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【藤波辰爾50周年連載5】プロレスの証しを残す「殿堂会」を設立

WWEに殿堂入りしリング上であいさつする藤波辰爾(2015年7月3日撮影)

<藤波辰爾のプロレス人生50年(5)>

プロレスラー藤波辰爾(67)は2015年、アントニオ猪木以来となる日本人2人目のWWE殿堂入りを果たした。今月9日にはデビュー50周年を迎えたばかり。プロレス人生を振り返る連載第5回は、レジェンドたちの偉業の継承。【取材・構成=松熊洋介】

夢のような時間だった。15年のある日の夜中、自宅にいた藤波はWWEからの電話で、殿堂入りの知らせを受けた。妻・伽織さんと2人で招待された。毎年各都市の招致合戦が繰り広げられるほどの大イベント。空港に降り立つと、カリフォルニア州・サンノゼの街全体が祝福ムードに包まれていた。殿堂入りの英雄たちの垂れ幕が掲げられ、ホテルまではパトカー10台以上に先導されて向かった。

藤波 国賓級の扱いだった。今思い出しても鳥肌が立つくらい。プロレスラーになってこんなことがあるのかと…。長くやっていてよかったなあと思った。

選手だけでなくプロレス界に貢献した人物も対象で、13年には前米大統領のドナルド・トランプ氏なども表彰されている。セレモニーで藤波の隣にいたのは、元カリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツェネッガーだった。ライバルだったフレアーに紹介され、藤波はタキシード姿で登壇した。「すべての人々、WWEへこの名誉に対し感謝します。61歳で、43年間戦い続け、まだ戦っています。これは私の使命。私をサポートしてくれた家族に感謝したい」と英語でスピーチ。数万人が詰め掛けた会場は大歓声に包まれた。翌日にはMLBサンフランシスコ・ジャイアンツの球場でリングに上がり、大観衆の前でプロレスを披露した。

藤波 昨年は獣神サンダー・ライガーが殿堂入りした。将来的にはコラボして、日本でも開催されるような時代が来ればいい。こういうのを知ってしまうと、みんな目指すべきだろうと。日本のプロレスラーたちも目指す欲を持って欲しい。

昨年2月、「日本のレジェンドたちの功績をたたえたい」と天龍や長州らと「日本プロレス殿堂会」を設立。コロナ禍でなかなか動けなかったが、今年4月、小橋、田上らとトークショーを行い、活動をスタートさせた。

藤波 僕らが殿堂入りしたいわけではなくて、猪木さんとか、させなきゃいけない人のためにそういう組織をつくらないといけないと思って。プロレス界は、なかなか横のつながりがなかったが、どこかで作っておかないと自分たちが生きてきた証しがなくなっちゃうんじゃないかと。

故ジャイアント馬場さんや猪木らの時代をともにしてきた。先輩から学んできたものを後世に伝える使命があると考える。

藤波 誰かが言い伝えていかないと。今でも当時の光景が頭に浮かぶ。今の選手たちに、あれだけ繁栄した時代があったんだよと思い出を残しておきたい。

現役としてリングに立つ一方で、プロレスの証しを残そうと動きだした。50周年を迎えたが、残りのプロレス人生、藤波にはまだやるべきことが残っている。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付け人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

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11周年天龍プロジェクト再始動 娘の嶋田紋奈氏「誇り持って進んでいく」

天龍プロジェクト新木場大会 6人タッグで勝利後、バックステージでポーズを取る、左から真霜拳號、越中詩郎、AKIRA(撮影・松熊洋介)

<天龍プロジェクト SURVIVE THE REVOLUTION>◇25日◇新木場1stRING◇無観客

今月19日に11周年を迎えた天龍プロジェクトが再始動した。

昨年11月の天龍源一郎引退5周年記念大会以来の開催は、東京都の緊急事態宣言により、無観客となった。同団体代表で、天龍の娘でもある嶋田紋奈氏は「15年までと同様、小さな所帯ではありますが、志を高く持って、伝承文化というプロレスを重んじ、誇りを持って進んでいく」と決意を語った。

島田氏からいい知らせが届けられた。3月から体調を崩して入院中の天龍が、来週にも退院予定だという。「しっかりと治療に励み退院となった。今後は天龍プロジェクトの大会を盛り上げてくれると思う」とレジェンドの復活を待ち望む。

今後は月2回ペースで興行を行っていく。インターナショナルジュニアヘビーのベルトも復活させる。「シングルのベルトは8選手によるトーナメントで争いたいと思っている。参加したい選手はぜひ」と呼び掛けた。試合後にはすでに数選手が参戦表明。嶋田氏は「天龍からは、プロレスラーに戦いの場を1つでも多く与えられるようにと言われている。ジャイアント馬場さんのいう明るく、楽しく、激しいプロレスを基本に、天龍色にアレンジした大会にしていきたい」と語った。

21年最初の大会が無観客となってしまったが「お客さんには迷惑をかけてしまったが、こういう困難に立ち向かうことが、天龍プロジェクトらしい姿だと思う」と前を向いた。来週には天龍が戻ってくる。「選手たちの覚悟を見ている人たちに届けることができた。この試合を(天龍に)真っ先に見せて、良かったと言ってもらいたいし、今後もいい試合を見せていきたい」。ようやく21年のスタートを切った天龍プロジェクト。次の大会は5月12日。順調にいけば、11日に緊急事態宣言が解除される。レジェンドが復活し、パワーアップした天プロが熱い試合を観客の前で披露する。【松熊洋介】

天龍プロジェクト新木場大会 進祐哉にヒップアタックを決める越中詩郎(撮影・松熊洋介)
天龍プロジェクト新木場大会 大会終了後、取材に応じる天龍プロジェクト嶋田紋奈代表(撮影・松熊洋介)

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ゴルフ大好きグレート小鹿、松山偉業に感激「池ポチャにはオレが冷や汗」

グレート小鹿(2020年3月16日撮影)

松山英樹(29=LEXUS)が、日本男子ゴルフ界悲願のマスターズ優勝を果たした。これを受けて、国内最年長現役レスラーのグレート小鹿(78=大日本)も、松山の偉業に感激した。

「いやあ、感動するね。これまで、ジャンボ尾崎や青木功とか、多くの日本人が越えられなかった壁を越えて、グリーンジャケットに袖を通した。途中、15番で池ポチャしたときは、オレが冷や汗かいたよ。2日連続で早起きして、眠いけど、朝早くから日本国民に感動を与えてくれて、うれしいね」としみじみと話した。

米国でレスラーとして活躍していた1968年。ジョージア州アトランタで試合をしているときに、マスターズの存在を知った。

「米国でゴルフのすごい大会をやっているって。そのあと、ジャンボ尾崎が来るようになって、注目していたもんだよ。ジャンボ鶴田が来ていたときには、尾崎と会えないかって、いろいろ手配したんだよ。結局実現しなかったけど」

自身も、現役時代は1週間に5回プレーするほどのゴルフ好きだった。全日本時代は、ジャイアント馬場の運転手として、巡業のたびに全国のゴルフ場を回った。「馬場さんが、ゴルフ場の名前の入ったステッカーを集めるのが趣味で、ステッカー収集用のアルバムを何冊も持って回ったものです」。

「次に生まれ変わったらゴルファーになりたいと思った時期もあった。ゴルフは面白いね。松山は今日も試練を乗り越えて頑張った。彼の表情が印象的だったね。失敗しても“しまった”っていう顔をしないし、表情が変化しない。オレからみたら、とても安心感があった」と、松山のプレーに感動しきりだった。

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天山モンゴリアン封印の初戦「やっていけないよ~」

ウィル・オスプレイから自らの代名詞モンゴリアンチョップを食らう天山(撮影・浅見桂子)

<新日本:後楽園大会>◇15日◇東京・後楽園ホール

モンゴリアンチョップを取り戻したい…。天山広吉(49)が、得意技を失ってから初めて新日本のリングに上がった。

棚橋、辻と組んで6人タッグに登場。相手には1月30日の封印マッチで敗れたO・カーンがいた。試合中に両手を振り上げるも、途中で頭突きに変更。久しぶりの試合で体調万全ながら、攻撃の流れをつかめず、力を発揮できなかった。「もうここまで出てきてるけど、出せない。我慢するしかない」と悔しさをにじませた。逆に相手3人に連続でモンゴリアンチョップを食らう屈辱を味わった。見かねた棚橋がO・カーンに見舞い、一矢報いたが、天山のイライラは解消されなかった。

今月4日に「ジャイアント馬場23回忌追善興行」でリングに上がった時も出さなかった。代名詞を奪われてわずか5日、最愛の父が亡くなるというどん底の中「男だったら約束は守らないといけない」と思いとどまった。この日も最後まで我慢したが、試合後には「このままモンゴリアンなしではやっていけないよ~」と弱音を吐露。O・カーンからは「モンゴリアンがなくなっただけで、これだけ惨めな姿になるとは」と罵倒された。

それでも棚橋から「O・カーンから取り戻しましょう」と励まされ奮起。「毎日のようにやってきた技ができないなんて考えられない。ぶちのめしてやりたい」。先月デビュー30周年を迎えた天山。このまま引き下がるわけにはいかない。【松熊洋介】

モンゴリアンチョップをグレート-O-カーンに浴びせる棚橋(撮影・浅見桂子)

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「馬場さんありがとう」武藤敬司がGHC奪取宣言

メーンイベントを終えて「天国の馬場さん、ありがとう!」と、叫ぶ武藤敬司(撮影・丹羽敏通)

<ジャイアント馬場23回忌追善興行>◇4日◇後楽園ホール

馬場さんの思いを胸に武藤敬司(58)がタイトル奪取に向かう。

メインの6人タッグマッチで、諏訪魔、小島聡と組み、天山広吉、カズ・ハヤシ、河野真幸組に勝利。最後自らシャイニング・ウィザードで河野から3カウントを奪い、大会を締めた。「この6人は今は全然違う場所でやっているけど、同じ釜の飯を食った仲間。心地いい時間だった。馬場さんありがとう」と感謝した。

大きな挑戦が控える。12日ノア日本武道館大会で、GHCヘビー級王者の潮崎豪に挑む。「この中では俺が現役最年長。みんなからエネルギー頂きましたよ。最年長の俺がGHC取って大きな背中を見せてやりたい」と宣言した。これには横にいた天山も「こんな現役バリバリな58歳見たことない」と脱帽。武藤はさらに「長くやれるスポーツとして見本になりたい」と後輩や子どもたちへも思いを届ける。「(GHCを)取ればあと5年くらいいけそうじゃない?」。元気いっぱいの58歳武藤が12日、ベルトを巻いて天国の馬場さんに勝利の報告をする。

メーンイベントで得意のポーズを決める武藤敬司(撮影・丹羽敏通)

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天国の馬場さんへ届け 天龍、越中らレジェンド集合

ジャイアント馬場23回忌追善興行で、あいさつする天竜源一郎氏(撮影・丹羽敏通)

<ジャイアント馬場23回忌追善興行>◇4日◇後楽園ホール

天国の馬場さんに届けとレジェンドたちが軽やかな? 動きで観客を魅了した。

最初に登場したのは70歳天龍源一郎だった。元気よくリングに上がり「選手たちが、馬場さんの作った、明るく楽しく激しいプロレスをしてくれると思います。馬場さん、見ていてください」と声高らかに開会宣言を行った。

第2試合の8人タッグマッチでは、78歳グレート小鹿が菊池毅の胸に強烈な逆水平チョップを浴びせ、63歳大仁田厚は場外で2代目タイガーマスクを鉄柵に何度もぶつけ、62歳越中詩郎もフットワークの軽さで相手の技をかわした。最後は67歳渕正信が菊池を丸め込み、66歳和田京平レフェリーの3カウントで沈めた。4人合計270歳のレスラーたちが、リングで暴れ回った。

試合後、渕は「みんな姿、形は変わってしまったけどね」と振り返り、和田レフェリーは「同窓会みたいで控室も入りにくい(笑い)。こんなに集まってくれてうれしい」と目を細めた。自分たちの試合後には、82年2月の馬場対ハンセンの伝説の試合が放映。渕は「もう40年も経つんだね。あの試合が流れる前で良かった。あの迫力を見た後にはやりにくい」と笑いを誘った。和田レフェリーも「40年前の映像見るとやっぱりすごい。今やってほしいくらい」と馬場さんの偉大さを改めて感じた。

第1試合に登場した、みちのくプロレスの54歳、新崎人生は白装束に身を包み、さっそうと登場。ロープ上を綱渡りのように歩く、拝み渡りも披露し、バランスの良さも見せた。「22年経ってもリングで元気に上がっているということを伝えた」。

馬場さんとの思い出を聞かれ、初参戦した97年の全日本世界最強タッグリーグでのエピソードを披露。12月2日の誕生日の試合後、控え室に誰もおらず、元子夫人に呼ばれていくと、馬場さんがケーキを持ってハッピーバースデーを歌って祝ってくれたという。

「30代前半で恥ずかしかったけど、自分のためにやってくれてうれしかった」と笑顔で振り返った。

馬場さんと縁のある多くのレスラーたちが、リング上で肌を合わせ、それぞれの思い出を語り合った。

渕正信に3カウントを奪われた菊地毅(撮影・丹羽敏通)
トップロープの上を歩くパフォーマンスを披露する新崎人生(撮影・丹羽敏通)
トップロープから攻撃を仕掛ける新崎人生(中央)(撮影・丹羽敏通)

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天山広吉、父亡くし悲しみの中で馬場さん追善興行に

馬場さんの写真をてにする和田京平レフェリーと共に写真に納まる、左から小島聡、天山広吉、武藤敬司、1人おいて諏訪魔、カズ・ハヤシ、河野真幸(撮影・丹羽敏通)

<ジャイアント馬場23回忌追善興行>◇4日◇後楽園ホール

天国の馬場さんと愛する父への思いを胸にリングに立った。

新日本プロレスの天山広吉(49)が、悲しみの中、6人タッグマッチに出場。敗れはしたが「こんな機会にリングに立たせてもらって馬場さんに感謝します」としみじみと語った。

試合後、バックステージで1日に父・健治さんが、亡くなっていたことを明かした。「よく馬場さんの試合を見に連れて行ってもらった」と思い出を語った。最期をみとることはできなかったが、告別式までそばにいて「ありがとう」と感謝の思いを伝えたという。「めちゃくちゃ落ち込んでいたが、全部出し切って、自分を表現したいと思っていたので断ることはできなかった」とこの日の出場を決意。先月30日にO・カーンに敗れ、代名詞のモンゴリアンチョップを封印しており、流れをつかめない中、頭突きやラリアットでカバーした。途中技を出しかけるも、何とか思いとどまった。逆に相対した小島に代名詞を食らう屈辱も味わったが「男だったら約束は守らないといけない」と、決意が揺れ動くことはなく、最後まで両手を振りかざすことはなかった。

この日は多くのレジェンドたちと競演。12日にノアGHCヘビー級王座に挑戦する58歳の武藤が3カウントを奪う姿を見て胸を打たれた。「目標にできるし、自信にもなる」と背中を追い掛ける。コロナ禍で、代名詞を失い、さらに最愛の父の死。悲運が重なったが、この日レジェンドたちに刺激を受け、天国の馬場さんから背中を押された。「残りのレスラー人生を頑張っていきたい」。力強く前を向いた天山は、どん底からはい上がり、これからもリングに立ち続ける。

メーンイベントで得意のポーズを決める武藤敬司(撮影・丹羽敏通)
ジャイアント馬場23回忌追善興行で、あいさつする天竜源一郎氏(撮影・丹羽敏通)

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パット・パターソンさん死去 馬場や猪木と対戦

ジャイアント馬場、アントニオ猪木とも対戦したカナダ人プロレスラー、パット・パターソン氏が死去したと2日(日本時間3日)、WWEが発表した。79歳だった。近年、がんで闘病生活を送り、マイアミの病院で亡くなったという。17歳だった58年にデビュー。NWAなどで活躍後、68年4月、日本プロレスで初来日し、ワールド・リーグ戦では馬場、猪木、山本小鉄、星野勘太郎らと対戦した。73年12月には北米タッグ王者として新日本プロレスに再来日し、猪木、坂口征二組と防衛戦にも臨んだ。77年には猪木が保持していたNWAヘビー級王座にも挑んだ。

米国ではWWE前身のWWFで活躍し、初代のインターコンチネンタル王者として、WWEヘビー級王者ボブ・バックランドとも対戦した。84年に現役を引退した後、96年にはWWF殿堂入り。WWEの裏方としたプロデューサーやクリエーティブ・コンサルタントなどを務め、毎年1月のPPV大会で開催されるロイヤルランブル戦も考案していた。

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馬場、猪木と対戦 ボブ・アームストロングさん死去

ジャイアント馬場、アントニオ猪木とも対戦した米国人プロレスラー、ボブ・アームストロングさんが26日、骨がんで死去した。米プロレス団体WWEが27日、公式サイトで発表した。

骨がんが肋骨(ろっこつ)、肩、前立腺に転移していたという。

米海兵隊の軍人や消防士などを経て、60年にプロレスデビューしたアームストロングさんは68年に日本プロレスで初来日。タッグマッチで馬場らと対戦した。また72年にはジム・ドランゴのリングネームで新日本プロレスの旗揚げシリーズでカール・ゴッチらと外国人招待選手として来日。猪木とシングル戦で対戦した。米国では83年にリック・フレアーの保持したNWA世界ヘビー級王座にも挑戦していた。

また息子となるスコット、ブラッド、スティーブ、ブライアンがプロレスラーとなり、ブラッドやスティーブとはタッグを組んで活躍。TNAにも参戦し、08年にはAJスタイルズ、トム組の保持したTNA世界タッグ王座にも挑戦した。11年には米プロレス界の功績からWWE殿堂入りも果たしていた。

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秋山準DDT移籍「思うことあるが男は黙って尽力」

DDTへのレンタル移籍が決まった秋山準(中央)。左はDDT高木三四郎社長、右は福田剛紀社長

全日本プロレスの秋山準(50)が7月1日からDDTプロレスリングにレンタル移籍することが決まった。27日、DDT新宿FACE大会前に秋山、DDT高木三四郎社長、全日本福田剛紀社長が会見を行い、発表した。

秋山は5月にDDTの臨時コーチに就任。以来、ゲスト参戦しながら、故ジャイアント馬場の教えをDDTの選手に授けてきた。DDTのTシャツを着て会見に臨んだ秋山は「この年になって、まだ必要としてくれるところがあるということで正直うれしかった」と移籍を歓迎。「いろいろ思うことはありますが、男は黙ってDDTに尽力させていただきます」と意気込みを語った。

DDT高木社長は、ゲスト参戦後の反響と選手の刺激が今回の移籍につながったと説明した。「いろんなものを吸収したいという気持ちが強くなり、踏み込む形で参戦してもらいたいと思った。ダメもとで秋山さんにお願いし、(全日本)福田社長にも了承してもらった」と話した。

秋山は故ジャイアント馬場の王道を継承する全日本プロレスの顔であり、前社長として団体を支えてきた功労者。全日本福田社長は今回の移籍について「痛いものがある」と明かしつつ、「秋山選手の存在は日本のプロレス界の財産。業界発展のためにも広く後進の育成に尽力していただけるという思いが強くなり、最終的な結論になりました」と合意の経緯を説明した。

秋山はこの日、大石真翔、岡谷英樹と「秋山軍(仮)」を組み、竹下幸之介、勝俣瞬馬、飯野雄貴のALL OUT軍と対戦。DDTの若きエース竹下と16年6月にタッグ戦で対戦して以来以来4年ぶりに肌を合わせた。ほぼ同じ体格の2人は最初に相対し、押し合い、エルボーの打ち合いなど力で真っ向勝負。その後も秋山がエクスプロイダーを出せば、竹下がザーヒーで返すなど緊張感のある戦いが繰り広げられた。試合は飯野が岡谷にスピアを決め、勝利した。

秋山は「でかくなったな小僧。1発1発当たりも強い」と4年ぶりの竹下の成長を実感。その上で「お前はDDTの何なんだ。それが分かったらすごい選手になる。(元DDTで現新日本の)飯伏くんのようにメジャーに行くのではなく、DDTにいてメジャーと肩を並べろ。ただ、今のままじゃダメだ。お前はDDTの何なんなのかを自分で考えろ」と発破をかけた。

この日秋山は旧入場曲「Shadow explosion」で登場した。「僕が1番カッカと前に出ていた時の曲。それでいこうと思った」と新たな門出に気持ちを込めた。

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プロレスは最強の格闘技…幻想崩れ人気衰退/連載2

真壁は棚橋弘至(右)と激しい場外乱闘を演じた(2003年4月19日撮影)

<真壁刀義が語るプロレスの力(2)>

プロレスには不思議な力がある。24年間、プロレス界の天国も地獄も見てきた真壁刀義(47)の視点からプロレスの力を見つめ直す。第2回は、プロレスが格闘技に揺さぶられ、人気衰退していった時期をたどる。【取材・構成=高場泉穂】

◇  ◇  ◇

強さは、さまざまな魅力を持つプロレスの1つの要素にすぎない。だが、90年代後半から00年代にかけて、プロレスラーたちはひたすら強さを求めた。総合格闘技やキックボクシングがゴールデンタイムで放送され、人気を得ていた時代。“プロレスは最強の格闘技”の信念を持つアントニオ猪木は、自身がオーナーである新日本プロレスの選手と総合格闘家を戦わせ、プロレスの強さを世間に示そうとした。戦うなら負けるわけにはいかない。真壁ら新日本の選手たちは戸惑いながらも、格闘技の技術を磨き始めた。

「橋本対小川戦(注)の影響が大きかった。相手が仕掛けてきたら、やらなきゃだめだろ、というのは当時話していたよね。結局俺たちは夢見がちなクソガキの集まりで、強くなろうとこの世界に入ってるからさ。道場での合同練習が終わって、ヘロヘロなのに、みんな着替えてさらにボクシングやキックの練習とかしてた。ただ、上にのし上がってということばかり考えていたから、みんながむしゃらになってやってたよ」。

猪木は新日本プロレスのオーナーでありながら、総合格闘技団体PRIDEと深く関わり、藤田和之、ケンドー・カシンこと石沢常光や永田裕志らを次々と総合のリングにあげた。00年1月30日、PRIDEの初代王者を決めるトーナメント開幕戦が東京ドームで行われ、藤田は総合格闘技デビューする。当時新日本の寮長を務めていた真壁は後輩を引き連れ、生観戦した。結果は藤田がオランダのハンス・ナイマンに1回KO勝ち。まだ数試合残っていたが、真壁は藤田の勝利を見届けると、すぐ寮へと戻った。「あぁ、藤田くんよかったな。総合のリングでも結果出したな、って。安心したと同時に、なおさらエンジンがかかったよ」。スポットライトを浴びるには、格闘家ともやりあえる藤田のような強さを求めるしかなかった。

同時に新日本のリングでも、プロレスとも格闘技とも言えない試合が増えていった。01年6月、王者藤田と挑戦者永田によるIWGPヘビー級選手権は両者が、主に総合の試合で使用されるオープンフィンガーグローブを着用。馬乗りでの顔面殴打やグラップリングなどの総合格闘技の要素とプロレス技がまじった不思議な試合が展開され、藤田が膝蹴りKOで防衛した。浮上のきっかけをつかめない真壁は「これは俺のやりたいプロレスか?」と自問自答していた。

「当時はみんな、強くならなければ、って比重がそっちにいってたんだよね。でも、おれがガキの頃にワクワクしたのってそういうものだけじゃない。リング上で繰り広げられる、どろどろした人間模様が好きだったんだ。猪木さんがよだれ垂らしながら『てめー、このやろー』って。ああいうものに刺激されたんだよね。それなのに、なんで俺格闘技ライクなことやってんだろう、ってずっと思ってた。同じ戦いではあるかもしれないけど、直接的に戦うことと、相手の技を受けて倒すという、やり方、見せ方が違う。だから自分の中ではこれじゃねえな、と思ってたよね。総合格闘技を否定するんじゃなくて、自分を否定してたの。俺、何やってんのかな、って思ってさ。それだったら、最初から格闘技団体入ればいいじゃんって思ったの」。

葛藤を抱いていたのは真壁だけではなかった。小川との因縁試合で会社に不満を持った橋本は00年に新日本を辞め、ZERO-ONEを旗揚げ。「プロレスは芸術」の信念を持つ武藤敬司も02年に、小島聡、ケンドー・カシンを引き連れ、全日本へ移籍した。格闘技ともプロレスともいえない試合が増え、求心力をもった新たなスターもいない。全国どこの会場でも超満員だったはずが、次第に観客は減っていった。

「その流れは止められなかった。与えられた自分の試合を一生懸命やるよ。でも、控室に帰って、その日のセミとかメイン見るじゃん。なんでこんなのやってんのって思ってた。こんな試合を見せて、誰が喜ぶの、って」。

05年11月には、経済的に苦しくなったオーナーの猪木が新日本の株を手放し、新たにゲームソフト制作会社ユークスが親会社となった。翌06年には、不満を持った選手が大量離脱した。海外遠征から帰国し、さぁこれからと意気込む真壁は、大先輩が高級車を乗り回す姿に触発され、約1000万円のフェラーリ・テスタロッサを購入したばかりだった。だが、下がった給料ではとても維持できない。すぐに手放し、軽自動車に乗りかえた。

「なんかね、もうやってらんねえな、と思ったよ。今だから笑える話だけどさ、新日本やめようと思ってたからね。他団体に行こうと思ったけど、どうせならプロレスごとやめようと思っちゃった。プロレスやめて、学生時代にやってた建設業をやろうと思ってた。自分自身を否定してた。でも、俺はとどまった。なんでかって、夢だよね。ガキのころに憧れて入った新日本プロレスに入ってさ、やっぱり何かを残したいと思うし、おれが昔、狂喜乱舞したようなプロレスを客に見せたいなと思ったの。でも、その時は理想と現実の差がありすぎたのかな。会社の連中が何を考えているのか、何が正しいのか。具体的に何をすればいいのか、その時はわかんなかった」。

もう1つのメジャー団体、全日本も99年にジャイアント馬場が亡くなり、大きく揺らいだ。内紛が起こり、三沢光晴は多くの選手を引き連れ、00年にノアを旗揚げした。

猪木、馬場の時代は終わった。何度もプロレスラーが格闘家に敗れ、「プロレスは最強の格闘技」という幻想も崩れた。観客がどんどんプロレスから離れていく。その中で、プロレスラーはリングで何を見せるのか。それぞれの団体、選手が試行錯誤していた。

プロレスに限らず、物事がうまくいかない時、人は自分のことを棚に上げ、周囲の環境や他人を責めることがある。デビューから8年たっても活躍できない真壁もそうだった。だが、06年5月のある試合をきっかけに真壁は動きだす。「鬼になったよ。これじゃだめだ。このままじゃ、俺ぱっとしないで終わるなって。だから、やることなすこと全部変えてやろうと思った」。そして、真壁はヒールになった。その1歩が、プロレス界を新たな方向へ動かしていくこととなる。

(注)99年1月4日の新日本プロレス東京ドーム大会での橋本真也対小川直也戦。猪木が、格闘技路線の新団体「UFO」の刺客として送り込んだ小川が、橋本をボコボコにする。6分58分で無効試合となり、波紋を呼んだ。

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真壁刀義「こういう時こそ本領発揮」/連載1

長州、越中、石井組対藤波、武藤、真壁組  コーナーの石井(下)を殴る真壁(2019年6月26日撮影)

真壁刀義が語るプロレスの力<1>

プロレスには不思議な力がある。戦後始まった日本のプロレスは、カタチを変え、苦難を乗り越えながら続き、時に人々を勇気づけてきた。新型コロナウイルスの影響で業界全体が苦しい状況にある中、新日本プロレス旗揚げの年に生まれ、24年の選手生活で地獄も天国も見てきた苦労人、真壁刀義(47)の視点からプロレスの力を見つめ直す。【取材・構成=高場泉穂】

◇  ◇  ◇

ウイルスという、見えない敵と戦う日々。緊急事態宣言が解除されても、その終わりは見えず、人々の不安は消えない。

真壁は「こういう時こそ本領発揮しなくちゃいけないのがプロレスだと思う」と言葉に力を込めた。

プロレスは主に屋内で行われ、密集、密閉、密接の「3密」が当てはまる。新日本は2月末の興行を最後に52試合を中止していたが、6月15日から無観客での試合再開が決定した。7月11日の大阪城ホール大会から観客を迎え、興行を行う。

1972年(昭47)の旗揚げ以来、110日間も試合が中断したのは初めて。それでも、真壁ら選手たちは再開に備え、変わらず体を鍛えてきた。リングの上で戦う姿が何かの力になると信じて。

「俺は最後に勝ちゃいいじゃねえか、と思ってんだよね。プロレスは1回、2回、3回負けた。それでも4回目、5回目に勝ちゃいいの。何か人生でつまずくことがあったとする。そのままあきらめるんだったら、あんたの人生はそれでいいじゃん。ただ、あきらめないでいこうと思ってんだったら、さぁがんばれよ、ってケツをたたきたいね。まわりの人間がどう思っているかは関係ない。自分自身がどう転がるか、どう戦うかだよ。俺の言ってることは確かに理想だ。簡単に言うなと思うかもしんないけど、言ってんの俺だぜ?俺、言っとくけど地獄の底を見てきたからね」

プロレスが日本で本格的に始まってから今年で69年。いい時も、悪い時もあった。それでもプロレスは現在まで続いてきた。その不思議な力とは何なのだろうか-。今年でデビュー24年目を迎える真壁は、業界の浮き沈みを、身をもって経験してきた。

真壁が新日本に入門する90年代後半、プロレスはブームを迎えていた。96年4月29日、新日本プロレス東京ドーム大会。その翌日に入門を控えた真壁は地元の幼なじみとともに2階スタンド席にいた。

メインは新日本の“破壊王”橋本真也とUインター高田のIWGPヘビー級選手権。団体の威信をかけた2人の攻防に1つ1つに、大歓声が重なった。終盤、橋本がミドルキックをきっかけに流れを引き寄せ、最後は垂直落下式DDTから三角絞めに持ち込み勝利。びっしり埋まったドームが、大きく揺れた。

真壁は米粒のように小さく見える2人を見ながら、ぼんやりと自分のことを考えていた。

「東京ドームのスタンド上の上まで超満員。本当にびっしり埋まってた。試合を見ながら、明日から、この団体に入るのかぁ…て不思議な気持ちだったよね」

翌日、東京、世田谷・野毛の道場で行われたドーム大会一夜明け会見には、団体創始者のアントニオ猪木、長州力、橋本真也ら当時の新日本のスターが集結した。

多くの報道陣も駆けつけ、狭い道場はぎゅうぎゅう詰めとなった。その中に放り込まれた新人真壁は「本日、入門しました真壁です!」と先輩たち1人1人にあいさつしてまわったが、ことごとく無視された。

「目の前に立ってあいさつしても、返事もしてくれねえの。何でかっていうと、俺が明日までいるかどうかわかんないから。当時はすぐ辞めるやつが多かったの。夜逃げ。練習や環境がきつすぎて、朝起きると、逃げちゃうんだって。おれがあいさつしたところで、みんなこいつ残るわけねぇって思ってっからさ。“空気扱い”だった」

当時は政界から一時身を引いた猪木が道場によく顔を出し、選手を叱咤(しった)激励していた。上下関係は厳しく、若手はデビューするまで先輩の理不尽なしごきに耐える。華やかな表舞台の裏には、そんな殺伐とした環境があった。

真壁は「言い方は悪いけど、殺意がないと残れなかったよ」と振り返る。つらくても、夢半ばで辞めるのはプライドが許さなかった。

それまで、プロレスラーは日本人にとって長く憧れの対象だった。戦後、日本で本格的なプロレス興行を始めたのは、大相撲の元関脇、力道山。空手チョップで次々と外国人選手を倒す姿は復興の象徴となった。

その弟子のジャイアント馬場が全日本、アントニオ猪木が新日本プロレスを72年に旗揚げ。今ほど娯楽が細分化されていなかった時代。ゴールデンタイムでお茶の間に広まったプロレスは野球、相撲に並び国民に愛されるコンテンツだった。

元横綱の輪島、元五輪選手の長州力、馳浩ら、大きな体と超一流の能力を持った人間も集まった。全日本ではアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・ファンクスら個性豊かなスターが続々生まれ、新日本の猪木はボクシング世界王者ムハマド・アリとの異種格闘技戦で大きな注目を浴びた。

80年代に入ると、アニメの世界から出てきたタイガーマスクが四次元殺法でこどもたちの心をつかみ、長州と藤波が「名勝負数え唄」を繰り広げた。

89年に新日本は初の東京ドーム興行を行い、獣神サンダー・ライガーも誕生。全日本は鶴田、天龍の「鶴龍対決」で人気を集め、その流れは四天王プロレスにつながっていった。

新日本、全日本の2大メジャー団体ができた72年に生まれた真壁は、テレビの向こうのプロレスラーに憧れて育った。先輩たちの姿はそばで見るには、まぶしすぎた。

「反骨心はあったけど自分がトップに立つイメージは正直、あん時は描けてなかったよ。若手の時は、よくセコンドに入った。大先輩たちの試合を、近くでまじまじと見るわけだ。試合中の観客の盛り上がりを感じながら、『俺このリングにあがって、ベルトとれんのかな』と思ってた。俺は、毎日ボロ雑巾のようにしごかれてる。だから、現実味がなかったんだよね。ギャップがありすぎた」

新日本は“闘魂三銃士”が活躍し、97年には東京、大阪、ナゴヤ、福岡での初4大ドームツアーも成功。一方、全日本も四天王プロレスの真っ盛り。危険をかえりみない激しい試合で、日本武道館を毎回満員にしていた。そんなプロレスブームの98年に猪木が現役引退する。東京ドームに7万人を集めた猪木の引退試合を、デビュー2年目だった真壁は見ていない。膝の半月板の手術が重なり、動けない状態だった。

「あそこまで憧れた人の引退試合なのに、俺、何やってんだろな、とベッドでうなだれてたよ。猪木さんが新日本からいなくなったら、何をするんだろう。新日本に関係なくなるのか、後輩たちを教育するのか…。いろいろ考えたけど、下っ端の俺は考えを知る立場じゃないから。ただ、どうなんのかなと思ってた」

真壁らの予想を超え、猪木は当時ブームになりつつあった総合格闘技に肩入れしていった。そして、その格闘技の存在によって、プロレスというジャンルが大きく揺らぎ始めた。

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秋山準「馬場さんから受け継がれたものをDDTに」

握手ではなく、肘タッチするDDTの高木三四郎社長(左)と全日本の秋山準(DDTプロレスリング提供)

DDTプロレスリングのゲストコーチに就任した全日本プロレス秋山準(50)が9日、DDTテレビマッチに登場し、「(ジャイアント)馬場さんからぼくに受け継がれたものをDDTにすべて教えたい」とあいさつした。

きっかけは秋山のツイートから。秋山は4月12日に「1~10までプロレスの技術を全て俺が教えたらどんなプロレスラーになるのかな…」「プロレスは正直、試合でみなさんにみせているのは6~10だと思います。それで成立するんだと思います。ですが、1~5を持っていると持ってないのはまったく違うと思います」などとツイート。それを目にしたDDTの高木三四郎社長(50)が4月中旬ごろ正式にコーチを打診した。

高木社長は「今、DDTも、プロレス界もそうなんですけど、どうしても出ていくというより、守るべき時期。であれば、うちのDDTの選手を秋山選手が培ってきた歴史と伝統、そしてプロレスの1~10を教わりたいと思った」と依頼の理由を説明。秋山は米国を拠点とする世界最大のプロレス団体WWEにゲストコーチとして招かれていたが、新型コロナウイルス観戦拡大により、渡米は延期。また、興行ができず互いの団体に時間の余裕ができたことで実現に至った。

高木社長は「こういう時期なので、渡米されていないかなと思ってダメもとでお願いしたら、引き受けていただいた。また、全日本さんの巡業のスケジュールがあり、うちも月に半分ぐらいは試合なので難しかったと思う。いまは時間に余裕がある。守りじゃないですけど、いま一度ひいて考えるのもいいかと思った。今は貪欲にプロレスを学んでいかないといけない時期。うちの選手も貪欲になってもらいたい」と所属選手の成長に期待した。

また、秋山はDDTの試合にもしばらくゲスト参戦する予定だ。気になる選手として、「以前にも当たったことあるんですけど」と、16年にタッグマッチで対戦した若きエース竹下幸之介(24)の名前を挙げた。ジャイアント馬場、四天王プロレスを体感してきた秋山はその経験を「宝」と表現。「それをこれから活躍するであろう若い選手に、DDTさんだけでなく教えたい」。機会があれば、団体問わず伝えていくとした。

高木社長は「忖度(そんたく)なく、厳しくお願いします」と秋山に手加減なしの指導を要求。2人は、感染防止のため握手ではなく、肘タッチで協力を誓った。【高場泉穂】

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全日秋山準がDDT臨時コーチ、故馬場氏技術授ける

全日本プロレス秋山準(2019年6月11日撮影)

DDTプロレスリングは8日、全日本プロレスの秋山準(50)が臨時コーチに就任したと発表した。故ジャイアント馬場の教えを受けた秋山が、その技術をDDTの選手に授ける。

きっかけは秋山のツイートから。秋山は4月12日に「1~10までプロレスの技術を全て俺が教えたらどんなプロレスラーになるのかな…」「プロレスは正直、試合でみなさんに観せてるのは6~10だと思います。それで成立するんだと思います。ですが、1~5を持っていると持ってないのはまったく違うと思います」などとツイート。それに反応したDDTの高木三四郎社長(50)が4月中旬ごろ正式にコーチをオファーし、秋山も快諾した。

秋山は9日にDDTUNIVERSEで配信されるテレビマッチに登場し、あいさつする予定だ。

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天龍、藤波、長州らが「日本プロレス殿堂会」発足

日本プロレス殿堂会発足会見で記念撮影する、左から天龍源一郎、藤波辰爾、長州力(撮影・浅見桂子)

天龍源一郎(70)、藤波辰爾(66)、長州力(68)らが20日、都内で会見し「日本プロレス殿堂会」の発足を発表した。日本プロレス界の発展に貢献した選手の功績を後世に伝え、引退した選手支援のために立ち上げられた。

初期メンバーは3人に、故ジャイアント馬場さん、アントニオ猪木氏を加えた5人。今後、会独自の選考基準をクリアした選手が殿堂に加入していく予定。15年に米WWE殿堂入りした藤波は「日本にもできたらという思いが強かった。レスラー全員、ファンの願いでもある」と喜びを語った。

日本プロレス殿堂会発足会見で、笑顔で記念撮影する、前列左から天龍源一郎、藤波辰爾、長州力。後列左から嶋田紋奈、LEONA、池野慎太郎(撮影・浅見桂子)

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新橋に「ジャイアント馬場バル」没後21年節目に

「元子式コンソメビーフシチュー」を試食する全日本プロレス和田京平レフェリー(左)と渕正信

国民的プロレスラー、故ジャイアント馬場さんをテーマにした飲食店「ジャイアント馬場バル」が1月31日、東京・新橋にオープンする。

前日の30日、関係者向けのセレモニーが行われた。日本プロレスと自身が旗揚げした全日本プロレスで活躍した馬場さんは、99年1月31日に61歳で死去。その偉業をしのぶ飲食店を作りたいという妻元子さん(18年死去)の遺志を親族が引き継ぎ、没後21年の節目に開店にこぎつけた。リングをイメージした店内には靴、ガウンなどの遺品が多数飾られ「元子式コンソメビーフシチュー」など馬場さんが愛した味が楽しめる。シチューを試食した全日本の和田京平・名誉レフェリー(65)は「めちゃくちゃ懐かしい」。全日本生え抜きの渕正信(66)も「元子さんの味そのもの」と大満足。31日はオープニングイベントが開催され、通常営業は2月1日から。午前11時から午後11時まで。

地下にある「ジャイアント馬場バル」に続く階段には馬場さん愛用の油絵パレットなど愛蔵品の数々が展示されている
ジャイアント馬場さんの靴をイメージした「ジャイアント馬場バル」のビールグラス
ジャイアント馬場(1998年3月撮影)

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高山善広の支援興行に36人集結 治療費を呼びかけ

高山善広支援大会「TAKAYAMANIA EMPIRE2」に参戦した選手ら

<TAKAYAMANIA EMPIRE2>◇26日◇後楽園ホール

17年に負った頸椎(けいつい)完全損傷でリハビリ中のプロレスラー高山善広(52)を支援する「TAKAYAMANIA EMPIRE」の2回目の興行が行われ、団体の垣根を越えた36人が集結した。

メインでは高山の盟友鈴木みのるが鈴木秀樹と組み、ノア丸藤正道、ゼロワン田中将斗組と対戦。タイムアップが迫る中、鈴木みのると丸藤が互いの胸が真っ赤になるほどの打撃戦を繰り広げ、鈴木がゴッチ式パイルドライバーを決めるもフォールに持ち込めず、30分引き分けに終わった。

この日はジャイアント馬場とアントニオ猪木がBI砲を再結成した「夢のオールスター戦」からちょうど40年の記念日。試合後は高山のビデオメッセージが会場に流れ、「その(40年前の)夢の舞台に負けないような試合が本日、レスラーたちのおかげで繰り広げられた」と参戦選手に感謝。その上で、「プロレス界は8・26、毎年に1回はやってほしい」とオールスター戦の定例化を望んだ。また、そのビデオでは最近の自身の体調も報告。「ちょっと戻っているような気がする」と明かし、「明らかに自分の中では感覚が違っている。いつの日が鈴木みのるにビッグブーツをかませる日が来るのではと思い、リハビリに励んでいる」と復活への強い意欲を示した。

鈴木も「3、4、5回と続けていきたい」と大会の継続を望むとともに、「莫大(ばくだい)な費用がかかります。ポケットの中の10円、1円でもいいから協力よろしくお願いします」と治療費支援を呼びかけた。

「TAKAYAMANIA EMPIRE2」の6人タッグに参戦したゼロワンの大谷晋二郎、新日本永田裕志、辻陽太
「TAKYAMANIA EMPIRE2」の試合後に会場に流れた高山善広のメッセージ

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「レイスイズム」フレアー、Dキッドらへ継承/悼む

ノア東京ドーム大会 観戦に訪れたハーリー・レイス氏(2004年07月10日撮影)

「ミスタープロレス」「ミスターNWA」と呼ばれたハーリー・レイスさんが1日(日本時間2日)、肺がんによる合併症のために死去した。76歳だった。

    ◇   ◇   ◇

プロレス界に大きな影響を与えた1人となるレイスさんは「日本で大きなものを学んだ」が口癖だった。

68年2月に日本プロレスで初来日した時が初の海外試合。予備知識なしで足を踏み入れたこともあり、ジャイアント馬場、アントニオ猪木の「BI砲」に衝撃を受けたそうだ。スケールの大きい馬場、レスリング技術が高い猪木に翻弄(ほんろう)され「本当に成長させてもらった。海外で試合したが、日本は特別で思い出深い。あれが分岐点」と振り返っていた。馬場とNWAヘビー級王座を懸けて対戦した際は「1つの夢が実現した」と感慨深く話していた。

60~70年当時は危険な技だったダイビングヘッドパットの使い手として席巻。この技はダイナマイト・キッドが継承した。受け身の技術はリック・フレアーが受け継いだ。後進の育成にも熱心だったレイスさん。「レイスイズム」は確実にプロレス界に生き続けると思う。(デーブ・レイブル通信員)

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グレート小鹿「ボクらの見本だった」レイスさん悼む

グレート小鹿(08年12月撮影)

「ケンカ早い男だったけど、ケンカしたら仲良くなる、人間くさい男だったなあ」。国内最年長の現役プロレスラー、グレート小鹿(77=大日本)が、1日(日本時間2日)に76歳で亡くなった米国の名レスラー、ハーリー・レイスさんを悼んだ。

小鹿が1968年から米国で活躍していたころ、カンザスシティーのレイスさんに呼ばれてデトロイトから試合をするために出かけたという。試合が終わって、ギャラをもらう際に、事前のオファーで提示された額より安く、口論になったという。「そのときにケンカしてね。お客が思ったほど入らなかったからとか言い訳していた。まあ、自分の会社を守りたかったんだろう。怒って長距離バスのに10時間ゆられて帰ったことを覚えているよ」。

しかし、その後も米国で試合に呼ばれる機会があり、付き合いは続いた。「全米を渡り歩いているから、レスラーの移動の情報や、その土地のトップは誰かなどの情報をボクらにいろいろ教えてくれた」と、小鹿が米国各地を転戦する際の情報源として役に立ったという。

日本では、ジャイアント馬場との戦い、ジャンボ鶴田との対戦がファンを熱狂させた。「ブレーンバスターで相手を高々と持ち上げて、お客さんが1、2、3と時間をカウントするのは、レイスが初めてやったんじゃないかな。リング上に、いつも新しいアイデアを持ち込んで、お客さんを喜ばせるのが好きだった。プロとしてボクらの見本だったよ」。

プロレスラーとして米国でも日本でも人気者だった。「彼は日本でも米国でもトップを取る選手。正真正銘のメインイベンターだった。また1人、昔の仲間がいなくなった。寂しいよ」と小鹿は、故人をしのんだ。

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ハーリー・レイスさん死去 猪木、馬場らと激闘

NWA世界ヘビー級王座を奪い特別立会人のハーリー・レイス氏(右)と喜び合う小島(2014年1月4日撮影)

「ミスタープロレス」「ミスターNWA」と呼ばれたハーリー・レイスさんが1日(日本時間2日)、肺がんによる合併症のために死去した。76歳だった。同日、WWEなどが発表した。3月に肺がんを告白し、先月にはイベント出席の移動中に病状が悪化して入院していたという。

60年代から本格的にプロレス界に進出したレイスさんは68年2月、日本プロレスで初来日。ディック・ザ・ブルーザーと組み、ジャイアント馬場、アントニオ猪木組が保持したインターナショナル・タッグ王座に挑戦した。70年にも猪木、吉村道明組が保持したアジアタッグにも挑戦。72年には坂口征二のUNヘビー級王座にも挑戦した。

73年にドリー・ファンクJr.を下し、NWA世界ヘビー級王座を獲得。同年から全日本プロレスを主戦場とし、馬場、ジャンボ鶴田、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ミル・マスカラスを挑戦者に迎え、防衛戦も行った。またWWEの前身WWF王者とのダブルタイトル戦にも臨んだ。また82年には鶴田を下し、UNヘビー級王座、馬場からPWFヘビー級王座を奪取していた。

83年にはリック・フレアーを下し、7度目のNWA王座を獲得。80年代初頭までNWAの象徴として存在感を示し、通算8回のNWA王座獲得もあってNWAベルトは通称「レイスモデル」と言われ、本人が所持していた。

86年にはWWFに移籍し、ハルク・ホーガンのWWFヘビー級王座にも挑戦。WWFではアンドレ・ザ・ジャイアントとも共闘した。

95年の引退後にはプロレス団体のWLWを主宰し、後進の育成に尽力。日本とのつながりも深く、05年には小橋建太の訪問も受けた。10年11月からはプロレスリング・ノアのGHC管理委員長に就任。米国でノアの選手の育成を受け入れていた。04年にはWWE殿堂入り。13年には9年ぶりに来日し、ノアの有明大会で立会人を務め、14年には新日本プロレス東京ドーム大会で開催されたNWA世界ヘビー級選手権の特別立会人を務めていた。

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