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【藤波辰爾50周年連載3】今でも緊張で直立不動…アントニオ猪木と50年

新日本IWGPヘビー級選手権 試合後、王者藤波辰爾(左)と祝杯をあげるアントニオ猪木(1988年8月8日撮影)

プロレスラーの藤波辰爾(67)が9日、デビュー50周年を迎えた。連載第3回は、アントニオ猪木との50年。入門時から家族よりも長い時間をともにしてきた師匠は、藤波にとって今でもかけがえのない存在だ。【取材・構成=松熊洋介】

藤波は日本プロレス入門から半年後、除名された猪木と一緒に脱退、翌年の新日本旗揚げに参加した。「今の新日本を作っている」という当時の猪木の練習はとにかく厳しかった。年200日以上の試合をこなしながら、練習も手を抜くことは許さなかった。つまらないパフォーマンスをすれば、試合中でもリングに乱入してきて殴られた。試合前に角材で殴られ、流血しながらリングに上がったこともあったという。藤波が78年に海外から帰国し、「ドラゴンブーム」の人気絶頂時でも、全体に気合を入れるための見せしめとして、殴られ続けた。

藤波 試合を止めることもよくあった。お客さんはただ猪木さんが乱入してきただけだと思っていて、実際には何が起こっているのか分かっていない。相手のことよりも、いつ猪木さんが控室から竹刀を持ってやってくるか、びくびくしながら試合をしていた。馬場さんの全日本に負けるな、というのもあったと思う。

ファンの目も肥えていき、つまらない試合には容赦なくヤジが飛んだ。ファン同士のケンカも日常茶飯事だった。

藤波 リングに上がったら鳥肌が立って、ぞくぞくしていた。緊張感で殺気立っていたし、試合前に控室で相手と話したり、笑ったりすることもなかった。

練習や試合後は毎日のように猪木と食事をともにした。「昼間殴られていても関係なかった」と猪木の周りに集まり、故・力道山など昔の話を聞き入った。朝でも夜中でも走る猪木について行き、一緒にトレーニングした。朝まで飲み明かしたり、羽目を外す選手もたまにはいたが、藤波含め、ほとんどの選手は厳しい練習の疲れを取るために休養を優先していた。

藤波 一番上の人が1番練習するから僕らも休むことができない。みんな気が張ってダラダラしていられなかった。

猪木の「お客さんから金をとれる体を作れ」という教えを守り、プロレスラーとして長くリングに上がる体を作り上げた。日本プロレス入門から半世紀以上の付き合いになる猪木とは、引退後も交流は続く。2年ほど前まで毎月1回、夫婦で食事会をしていた。猪木の前では今でも緊張して直立不動になることもあるという。

藤波 妻は「お互いに良い年なのに」と不思議がるが、50年たっても関係性は変わらない。僕にとっては永遠の師匠。

今の藤波のプロレスを作ったのは間違いなく猪木の存在が大きいが、実はもう1人、50年現役の藤波にとって「今の自分がいるのは彼のおかげ」という男がいた。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

アントニオ猪木(下)に卍固めを見舞う藤波辰爾(1988年8月8日撮影)
藤波辰爾(右)に闘魂注入したアントニオ猪木(2019年4月26日撮影)

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新日本、発熱2選手に続き7選手が感染 陽性の全選手は軽症もしくは無症状

新日本プロレスのエンブレム(2018年3月24日撮影)

新日本プロレスは9日、新たに7選手が新型コロナウイルスのPCR検査で陽性判定されたと発表された。

4月から5月にかけたシリーズ終了後、帯同メンバーを対象に実施し、判明したという。陽性判定を受けた全選手とも軽症、無症状ではあるものの、保健所、医療機関の指導のもと、隔離措置した上で治療に専念する予定。5月4日の福岡国際センターの午前中に発熱があった2選手も陽性判定を受けており、計9選手が感染したことになる。

新日本プロレスでは日常的な体温、血中酸素飽和濃度の把握、定期的なPCR検査をはじめたとした事前対策、巡業中も会場入り時の検温や練習中や控室のマスク着用義務、弁当形式の夕食、夜間外出の禁止などを実施してきた。公式サイトでは「今回の事象を重く受け止め、さらなる感染対策の強化を努めてまいります」と報告している。

同団体では現在、東京都の緊急事態宣言発令により8、10、11日の後楽園大会が中止。また、15日の横浜スタジアム大会、29日の東京ドーム大会も延期が発表されている。

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【藤波辰爾50周年連載2】北沢幹之氏との出会いがプロレス人生の始まり

19年4月、恒例の「ダーッ!」を決める、左から越中詩郎、坂口征二氏、アントニオ猪木氏、長井満也、北沢幹之氏、獣神サンダー・ライガー、藤波辰爾

<藤波辰爾のプロレス人生50年(2)>

プロレスラーの藤波辰爾(67)が9日にデビュー50周年を迎える。「藤波辰爾のプロレス人生50年」第2回は、プロレスとの出会いについて。同郷の先輩、北沢幹之氏と苦労の末に出会ったことが、藤波のプロレス人生の始まりだった。【取材・構成=松熊洋介】

藤波は陸上部だった中学時代、テレビを見てプロレスラーへのあこがれを抱いた。親に内緒で実家のある大分・東国東郡(現・国東市)から、大分市内へプロレスを見に行っていた。チケットは市内で働いていた兄が用意してくれた。頭の中はプロレスでいっぱい。自転車で約4時間。山越えの険しい砂利道も全く苦にならなかったという。

藤波 ただプロレスが見たいという一心で勇気を振り絞って。たまに学校をサボって行ったこともあるくらい(笑い)。親には怒られたが、授業のことなんか頭になかった。今から思えばよく行ったなと。

興味とは反対にケンカは嫌いだった。体が大きくいじめには遭わなかったが、痛いのが嫌で、学校での柔道ですら怖かったという。中学卒業後、工場で働いていたが「プロレスラーに会いたい」という欲求を押さえきれず、自ら行動に出た。同郷の北沢氏が足の療養で別府温泉に来ていることを聞き付け、探しに行った。兄と旅館を何十軒も歩き回り、やっとのことで北沢と対面した。

藤波 プロレスラーは怖いイメージがあったから、兄についてきてもらった。(北沢は)小さい方だったけど、大きく見えたなあ。足も震えていた。あの熱意は今でも不思議に思う。何かに取りつかれていたような感じだった。

藤波の熱意に北沢が応え、一緒に上京した。格闘技をやる性格でないことは親も承知。意志を伝えると驚かれ、反対されたが、押し切った。日本プロレスの門をたたいた。周りは相撲や柔道、格闘技の経験がある猛者ばかり。正式な入門もしていない藤波は当時、第一線で活躍していたアントニオ猪木に出会う。初めて聞いた猪木の言葉は「おい北沢、あいつ誰だ?」だった。北沢氏が「同じ田舎のプロレス好きで、猪木さんのファンだから連れて来たんです」と紹介してくれた。

藤波 相撲部だったら親方がスカウトしてくれる。プロレスは大衆化していないので、よほどケンカが強いか、柔道の有段者とかしか入って来られなかった。自分は異例中の異例だった。

「北沢さんに会ってなかったら今の自分はない」。心優しい藤波少年の熱い思いが運命の出会いを呼び、夢の実現につながった。日本プロレス入門後、家族以上の付き合いとなる猪木の厳しい指導が始まる。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し凱旋(がいせん)帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

72年、新日本プロレスを設立したアントニオ猪木(左から2人目)は世田谷区の自宅を道場に改装し、道場開きを行う。右端は18歳の藤波
72年、新日本旗揚げ当時の藤波

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KUSHIDAが日本人スター名の技を使う理由/WWEの世界(3)

投球フォームから右ストレートを放つ技「マサヒロ・タナカ」を披露するNXTクルーザー級王者KUSHIDA(C)2021 WWE,Inc. All Rights Reserved.

マサヒロ・タナカ。ショウヘイ・オオタニ。いずれも米国マットで使われるプロレス技だ。WWEのNXTクルーザー級王者KUSHIDA(37)は米国で活躍の日本人メジャーリーガーの名前を技に持つ。名付けられた経緯は偶然だが、KUSHIDAがWWE加入後も技名を変えずに使い続ける理由がある。「WWEの世界」第3回は米国で活躍する日本アスリートの名前を技名にするWWE現役王者の思いを紹介する。【取材・構成=藤中栄二】

◇  ◇  ◇

野球投手のように大きく振りかぶる投球フォームから右ストレートで対戦相手の顔面を打ち抜くマサヒロ・タナカ。KUSHIDAがWWEマットで使用する代表的な得意技の1つだ。NXTクルーザー級王座挑戦時にも使用し、王座獲得に結びつけた。MLBヤンキースで活躍し、今季から楽天に復帰した田中将大に由来する。初めて新技として披露したのは15年5月、ROHと新日本プロレス合同の北米(米国、カナダ)ツアーだった。

このツアーでKUSHIDAが新技として右ナックルパート(パンチ)という“反則技”で局面を打開し続けると、会場に集結した米ファンから大きなどよめきが起こったという。会場の盛り上がりぶりに当時、試合中継で解説していた元プロレスラー、スティーブ・コリノ氏(47)に「マサヒロ・タナカだ」と命名された。KUSHIDAは「彼(コリノ氏)がヤンキースのファンで、自分の顔が田中選手に似ているということで解説の時、マサヒロ・タナカと言ってしまってからですね。そのまま技名として使っています」と振り返る。

日本マットのゼロワンでも活躍し、ROHテレビ解説者を経て、現在はWWEのNXTプロデューサーを務めるコリノ氏が名付け親とは運命的でもある。その後、米国で田中本人と対面したものの、KUSHIDAは「ご本人に『マサヒロ・タナカを使っています』とは言えなかったですね」と苦笑いを浮かべた。

ショウヘイ・オオタニ(打撃フォーム式ダブルスレッジハンマー)は18年5月、新日本プロレス滋賀大会のタッグ戦。対戦相手だった田口隆祐のマサヒロ・タナカ対抗技を返す形で誕生した。往年の名投手「ヒサシ・ヤマダ(山田久志)」「ミツオ・スミ(角盈男)」の技名がついた田口のアンダースローから繰り出されるパンチに対し、KUSHIDAは打者がバットを振り抜くようにダブルスレッジハンマーで返した。もちろんMLBエンゼルスで二刀流を貫く大谷翔平が由来で「自分がパンチを返したら、新日本プロレスのサイトにその技名リポートに書いてありましたね」と説明しつつも、本人は気に入っているという。

本来ならWWE入りと同時に技名を変更しても良いものだが、KUSHIDAはあえて使い続ける。それは田中、大谷のように、プロレス界で日米の懸け橋になりたいという願いがある。「チームジャパンとして敬意を表して使い続けます」。もちろん今後も新技に米国で活躍する日本人アスリートを技名にするプランが胸にある。

「ヒデキ・マツヤマ(松山英樹)、ルイ・ハチムラ(八村塁)、ナオミ・オオサカ(大坂なおみ)は考えています。米国で活躍する日本人選手名を技名につけるWWEスーパースターとして、日米で少しでも目にとまってもらえたらありがたいですから」

日本人アスリートの名前が技名として飛び出すWWEの実況も、日本のファンにとっては身近に感じられる。世界中にファンを持つWWEで、王者KUSHIDAが「日本人ブランド」をアピールしている。

マサヒロ・タナカを放つNXTクルーザー級王者KUSHIDA(C)2021 WWE,Inc. All Rights Reserved.
NXTクルーザー級王座ベルトに刻まれた自身の名前を誇示する同級王者KUSHIDA(C)2021 WWE,Inc. All Rights Reserved.
NXTクルーザー級王座ベルトを巻き、ポーズを取るKUSHIDA(C)2021 WWE,Inc. All Rights Reserved.

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新日本、15日横浜スタジアム、29日東京D大会の開催延期

オスプレイ(左)とオカダ

新日本プロレスは7日、15日の横浜スタジアム大会、29日の東京ドーム大会の開催延期を発表した。

政府からの緊急事態宣言延長発令、新型コロナウイルス感染状況や感染拡大防止に向けた判断だという。団体公式サイトでは「各大会を楽しみにされていたお客様には、ご迷惑をお掛けしてしまい誠に申し訳ございません。心よりおわび申し上げます」などと掲載された。日程が決定次第、発表する見通し。延期に伴い、チケットの払い戻しの対応も予定している。

29日の東京ドーム大会では、IWGP世界ヘビー級王者ウィル・オスプレイがオカダ・カズチカを挑戦者に迎えた2度目の防衛戦が予定されていた。

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【藤波辰爾50周年連載1】78年飛龍原爆固めで初戴冠「ドラゴン」ブーム

78年、WWWFジュニア王座タイトルマッチで剛竜馬(後方)をやぶり、王座を防衛しベルトとトロフィーを掲げる藤波

<藤波辰爾のプロレス人生50年(1)>

プロレスラーの藤波辰爾(67)が9日にデビュー50周年を迎える。新日本プロレスを立ち上げから支え、99年には社長にも就任。低迷期を乗り越え、1度も引退することなく、現在でもリングに立ち続ける。日刊スポーツでは「藤波辰爾のプロレス人生50年」と題して、6回にわたり連載する。第1回はプロレスラー藤波辰爾。【取材・構成=松熊洋介】

★必殺技「ドラゴン・スープレックス・ホールド(飛龍原爆固め)」 1978年(昭53)1月23日、無名ながらWWWF(現WWE)ジュニアヘビー級王座を獲得。王者エストラーダにフルネルソンを決めたまま、原爆固めの要領で後方に投げ、そのままフォールした。

★「ドラゴン」ブーム 78年の王座獲得で一気にスターダムに。日本でも女性や子供のファンを獲得。ジュニアながら、ブルース・リーをほうふつさせる肉体美、軽快な動きから名前の「辰=龍」にちなんだ「ドラゴン」ブームを巻き起こした。

★「オレはお前のかませ犬じゃねえ」 81年にはヘビー級転向。82年からは「飛龍十番勝負」でホーガン、ブッチャーらと戦った。同10月には長州との抗争が勃発。「オレはお前のかませ犬じゃねえ」という暴言を吐かれ、大乱闘。その後も感情むき出しの“ケンカ”が続いた。

★師匠アントニオ猪木との激戦 85年12月のIWGPタッグ・リーグ優勝戦でも、この大技で師匠アントニオ猪木からフォールを奪った。88年にはIWGPヘビー級の防衛戦に猪木が挑戦、60分間戦った末に引き分けた。

★ケガとの戦い 89年にベイダーとの一戦で腰を負傷。選手生命の危機に立たされた。「立って歩けないくらいくらいになった」。1年半後に復帰も、痛み止めを飲みながらの戦いはその後も続いた。93年にはG1クライマックス、94年にはIWGPヘビー級王座を獲得。

★社長就任 99年に新日本プロレスの社長に就任し、第一戦から退いた。格闘技ブームや他団体の盛況もある中で低迷期を支え続けてきた。04年に社長を辞任。06年に新日本を退団する。

★現在 「ドラディション」を立ち上げ、11年には長州らと「レジェンド・ザ・プロレスリング」も旗揚げ。15年3月には、猪木に次いで日本人2人目となるWWE殿堂入りを果たした。昨年からは「日本プロレス殿堂会」を発足させて、後世の育成にも尽力する。「50年という感じはしないが、いろんな人と話をするとよみがえってくるので年月は感じる。いろんな歴史を見てきた中でいい経験をさせてもらっている」と話した。

第2回は、波瀾(はらん)万丈の人生を歩む藤波のプロレスとの出会いに迫る。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し凱旋(がいせん)帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

83年10月26日、タッグ戦で長州力(下)に逆サソリ固めで攻める藤波
83年11月19日、新日本プロレス千葉大会でリングに上がった左から藤波、アントニオ猪木、ハルク・ホーガン

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AEWクリス・ジェリコが団体CEOのシニアアドバイザー就任と米メディア

クリス・ジェリコ(2019年1月4日撮影)

米プロレスのオール・エリート・レスリング(AEW)に所属するクリス・ジェリコ(50)が団体CEOのシニアアドバイザーに就任していると4日(日本時間5日)、米専門メディア「レスリングニュース」が報じた。

先週末に開催されたイベントでジェリコ本人が明かしたとし「私には(AEWトニー・カーン)CEOのシニアアドバイザーという立場がある。冗談ではない。明らかにトニーは上司である。トニーが特定のセクションを見て、アドバイスや意見を求めたら、フィードバックを提供します。アドバイザーは私がAEWで何をしているのかを説明するのにはトニーにとっても他の人にとっても最適な方法だ」と自らの立場を説明したという。

ジェリコはWWEで活躍後、18年1月4日、新日本プロレスの東京ドーム大会でIWGP・USヘビー級王者だったケニー・オメガに挑戦する形で参戦。18年にはIWGPインターコンチネンタル王座を獲得し、19年からは旗揚げからAEWにも参戦し、同8月には初代AEWヘビー級王者となった。現在はWWE時代に因縁のあったボクシング元ヘビー級統一王者マイク・タイソンとAEWマットで共闘しようとしている。

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新日本プロレス、2選手のコロナ陽性を発表 軽症も治療に専念

新日本プロレスのエンブレム(2018年3月24日撮影)

新日本プロレスは5日、新型コロナウイルスのPCR検査で参戦中の2選手が陽性判定を受けたと発表した。

福岡大会第2日の4日午前、当該選手2人に発熱などがあったことを受け検査し、濃厚接触者も欠場していた。2選手ともに軽症ではあるものの、保健所、医療機関などの指導のもと、治療に専念する方針。

4日の大会前、菅林直樹会長がリングに立ち、セミファイナルのIWGPジュニアヘビー級王座に出場予定だったエル・デスペラードとYOH、タッグマッチに出場予定のオカダ・カズチカ、SHO、鈴木みのる、金丸義信の6選手が欠場すると発表していた。

新日本プロレスは毎日の検温、血中酸素飽和度の把握、定期的検査に取り組み、シリーズ開幕前にも出場選手、スタッフ全員がPCR検査による事前スクリーニングをクリアしているという。

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オスプレイ激闘制し初防衛「鷹木は俺のレベルに達していないから負けた」

新日本プロレス福岡大会 IWGP世界ヘビー級の初防衛に成功し、ベルトを掲げるウィル・オスプレイ(新日本プロレス提供)

<新日本プロレス福岡大会>◇4日◇福岡国際センター◇観衆2367人

龍魂を打ち砕いた。IWGP世界ヘビー級王者ウィル・オスプレイ(27)が鷹木信悟(38)を44分53秒の激闘の末に破り、初防衛に成功した。

メイドインジャパン、パンピングボンバー、GTR…。「秘策がある」と言っていた鷹木の上をいき、武器である魂の攻撃をすべてはねのけた。テーブルの上にたたき落とされて腰を痛め、終盤は立つのもやっとの状態だったが、何度もかわされたストームブレイカーをさく裂させ、粘る相手をリングに沈めた。試合後観客が席を立てないほど、のみ込まれていた総力戦を制し「鷹木は俺のレベルに達していないから負けた。俺が勝つことは初めから運命で決まっていた」とほえた。

ベルトへの執念が実った。3月ニュージャパンカップで優勝し、飯伏への挑戦権を獲得した際に、恋人のプレストリーにオスカッターを浴びせて仲間割れ。当時、女子プロレスのスターダムに所属しながら、毎試合セコンドで助けてきたパートナーを「ベルト以外は意味がない」とあっさり切り捨てた。その後4月4日の両国大会で、宣言通り飯伏を破り、頂点に立った。

次戦は29日東京ドームでオカダと対戦する。英国時代に新日本へ導いてくれた兄貴分を昨年10月に裏切り、CHAOSを脱退。今年1月4日東京ドーム大会で対戦するも敗れ、眠れないほど悔しがった。この日の試合ではオカダの得意技のレインメーカーを披露するなど、リベンジの思いをリングでも表現した。

飯伏、鷹木と実力者を退け、勢いが止まらない。O・カーン、コブ、ヘナーレと形成するUNITED EMPIRE(UE)は1月の東京ドーム大会で全敗。そこからはい上がり、今シリーズの前哨戦では、鷹木、内藤らのロスインゴ・ベルナブレス・デ・ハポンに圧勝した。「オカダに負けた時はみんながおしまいだと言っていたが、今は俺たちが中心に立っている」と叫んだ。

この日、選手に発熱者が出て、試合数が減った。それでも「俺が立つメインの試合は、チケット料金に値する」とファンに向け堂々と語った。新設されたIWGPのベルトを“世界”に見せつけ「俺はこの団体(新日本)の未来だ。先輩たちからバトンを受け継いだ。期待に応えるのが俺の役目だ。この団体は俺を頼りにしている」と豪語した。英国の工事現場で働いていた時に夢を抱き、バカにされた周囲の人を見返すために努力を重ね、頂点に立ったオスプレイ。29日、オカダに敗れた同じ舞台で雪辱を果たし、誰も届かない領域に君臨する。

新日本プロレス福岡大会 鷹木信悟をロープに乗せ、コーナートップからシューティングスタープレスを決めるウィル・オスプレイ(新日本プロレス提供)
新日本プロレス福岡大会 IWGP世界ヘビー級の初防衛を果たしたウィル・オスプレイ(右から2人目)を祝って乾杯するUNITED EMPIREの選手たち。左からジェフ・コブ、グレート・O・カーン、1人おいてアーロン・ヘナーレ(新日本プロレス提供)

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“元気はつらつおじさん”鷹木信悟、IWGPヘビー挑戦「男になる」

新日本プロレスの元気はつらつおじさんこと鷹木信悟(38)が4日の福岡大会でIWGP世界ヘビー級のベルトをかけて、ウィル・オスプレイ(27)と対戦する。

4月10日から約1カ月に及ぶ17試合の前哨戦を終えた。鷹木所属のロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンとオスプレイ所属のUNITED EMPIRE(UE)。両軍とも1日も休むことなくリングに立ち続けたが、鷹木が勝利したのは3戦のみ。毎試合後には、UEの雄たけびをリング上で聞く屈辱を味わったが、鷹木の心は全く折れておらず、むしろ「いつになく調子いい」と、朝6時半に起きて散歩するなど、とにかく絶好調だ。

試合を重ねるごとに調子を上げてきた。先月末の鹿児島大会では、試合後に挑発してきたオスプレイに得意技のラスト・オブ・ザ・ドラゴンを見舞った。「疲れてるんじゃねえのか? このベルトは俺がいただく」と王者を見下ろして堂々と宣言。1月30日、NEVER無差別級選手権で35分の激闘の末、棚橋に敗れて以来のシングルの頂点を狙う。多彩な技を繰り出すオスプレイに対し、気持ちでぶつかる鷹木。「秘策がある」と不敵な笑みを浮かべる。前哨戦では試合以外でも互いに罵倒し続けてきたが「負けたら何の言い訳もできない。だから勝つしかない」と決着はリング上で決める。4月26日広島大会でSANADAがヘナーレに、内藤がO・カーンに勝利し、いい形でバトンを受け取った。「男になるしかねぇだろ」。魂のこもった龍魂ラリアットをさく裂させ、「ドラゴン」の名の通り、龍のごとく頂点に駆け上る。

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ホワイト新王者で史上初4冠制覇、棚橋弘至を破りNEVERのベルト奪取

新日本プロレス福岡大会 棚橋弘至の足を絞め上げるジェイ・ホワイト(左)(新日本プロレス提供)

<新日本プロレス福岡大会>◇3日◇福岡国際センター◇観衆2211人

ジェイ・ホワイト(28)がNEVER無差別級王者の棚橋弘至(44)を破り、新王者に輝いた。終盤、棚橋のテキサスクローバーでギブアップしたかに見えたが、レフェリーがセコンドの外道に気を取られており、不成立。その後ブレイドランナーで3カウントを奪った。「タナ、お前はもう終わりだ。俺を超えられない。リマッチもさせてやらない」と自信満々に語った。

ホワイトらしい“意地の悪い”戦い方だった。4月4日の大会で棚橋が挑戦を受諾し、対戦が決定すると、リングから姿を消し、1カ月間休養。一方の棚橋は、10日からの16試合すべてに出場しており、試合前のコンディションで優位に立っていた。その上、真っ向勝負ではなく、棚橋の古傷の膝を徹底的に痛めつけ、立てないようにした。相手の得意技ドラゴンスクリューや、おきて破りのテキサスクローバーも仕掛けた。さらには昨年11月の2冠挑戦権利証争奪戦(VS飯伏)の時のように、自分の足をロープにかけた状態で相手を押さえ込む反則技も見せるなどやりたい放題でベルトを手にした。勝利後はファンの拍手に対しても「お前らの拍手なんて侮辱と同じだ」と吐き捨てるように言った。

NEVERのベルトを手にし、新たな歴史を作った。IWGPヘビー級、インターコンチネンタル、USヘビー級と合わせて史上初の4冠制覇を達成。「誰も信じてなかっただろうが、宣言通り達成した。俺は今、プロレス界の中心にいる」と語った。その後もバックステージでの“演説”は止まらず10分近くも話し続けた。

防衛戦の相手にはフィンレーを指名。3月のニュージャパンカップで敗れた相手にリベンジを狙う。「ベルトをかけてお前の相手をしてやるよ。このギフト、受け取るよな」。どんな形であれ、棚橋から3カウントを奪って、王者になったことは事実。ホワイトの暴走は今後もエスカレートしそうだ。

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永田裕志&成田蓮組、8日の「NJPWストロング」でUS王座前哨タッグ戦

新日本プロレス11日、米国発の新日本プロレスワールド番組「NJPWストロング」8日配信分で永田裕志、成田蓮組-ジョン・モクスリー、クリス・ディッキンソン組の開催を発表した。

12日(日本時間13日)に米オール・エリート・レスリング(AEW)マットに初進出し、IWGP・USヘビー級王者モクスリーに挑戦することが決まっている永田にとっては前哨タッグ戦となる。NJPWストロング初参戦となる53歳の永田が、US王座戦前の前哨戦でモクスリーに何を仕掛けるのか。モクスリーも2度目のNJPWストロング参戦となる。

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新日本永田裕志が米AEWへ初進出 IWGP・USヘビー級王座挑戦発表

永田裕志(2021年2月4日撮影)

新日本プロレスは「ブルージャスティス」永田裕志(53)が5月12日(日本時間13日)、米オールエリートレスリング(AEW)マットに初進出し、IWGP・USヘビー級王者ジョン・モクスリー(35)に挑戦すると30日までに発表した。

これまでモクスリーから動画メッセージで次期挑戦者として指名されていた永田は「顔を洗って出直してこい」と動画メッセージで反応。両者による王座戦が浮上していた。AEWマットには、バレットクラブのKENTAが乱入、参戦し、モクスリーとタッグ戦をしているものの、王座戦となると新日本勢では初めてとなる。

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飯伏幸太が地元凱旋で復帰戦勝利「プロレスの力みんなに」思い出の地で躍動

新日本プロレス鹿児島大会 アーロン・ヘナーレにカミゴェをさく裂させる飯伏幸太(新日本プロレス提供)

<新日本プロレス鹿児島大会>◇29日◇西原商会アリーナ◇観衆1701人

姶良市出身の飯伏幸太(38)が、昨年12月以来となる地元凱旋(がいせん)で、勝利を収めた。

今月4日両国大会でオスプレイに敗れ、自ら提案して創設された、IWGP世界ヘビー級の初防衛に失敗。その後負傷していた足の傷も癒え、25日ぶりにリングに戻ってきた。

棚橋と組んで、コブ、ヘナーレ組と対戦した飯伏は、久しぶりの試合で、みなぎる闘志を見せたかったのか、ニーパッドをつけずに入場。「地元で楽しくプロレスができて最高」と、高い位置からのドロップキックや、勢いのあるエルボー、強烈なジャンピングニー、カミゴェなど軽快な動きでファンを魅了した。横で戦った棚橋も「久しぶりに組んだけど、正直言って別人だった。今日は飯伏の力で勝った」と目を細めた。

高校時代まで過ごした思い出の詰まった地で、地元のスターが躍動した。小学生時代、家族とプロレスを見に行き、興味を持った飯伏少年は、周りの目も気にせず、夢に向かって真っすぐに進んだ。プロレスに対する熱い思いは、職業となった今でも少年時代と何も変わっていない。「休んでいる間に、何か満たされない部分があって、今日少しだけ満たされた。プロレスって楽しくないですか? プロレスができて本当に幸せ」と素直な気持ちを語った。

プロレスラーになったころは、路上など、お客さんがほとんどいないところでも興行を経験。コロナ禍で中止となる地域もある中、観客の前で、しかも地元で試合ができることに喜びを感じている。「見に来られる場所が減っている中、制限はあるけど、何千人の前で試合ができるだけでうれしい」。もちろん、自分が満足するだけでなく「元気を与えたい。プロレスの力をみんなに伝えたい」と役割も理解している。

試合後には対戦したコブにシングルマッチを要求。「まだまだ刺激が足りない。もっとください」と5月15日横浜スタジアム大会での対決を熱望した。レスリングで五輪出場の経験もあるコブに対し「彼はアスリート。自分にはその能力が欲しい。今、1番悔しいと感じている」と明かした。「僕はチャレンジする」。失ったベルトを取り戻すため、飯伏が大好きな鹿児島から再スタートを切った。

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新日本プロレス 5月の後楽園ホール大会中止を発表

新日本プロレスは26日、東京都に緊急事態宣言が発令されたことにより、5月8日(土)、10日(月)、11日(火)に開催予定だった後楽園ホール大会を中止にすることを発表した。

試合や配信を行うことによる選手、スタッフの感染リスクを回避するため、無観客試合は行わず、5月15日横浜スタジアム大会、29日東京ドーム大会へ向けた選手の休養を優先するとした。

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過去最多9人在籍、日本選手が求められる背景/WWEの世界(2)

アスカ(右)とWWE女子タッグ王者に君臨していたカイリ・セイン(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.

4月22日配信のWWE・NXT大会では、Sareeeのリングネームで活躍していたサレイ(25)がWWEデビューを果たした。現在、中邑真輔(41)、アスカ(39)、戸沢陽(35)、カイリ・セイン(32)、紫雷イオ(30)、KUSHIDA(37)、里村明衣子(41=センダイガールズ)、樋口“イケメン”壮士朗(28=黒潮“イケメン”二郎)の日本人9選手がWWEと契約を結び、過去最多所属人数となっている。「WWEの世界」第2回は、WWEの「アンバサダー」を務めるカイリの証言をもとに日本人レスラーが増えつつある背景に迫る。【取材・構成=藤中栄二】

   ◇   ◇   ◇

WWEにはロウ、スマックダウン、NXT、NXT UKと4ブランドがある。ロウにアスカと戸沢、スマックダウンに中邑、NXTには紫雷、KUSHIDA、サレイ、NXT UKに里村が在籍し、各ブランドで活躍中だ。アスカとWWE女子タッグ王座も獲得したカイリは団体内に漂う日本プロレスへの敬意を感じてきたと明かす。

カイリ 日本のプロレスラー、日本のプロレスに対してのリスペクトがありますね。「あの選手が格好良い」とか、日本のプロレスの話をしているようなイメージです。

WWEの選手育成道場となるパフォーマンスセンターでは、日本の試合を見てプロレスの勉強をする選手も多いという。

カイリ 昼休みにはモニターがあるラウンジに選手たちが集まり、ランチを食べながらプロレスの試合を見るのですが、日本の試合もよく選ばれていました。小橋(建太)さんや三沢(光晴)さんの過去の試合をはじめ、もちろん今の試合もありましたね。日本で試合経験している選手はステータスが上がるようで「オレは日本に行ったことある」と自慢するのです。AJスタイルズさん、フィン・ベイラー(プリンス・デヴィット)さんは他選手から見られる目も違いましたね。

現在、WWEの選手統括トップは全日本プロレスで活躍したジョニー・エースことジョン・ローリナイティス氏(58)、パフォーマンスセンターのコーチは新日本プロレスでファイトしたジャイアント・バーナードことマシュー・ブルーム氏(48)が務めている。日本でキャリアを積んだ元選手が裏方に多い。

カイリ バックステージのプロデューサーもカメラマンも元プロレスラーが多く、日本のプロレスを知っている。欧州、米国とそれぞれプロレスのスタイルはありますが、日本は独特のジャンルに見られています。「なぜ日本人はやられても、やられても立ち上がり続けるのか」と。その侍スピリッツを驚かれます。

WWEと契約した選手はパフォーマンスセンターで一定期間、トレーニングを積むことにある。この場でも日本人レスラーであることが、1つのアドバンテージになるそうだ。

カイリ 真輔さん、アスカさんをはじめ、先輩方のご活躍があり、日本人レスラーは最初から注目されていると思います。その中でうまくステップアップしていくためには試合の技術だけでなく、マイクパフォーマンスやキャラクター、コミュニケーション力など、多くの要素が必要になってきます。

まだデビューしていない樋口“イケメン”もパフォーマンスセンターで切磋琢磨(せっさたくま)し、いずれデビューするだろう。世界のプロレスファンが注目するWWEでも「チーム・ジャパン」が一大勢力になりつつある。

NXT時代に紫雷イオ(左)ともリング上で並び立ったカイリ・セイン(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.
NXTでWWEデビューを果たしたSareeeことサレイ(上)(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.

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猪木、小鉄…プロレス道たたき込まれた/タイガーマスクの40年2

笑顔を見せるアントニオ猪木(右)と初代タイガーマスク(2011年1月17日撮影)

「タイガーマスク」佐山サトル(63)には、プロレス道の魂が宿る。

23日にデビュー40周年を迎える初代タイガーマスクの記念大会「ストロングスタイルプロレス」(22日、後楽園ホール)に向け、佐山が日刊スポーツの取材に応じた。「タイガーマスクの40年」と題した連載第2回(全3回)は、佐山とアントニオ猪木。

佐山の原点は、アントニオ猪木(78)にあった。76年5月デビュー後、猪木の付き人を2年間務めた。そのプロレス道は「基本をしっかり身に付けた上で、リング上で表現する。ナチュラルにみせることができるのが昭和のプロレス」と明かす。観客は持っている食べ物を食べ忘れるほど引き込まれた。佐山自身もかつて、都内にある猪木酒場(昨年閉店)で観戦時、「最初はにらみ合ってばかりで、地味な展開のように思えたが、いつの間にか引き込まれて最後まで見てしまった。これが猪木さんの天才的なところ」と話すほどだ。

その魅力は、圧倒的な練習量と地道な基本の積み重ねがあった。試合がない時は常に練習。「寝技のスパーリングばかりしていた」。当時は練習公開され、ファンの厳しい目にさらされることもあった。本番でつまらない試合をするとヤジが飛んできた。練習での猪木は厳しかったという。「サボるといつもみんな怒られていた。自分は(練習が)結構ちゃんとやっていたのであまりなかったけど(笑い)」。闘魂注入のビンタは、受けたことはない。「目の前で(人が)張り手を受けている姿を見てきたので、やられたいとは思わないよ」と語った。

先輩たちも猪木イズムを継承して厳しかった。故・山本小鉄さんには礼儀を教わった。半年に1回来日する故・カール・ゴッチさんからは服装やマナーをしつけられた。「麺を食べる時、音を出すなと言われた。忠実に守ってきたから、今でも音を出してすすれない」と笑顔で振り返る。

猪木とは昨年行われた同窓会で対談の機会があったが、自身の体調が良くなかったため、実現しなかった。今年に入って入院している猪木の姿をユーチューブで見て「また会いたくなった」と心配な表情を見せた。ただ、「プロレスラーはみんな体が強い。猪木さんのことだから、つくっているかもしれないよ」と笑い飛ばした。

佐山には、猪木ら厳しい先輩たちに教わったプロレス道の魂が宿る。現在は礼儀と基本を重視し、表現できるレスラーを育てている。

プロレスから新たな世界へ。「タイガーマスク」として衝撃的なデビューから2年がたち、3年目に突入した83年。佐山は大きな決断を下す。(続く=第3回は格闘技の世界へ)【松熊洋介】

◆佐山サトル(さやま・さとる) 1957年(昭32)11月27日、山口県生まれ。小学校で格闘技に興味を持ち、高3時にはレスリングで国体出場。75年7月新日本プロレスに入門し、76年5月デビュー。山本小鉄、アントニオ猪木の付け人を務める。その後メキシコ遠征から帰国し、81年タイガーマスクとしてデビュー。83年8月に一時引退。84年スーパータイガーに改名し、UWFで現役復帰。85年に脱退、格闘技「シューティング」(後の修斗)を設立。94年新日本で4年ぶりにリング復帰。99年には掣圏真陰流を設立した。

初代タイガーマスクデビュー40周年記念大会に向けてインタビューに応じた佐山サトル(撮影・松熊洋介)
新日本入門以降、アントニオ猪木とUFO創設などで密接に関わる
84年、手を合わせるUWFのメンバー
84年、前田日明と対戦
04年、3代目(中央)4代目タイガーマスク(右)と
07年、小林邦昭と対戦
16年、アレクサンダー大塚と対戦
18年、新間氏(右)とダイナマイト・キッドさんを追悼する
タイガーマスクのライバル、ダイナマイト・キッド
20年、新間寿氏と長期休養中にあいさつ

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KENTA「俺の女」“棒ちゃん”の力でYOSHI-HASHIにKO勝ち

新日本プロレス後楽園大会 棒を持ち出し、YOSHI-HASHI(右)に襲いかかるKENTA(新日本プロレス提供)

<新日本プロレス後楽園大会>◇19日◇後楽園ホール◇観衆306人

KENTA(40)がYOSHI-HASHI(38)をgo 2 Sleepで沈め、20日のNEVER6人タッグ選手権試合に弾みをつけた。

序盤から怒りをあらわにするYOSHI-HASHIとは対称的にKENTAは冷静だった。逃げ回っていら立たせ、場外戦へ持ち込み、DDTを浴びせたあと、何度も鉄柵にぶつけた。中盤はコーナートップからジャンピングフットスタンプを決めるなど、休むことなく攻め続け、張り手とエルボー合戦も制した。

2人の因縁が勃発したのは3月21日。入場時にYOSHI-HASHIが肌身離さず持ち歩いていた約170センチの如意棒をKENTAが奪い取ったことから始まった。KENTAはこれを「棒ちゃん」と名付け、自分のものにした。この日もリング下から持ち出し、レフェリーの目を盗んで殴りつけてKO。試合前のSNSでは「1対1でやるから連れていかない」と宣言していたが、リング下に隠していた“棒ちゃん”に勝負どころで力を借り、粘る相手を沈めた。

試合後は久しぶりのマイクパフォーマンス。会場のファンに向かって棒ちゃんを紹介。「こんな日が来るなんて信じられない。初めまして俺の女の棒ちゃんです」と笑いに包んだ。相手に強烈なダメージを与え、東京タワーに“デート”に行くなど相思相愛となった相棒を簡単に渡すつもりはない。

この日は高橋裕二郎対石井、石森対後藤と20日のタイトルマッチを戦う6人がそれぞれシングルマッチで対戦し、KENTAら挑戦者のバレットクラブが2勝1敗で勝ち越した。普段からバックステージで挑発を受けていたKENTAは「このままぶっつぶして、お前らがおまけでもらっている6人タッグのベルトを取ってやる」と気合十分。愛する“彼女”と抱き合い、熱いキスをしながらリングを後にした。【松熊洋介】

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静かな会場に落胆…実は引き込まれていた観客/タイガーマスクの40年1

84年2月、「タイガージム」を開設

佐山サトル(63)が、1年半ぶりにリングに上がる。23日にデビュー40周年を迎える初代タイガーマスクの記念大会「ストロングスタイルプロレス」(22日、後楽園ホール)に向け、佐山が、日刊スポーツの取材に応じた。「タイガーマスクの40年」と題して、3回にわたって連載する。第1回はタイガーマスク誕生秘話。

衝撃デビューから40年。あの初代タイガーマスクがリングに戻ってくる。40周年記念大会第1弾で、昨年9月以来となるリング登壇に意欲を見せる。「リングには上がれるがコーナーポストは無理かな」とジョーク交じりに笑顔を見せた。

15年に狭心症と診断されて心臓を手術。16年に復帰するも再び体調を崩し、リングからは離れていた。その後自力で歩行できるまでに回復し、昨年からは公の場にも登場。体調について「寒い時は少し悪いが暖かくなると大丈夫」とガッツポーズをつくってみせた。

81年4月23日。新日本プロレスの蔵前国技館大会でタイガーマスクはデビューした。虎の覆面をかぶった身長173センチの小柄な男は、リングに革命をもたらした。「4次元殺法」と呼ばれた華麗な空中技で、血なまぐさいマットを華やかな舞台へと変えた。

もともとタイガーマスクは1試合限定の予定だった。テレビ朝日で放送開始したアニメ「タイガーマスク2世」の番組宣伝を兼ねたタイアップ企画だった。その主役に佐山が抜てきされた。アントニオ猪木や当時営業部長だった新間寿氏の指名だった。佐山は、当時サミー・リーとして英国で絶大な人気を誇っていた。最初は「帰れないと断った」。すると新間氏から「猪木の顔をつぶさないでくれ」と言われ、1試合で英国に戻るつもりで帰国した。

「期待されている」と思って受け入れたが、違っていた。用意されたマスクとマントは、シーツのような薄っぺらな生地で一夜漬けで作製したような代物だった。ファンからのヤジも聞こえ、予想外の反応に戸惑った。

このデビュー戦は「伝説の一戦」といわれる。ダイナマイト・キッドとの9分29秒の激闘は、それほど衝撃的だった。見たこともない飛び技と、切れ味鋭い打撃。美しいフォームのソバットを繰り出し、ジャーマンスープレックス・ホールドで勝利した。試合後の会場は、静寂に包まれた。総立ちで拍手が起こっていた英国と違った。「ウケなかった。すぐに英国に帰ろう」とそそくさとリングから引き揚げた。実は佐山のファイトに会場が引き込まれていたからだった。周囲はたった1試合で激変した。ファンから次戦の問い合わせが殺到。新日本は2週間後に2戦目を組んだ。

タイガーマスクの時代は2年4カ月と短い。なのにプロレス史に強烈な印象を残した。それは空中殺法が華麗だったからではない。圧倒的に強かったから。シングル、タッグ合わせて通算387戦で敗戦はわずか11試合。しかもシングルマッチは165戦してダイナマイト・キッドに反則負けした1敗のみ。残るタッグでの10敗も、タッグパートナーがフォールされただけだ。初代タイガーマスクは1度もフォール負けしていない。

現在はプロレスラーと格闘家の育成に励む。83年の引退後には「18歳の時から考えていた」と格闘技「シューティング(現・修斗)」を作った。人格、平静心を鍛え、礼儀を重んじる佐山の魂を受け継ぐ選手たちがリングで躍動している。

佐山は新日本プロレスに誘ってくれた新間氏との縁を「数奇な人生」と振り返る。「タイガーマスクになれと言われたし、付き合ううちに考え方も一緒だと分かった。人間の本当の優しさを持っている人」。タイガーマスク人生を作り上げてくれた恩師と、温かく見守り続けるファンのために、リング上の元気な姿で恩返しする。(続く=第2回は「佐山サトルとアントニオ猪木」)【松熊洋介】

◆佐山サトル(さやま・さとる) 1957年(昭32)11月27日、山口県生まれ。小学校で格闘技に興味を持ち、高3時にはレスリングで国体出場。75年7月新日本プロレスに入門し、76年5月デビュー。山本小鉄、アントニオ猪木の付け人を務める。その後メキシコ遠征から帰国し、81年タイガーマスクとしてデビュー。83年8月に一時引退。84年スーパータイガーに改名し、UWFで現役復帰。85年に脱退、格闘技「シューティング」(後の修斗)を設立。94年新日本で4年ぶりにリング復帰。99年には掣圏真陰流を設立した。

<タイガーマスクアラカルト>

◆技 デビュー戦から毎試合のように高度な新技を披露した。有名な後ろ回し蹴りローリングソバット、バック宙しながら相手を蹴るサマーソルトキック、コーナーポストからの旋回式ボディープレス…。1試合で複数の新たな必殺技を決めることもあった。そのほとんどがオリジナル技だった。

◆歴代タイガーマスク 初代の佐山は83年に一時引退し、UWFでスーパータイガーに改名。84年8月に故・三沢光晴さんが2代目としてデビューし、90年まで務める。92年に金本浩二が3代目。佐山の教えを受けた4代目は、95年7月にデビューし、現在も新日本プロレスのリングに立つ。

◆ライバル 

ダイナマイト・キッド 「それまで対戦した中で一番強かった」と明かす。82年8月、WWFジュニアヘビー級王座をかけた蔵前国技館大会では、試合開始と同時にハイペースで技を応酬。リング上から場外へ投げ捨てるブレーンバスターで反撃し、サイドスープレックスの体勢から、受け身の取れない変形パイルドライバー。鼻血を出したキッドに、旋回式ボディープレスを浴びせ3カウントを奪った。

「暗闇の虎」ことブラックタイガー 82年5月に、相手の必殺技であるツームストン・パイルドライバーを逆に仕掛け、ラウディング・ボディープレスで勝利した。

メキシコ修業時代から一緒だった小林邦昭と数々の激闘を繰り広げた。82年10月の初対決からマスクを引き剥がされるなど、WWFジュニアヘビー級のベルトを懸けて何度も戦った。

84年7月23日、UWFのリングに「ザ・タイガー」としてデビューしたタイガーマスクに頭突きを浴びせる藤原喜明
初代タイガーマスクこと佐山聡(2020年11月5日撮影)

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O・カーン5連勝「貴様は一生、2番手で生きていく」対戦控える内藤を挑発

新日本プロレス後楽園大会 SANADA、内藤哲也組に勝利したグレート・O・カーン(左)とアーロン・ヘナーレ(右)(新日本プロレス提供)

<新日本プロレス後楽園大会>◇18日◇後楽園ホール◇観衆641人

グレート・O・カーンが、4月26日(広島)でスペシャルシングルマッチを戦う内藤哲也(38)との前哨戦で5連勝を飾った。

10日から始まった今シリーズ。これまで6試合戦って5勝し、内容でも圧倒。この日もヘナーレとの連携技が光り、モンゴリアンチョップも相手2人にさく裂。相手の挑発に乗らず、技も読んでかわし、ヘナーレのStreets of Rageで3カウントを奪った。

メインで勝利することも多く、UNITED EMPIRE(UE)を率いるO・カーンの締めのマイクパフォーマンスも今シリーズ4度目となる。口数が多いことを内藤から指摘され「UEの広報担当」とからかわれたが「広報でも言葉だけじゃない。帝国の強さは、常にリングで示している」と言い返した。

バックステージでも常に“口撃”を続ける。内藤の地元である東京・足立区をののしったり、学歴や貧富の差を出して挑発。自らの帝国のことは明かさないが、場外戦でも負けるつもりはない。今年1月4、5日の東京ドーム大会では全敗。名前をUEに変え、新たなスタートを切った。今月4日にはヘナーレが加入。さらにオスプレイが飯伏を破って世界ヘビー級王者に輝くなど、4人のユニットながら、勢いは増す一方だ。

この日、内藤には「負けたらロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンのリーダーを(高橋)ヒロムやSANADAに譲ってもらおうか。貴様は一生、2番手で生きていくことになる」と相手ユニットの配置にまで注文を付けた。今シリーズで主役となっているUE。26日にO・カーンが内藤を、ヘナーレがSANADAを破り、5月4日、オスプレイが鷹木に初防衛すれば、UEの時代がやってくる。

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