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【藤波辰爾50周年連載5】プロレスの証しを残す「殿堂会」を設立

WWEに殿堂入りしリング上であいさつする藤波辰爾(2015年7月3日撮影)

<藤波辰爾のプロレス人生50年(5)>

プロレスラー藤波辰爾(67)は2015年、アントニオ猪木以来となる日本人2人目のWWE殿堂入りを果たした。今月9日にはデビュー50周年を迎えたばかり。プロレス人生を振り返る連載第5回は、レジェンドたちの偉業の継承。【取材・構成=松熊洋介】

夢のような時間だった。15年のある日の夜中、自宅にいた藤波はWWEからの電話で、殿堂入りの知らせを受けた。妻・伽織さんと2人で招待された。毎年各都市の招致合戦が繰り広げられるほどの大イベント。空港に降り立つと、カリフォルニア州・サンノゼの街全体が祝福ムードに包まれていた。殿堂入りの英雄たちの垂れ幕が掲げられ、ホテルまではパトカー10台以上に先導されて向かった。

藤波 国賓級の扱いだった。今思い出しても鳥肌が立つくらい。プロレスラーになってこんなことがあるのかと…。長くやっていてよかったなあと思った。

選手だけでなくプロレス界に貢献した人物も対象で、13年には前米大統領のドナルド・トランプ氏なども表彰されている。セレモニーで藤波の隣にいたのは、元カリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツェネッガーだった。ライバルだったフレアーに紹介され、藤波はタキシード姿で登壇した。「すべての人々、WWEへこの名誉に対し感謝します。61歳で、43年間戦い続け、まだ戦っています。これは私の使命。私をサポートしてくれた家族に感謝したい」と英語でスピーチ。数万人が詰め掛けた会場は大歓声に包まれた。翌日にはMLBサンフランシスコ・ジャイアンツの球場でリングに上がり、大観衆の前でプロレスを披露した。

藤波 昨年は獣神サンダー・ライガーが殿堂入りした。将来的にはコラボして、日本でも開催されるような時代が来ればいい。こういうのを知ってしまうと、みんな目指すべきだろうと。日本のプロレスラーたちも目指す欲を持って欲しい。

昨年2月、「日本のレジェンドたちの功績をたたえたい」と天龍や長州らと「日本プロレス殿堂会」を設立。コロナ禍でなかなか動けなかったが、今年4月、小橋、田上らとトークショーを行い、活動をスタートさせた。

藤波 僕らが殿堂入りしたいわけではなくて、猪木さんとか、させなきゃいけない人のためにそういう組織をつくらないといけないと思って。プロレス界は、なかなか横のつながりがなかったが、どこかで作っておかないと自分たちが生きてきた証しがなくなっちゃうんじゃないかと。

故ジャイアント馬場さんや猪木らの時代をともにしてきた。先輩から学んできたものを後世に伝える使命があると考える。

藤波 誰かが言い伝えていかないと。今でも当時の光景が頭に浮かぶ。今の選手たちに、あれだけ繁栄した時代があったんだよと思い出を残しておきたい。

現役としてリングに立つ一方で、プロレスの証しを残そうと動きだした。50周年を迎えたが、残りのプロレス人生、藤波にはまだやるべきことが残っている。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付け人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

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カープファン内藤哲也“ホーム”広島でO・カーン撃破 逆転ストーリー開始

グレート・O・カーンに勝利した内藤哲也(新日本プロレス提供)

<新日本:広島大会>◇26日◇広島サンプラザホール

思い入れのある地で連敗を止めた。内藤哲也(38)が、グレート・O・カーンとの27分に及ぶ戦いを制した。必殺技のデスティーノを連続で浴びせ、粘るO・カーンを沈めた。プロ野球・広島のファンである内藤。東京出身だが、年に何度かは球場に応援に行くこともある。「カープが好きなだけだが、広島をホームだと思っている」。右手を高々と突き上げ、ファンの応援に応えた。

中盤まではO・カーンの試合運びに苦しみ、あわや3カウントのシーンが何度も訪れたが、本能だけで返した。O・カーンに「椅子にでもなってもらおう」とコーナートップで顔の上に座られ「靴、おいしいか?」と踏み付けられた。首を絞められてロープに逃げ、相手のトレードマークの弁髪を引っ張って応戦することしかできなかった。それでも終盤決めにかかったO・カーンのエリミネーターを切り返し、逆転の3カウントを奪った。

今年1月東京ドーム大会で飯伏に敗れて2冠王者から陥落。目標を見失い、2月にはベルトに挑戦して敗れるなど、ふがいない戦いが続いていた。ターゲットを募ったが、納得の相手は見つからなかった。そんな中、今シリーズで3月のニュージャパンカップで敗れていたO・カーンに照準を定めた。「俺に勝っているから実力はあると思う。だからこそ指名した」。それでも前哨戦では、今月11日から10連敗。O・カーン率いるUNITED EMPIREの勢いに押され続けたが、ホームの地で勝利をつかみ、ようやく浮上のきっかけをつかんだ。

今年2月の広島大会では、当時IWGPヘビー級とインターコンチネンタル王者だった飯伏の2冠統一に待ったをかけようとしたが、失敗した。「逆転の内藤哲也を見せないと、また広島のお客さまの前でウソをついてしまうことになるから宣言をしっかり守る」。内藤はO・カーンとの対決を五分に戻し、カープは25日の試合で勝率を5割に戻した。「年末に振り返ったときに、この広島がきっかけだったと言われるように突っ走っていく」。カープとともに、内藤の逆転のストーリーが始まった。

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虎党徳勝龍「ホームランか三振」少年時代強打の捕手

徳勝龍

虎の横綱になる! 阪神ドラフト1位の佐藤輝明内野手(21=近大)と大相撲の徳勝龍(34=木瀬)が、新春の「仮想対談」を行った。近大の先輩徳勝龍は、大の阪神ファンで、黄金ルーキーにプロの世界で生き抜く秘訣(ひけつ)を伝授。期待に応えるべく佐藤輝も、1年目から大暴れを誓った。【取材・構成=実藤健一、只松憲】

   ◇   ◇   ◇

徳勝龍は生まれた瞬間から阪神ファンだった。「両親がすごいファンだったんで」。特に父順次さんはファンクラブに入会するほど熱狂的。その父に連れられ、甲子園球場にもよく通った。好きだった選手は亀山。「背番号00がめちゃかっこいいと思ってました」。

少年野球で「ホームランか三振」という強打の捕手だった。同時に地元の相撲クラブにも通った。将来は野球か相撲か。「野球は好きだったが自信がなかった。走れない。何をやったら一番いいかが相撲だった」。その視点は玄人で初場所優勝後、キャンプも始まる前から高卒ルーキー井上の長距離砲の資質を見抜き、イチ押ししていた。

近大の先輩、阪神の“男前”藤井バッテリーコーチとは共通の知人を介して知り合い、たまに食事に行く仲という。初場所の初優勝後、お祝いに藤井コーチから現役時代に使用したキャッチャーミットをプレゼントされた。そのミットを手に甲子園で「受球式」は現実的な夢だ。【実藤健一】

◆徳勝龍誠(とくしょうりゅう・まこと) 本名・青木誠。1986年(昭61)8月22日、奈良市生まれで育ちは橿原市。家族は千恵夫人。3歳から柔道、小学2年から野球を始め、相撲は4年から。少年野球は4番捕手で6年時に橿原市の大会で優勝。父順次さん、母えみ子さんも生粋の阪神ファン。明徳義塾高-近大から木瀬部屋へ。09年初場所、前相撲から初土俵。11年九州場所新十両、13年名古屋場所新入幕。20年初場所、幕尻で14勝1敗の初優勝。最高位は西前頭2枚目。183センチ、192キロ。得意は突き、押し。

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鈴木みのる白星スタート「次はタイチだ」次戦へ闘志

石井(左)にキックを見舞う鈴木(新日本プロレス提供)

<新日本:G1クライマックス30>◇19日◇エディオンアリーナ大阪

20選手がA、Bブロックに別れて争うシングル最強決定戦「G1クライマックス」が開幕し、Aブロック公式戦5試合が行われた。

NEVER無差別級王者・鈴木みのる(52)は、石井智宏(44)と対戦。激しい張り手、頭突き、エルボーなどを繰り出す、激しい打撃戦となったが、最後は、8月の神宮球場大会でNEVER王座を奪取し、勢いに乗る鈴木が、得意のゴッチ式パイルドライバーを決め、3カウントを奪い取った。

白星スタートの鈴木はコメントブースで報道陣をにらみつけると、「次はタイチだ」とコメント。早くも、23日の札幌大会(北海きたえーる)で激突する、同門「鈴木軍」タイチとの次戦に向け、闘志をみなぎらせていた。

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鈴木みのるが鷹木破り新王者に「まだまだクソガキ」

鷹木(手前)にドロップキックを浴びせる鈴木(撮影・小沢裕)

<新日本:神宮球場大会>◇29日◇東京・神宮球場

NEVER無差別級選手権試合は、挑戦者の鈴木みのる(52)が、4度目の防衛を目指した王者・鷹木信悟を破り、新王者となった。

激しいエルボーの打ち合いから始まった試合は、場外でも互いに一歩も引かない肉弾戦となった。

鷹木が強烈なラリアットを打ち込めば、鈴木も頭突きなどで応戦。削り合いとなった試合は、鈴木がエルボーからスリーパーで締め上げ、最後は、14分56秒、ゴッチ式パイルドライバーで3カウントを奪った。

鈴木は「これが鈴木みのるだー!」と絶叫。「おい、鷹木。ロスインゴなんてちゃらちゃらしたやつしかいねーのかと思ったら、ちゃんとけんかできるじゃないか。でもな、まだまだクソガキだ。お前の力では俺の首はとれない」と挑発した。

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内藤哲也が2冠奪還、思い出の神宮でリベンジ成功

EVIL(下)を抑え込む内藤(撮影・小沢裕)

<新日本:神宮球場大会>◇29日◇東京・神宮球場

思い出の地で、内藤哲也(38)がリベンジに成功した。7月にIWGPヘビー、同インターコンチネンタル王座を奪われた2冠王者EVIL(33)に挑戦。相手セコンドのディック東郷、外道の介入に苦しむも、20分過ぎに同門のBUSHI、SANADAが助けに入り、1対1の状況を作り出すと、最後は必殺のデスティーノで3カウントを奪い取った。

神宮での興行は、グレート・ムタとグレート・ニタが電流地雷爆破戦を行った99年8月28日以来、21年ぶり。当時、高校生だった内藤はチケットを購入し、レフトスタンドで観戦した。バックステージに戻ると「21年前のことを思い出しながら試合をした。ベルトはレンタル期間が終了しただけ」と余韻に浸った。

4万8000人を集客した当時とは異なり、この日は、5000人以下の制限が設けられた。8月の米ニューヨーク大会が中止となるなど、新型コロナウイルスの感染拡大は、プロレス界にも大きな影響を及ぼしている。

それでも、業界をけん引する1人として、あらためて存在感を示し「いろんな困難があるが、その先に明るい未来が待っていると信じて、これからもリングに立ちたい」と力を込めた。9月19日のG1開幕を前に、内藤が主役の座に返り咲いた。【奥山将志】

EVILにデスティーノを決める内藤(撮影・小沢裕)

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矢野通「オカダくん、ごめん」してやったりの勝利

KOPW決定戦を制しトロフィーを掲げる矢野通(撮影・小沢裕)

<新日本:神宮球場大会>◇29日◇東京・神宮球場

オカダ・カズチカが提唱した新タイトル「KOPW2020」は4WAYでの決定戦が行われた。

終盤、オカダがエル・デスペラードを変形コブラクラッチで締め上げていると、オカダの背後に回った同門の矢野通がレフェリーの目を盗み、急所攻撃。そのまま、横入り式エビ固めで3カウントを奪った。してやったりの矢野は「オカダくん、ありがとう、オカダくん、ごめん! 楽しいことやろうよ!」と上機嫌でトロフィーを掲げた。

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新日本きょう21年ぶり神宮大会 豪華カードずらり

8・29神宮で対戦する2冠王者EVIL(左)と内藤哲也

新日本プロレスは29日、神宮球場大会を開催する。同地での興行は、グレート・ムタとグレート・ニタが電流地雷爆破戦を行った99年8月28日以来、21年ぶり。業界の盟主による真夏の屋外ビッグマッチとあり、豪華なカードが並んだ。

メインはIWGPヘビー級、同インターコンチネンタル王座の2冠戦。セコンドの介入や反則行為を駆使し、2冠王者となったEVIL(33)が、かつて共闘した内藤哲也(38)とのリターンマッチに臨む。また、オカダ・カズチカが提唱した新タイトル「KOPW 2020」は、4WAYでの決定戦でオカダ、SANADA、矢野、デスペラードが初代王者を争う。大会は、CS放送のテレ朝チャンネル2で午後5時から生中継される。

99年8月28日、電流地雷爆破ダブルヘルマッチでグレート・ムタ(左)に有刺鉄線に投げられ被爆するグレート・ニタ
99年8月28日、新日本神宮球場大会で対グレート・ニタ戦のリングに向かうグレート・ムタ

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2冠王者EVILやりたい放題「神宮でも同じ痛み」

場外で内藤(手前)に反則攻撃をするEVIL(新日本プロレス提供)

<新日本プロレス:後楽園大会>◇27日◇東京・後楽園ホール

新日本プロレスは27日、東京・後楽園大会を開き、29日の神宮球場大会で対戦する、IWGPヘビー級、同インターコンチネンタル2冠王者EVIL(33)と挑戦者の内藤哲也(38)が、タッグマッチによる最後の前哨戦を行った。

内藤は、相手セコンド、ディック東郷の介入に苦しむも、高橋ヒロムとの連係技で応戦。流れをつかみかけたが、EVILが、レフェリーの目を盗み、パイプ椅子で高橋を殴打。そのまま、必殺のEVIL(変形大外刈り)を浴びせ、11分58秒、勝利した。試合後、ディック東郷に鉄製のワイヤで締め上げられた内藤は、肩を担がれ、無言で退場。やりたい放題のEVILは「神宮でも同じ痛みを味わわせてやる」と言い放った。

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自ら提唱の新タイトル戦開幕「勝ちたい」オカダ進撃

オカダ・カズチカ(2019年11月29日撮影)

<新日本:KOPW 2020>◇26日◇東京・後楽園ホール

新日本プロレスは26日、東京・後楽園大会を開催し、オカダ・カズチカが提唱し、新設されたタイトル「KOPW 2020」の1回戦4試合を行った。

ルールは出場8選手が希望する対戦形式を、ファン投票により決定。オカダは、高橋裕二郎、邪道、外道組との「1対3ハンディキャップマッチ」に臨み、15分26秒、外道から変形コブラクラッチでタップを奪った。

その他の3試合では、「必殺技指定マッチ」でエル・デスペラードが勝利。「ピンフォール2カウントマッチ」では矢野通が、「サブミッションマッチ」ではSANADAがそれぞれ勝利した。勝ち上がった4人が、29日の神宮球場大会で4WAY戦を行い、勝者が「KOPW2020」に認定される。オカダは「くせ者ぞろいだが、自分が言ったからこそ、しっかり勝ちたい」と勝利を誓った。

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EVILが移籍後初黒星、内藤挑発には余裕の表情

EVIL(左)を投げ飛ばす内藤哲也(2020年7月12日撮影)

<新日本:後楽園大会>◇7日◇東京・後楽園ホール

8月29日神宮球場大会でIWGPヘビー級、同インターコンチネンタルの2冠をかけて戦う両王者EVILと、挑戦者内藤哲也(38)が8人タッグマッチで激突した。

試合はロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン軍のSANADAが、バレットクラブ軍の外道にSKULL ENDを決め、勝利。ロスインゴからバレットクラブに電撃移籍した7月12日以来、シングル、タッグ戦含め勝ち続けていたEVILの連勝が6で止まった。

内藤はバックステージでここぞとばかりに、EVILを挑発。

「EVILの連勝もついにストップ。これでもし、神宮球場でも負けてしまったら海外にいるバレットクラブのメンバーに合わせる顔がないぜ? 俺ももちろん負けられない試合だよ。でも、俺以上に負けを許されない状況なのがEVILかもしれないね。俺の攻撃パターンはすべてお見通しなんだろ?だとしたら、こんな楽な防衛戦はないぜ。神宮球場はきっとEVILが締めることでしょう」とまくしたてた。

さらに「どれだけの完勝劇を神宮球場でみなさまに、そして対戦相手である俺に見せてくれるんだろうね?」とプレッシャーをかけた。

内藤の言葉を受け、王者EVILは「お前、勝ってんのに1人焦ってんな。そりゃそうだよな、お前はもう崖っぷちにいんだよ」と余裕の表情。「このまま神宮までとことん追い込んでやるからな」と予告した。

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新日本8・29神宮で内藤哲也が王者EVILに挑戦

8・29神宮で対戦する2冠王者EVIL(左)と内藤哲也

新日本プロレスは28日、8月29日神宮球場大会の一部カードを発表した。IWGPヘビー級、同インターコンチネンタル2冠王者EVILに内藤哲也が、IWGPジュニアヘビー級王者高橋ヒロムに石森太二がそれぞれ挑戦する。

また、オカダ・カズチカが自ら提案したタイトル「KOPW2020」の概要を説明。選手が対戦形式を考え、ファン投票で決める。年末に保持していた選手にトロフィーが授与され、翌年また一からスタートするなど「新日本らしくないタイトル」。まずは8月26日に8人で1回戦を行い、勝者4人が神宮大会で4WAYを行う。

IWGPジュニアヘビー級王者高橋ヒロム(左)と石森太二

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内藤、EVILとのリマッチ8・29神宮決着を要求

EVIL(右)に痛めつけられた内藤(撮影・中島郁夫)

新日本プロレスの後楽園大会が26日行われ、メインの6人タッグ戦でIWGPヘビー級、同インターコンチネンタル2冠王者EVILと前2冠王者内藤哲也(38)が激突した。

25日にリマッチを要求した内藤は開始早々、EVILを襲撃し、場外で先制攻撃。だが最後は金的攻撃を受けた上、マットにたたきつけられKOされた。内藤はふらふらの状態でバックステージに現れると「どこでやる? うわさ通り神宮球場でいいのかな?」と8・29の野外ビッグマッチを再戦の場に挙げ「さっと言えよカブロン」とEVILの決断をせかした。

エプロンのEVIL(左)を奇襲する内藤(撮影・中島郁夫)

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新日本8・29神宮でビッグマッチ ムターニタ以来

99年、新日本神宮球場大会で対戦するグレート・ムタ(左)とグレート・ニタ

新日本プロレスは25日、8月29日に東京・神宮球場で野外ビッグマッチを行うと発表した。同所で試合を行うのは、グレート・ムタとグレート・ニタがノーロープ有刺鉄線電流地雷爆破デスマッチを行った99年8月28日以来21年ぶり2度目。

当時は4万人超を集めたが、新型コロナウイルス感染拡大による政府の大規模イベント人数制限の方針に合わせ、5000人を上限にするとみられる。雨天も想定し、翌30日に予備日が設けられている。

99年新日本神宮球場大会のノーロープ有刺鉄線バリケードマット時限装置付き電流地雷爆破ダブルヘルマッチで、ムタ(右)に有刺鉄線へ投げられ爆発するニタ

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北勝富士が西武の始球式登場へ 師匠約束果たし実現

5月5日にメットライフドームで行われる西武対楽天で始球式へ気合を入れる北勝富士(撮影・佐藤礼征)

大相撲の小結北勝富士(26=八角)が21日、群馬・高崎市で行われた春巡業で、自身初のプロ野球の始球式に臨むことを明かした。

こどもの日の5月5日、メットライフドームでの西武対楽天戦でマウンドに立つ。埼玉・所沢市出身で、同球場は自宅から自転車で30分圏内。ゴールデンウイーク終盤の当日は、小中学生を中心に大勢の観客が集まる可能性が高く「所沢の子どもに野球だけじゃないぞと教えたい」と、相撲普及へ一役買うつもりだ。

先場所で新三役となり、大役が実現した。昨年から始球式のオファーはあったが、師匠の八角親方(元横綱北勝海)に「三役に上がったらいいぞ」と言われていた。野球経験はない。小4で相撲を本格的に始めた時から、大相撲の力士に夢中で「相撲ばっかりだったから野球のこと全然分からないや」と頭をかいた。

先日、付け人の幕下北勝陽と約30球のキャッチボールで練習した。「ストレートの指にかかる感覚とか、何となく分かりました」。当日は西武のマスコット「レオ」のイラストが描かれた浴衣を身にまとう。目標はストライクゾーンに投げ込むこと。「いいボールを投げたい」と意気込んだ。

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輪島さん通夜に花田虎上氏、とんねるずら500人

土俵をかたどった祭壇に置かれた輪島大士氏の棺と遺影(撮影・中島郁夫)

下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱のため、8日に70歳で亡くなった、大相撲の元横綱で、プロレスラーやタレントとしても活躍した輪島大士さんの通夜が14日、東京・青山葬儀所で営まれた。現在、相撲協会の広報部長を務める芝田山親方(元横綱大乃国)、元武蔵川理事長で元横綱三重ノ海の石山五郎氏、3代目元横綱若乃花の花田虎上氏ら元力士や、現役力士では前頭輝、幕下豊響、芸能界からは関口宏、五木ひろし、とんねるずの石橋貴明と木梨憲武、勝俣州和らが参列。約500人が集まった。

土俵をイメージした祭壇に飾られた遺影は、喪主の妻留美さんが選んだという横綱時代の土俵入りだった。朱色のひつぎは、昨年まで毎年のように見学に訪れていた、地元石川県七尾市の石崎奉登祭に由来。同祭への、輪島さんの出身地域からの参加者が着用する衣装の色という縁で朱色にした。ひつぎの中で輪島さんは、横綱時代に最も好んでいた薄緑色の着物を着ていた。

参列した野球解説者の田淵幸一氏は、阪神での現役時代から続く、40年以上の付き合いだと明かした。当時、輪島さんは大阪での春場所中とあって、合間を縫って甲子園球場に招き、本人の意向で打撃練習に参加したところ「5、6球打って膝を痛めて休場した」(田淵氏)というエピソードを明かした。互いを「横綱」「監督」と呼び合い、深い交流があったという。田淵氏は「豪放磊落(らいらく)。純粋で、誰かをだまそうというところがまったくなかった。最高の男だった。お通夜で、こんな話ができるのはあいつだけ」と、故人と一緒に現役時代に撮影した写真を何枚も持参し、当時を思い出していた。

他にも五木ひろしは、日本レコード大賞を受賞した際に、お祝いに駆けつけてくれたこと。芝田山親方は約1年務めた付け人時代に、当時、付け人の中でも最も若いぐらいだった自身にも気さくに話しかけてくれた話。元3代目若乃花の花田虎上氏は、父で故人の元二子山親方(元大関貴ノ花)と輪島さんが親友だった関係から「輪島ちゃん」と親しみを込めて呼んでいたエピソードなどを明かした。通夜にもかかわらず、参列者が口々に型破りな輪島さんとの思い出話を語り、笑顔の絶えない、故人の人柄を表すような通夜となった。葬儀は15日に行われる。

土俵をかたどった祭壇に置かれた輪島さんの棺と遺影(撮影・中島郁夫)

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内藤哲也が衣笠祥雄氏悼む「試合に出場し続ける」

衣笠氏を悼んだ内藤

<新日本:後楽園大会>◇24日◇後楽園ホール◇観衆1428人

 大の広島ファンで知られる内藤哲也(35)が「鉄人」を悼んだ。

 東京出身ながら熱心なカープファンで知られるが、2215試合連続出場の記録を持つ「鉄人」衣笠祥雄氏が23日に死去したことに、「レスラー人生で心がけているのは、試合に出場し続けること。尊敬の念を覚えます」と述べた。

 10代の頃に赤色に引かれてファンとなり、いまでは入場曲「スターダスト」が球場で流れる応援歌にまでなっている。

 現役時代の雄姿は目にしたことはないが、同じアスリートとして「僕もどんなことがあっても出場を心がけたい」と誓った。

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大仁田厚「最後一言言うなら死ぬまでプロレスラー」

引退試合後、囲み取材中に笑みを浮かべた大仁田厚(撮影・村上幸将)

<大仁田厚ファイナル・後楽園ホール大会・引退式>◇31日◇東京・後楽園ホール

 大仁田厚(60)が引退試合後、取材陣の囲み取材に応じた。主な内容は、以下の通り。

 あいつらと分かれるのが寂しい…また、どこかで生きていたら、また、どこかで生きていたら、会えるかなって…。

 七転び八起きとか、いろいろ言われるけど…。最後の一言を言うなら、最後の一言を言うなら…俺はプロレスが、俺はプロレスが、大好きなんです。すみません。

 母さんが、俺がプロレスを辞めるまで、大好きな日本茶を飲まないで…ずっと、ずっとリングを降りるまで飲まないで、ずっと白湯で過ごしてくれた。今日は、俺が家に帰ったら、お茶を入れてやろうかなって。俺みたいなバカ息子を…。

 ここにきて、皆さまに多くのものをいただきました。そして、いろいろなことを感じさせてくれた。月並みな言葉かもしれない…プロレスに胸いっぱいになれたことを、俺は幸せだと思います。多分…もう、戻り道はないと思います。

 ただ1つだけ…ただ1つだけ、40何年間の中に、まだ(師匠のジャイアント)馬場さんがそこにいて、俺が付き人で上がっていく姿(が今日も見えた)。俺は、プロレスで胸いっぱいになれて40何年間、プロレスが出来たことが本当に幸せ。

 最後の一言を言うとしたら…俺は、死ぬまでプロレスラーです。また誤解されるかな、こういうことを言うと。3日後(の復帰)は絶対、ありませんので。全額、返さなきゃいけなくなるので。

 完全にチケットがなくなったのは、皆さんの(おかげ)。1枚、1枚のチケットが、こんなにうれしく、重く、素敵に感じたことは43年間の歴史の中で初めてですね。みなさん、本当にありがとうございます。

 -初めて母(松原巾江さん)を会場に呼んだ

 俺が呼んだんじゃなくて、弟が「かあちゃん、1回くらい見ておけ。明日からお茶、飲めるぞって」。

 大仁田は、超花火プロレスの工藤めぐみエクスプロージョンプリンセス(48)から、11月3日に神奈川・川崎球場跡地に近い「カルッツかわさき」に電流爆破マッチの舞台を用意したと直訴された件に対し、同大会に出場した場合は、引退興行のチケットを購入したファンに、全額返金する考えを重ねて強調した。そして、静かに控室へと消えていった。【村上幸将】

引退試合後、涙を浮かべながら囲み取材に応じた大仁田厚(撮影・村上幸将)

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大仁田厚ついに引退試合…7回の引退と復帰の歴史

「大仁田厚ファイナル・後楽園ホール大会・引退式」のポスター

<大仁田厚ファイナル・後楽園ホール大会・引退式>◇31日◇東京・後楽園ホール

 大仁田厚(60)が7年ぶり7度目の引退を表明し、1974年(昭49)4月14日に佐藤昭雄戦でデビューした思い出の地・東京・後楽園ホールでの引退大会と引退式に臨む。

 大仁田はニッカンスポーツコムの取材に対し「プロのレスラーとしてリングに上がることは絶対にない。神に誓って、やらない」と、今回が最後の引退だと宣言している。大仁田が、これまで引退、復帰を繰り返してきた歴史は以下の通り。

 ◆1度目の引退 1983年(昭58)4月のヘクター・ゲレロ戦で左膝蓋(しつがい)骨粉砕骨折の重傷。復帰も、1984年12月2日にマイティ井上に敗れ、付け人も務めたジャイアント馬場さん(享年61)に引退勧告されて、85年1月3日に後楽園ホールで引退式を行った。

 ◆1度目の復帰 1988年(昭63)に、コーチとして入団したジャパン女子のリングで、同じくコーチのグラン浜田との因縁が生まれ、12月3日に現役復帰し、対戦したが敗れる。89年に空手道場「誠心会館」を率いる青柳館長と東京・後楽園ホールで開催された「格闘技の祭典」異種格闘技戦で対戦し、同10月6日にFMWを旗揚げ。

 ◆2度目の引退 1995年(平7)5月5日に、川崎球場で愛弟子の故ハヤブサさん(享年47)と引退試合を行い、18分11秒、サンダーファイヤー・パワーボム3連発で仕留めて引退。

 ◆2度目の復帰 1996年(平8)12月11日に、宿敵だった故ミスター・ポーゴさん(享年66)から引退試合でのタッグ結成を請われ、一夜限りに復帰し、テリー・ファンク組との8人タッグに出場。田中将斗がヘッドハンターAをフォールし勝利すると、その後も戦いを継続。97年にはFMWの会長を辞し新団体ZEN、チームUSOを結成し同11月に新日本プロレスに殴り込んだ。さらに01年7月の参院選に、自民党の公認を受けて比例区で出馬し当選。

 ◆3度目の引退 2003年(平15)1月7日に会見を開き3度目の引退を表明。5月~7月上旬の間でアフガニスタンでの10万人興行の開催を調整しているとしたが、実現しないままに終わった。そして2005年(平17)3月26日に明大政経学部2部の卒業式に詰め襟の学生服で出席後、夜に後楽園ホールで“卒業試合”と題した引退興行を行い、雷神矢口と組んで越中詩郎、天竜源一郎組と対戦。最後は天龍の片エビ固めで敗れ引退。

 ◆3度目の復帰と4度目の引退 2006年(平18)4月1日に東京・靖国神社で行われた、ゼロワンMAX奉納大会に「国を守った人に礼を尽くすのは当然のこと」と参戦を直訴し、1日限りの復帰。田中将斗、ランジェリー武藤と組みケルベロス、ヤセ矢口、イチローキング矢口組と対戦し、ケルベロスを9分5秒エビ固めで下した。

 ◆4度目の復帰 2007年(平19)年1月12日に参院議員宿舎で会見し、現役復帰を表明。同2月11日に東京・新宿で行われた二瓶組復活興行に参戦。同6月に参院選出馬辞退と政界引退を表明後、同7月には北海道夕張市でチャリティープロレスを開催。翌08年2月5日にも都内で会見を開き、00年に有刺鉄線電流爆破マッチに引きずり込み、敗れた長州力とタッグを組んで復帰する考えを明かし、同5月18日に新日本・長州力(56)プロデュース「LOCK UP」新木場大会で越中詩郎と組み折原昌夫と金村キンタロー組と対戦。現役最高時127キロの体重を77キロに絞り、凶器を使った流血戦を展開も、最後は毒霧により反則負け。

 ◆5度目の引退 2009年(平21)12月1日に長崎県知事選への出馬を表明し、同28日に都内で5度目の引退会見を開き、選挙戦に集中するためリングを離れると明言。

 ◆5度目の復帰は6度目の引退試合

 2010年(平22)2月21日投開票の知事選では3位の9万8200票で落選。その後、同5月5日に引退会見を行った新木場1st RINGの新FMWの大会で引退試合を行い、ターザン後藤と組んで元祖ザ・グレートパンク、初代ザ・シューター組に勝利。

 ◆6度目の復帰 聴覚障害者プロレス団体・闘聾門JAPANの10年11月13日東京・江戸川区小松川さくらホール大会で復帰。マグナムTAKASAGOと、戸井克成とと組んで矢口壹琅、ファントム船越、JOM太郎と対戦し勝利。

 ◆7度目の引退 2017年(平29)10月31日に東京・後楽園ホールでの大仁田厚ファイナル・後楽園ホール大会で引退。

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大仁田厚6回引退と復帰を繰り返したのは生きるため

猫ひろしと肩を組み、声援を送るファンに手を挙げて応える大仁田厚(2017年10月7日撮影)

<7回目、そして最後の引退…大仁田厚、告白 第1回>

 プロレスラー大仁田厚が7回目の…そして最後の引退を決意した。全日本プロレスに入門し、1974年(昭49)4月14日に佐藤昭雄戦でデビューした思い出の東京・後楽園ホールで、31日に「さよなら大仁田、さよなら電流爆破 大仁田厚ファイナルツアー」を開催。藤田和之(46)と6人タッグマッチを行う。レスラー人生43年に幕を下ろす大仁田が、還暦を迎え、引退を決めた思いを告白する。第1回のテーマは、引退と復帰を6回、繰り返した理由。

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 引退が目前に迫った夜、都内某所に現れた大仁田は両足を引きずっていた。車から降りると1度、腰を引いて体の後ろに重心を移しつつ、確かめるように両膝に手を当てた。しばし、その場に立ち尽くすと、目をつぶり、眉間にしわを寄せて頭を振った。

 大仁田 地方の大会でエルボーを食らってから、首と頭が痛いんだ。体はボロボロ…両膝も、抜けそう。3年近く前…そして1年以上前に、膝を内視鏡で洗ったんだ。体は限界に近い。

 14年5月に、両変形性膝関節症(軟骨損傷)と診断され、緊急手術を行った両ひざは、靱帯(じんたい)も損傷している。16年8月に右尺骨、同11月に左かかとを剥離骨折、同12月に腰椎を骨折し、右手には手術でチタンの板を入れた。そこを2月に爆破王選手権奪回に成功した船木誠勝戦で再び痛め、右尺骨骨幹部を骨折。7カ月で4度、骨折した。

 歩く際、時に抜けそうになるという膝は、最初の引退の引き金となった。1983年(昭58)4月のヘクター・ゲレロ戦後、左膝蓋(しつがい)骨粉砕骨折の重傷を負った。付け人も務めたジャイアント馬場さん(享年61)に引退勧告されて、85年1月3日に後楽園ホールで引退式を行った。にもかかわらず、1989年(平元)年にFMWを旗揚げした。馬場さんの引退勧告を受け入れて、1度は決めた引退を翻さざるを得ないほど、人生の崖っぷちに追い込まれていた。

 大仁田 (引退の原因になった)ケガは、あの頃は、今みたいにきれいなサポーターとかいろいろなものがないから、自転車のチューブを足に巻いて試合をした。痛くて…あぁ、これじゃあやっていられないなと、自分の中で限界を感じた。(全日本で引退した後)宅配便の配達から土木作業員から、全部やったもん。中卒だったから、履歴書を持ってバーッと回っても、どこも雇ってくれない。それで新宿の1番、端のベンチで缶コーヒーを飲みながら、どうしようかな…もう1回、プロレスをやろうか、と。だって、生きるため、生き残るためには、どうすればいいんだろう…と。(復帰の考えは)そこから生まれたんです。でも、全日に戻ることも出来ない、どこも拾ってくれるところはない…自分でやるしかない。

 そのFMWでは、1995年(平7)5月5日に「大仁田厚 引退試合」を開催し、故ハヤブサさん(享年47)と対戦した。川崎球場の観客動員記録となった、5万8250人を集めたが、その裏で肉体はボロボロだった。

 大仁田 2回目で頂点の状態で辞めた。でも、当時は年間200数試合やって、毎日、毎日、流血…。頭痛や吐き気がするわ…メチャクチャ。このまま、死ぬしかないのかと…それが引退を決断した理由。敗血症で死にそうになって、初めてICUのベッドから降りた時に、うんこしちゃって。あぁ…デスマッチがいき過ぎて、このままだと、俺は死ぬことを選択しないといけないなと。今まで応援してくれた人が、死を見せて喜ぶかなと。その世界まで、本当に行っちゃっていたし、やるしかなかった。死を選ぶのか、生きている姿を見せるのかの二者択一…生きていなければ何も表現できない(から辞めた)。

 にもかかわらず、翌96年12月11日に駒沢オリンピック公園体育館で行われた、故ミスター・ポーゴさん(享年66)の引退試合8人タッグマッチで2度目の復帰をした。宿敵ポーゴさんの引退試合ということで依頼されての復帰だったが“涙のカリスマ”と呼ばれた大仁田が、プロレスファンから「ウソつき」などとたたかれるようになった。1998年(平10)11月には、当時筆頭株主の立場にあったFMWの全選手から「新生FMWとしてやりたい」と言われ、創設者ながら追放された。そこで、翌99年1月に、たった1人で新日本に参戦した。

 大仁田 俺はFMWを追い出された人間だからね。こいつらとは、やれないなぁ…と思い、そのまま1人で新日本に殴り込んだわけだから。それが真実だよ。

 その後も引退、復帰を繰り返すこと計6回。インターネットの普及とともに、大仁田は何かニュースが出るたびに“引退するする詐欺師”などとたたかれ続けた。にもかかわらず、なぜリングに立ち続けたのか?

 大仁田 自分の中で生きていくためには、プロレスをやるしか、しょうがなかった。プロレスが好きだよ…だから、プロレスが生きること、そのものだった。それなのに6回、引退を繰り返して今回、7回目の引退だからって、ウソつきだ何だと言われる。俺は、素直に生きているだけ。生きるのを辞めろって言うの? 俺には、あれだけ熱狂させたファンがいる。(過去6回も引退して)ブレるとか、みんな言うけど…ブレ方、知らないよ。どうブレていいか分からない…批判もたくさんあるかも知れないけれど全部、自分で決めているし。ここに来て、各会場で何人か、みんなカミングアウトしているよ。「何十年、見てますけど…僕は大仁田さんに救われました」って。

 次回は大仁田が代名詞の「有刺鉄線電流爆破マッチ」誕生秘話を語る。【村上幸将】

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