上へ戻る

au版ニッカン★バトル

記事検索

53歳永田裕志敗れるも 王者モクスリー感極まり?ひざまずいておじぎ

永田裕志(2021年2月4日撮影)

<オール・エリート・レスリング(AEW):ダイナマイト>◇12日(日本時間13日)◇米フロリダ州

AEWのリングで行われたIWGP USヘビー級選手権で、挑戦者の永田裕志(53)が、王者ジョン・モクスリーに敗れた。

モクスリーは4度目の防衛。勝利すれば、新日本プロレスでのシングル最年長タイトルだったが、快挙達成とはならなかった。

米国の地で躍動した永田だったが、最後に力尽きた。前日ロサンゼルスからフロリダへの移動は3時間遅れ。長旅にも疲れを見せず、SNSでは「全力を尽くして、永田裕志最年長53歳。今日も頑張ります」と気合十分で臨んだ。鮮やかな青のガウンで登場し、お決まりの敬礼ポーズをすると会場は大歓声に包まれた。

序盤から激しくぶつかり合い、エルボー合戦を繰り広げた。中盤には得意技のエクスプロイダー、さらには白目式腕固めで王者を追い詰めたが、最後はパラダイムシフトで3カウントを奪われた。

試合後は感極まったのか、モクスリーがナガタの前にひざまずいておじぎをすると、永田もこれに応え、お互いに健闘をたたえ合った。

4月上旬にモクスリーから挑戦者に指名された。「リボルバーを見せてみろ。どっちが先に撃てるか試してみようぜ」と挑発を受けた。永田は「だからお前はハナタレ小僧なんだよ。プロレスのリングにリボルバーなんてのは必要ない。裸1つで戦うのがプロレス。顔洗って出直してこい」と受けて立った。

8日配信の前哨戦ではモクスリーに強烈な一撃を見舞った。試合には敗れたが、怒りが収まらず、試合後に襲撃。止めに入ったセコンドを制し、歯が取れるほど強烈なナガタロック2を浴びせた。「この永田裕志がコロナ禍の中、アメリカまで来てやったぞ。こんなんで俺は満足しない。まだまだ物足りない」と挑発するなど、本番に向けて士気を高めていったが、あと1歩及ばなかった。

新日本の最年長シングル王者はお預けとなった。02年にIWGPヘビー級王座を獲得。その後当時、橋本真也が持っていた連続防衛記録を塗り替える10回の防衛を果たし「ミスターIWGP」と呼ばれた。16年のNEVER無差別級以来、久しぶりのシングルのベルトを手にすることはできなかったが、53歳永田の挑戦はこれからも続いていく。

関連するニュースを読む

【藤波辰爾50周年連載6】67歳引退はしない 受け継いだ魂を残していく

9日にデビュー50周年を迎えた藤波辰爾(撮影・松熊洋介)

<藤波辰爾のプロレス人生50年(6)>

プロレスラーの藤波辰爾(67)はリングに上がり続ける。9日にデビュー50周年を迎えたが、引退の2文字はない。「体が動く限りリングに上がりたい」と情熱は衰えない。連載最終回は「生涯現役」【取材・構成=松熊洋介】

50年を振り返った藤波は「いろんな人と話をするとよみがえってくるので年月は感じる。いろんな状況を見てきて、いい経験をさせてもらっている」と語る。89年のベイダー戦で腰を痛め長期離脱を強いられた。歩くのも困難で「選手生命が終わった」と引退もよぎったが、奇跡的に回復した。1年半後に復帰し、痛み止めを飲みながら二十数年戦い続けた。恐怖から手術をためらってきたが、6年前にメスを入れ、ようやく不安を取り除いた。

藤波 試合中はアドレナリンが出ていたので、分からなかったが、終わってからは痛みが出ていた。レントゲンでは首の骨とか頸椎(けいつい)がゆがんでいる。正常な状態で(リングに)上がっている人はいないのかなと。

それでも戦い続けるのは「プロレスが好きだから」。コロナ禍で試合の機会が減り、物足りなさを感じている。全盛期のパフォーマンスを披露するのは難しいが、気持ちだけは当時と変わっていない。

藤波 いい時を記憶しているから、思うように体が反応しないのがもどかしい。若い時は体が反応していたけど、今は「せーの」って言わないと体が付いてこないのが情けないなあ。

リングに上がることが健康のバローメーター。今でも週の半分以上はジムに通い、体を維持している。息子でプロレスラーの怜於南(れおな)とトレーニングをすることもあり、若い人を見ると張り合いたくなるという。

藤波 恥ずかしい姿ではリングに上がれない。負けてられないと意地を張ってしまう。息子は肌つやが違うし、うらやましい。風呂上がりでも水がはじくけど、自分は染み込んでいく感じ(笑い)。周りからは「もう60歳過ぎてるし、若い人と同じことやってたら化け物ですよ」と言われる。でももっと動けると思っているし、オファーがあればいつでも準備できている。

4月には久しぶりにドラディションを開催。人数制限こそあったが、コミュニケーションを大事にしてきた昔からの手法で自らもお客さんに声を掛け、ほとんど手売りでチケットを完売させた。10月からは50周年ツアーで全国を回る。

藤波 各地に思い出がある。レジェンドバスツアーとかいいね。つえをつきながらでもやってみたい。リングに上がったらあちこちばんそうこう貼って出てくるみたいな。それぐらいになるまで上がってみたい。

67歳。引退は考えていない。「リングに上がれば勝負ですから」と対抗心を燃やす息子との対戦は最後まで取っておくつもりだ。

藤波 70歳では間違いなくリングに立っている。(息子とは)今だったら負けない。知らない間にすごい差がついてたらどうしようと思うことはあるけどね。

最後に夢を聞いてみた。

藤波 昔、力道山先生が作ったリキ・スポーツパレスというのがあったが、そんなプロレスの歴史が全部詰まった会場を作って、そこでみんなを集めて試合をしたい。力道山先生が亡くなった後に猪木さん、馬場さんが魂を受け継いだ。馬場さんが亡くなり、プロレスラーのトーンが下がった部分もあった。これからは僕らがそれを後世に残していかないといけない。

藤波はこれからもリングに上で躍動し続け、レジェンドたちから受け継いだ魂を残していく。(おわり)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

関連するニュースを読む

【藤波辰爾50周年連載5】プロレスの証しを残す「殿堂会」を設立

WWEに殿堂入りしリング上であいさつする藤波辰爾(2015年7月3日撮影)

<藤波辰爾のプロレス人生50年(5)>

プロレスラー藤波辰爾(67)は2015年、アントニオ猪木以来となる日本人2人目のWWE殿堂入りを果たした。今月9日にはデビュー50周年を迎えたばかり。プロレス人生を振り返る連載第5回は、レジェンドたちの偉業の継承。【取材・構成=松熊洋介】

夢のような時間だった。15年のある日の夜中、自宅にいた藤波はWWEからの電話で、殿堂入りの知らせを受けた。妻・伽織さんと2人で招待された。毎年各都市の招致合戦が繰り広げられるほどの大イベント。空港に降り立つと、カリフォルニア州・サンノゼの街全体が祝福ムードに包まれていた。殿堂入りの英雄たちの垂れ幕が掲げられ、ホテルまではパトカー10台以上に先導されて向かった。

藤波 国賓級の扱いだった。今思い出しても鳥肌が立つくらい。プロレスラーになってこんなことがあるのかと…。長くやっていてよかったなあと思った。

選手だけでなくプロレス界に貢献した人物も対象で、13年には前米大統領のドナルド・トランプ氏なども表彰されている。セレモニーで藤波の隣にいたのは、元カリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツェネッガーだった。ライバルだったフレアーに紹介され、藤波はタキシード姿で登壇した。「すべての人々、WWEへこの名誉に対し感謝します。61歳で、43年間戦い続け、まだ戦っています。これは私の使命。私をサポートしてくれた家族に感謝したい」と英語でスピーチ。数万人が詰め掛けた会場は大歓声に包まれた。翌日にはMLBサンフランシスコ・ジャイアンツの球場でリングに上がり、大観衆の前でプロレスを披露した。

藤波 昨年は獣神サンダー・ライガーが殿堂入りした。将来的にはコラボして、日本でも開催されるような時代が来ればいい。こういうのを知ってしまうと、みんな目指すべきだろうと。日本のプロレスラーたちも目指す欲を持って欲しい。

昨年2月、「日本のレジェンドたちの功績をたたえたい」と天龍や長州らと「日本プロレス殿堂会」を設立。コロナ禍でなかなか動けなかったが、今年4月、小橋、田上らとトークショーを行い、活動をスタートさせた。

藤波 僕らが殿堂入りしたいわけではなくて、猪木さんとか、させなきゃいけない人のためにそういう組織をつくらないといけないと思って。プロレス界は、なかなか横のつながりがなかったが、どこかで作っておかないと自分たちが生きてきた証しがなくなっちゃうんじゃないかと。

故ジャイアント馬場さんや猪木らの時代をともにしてきた。先輩から学んできたものを後世に伝える使命があると考える。

藤波 誰かが言い伝えていかないと。今でも当時の光景が頭に浮かぶ。今の選手たちに、あれだけ繁栄した時代があったんだよと思い出を残しておきたい。

現役としてリングに立つ一方で、プロレスの証しを残そうと動きだした。50周年を迎えたが、残りのプロレス人生、藤波にはまだやるべきことが残っている。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付け人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

関連するニュースを読む

【藤波辰爾50周年連載4】カール・ゴッチさんから指導受け学んだこと

新日本プロレス旗揚げ戦でカール・ゴッチさん(中央)に手を上げられるアントニオ猪木(1972年3月6日撮影)

プロレスラー藤波辰爾(67)が9日にデビュー50周年を迎えた。連載第4回は、「プロレスの神様」カール・ゴッチさんから学んだこと。海外修業中、自宅に住み込みながら指導を受け、WWWF(現WWE)でのブレークにつながった。【取材・構成=松熊洋介】

藤波のプロレス人生に、猪木ともう1人欠かせない人物がいる。07年に亡くなった故・カール・ゴッチさん。61年、日本プロレスのワールド・リーグ戦で初来日。自ら編み出したジャーマン・スープレックス(原爆固め)を日本に広め、アントニオ猪木、藤波辰爾らを輩出するなど、日本プロレス界の「育ての親」だった。米国へ戻ってからも米フロリダの道場で佐山サトル、前田日明らを指導するなど、功績を残した。

藤波も入門当初からゴッチさんの指導を受けた。ドイツ人ながら、礼儀や作法に厳しく、関節技やパフォーマンスよりも、力と力のぶつかり合いで相手を倒すパワフルなプロレスを重視。小さくても戦える技術と体作りを徹底してたたき込まれた。新日本プロレス4年目の75年にドイツに遠征。その後米国に渡り、ゴッチさんの自宅に約1年間住み込んで修業した。

藤波 朝練習して、掃除や草むしりなどお手伝いをしながら修業を続けた。そもそも格闘技は知らなかったので、技術的なことも含め、プロレスのイロハをすべて教えてもらった。自宅に住み込んで一緒に修業したのは自分だけだったと思う。

当時は全日本と違って、新日本と米プロレス団体NWAとの交流はなかった。そんな中、藤波はゴッチさんのはからいで米国やメキシコの試合に参戦。その後の新日本の米国参入のさきがけとなった。78年1月にはニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデン(以下MSG)でWWWFジュニアヘビー級王座に挑戦。王者カルロス・ホセ・エストラーダをドラゴン・スープレックスで破って第3代王者に輝いた。米国の多くのファンに「フジナミ」の名を知らしめた瞬間だった。

藤波 ゴッチさんと一緒にやっていたということもあって推薦してもらったし、やっていけるという後押しにもなった。

その後帰国した藤波は、日本でのドラゴンブームで女性や子どものファンをとりこにし、一時代を築いた。礎を作ってくれたのはゴッチさんだった。

ゴッチさんは、日本と海外の懸け橋となって新日本の立ち上げにも携わった。

藤波 新日本旗揚げの立役者。ゴッチさんがいなかったら新日本プロレスは存在していない。

藤波はベビーフェイスで、日本でもWWEでもファンに愛された。妻・伽織さんとの結婚発表は、MSGの大観衆の前で発表されるほどの人気だった。米国で確たる地位を築き、今度は自分が懸け橋となって両団体の交流に尽力した。長きにわたる功績が評価され、15年には猪木に続く日本人2人目のWWE殿堂入りを果たした。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

関連するニュースを読む

【藤波辰爾50周年連載3】今でも緊張で直立不動…アントニオ猪木と50年

新日本IWGPヘビー級選手権 試合後、王者藤波辰爾(左)と祝杯をあげるアントニオ猪木(1988年8月8日撮影)

プロレスラーの藤波辰爾(67)が9日、デビュー50周年を迎えた。連載第3回は、アントニオ猪木との50年。入門時から家族よりも長い時間をともにしてきた師匠は、藤波にとって今でもかけがえのない存在だ。【取材・構成=松熊洋介】

藤波は日本プロレス入門から半年後、除名された猪木と一緒に脱退、翌年の新日本旗揚げに参加した。「今の新日本を作っている」という当時の猪木の練習はとにかく厳しかった。年200日以上の試合をこなしながら、練習も手を抜くことは許さなかった。つまらないパフォーマンスをすれば、試合中でもリングに乱入してきて殴られた。試合前に角材で殴られ、流血しながらリングに上がったこともあったという。藤波が78年に海外から帰国し、「ドラゴンブーム」の人気絶頂時でも、全体に気合を入れるための見せしめとして、殴られ続けた。

藤波 試合を止めることもよくあった。お客さんはただ猪木さんが乱入してきただけだと思っていて、実際には何が起こっているのか分かっていない。相手のことよりも、いつ猪木さんが控室から竹刀を持ってやってくるか、びくびくしながら試合をしていた。馬場さんの全日本に負けるな、というのもあったと思う。

ファンの目も肥えていき、つまらない試合には容赦なくヤジが飛んだ。ファン同士のケンカも日常茶飯事だった。

藤波 リングに上がったら鳥肌が立って、ぞくぞくしていた。緊張感で殺気立っていたし、試合前に控室で相手と話したり、笑ったりすることもなかった。

練習や試合後は毎日のように猪木と食事をともにした。「昼間殴られていても関係なかった」と猪木の周りに集まり、故・力道山など昔の話を聞き入った。朝でも夜中でも走る猪木について行き、一緒にトレーニングした。朝まで飲み明かしたり、羽目を外す選手もたまにはいたが、藤波含め、ほとんどの選手は厳しい練習の疲れを取るために休養を優先していた。

藤波 一番上の人が1番練習するから僕らも休むことができない。みんな気が張ってダラダラしていられなかった。

猪木の「お客さんから金をとれる体を作れ」という教えを守り、プロレスラーとして長くリングに上がる体を作り上げた。日本プロレス入門から半世紀以上の付き合いになる猪木とは、引退後も交流は続く。2年ほど前まで毎月1回、夫婦で食事会をしていた。猪木の前では今でも緊張して直立不動になることもあるという。

藤波 妻は「お互いに良い年なのに」と不思議がるが、50年たっても関係性は変わらない。僕にとっては永遠の師匠。

今の藤波のプロレスを作ったのは間違いなく猪木の存在が大きいが、実はもう1人、50年現役の藤波にとって「今の自分がいるのは彼のおかげ」という男がいた。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

アントニオ猪木(下)に卍固めを見舞う藤波辰爾(1988年8月8日撮影)
藤波辰爾(右)に闘魂注入したアントニオ猪木(2019年4月26日撮影)

関連するニュースを読む

永田裕志がモクスリー襲撃 歯が取れるほど強烈なナガタロック2食らわす

NJPWストロング 試合後、ジョン・モクスリー(左)とにらみ合う永田裕志(新日本プロレス提供)

<NJPWストロング>◇8日配信

12日(日本時間13日)にIWGP USヘビー級王座に挑戦する永田裕志(53)が、王者ジョン・モクスリーとの前哨戦で強烈な一撃を見舞った。

成田蓮(23)と組んでタッグマッチに出場して敗れたが、試合後にモクスリーを襲撃。モクスリーの歯が取れるほど強烈なナガタロック2を浴びせ、不敵な笑みを見せた。会場からはなぜか永田の入場曲が流れ、カメラに向かってガッツポーズを見せ、勝者のようにさっそうと花道を引き揚げた。敗れはしたが「この永田裕志がコロナ禍の中、アメリカまで来てやったぞ。こんなんで俺は満足しない」と豪語した。

初参戦となったNJPWストロングの舞台でも全く動じなかった。先発を買って出た永田は、開始早々から雄たけびを上げ、襲いかかった。ビックブーツを浴びせ、エルボー合戦では1歩も引かず、互角の殴り合いを展開した。最後は成田がモクスリーにデスライダーを食らい、3カウントで敗れたが、怒りの収まらない永田は止めに入ったセコンドを制し、王者とにらみ合った後に殴りかかった。「お前の攻撃なかなかいいけど、まだ物足りない」と本番ではさらにパワーアップしたナガタを見せつけるつもりだ。

4月上旬にモクスリーから挑戦者に指名された。「レボルバーを見せてみろ。どっちが先に撃てるか試してみようぜ」と挑発を受けた。永田は「だからお前ははな垂れ小僧なんだよ。プロレスのリングにレボルバーなんてのは必要ない。裸1つで戦うのがプロレス。顔洗って出直してこい」と受けて立った。

タイトルマッチは12日(日本時間13日)に米オール・エリート・レスリング(AEW)のリングで行われる。永田は02年に安田を破り、IWGPヘビー級王座を獲得。その後、当時、橋本真也が持っていた連続防衛記録を塗り替える10回の防衛を果たし「ミスターIWGP」と呼ばれた。「タイトルマッチでは全精力をお前にぶつけてやる。お前もぶつけてこい。そして最後は俺が勝つ」。16年のNEVER無差別級王者以来、シングルのタイトルから遠ざかっている永田が、50歳を超えた今、米国の地で大きなベルトに向かう。

NJPWストロング ジョン・モクスリーにナガタロック2を決める永田裕志(新日本プロレス提供)

関連するニュースを読む

【藤波辰爾50周年連載2】北沢幹之氏との出会いがプロレス人生の始まり

19年4月、恒例の「ダーッ!」を決める、左から越中詩郎、坂口征二氏、アントニオ猪木氏、長井満也、北沢幹之氏、獣神サンダー・ライガー、藤波辰爾

<藤波辰爾のプロレス人生50年(2)>

プロレスラーの藤波辰爾(67)が9日にデビュー50周年を迎える。「藤波辰爾のプロレス人生50年」第2回は、プロレスとの出会いについて。同郷の先輩、北沢幹之氏と苦労の末に出会ったことが、藤波のプロレス人生の始まりだった。【取材・構成=松熊洋介】

藤波は陸上部だった中学時代、テレビを見てプロレスラーへのあこがれを抱いた。親に内緒で実家のある大分・東国東郡(現・国東市)から、大分市内へプロレスを見に行っていた。チケットは市内で働いていた兄が用意してくれた。頭の中はプロレスでいっぱい。自転車で約4時間。山越えの険しい砂利道も全く苦にならなかったという。

藤波 ただプロレスが見たいという一心で勇気を振り絞って。たまに学校をサボって行ったこともあるくらい(笑い)。親には怒られたが、授業のことなんか頭になかった。今から思えばよく行ったなと。

興味とは反対にケンカは嫌いだった。体が大きくいじめには遭わなかったが、痛いのが嫌で、学校での柔道ですら怖かったという。中学卒業後、工場で働いていたが「プロレスラーに会いたい」という欲求を押さえきれず、自ら行動に出た。同郷の北沢氏が足の療養で別府温泉に来ていることを聞き付け、探しに行った。兄と旅館を何十軒も歩き回り、やっとのことで北沢と対面した。

藤波 プロレスラーは怖いイメージがあったから、兄についてきてもらった。(北沢は)小さい方だったけど、大きく見えたなあ。足も震えていた。あの熱意は今でも不思議に思う。何かに取りつかれていたような感じだった。

藤波の熱意に北沢が応え、一緒に上京した。格闘技をやる性格でないことは親も承知。意志を伝えると驚かれ、反対されたが、押し切った。日本プロレスの門をたたいた。周りは相撲や柔道、格闘技の経験がある猛者ばかり。正式な入門もしていない藤波は当時、第一線で活躍していたアントニオ猪木に出会う。初めて聞いた猪木の言葉は「おい北沢、あいつ誰だ?」だった。北沢氏が「同じ田舎のプロレス好きで、猪木さんのファンだから連れて来たんです」と紹介してくれた。

藤波 相撲部だったら親方がスカウトしてくれる。プロレスは大衆化していないので、よほどケンカが強いか、柔道の有段者とかしか入って来られなかった。自分は異例中の異例だった。

「北沢さんに会ってなかったら今の自分はない」。心優しい藤波少年の熱い思いが運命の出会いを呼び、夢の実現につながった。日本プロレス入門後、家族以上の付き合いとなる猪木の厳しい指導が始まる。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し凱旋(がいせん)帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

72年、新日本プロレスを設立したアントニオ猪木(左から2人目)は世田谷区の自宅を道場に改装し、道場開きを行う。右端は18歳の藤波
72年、新日本旗揚げ当時の藤波

関連するニュースを読む

KUSHIDAが日本人スター名の技を使う理由/WWEの世界(3)

投球フォームから右ストレートを放つ技「マサヒロ・タナカ」を披露するNXTクルーザー級王者KUSHIDA(C)2021 WWE,Inc. All Rights Reserved.

マサヒロ・タナカ。ショウヘイ・オオタニ。いずれも米国マットで使われるプロレス技だ。WWEのNXTクルーザー級王者KUSHIDA(37)は米国で活躍の日本人メジャーリーガーの名前を技に持つ。名付けられた経緯は偶然だが、KUSHIDAがWWE加入後も技名を変えずに使い続ける理由がある。「WWEの世界」第3回は米国で活躍する日本アスリートの名前を技名にするWWE現役王者の思いを紹介する。【取材・構成=藤中栄二】

◇  ◇  ◇

野球投手のように大きく振りかぶる投球フォームから右ストレートで対戦相手の顔面を打ち抜くマサヒロ・タナカ。KUSHIDAがWWEマットで使用する代表的な得意技の1つだ。NXTクルーザー級王座挑戦時にも使用し、王座獲得に結びつけた。MLBヤンキースで活躍し、今季から楽天に復帰した田中将大に由来する。初めて新技として披露したのは15年5月、ROHと新日本プロレス合同の北米(米国、カナダ)ツアーだった。

このツアーでKUSHIDAが新技として右ナックルパート(パンチ)という“反則技”で局面を打開し続けると、会場に集結した米ファンから大きなどよめきが起こったという。会場の盛り上がりぶりに当時、試合中継で解説していた元プロレスラー、スティーブ・コリノ氏(47)に「マサヒロ・タナカだ」と命名された。KUSHIDAは「彼(コリノ氏)がヤンキースのファンで、自分の顔が田中選手に似ているということで解説の時、マサヒロ・タナカと言ってしまってからですね。そのまま技名として使っています」と振り返る。

日本マットのゼロワンでも活躍し、ROHテレビ解説者を経て、現在はWWEのNXTプロデューサーを務めるコリノ氏が名付け親とは運命的でもある。その後、米国で田中本人と対面したものの、KUSHIDAは「ご本人に『マサヒロ・タナカを使っています』とは言えなかったですね」と苦笑いを浮かべた。

ショウヘイ・オオタニ(打撃フォーム式ダブルスレッジハンマー)は18年5月、新日本プロレス滋賀大会のタッグ戦。対戦相手だった田口隆祐のマサヒロ・タナカ対抗技を返す形で誕生した。往年の名投手「ヒサシ・ヤマダ(山田久志)」「ミツオ・スミ(角盈男)」の技名がついた田口のアンダースローから繰り出されるパンチに対し、KUSHIDAは打者がバットを振り抜くようにダブルスレッジハンマーで返した。もちろんMLBエンゼルスで二刀流を貫く大谷翔平が由来で「自分がパンチを返したら、新日本プロレスのサイトにその技名リポートに書いてありましたね」と説明しつつも、本人は気に入っているという。

本来ならWWE入りと同時に技名を変更しても良いものだが、KUSHIDAはあえて使い続ける。それは田中、大谷のように、プロレス界で日米の懸け橋になりたいという願いがある。「チームジャパンとして敬意を表して使い続けます」。もちろん今後も新技に米国で活躍する日本人アスリートを技名にするプランが胸にある。

「ヒデキ・マツヤマ(松山英樹)、ルイ・ハチムラ(八村塁)、ナオミ・オオサカ(大坂なおみ)は考えています。米国で活躍する日本人選手名を技名につけるWWEスーパースターとして、日米で少しでも目にとまってもらえたらありがたいですから」

日本人アスリートの名前が技名として飛び出すWWEの実況も、日本のファンにとっては身近に感じられる。世界中にファンを持つWWEで、王者KUSHIDAが「日本人ブランド」をアピールしている。

マサヒロ・タナカを放つNXTクルーザー級王者KUSHIDA(C)2021 WWE,Inc. All Rights Reserved.
NXTクルーザー級王座ベルトに刻まれた自身の名前を誇示する同級王者KUSHIDA(C)2021 WWE,Inc. All Rights Reserved.
NXTクルーザー級王座ベルトを巻き、ポーズを取るKUSHIDA(C)2021 WWE,Inc. All Rights Reserved.

関連するニュースを読む

【藤波辰爾50周年連載1】78年飛龍原爆固めで初戴冠「ドラゴン」ブーム

78年、WWWFジュニア王座タイトルマッチで剛竜馬(後方)をやぶり、王座を防衛しベルトとトロフィーを掲げる藤波

<藤波辰爾のプロレス人生50年(1)>

プロレスラーの藤波辰爾(67)が9日にデビュー50周年を迎える。新日本プロレスを立ち上げから支え、99年には社長にも就任。低迷期を乗り越え、1度も引退することなく、現在でもリングに立ち続ける。日刊スポーツでは「藤波辰爾のプロレス人生50年」と題して、6回にわたり連載する。第1回はプロレスラー藤波辰爾。【取材・構成=松熊洋介】

★必殺技「ドラゴン・スープレックス・ホールド(飛龍原爆固め)」 1978年(昭53)1月23日、無名ながらWWWF(現WWE)ジュニアヘビー級王座を獲得。王者エストラーダにフルネルソンを決めたまま、原爆固めの要領で後方に投げ、そのままフォールした。

★「ドラゴン」ブーム 78年の王座獲得で一気にスターダムに。日本でも女性や子供のファンを獲得。ジュニアながら、ブルース・リーをほうふつさせる肉体美、軽快な動きから名前の「辰=龍」にちなんだ「ドラゴン」ブームを巻き起こした。

★「オレはお前のかませ犬じゃねえ」 81年にはヘビー級転向。82年からは「飛龍十番勝負」でホーガン、ブッチャーらと戦った。同10月には長州との抗争が勃発。「オレはお前のかませ犬じゃねえ」という暴言を吐かれ、大乱闘。その後も感情むき出しの“ケンカ”が続いた。

★師匠アントニオ猪木との激戦 85年12月のIWGPタッグ・リーグ優勝戦でも、この大技で師匠アントニオ猪木からフォールを奪った。88年にはIWGPヘビー級の防衛戦に猪木が挑戦、60分間戦った末に引き分けた。

★ケガとの戦い 89年にベイダーとの一戦で腰を負傷。選手生命の危機に立たされた。「立って歩けないくらいくらいになった」。1年半後に復帰も、痛み止めを飲みながらの戦いはその後も続いた。93年にはG1クライマックス、94年にはIWGPヘビー級王座を獲得。

★社長就任 99年に新日本プロレスの社長に就任し、第一戦から退いた。格闘技ブームや他団体の盛況もある中で低迷期を支え続けてきた。04年に社長を辞任。06年に新日本を退団する。

★現在 「ドラディション」を立ち上げ、11年には長州らと「レジェンド・ザ・プロレスリング」も旗揚げ。15年3月には、猪木に次いで日本人2人目となるWWE殿堂入りを果たした。昨年からは「日本プロレス殿堂会」を発足させて、後世の育成にも尽力する。「50年という感じはしないが、いろんな人と話をするとよみがえってくるので年月は感じる。いろんな歴史を見てきた中でいい経験をさせてもらっている」と話した。

第2回は、波瀾(はらん)万丈の人生を歩む藤波のプロレスとの出会いに迫る。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し凱旋(がいせん)帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

83年10月26日、タッグ戦で長州力(下)に逆サソリ固めで攻める藤波
83年11月19日、新日本プロレス千葉大会でリングに上がった左から藤波、アントニオ猪木、ハルク・ホーガン

関連するニュースを読む

王者KUSHIDAが前週敗れた前王者とリマッチ「やられたらやり返す」

リングに立つ前王者エスコバー(右端)に向け、大型スクリーンからメッセージを送ったNXTクルーザー級王者KUSHIDA(左端)(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.

<WWE:NXT大会>◇6日配信◇米フロリダ州オーランド

NXTクルーザー級王者KUSHIDA(37)が次週大会(13日配信)で前王者サントス・エスコバー(37=メキシコ)との防衛戦に臨むことが決まった。前週の6人タッグ戦でKUSHIDAはエスコバー組に敗れていた。

自らのユニット「レガード・デル・ファンタズマ」とともにリングに登場したエスコバーから「俺はルチャリブレ(メキシコのプロレス)の皇帝だ。先週の試合を見ただろ。俺はNXTクルーザー級王座を取り戻す」と王座返り咲きを宣言された。

するとエスコバーの話を遮るようにKUSHIDAが大型スクリーンに登場。「ヘイ! サントス、一線越えちまったな。やられたらやり返すぞ、俺は」とドラマ『半沢直樹』ばりにリベンジを誓うと「次週、俺とお前でNXTクルーザー級王座戦だ」と王者自ら指名した。エスコバーも「これで決まりだ」と納得顔。次週のNXT大会での王座戦が正式決定した。

翌週のNXT大会で前王者エスコバー(右)との防衛戦が決まったNXTクルーザー級王者KUSHIDA(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.

関連するニュースを読む

AEWクリス・ジェリコが団体CEOのシニアアドバイザー就任と米メディア

クリス・ジェリコ(2019年1月4日撮影)

米プロレスのオール・エリート・レスリング(AEW)に所属するクリス・ジェリコ(50)が団体CEOのシニアアドバイザーに就任していると4日(日本時間5日)、米専門メディア「レスリングニュース」が報じた。

先週末に開催されたイベントでジェリコ本人が明かしたとし「私には(AEWトニー・カーン)CEOのシニアアドバイザーという立場がある。冗談ではない。明らかにトニーは上司である。トニーが特定のセクションを見て、アドバイスや意見を求めたら、フィードバックを提供します。アドバイザーは私がAEWで何をしているのかを説明するのにはトニーにとっても他の人にとっても最適な方法だ」と自らの立場を説明したという。

ジェリコはWWEで活躍後、18年1月4日、新日本プロレスの東京ドーム大会でIWGP・USヘビー級王者だったケニー・オメガに挑戦する形で参戦。18年にはIWGPインターコンチネンタル王座を獲得し、19年からは旗揚げからAEWにも参戦し、同8月には初代AEWヘビー級王者となった。現在はWWE時代に因縁のあったボクシング元ヘビー級統一王者マイク・タイソンとAEWマットで共闘しようとしている。

関連するニュースを読む

ホワイト新王者で史上初4冠制覇、棚橋弘至を破りNEVERのベルト奪取

新日本プロレス福岡大会 棚橋弘至の足を絞め上げるジェイ・ホワイト(左)(新日本プロレス提供)

<新日本プロレス福岡大会>◇3日◇福岡国際センター◇観衆2211人

ジェイ・ホワイト(28)がNEVER無差別級王者の棚橋弘至(44)を破り、新王者に輝いた。終盤、棚橋のテキサスクローバーでギブアップしたかに見えたが、レフェリーがセコンドの外道に気を取られており、不成立。その後ブレイドランナーで3カウントを奪った。「タナ、お前はもう終わりだ。俺を超えられない。リマッチもさせてやらない」と自信満々に語った。

ホワイトらしい“意地の悪い”戦い方だった。4月4日の大会で棚橋が挑戦を受諾し、対戦が決定すると、リングから姿を消し、1カ月間休養。一方の棚橋は、10日からの16試合すべてに出場しており、試合前のコンディションで優位に立っていた。その上、真っ向勝負ではなく、棚橋の古傷の膝を徹底的に痛めつけ、立てないようにした。相手の得意技ドラゴンスクリューや、おきて破りのテキサスクローバーも仕掛けた。さらには昨年11月の2冠挑戦権利証争奪戦(VS飯伏)の時のように、自分の足をロープにかけた状態で相手を押さえ込む反則技も見せるなどやりたい放題でベルトを手にした。勝利後はファンの拍手に対しても「お前らの拍手なんて侮辱と同じだ」と吐き捨てるように言った。

NEVERのベルトを手にし、新たな歴史を作った。IWGPヘビー級、インターコンチネンタル、USヘビー級と合わせて史上初の4冠制覇を達成。「誰も信じてなかっただろうが、宣言通り達成した。俺は今、プロレス界の中心にいる」と語った。その後もバックステージでの“演説”は止まらず10分近くも話し続けた。

防衛戦の相手にはフィンレーを指名。3月のニュージャパンカップで敗れた相手にリベンジを狙う。「ベルトをかけてお前の相手をしてやるよ。このギフト、受け取るよな」。どんな形であれ、棚橋から3カウントを奪って、王者になったことは事実。ホワイトの暴走は今後もエスカレートしそうだ。

関連するニュースを読む

丸藤正道、流血“因縁”村上和成をKO「思いの強さ力に」6月の武藤戦へ

プロレスリング・ノア後楽園大会 村上和成(右)に逆水平チョップを浴びせる丸藤正道(撮影・松熊洋介)

<ノア:後楽園大会>◇3日◇後楽園ホール

ノアを運営するサイバーファイト副社長も務める丸藤正道(41)が、2日連続の無観客試合の最後を、自らの勝利で締めた。

「俺たちには画面の前のみんなの声も気持ちもしっかり届いています」とカメラ越しに思いを伝えた。さらに「スタッフ、関係者のみなさん、俺たちにプロレスをさせてくれてありがとうございました」と感謝の言葉を述べた。

望月と組み、杉浦、村上組と対戦した試合では、序盤から劣勢の展開が続いた。コーナーに追い詰められて、2人に踏み付けられ、村上には強烈な頭突きを何度も食らった。村上とは07年6月に流血戦を繰り広げて敗れていたことを覚えていた。「プロレス人生の中で一番の流血をさせられた相手。忘れてはいない。こうやってリングに上がるとあの時のことを思い出す」と振り返った。その後、杉浦との誤爆によって村上が流血。丸藤は、前後の強烈な蹴りで村上をふらつかせ、最後は両耳をつかんでからの新型虎王・零でKOし、リングに沈めた。

4月29日名古屋大会でGHCヘビー級王者の武藤に挑戦表明。6月6日(さいたまスーパーアリーナ)の対戦が決まり「こんなところで負けていてはいけない」と、熱い気持ちをリングで表現した。同じM's allianceの同門対決となるが「俺はこのリングを守り続けてきた。それだけは絶対に負けない」とプライドをのぞかせた。

武藤との大一番はサイバーファイトが運営する、DDT、東京女子、ガンバレ☆プロレスの合同開催というビッグイベントの中で行われている。「思いの強さは絶対力になることを胸にたたき込んで武藤敬司の前に立ちます」と意気込んだ。副社長とプロレスラーの役割をしっかり果たした丸藤。「コロナもどうなるか分からないけど、やることをしっかりやって、ファンにプロレスを伝え続ける。必ず恩返しする。これからもプロレスリング・ノア、前を向いて走り続けます」と力強い言葉で締めた。【松熊洋介】

プロレスリング・ノア後楽園大会 バックステージで取材に応じる丸藤正道(左)、望月成晃組(撮影・松熊洋介)

関連するニュースを読む

ゼロワン田中将人が清宮海斗に勝利「売り込みに来ている」稲村挑戦も受けた

プロレスリング・ノア後楽園大会 清宮海斗(左)にスライディング弾丸エルボーを浴びせる田中将人(プロレスリング・ノア提供)

<プロレスリング・ノア後楽園大会>◇2日◇後楽園ホール◇無観客

ゼロワン所属の田中将人(48)が存在感を見せた。丸藤、武藤らのM's allianceのメンバーとして参戦している田中は、メインマッチで若手実力者の清宮海斗(24)に、シングル初対決で勝利。「ノアのリングに上がっているからには仲間だけでやっているわけにはいかない。ここで田中将人を売り込みに来ている」と力強く語った。

清宮の腰を徹底的に痛めつけ、エプロンで豪快にラリアットを決めた。中盤にはトップロープから雪崩式ブレーンバスターを決め、流れをつかみ、最後はスライディング弾丸エルボーを前後からさく裂させて3カウントを奪った。「(相手は)何個か前のGHCチャンピオン。機会を与えてもらって感謝している。この勝利が何かにつながると思う」と今後を見据えた。

デビュー28年目。新日本や全日本、NWAなどさまざまな団体のリングに立ち、多くのタイトルを取ってきたプライドがある。「若い人間にスパッと負けたら、これまでのプロレスラーや、今まで巻いてきたベルトにも失礼」と話す。試合後にはデビュー3年目、120キロの稲村からにらみ付けられシングルマッチの挑戦を受けた。タッグマッチで何度か対戦経験のある田中は「僕の若いころより全然すごい。重いタイヤを持ち上げたり、いいものを持っているのは肌で感じている」と実力を認めた上で「1つの武器だけど、パワーだけでは勝てない」とベテランの技術で強さを見せつけるつもりだ。

前日1日にはゼロワン岩手大会に出場、4日には札幌でリングに上がる予定だ。コロナ禍で延期になる興行もある中、全国を駆け巡り、ファンを元気づける。プロレス以外でも「ゼロワンお助け隊」として地域貢献や抗原検査キットの配送などにも精を出す。「28年いろんな団体で結果残してきた。若い選手に負けるわけにはいかない」。まだまだ元気いっぱいの田中は、力強いプロレスをこれからもさまざまリングから全国に届ける。【松熊洋介】

関連するニュースを読む

コロナ感染の拳王「俺にはプロレスしかない」5・15ノア後楽園大会で復帰

プロレスリング・ノア後楽園大会 リング上で5月15日の復帰を発表した拳王(プロレスリング・ノア提供)

<プロレスリング・ノア後楽園大会>◇2日◇後楽園ホール◇無観客

新型コロナウイルスに感染し、4月18日大会から欠場していた拳王(36)が、5月15日後楽園大会で復帰することを明かした。

第5試合終了後、スーツ姿でリングに上がった拳王は「医療従事者、保健所の方には感謝しています。ご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げた。4月11日に知人6人で会食。そのうち3人の感染が判明した。「自宅だから大丈夫という気の緩みがあった」。39度の熱が続き、1週間ほど入院。現在練習は再開しているが「生活は普通にできているが、肺炎の方がひどくて少し動くと息が上がる。6、7キロ体重が減ったので、体力をしっかり戻して復帰したい」と明かした。

デビュー13年目で初めての欠場。「出るはずだった大会も観戦という本当に苦しかった経験だったし、考えさせられた」と胸の内を明かした。濃厚接触者と認定された同ユニット金剛の征矢、覇王、タダスケも欠場に追い込まれた。「申し訳ない気持ちでいっぱい」。普段から強気な発言で、相手やファンに訴えかけてきた拳王の謝罪。「俺にはプロレスしかない。進化を遂げてこのリングに帰ってきたい。少しの気の緩みで感染することになると、てめぇらクソ野郎どもにも警鐘を鳴らしていきたい」と拳王節で締めた。金剛全員が復帰する15日、1カ月間の悔しさをリングでぶつける。

関連するニュースを読む

【インタビュー】里村明衣子「常に自分の最高を」WWEと選手兼コーチ契約

仙女とWWEのNXT UKで存在感を見せる里村

“ダブル二刀流”で日本と世界を魅了する。センダイガールズプロレスリング(仙女)の里村明衣子(41)は、世界最大のプロレス団体米WWEと日本人初の選手兼コーチ契約を結び、現在は英国を拠点にするWWEのNXT UKに参戦。仙女では選手兼社長として変わらず団体を背負う。それぞれで2つの顔を持つ“女子プロレス界の横綱”は、日英のリングで熱く生きている。【取材・構成=山田愛斗】

   ◇   ◇   ◇

世界最高峰への長旅は、10年前の門前払いから始まった。かねて海外志向が強かった里村は、2011年、WWEのリングに照準を合わせた。これまでの経歴、写真、映像と必要な資料すべてをメールで送信。トライアウト受験を目指したが、同団体から「必要ありません」と返信がひと言届き、書類選考で夢の扉は閉ざされた。

里村 まず11年にメールで断られたことが、自分的にはすごいショックでした。「今はセンダイガールズで力を尽くせ」ということだと解釈して仙女でやってきて。それでも海外志向は止まらなかったです。

12年からは米国の小規模団体に目を向けた。「興行に出させてください」と自らを売り込み、自費で飛行機のチケットを手配し、1年に1度ぐらいのペースで渡米。「今は大スターのミッキー・ジェームスとかと同じ大会に出て、私の試合を見た人から『すごい人がいる』といううわさが、どんどんどんどん広まっていきました」。16年ごろになると海外からのオファーが定期的に届き、「今度はイギリスで『メイコ・サトムラはすごい』と」。米英での小さな積み重ねが花を咲かせるようになった。

運命に導かれるようにWWEと交錯した。海外団体での実績が評価され、18年に米国で行われたWWE女子トーナメント「メイ・ヤング・クラシック」に招かれ、世界各国から出場した32人の中で4強入り。その直後にスカウトされた。

仙女の活動と並行して、まずは米国のWWEパフォーマンスセンター(トレーニング施設)で、計3カ月ほど特別コーチを務めた。「はっきりとは言われてなかったですが、最初はコーチだけで、試合を組まれる可能性もあったと思います」。コロナ禍で昨春の渡米計画が流れるなど、WWE本格デビューは幻となり、最高峰に手が届きそうで届かなかった。

そんな状況下で、今度は英国を拠点にするWWEのNXT UKから「選手とコーチ、両方でお願いしたい」とオファーがあり、1月29日に日本人初の選手兼コーチ契約が発表された。

里村 18年に(WWEの)トーナメントに出られたのは私にとって夢みたいな出来事で、こんなことがあるんだって。今回、この年齢で契約まで至ったのは「人生って奇跡は起きるんだな」と改めて思いましたね。選手とコーチの兼任は日本で私が初めてなんです。そこは仙女でやってきたことが認められたと思っています。

英国のプロレスファンをとりこにしてきた。18年3月にはファイトクラブプロ、19年9月には同国最大の団体プログレスで、それぞれ女子王座に輝いた。「イギリスでチャンピオンになってからすごく現地のファンが増えました」。プロレスが盛んなドイツやアイルランドの興行にも参戦。欧州人気が高まったこともNXT UKとの契約につながった要因のひとつだ。

現在は日本と英国を行き来しながら活動している。英入国時に10日、帰国時に14日の隔離期間があり、「移動だけで1カ月つぶれるので、練習は全然足りません(笑い)」。今後は英国で過ごす期間を増やす意向で、ロンドンのWWEパフォーマンスセンターを拠点に技術を伝えながら、自らのレベルアップを図る。

里村 日本とは全然違いますが、イギリスのレスラーの技術は最高で、レベルが高い印象です。私がコーチとして一緒に練習すると、向こうのレスラーは日本の技術も取り入れられるし、すごくいい効果が生まれています。

故郷新潟で中学3年までの15年間を過ごし、横浜を経て、仙台生活は17年目に突入した。

里村 とにかく仙女に没頭して、レスラーとしても経営者としても尽くしてきたので、役目を果たしながら1段上のステージに上がれたなと実感しています。

団体を長年続けてきたことで、思わぬ出会いもあった。「海外の選手が『日本で練習したい』となれば、センダイガールズに呼ぶこともできます」。4月11、12日の2日間、WWE年間最大の祭典「レッスルマニア」が米国で開催された。初日のメインイベントはスマックダウン女子王座戦。タイトル防衛に失敗したが、激闘を繰り広げたサーシャ・バンクスは、19年夏にお忍びで仙女の練習に参加したことがある。

きっかけは里村のSNSに届いた1通のメッセージだった。「日本で練習させてください」と連絡があり、単身で来日。1週間、仙女式を体験した。面識はなかったものの、「当然、私は彼女を知ってますよね。インスタのフォロワーを見たら450万人(当時=現在517万人)で、『えっ?』という感じで、この子が来るんだと思っていたら、本当に1人で来て、たくさん練習して帰っていきました」。すでに一流でありながら異国で学ぶ熱心さに驚かされた。

里村 彼女がレッスルマニアのメインですごい試合をして、本物志向のスーパースターが、仙女で練習をしたいと思ってくれる団体になれたことがうれしかったです。

WWEに言葉の壁は存在しないが、英語はどちらかというと苦手だ。「恥ずかしいぐらい全然ダメです。試合は無言でもできますが、練習は言葉にして教えないといけないので、それが本当に難しくて、毎日、胃がきりきりしています(笑い)」。身ぶり手ぶりを交えながらコミュニケーションを取っている。

里村 今のWWEは全世界を巻き込もうとしています。各国の選手たちをすごく尊重してくれて、「日本人は日本語でいいからアピールしてほしい」という感じで、「英語ができないからあなたはダメ」ではなく、その国の代表を集めて全世界に発信するやり方は素晴らしいと思います。

2月12日のNXT UKデビュー戦を勝利で飾るなど、シングル戦はここまで2勝1敗。3月5日の2戦目では王者ケイ・リー・レイとタイトル戦で激突し、敗れているだけに「もちろんリベンジしたいです」と王座奪取に燃える。

里村 私は里村明衣子そのものを受け入れてくれるイギリス、ヨーロッパのファンが大好きなんです。自分自身をもっと高め、常に自分の最高を求めていきたいです。

この道26年のレジェンドが描く夢物語に終わりはない。

◆里村明衣子(さとむら・めいこ)1979年(昭54)11月17日生まれ、新潟市出身。3歳から柔道を始め、黒埼中3年時に県大会優勝。95年4月15日、GAEA JAPANで当時史上最年少の15歳でデビュー。得意技はスコーピオ・ライジング、オーバーヘッドキック、デスバレーボム、スリーパーホールド。趣味は旅行、筋トレ、郵便局巡り、スーパーマーケット巡り、読書、舞台鑑賞。157センチ、68キロ。

里村明衣子(2016年11月16日撮影)

宮原健斗が青柳優馬破り首位タイ「声を届けるには優勝するしかない」

全日本プロレス 青柳優馬に勝利後、ポーズを決める宮原健斗(撮影・松熊洋介)

<全日本プロレス>◇29日◇無観客試合

チャンピオンカーニバル(CC)で、宮原健斗(32)が青柳優馬(25)を26分59秒、シャットダウン・スープレックスホールドで破り、勝ち点10で首位に並んだ。

「全国に俺の声が聞こえない所までファンがいる。そこまで声を届けるには優勝するしかない」。無観客であろうが、強い意思で挑んだ宮原のパフォーマンスは変わらなかった。普段からタッグを組む弟分の青柳に対しても容赦はしない。場外戦では、見ているファンに届けとばかりに頭突きを連発。「ゴツン」という重い音が会場に響き渡った。その後はレフェリーの制止をはねのけ、コーナーで殴りつけ、蹴りを浴びせた。場外カウント9で、ようやくリングに戻ってきた青柳にすぐに襲いかかり、攻撃の手を緩めなかった。

勝利後はカメラに向かって「5勝目だ~」と吠えた。トップだったジェイク・リーが敗れたことで勝ち点10で5人が並ぶ混戦ながらトップに浮上した。5月3日の最終戦はリーと対戦。「すべてを兼ね備えた男になったのは認める」としながらも「俺と同じ時代に生きたことを後悔することになる」と挑発した。

自らを「プロレス界のスーパースター」と呼び、全日本を引っ張る存在だと自覚する。それでも大会前は「エースを名乗るのはやめる」と控えめだった。マスコミへの露出が減り、諏訪魔には1年以上、3冠ヘビー級の防衛を許している。さらに「俺がメインに立たなくても興行が締まっている」と、青柳ら若手の台頭もあり、自分中心の全日本ではなくなってきていると実感。CCを優勝することで復活を遂げ、新たなスタートを切りたいと考えている。

2年ぶり2度目の優勝を視界に捉えた。無観客試合が続くが「盛り上げるのは俺しかいない。宮原健斗すべてを表現する」。この日、試合後恒例の「最高~」は封印。「優勝してからに取っておく。3150倍(サイコー)の最高マイクで21年のCCを締めくくる」。有言実行し、大復活を成し遂げる。【松熊洋介】

全日本プロレス 鉄柱に青柳優馬(右)をたたきつける宮原健斗(左)。上は和田レフェリー(撮影・松熊洋介)

関連するニュースを読む

飯伏幸太が地元凱旋で復帰戦勝利「プロレスの力みんなに」思い出の地で躍動

新日本プロレス鹿児島大会 アーロン・ヘナーレにカミゴェをさく裂させる飯伏幸太(新日本プロレス提供)

<新日本プロレス鹿児島大会>◇29日◇西原商会アリーナ◇観衆1701人

姶良市出身の飯伏幸太(38)が、昨年12月以来となる地元凱旋(がいせん)で、勝利を収めた。

今月4日両国大会でオスプレイに敗れ、自ら提案して創設された、IWGP世界ヘビー級の初防衛に失敗。その後負傷していた足の傷も癒え、25日ぶりにリングに戻ってきた。

棚橋と組んで、コブ、ヘナーレ組と対戦した飯伏は、久しぶりの試合で、みなぎる闘志を見せたかったのか、ニーパッドをつけずに入場。「地元で楽しくプロレスができて最高」と、高い位置からのドロップキックや、勢いのあるエルボー、強烈なジャンピングニー、カミゴェなど軽快な動きでファンを魅了した。横で戦った棚橋も「久しぶりに組んだけど、正直言って別人だった。今日は飯伏の力で勝った」と目を細めた。

高校時代まで過ごした思い出の詰まった地で、地元のスターが躍動した。小学生時代、家族とプロレスを見に行き、興味を持った飯伏少年は、周りの目も気にせず、夢に向かって真っすぐに進んだ。プロレスに対する熱い思いは、職業となった今でも少年時代と何も変わっていない。「休んでいる間に、何か満たされない部分があって、今日少しだけ満たされた。プロレスって楽しくないですか? プロレスができて本当に幸せ」と素直な気持ちを語った。

プロレスラーになったころは、路上など、お客さんがほとんどいないところでも興行を経験。コロナ禍で中止となる地域もある中、観客の前で、しかも地元で試合ができることに喜びを感じている。「見に来られる場所が減っている中、制限はあるけど、何千人の前で試合ができるだけでうれしい」。もちろん、自分が満足するだけでなく「元気を与えたい。プロレスの力をみんなに伝えたい」と役割も理解している。

試合後には対戦したコブにシングルマッチを要求。「まだまだ刺激が足りない。もっとください」と5月15日横浜スタジアム大会での対決を熱望した。レスリングで五輪出場の経験もあるコブに対し「彼はアスリート。自分にはその能力が欲しい。今、1番悔しいと感じている」と明かした。「僕はチャレンジする」。失ったベルトを取り戻すため、飯伏が大好きな鹿児島から再スタートを切った。

関連するニュースを読む

杉浦貴が藤田和之を担架送りにし王者返り咲き 試合後には桜庭が挑戦表明

プロレスリング・ノア名古屋大会 藤田和之(右)にビンタを浴びせる杉浦貴(プロレスリング・ノア提供)

<プロレスリング・ノア名古屋大会>◇29日◇名古屋国際会議場

GHCナショナル選手権試合は、挑戦者の杉浦貴(50)が、藤田和之(50)に勝利し、昨年5月以来の王者に返り咲いた。

「小細工しない」との宣言通り、互いをよく知る同い年で同門の藤田との戦いは壮絶な殴り合いとなった。2人ともフラフラになりながらも声を上げて気合を入れ、張り手合戦を続けた。最後は、相手のお株を奪う顔面蹴りを2発浴びせ、この日3度目となる必殺技「オリンピック予選スラム」をさく裂。アマチュア時代からともにレスリング日本代表で五輪を目指し、しのぎを削ってきた藤田への思いも込めて豪快に決め、担架送りにした。「アマチュア時代から同じ境遇で、五輪にも出られなくて、プロレスでも悩んできた。藤田和之とベルトをかけて戦えたことがうれしい。ありがとう」と感謝した。

盟友2人の間に言葉はいらない。22日の調印式では、対戦する同い年の藤田と“生ビール対決”。テーブルに次々とジョッキが運ばれ、イッキ飲み。その後も「店が(コロナ禍で)早く閉まるから」と2人で居酒屋に消えていった。「いまさら話すことは何もない。ただ飲んで食べるだけ」。食事だけで士気を高め合った。

試合後は桜庭がリングに上がり「ベルトが欲しい」と挑戦表明。普段から杉浦軍としてタッグを組み、藤田同様、手の内をよく知る相手だ。杉浦は「じゃんけんで勝ったら受けるよ」と言ったが、グーを出して負け、対戦が決定した。連続での同門対決となるが「お客さんが喜んでくれたら。藤田とはまた違った戦いが見せられるかも。(桜庭は)打っても響かないタイプだから、ペースをつかまれたら分からない」と苦笑いで警戒した。地元・名古屋のファンの前で、大きなタイトルを手にした。「重みは最高。大事にしていきたい」。苦労をともにしてきた藤田の分までベルトを守り続ける。

プロレスリング・ノア名古屋大会 次期挑戦者に名乗りを上げた桜庭和志(左)にじゃんけんで敗れる杉浦貴(プロレスリング・ノア提供)

関連するニュースを読む

療養中の天龍源一郎が退院「元気いっぱいに無理せず」5月大会に解説者参加

天龍源一郎(2020年2月20日撮影)

プロレス団体の天龍プロジェクトは28日、病気療養中の元プロレスラー、天龍源一郎(71)が退院したことを発表した。

回復も良く、今後は通院と自宅療養で経過を見ながら仕事を再開していくという。

天龍は所属を通じて「皆様、大変ご迷惑をお掛けしましたが、今日無事に自宅に戻りました。今回の件で最善を尽くしてくれた病院の皆さんには感謝しています。長い入院生活でしたけど、ちょっとずつ調子を上げて、気候も良くなったことだし、元気いっぱいに無理せずやっていきます!」とコメントを発表した。

天龍は3月19日に動悸(どうき)、息切れなどの体調不良で入院した。その後の小橋建太とのトークバトルや、日本プロレス殿堂会設立1周年記念イベントも不参加だったが、11日にはプレミアム音声サービス「Now Voice」で元気な声を届けるなど順調に回復していた。

また、同団体は次回5月12日大会(東京・新木場1stRING)の対戦カードを発表。天龍も越中詩郎とともに解説者として参加予定で「今の気持ちは、早く試合の会場に行って、プロレスを観たい。そう思っています!」とコメントした。5月12日の対戦カードは以下の通り。

▽第1試合 河野真幸(フリー)、TORU(TTT)vs佐藤耕平(フリー)、LEONA(ドラディション)

▽第2試合 菊タロー(フリー)vs SUSHI(フリー)

▽第3試合 新井健一郎(DRAGON GATE)vs翔太(ガンバレ☆プロレス)

▽第4試合 マンモス佐々木(プロレスリングFREEDOMS)、神谷英慶(大日本プロレス)vs矢野啓太(プロフェッショナルレスリング・ワラビー)、那須晃太郎(フリー)

▽第5試合 進祐哉(プロレスリングFREEDOMS)、拳剛(フリー)vs TSUBASA(フリー)、HUB(フリー)

00年10月、川田利明にグーパンチを浴びせる天龍
天龍源一郎とハンセンは場外乱闘(2000年撮影)

関連するニュースを読む