスープレックス・ホールドで勝利した。試合後の会場は、静寂に包まれた。総立ちで拍手が起こっていた英国と違った。「ウケなかった。すぐに英国に帰ろう」とそそくさとリングから引き揚げた。実は佐山のファイトに会場が引き込まれていたからだった。周囲はたった1試合で激変した。ファンから次戦の問い合わせが殺到。新日本は2週間後に2戦目を組んだ。

タイガーマスクの時代は2年4カ月と短い。なのにプロレス史に強烈な印象を残した。それは空中殺法が華麗だったからではない。圧倒的に強かったから。シングル、タッグ合わせて通算387戦で敗戦はわずか11試合。しかもシングルマッチは165戦してダイナマイト・キッドに反則負けした1敗のみ。残るタッグでの10敗も、タッグパートナーがフォールされただけだ。初代タイガーマスクは1度もフォール負けしていない。

現在はプロレスラーと格闘家の育成に励む。83年の引退後には「18歳の時から考えていた」と格闘技「シューティング(現・修斗)」を作った。人格、平静心を鍛え、礼儀を重んじる佐山の魂を受け継ぐ選手たちがリングで躍動している。

佐山は新日本プロレスに誘ってくれた新間氏との縁を「数奇な人生」と振り返る。「タイガーマスクになれと言われたし、付き合ううちに考え方も一緒だと分かった。人間の本当の優しさを持っている人」。タイガーマスク人生を作り上げてくれた恩師と、温かく見守り続けるファンのために、リング上の元気な姿で恩返しする。(続く=第2回は「佐山サトルとアントニオ猪木」)【松熊洋介】

◆佐山サトル(さやま・さとる) 1957年(昭32)11月27日、山口県生まれ。小学校で格闘技に興味を持ち、高3時にはレスリングで国体出場。75年7月新日本プロレスに入門し、76年5月デビュー。山本小鉄、アントニオ猪木の付け人を務める。その後メキシコ遠征から帰国し、81年タイガーマスクとしてデビュー。83年8月に一時引退。84年スーパータイガーに改名し、UWFで現役復帰。85年に脱退、格闘技「シューティング」(後の修斗)を設立。94年新日本で4年ぶりにリング復帰。99年には掣圏真陰流を設立した。

<タイガーマスクアラカルト>

◆技 デビュー戦から毎試合のように高度な新技を披露した。有名な後ろ回し蹴りローリングソバット、バック宙しながら相手を蹴るサマーソルトキック、コーナーポストからの旋回式ボディープレス…。1試合で複数の新たな必殺技を決めることもあった。そのほとんどがオリジナル技だった。

◆歴代タイガーマスク 初代の佐山は83年に一時引退し、UWFでスーパータイガーに改名。84年8月に故・三沢光晴さんが2代目としてデビューし、90年まで務める。92年に金本浩二が3代目。佐山の教えを受けた4代目は、95年7月にデビューし、現在も新日本プロレスのリングに立つ。

◆ライバル 

ダイナマイト・キッド 「それまで対戦した中で一番強かった」と明かす。82年8月、WWFジュニアヘビー級王座をかけた蔵前国技館大会では、試合開始と同時にハイペースで技を応酬。リング上から場外へ投げ捨てるブレーンバスターで反撃し、サイドスープレックスの体勢から、受け身の取れない変形パイルドライバー。鼻血を出したキッドに、旋回式ボディープレスを浴びせ3カウントを奪った。

「暗闇の虎」ことブラックタイガー 82年5月に、相手の必殺技であるツームストン・パイルドライバーを逆に仕掛け、ラウディング・ボディープレスで勝利した。

メキシコ修業時代から一緒だった小林邦昭と数々の激闘を繰り広げた。82年10月の初対決からマスクを引き剥がされるなど、WWFジュニアヘビー級のベルトを懸けて何度も戦った。

84年7月23日、UWFのリングに「ザ・タイガー」としてデビューしたタイガーマスクに頭突きを浴びせる藤原喜明
初代タイガーマスクこと佐山聡(2020年11月5日撮影)

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女子レスラーSarrayが来週WWEデビューへ 猪木からも闘魂注入

米プロレス団体WWEは13日(日本時間14日)、女子のSarray(25)が、来週NXTでデビューすることを発表した。日本で「Sareee」の名で活躍していたSarrayは、昨年2月にWWEと契約していたが、コロナ禍で渡米が延期。その間はシードリングなど日本の団体に参戦しながらトレーニングを続けてきた。今年1月末の大会を最後に準備に入り、2月に渡米。3月18日に正式契約を結んだ。

158センチ、60キロと小柄ながら、メンタルの強さでは誰にも負けない。中学卒業後にプロレスの門をたたいた。周りからはやっていけるか不安の声も聞く中「変わることはなかった」と意志を貫いてきた。15歳でディアナでデビューし、女子プロレスを引っ張る立場となり、18年に初タイトルを獲得した。

WWE入団が決まってからは、多くのレジェンドからエールをもらった。昨年11月にチャリティ精神を受け継ぐ初代タイガーマスクの佐山サトルから特別マスクを伝承。さらにアントニオ猪木やジャガー横田らにも会って魂を注入された。「日本の女子プロレスのすごさを見せ、世界の頂点に立ちたい」という決意を胸にトレーニングを重ねてきた。自身のツイッターでは左ハンドルで運転する姿をアップするなど、生活にも徐々に慣れてきた。渡米して2カ月、Sarrayが満を持して夢のリングに立つ。

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療養天龍を長州力ら激励「とんでもないラインきた」

日本プロレス殿堂会「レジェンドサミット」でトークショーする長州力(左)と藤波辰爾(撮影・柴田隆二)

レジェンドたちが病床の盟友にエールを送った。

日本プロレス殿堂会設立1周年記念イベント「レジェンドサミット」が3日、都内で行われ、藤波辰爾(67)、元プロレスラーの長州力(69)らが療養中の天龍源一郎氏(71)を激励した。

本来なら今イベントの立ち上げの1人である天龍氏も参加する予定だったが、先月19日から検査入院しており、不参加。最初に長州と壇上に上がった藤波は「元気そうだという話を聞いた。次回は参加してくれると思う」と思いを明かした。長州は数日前にLINE(ライン)でやりとりをしたことを明かし「ここでは言えないが、とんでもないラインが来た。今は検査入院。源ちゃんは元気いっぱいですよ」と集まったファンを安心させた。

壇上でトークショーを行った藤波と長州。2人はともにアントニオ猪木氏(78)に指導を受け、82年からはお互いの軍団同士で抗争を繰り広げるなどして新日本プロレスを盛り上げた。当時を振り返った藤波は「控室でも顔を合わせず、リングに上がると(お互いに)感情をむき出しにして戦っていた」。2人の戦いはファンも刺激したようで「周りでお互いのファン同士がケンカするなど、あり得ないことが起こっていた」と当時のエピソードも披露した。

「日本プロレス殿堂会」は昨年2月に、藤波、長州、天龍氏らが、2世たちと協力し、結成。協会が存在しない業界の中で「プロレスの宝を守ろう」と、文化の伝承や、歴史を創ってきたレジェンドの功績をさまざまな形で伝えていく活動を行っている。昨年はコロナ禍で開催できなかったが、この日ようやく第1回のイベントが実現。藤波は「今後は往年で活躍した選手たちを殿堂入りさせたい」と意欲を見せた。

この日は、小橋建太氏(54)、田上明氏(59)、越中詩郎(62)、ザ・グレート・カブキ(72)も参加。リング上でぶつかり合った仲間たちと久しぶりの再会を楽しんだ。先月天龍氏とのトークショーを行う予定だった小橋は今イベントに参加を志願。「代わりになるかは分からないが、名乗りを上げさせてもらった。回復も祈っているし、今度は戻ってきて、天龍節を聞けることを楽しみに、第2回もまた来てください」と語った。

また天龍氏は、娘で「天龍プロジェクト」の代表取締役である嶋田紋奈氏を通じ「行けなくなってしまいましたが、みなさん殿堂会の1周年を盛り上げてくれてありがとう。俺はまたファンに元気な姿を見せられるように頑張ります」とメッセージを寄せた。

日本プロレス殿堂会「レジェンドサミット」でトークショーする小橋建太氏(左)と田上明氏(撮影・柴田隆二)
日本プロレス殿堂会「レジェンドサミット」でトークショーをする越中詩郎(左)とザ・グレート・カブキ(撮影・柴田隆二)
日本プロレス殿堂会「レジェンドサミット」で記念撮影に納まる。左から長州力、藤波辰爾、小橋建太氏、田上明氏、越中詩郎、ザ・グレート・カブキ(撮影・柴田隆二)

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元王者ロブ・ヴァン・ダムが21年殿堂入り、5人目

21年のWWE殿堂入りが決まったロブ・ヴァン・ダム(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.

「RVD」コールに合わせ親指を立てた両腕を広げ、自分の顔に向けて動かす独特のポーズを取ることで人気を博した元WWEヘビー級王者ロブ・ヴァン・ダム(50)が21年WWE殿堂入りすると29日(日本時間30日)発表された。90年代後半に全日本プロレス、08年にはアントニオ猪木主宰のIGFにも参戦するために何度も来日している。

90年にプロデビューを果たし、92年にWCWと契約。96年にECWに参戦し、98年にはECW世界TV王座を奪取し、699日間の保持記録を樹立。さらにサブゥーとのタッグでECW世界タッグ王座も奪取し、2冠王となった。ECW崩壊後、01年にはWWEに参戦。アライアンスの一員としてWWEハードコア王座で躍動し、タッグ戦ではケイン、ブッカーT、レイ・ミステリオJr.のパートナーとしても人気を集めた。

06年4月、年間最大の祭典レッスルマニア22大会でマネー・イン・ザ・バンク・ラダー戦に勝利し、1年間有効の王座挑戦権利証をゲット。同年6月のPPV大会で、当時のWWEヘビー級王者ジョン・シナを下し、最高位のベルト奪取にも成功していた。

これで21年WWE殿堂入りはモーリー・ホーリー、エリック・ビショフ、ケイン、ザ・グレート・カリに続き5人目となる。昨年式典が中止となったものの、20年WWE殿堂入りが発表されたバティスタ、nWo、ベラ・ツインズ、ジョン“ブラッドショー”レイフィールド、デイビーボーイ・スミス、そして獣神サンダー・ライガーも出席する21年WWE殿堂入り式典は6日に開催される。

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アントニオ猪木氏が動画更新「腰の痛みと」現状語る

アントニオ猪木氏(17年9月撮影)

アントニオ猪木氏(78)が21日、自身のツイッターを更新し、ファンから届いた応援メッセージに対して感謝の言葉を送った。

ツイッターの文面では「元気ですかー!。この前応援メッセージを随分もらったようで本当にありがとうございました。今後コロナがいずれ収まるだろうし、そうなったときに俺自身が見たもの、聞いたもの、そういうテーマがいっぱいできたんで、それに向けて頑張っていきます。いくぞ! 1・2・3・ダァーッ!」とコメント。

また動画も一緒にアップし「大きな声も出せない時代になってしまいましたが、やっぱりこうやって大事なのは人と話すこと」と話した後に自身の病気についても語った。「1つはやっぱりね、腰の痛みと、アミロイド系の呼吸が苦しいというのもあるんですが、まぁまぁこの前も応援メッセージを随分事務所の方へもらったようですから、本当にありがとうございました」とメッセージを送った。

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Sareee、「Sarray」でNXTデビューへ

米プロレス団体WWE は17日(日本時間18日)、女子のSareee(24)が、NXTでまもなくデビューすることを発表した。

具体的な日時は発表されていないが、WWEでの新しいリングネームは「Sarray(サレイ)」となる。

Sareeeは昨年2月にWWEと契約したが、コロナ禍で渡米が延期。その間はシードリングなど日本の団体に参戦しながらトレーニングを続けてきた。昨年11月にはチャリティー精神を受け継ぐ初代タイガーマスクの佐山サトルから特別マスクを伝承。さらにアントニオ猪木やジャガー横田など多くのレジェンドたちからエールをもらった。

今年1月末の大会を最後に準備に入り、2月に渡米。「日本の女子プロレスのすごさを見せたい」という決意を胸に渡米した「Sarray」が、いよいよWWEのリングに上がる。

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78歳グレート小鹿が初防衛「猪木さん戻ってきて」

新潟タッグ王座初防衛に成功した小鹿は、アブドーラ小林を攻めたてる

<新潟プロレス>◇14日◇新潟市東区プラザホール

セミファイナルの新潟タッグ選手権で、王者のグレート小鹿(78=大日本)シマ重野(新潟プロレス)組が、アブドーラ小林、“黒天使”沼沢邪鬼(ともに大日本)の挑戦を退け、初防衛に成功した。15分を超える攻防の末、小鹿が15分10秒、ラ・マヒストラルで小林を沈め、21年初の試合で現役最高齢のベルトを守った。小鹿は、4月22日の大日本上野大会で、アブドーラ小林の持つ新潟無差別級王座挑戦も決定。18年に同ベルトを奪取して日本国内最年長記録を更新して以来のシングルベルト挑戦となる。

小鹿は「4月29日は私の79歳の誕生日。1週間前の誕生祝いだ。今度ベルトを取ったら80歳までベルトを守り続ける。小鹿がまだまだ現役バリバリだっていうところを世界に証明してやるぞ!」と鼻息も荒く宣言した。また、1歳年下で同じ力道山の弟子であるアントニオ猪木氏が入院していることに「リハビリの様子を見て心配していたんだよ。オレの姿を見て、猪木さんにも早く戻ってきてほしいよ」とエールを送った。

グレート小鹿(2020年3月16日撮影)

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猪木が闘魂メッセージ「こんな状況でも戦っている」

アントニオ猪木氏(2019年9月2日撮影)

病気療養中の元プロレスラー、アントニオ猪木氏(78)が7日、自身のYouTubeを公開し、11分間に及ぶメッセージを届けた。最後に「1、2、3、ダー」と高らかに叫んだ。

病院のベッドで寝たままの状態ではあったがしっかりとした口調で「もう少し頑張って元気な姿でお目にかかりたいと思っています。とにかくこんな状況でも猪木が一生懸命戦っているという姿を見ていただけたら」と話し始めた。

症状については「少しずつだが、良くなってきている」と明かした。2年前から治療している腰については「時間はかかるけど、手術をしない方向でやっている。前は乗馬ズボンをはいているくらいむくんでいた」と語った。

冗談も飛び出した。「今は何がしたいかと言うと、冷たい水をコップ一杯グワーッと、ついでに生ビールもいっぺんに飲み干したい」とほほ笑んだ。

後半には政治について語るなど話し続け、最後に視聴者に向かって闘魂を注入した。

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飯伏幸太が世界ヘビー級初代王者「世界一ベルトに」

飯伏幸太対エル・デスペラード 勝利した飯伏幸太は2本のベルトを掲げて雄たけびを上げる(撮影・浅見桂子)

<新日本プロレス>◇4日◇日本武道館

IWGPヘビー級、同インターコンチネンタル(IC)2冠王者の飯伏幸太(38)が、エル・デスペラードに2度のカミゴェを決めて勝利し、今回から統一となったIWGP世界ヘビー級の新王者に輝いた。1月4日に2冠王者となってから言い続けた統一の願いが、2月28日の内藤戦でのIC防衛後に実現。最初のタイトルマッチでベルトを手にし、新たな歴史を作り始めた。

   ◇   ◇   ◇

最後の2冠戦を制したのは飯伏だった。終始左足を攻められ続けた苦しい戦いに、右膝2発でピリオドを打った。試合後は崩れ落ちたデスペラードとガッチリ握手。「本当に強かった。(試合前に)しょっぱいとか言ってごめんなさい」と相手の力を認めた。リング上で見納めとなる2つのベルトを手にし「これを1つにして世界のベルトにしたい」と高らかに叫んだ。

1月5日の2冠初防衛後に統一を宣言。新日本プロレスに受け入れられず、2度目の防衛戦後に改めて要求。2月末に内藤に勝利し、ようやく実現となった。以前から「歴史を残した上で統一する」と話していたが、否定的な意見もあり、この日はデスペラードへの手拍子の方が多いというまさかの事態。そんな劣勢も王者のプライドではね返し、ベルトを死守した。

87年、アントニオ猪木が初代王者となったヘビー級。11年に創設され、飯伏の尊敬する中邑真輔らが支えてきたIC。実力者たちが巻いてきた2つのベルトに終止符を打った。初の防衛戦は4月4日。この日始まったニュージャパン杯の勝者と戦う。「いつでも誰でもいい。強い相手と戦って世界一のベルトにする」。初代王者となった飯伏は、これから歴史を作り出す。【松熊洋介】

飯伏幸太対エル・デスペラード エル・デスペラード(手前)にカミゴェを見舞って試合を決める飯伏幸太(撮影・浅見桂子)
飯伏幸太対エル・デスペラード エル・デスペラード(手前)にキックを見舞う飯伏(撮影・浅見桂子)

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