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「殺されるような目つき」小橋建太、藤波辰爾も恐れたザ・グレート・カブキ

ザ・グレート・カブキ(撮影・柴田隆二)

レジェンドたちが恐れていたプロレスラーがいた。3日に都内で行われた、日本プロレス殿堂会設立1周年記念イベント「レジェンドサミット」で全日本プロレスなどで活躍したザ・グレート・カブキ(72)が登場した。

イベントにはほかに藤波辰爾(67)、長州力(69)、小橋建太(54)、田上明(59)、越中詩郎(62)が参加。昭和時代からリングを沸かせてきた選手たちが、司会者からの「若手のころ怖かった先輩がいたか」の質問に長州、田上以外の3人が口をそろえて「カブキさん」と答えた。70年に日本プロレスに入った藤波は「雰囲気が怖かった。リングサイドで見ていて蹴りも動きがすごかった」と明かした。小橋は「やっぱりカブキさん。殺されるような目つき。近寄れなかったし、控室でも話せなかった」と苦笑いを見せた。

新日本プロレスの平成維震軍として一緒に戦った越中は「キャリアも年齢も違ったが、とても頼もしかった」と話した上で「試合で怒られた記憶しかない」と振り返った。さらにプライベートでの逸話を披露。「本当によく飲まされた」。メンバーで食事に行った際には仲間の“後始末”もさせられることが多かったようで「朝4時ごろに六本木警察に行ったこともある」とエピソードを語った。

後輩たちの暴露にさすがのカブキも苦笑い。「ほかの選手が『カブキと飲み行くな』と言っていたみたい」。周りに一目置かれる存在だったが、それでも平成維震軍のメンバーに溶け込もうと、加入後には結束の証しとして頭をそり上げた。「家で髪を切った。娘が保育園から帰って来て、お帰りと言ったらぎゃーって逃げていった。それが一番の思い出」と目を細めた。

現在でも平成維震軍のメンバーがリングに上がることもある。カブキも毎試合、セコンドとして参戦する。「日本での最高のチームだと思っている。お客さまを引きつけて、喜ばせるのがプロレス。試合を見ていたら、またやりたくなりますよ」。イベント後には集まったファンとにこやかな笑顔で記念撮影。現役時代からリングの上でも外でも暴れ、恐れられたカブキだが、プロレスへの愛着と魂は今も昔も変わらない。【松熊洋介】

ザ・グレート・カブキ(左から2人目)ら平成維新軍のメンバー(1994年12月12日撮影)
グレート・ムタ(右)とザ・グレートカブキ

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療養天龍を長州力ら激励「とんでもないラインきた」

日本プロレス殿堂会「レジェンドサミット」でトークショーする長州力(左)と藤波辰爾(撮影・柴田隆二)

レジェンドたちが病床の盟友にエールを送った。

日本プロレス殿堂会設立1周年記念イベント「レジェンドサミット」が3日、都内で行われ、藤波辰爾(67)、元プロレスラーの長州力(69)らが療養中の天龍源一郎氏(71)を激励した。

本来なら今イベントの立ち上げの1人である天龍氏も参加する予定だったが、先月19日から検査入院しており、不参加。最初に長州と壇上に上がった藤波は「元気そうだという話を聞いた。次回は参加してくれると思う」と思いを明かした。長州は数日前にLINE(ライン)でやりとりをしたことを明かし「ここでは言えないが、とんでもないラインが来た。今は検査入院。源ちゃんは元気いっぱいですよ」と集まったファンを安心させた。

壇上でトークショーを行った藤波と長州。2人はともにアントニオ猪木氏(78)に指導を受け、82年からはお互いの軍団同士で抗争を繰り広げるなどして新日本プロレスを盛り上げた。当時を振り返った藤波は「控室でも顔を合わせず、リングに上がると(お互いに)感情をむき出しにして戦っていた」。2人の戦いはファンも刺激したようで「周りでお互いのファン同士がケンカするなど、あり得ないことが起こっていた」と当時のエピソードも披露した。

「日本プロレス殿堂会」は昨年2月に、藤波、長州、天龍氏らが、2世たちと協力し、結成。協会が存在しない業界の中で「プロレスの宝を守ろう」と、文化の伝承や、歴史を創ってきたレジェンドの功績をさまざまな形で伝えていく活動を行っている。昨年はコロナ禍で開催できなかったが、この日ようやく第1回のイベントが実現。藤波は「今後は往年で活躍した選手たちを殿堂入りさせたい」と意欲を見せた。

この日は、小橋建太氏(54)、田上明氏(59)、越中詩郎(62)、ザ・グレート・カブキ(72)も参加。リング上でぶつかり合った仲間たちと久しぶりの再会を楽しんだ。先月天龍氏とのトークショーを行う予定だった小橋は今イベントに参加を志願。「代わりになるかは分からないが、名乗りを上げさせてもらった。回復も祈っているし、今度は戻ってきて、天龍節を聞けることを楽しみに、第2回もまた来てください」と語った。

また天龍氏は、娘で「天龍プロジェクト」の代表取締役である嶋田紋奈氏を通じ「行けなくなってしまいましたが、みなさん殿堂会の1周年を盛り上げてくれてありがとう。俺はまたファンに元気な姿を見せられるように頑張ります」とメッセージを寄せた。

日本プロレス殿堂会「レジェンドサミット」でトークショーする小橋建太氏(左)と田上明氏(撮影・柴田隆二)
日本プロレス殿堂会「レジェンドサミット」でトークショーをする越中詩郎(左)とザ・グレート・カブキ(撮影・柴田隆二)
日本プロレス殿堂会「レジェンドサミット」で記念撮影に納まる。左から長州力、藤波辰爾、小橋建太氏、田上明氏、越中詩郎、ザ・グレート・カブキ(撮影・柴田隆二)

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高橋ヒロムが王者石森に挑戦「キレイさっぱり発散」

トップロープからエル・ファンタズモ(下)を攻める高橋ヒロム(撮影・菅敏)

<新日本:東京ドーム大会>◇4日◇東京ドーム

昨年12月の日本武道館大会でベスト・オブ・ザ・スーパージュニア(BOSJ)を制した高橋ヒロム(31)が、スーパー・J・カップ(SJC)2020覇者のエル・ファンタズモ(34)に勝利し、5日のIWGPジュニアヘビー級選手権試合で王者石森太二(37)への挑戦が決まった。

特別プロモーターで今大会のテーマソングを歌う、タレント木梨憲武が音頭を取り、長州力の開会宣言で始まった。

一発逆転のウラカン・ラナの切り返しでファンタズモを沈めた。終始劣勢の中での戦いに納得いかず、帰り道では「つまんねぇ試合してしまった」と嘆きながら引き揚げた。バックステージでは「全くフェアじゃなかった」。苦しい発言がストレスのたまる試合であったことを物語っていた。

「新の覇者を決める戦い」と意気込んで挑んだが、開始早々、ファンタズモが高橋の持ってきたトロフィーを投げ捨てるなど、場外戦からスタート。序盤に執拗(しつよう)に痛めつけられた右手首のダメージが大きく、強烈な張り手は見せなかった。両足、股間までも踏み付けられ、得意のTIME BOMB2も決まらない。自身の技も披露されるなど、やりたい放題の相手に、持ち前のフットワークでかわすのがやっと。「分からないが、あいつは何か反則をしている。調べてくれ」と語った。

BOSJでは10人での約1カ月に及ぶ戦いを制し、東京ドームに乗り込んだ。「長かったし、痛くてつらくて何度もくじけそうになったけど、何よりもプロレスが楽しかった」と正直な気持ちを吐露した。リーグ戦では9試合中6試合でメインを張った。ベルトを持っていない中で批判もあったが、持ち前の明るさでかわした。試合前には相手攻略本を持って毎回登場。12月23日の会見でも、お面をかぶりファンタズモに扮(ふん)するなど、会場を笑いの渦に包んだ。

ファンを大事にし、新日本ジュニア界を背負っていく。「今のこの状況の中で多くの人が会場に来てくれる。来られない人も見てくれていると思うと力がみなぎってくる。思いっ切りプロレスをして元気を与え、みんなからの拍手で、元気をもらう。そういうつながりが新日本プロレスでやってきたこと」と明かす。

5日、いよいよジュニアヘビー級のベルトをかけ、石森に挑戦する。試合後バックステージで遭遇し「ギリギリで勝ったな。まあ、俺がトドメを刺す」と挑発されたが「俺とバチバチの試合をやりたかったんでしょ? どちらが強いかハッキリさせましょう」と切り返した。8月29日の神宮大会で敗れ、持っていたベルトを奪われたが、BOSJ開幕戦となった11月の対戦でリベンジ。「見てるお客さんもストレスがたまったと思うのでキレイさっぱり発散する」。5日、納得の勝利で真の王者となる。

◆高橋ヒロム(たかはし・ひろむ)1989年(平元)12月4日、東京都生まれ。10年8月にプロレスデビュー。13年6月から英国に武者修行、14年1月からはメキシコCMLLにマスクマンのカマイタチとして参戦。17年、18年にIWGPジュニアヘビー級王者となる。得意技はTIME BOMBなど。所属ユニットはロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン。171センチ、88キロ。

トップロープから場外のエル・ファンタズモ(下)に襲い掛かる高橋ヒロム(撮影・菅敏)

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長州力さん&ドン・キナシが東京ドーム大会開会宣言

新日本プロレス「WRESTLE KINGDOM」のオープニングセレモニーに登場した長州力さん(左)とドン・キナシこと木梨憲武(撮影・菅敏)

<新日本:東京ドーム大会>◇4日◇東京ドーム

新日本プロレスの東京ドーム大会は元プロレスラーの長州力さん(69)の開会宣言で華々しく幕を開けた。

孫の由真くん(1)を抱いてタキシード姿でリングに登場すると「新年明けましておめでとうございます。選手もこの日を待ちわびていたので、熱い声援で背中を押してやって下さい」とあいさつ。その後、“ドン・キナシ”こと木梨憲武と一緒に開会を宣言した。

のオープニングセレモニーに登場した長州力さん(左)はドン・キナシこと木梨憲武に手を上げられる(撮影・菅敏)

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真壁刀義、06年悪役転向を決めた屈辱体験/連載3

06年7月6日、後楽園ホールで行われたIWGPヘビー級選手権で永田裕志を鎖で攻撃する真壁刀義(左)

プロレスには不思議な力がある。24年間、プロレス界の天国も地獄も見てきた真壁刀義(47)の視点からプロレスの力を見つめ直す。

連載の第3回は、人気低迷の中で試行錯誤していた時期をたどる。

【取材・構成=高場泉穂】

◇  ◇  ◇

小泉純一郎首相が劇場型政治を繰り広げ、ヒルズ族が世をにぎわせていた00年代後半、プロレス人気は低迷していた。

00年前半にブームとなった総合格闘技PRIDEやキックボクシングK-1の人気におされて、という面もある。

だが、真壁はプロレスとも総合格闘技ともいえない「中途半端な試合をしていた」自分たちのせいだと語る。

「俺たちは本物のプロレスをしてなかったのよ。それがすべて。なんちゃって総合格闘技なら、総合格闘技みればいいじゃん。プロレスのチケットは高い。8000円とか1万円とか、1日働いた分かかる。その金に見合ったものを客は見たいのよ。喜びとか、悔しさとか、怒りとか。観客が一番シビアなの」

プロレスが人気を誇っていた90年代までとは違い、スポーツに限らず、娯楽の対象は多種多様になった。その中で、身銭をきって見ようと思える面白さがあるか? 真壁の言う通り、ファンの目は厳しかった。

離れていったファンを取り戻すため、それぞれの団体、選手が試行錯誤を続けていた。その中で特別な個性もなく埋没していた真壁は、思いきって悪役=ヒールに転向した。

きっかけは、06年5月に行った長州力プロデュースの「LOCK UP」大会。他団体選手も多く交じるこの興行に参戦した真壁は、インディー団体アパッチプロレス軍の金村キンタローから「真壁は呼んでねぇ」と侮辱された。同時に客にも笑われた。その言葉が真壁の心に突き刺さった。屈辱だった。

97年のデビュー以来、脇役であり続けた真壁の中の何かがはじけた。

「自分の価値を思い知らされた。恥ずかしかった。だから、俺は鬼になった。やることなすこと全部変えてやろうと」

そこから真壁はかつてのレジェンド、ヒールとして一時代を築いたブルーザー・ブロディのスタイルに影響を受けた“暴走キングコング”というスタイルを作り上げた。

入場曲にブロディと同じ「移民の歌」を使い、8キロもある鎖を首に巻いた。デビュー9年目にして、誰が見てもひと目でそれと分かるキャラクターを確立した。

当時の新日本のエースは棚橋と中邑。真壁は正統派の2人と違う何かを求め、インディー団体の試合に参戦し、デスマッチも経験した。

名門新日本の選手がインディーの大会でデスマッチをするというのは、はたから見れば“左遷”に見えたかもしれない。だが、真壁はその中で多くの事を学びとった。

「おれはそれまで死にもの狂いで練習してたから、技術や強さで金村たちに負けるわけないと思っていた。だけど、いざ戦ってみると、彼らの方が試合で何を見せたらいいか、どうしたら自分の面白いところを見せられるか分かってたんだ」

ヒールになった真壁は会社や他の選手、自分自身に対して思っていた怒りを試合でぶちまけた。その熱い戦いがファンを引きつけた。09年夏にG1初優勝を果たし、翌10年には中邑真輔を破り、IWGPヘビー級王座初戴冠。「俺みたいな雑草が天下をとる、世にも奇妙な物語が始まったわけだ」。

プロレスは一筋縄ではいかない。だから面白い。その一方で、自分のスタイルを貫き革新を起こそうとした選手もいた。

新日本プロレスの棚橋弘至だ。07年にIWGPヘビー級を初戴冠。その頃から「愛してま~す」の決めぜりふを使い始めたが、どこか軽くうつる棚橋は、旧来のファンにブーイングを浴び続けた。

それでも棚橋は揺るがない。自らに「100年に一人の逸材」とキャッチコピーをつけ、ファンに向かって「愛してま~す」と言い続けた。

09年の年明けの名物大会「1・4」では、全日本のトップでありレジェンドの武藤敬司に勝利。エースの存在感を示しつつあった。エアギターや試合後のハイタッチで幸福感を演出する棚橋、対して鎖を手に暴れるヒール真壁。新たな個性を持った選手が、ファンの支持を得ていった。

プロレス界は05年に橋本真也、09年に三沢光晴と2人の偉大な選手を失う。40歳という若さでの橋本の病死も、試合中の事故で亡くなった三沢の死も、社会に大きな衝撃を与えた。

ノアを率いていた三沢は生前「プロレスをメジャーに」と願い、新日本、全日本に呼びかけ統一機構の設立に動いていた。結局、実現に至らなかったが、プロレス界は新しく生まれ変わろうとしていた。

経済が傾き、次々と社会問題が起こる時代。人々はプロレスに非日常とハッピーを求めたのかもしれない。

ドロドロした感情が渦巻く過去のプロレスとはまた違う、明るく楽しいプロレス。新日本のエース棚橋が作ってきた価値観に時代が追いついてきた。

11年2月、新日本プロレスの仙台サンプラザホール大会は、3200人の超満員となった。仙台での17年ぶりとなるIWGPヘビー級選手権のため、王者棚橋は大会前に宮城に乗り込み、テレビ、ラジオ各局、雑誌などさまざまなメディアでPRに駆けずり回っていた。

その棚橋の相手は当時全日本を退団し、フリーとなっていた小島聡。前年から新日本のトップ戦線をかき回していた“外敵”だった。新日本対外敵という分かりやすいストーリーと、激しい戦い。防衛した棚橋が作り出すハッピーな空間。会場は熱狂と幸福感にあふれていた。

メインで小島のセコンドにつくタイチを排除した真壁も大声援を受けた。1つ1つの反響の大きさに、選手もファンも新たな風を感じていた。

「まだ、場所によって(観客動員が)きついとこはきつかったけど、だんだんと会場が埋まり始めてきていた。さあこれから始まるぞ、新しい流れが始まるぞ、という時に、東日本大震災が起こったんだ」

それは、ようやく光が見えた矢先のことだった。

その仙台大会から18日後の2011年3月11日に東日本大震災が発生。多数の犠牲者を出し、東日本の太平洋沿岸部に甚大な被害をもたらした。

ただ、そんな中でも、プロレスは止まらぬどころか、その底力を発揮するのだった。(続く)

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真壁刀義「こういう時こそ本領発揮」/連載1

長州、越中、石井組対藤波、武藤、真壁組  コーナーの石井(下)を殴る真壁(2019年6月26日撮影)

真壁刀義が語るプロレスの力<1>

プロレスには不思議な力がある。戦後始まった日本のプロレスは、カタチを変え、苦難を乗り越えながら続き、時に人々を勇気づけてきた。新型コロナウイルスの影響で業界全体が苦しい状況にある中、新日本プロレス旗揚げの年に生まれ、24年の選手生活で地獄も天国も見てきた苦労人、真壁刀義(47)の視点からプロレスの力を見つめ直す。【取材・構成=高場泉穂】

◇  ◇  ◇

ウイルスという、見えない敵と戦う日々。緊急事態宣言が解除されても、その終わりは見えず、人々の不安は消えない。

真壁は「こういう時こそ本領発揮しなくちゃいけないのがプロレスだと思う」と言葉に力を込めた。

プロレスは主に屋内で行われ、密集、密閉、密接の「3密」が当てはまる。新日本は2月末の興行を最後に52試合を中止していたが、6月15日から無観客での試合再開が決定した。7月11日の大阪城ホール大会から観客を迎え、興行を行う。

1972年(昭47)の旗揚げ以来、110日間も試合が中断したのは初めて。それでも、真壁ら選手たちは再開に備え、変わらず体を鍛えてきた。リングの上で戦う姿が何かの力になると信じて。

「俺は最後に勝ちゃいいじゃねえか、と思ってんだよね。プロレスは1回、2回、3回負けた。それでも4回目、5回目に勝ちゃいいの。何か人生でつまずくことがあったとする。そのままあきらめるんだったら、あんたの人生はそれでいいじゃん。ただ、あきらめないでいこうと思ってんだったら、さぁがんばれよ、ってケツをたたきたいね。まわりの人間がどう思っているかは関係ない。自分自身がどう転がるか、どう戦うかだよ。俺の言ってることは確かに理想だ。簡単に言うなと思うかもしんないけど、言ってんの俺だぜ?俺、言っとくけど地獄の底を見てきたからね」

プロレスが日本で本格的に始まってから今年で69年。いい時も、悪い時もあった。それでもプロレスは現在まで続いてきた。その不思議な力とは何なのだろうか-。今年でデビュー24年目を迎える真壁は、業界の浮き沈みを、身をもって経験してきた。

真壁が新日本に入門する90年代後半、プロレスはブームを迎えていた。96年4月29日、新日本プロレス東京ドーム大会。その翌日に入門を控えた真壁は地元の幼なじみとともに2階スタンド席にいた。

メインは新日本の“破壊王”橋本真也とUインター高田のIWGPヘビー級選手権。団体の威信をかけた2人の攻防に1つ1つに、大歓声が重なった。終盤、橋本がミドルキックをきっかけに流れを引き寄せ、最後は垂直落下式DDTから三角絞めに持ち込み勝利。びっしり埋まったドームが、大きく揺れた。

真壁は米粒のように小さく見える2人を見ながら、ぼんやりと自分のことを考えていた。

「東京ドームのスタンド上の上まで超満員。本当にびっしり埋まってた。試合を見ながら、明日から、この団体に入るのかぁ…て不思議な気持ちだったよね」

翌日、東京、世田谷・野毛の道場で行われたドーム大会一夜明け会見には、団体創始者のアントニオ猪木、長州力、橋本真也ら当時の新日本のスターが集結した。

多くの報道陣も駆けつけ、狭い道場はぎゅうぎゅう詰めとなった。その中に放り込まれた新人真壁は「本日、入門しました真壁です!」と先輩たち1人1人にあいさつしてまわったが、ことごとく無視された。

「目の前に立ってあいさつしても、返事もしてくれねえの。何でかっていうと、俺が明日までいるかどうかわかんないから。当時はすぐ辞めるやつが多かったの。夜逃げ。練習や環境がきつすぎて、朝起きると、逃げちゃうんだって。おれがあいさつしたところで、みんなこいつ残るわけねぇって思ってっからさ。“空気扱い”だった」

当時は政界から一時身を引いた猪木が道場によく顔を出し、選手を叱咤(しった)激励していた。上下関係は厳しく、若手はデビューするまで先輩の理不尽なしごきに耐える。華やかな表舞台の裏には、そんな殺伐とした環境があった。

真壁は「言い方は悪いけど、殺意がないと残れなかったよ」と振り返る。つらくても、夢半ばで辞めるのはプライドが許さなかった。

それまで、プロレスラーは日本人にとって長く憧れの対象だった。戦後、日本で本格的なプロレス興行を始めたのは、大相撲の元関脇、力道山。空手チョップで次々と外国人選手を倒す姿は復興の象徴となった。

その弟子のジャイアント馬場が全日本、アントニオ猪木が新日本プロレスを72年に旗揚げ。今ほど娯楽が細分化されていなかった時代。ゴールデンタイムでお茶の間に広まったプロレスは野球、相撲に並び国民に愛されるコンテンツだった。

元横綱の輪島、元五輪選手の長州力、馳浩ら、大きな体と超一流の能力を持った人間も集まった。全日本ではアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・ファンクスら個性豊かなスターが続々生まれ、新日本の猪木はボクシング世界王者ムハマド・アリとの異種格闘技戦で大きな注目を浴びた。

80年代に入ると、アニメの世界から出てきたタイガーマスクが四次元殺法でこどもたちの心をつかみ、長州と藤波が「名勝負数え唄」を繰り広げた。

89年に新日本は初の東京ドーム興行を行い、獣神サンダー・ライガーも誕生。全日本は鶴田、天龍の「鶴龍対決」で人気を集め、その流れは四天王プロレスにつながっていった。

新日本、全日本の2大メジャー団体ができた72年に生まれた真壁は、テレビの向こうのプロレスラーに憧れて育った。先輩たちの姿はそばで見るには、まぶしすぎた。

「反骨心はあったけど自分がトップに立つイメージは正直、あん時は描けてなかったよ。若手の時は、よくセコンドに入った。大先輩たちの試合を、近くでまじまじと見るわけだ。試合中の観客の盛り上がりを感じながら、『俺このリングにあがって、ベルトとれんのかな』と思ってた。俺は、毎日ボロ雑巾のようにしごかれてる。だから、現実味がなかったんだよね。ギャップがありすぎた」

新日本は“闘魂三銃士”が活躍し、97年には東京、大阪、ナゴヤ、福岡での初4大ドームツアーも成功。一方、全日本も四天王プロレスの真っ盛り。危険をかえりみない激しい試合で、日本武道館を毎回満員にしていた。そんなプロレスブームの98年に猪木が現役引退する。東京ドームに7万人を集めた猪木の引退試合を、デビュー2年目だった真壁は見ていない。膝の半月板の手術が重なり、動けない状態だった。

「あそこまで憧れた人の引退試合なのに、俺、何やってんだろな、とベッドでうなだれてたよ。猪木さんが新日本からいなくなったら、何をするんだろう。新日本に関係なくなるのか、後輩たちを教育するのか…。いろいろ考えたけど、下っ端の俺は考えを知る立場じゃないから。ただ、どうなんのかなと思ってた」

真壁らの予想を超え、猪木は当時ブームになりつつあった総合格闘技に肩入れしていった。そして、その格闘技の存在によって、プロレスというジャンルが大きく揺らぎ始めた。

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木村花さん追悼興行や献花の場、スターダムが検討

木村花さん(2019年12月24日撮影)

木村花さんの突然の死から2日たった25日も、多くのレスラーがSNSで追悼の言葉をつづった。

ダンプ松本(59)はツイッターで「可愛そうで可愛そうで悲しいです」。長州力(68)もツイッターで「残念です!なぜ無視しなかった!なぜ相談を!仲間は?親は?憧れていた夢が叶ったのに!頑張っていたのに!」などと記した。

所属するスターダムでは追悼興行やファンの献花の場を検討している。新型コロナウイルス感染拡大の影響で時期は未定だが、団体関係者は「少し先になると思うが、追悼できる場を作ってあげたい」と話した。

団体では、コロナ禍で集合できない状況のため、グループLINEなどを使いながら選手の心のケアに努めているという。

木村さんは亡くなる前に、団体事務所のドア前に飼っていたオスの子猫「からあげくん」を仲間たちに託すように置いていた。関係者によると、子猫は今後、団体の寮で飼うという。

木村さんが所属するスターダムの道場前には、ピンクの花束が置かれていた(2019年12月24日)

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長州力、木村花さん死去に「なぜ無視しなかった!」

長州力(20年2月撮影)

22歳の若さで亡くなったプロレスラー木村花さんの、突然の死から2日たった25日も、多くのレスラーがSNSで追悼の言葉をつづった。

全女時代にヒール軍団「極悪同盟」でブレークしたダンプ松本(59)はツイッターで「可愛そうで可愛そうで悲しいです」。長州力(68)もツイッターで「残念です!なぜ無視しなかった!なぜ相談を!仲間は?親は?憧れていた夢が叶ったのに!頑張っていたのに!」などと記した。

世界中から追悼の声が届くのを受け、スターダムは追悼興行開催やファンの献花の場を検討している。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、興行再開の見通しが立っていないため、時期は未定。団体関係者は「少し先になると思うが、みなさんが追悼できる場を作ってあげたい」と話した。

木村さんの死が同僚選手に与えた影響は計り知れない。団体は、コロナ禍で集合できない状況のため、グループLINEなどを使いながら選手の心のケアに努めているという。4月末から毎日継続していた公式Youtubeチャンネルでの生配信は当分中止となる予定だ。

木村さんはこの世を去る前に、亀戸の団体事務所のドアの前に飼っていたオスの子猫「からあげくん」を仲間たちに託すように置いた。関係者によると、子猫は今後、団体の寮で飼うという。

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蝶野デビュー35周年 長州「もう辞めてたの?」

蝶野プロレスデビュー35周年を記念して行われた新型コロナウイルス啓発トークショーでトークを繰り広げた蝶野正洋と長州力

蝶野正洋(56)のプロレスデビュー35周年を記念した新型コロナウイルス啓発トークショーが10日、都内で行われ、蝶野と新日本プロレス時代の先輩、長州力(68)が面白トークを繰り広げた。

蝶野は、感染予防や地域防災、AED救急救命フォーラムを行った後、第2部で長州と、第3部ではカジサックとトークショウーを行った。その間に取材に応じたが、35周年と聞いて長州が「もう辞めてたの?」と切り出すと「分からないように引退してます」(笑い)と回答。すると長州は「最後はきっちりやった方がいいよ」とアドバイスを送った。

新型コロナウイルス感染拡大で、緊急事態宣言が続く中、お互いの過ごし方を聞かれると、長州は「オレ、近所のコンビニに行くくらい。(新日本の)道場に夜遅い時間に行って体を動かすぐらい」と話した。また「孫も来れないけど、家に夏に遊べるようにプールを買ったんだ。夏にプールができればいいな」と、笑顔で話していた。また、コロナ禍が収束したら、どこへ行きたいかを問われ長州は「どこか暑い島に行きたいな。奄美大島かな」。蝶野は「海外旅行に行きたい。米国とかドイツとか。でも、いつ行けるようになるか分からない」と話した。トークショーの模様は、後日ユーチューブの「蝶野チャンネル」にて配信される。

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長州力「やる気はあるわけない」YouTube開始

長州力(2020年2月22日撮影)

元プロレスラーの長州力(68)が19日、自身のYouTubeチャンネルを開設した。

20日の第1回配信で「やる気は最初からあるわけない」などと独特の長州節でチャンネル開設の経緯を説明。一部で心配されていた滑舌も、字幕付きでほぼ完全再現された。それでも一部は聞き取れなかったのか、なぞの字幕が出された。

“ハッシュドタグ”“井長州力”など数々の珍ツイートでバズり続ける長州。第2、3回目は現在WWEで活躍する中邑真輔との対談。第4回以降は長州軍団(長州と他3人)による沖縄珍道中を予定している。

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“ハッシュドタグ”長州力YouTubeで自分探す

長州力(2020年2月22日撮影)

“ハッシュドタグ”“井長州力”など数々の珍ツイートでバズり続ける元プロレスラーの長州力(68)が19日、自身のYouTubeチャンネルを開設した。

長州は所属会社を通じコメントを発表。「ブログは気楽にできて良かったですが、Twitterやりはじめてからもうわけがわからなくなりました。一体自分がどこに向かっているのか…。インターネットは怖いですね。なんだか闇の世界に引きずり込まれていくんじゃないかと不安しかありません。この僕のYouTubeも面白いものになるのかさっぱりわかりません。冗談ではなく今は自分探しをしたいです。そっとしておいてもらいたい。ただそれだけです」と独特の表現で思いをつづった。

20日午後8時に配信される第1回はチャンネル開設の決意表明、第2、3回目は現在WWEで活躍する中邑真輔との対談。第4回以降は長州軍団(長州と他3人)による沖縄珍道中を予定している。

「リキチャンネル井長州力」https://www.youtube.com/channel/UCcjEXmMRb28ehKVy6viJLNA

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谷津嘉章 義足レスラーで復帰「冒険心が生まれた」

義足プロレスラーとして6月7日DDTビッグマッチで復帰することが決まった谷津嘉章。会見後にプロレス用の義足を持ち、ファイティングポーズ

「義足プロレスラー」の誕生だ。昨年6月に糖尿病の悪化で右足を切断したプロレスラー谷津嘉章(63)が18日都内で会見に臨み、6月7日さいたまスーパーアリーナで行われるDDTビッグマッチ「Wrestle Peter Pan2020」での復帰を発表した。谷津は「足をなくした時はこういう場が来るとは思わなかった」と喜びを語った。

谷津はレスリングで76年モントリオールオリンピック(五輪)8位、80年モスクワ五輪は金メダル候補ながら日本のボイコットにより不参加。その後プロレスラーに転向し、さまざまな団体を渡り歩き、長州力、ジャンボ鶴田のパートナーとして活躍した。10年引退するも、15年に復帰。昨年春からDDTに参戦していた。だが、糖尿病による壊疽(えそ)で昨年6月に右足下を切断。手術後は「目標がなくなった」といったん喪失感に見舞われたが、東京五輪聖火リレー走者の依頼を受け、走るという新たな目標に向かって、リハビリに専念。そのうち、「やればやるほど、鍛えれば鍛えるほど、もっともっととわがままな気持ち、冒険心が生まれた」とプロレスへの思いもよみがえった。

プロフェッショナルが復帰を支える。今年1月、DDT高木三四郎社長の紹介で義肢装具業界のリーディングカンパニーである川村義肢の川村慶社長と面会。日本初のプロレス用義足を開発してもらい、今回の復帰がかなった。特注義足の重さは約2・2キロ。プロレスの動きに合わせ、ひねりやクッション性にこだわり、今も改良が続けられている。既に谷津は義足をつけてリング上で動いており、会見ではロープワークや、監獄固めなど技をかける動画も披露された。驚異的な回復ぶりに、川村社長は「アスリートだと思いました。義足をつけて、すぐぴょんぴょんできるのは天性のもの」と谷津の運動能力の高さと努力をたたえた。

6月のカードは未定。谷津は「障がい者、ハンディがあるから、また年下だから遠慮しがちですが、遠慮すると谷津のためにならないし、お客さんにも伝わる。遠慮するなよ」と真剣勝負を求めた。

20日のDDT後楽園大会では、リングに上がり復帰を報告する。

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武藤が前田が長州が60周年猪木から闘魂注入ビンタ

「燃える闘魂60周年メモリアルセレモニー」でポーズを決め写真に納まる、左から長州、武藤、木戸、藤原、前田、木村、アントニオ猪木、越中、ヒロ斉藤、AKIRA、蝶野、藤波(撮影・横山健太)

<プロレスリング・マスターズ:後楽園大会>◇28日◇東京・後楽園ホール

新型コロナウイルス感染拡大の影響でプロレス興行の中止、延期が相次ぐ中、武藤敬司(57)がプロデュースするプロレスリング・マスターズの大会が行われ、会場は熱狂に包まれた。

今回は武藤の師匠であるアントニオ猪木氏(77)のデビュー60周年記念大会。試合後に猪木氏がリングに上がり、さらに武藤、蝶野正洋、越中詩郎、藤原喜明、藤波辰爾、木村健悟、前田日明、木戸修、長州力と猪木氏の弟子にあたるレジェンドらが集結し、師匠をぐるっと囲んだ。

マイクを持った猪木氏は「元気ですかー!元気があれば、なんでもできる」と第一声。「ここに来る途中、いろんなことを考えました。60周年なんかオレ関係ねえのにな」と大会の目玉にされたことを笑いながら愚痴りつつも、「熱い声援をもらったら、人前に出ることは素晴らしいこと」と喜びを語った。

さらに周囲、観客の声に背中を押され、武藤、蝶野、前田、長州にビンタで闘魂注入。「がんばっていこうよ。これからのプロレスが世界に向けて勇気と希望を発信できるように」と1、2、3、ダー! のかけ声で大会を締めた。

毎回人気の大会とありチケットは事前に完売。だが、コロナウイルス感染拡大の影響により、直前に約300件のキャンセルがあり、入りは8割程度にとどまった。メインのタッグマッチのセコンドに入った蝶野は客席に向かって「おいい、お前ら! よくもぬけぬけと出てきたな」と話し、笑わせつつつも、大会開催を決めた武藤に「心からお礼申し上げる」と感謝した。

試合後、武藤は「ここ2、3日追い詰められてたので、(猪木氏に)ビンタをもらってうれしかった」と、開催するかどうか悩んだことを明かした。さらに「今回マスターズやらなかったら、次1人欠けるかもしれないから、必死でやったんだよ」と決行に至った理由をブラックジョークで説明。「今の時点ではやってよかった」と胸を張った。

前田(中央)に闘魂ビンタをするアントニオ猪木(右)。左から武藤、藤波(撮影・横山健太)
アントニオ猪木(左から4人目)からの闘魂ビンタを嫌がる長州(同2人目)を無理矢理引っ張り出す蝶野(左)と武藤(同3人目)。右は前田(撮影・横山健太)

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天龍、藤波、長州らが「日本プロレス殿堂会」発足

日本プロレス殿堂会発足会見で記念撮影する、左から天龍源一郎、藤波辰爾、長州力(撮影・浅見桂子)

天龍源一郎(70)、藤波辰爾(66)、長州力(68)らが20日、都内で会見し「日本プロレス殿堂会」の発足を発表した。日本プロレス界の発展に貢献した選手の功績を後世に伝え、引退した選手支援のために立ち上げられた。

初期メンバーは3人に、故ジャイアント馬場さん、アントニオ猪木氏を加えた5人。今後、会独自の選考基準をクリアした選手が殿堂に加入していく予定。15年に米WWE殿堂入りした藤波は「日本にもできたらという思いが強かった。レスラー全員、ファンの願いでもある」と喜びを語った。

日本プロレス殿堂会発足会見で、笑顔で記念撮影する、前列左から天龍源一郎、藤波辰爾、長州力。後列左から嶋田紋奈、LEONA、池野慎太郎(撮影・浅見桂子)

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長州力「夢や希望与えた」猪木氏を国民栄誉賞に推薦

アントニオ猪木氏(右から2人目)に、ビンタを食らう長州力(左から2人目)。左奥は天龍源一郎、右は藤波辰爾(撮影・浅見桂子)

長州力(68)が20日、77歳の誕生日を迎えたアントニオ猪木氏こそ国民栄誉賞にふさわしいとたたえた。

都内で開いた「日本プロレス殿堂会」発足会見の中で、昔と今のプロレスの違いに言及しつつ「いつの時代のプロレスも、1つ同じことが言えるのは、夢を与えているんじゃないかと思いますね。元気を与えているんじゃないかと」と変わらぬ魅力を語った。

そこから「話はちょっとそれちゃいますけど」と話題は国民栄誉賞へ。「日本の国民栄誉賞は、なぜアントニオ猪木がもらえないのかな、といつも不思議ですね」と疑問を呈した。

「これほど有名で、若者にも夢や希望を与えた。(ジャイアント)馬場さんが健在でしたら馬場さんも。アントニオ猪木が健在のうちに、そういう話があがってほしいなと思いますね。いちアスリートをやっていた感覚からすれば、最近の国民栄誉賞は何の基準でいただけているのか、分からないですね。メダルを取れば、記録を伸ばせば国民栄誉賞なのかな。夢や力を与えている、そういう人物がいてもいいんじゃないかなと思うんですけどね」と意見を堂々と語った。

アントニオ猪木氏(左から2人目)に、長州力(右)が何やら急に訴え、藤波辰爾(右から2人目))に阻まれる。左は天龍源一郎(撮影・浅見桂子)
「アントニオ猪木の喜寿を祝う会」で、古舘伊知郎アナウンサー(左)の呼び込みで登場したアントニオ猪木氏(中央)(撮影・浅見桂子)

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タイガー服部「もう時間」レフェリー生活44年で幕

引退セレモニーでオカダ(左)から花束を受け取り労われるタイガー服部レフェリー(撮影・河田真司)

タイガー服部(74)が44年のレフェリー生活に幕を下ろした。

19日、新日本プロレス後楽園大会のセミ、メイン2戦を裁き、メイン後の引退セレモニーでは10カウントゴング、胴上げで送られた。

76年に米国でレフェリーデビュー。以来、95年北朝鮮・平壌でのアントニオ猪木-リック・フレアー戦、99年1月4日の橋本真也-小川直也戦などプロレス史に残る数々の試合を裁いてきた。

優秀な海外選手を招くなど、コーディネーターとしても新日マットを支えた。レフェリーが引退試合を行うのは異例。それだけ選手からの信頼は深かった。

セレモニーには、ザ・グレート・カブキ、馳浩、武藤敬司、長州力ら豪華ゲストが来場。天龍源一郎、アントニオ猪木からはビデオメッセージが届き、猪木氏からは「長い間本当にご苦労さまでした」とねぎらわれた。

会場は1600人の超満員。マイクを取った服部レフェリーは「コロナという不気味なものに負けないで、これだけたくさん来られて感謝しております」とまずあいさつ。

そして、「自分はこのユニークなスポーツに出会えて、一生プロレスというものを愛し、だけど自分の人生という感じがします。素晴らしいことも友情もいろいろありますが、裏切りもあります、悲しいこともあります。まるで自分の人生みたいな感じがします」とプロレスと自分の人生を重ねた。

選手、スタッフ、ファンに感謝を述べ、「こういう思い出は一生忘れないように頭の中に刻んで生きていきたいと思います」と目を潤ませた。10カウントゴングの後、米国時代の盟友、故マサ斎藤さんの入場テーマが流れる中、選手らに胴上げされた。

レフェリーとしての哲学は「選手を邪魔しない。無駄な場所にいないこと」。それがうまくできなくなったため、「もう時間だな、と思って」と自ら引退を決めた。

最後の3カウントをたたき、「やり切った感があった。燃え尽きました」。1年新日本との契約を延長し、米国での興行、イベントを裏方で支える予定だ。

【高場泉穂】

引退セレモニーでタイガーマスク(左)と握手を交わすタイガー服部レフェリー(撮影・河田真司)
後藤(右奥)にオコーナーブリッジを仕掛けるSANADA(手前右)にカウントをとりにかかるタイガー服部レフェリー(撮影・河田真司)
タイガー服部レフェリー(中央)引退セレモニーでリングに上がり写真に納まる、左から武藤敬司、長州力、1人おいてザ・グレートカブキ、馳浩(撮影・河田真司)
引退セレモニーでアントニオ猪木のサプライズビデオメッセージを見つめるタイガー服部レフェリー(右)(撮影・河田真司)

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長州力、引退中西に「馳とスカウト…寂しくなる」

長州力

引退発表した新日本プロレス中西学(52)の専大レスリング部の先輩でもある長州力(68)が7日、日刊スポーツにコメントを寄せた。

「少し驚きました! 今年になりライガーもリングから降りまさか中西もかと寂しくなりますね。馳と2人でスカウトしたのを、つい先日のように思い出してしまいます! 本当にお疲れさまでしたね! 新日本ではただ1人のパワーファイターでしたね。練習も本当によくやってました! 怪我もして苦しい思いもしたでしょう! 中西本当にお疲れ様でしたね!よく頑張りましたよ!(原文ママ)」

中西は専大卒業後、和歌山県教育庁に就職。だが、専大レスリング部先輩の長州力、馳浩にスカウトされ、91年新日本プロレス内のレスリング部「闘魂クラブ」入り。社員として働きながら92年バルセロナ五輪フリースタイル100キロ級に出場し、同年8月に新日本プロレスに入団した。09年にIWGPヘビー級王座を初戴冠したが、11年6月、試合中に首の脊髄を損傷。翌12年10月に復帰を果たしたが、トップ戦線からは遠ざかっていた。

会見で引退を発表した中西学は瞳を潤ませる(撮影・垰建太)

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レスラー&和泉市議員のスペル・デルフィンは今は?

プロレスラーと和泉市議で活躍するスペル・デルフィン(撮影・横田和幸)

プロレスラーと大阪府和泉市議で活躍するスペル・デルフィンは今-。引退する獣神サンダー・ライガーへの思いも独白

プロレスラーのスペル・デルフィン(本名・脇田洋人=52)は、沖縄プロレス社長の肩書を持ち、2012年に大阪・和泉市議に初当選して現在2期(8年)目を務めている。

最大会派の明政会に所属し、定数24の市議の中でスポーツ振興などを所管する厚生文教委員会、市議会だよりを作成する広報広聴委員会などを兼務する。現役プロレスラーながら「先生」として精力的に活動する。

大阪府の南西部に位置する和泉市は、かつてベッドタウンとして発展し、現在の人口は約18万6000人。大阪プロレス時代に多く取材した記者だが、市議の姿は初めて見ることになる。市役所内の1室に覆面姿で登場したデルフィンは、以前と何も変わらない笑顔で和泉市と現在の自分について口を開いた。

「和泉市って全国的にはもちろん、たぶん関西でもいまいち知られていない。堺、岸和田市の隣、関西空港の近くとしか形容されないんと違いますか。いまだにどこにあるの? と言われる。言われないためには観光名所を作るとか、インバウンド(訪日旅行)を誘致するしかない。そのためにスポーツや芸術面に力を入れてます。特にスポーツの分野では他の議員に勝てる自信があります」

例えばこの任期中、プロ野球オリックスのホーム試合で「和泉市民観戦デー」の開催にこぎつけた。泉北高速鉄道の和泉中央駅には漫画家松本零士氏、弘兼憲史氏の協力でそれぞれのキャラクター漫画の銅像を設置。元ボクシング世界王者長谷川穂積氏を招いての講演会を市内の小学校で開いた。すべて自らの人脈で実現させた。

そもそも政治家の道を志した理由は何だったのか。潜在意識の中には、やはり国会議員となったアントニオ猪木らの存在が大きかったようだ。元々はプロレスでファンを笑顔にするのがライフワークだった。そこに政治との共通点を見つけた。政治で市民に喜んでもらいたいという結論に行き着いた。

「レスラーってリング上でマイクパフォーマンスすることが多い。試合の興行の宣伝で街でチラシを配ったり、宣伝カーを走らせる。政治家は議場でしゃべり、選挙カーで街頭演説をする。動き自体は似てるでしょ。プロレスは日本人だけでなく、外国人にも通用する強いツール。プロレスをやりながら和泉市をアピールしたいと思ったんです」

幸いなことに、市議としてマスク着用が最初から許可された。実は素顔で活動する覚悟はあったが、会派代表者会議で許された。例えばマスク姿で各地の市役所に出向く。すると必ず熱烈なファンがいてくれ、そこから話題が広がる。プロレスの力を改めて感じるという。

一部の市議らが私的に使い込んで社会問題化した政務活動費についても聞いた。和泉市の政務活動費は、月に7万円(年間84万円)と定められている。一括で受け取るのではなく、42万円を2回に分けて支給される。

「これは今、厳しいんですよ。自宅からマイカーで市役所に通うガソリン代も議会がある時は出ない。議会がない時は出る。議会がある時は議員活動だからあかん、政務活動はいいよと。ややこしいでしょ。ちょっとでも間違えてたら指摘されますよ。交通費でも厳しく制限されてます」

政界に身を投じて最も大きな変化は、やはり金銭面だったという。プロレスラーという職業は極めて不安定だ。メジャー団体の所属選手でない限り、1試合でギャラは1万円、場合によっては数千円程度。試合がなければ収入はない。デルフィンは99年から務めた大阪プロレス社長時代、経営者として苦しんだ。

「今、議員になって人生で初めて固定給をもらえている。ボーナスも初めてもらえた。プロレスラーとどっちがええんやと言われたら、うーん…。プロレス経営でもうかっていたらええけど、ひーひー苦労しながらやっていた。大阪プロレス時代はちゃんと選手に給料を払ってましたけど、逆に僕はもらっていなかった。市議は任期4年間は安心でも、それ以降は選挙があって大変な目にあう。比較は難しいですね」

今回の取材の目的はもう1つあった。来年1月、デルフィンが尊敬してやまない獣神サンダー・ライガー(新日本)が55歳で現役を引退するからだ。デルフィンといえば1994年6月、新日本の大阪府立体育会館大会のメインでライガーとのシングルマッチが実現した。

ジュニアの最強を決めるトーナメント「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」の優勝決定戦で対戦し、当時地方団体みちのくプロレス所属で、名前がさほど知られていなかったデルフィンが、ライガーと歴史に残る一戦を展開した。18分27秒、最後は惜しくも敗れたが、巧みな技や華麗な空中戦にファンは酔いしれた。これが俗にいうデルフィンの出世試合。記者も魅了された1人だ。

「あの試合は人生のターニングポイント。いまだにあれを見てファンになったと言ってもらえる。レスラーとして成功させていただいた試合。あれがあったからこそ全国で試合をさせてもらい、議員にもなれた。新日本とライガーさんには感謝しています」

当時、絶頂の人気を誇った長州力や闘魂三銃士らを差し置いてメインを飾るなど難しく、ヘビー級ではなくジュニアの認知度は決して高くはなかった。その恩人の引退が迫ってきた。

「ライガーさんは山口百恵みたいに、いいときにやめるという考え。動ける時にやめるのは大賛成だし、格好悪いライガーは見せたくないんでしょう。僕はみなさんに喜んでもらえれば、体が動く限りやります」

現在の生活に占めるプロレスと市議の割合を表してもらうと、即座に「1対9」という返答があった。

「市議って副業は大丈夫だけどプロレスに特化していたら、市議として何をしとるという批判になる。議会には100%出ないといけない。ずる休みとかありえないし、風邪をひいても骨折してもいかなければならない。僕への反対意見があったり、嫌なことももちろんある。でも、すべて自己責任による『やりがい』がある。とにかく和泉市のために頑張りますよ」

取材後、素顔のデルフィンと市役所の近所に昼食へ出かけた。素顔を知られていないから、市民から声をかけられることもない。「この時間は唯一、気楽なんですわ」。覆面レスラーの特権を楽しむ余裕が、今は少しできたようだ。【横田和幸】

◆スペル・デルフィン(本名・脇田洋人=わきた・ひろと)1967年(昭42)9月22日、大阪・和泉市生まれ。21歳の時、オランダでプロレスデビュー。FMW、ユニバーサル、みちのく、大阪を経て沖縄プロレスに。172センチ、80キロ。家族は夫人のタレント早坂好恵と1女。

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新日本、タイガー服部レフェリー引退記念大会開催へ

タイガー服部レフェリー

新日本プロレスは29日、20年2月19日にタイガー服部レフェリー(74)の引退記念試合を後楽園ホールで行うと発表した。

タイガー服部レフェリーは、元レスリング選手で67年世界選手権バンタム級優勝。明大卒業後に渡米し、プロレスラーの指導やレフェリーを経験した後、82年に新日本入団。84年に長州力とともにジャパンプロレスを設立。90年代は新日マットに戻り、数々の名試合を裁いた。今年9月の新日本ニューヨーク大会では米国最後のレフェリングをし、セレモニーも行われた。

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初代王者は杉浦 エルガン下しノア新設タイトル奪取

勝利した杉浦はファンとハイタッチしながら花道を歩く(撮影・大野祥一)

<ノア:両国大会>◇2日◇両国国技館

プロレスリングノアの新設タイトル、GHCナショナル選手権が行われ、杉浦貴(49)がマイケル・エルガン(32)を下し、初代王者となった。

リング上で親会社リデット・エンターテイメントの長州力会長から「お前、がんばったよ」の激励の言葉とともに真新しい赤いベルトを渡され、そのまエルガンとも抱擁。健闘をたたえ合った。

元新日本で現在米団体インパクト・レスリングを主戦場にするエルガンが、長年憧れ続けたのが、日本のプロレス、とりわけノアのリングだった。そんなノア愛あふれるエルガンと生え抜き杉浦の初対戦は予想通りの熱戦となった。肉弾戦で互いに力を消耗した後、激しいエルボーの打ち合いへ。そこから杉浦は五輪予選スラムで巨体のエルガンを放り投げる。原爆固めを返されると、再び五輪予選スラムを決め、21分35秒で勝負を決めた。

杉浦は「(自分を研究していると)非常に感じた。日本のプロレスをよく理解している」とエルガンを称賛。「かっこいいね」と日の丸があしらわれた新ベルトを気に入った様子で「このベルトを使って、もう1つのベルトを巻いているチャンピオンにプレッシャーをかける。それで団体がよくなっていけば」。GHCヘビー級王座に負けない価値を付けていくとした。

杉浦貴対マイケル・エルガン タックルする杉浦(右)(撮影・大野祥一)

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