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【藤波辰爾50周年連載6】67歳引退はしない 受け継いだ魂を残していく

9日にデビュー50周年を迎えた藤波辰爾(撮影・松熊洋介)

<藤波辰爾のプロレス人生50年(6)>

プロレスラーの藤波辰爾(67)はリングに上がり続ける。9日にデビュー50周年を迎えたが、引退の2文字はない。「体が動く限りリングに上がりたい」と情熱は衰えない。連載最終回は「生涯現役」【取材・構成=松熊洋介】

50年を振り返った藤波は「いろんな人と話をするとよみがえってくるので年月は感じる。いろんな状況を見てきて、いい経験をさせてもらっている」と語る。89年のベイダー戦で腰を痛め長期離脱を強いられた。歩くのも困難で「選手生命が終わった」と引退もよぎったが、奇跡的に回復した。1年半後に復帰し、痛み止めを飲みながら二十数年戦い続けた。恐怖から手術をためらってきたが、6年前にメスを入れ、ようやく不安を取り除いた。

藤波 試合中はアドレナリンが出ていたので、分からなかったが、終わってからは痛みが出ていた。レントゲンでは首の骨とか頸椎(けいつい)がゆがんでいる。正常な状態で(リングに)上がっている人はいないのかなと。

それでも戦い続けるのは「プロレスが好きだから」。コロナ禍で試合の機会が減り、物足りなさを感じている。全盛期のパフォーマンスを披露するのは難しいが、気持ちだけは当時と変わっていない。

藤波 いい時を記憶しているから、思うように体が反応しないのがもどかしい。若い時は体が反応していたけど、今は「せーの」って言わないと体が付いてこないのが情けないなあ。

リングに上がることが健康のバローメーター。今でも週の半分以上はジムに通い、体を維持している。息子でプロレスラーの怜於南(れおな)とトレーニングをすることもあり、若い人を見ると張り合いたくなるという。

藤波 恥ずかしい姿ではリングに上がれない。負けてられないと意地を張ってしまう。息子は肌つやが違うし、うらやましい。風呂上がりでも水がはじくけど、自分は染み込んでいく感じ(笑い)。周りからは「もう60歳過ぎてるし、若い人と同じことやってたら化け物ですよ」と言われる。でももっと動けると思っているし、オファーがあればいつでも準備できている。

4月には久しぶりにドラディションを開催。人数制限こそあったが、コミュニケーションを大事にしてきた昔からの手法で自らもお客さんに声を掛け、ほとんど手売りでチケットを完売させた。10月からは50周年ツアーで全国を回る。

藤波 各地に思い出がある。レジェンドバスツアーとかいいね。つえをつきながらでもやってみたい。リングに上がったらあちこちばんそうこう貼って出てくるみたいな。それぐらいになるまで上がってみたい。

67歳。引退は考えていない。「リングに上がれば勝負ですから」と対抗心を燃やす息子との対戦は最後まで取っておくつもりだ。

藤波 70歳では間違いなくリングに立っている。(息子とは)今だったら負けない。知らない間にすごい差がついてたらどうしようと思うことはあるけどね。

最後に夢を聞いてみた。

藤波 昔、力道山先生が作ったリキ・スポーツパレスというのがあったが、そんなプロレスの歴史が全部詰まった会場を作って、そこでみんなを集めて試合をしたい。力道山先生が亡くなった後に猪木さん、馬場さんが魂を受け継いだ。馬場さんが亡くなり、プロレスラーのトーンが下がった部分もあった。これからは僕らがそれを後世に残していかないといけない。

藤波はこれからもリングに上で躍動し続け、レジェンドたちから受け継いだ魂を残していく。(おわり)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

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【藤波辰爾50周年連載5】プロレスの証しを残す「殿堂会」を設立

WWEに殿堂入りしリング上であいさつする藤波辰爾(2015年7月3日撮影)

<藤波辰爾のプロレス人生50年(5)>

プロレスラー藤波辰爾(67)は2015年、アントニオ猪木以来となる日本人2人目のWWE殿堂入りを果たした。今月9日にはデビュー50周年を迎えたばかり。プロレス人生を振り返る連載第5回は、レジェンドたちの偉業の継承。【取材・構成=松熊洋介】

夢のような時間だった。15年のある日の夜中、自宅にいた藤波はWWEからの電話で、殿堂入りの知らせを受けた。妻・伽織さんと2人で招待された。毎年各都市の招致合戦が繰り広げられるほどの大イベント。空港に降り立つと、カリフォルニア州・サンノゼの街全体が祝福ムードに包まれていた。殿堂入りの英雄たちの垂れ幕が掲げられ、ホテルまではパトカー10台以上に先導されて向かった。

藤波 国賓級の扱いだった。今思い出しても鳥肌が立つくらい。プロレスラーになってこんなことがあるのかと…。長くやっていてよかったなあと思った。

選手だけでなくプロレス界に貢献した人物も対象で、13年には前米大統領のドナルド・トランプ氏なども表彰されている。セレモニーで藤波の隣にいたのは、元カリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツェネッガーだった。ライバルだったフレアーに紹介され、藤波はタキシード姿で登壇した。「すべての人々、WWEへこの名誉に対し感謝します。61歳で、43年間戦い続け、まだ戦っています。これは私の使命。私をサポートしてくれた家族に感謝したい」と英語でスピーチ。数万人が詰め掛けた会場は大歓声に包まれた。翌日にはMLBサンフランシスコ・ジャイアンツの球場でリングに上がり、大観衆の前でプロレスを披露した。

藤波 昨年は獣神サンダー・ライガーが殿堂入りした。将来的にはコラボして、日本でも開催されるような時代が来ればいい。こういうのを知ってしまうと、みんな目指すべきだろうと。日本のプロレスラーたちも目指す欲を持って欲しい。

昨年2月、「日本のレジェンドたちの功績をたたえたい」と天龍や長州らと「日本プロレス殿堂会」を設立。コロナ禍でなかなか動けなかったが、今年4月、小橋、田上らとトークショーを行い、活動をスタートさせた。

藤波 僕らが殿堂入りしたいわけではなくて、猪木さんとか、させなきゃいけない人のためにそういう組織をつくらないといけないと思って。プロレス界は、なかなか横のつながりがなかったが、どこかで作っておかないと自分たちが生きてきた証しがなくなっちゃうんじゃないかと。

故ジャイアント馬場さんや猪木らの時代をともにしてきた。先輩から学んできたものを後世に伝える使命があると考える。

藤波 誰かが言い伝えていかないと。今でも当時の光景が頭に浮かぶ。今の選手たちに、あれだけ繁栄した時代があったんだよと思い出を残しておきたい。

現役としてリングに立つ一方で、プロレスの証しを残そうと動きだした。50周年を迎えたが、残りのプロレス人生、藤波にはまだやるべきことが残っている。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付け人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

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【藤波辰爾50周年連載4】カール・ゴッチさんから指導受け学んだこと

新日本プロレス旗揚げ戦でカール・ゴッチさん(中央)に手を上げられるアントニオ猪木(1972年3月6日撮影)

プロレスラー藤波辰爾(67)が9日にデビュー50周年を迎えた。連載第4回は、「プロレスの神様」カール・ゴッチさんから学んだこと。海外修業中、自宅に住み込みながら指導を受け、WWWF(現WWE)でのブレークにつながった。【取材・構成=松熊洋介】

藤波のプロレス人生に、猪木ともう1人欠かせない人物がいる。07年に亡くなった故・カール・ゴッチさん。61年、日本プロレスのワールド・リーグ戦で初来日。自ら編み出したジャーマン・スープレックス(原爆固め)を日本に広め、アントニオ猪木、藤波辰爾らを輩出するなど、日本プロレス界の「育ての親」だった。米国へ戻ってからも米フロリダの道場で佐山サトル、前田日明らを指導するなど、功績を残した。

藤波も入門当初からゴッチさんの指導を受けた。ドイツ人ながら、礼儀や作法に厳しく、関節技やパフォーマンスよりも、力と力のぶつかり合いで相手を倒すパワフルなプロレスを重視。小さくても戦える技術と体作りを徹底してたたき込まれた。新日本プロレス4年目の75年にドイツに遠征。その後米国に渡り、ゴッチさんの自宅に約1年間住み込んで修業した。

藤波 朝練習して、掃除や草むしりなどお手伝いをしながら修業を続けた。そもそも格闘技は知らなかったので、技術的なことも含め、プロレスのイロハをすべて教えてもらった。自宅に住み込んで一緒に修業したのは自分だけだったと思う。

当時は全日本と違って、新日本と米プロレス団体NWAとの交流はなかった。そんな中、藤波はゴッチさんのはからいで米国やメキシコの試合に参戦。その後の新日本の米国参入のさきがけとなった。78年1月にはニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデン(以下MSG)でWWWFジュニアヘビー級王座に挑戦。王者カルロス・ホセ・エストラーダをドラゴン・スープレックスで破って第3代王者に輝いた。米国の多くのファンに「フジナミ」の名を知らしめた瞬間だった。

藤波 ゴッチさんと一緒にやっていたということもあって推薦してもらったし、やっていけるという後押しにもなった。

その後帰国した藤波は、日本でのドラゴンブームで女性や子どものファンをとりこにし、一時代を築いた。礎を作ってくれたのはゴッチさんだった。

ゴッチさんは、日本と海外の懸け橋となって新日本の立ち上げにも携わった。

藤波 新日本旗揚げの立役者。ゴッチさんがいなかったら新日本プロレスは存在していない。

藤波はベビーフェイスで、日本でもWWEでもファンに愛された。妻・伽織さんとの結婚発表は、MSGの大観衆の前で発表されるほどの人気だった。米国で確たる地位を築き、今度は自分が懸け橋となって両団体の交流に尽力した。長きにわたる功績が評価され、15年には猪木に続く日本人2人目のWWE殿堂入りを果たした。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

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【藤波辰爾50周年連載3】今でも緊張で直立不動…アントニオ猪木と50年

新日本IWGPヘビー級選手権 試合後、王者藤波辰爾(左)と祝杯をあげるアントニオ猪木(1988年8月8日撮影)

プロレスラーの藤波辰爾(67)が9日、デビュー50周年を迎えた。連載第3回は、アントニオ猪木との50年。入門時から家族よりも長い時間をともにしてきた師匠は、藤波にとって今でもかけがえのない存在だ。【取材・構成=松熊洋介】

藤波は日本プロレス入門から半年後、除名された猪木と一緒に脱退、翌年の新日本旗揚げに参加した。「今の新日本を作っている」という当時の猪木の練習はとにかく厳しかった。年200日以上の試合をこなしながら、練習も手を抜くことは許さなかった。つまらないパフォーマンスをすれば、試合中でもリングに乱入してきて殴られた。試合前に角材で殴られ、流血しながらリングに上がったこともあったという。藤波が78年に海外から帰国し、「ドラゴンブーム」の人気絶頂時でも、全体に気合を入れるための見せしめとして、殴られ続けた。

藤波 試合を止めることもよくあった。お客さんはただ猪木さんが乱入してきただけだと思っていて、実際には何が起こっているのか分かっていない。相手のことよりも、いつ猪木さんが控室から竹刀を持ってやってくるか、びくびくしながら試合をしていた。馬場さんの全日本に負けるな、というのもあったと思う。

ファンの目も肥えていき、つまらない試合には容赦なくヤジが飛んだ。ファン同士のケンカも日常茶飯事だった。

藤波 リングに上がったら鳥肌が立って、ぞくぞくしていた。緊張感で殺気立っていたし、試合前に控室で相手と話したり、笑ったりすることもなかった。

練習や試合後は毎日のように猪木と食事をともにした。「昼間殴られていても関係なかった」と猪木の周りに集まり、故・力道山など昔の話を聞き入った。朝でも夜中でも走る猪木について行き、一緒にトレーニングした。朝まで飲み明かしたり、羽目を外す選手もたまにはいたが、藤波含め、ほとんどの選手は厳しい練習の疲れを取るために休養を優先していた。

藤波 一番上の人が1番練習するから僕らも休むことができない。みんな気が張ってダラダラしていられなかった。

猪木の「お客さんから金をとれる体を作れ」という教えを守り、プロレスラーとして長くリングに上がる体を作り上げた。日本プロレス入門から半世紀以上の付き合いになる猪木とは、引退後も交流は続く。2年ほど前まで毎月1回、夫婦で食事会をしていた。猪木の前では今でも緊張して直立不動になることもあるという。

藤波 妻は「お互いに良い年なのに」と不思議がるが、50年たっても関係性は変わらない。僕にとっては永遠の師匠。

今の藤波のプロレスを作ったのは間違いなく猪木の存在が大きいが、実はもう1人、50年現役の藤波にとって「今の自分がいるのは彼のおかげ」という男がいた。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

アントニオ猪木(下)に卍固めを見舞う藤波辰爾(1988年8月8日撮影)
藤波辰爾(右)に闘魂注入したアントニオ猪木(2019年4月26日撮影)

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【藤波辰爾50周年連載2】北沢幹之氏との出会いがプロレス人生の始まり

19年4月、恒例の「ダーッ!」を決める、左から越中詩郎、坂口征二氏、アントニオ猪木氏、長井満也、北沢幹之氏、獣神サンダー・ライガー、藤波辰爾

<藤波辰爾のプロレス人生50年(2)>

プロレスラーの藤波辰爾(67)が9日にデビュー50周年を迎える。「藤波辰爾のプロレス人生50年」第2回は、プロレスとの出会いについて。同郷の先輩、北沢幹之氏と苦労の末に出会ったことが、藤波のプロレス人生の始まりだった。【取材・構成=松熊洋介】

藤波は陸上部だった中学時代、テレビを見てプロレスラーへのあこがれを抱いた。親に内緒で実家のある大分・東国東郡(現・国東市)から、大分市内へプロレスを見に行っていた。チケットは市内で働いていた兄が用意してくれた。頭の中はプロレスでいっぱい。自転車で約4時間。山越えの険しい砂利道も全く苦にならなかったという。

藤波 ただプロレスが見たいという一心で勇気を振り絞って。たまに学校をサボって行ったこともあるくらい(笑い)。親には怒られたが、授業のことなんか頭になかった。今から思えばよく行ったなと。

興味とは反対にケンカは嫌いだった。体が大きくいじめには遭わなかったが、痛いのが嫌で、学校での柔道ですら怖かったという。中学卒業後、工場で働いていたが「プロレスラーに会いたい」という欲求を押さえきれず、自ら行動に出た。同郷の北沢氏が足の療養で別府温泉に来ていることを聞き付け、探しに行った。兄と旅館を何十軒も歩き回り、やっとのことで北沢と対面した。

藤波 プロレスラーは怖いイメージがあったから、兄についてきてもらった。(北沢は)小さい方だったけど、大きく見えたなあ。足も震えていた。あの熱意は今でも不思議に思う。何かに取りつかれていたような感じだった。

藤波の熱意に北沢が応え、一緒に上京した。格闘技をやる性格でないことは親も承知。意志を伝えると驚かれ、反対されたが、押し切った。日本プロレスの門をたたいた。周りは相撲や柔道、格闘技の経験がある猛者ばかり。正式な入門もしていない藤波は当時、第一線で活躍していたアントニオ猪木に出会う。初めて聞いた猪木の言葉は「おい北沢、あいつ誰だ?」だった。北沢氏が「同じ田舎のプロレス好きで、猪木さんのファンだから連れて来たんです」と紹介してくれた。

藤波 相撲部だったら親方がスカウトしてくれる。プロレスは大衆化していないので、よほどケンカが強いか、柔道の有段者とかしか入って来られなかった。自分は異例中の異例だった。

「北沢さんに会ってなかったら今の自分はない」。心優しい藤波少年の熱い思いが運命の出会いを呼び、夢の実現につながった。日本プロレス入門後、家族以上の付き合いとなる猪木の厳しい指導が始まる。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し凱旋(がいせん)帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

72年、新日本プロレスを設立したアントニオ猪木(左から2人目)は世田谷区の自宅を道場に改装し、道場開きを行う。右端は18歳の藤波
72年、新日本旗揚げ当時の藤波

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【藤波辰爾50周年連載1】78年飛龍原爆固めで初戴冠「ドラゴン」ブーム

78年、WWWFジュニア王座タイトルマッチで剛竜馬(後方)をやぶり、王座を防衛しベルトとトロフィーを掲げる藤波

<藤波辰爾のプロレス人生50年(1)>

プロレスラーの藤波辰爾(67)が9日にデビュー50周年を迎える。新日本プロレスを立ち上げから支え、99年には社長にも就任。低迷期を乗り越え、1度も引退することなく、現在でもリングに立ち続ける。日刊スポーツでは「藤波辰爾のプロレス人生50年」と題して、6回にわたり連載する。第1回はプロレスラー藤波辰爾。【取材・構成=松熊洋介】

★必殺技「ドラゴン・スープレックス・ホールド(飛龍原爆固め)」 1978年(昭53)1月23日、無名ながらWWWF(現WWE)ジュニアヘビー級王座を獲得。王者エストラーダにフルネルソンを決めたまま、原爆固めの要領で後方に投げ、そのままフォールした。

★「ドラゴン」ブーム 78年の王座獲得で一気にスターダムに。日本でも女性や子供のファンを獲得。ジュニアながら、ブルース・リーをほうふつさせる肉体美、軽快な動きから名前の「辰=龍」にちなんだ「ドラゴン」ブームを巻き起こした。

★「オレはお前のかませ犬じゃねえ」 81年にはヘビー級転向。82年からは「飛龍十番勝負」でホーガン、ブッチャーらと戦った。同10月には長州との抗争が勃発。「オレはお前のかませ犬じゃねえ」という暴言を吐かれ、大乱闘。その後も感情むき出しの“ケンカ”が続いた。

★師匠アントニオ猪木との激戦 85年12月のIWGPタッグ・リーグ優勝戦でも、この大技で師匠アントニオ猪木からフォールを奪った。88年にはIWGPヘビー級の防衛戦に猪木が挑戦、60分間戦った末に引き分けた。

★ケガとの戦い 89年にベイダーとの一戦で腰を負傷。選手生命の危機に立たされた。「立って歩けないくらいくらいになった」。1年半後に復帰も、痛み止めを飲みながらの戦いはその後も続いた。93年にはG1クライマックス、94年にはIWGPヘビー級王座を獲得。

★社長就任 99年に新日本プロレスの社長に就任し、第一戦から退いた。格闘技ブームや他団体の盛況もある中で低迷期を支え続けてきた。04年に社長を辞任。06年に新日本を退団する。

★現在 「ドラディション」を立ち上げ、11年には長州らと「レジェンド・ザ・プロレスリング」も旗揚げ。15年3月には、猪木に次いで日本人2人目となるWWE殿堂入りを果たした。昨年からは「日本プロレス殿堂会」を発足させて、後世の育成にも尽力する。「50年という感じはしないが、いろんな人と話をするとよみがえってくるので年月は感じる。いろんな歴史を見てきた中でいい経験をさせてもらっている」と話した。

第2回は、波瀾(はらん)万丈の人生を歩む藤波のプロレスとの出会いに迫る。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し凱旋(がいせん)帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

83年10月26日、タッグ戦で長州力(下)に逆サソリ固めで攻める藤波
83年11月19日、新日本プロレス千葉大会でリングに上がった左から藤波、アントニオ猪木、ハルク・ホーガン

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藤波辰爾の息子LEONAが敗北「何かパッとしないな」屈辱的一言も浴びる

天龍プロジェクト新木場大会 新井健一郎に敗れ、悔しそうな表情を見せるLEONA(撮影・松熊洋介)

<天龍プロジェクト SURVIVE THE REVOLUTION>◇25日◇新木場1stRING◇無観客

藤波辰爾を父に持つLEONA(27)が新井健一郎(38)とのシングルマッチに挑み、パイルドライバーからの片エビ固めで敗れた。序盤からヘッドロックや首固めなどの攻防が続いた。普段からレフェリーの目を盗んでの反則技が得意な新井の術中にはまり、目を突かれるなどして流れをつかめなかった。途中、ボディスラムやドラゴンスクリューなどで応戦したが、最後は新井のパワーに屈した。

試合後、バックステージに現れたLEONAは終始うつむいた状態で「悔しい」を連呼。新井からは「藤波家のサイドビジネスがあるから、忙しいのかもしれないけど、何かパッとしないな」と屈辱的な一言を浴びせられた。今大会初参戦となったLEONAだが、このままでは終われない。「緊張感や雰囲気を感じることができた。自分はこのリングで変わります」。今後は天龍プロジェクトの大会にも定期的に参戦する。復活したインターナショナルジュニアヘビーのベルト挑戦にも意欲を見せる。「狙えるものは狙っていきたい」。父もうらやむ鍛え上げられた肉体からの豪快な技を繰り出し、次こそ勝利をつかむ。【松熊洋介】

天龍プロジェクト新木場大会 新井健一郎を押さえ込むLEONA(撮影・松熊洋介)

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「殺されるような目つき」小橋建太、藤波辰爾も恐れたザ・グレート・カブキ

ザ・グレート・カブキ(撮影・柴田隆二)

レジェンドたちが恐れていたプロレスラーがいた。3日に都内で行われた、日本プロレス殿堂会設立1周年記念イベント「レジェンドサミット」で全日本プロレスなどで活躍したザ・グレート・カブキ(72)が登場した。

イベントにはほかに藤波辰爾(67)、長州力(69)、小橋建太(54)、田上明(59)、越中詩郎(62)が参加。昭和時代からリングを沸かせてきた選手たちが、司会者からの「若手のころ怖かった先輩がいたか」の質問に長州、田上以外の3人が口をそろえて「カブキさん」と答えた。70年に日本プロレスに入った藤波は「雰囲気が怖かった。リングサイドで見ていて蹴りも動きがすごかった」と明かした。小橋は「やっぱりカブキさん。殺されるような目つき。近寄れなかったし、控室でも話せなかった」と苦笑いを見せた。

新日本プロレスの平成維震軍として一緒に戦った越中は「キャリアも年齢も違ったが、とても頼もしかった」と話した上で「試合で怒られた記憶しかない」と振り返った。さらにプライベートでの逸話を披露。「本当によく飲まされた」。メンバーで食事に行った際には仲間の“後始末”もさせられることが多かったようで「朝4時ごろに六本木警察に行ったこともある」とエピソードを語った。

後輩たちの暴露にさすがのカブキも苦笑い。「ほかの選手が『カブキと飲み行くな』と言っていたみたい」。周りに一目置かれる存在だったが、それでも平成維震軍のメンバーに溶け込もうと、加入後には結束の証しとして頭をそり上げた。「家で髪を切った。娘が保育園から帰って来て、お帰りと言ったらぎゃーって逃げていった。それが一番の思い出」と目を細めた。

現在でも平成維震軍のメンバーがリングに上がることもある。カブキも毎試合、セコンドとして参戦する。「日本での最高のチームだと思っている。お客さまを引きつけて、喜ばせるのがプロレス。試合を見ていたら、またやりたくなりますよ」。イベント後には集まったファンとにこやかな笑顔で記念撮影。現役時代からリングの上でも外でも暴れ、恐れられたカブキだが、プロレスへの愛着と魂は今も昔も変わらない。【松熊洋介】

ザ・グレート・カブキ(左から2人目)ら平成維新軍のメンバー(1994年12月12日撮影)
グレート・ムタ(右)とザ・グレートカブキ

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療養天龍を長州力ら激励「とんでもないラインきた」

日本プロレス殿堂会「レジェンドサミット」でトークショーする長州力(左)と藤波辰爾(撮影・柴田隆二)

レジェンドたちが病床の盟友にエールを送った。

日本プロレス殿堂会設立1周年記念イベント「レジェンドサミット」が3日、都内で行われ、藤波辰爾(67)、元プロレスラーの長州力(69)らが療養中の天龍源一郎氏(71)を激励した。

本来なら今イベントの立ち上げの1人である天龍氏も参加する予定だったが、先月19日から検査入院しており、不参加。最初に長州と壇上に上がった藤波は「元気そうだという話を聞いた。次回は参加してくれると思う」と思いを明かした。長州は数日前にLINE(ライン)でやりとりをしたことを明かし「ここでは言えないが、とんでもないラインが来た。今は検査入院。源ちゃんは元気いっぱいですよ」と集まったファンを安心させた。

壇上でトークショーを行った藤波と長州。2人はともにアントニオ猪木氏(78)に指導を受け、82年からはお互いの軍団同士で抗争を繰り広げるなどして新日本プロレスを盛り上げた。当時を振り返った藤波は「控室でも顔を合わせず、リングに上がると(お互いに)感情をむき出しにして戦っていた」。2人の戦いはファンも刺激したようで「周りでお互いのファン同士がケンカするなど、あり得ないことが起こっていた」と当時のエピソードも披露した。

「日本プロレス殿堂会」は昨年2月に、藤波、長州、天龍氏らが、2世たちと協力し、結成。協会が存在しない業界の中で「プロレスの宝を守ろう」と、文化の伝承や、歴史を創ってきたレジェンドの功績をさまざまな形で伝えていく活動を行っている。昨年はコロナ禍で開催できなかったが、この日ようやく第1回のイベントが実現。藤波は「今後は往年で活躍した選手たちを殿堂入りさせたい」と意欲を見せた。

この日は、小橋建太氏(54)、田上明氏(59)、越中詩郎(62)、ザ・グレート・カブキ(72)も参加。リング上でぶつかり合った仲間たちと久しぶりの再会を楽しんだ。先月天龍氏とのトークショーを行う予定だった小橋は今イベントに参加を志願。「代わりになるかは分からないが、名乗りを上げさせてもらった。回復も祈っているし、今度は戻ってきて、天龍節を聞けることを楽しみに、第2回もまた来てください」と語った。

また天龍氏は、娘で「天龍プロジェクト」の代表取締役である嶋田紋奈氏を通じ「行けなくなってしまいましたが、みなさん殿堂会の1周年を盛り上げてくれてありがとう。俺はまたファンに元気な姿を見せられるように頑張ります」とメッセージを寄せた。

日本プロレス殿堂会「レジェンドサミット」でトークショーする小橋建太氏(左)と田上明氏(撮影・柴田隆二)
日本プロレス殿堂会「レジェンドサミット」でトークショーをする越中詩郎(左)とザ・グレート・カブキ(撮影・柴田隆二)
日本プロレス殿堂会「レジェンドサミット」で記念撮影に納まる。左から長州力、藤波辰爾、小橋建太氏、田上明氏、越中詩郎、ザ・グレート・カブキ(撮影・柴田隆二)

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SPEED今井絵理子の長男礼夢がプロレスデビュー

デビュー戦のポスターを手に笑顔の今井礼夢(2020年11月27日撮影)

女性ボーカルグループ「SPEED」の元メンバー、自民党の今井絵理子参院議員(37)の長男、今井礼夢(らいむ、16)がプロレスラーとしてデビューする。7日に所属するHEAT-UP(ヒートアップ)の新百合ケ丘大会(神奈川・新百合トウェンティワンホール)でデビューのマットに立つ。生まれつき耳の聞こえない先天性難聴という障がいを抱えながら、10月に団体のプロテストに合格。世界での活躍を夢見て、その1歩を踏み出す。 【取材・構成=松熊洋介】

   ◇   ◇   ◇

今年3月、礼夢は高校に進学せず「プロレスラーになる」と決めた。母も「いいと思う。応援するよ」と力強い言葉で後押ししてくれたという。166センチ、67キロと小柄だが、中学では野球部にも所属。やりたいことに真っすぐ向かう熱いハートも含め、10代でデビューしSPEEDで国民的なスターになり夢をかなえた母と同じように、挑戦することを選んだ。

母がプロレス好きだった。影響され、小学生で興味を持ち、中学に入って以降約3年、ジムに通った。「最初は怖かったが、だんだんかっこいいなと」。その後、親子でWWEの試合を観戦し、リングへの思いが強くなった。 生まれつき耳が聞こえない。コミュニケーションはほとんどが手話となる。幼いころから二人三脚でたくましく歩み、応援もしてくれた母は、11月の参院本会議で初めて手話を交えながら質問するなど、障がいを抱える人たちへの支援活動も続けている。シングルマザーとなってからも、互いに支え合って生きてきた。政治活動も含め、多忙を極める。理解し合う2人。ハンディを抱える礼夢もたくましく自立を目指した。 母が仕事の合間を縫ってオンラインなどで、意思の疎通を手話でサポートしてくれることもあるが、マットの上ではプロとして、1人立ちしなければならない。普段の練習からすべて1人でやってきた。心配し「通訳をつけたい」との母の提案を退け、筆談もやめ、とにかく体で覚えた。

当初、プロになるという夢を伝えられたヒートアップ代表で、自身も看板レスラーとして活動し、デビュー戦で対戦する田村和宏(40)は「最初は高校に行った方がいいと思った。ついてこられるかなと…」。受け入れはしたが、懐疑的だった。礼夢は、コロナ禍でも地道にハードなメニューをこなして成長していった。プロテストでは、2度目の挑戦で「スクワット500回」「腕立て、腹筋、背筋各50回3セット」「縄跳び5分間で失敗3回まで」の課題をクリアした。 礼夢は「もともとハートは強い。やめたいと思ったことは1度もない」と胸を張る。

「いろんな人に見に来てほしい。頑張れば夢はかなうことを伝えたい。目標はWWEの戸沢選手と、新日本の鷹木選手。いずれはアメリカで活躍したい」と目標を掲げた。 母には感謝している。16歳の誕生日に、インスタグラムに「世界で一番強くて優しいプロレスラーになる日を、母は楽しみにしています」と書いてくれた。「勝ったら『応援してくれてありがとう』と伝えたい」。16歳の時、母はすでに大スターだった。まずたくましい姿をみせ、感謝を伝え、夢への第1歩を記す。

◆今井礼夢(いまい・らいむ)2004年(平16)10月18日、東京都生まれ。都立立川ろう学校出身。趣味はプロレスのTVゲーム。166センチ、67キロ。

◆プロレスリング・ヒートアップ 13年1月に代表兼レスラーの田村和宏がプロレスを通して、障がい者支援と青少年育成の目的で設立。今年2月までは月数回の興行を実施。コロナ禍で、5月末からは定期的に道場での試合を無料配信している。所属選手は7人。キッズクラスや学校での指導のほか、清掃や野菜作りの手伝いなども行う。道場の所在地は神奈川県川崎市多摩区菅北浦1の2の3。

◆10代でのプロレスデビュー ヒートアップの井土は今井と同じ16歳でプロデビューした。男子では中嶋勝彦(ノア)が04年に15歳でデビューしている。新日本のオカダ・カズチカは16歳(当時は闘龍門)、アントニオ猪木、藤波辰爾は17歳でリングに立った。女子選手の中には、中学生でデビューする選手もいる。

笑顔でポーズを決める今井礼夢(左)とプロレスラーTAMURAで「ヒートアップ」代表の田村和宏氏(2020年11月27日撮影)
トレーニングで今井礼夢(左)にエルボーをたたき込むプロレスラーSHINGOで競輪選手の川上真吾(2020年11月27日 撮影)
今井絵理子氏は、手話で「I LOVE YOU」を表現(2016年8月1日撮影)

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元SPEED今井絵理子氏長男礼夢プロレスデビュー

トレーニングで投げ技を決める今井礼夢(右)(撮影・滝沢徹郎)

女性ボーカルグループ「SPEED」の元メンバー、自民党の今井絵理子参院議員(37)の長男礼夢(らいむ=16)がプロレスラーとしてデビューする。

所属するHEAT-UP(ヒートアップ)の新百合ヶ丘大会(7日、神奈川・新百合トウェンティワンホール)のマットに立つ。先天性難聴という障がいを抱えながら10月にプロテストに合格。世界での活躍を夢見て、その一歩を踏み出す。【取材・構成=松熊洋介】

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今年3月、礼夢は進路を1つに絞った。高校進学をやめて「プロレスラーになる」という夢を母絵理子に訴えた。「いいと思う。応援するよ」。自身も10代でデビューし、夢をかなえた母は力強い言葉で後押ししてくれた。

プロレス好きの母に影響され、小学生の時に興味を持ち、中学からヒートアップのジムに通い始めた。「最初は怖かったが、だんだんかっこいいなと」。その後、母と2人で米プロレス団体WWEの試合を観戦し、マットに立ちたいという思いは強くなった。

プロテスト挑戦の意向を受けたヒートアップ代表の田村和宏(40)は「最初は高校に行った方がいいと思った。ついてこれるかなと」。多くの人が断念して辞めていくプロへの道。母の強い思いもあって受け入れたが、練習初日、その不安は的中した。それまでは一般の練習生と一緒だったメニューが、急に厳しい指導に変わった。ついていけない礼夢を「全然ダメだ」としかるとふてくされた。「これでは続けられない」と母に話した。

すると、礼夢は翌日から心を入れ替えた。ハードなメニューを弱音をはかずにすべてこなした。週5日、電車でジムに通い、夜はダンベルやスマホのアプリを使って「けんかもしないし、怒ることもほとんどない」という母と一緒にトレーニングに励んだ。

10月のプロテストは「スクワット500回」「腕立て、腹筋、背筋各50回3セット」「縄跳び5分間で失敗3回まで」のうち、縄跳びで不合格。2週間後の2度目のテスト前日までできず、田村も「無理だと思った」と覚悟したが、当日に見事クリア。本番での強さを見せた。礼夢は「もともとハートは強い方。辞めたいと思ったことは1度もない」と合格を喜んだ。

166センチ、67キロの小柄な体格。「絶対にレスラーになりたい」という強い気持ちでハンディも言い訳にしない。取材時は母が仕事の合間を縫ってオンラインで手話のサポートすることもあるが、普段の練習はすべて1人。「通訳をつけたい」という母の提案を制し、筆談もやめ、体で覚えた。礼夢の対戦相手でもある田村は「技がうまくなった。話題性でデビューさせたと思われたくないので、指導は手を抜かなかった。それでもついてきた」と試合当日を心待ちにする。

得意技はスーパーキックやエルボー。礼夢は「いろんな人に見に来てほしい。頑張れば夢はかなうことを伝えたい。目標はWWEの戸沢選手と、新日本の鷹木選手。いずれはアメリカで活躍したい」と目標を掲げた。

多忙な中、応援してくれる母には感謝している。家では「あまり好きじゃない」と言いながらも洗濯や掃除、料理も積極的に手伝う。「いつも大変だなと。勝ったら『応援してくれてありがとう』と伝えたい」と目を細めた。

◆今井礼夢(いまい・らいむ)2004年(平16)10月18日、東京都生まれ。都立立川ろう学校出身。趣味はプロレスのTVゲーム。166センチ、67キロ。

◆プロレスリング・ヒートアップ 13年1月に代表兼レスラーの田村和宏氏がプロレスを通して、障がい者支援と青少年育成の目的で設立。コロナ禍になる今年2月までは月数回の興行を実施。5月末からは定期的に道場での試合を無料配信している。所属選手は7人。キッズクラスや、学校での指導のほか、清掃や野菜作りの手伝いなども行う。道場の所在地は、川崎市多摩区菅北浦1の2の3。

◆10代でのプロレスデビュー ヒートアップの井土は今井と同じ16歳でプロデビューした。男子では中嶋勝彦(ノア)が04年に15歳でデビューしている。新日本のオカダ・カズチカは16歳(当時は闘龍門)、アントニオ猪木、藤波辰爾は17歳でリングに立った。女子選手の中には、中学生でデビューする選手もいる。

「ヒートアップ」からデビューが決まった今井礼夢(左)とプロレスに挑戦するSHINGOで競輪選手の川上真吾(撮影・滝沢徹郎)

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3選デルフィン「ユーチューバーレスラー」育成意欲

大阪・和泉市議選で3選を果たしたスペル・デルフィンは当選証書を手に取材に応じる

プロレスラーのスペル・デルフィン(本名・脇田洋人=52)が、13日投開票の大阪・和泉市議選(定数24)で3選を果たし、一夜明けた14日、同市役所で取材に応じた。

プロレスで築いた絶対的な知名度や過去の実績が評価され、27人が立候補した今回の市議選で、10番目となる2633票を獲得し、12年の初当選から3選を果たした。

この日行われた授与式では、当選証書と新たな市議バッジを受け取った。デルフィンは「当選させていただき、感謝しかありません」とあいさつ。「本当にしんどい1週間(選挙期間)でした。プロレスはお客さんにチケットを買っていただけば、ほぼ会場に来ていただける。選挙は有権者との信用関係が頼り。とにかく一生懸命やらせていただいた」と振り返った。

過去2期(8年)では、プロ野球オリックスのホーム試合で「和泉市民観戦デー」開催を実現させるなど、スポーツや芸術、観光分野に力を入れてきた。「今まで以上に経済振興の発展を目指します」。今後は地元の女子プロサッカーチームとの連携も企画し、市の盛り上げも狙う。

22日には53歳の誕生日を迎えるが、現役レスラーとしてまだまだ突っ走る。20日には長野市の信州プロレスの興行に出向き、ザ・グレート・サスケら新旧覆面議員とタッグを組む。ゲストにはアントニオ猪木、藤波辰爾、前田日明といったレジェンドも集結。3選のあいさつは「もちろん、させていただきます」。大先輩との再会を心待ちにしている。

「今の時代はテレビ画面や興行だけでなく、ユーチューブを使ってプロレスを届ける“ユーチューバー・レスラー”を育てることが急務だと思っています。ユーチューブでスターレスラーを作りたい」

元大阪プロレス社長で、現在は沖縄プロレス社長の肩書を持ち、大阪の海鮮プロレスのプロデューサーも務める。人口約18万5000人の和泉市をさらに発展させつつ、プロレスという世界共通のエンターテインメントを使い、まだまだ活躍を続ける。【横田和幸】

◆スペル・デルフィン(本名・脇田洋人=わきた・ひろと)1967年(昭42)9月22日、大阪・和泉市生まれ。21歳の時、オランダでプロレスデビュー。FMW、ユニバーサル、みちのく、大阪を経て沖縄プロレスに。172センチ、80キロ。家族は夫人のタレント早坂好恵と1女。

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WWE名物リングアナ「ザ・フィンク」死去、69歳

米プロレス団体WWE殿堂入りの名物リングアナウンサー、ハワード・フィンケル氏が16日、死去した。69歳だった。同日にWWEが発表した。

「ザ・フィンク」の愛称で親しまれ、77年にWWEの前身WWWFのマディソンスクエアガーデン大会でリングアナとしてデビュー。02年までメインアナとしてマイクを握っていた。

70~80年代、WWEの前身WWFが提携していた新日本プロレスのアントニオ猪木、藤波辰爾、タイガーマスクらがWWFニューヨーク大会に参戦した際もリングでコールを担当していた。90年代後半にはタキシードマッチに臨むなどリングで戦う活躍もみせていた。

09年にWWE殿堂入りを果たしたフィンケル氏に向け、ハルク・ホーガンは「ハワード・フィンケル氏は良い時も悪い時も『チーム・ホーガン』にいました。私の良き友人よ、安らかに眠ってください。あなたを愛している」と自らのツイッターでつづれば、WWEビンス・マクマホン会長も「WWE初期からのスタッフだったフィンケル氏の死を知って悲しみました。彼の象徴的な声のおかげで、スポーツエンターテインメントの歴史の中での偉大な瞬間は、よりグレートになりました」と追悼していた。

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ライガーWWE殿堂入り「なんでボクなんでしょう」

引退式を終えた獣神サンダー・ライガーは歓声に応えながら引き揚げる(2020年1月6日撮影)

今年1月の東京ドーム大会で引退した新日本プロレスの獣神サンダー・ライガーが米団体WWE名誉殿堂「ホール・オブ・フェーム」入りすることがWWE、新日本プロレス両団体から発表された。

日本人選手としては、10年のアントニオ猪木、15年の藤波辰爾に続く3人目の快挙。レガシー部門では力道山、ヒロ・マツダ、新間寿氏も受賞している。ライガーは「新日ジュニアの象徴」として国内外で活躍。世界中で高い知名度と人気、長きに渡る功績により、今回の殿堂入りが決定した。

受賞を受けて、ライガーは「いやー、びっくりしましたね!『なんでボクなんでしょうか?』という気持ちです」と驚きのコメントを発表。「本当にもったいないような大きな賞を頂いて感動してますし、緊張してますし。そういう名に恥じない、これからもレスラーとしての獣神サンダー・ライガーという名前は付いてまわりますので、キチッとしていきたいなと思います。襟を正すっていう形でね」と名誉ある賞に気を引き締めた。

殿堂入りセレモニーは、4月2日(日本時間3日)にフロリダ州タンパベイのアマリー・アリーナで行われる。

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武藤が前田が長州が60周年猪木から闘魂注入ビンタ

「燃える闘魂60周年メモリアルセレモニー」でポーズを決め写真に納まる、左から長州、武藤、木戸、藤原、前田、木村、アントニオ猪木、越中、ヒロ斉藤、AKIRA、蝶野、藤波(撮影・横山健太)

<プロレスリング・マスターズ:後楽園大会>◇28日◇東京・後楽園ホール

新型コロナウイルス感染拡大の影響でプロレス興行の中止、延期が相次ぐ中、武藤敬司(57)がプロデュースするプロレスリング・マスターズの大会が行われ、会場は熱狂に包まれた。

今回は武藤の師匠であるアントニオ猪木氏(77)のデビュー60周年記念大会。試合後に猪木氏がリングに上がり、さらに武藤、蝶野正洋、越中詩郎、藤原喜明、藤波辰爾、木村健悟、前田日明、木戸修、長州力と猪木氏の弟子にあたるレジェンドらが集結し、師匠をぐるっと囲んだ。

マイクを持った猪木氏は「元気ですかー!元気があれば、なんでもできる」と第一声。「ここに来る途中、いろんなことを考えました。60周年なんかオレ関係ねえのにな」と大会の目玉にされたことを笑いながら愚痴りつつも、「熱い声援をもらったら、人前に出ることは素晴らしいこと」と喜びを語った。

さらに周囲、観客の声に背中を押され、武藤、蝶野、前田、長州にビンタで闘魂注入。「がんばっていこうよ。これからのプロレスが世界に向けて勇気と希望を発信できるように」と1、2、3、ダー! のかけ声で大会を締めた。

毎回人気の大会とありチケットは事前に完売。だが、コロナウイルス感染拡大の影響により、直前に約300件のキャンセルがあり、入りは8割程度にとどまった。メインのタッグマッチのセコンドに入った蝶野は客席に向かって「おいい、お前ら! よくもぬけぬけと出てきたな」と話し、笑わせつつつも、大会開催を決めた武藤に「心からお礼申し上げる」と感謝した。

試合後、武藤は「ここ2、3日追い詰められてたので、(猪木氏に)ビンタをもらってうれしかった」と、開催するかどうか悩んだことを明かした。さらに「今回マスターズやらなかったら、次1人欠けるかもしれないから、必死でやったんだよ」と決行に至った理由をブラックジョークで説明。「今の時点ではやってよかった」と胸を張った。

前田(中央)に闘魂ビンタをするアントニオ猪木(右)。左から武藤、藤波(撮影・横山健太)
アントニオ猪木(左から4人目)からの闘魂ビンタを嫌がる長州(同2人目)を無理矢理引っ張り出す蝶野(左)と武藤(同3人目)。右は前田(撮影・横山健太)

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武藤敬司プロデュース公演、28日に予定通り開催

昨年行われたプロレスリング・マスターズ大会 後方左から2人目が武藤敬司(2019年8月30日撮影)

プロレスラー武藤敬司(57)がプロデュースする「プロレスリング・マスターズ」は27日、28日の東京・後楽園大会を予定通り開催すると発表した。

新型コロナウイルス対策として来場者にマスク着用などを呼びかけるほか、観戦キャンセル希望者には返金対応する。大会は武藤の師匠であるアントニオ猪木氏が来場。メインイベント出場予定だった新日本プロレス天山広吉、小島聡が欠場となり、藤波辰爾、藤原喜明組対武藤、スーパーJ組にカード変更となった。また、プロレスリング・ノアは3月8日の横浜文化体育館大会、全日本プロレスは3月7日千葉・銚子大会を延期するとそれぞれ発表した。

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中西学は最後も背骨折り…27年幕「感謝しかない」

引退セレモニーで新日本プロレスの選手たちに胴上げされねぎらわれる中西(撮影・河田真司)

<新日本:後楽園大会>◇22日◇東京・後楽園ホール

新日本の“野人”中西学(53)が27年間のプロレスラー人生に幕を下ろした。

22日の東京・後楽園ホール大会で同じ第三世代の永田裕志、天山広吉、小島聡と組み後藤洋央紀、飯伏幸太、棚橋弘至、オカダ・カズチカ組と対戦。最後は棚橋に抑え込まれたが、札止め1720人の前で全力のラストファイトを披露した。

先陣を切ってリングインし「最高のパートナーに助けられ、最高の相手4人」と渡り合った。永田に誤爆されると、得意のアルゼンチン式背骨折りを2度繰り出す。棚橋も担ぎ上げて仕留めにいくが、最後はハイフライフローに沈んだ。

引退セレモニーでは坂口征二顧問から「一番最高やった」、藤波辰爾から「まだいい体なのに」、馳浩専大OB会長に「面白かった」と惜しまれた。10カウントゴング後、選手に3回胴上げされリングをおりた。

五輪出場、G1優勝にIWGPヘビー級王座も手にした。首のケガが引退を早めたが「みんなに感謝しかない」と涙ぐんだ。「死ぬまでプロレスラー。トレーニングも続けて携わっていきたい」。家業の茶栽培を手伝いながら、新日に恩返しをしていくつもりだ。

◆中西学(なかにし・まなぶ) 1967年(昭42)1月22日、京都市生まれ。専大時代にレスリング全日本選手権4連覇。92年バルセロナ五輪代表。同年8月に新日本に入団。97年に小島聡とIWGPタッグ王座獲得。99年G1優勝。09年IWGPヘビー級王座。得意技はアルゼンチン式背骨折り、原爆固めなど。186センチ、120キロ。

引退セレモニーで新日本プロレスの選手たちにとポーズを決める中西(中央)(撮影・河田真司)
引退セレモニーで10カウントゴングに臨む中西(撮影・河田真司)

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迫る引退、中西学が貫く「野人道」と後進への願い

中西学

新日本プロレスの“野人”中西学(53)が2月22日の後楽園ホール大会で引退する。11年に脊髄を損傷して以来、本来の力を取り戻せず苦しんできたが、1月からの引退ロードでは歓声を背に、大暴れしてきた。2・22ラストマッチを前に、中西に思いを聞いた。

   ◇   ◇   ◇

中西は1月7日に引退を発表した。以来、東京、大阪や地方の会場で大暴れし野人ぶりを見せつけてきた。「細かいこと言わんで、お客さんに喜んでもらわんと。注目してもらっているとしたら、思いっきりアピールして、楽しんでもらえれば」。がむしゃらにリングに全てをぶつける。

11年に脊髄を損傷した。復帰後もそれまでの動きは取り戻せていないが、日本人離れした巨体は健在。アルゼンチンバックブリーカーなど豪快な技で観客を魅了。大きな体を維持してきた秘訣(ひけつ)もまた、豪快だ。「プロテインはおなか壊してしまうし、決まった時間に飲むのを忘れるので飲みません。それより、3食しっかり食べている方が、免疫力も上がる。天気が良かったら、河原で上半身裸で走ったりもするから」。ヒンズースクワットなど、伝統の基礎メニューを大事にしてきた。

現役で唯一、五輪レスリングを経験した選手で、日本人屈指のパワーファイター。大日本プロレスの関本大介と岡林裕二を「体張ってやってるレスラーの代名詞」と後継者に“指名”。一方で「そういう選手が新日本にいないのはさみしい」。新日マットにも「外国人の大きいやつらとガンガンできる、当たり負けしないやつ。とんでもなくでかいやつが来ても、必ず俺が相手するという選手が出てきてほしい」と願った。

今後は実家、京都・宇治の茶農家を手伝いながら、プロレス関連の仕事をするプランがある。だが「引退までは先のことを考えない」とマットに集中。「お客さんが主役。不細工でもいい。リングで戦うことが一番の仕事」。22日のラストマッチまで野人を貫く。【取材・構成=高場泉穂】

◆中西学(なかにし・まなぶ)1967年(昭42)1月22日、京都市生まれ。専大時代にレスリング全日本選手権4連覇。92年バルセロナ五輪代表。同年8月に新日本に入団し、10月13日に藤波辰爾と組みS・ノートン、S・S・マシン戦でデビュー7年5月に小島聡とIWGPタッグ王座獲得。99年G1優勝。09年5月IWGPヘビー級王座。得意技はアルゼンチン式背骨折り、原爆固めなど。186センチ、120キロ。血液型A。

09年 トップロープから棚橋弘至(手前)の顔面にけりを浴びせる中西学

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天龍、藤波、長州らが「日本プロレス殿堂会」発足

日本プロレス殿堂会発足会見で記念撮影する、左から天龍源一郎、藤波辰爾、長州力(撮影・浅見桂子)

天龍源一郎(70)、藤波辰爾(66)、長州力(68)らが20日、都内で会見し「日本プロレス殿堂会」の発足を発表した。日本プロレス界の発展に貢献した選手の功績を後世に伝え、引退した選手支援のために立ち上げられた。

初期メンバーは3人に、故ジャイアント馬場さん、アントニオ猪木氏を加えた5人。今後、会独自の選考基準をクリアした選手が殿堂に加入していく予定。15年に米WWE殿堂入りした藤波は「日本にもできたらという思いが強かった。レスラー全員、ファンの願いでもある」と喜びを語った。

日本プロレス殿堂会発足会見で、笑顔で記念撮影する、前列左から天龍源一郎、藤波辰爾、長州力。後列左から嶋田紋奈、LEONA、池野慎太郎(撮影・浅見桂子)

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猪木も!武藤2・28マスターズで藤波藤原とタッグ

武藤敬司

武藤敬司(57)がプロデュースするプロレスリング・マスターズの2月28日後楽園大会メイン「燃える闘魂60周年メモリアルマッチ」の対戦カードが17日、発表された。

当日は武藤の師、アントニオ猪木氏(76)が初来場。今年でプロレスデビューから60周年を迎える猪木氏と縁深いレスラーがメインで集結する。新日本プロレスの猪木氏の弟子、藤波辰爾(66=ドラディション)、藤原喜明(70=藤原組)、武藤がタッグを結成。対するのはセコンドの蝶野正洋(56)が率いる「TEAM2000」で、小島聡(49)、天山広吉(48=ともに新日本)、スーパーJ(57)が組む。

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