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キーウ市長のクリチコ氏も、那須川天心が目指すキック出身のボクシング世界王者は名選手ぞろい

前日計量をパスし、ポーズを決める那須川(撮影・江口和貴)

無敗を誇った人気格闘家・那須川天心(24=帝拳)が8日、プロボクシングデビューを果たす。

東京・有明アリーナで行われるスーパーバンタム級6回戦で、日本バンタム級2位の与那覇勇気(32=真正)と対戦する。

那須川は2月9日にB級(6回戦)のプロテストを受けて合格した。通常アマチュア経験のない選手はC級(4回戦)の受験になるが、那須川はプロ格闘家としての実績が認められて、飛び級でのデビューで、いきなり日本ランカーとの対戦となる。

那須川が目指すキック出身のプロボクシング世界王者は、現キーウ市長で元WBC、WBO世界ヘビー級王者のビタリ・クリチコ(ウクライナ)をはじめ名王者も多い。以下はキックボクシングから転向した主なプロボクシング世界王者。

◆センサク・ムアンスリン(タイ) ムエタイのスーパーライト級王者として無敵を誇り、74年11月のプロボクシング転向初戦で世界ランカーに初回KO勝ち。8カ月後の3戦目にWBC世界スーパーライト級王者ペリコ・フェルナンデス(スペイン)を8回KOで撃破して世界王座奪取。3戦目での世界王座奪取は今も最短記録。通算8度防衛に成功。

◆サマート・パヤクアルン 80年代にムエタイでミニマム級からフェザー級までの4階級を制覇。82年にプロボクシング転向。86年にWBC世界スーパーバンタム級王者ルペ・ピントール(メキシコ)に5回KO勝ちして世界王座獲得。2度目の防衛に失敗して、88年に引退も93年に復帰。世界再挑戦したが失敗した。

◆ジェームズ・ワーリング キックボクシングで83年にWKAクルーザー級王座、84年にFFKAスーパーヘビー級王座を獲得。85年にプロボクシング転向。91年9月にIBF世界クルーザー級王者ジェームス・プリチャード(米国)を当時世界最速の初回36秒でKOして世界王座奪取。2度防衛に成功した。97年の引退後はK-1のリングにも上がった。

◆ウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ) ムエタイで3階級制覇した後、94年12月にプロボクシングデビュー。翌95年9月に4戦目でダオルン・チュワタナ(タイ)に判定勝ちしてWBC世界バンタム級王座を獲得。初防衛戦で敗れたが、98年12月に辰吉丈一郎に6回KO勝ちして同王座に返り咲いた。同王座は長谷川穂積に敗れるまで14度防衛した。

◆ビタリ・クリチコ(ウクライナ) 17歳でキックボクシングデビュー。93年には全日本キックボクシングの興行で来日して勝利を収めた。その後、ボクシングに転向して95年世界選手権スーパーヘビー級で銀メダル。96年にプロ転向。99年6月にハービー・ハイド(英国)からWBO世界ヘビー級王座奪取。3度目の防衛戦で敗れたが、その後、WBC王座を2度獲得した。現在はキーウ市長。

前日計量前に体重を確認した後、水分補給する那須川(撮影・江口和貴)
前日計量前に体重を確認する那須川(撮影・江口和貴)
前日計量を終え、写真に納まる那須川(左)と与那覇(撮影・江口和貴)
前日計量をパスし、ポーズを決める那須川(撮影・江口和貴)
前日計量を終え、写真に納まる那須川(左)と与那覇(撮影・江口和貴)
前日計量を終え、フェイスオフする那須川(左)と与那覇(撮影・江口和貴)
前日計量を終え、フェイスオフする那須川(左)と与那覇(撮影・江口和貴)
前日計量の体重確認前に水分補給する那須川(撮影・江口和貴)
ダブル世界戦会見で記念撮影を終え、引き揚げる那須川(左)と対戦相手の与那覇。背景に飾られた巨大ポスターでは、那須川の写真が真ん中でいちばん大きく配置されていた(撮影・狩俣裕三)
ボクシング初陣に向け、意気込みを語る那須川(手前)。右は対戦する与那覇(撮影・狩俣裕三)
ボクシング初陣で対戦する与那覇(右)と記念撮影する那須川(撮影・狩俣裕三)

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昨年11月に他界の父に届け!永田丈晶がプロ5戦目で日本フライ級王座を奪取

ベルトを肩に勝ち名乗りを受ける永田(撮影・小沢裕)

<ボクシング:日本フライ級王座決定10回戦>◇1日◇東京・後楽園ホール

日本フライ級7位永田丈晶(25=協栄)がプロ5戦目で同級王座を獲得した。昨年4月に世界挑戦も経験した同級1位山内涼太(28=角海老宝石)と日本ベルトを懸けて争い、3-0(96-94×3)の判定勝利で新王者となった。無尽蔵のスタミナで動き回り、的確に左ストレート、左ボディーストレートをヒットさせ、パンチの破壊力を持つ山内との打ち合いを制した。

プロでの実績、経験、ランキングで上回る山内を下した永田は「こんなに早くチャンスをいただけた。(山内は)マジでパンチが強くて、ガードの上からもらっても強いと感じた。ただ自分のボクシングを貫くことができて、相手のスタミナを削れることができた」と想定通りの試合運びができたと明かした。

高校時代に国体を制覇し、中大でもボクシング部に在籍。大学卒業と同時に競技を辞め、求人の広告会社に入社した。アマ時代に対戦し、勝っていた「ミライモンスター」松本圭佑、アマ8冠の中垣龍汰朗(ともに大橋)のプロでの活躍に触発され、会社近くにある協栄ジムに入門。プロデビューから格上相手、アウェーでも勝利を重ね、気がつけば日本ランキング入りしていた。WBA世界同級1位ユーリ阿久井政悟(倉敷守安)の日本同級王座返上後、他の上位ランカーの試合間隔や負傷状況、次戦決定などで巡ってきた挑戦権をすぐに受諾した。

毎試合、リングサイドで応援してくれた父勝之さんが、昨年11月、大動脈破裂のため、55歳で亡くなった。3~4歳から空手をはじめ、高校からボクシングを開始。その永田のそばには常に父がいたという。「おやじがいたから、ボクシングを続けてこれた。今日もリングサイドで応援してくれていると思う。おやじのおかげでチャンピオンになれたと思う」と感慨深げ。腰に日本王座ベルトを巻き、その姿を亡き父に届けるようにガッツポーズしていた。

3回、山内(左)に右アッパーを放つ永田(撮影・小沢裕)
8回、山内涼太(左)に右パンチを放つ永田(撮影・小沢裕)

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WBOミニマム級王者黒木優子初防衛、ダイレクトリマッチで前王者に判定勝ち 真正ジム移籍も表明

勝利者インタビューに応じる王者黒木優子

<プロボクシング:WBO女子世界ミニマム級タイトルマッチ10回戦>◇30日◇東京・後楽園ホール

WBO女子世界ミニマム級王者黒木優子(32=YuKOフィットネス)が初防衛に成功した。前王者鈴木菜々江(30=シュウ)の挑戦をダイレクトリマッチで受け、3-0(96-94×2、97-93)の判定勝利を収めてベルトを守った。

左ストレート、左アッパーを軸に突進する鈴木と接近戦で打ち合った。昨年9月では軽快な動きで鈴木のスタミナを削りながら左ストレートを打ち込んでいたが、今回は足を止めながら左をねじ込もうとするシーンが目立った。

黒木は「倒したい気持ちが強く狙いすぎた。しっかりと足を使って倒せるようになりたい。防衛できたので、反省点を次に生かしたい」と次なるリングを見据えた。

所属ジムがリニューアルされることを受け、真正ジムに移籍することを表明した。昨年5月から同ジムの山下正人会長から本格的なボクシング指導を受けてきた関係をさらに強固する。23年は拠点のある福岡よりも、真正ジムの神戸に滞在している期間が長くなっていたという。

黒木は「試合は山下会長にマッチメークしてもらい、いろいろな選手と戦っていきたい。決まった試合をやって最終的には統一王者になりたい」との野望を掲げていた。

前王者鈴木菜々江(左端)を判定で下し、初防衛に成功したWBO女子世界ミニマム級王者黒木優子(右端)

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キーウ市長のクリチコ氏も…那須川天心が目指すキック出身のボクシング世界王者は名選手ぞろい

試験後に会見を行いポーズする那須川(撮影・中島郁夫)

無敗を誇った人気格闘家でプロボクシング転向を表明していた那須川天心(24=帝拳)が9日、東京・後楽園ホールでB級(6回戦)のプロテストを受けて合格した。通常アマチュア経験のない選手はC級(4回戦)の受験になるが、那須川はプロ格闘家としての実績が認められて、飛び級での受験となった。

那須川が目指すキック出身のプロボクシング世界王者は、現キーウ市長で元WBC、WBO世界ヘビー級王者のビタリ・クリチコ(ウクライナ)をはじめ名王者も多い。以下はキックボクシングから転向した主なプロボクシング世界王者。

◆センサク・ムアンスリン(タイ) ムエタイのスーパーライト級王者として無敵を誇り、74年11月のプロボクシング転向初戦で世界ランカーに初回KO勝ち。8カ月後の3戦目にWBC世界スーパーライト級王者ペリコ・フェルナンデス(スペイン)を8回KOで撃破して世界王座奪取。3戦目での世界王座奪取は今も最短記録。通算8度防衛に成功。

◆サマート・パヤクアルン 80年代にムエタイでミニマム級からフェザー級までの4階級を制覇。82年にプロボクシング転向。86年にWBC世界スーパーバンタム級王者ルペ・ピントール(メキシコ)に5回KO勝ちして世界王座獲得。2度目の防衛に失敗して、88年に引退も93年に復帰。世界再挑戦したが失敗した。

◆ジェームズ・ワーリング キックボクシングで83年にWKAクルーザー級王座、84年にFFKAスーパーヘビー級王座を獲得。85年にプロボクシング転向。91年9月にIBF世界クルーザー級王者ジェームス・プリチャード(米国)を当時世界最速の初回36秒でKOして世界王座奪取。2度防衛に成功した。97年の引退後はK-1のリングにも上がった。

◆ウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ) ムエタイで3階級制覇した後、94年12月にプロボクシングデビュー。翌95年9月に4戦目でダオルン・チュワタナ(タイ)に判定勝ちしてWBC世界バンタム級王座を獲得。初防衛戦で敗れたが、98年12月に辰吉丈一郎に6回KO勝ちして同王座に返り咲いた。同王座は長谷川穂積に敗れるまで14度防衛した。

◆ビタリ・クリチコ(ウクライナ) 17歳でキックボクシングデビュー。93年には全日本キックボクシングの興行で来日して勝利を収めた。その後、ボクシングに転向して95年世界選手権スーパーヘビー級で銀メダル。96年にプロ転向。99年6月にハービー・ハイド(英国)からWBO世界ヘビー級王座奪取。3度目の防衛戦で敗れたが、その後、WBC王座を2度獲得した。現在はキーウ市長。

筆記試験を受験する那須川天心(撮影・中島郁夫)
筆記試験を受験する那須川天心(撮影・中島郁夫)
筆記試験を受験する那須川天心(撮影・中島郁夫)
バンタム級1位の南出(左)とスパーリングを行う那須川(撮影・中島郁夫)
バンタム級1位の南出(左)とスパーリングを行う那須川(撮影・中島郁夫)
バンタム級1位の南出(左)とスパーリングを行う那須川(撮影・中島郁夫)
バンタム級1位の南出(左)とスパーリングを行う那須川(撮影・中島郁夫)
バンタム級1位の南出(右)とスパーリングを行う那須川(撮影・中島郁夫)
試験後に会見を行いポーズする那須川(撮影・中島郁夫)
試験後に会見を行いポーズする那須川(撮影・中島郁夫)
合格証書を手にポーズを決める那須川(撮影・中島郁夫)
父・弘幸氏(右)と記念撮影する那須川(撮影・中島郁夫)
計量をパスしてポーズする那須川天心(撮影・中島郁夫)
筆記試験の合格を父・弘幸氏(右)に報告する那須川(撮影・中島郁夫)
リングの感触を確認する那須川天心(撮影・中島郁夫)
リングの感触を確認する那須川天心(撮影・中島郁夫)
計量の準備をする那須川天心(撮影・中島郁夫)
後楽園ホール入りした那須川天心(撮影・中島郁夫)

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【ノア】グレート・ムタ魔界伝説「完」技術や身体能力だけでないプロレスのあり方“語り尽くす”

試合後、卒塔婆に白使の血で「完」の文字を記すグレート・ムタ。後方はスティング(撮影・垰建太)

<プロレスリング・ノア:横浜大会>◇22日◇神奈川・横浜アリーナ

2月の東京ドーム大会で現役引退する武藤敬司(60)が代理人を務める「悪の化身」グレート・ムタが22日、プロレスリング・ノア横浜アリーナ大会で最後のリングに上がった。

盟友のスティング(63)らと夢タッグを結成し、6人タッグマッチに出場。最後は22分23秒、閃光妖術(せんこうようじゅつ)を白使に決めて勝利した。89年に米国で誕生してから34年。ムタが現世にさよならを告げた。

    ◇    ◇    ◇

魔界伝説が完結した。90年9月に首都圏初登場した思い出の地、横浜アリーナ。ムタはその花道で、さまざまな感情が入り交じった最後の毒霧を天に向かって噴射した。96年の新日本東京ドーム大会で凄惨(せいさん)な戦いを繰り広げた白使から、閃光妖術からの体固めで3カウント。試合後に白使の卒塔婆にしたためた文字は「完」だった。

トップヒールでありながらヒーローだった。代理人の武藤は振り返る。「ムタって良い試合をそんなにたくさんやっているわけじゃない。見せ場が入場だけで終わるような試合もいっぱいだった」と。それでも、誰よりも愛された。

技術や身体能力だけでは語れない、唯一無二の存在。何もしゃべらずも、プロレスのあり方をリング上で語り尽くした。「協調性ばかりじゃなくて人を引き付ける部分を磨いていくべきだと思う」(武藤)。後輩レスラーには心の中の「ムタ」を解き放って欲しいと願っている。

89年に米国で誕生。不気味なフェイスペイントと高い身体能力、毒霧攻撃などで一世を風靡(ふうび)した。90年に日本初登場を果たすと92年に新日本のIWGP、02年に全日本の3冠を獲得。96年の復活後はダース・ベイダーやジェイソンなど、試合ごとに変化するラバーマスクとコスチュームでも絶大な人気を誇った。

今年元日にはWWEのスーパースター中邑真輔との夢マッチも実現させた。これで魔界の門は閉じ、武藤も2月で去る。「バイバイ。エブリバディー」と短く締めくくった。それでもムタが放った毒霧は、永久にプロレス界を包み込んでいる。【勝部晃多】

引退試合を終え花道を引き揚げるグレート・ムタは振り返り最後の毒霧を吐く(撮影・垰建太)

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【ノア】グレート・ムタ、ラストマッチは白使を閃光妖術で沈める 卒塔婆には血文字で「完」

試合に勝利したグレート・ムタは「毒霧」を披露し会場を後にした(撮影・たえ見朱実)

<プロレスリング・ノア:横浜大会>◇22日◇神奈川・横浜アリーナ

魔界の門が閉じた。2月の東京ドーム大会で現役引退する武藤敬司(60)が代理人を務める「悪の化身」グレート・ムタが、思い出の地、横浜でのラストマッチを行った。

90年代にWCWで抗争を繰り広げた最大のライバルにして盟友のスティング(63)、AEWのトップレスラー、ダービー・アリン(30)と夢タッグを結成。白使、AKIRA、丸藤組と6人タッグマッチで対戦し、22分23秒、スティング、アリンの連係アシストを受け、閃光(せんこう)妖術で白使を沈めた。

89年に米国で誕生してから34年。最後は、花道でさまざまな感情が入り交じった緑色の毒霧を天に噴射。ムタが現世にさよならを告げた。

96年4月の新日本プロレス東京ドーム大会、白使戦。凄惨(せいさん)なファイトの末に卒塔婆に「死」と書き込んでトップヒールの神髄を示した、あの伝説の一戦をほうふつとさせる激しい戦いとなった。白使の使者から卒塔婆を奪い取って真っ二つに破壊すると、白使の額に突き刺した。ドラゴンスクリュー、閃光(せんこう)妖術を乱れ打ち。逆襲を受ける場面もあったが、パートナーに救出されて勝利を収めた。

だが、あの日とは違った。マットに大の字になった額から血を拭い取り、白使が持ち込んだ卒塔婆にムタが書き込んだ文字は「完」だった。バックステージでは「バイバイ、エブリバディー。ノーモアームタ。グッバイ」と短く締めくくった。

閃光妖術を白使(右)に見舞うグレート・ムタ(撮影・たえ見朱実)

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アントニオ猪木戦ではムタワールドに引きずり込むも逆転負け/ムタ名勝負VTR

新日本マットで闘うムタとホーガン=1993年5月3日

2月の東京ドーム大会で現役引退する武藤敬司(60=プロレスリング・ノア)が代理人を務める「悪の化身」グレート・ムタが22日、最後のリングに上がる。

舞台は90年9月に首都圏初登場した神奈川・横浜アリーナ。最大のライバルにして盟友のスティング、アリン(ともにAEW所属)と組み、白使(新崎人生)らと6人タッグマッチで対戦する。89年の衝撃から34年。ムタが現世にさよならを告げ、魔界に帰還する。

▽ムタの名勝負

◆ハルク・ホーガン戦(93年5月3日=新日本・福岡ドーム)ホーガンが8年ぶりに来日し、世界中のファン垂ぜんのドリームマッチが実現。WWF世界ヘビー級王者とIWGPヘビー級王者の日米トップ対決は激闘を演じるも、最後はホーガンのアックスボンバーに沈む。

◆ザ・グレート・カブキ戦(93年6月15日=新日本・日本武道館)WAR日本武道館大会に続き、2カ月連続で全米トップヒール同士の「史上最狂親子対決」が実現。スリーパーに捕獲されて毒霧を吹きながら失神した前戦の屈辱を、大流血戦で晴らした。

◆アントニオ猪木戦(94年5月1日=新日本・福岡ドーム)猪木の引退ロード第1戦で対戦。ゴング前から緊張のにらみ合いを展開。猪木を場外に連れ出すと、花道上でブレーンバスターから花道ダッシュでラリアットをさく裂。ムタワールドに引きずり込むも、最後は魔性のスリーパーからの抑え込みで逆転負け。

◆新崎人生戦(96年4月29日=新日本・東京ドーム)終始自身のペースで試合を運び、毒霧からの月面水爆で勝利。新崎の卒塔婆をへし折り、血で「死」と記すなどトップヒールとしての凶悪さを誇示した。

◆グレート・ニタ戦(99年8月28日=新日本・神宮球場)「ノーロープ有刺鉄線バリケードマット時限装置つき電流地雷爆破ダブルヘルデスマッチ」で行われた魔界対戦。電流爆破に苦戦も、最後は鎌で脳天を一突きし、3カウント奪取。ニタは爆死し、棺おけで眠りについた。

ザ・グレート・カブキ(左)の額にかみ付くグレート・ムタ=1993年6月15日
アントニオ猪木(下)をロープ越しに攻めるグレート・ムタ=1994年5月1日
対戦する新崎人生とグレート・ムタ=1996年4月29日
グレート・ムタ(左)に有刺鉄線に投げられ被爆するグレート・ニタ=1999年8月28日

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「悪の化身」グレート・ムタ89年グレート・カブキの息子として初登場/ムタの経歴&アラカルト

丸藤(左)に毒霧攻撃を浴びせるグレート・ムタ(2019年11月2日撮影)

2月の東京ドーム大会で現役引退する武藤敬司(60=プロレスリング・ノア)が代理人を務める「悪の化身」グレート・ムタが22日、最後のリングに上がる。舞台は90年9月に首都圏初登場した神奈川・横浜アリーナ。最大のライバルにして盟友のスティング、アリン(ともにAEW所属)と組み、白使(新崎人生)らと6人タッグマッチで対戦する。89年の衝撃から34年。ムタが現世にさよならを告げ、魔界に帰還する。

▽ムタの経歴・特徴アラカルト

◆初登場 89年4月、米国でグレート・カブキの息子として初登場。NWAからWWCを経て活躍。毒霧殺法で世界的ヒールレスラーとして人気を集める。

◆世界での活躍 ムタの前身スーパー・ブラック・ニンジャが88年5月にWWCプエルトリコ王座を獲得。89年4月、ムタとして米国で初登場。90年5月に日本初上陸。92年に新日本のIWGP、02年に全日本の3冠を獲得。93年には蝶野からNWA王座を奪取。カナダでは00年8月のWCW大会に出場し、バンピーロとのタッグでWCWタッグ王座を獲得。

◆コスチューム 96年の復活から、試合ごとに衣装が変化するのが魅力の1つに。02年にペイントからマスクマン化。基本の忍者風からダース・ベイダー、パイレーツなどバリエーションは豊富。

◆毒霧 89年に米国NWAで初登場したころから定番化。リングイン後間もなくの威嚇や、試合終盤に流れをつかむ手段として用いる。色は主に緑、赤を使用。過去には「聖水」と称して透明のものも。

◆反則攻撃 場外での鉄さく、鉄柱、いすを利用した攻撃は当たり前。頭部などにかみつき、大量の出血に追い込むのも定番。試合中に突然リング下に潜り込み、相手をかく乱する。客から武器になりそうなものを強奪することも。04年6月に本間を、21年8月に清宮を車ではね飛ばした。

◆欠場 21年8月に新型コロナ濃厚接触者の疑いで大会を欠場。

入場するグレート・ムタ(1990年9月7日撮影)
長州力(下)の顔面を狂気に満ちた表情で掴みかかるグレート・ムタ(1992年8月16日撮影)

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雪平莉左&天野麻菜の人気ラウンドガールコンビがリング彩った 鮮やかレッドコスチュームで登場

フェニックスバトルでラウンドガールを務める雪平莉左(撮影・野上伸悟)

<プロボクシング:フェニックスバトル96大会>◇10日◇東京・後楽園ホール◇日刊スポーツ新聞社後援

大橋ボクシングジム主催興行となるフェニックスバトル96大会、グラビアアイドルとして活動する雪平莉左(28)、「ビール好き女子」天野麻菜(31)の人気コンビがラウンドガールを務めた。

セミファイナルのスーパーフライ級8回戦となる豊嶋海優(大橋)-ゴー・ギチャン(韓国)戦の1回終了後からはラウンドガールとしてラウンドボードを持ってリングウォーク。会場に集まった観客に向け、手を振って対応。カメラマンの要望に応じ、7回TKO勝ちを収めた豊嶋と記念撮影にも参加した。

昨年11月から鮮やかなレッドのコスチュームとなった。メインイベントで組まれた「ミライモンスター」こと松本圭佑(大橋)のプロ7戦目のリングも華やかに彩っていた。

フェニックスバトルでラウンドガールを務める雪平莉左(撮影・野上伸悟)
フェニックスバトルでラウンドガールを務める雪平莉左(撮影・野上伸悟)
フェニックスバトルでラウンドガールを務める天野麻菜(撮影・野上伸悟)
フェニックスバトルでラウンドガールを務める天野麻菜(撮影・野上伸悟)
フェニックスバトルでラウンドガールを務める天野麻菜(撮影・野上伸悟)
フェザー級8回戦で2回TKO勝ちしラウンドガールの天野麻菜(左)、雪平莉左(右)に祝福される松本(撮影・野上伸悟)
フェニックスバトルでラウンドガールを務めた雪平莉左(撮影・野上伸悟)
フェニックスバトルでラウンドガールを務めた雪平莉左(撮影・野上伸悟)
フェニックスバトルでラウンドガールを務めた雪平莉左(撮影・野上伸悟)
フェニックスバトルでラウンドガールを務めた雪平莉左(撮影・野上伸悟)
フェニックスバトルでラウンドガールを務めた雪平莉左(撮影・野上伸悟)
フェニックスバトルでラウンドガールを務めた雪平莉左(撮影・野上伸悟)
フェニックスバトルでラウンドガールを務めた雪平莉左(撮影・野上伸悟)
フェニックスバトルでラウンドガールを務めた天野麻菜(撮影・野上伸悟)

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後楽園ホールでお清め式 セレス小林会長「観客の声出しも可能になってくるのではないかと思う」

後楽園ホールの23年第1弾興行前にリング上で安全を祈願し、行われたお清め式。日本ボクシングコミッション、日本プロボクシング協会関係者が出席

プロボクシングの「聖地」となる東京・後楽園ホールで興行の安全を祈願したお清め式が10日、例年通りに執り行われた。

23年の後楽園ホール第1弾興行となるフェニックスバトル96大会前、日本プロボクシング協会、日本ボクシングコミッションの理事、関係者がリングに上がり、秘妙山・東京大黒殿の住職により、安全と発展が祈願された。

お清め式に出席した日本協会のセレス小林会長は「コロナも規制緩和されてきた。行政や会場の取り決めに従いながら、観客の声出しも可能になってくるのではないかと思う。ボクシング界が盛り上がる試合を提供し、今年も選手が大きなケガがないようコミッションと協力しながら安全管理に努めていきたい」と決意を新たにしていた。

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「ミライモンスター」松本圭佑が計量クリア 初メインへ気合丸刈り 井上尚弥、拓真とスパー経験

初メインイベントに向けて計量クリアした日本フェザー級3位松本圭佑(左)。右は対戦相手の浜口人夢

プロボクシング日本フェザー級3位の「ミライモンスター」松本圭佑(23=大橋)が自身初のメインイベントに向け、気合の丸刈りで計量クリアした。10日、東京・後楽園ホールで開催されるフェニックスバトル96大会で浜口人夢(28=市野)との同級8回戦を控える。9日には東京・文京区の日本ボクシングコミッションで計量に臨み、リミット57・1キロでクリア。対戦相手の浜口は500グラム少ない56・6キロでパスした。

23年の新春1発目となる所属ジム興行のメインイベンターを任された。松本は「(初メインは)うれしいという感情しかない。のびのびと自然体、ナチュラルに自分のボクシングを出せれば。急がずに、しっかりみていけば倒すポイントはあるので一気に仕留めたい」と口調を強めた。

若いアスリートらを応援するドキュメント番組のフジテレビ系の『ミライ☆モンスター』に中学3年から登場しており、そのまま愛称となっている。松本は「テレビにも出させてもらっていますが、普通の青年みたいでインパクトが少ないかなと。新年1発目ですし、イメチェンです」と丸刈りにした経緯を明かした。

元東洋太平洋フェザー級王者で大橋ジムのチーフトレーナーを務める父好二氏は、松本が試合前としては過去最長の約80回となるスパーリングを消化してきたと明かした。4団体統一バンタム級王者井上尚弥、元WBC世界同級暫定王者井上拓真とのスパーリングも多く含まれてるという。好二氏は「フィリピン人ともスパーリングしており、目先が違う相手とも実戦練習してきた。内容は良かったです」と手応えを示した。

デビューからプロ戦績は6勝全KOをキープしている。松本は「明日もKOでいければ。パーフェクトレコードを継続したい」と気合十分。昨年4月、約4年9カ月ぶりにリング復帰した浜口との対戦に向け、集中力を研ぎ澄ませた。

新春1発目で初メインイベントを務める日本フェザー級3位のミライモンスター松本圭佑は気合の丸刈りで計量クリア

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【WWE】アングル&スティーブンソン五輪金メダリスト合体 アングルの誕生日祝うミルクを噴射

五輪金メダルコンビで登場したカート・アングル(左)とガブレンダン・スティーブンソン(C)2022 WWE, Inc. All Rights Reserved.

<WWE:スマックダウン大会>◇9日(日本時間11日配信)◇米ペンシルベニア州ピッツバーグ・PRGペインツ・アリーナ

五輪レスリングの96年アトランタ大会フリースタイル男子100キロ級金メダリストのカート・アングル、20年東京大会フリースタイル男子125キロ級金メダリスト、ゲイブル(ガブレンダン)・スティーブンソンのゴールドメダリスト2人が緊急「合体」した。

9日に54歳の誕生日を迎えたアングルがおなじみの「You Suck!!(へなちょこ)」コールを浴びながら登場。大会エンディングでケーキやバルーンがセットされた自らのバースデー会のため金メダルを持ってリングに上がると「誕生日を祝ってくれてありがとう」とファンに感謝を伝えた。金メダリストの話を遮るようにチャド・ゲイブル、オーティスが姿をみせた。

元レスリング米国代表となるゲイブルから「俺たちは招待されてないぞ! 本当のオリンピックヒーローには来てほしくなかったんだな。もうリングから降りろ! 俺が誕生日会を終わりにすると言ったら、オーティスがケーキを食べてしまうからな」と威圧されると、アングルは仕方なくリングを降りた。しかしステージで立ち止まると「ケーキを食べるなら、たくさんミルクが必要だろ」と言い放つと、東京五輪金メダルのスティーブンソンが乗ったミルクトラックが到着。アングル、スティーブンソンはミルクボトルを次々とリングに投げつけた後、トラックにつながったホースからミルクを噴射してゲイブル、オーティスに“お仕置き”を展開。最後はアングルがスティーブンソンとリングに入り、ミルクをがぶ飲みしながら金メダリストコンビで誕生日をお祝いしていた。

チャド・ゲイブル(右写真左)、オーティス(同右)にミルクを噴射したカート・アングル(左写真左)とガブレンダン・スティーブンソンの五輪金メダルコンビ(C)2022 WWE, Inc. All Rights Reserved.

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冨田大樹、芝力人とドローに終わり反省「勝ったと思っていた。きっちり決着つけたい」再戦熱望 

冨田大樹対芝力人 引き分けに終わり悔しそうな表情を見せる芝(左)と冨田(撮影・前田充)

<ボクシング:日本ライトフライ級王座決定戦10回戦>◇4日◇エディオンアリーナ大阪◇観衆2500人

同級1位冨田大樹(25=ミツキ)、同2位芝力人(27=真正)の激突は決着つかずのドローに終わった。

ジャッジ1人が96-94で芝を支持も残る2人は95-95のイーブンの判定だった。

芝は「自分のレベルの低さ、だささ、情けない。それだけです」と敗者のようにうなだれた。冨田も「勝ったと思っていた。エンジンのかかりが遅い、スロースターターの部分が出てしまった」と反省した。

芝は南京都高(現・京都広学館)から近大で主将を務めた。一方、冨田は17歳でプロデビューと、歩んできた道は対照的だ。試合の発表会見で冨田は「自分は17歳でプロデビューして、アマエリートにはコンプレックスを持っている。たたき上げのエリートになりたいし、その強さを示したい」と言い、芝も「自分はエリートとは思っていない。成り上がっていくために勝つだけ。自分が(冨田に)負けているのはプロの戦績だけ。実力は上回っている」と舌戦を展開していた。

決着つかずに冨田は「もう1度、やれるならやりたい。きっちり決着をつけたい」と再戦を熱望した。プロモートした真正ジムの山下正人会長は「チャンピオンカーニバルの実行委員会に聞いてみないといけない」としながら、再戦には前向き。次こそは完全決着をつけるつもりだ。

冨田大樹対芝力人 7回、芝(左)の顔面にパンチを見舞う冨田(撮影・前田充)
冨田大樹対芝力人 7回、激しく打ち合う冨田(左)と芝(撮影・前田充)
冨田大樹対芝力人 7回、激しく打ち合う冨田(左)と芝(撮影・前田充)

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「ミライモンスター」松本圭佑がメイン 23年1月10日の所属ジム興行で4カ月ぶりのリング

松本圭佑(2022年9月12日撮影)

「ミライモンスター」と呼ばれるプロボクシング日本フェザー級4位松本圭佑(23=大橋)が所属ジム興行の新春第1弾イベントでメインイベンターを務める。

23年1月10日、東京・後楽園ホールで開催されるフェニックスバトル96大会のカードが21日、発表された。松本は浜口人夢(28=市野)との同級8回戦に臨むことが決定した。20年9月のプロデビューから6勝6KOで、今年9月の石田凌太(角海老宝石)を2回TKO撃破して以来、約4カ月ぶりのリングとなる。

A級(8回戦)昇格初戦となる豊嶋海優(23=大橋)は韓国スーパーフライ級1位コー・ギチャン(31)との同級8回戦が決定。日本ライトフライ級8位亀山大輝(26=ワタナベ)は東健史(32=ARITOMI)とのフライ級8回戦、日本スーパーフェザー級2位それいけ太一(30=KG大和)は佐藤諄幸(25=厚木ワタナベ)との同級8回戦がそれぞれ決まった。

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アントニオ猪木さんのベストバウト発表 ユーザーアンケートの結果は?

【イラスト】読者アンケート・アントニオ猪木のシングルマッチ名勝負ランキング

アントニオ猪木さんのベストバウトはどれだ? 日刊スポーツ新聞社は7日午前7時から9日いっぱいまでウェブアンケートを実施。ユーザーの皆様から合計1387票の投票をいただきました。ありがとうございました! 全順位をイラストで発表するとともに、皆様からいただいた1~5位のコメントを紹介します。

■1位183票 <IWGPヘビー級選手権:藤波辰巳(時間切れ引き分け)アントニオ猪木>◇1988年8月8日◇横浜文化体育館

「当時会場で試合を観ていましたが新日本プロレス史上に残るベストバウトだと思います。技と技、心と心、お互いの持っている全てを出し切った究極の師弟対決!足4の字固めをかけられた猪木の『折ってみろこの野郎!』とやられているのに凄い気迫を見せてくれた猪木。そして、試合後に弟子の藤波の成長を認めて腰にベルトを巻いてあげた猪木に感動しました。」(50代男性)

「60分フルタイムで引き分け当時テレビに釘付けだった」(40代男性)

「85年9月の藤波辰巳戦もベストバウトです」(50代男性)

「試合内容はもちろん素晴らしいものでしたが、試合後にベルトを装着してあげた猪木さんの姿、試合後の長州さんと越中さんの肩車、猪木さんの涙も含めて、私の中のベストバウトです」(50代男性)

「試合内容だけでなくこの試合に至るまでのプロセスから試合後の肩車までの全てで評価」(50代男性)

「60分時間切れ引き分け試合後、握手抱擁。最後猪木選手を長州選手、藤波選手を越中選手が肩車。辻義就アナが古舘さん猪木が泣いていますとリポート。感動的なシーンでした」(40代男性)

「"真夏の60分フルタイム。チャンピョンとチャレンジャーの立場が入れ替わり、初の師弟対決。2人の闘いに目頭が熱くなった。勿論選出されているのは全てが名勝負だが、日付もわかりやすく、1試合のみ選ぶとすればこの試合になる」(50代男性)

「この試合は実質的に『燃える闘魂・猪木、最後の試合』と言っていい、猪木プロレスの最終回と思えた試合だった。引退は明言しなかったが、試合後『これで最後なんだな』と思え、涙が止まらなかった(50代男性)

「昭和プロレスの最終回。猪木、藤波共に試合迄の過程も良かった」(50代男性)

「猪木の様なプロレスラーは今後出てくる事はない。プロレスファンのプロレスの見方が変わってしまった事が全てである。昭和のプロレスは少なくともファンが強さを求め、勝ち、負けにこだわっていたからだ」(50代男性)

「最後の肩車は自発的に出たものでもシナリオでもどちらでも感動意外のなにまのでもない」(40代男性)

■2位154票 <第1回IWGP決勝戦:ハルク・ホーガン(KO 21分27秒)アントニオ猪木>◇1983年6月2日◇蔵前国技館

「この試合、猪木の負けを見てショックを受けるのと同時にハルクホーガンを好きになったのを思い出しました」(50代男性)

「とても衝撃的だった」(50代男性)

「ハルクホーガン戦のインパクトが忘れられない。負けるはずがないものと当時はTVで見ていたので」(50代男性)

「衝撃的な試合だった。あの会場での雰囲気は、今までにないもの」(50代男性)

「猪木が失神したこの試合を現地で観ました。当時、私は17歳。猪木が死んでしまうかと本気で心配した記憶です」(50代男性)

「いろいろ思い出はありますがどれか一試合となるとホーガン戦です。放送終了後猪木はどうなっちゃうんだろうと小学生の私はとても心配でした」(50代男性)

「新日本プロレスブームの中で、『負けない』猪木の衝撃的なKO負けであり、未だに鮮明に覚えています。サプライズとしてもベストバウトではないかと思います」(50代男性)

「新設したベルトの認知を高めるためだったと考えると、凄まじい効果のある試合だったと思います。今のベルトの価値を考えると、間違いなく猪木のベストバウトだと思います」(50代男性)

「舌出し失神KOは子供心にショックでした」(50代男性)

「猪木と言えばこれ!テレビで見ていて大変なことが起こっている。猪木は大丈夫なのか?とハラハラし、翌日は学校でも大変な騒ぎになったのを覚えています。あの時は良かったなぁ」(50代男性)

「勝利試合の印象は多々あるが、負けがこれほど印象に残るレスラーは猪木くらい。衝撃的な負け方だった」(40代男性)

「当時、金曜夜に放送されていたワールドプロレスリングで衝撃的だった。古舘伊知郎アナの絶叫の最中、猪木が失神した状態のまま番組が終了してしまったことがとてもインパクトがあった」(40代男性)

■3位138票 <NWF世界ヘビー級選手権:アントニオ猪木(原爆固め 29分30秒)ストロング小林>◇1974年3月19日◇蔵前国技館

「入場券を買えなかった人が3000人いたほどですから。それも当日券がとっくに売り切れ、新日本プロレス側が、ポスターを破って裏に当日券と書いて強引にお客さんを入れてでも3000人も入れなかったぐらいですから」(50代男性)

「この頃が猪木さんの全盛期ではなかったでしょうか。相手の力を8に引き上げ、10の力で倒す! 正に猪木プロレスの真骨頂!」(60代男性)

「この試合が日本人対決の先駆けとなった試合で、勝ったアントニオ猪木は凄いと思いました、それと同じ位負けたけどストロング小林も凄いと思いながらテレビをみてました。2人とも残念ながら、亡くなってしまいましたが、これからも私の心のなかでアントニオ猪木とストロング小林はいます、だからお別れはしません。しばらく休んでくださいね!その後は、またアントニオ猪木とストロング小林の試合をして、今のプロレス界に活をいれて、闘魂ビンタをしてください」(50代男性)

「ストロング小林に決めたジャーマン・スープレックス、、、ホント凄かった!!あんなジャーマン・スープレックスあれ以来観てないな」(50代男性)

「最後のジャーマンスープレックスには鳥肌が立ちました」(60代男性)

「アントニオ猪木さんの顔の表情、目の輝き、長いもみあげ、見事にシェイプされたボディ。31歳の絶頂期の猪木さんが、まさに『燃える闘魂』として、全身“炎”と化して闘ったベストバウトだと思います。特にストロング小林選手のバックブリーカーをロープの反動を利用してのリバースのスープレックス、バックドロップ、そして伝説となっている首で支え、両足が浮いたジャーマンスープレックスと、その全ての流れが芸術的に美しく、素晴らしい試合でした。レフェリーの清美川氏のカウント3が入って猪木さんの勝利が決まった時、当時、テレビを一緒に観ていた父と喜び合い、幼かった私は感極まって涙したことを覚えています。猪木さん、本当にありがとうございました」(50代男性)

「試合も凄かったですが、試合後のインタビューがとんでもなく感動的でした!やはり猪木は相手をも輝かせ感動的な試合にしてしまうプロ中のプロである!!」(50代男性)

「場外では客同士が殴り合いのケンカをしていたし、あれ程興奮して試合を見たのは初めてだったし、二度となかった」(70代以上男性)

「両足が浮いたあのジャーマンスープレックスはまさに芸術です」(50代男性)

■4位96票 <NWF世界ヘビー級選手権:アントニオ猪木(1-1)ビル・ロビンソン>◇1975年12月11日◇蔵前国技館

「猪木とロビンソンのテクニック合戦はプロのレスリングの神髄であった。猪木の絶頂期であり、まさに生涯のベストバウトである」(50代男性)

「当日小学生だった頃、お互いのテクニックに魅了され、今では珍しい61分3本勝負。先行された猪木が残り何十秒で卍固めで1本を取り引き分けになった試合。ハラハラドキドキ感最高でした」(50代男性)

「先制された猪木がタイムアップ寸前で卍固めで追いつく白熱の名勝負。プライドを賭けた両者によるザストロングスタイルと言える夢の試合だった」(50代男性)

「アントニオ猪木の生き様。猪木は最期までアントニオ猪木だった。猪木信者は生き神様から本当の神になったアントニオ猪木を永遠に崇拝して行く。私もその中の1人。猪木の一挙手一投足から元気をもらった。今亡き父親とブラウン管の前で叫びながら観たのがロビンソン戦。同日の武道館の他団体の力道山追悼大会に参加せず、蔵前でみせたこの戦いこそアントニオ猪木の生き様が感じられる名勝負だった。(敬称略)。猪木さん、ありがとうございました。私にとって永遠不滅です」(50代男性)

「たった一度の対戦。互いのテクニックがぶつかり合い、猪木のプロレスをすべて凝縮した試合。かつ馬場主導の力道山の追悼イベントにぶつけた、猪木の意地が見られる」(50代男性)

「猪木が主導権を握ることができないまま60分が経過し、最後まで両者の必死な闘いに手に汗を握った熱い思い出のある試合です!」(60代男性)

「子供の時にビデオを借りてきて見たのですが凄い勝負でした」(40代男性)

「中学生時代、テレビ中継で観戦したが、まさに白熱の戦い。判定があればロビンソンの勝ち、だったと思う」(60代男性)

■5位75票 <格闘技世界一決定戦:アントニオ猪木(判定1-1 引き分け)ムハマド・アリ>◇1976年6月26日◇日本武道館

「日本人の格闘技最高の試合です。猪木不利な特別ルールの中、国民の素人はブーイングの嵐でしたが、分かる者から観ればもの凄い試合でした。試合後、猪木は右足首を骨折し、アリは左太腿が腫れ上がり、お互い回復に時間を要しましたよね。後にも先にもこれだけの試合は企画しにくいのでは無いでしょうか。猪木さんとアリさん、プランナーの新間さんに感謝してます。謹んでご冥福をお祈り申し上げます」(60代男性)

「猪木対アリ戦! 当時、世間の誰もが凡戦と失笑しておりました(多勢に乗る)。私は興奮してフ゛ラウン官の前でA猪木選手と一緒になってアリキックしてました。夢をありがとう!」(60代男性)

「現在の格闘技戦の礎を築いた一戦。願わくは全盛期にグレイシーと戦って欲しかったです」(50代男性)

「アントニオ猪木の名前がアリと闘う事で知名度が世界中に広がった。ファイトマネーもテレビの衛星中継も破格の対応だった。誰もやらない事を実行した代表的な1つだったと思います」(50代男性)

「土曜日の小学校を終えて、急いで帰宅した記憶があります。寝転がってつまらなかったですが、今、見直すと面白いですね」(50代男性)

「試合前の期待感が別格」(50代男性)

「当時は世紀の茶番と言われながら、総合格闘技時代になって再評価された試合。猪木の一番の真剣勝負だった」(50代男性)

「何といってもモハメド・アリとの異種格闘技戦ですねぇ~(^^)/。当時、”土曜8時の再放送”(本放送はお昼12時から)で観ましたが、あの時の興奮は、忘れられないですね!!(^^)/」(50代男性)

「猪木の知名度を世界に広げたのはこの試合」(50代男性)

18年12月、プロレス観を語ったアントニオ猪木さん
藤波辰爾(下)に卍固めを見舞うアントニオ猪木(1988年8月8日撮影)
ハルク・ホーガン(左)とアントニオ猪木(1984年撮影)
1974年12月12日、新日本プロレスNWF認定ヘビー級選手権  ストロング小林(下)にボストンクラブを決めるアントニオ猪木
ビル・ロビンソン(右)と対戦するアントニオ猪木(1975年12月撮影)
アントニオ猪木対ムハマド・アリ戦(1976年6月26日撮影)

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【ノア】藤田和之が師匠猪木さんのストロングスタイル見せつける「強いやつが上に行くんだよ」

清宮海斗、稲村愛輝組対藤田和之、鈴木秀樹組 清宮(左)に強烈なエルボーを見舞う藤田(撮影・垰建太)

<プロレスリング・ノア:後楽園大会>◇7日◇東京・後楽園ホール

「猪木イズム最後の継承者」と呼ばれる藤田和之(51)が7日、1日に心不全で死去した師匠のアントニオ猪木さんから継承したイズムをリング上で体現した。

メインイベントで、猪木さんが07年に旗揚げしたIGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション)でデビューした鈴木秀樹(42)とタッグを結成。現GHCヘビー級王者の清宮海斗、稲村愛輝組と対戦し、16分37秒、自らのパワーボムで3カウントを奪取した。

継承した「猪木イズム」は言葉ではなく態度で示した。最強が勝つ-。張られたら張り返す。投げられたら投げ返す。30日の東京・有明アリーナ大会で挑戦するGHCヘビー級王者清宮を相手に、強者が生き残るストロングスタイルを見せつけた。試合後のバックステージでは「見ての通り。強いやつが上に行くんだよ。ベルトはもらったよ!」と豪語。猪木さんについて問われると「知るか。ばか!」と一言。興奮気味に会場を後にした。

大会前のセレモニーでは、武藤敬司、船木誠勝らとともにリングに上がって追悼の10カウントをささげていた。

藤田は96年に新日本プロレスに入門し、猪木さんの最後の付け人を務めた。2000年に退団すると、猪木事務所所属となり「PRIDE」などの格闘技イベントに参戦。プロレスや総合格闘技を通して、闘魂を体現してきた。入場曲は猪木さんの「炎のファイター」をオーケストラバージョンで継承している。

2日には都内の自宅へ弔問。「僕らの前ではいつも元気な姿。カツを入れていただいた。出来の悪い弟子ですから。感謝しかない」。涙で声を詰まらせながら天国の師をしのんでいたが、リング上ではそのファイトで師への思いを示していた。

清宮海斗、稲村愛輝組対藤田和之、鈴木秀樹組 清宮(左)に強烈なエルボーを見舞う藤田(撮影・垰建太)
試合前、アントニオ猪木さんをしのびテンカウントを行う武藤(右)藤田(左)船木ら(撮影・垰建太)
清宮海斗、稲村愛輝組対藤田和之、鈴木秀樹組 コーナーで清宮(左)を攻める藤田(撮影・垰建太)
試合前、アントニオ猪木さんをしのびテンカウントを行う武藤(右)藤田(左)、船木ら(撮影・垰建太)
清宮海斗、稲村愛輝組対藤田和之、鈴木秀樹組 清宮(左)にブレンバスターを見舞う藤田(撮影・垰建太)
試合前、アントニオ猪木さんの遺影を手にする武藤(右)。左は藤田、右は船木(撮影・垰建太)
清宮海斗、稲村愛輝組対藤田和之、鈴木秀樹組 藤田(左)は稲村にビーストボムを決める(撮影・垰建太)
清宮海斗、稲村愛輝組対藤田和之、鈴木秀樹組 稲村(下)にビーストボムを決め勝利した藤田はガッツポーズする(撮影・垰建太)
清宮海斗、稲村愛輝組対藤田和之、鈴木秀樹組 稲村(下)にビーストボムで勝利した藤田はガッツポーズする(撮影・垰建太)
試合前、アントニオ猪木さんをしのびテンカウントを行う武藤(中央)、藤田(同左)、船木ら(撮影・垰建太)

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【超RIZIN】メイウェザーのセコンドに高級セレブ宝石商 100万ドルのネックレスも贈られる

大きなネックレスをかけたセコンド(中央)らと入場するフロイド・メイウェザー(撮影・滝沢徹郎)

<格闘技イベント:超RIZIN>◇25日◇さいたまスーパーアリーナ

プロボクシング元世界5階級制覇王者フロイド・メイウェザー(45=米国)が朝倉未来(30=トライフォース赤坂)とのエキシビション3分3回で2回TKO勝利を収めた。

メイウェザーのセコンドには米ヒューストンを拠点とする高級セレブでジュエリーデザイナーのベトナム系米国人起業家ジョニー・ダン氏が入り、入場時には一緒にリングイン。大きなネックレスを首元に輝かせた。

米メディアによると、メイウェザーのプライベートジェットで一緒に来日。初めてプライベートジェットに搭乗できたことに感激したダン氏から100万ドル(約1億4500万円)のネックレスを贈られ、メイウェザーはご機嫌だったという。今回はメイウェザーのザ・マネー・チームの一員として日本で常に行動をともにしているようだ。

ダン氏はベトナムから米国に移住した父から生まれ、96年からヒューストンで宝石の修理業の仕事を開始。徐々に会社を拡大し、経営するジュエリー会社では高級チェーン、指輪などをカスタムして販売。人気ラッパーのポール・ウォールらにジュエリーを提供するなどヒップホップ界で人気を博している。

2回、朝倉未来(右)にパンチを見舞うフロイド・メイウェザー(撮影・滝沢徹郎)
2回、ダウンした朝倉未来(手前)を見つめるフロイド・メイウェザー(撮影・滝沢徹郎)
2回、フロイド・メイウェザー(左)は朝倉未来にKO勝ちする(撮影・滝沢徹郎)

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【超RIZIN】ボクシングで1000億円超、引退後も150億円…メイウェザーの「ザ・マネー」人生

22年9月21日、会見で意気込みを語るメイウェザー

フロイド・メイウェザー(米国)は、プロボクシング5階級制覇王者で50戦全勝(27KO)の完璧な戦績を残して17年に引退した。現役時代にはオスカー・デラホーヤ、サウル・アルバレス、マニー・パッキャオら、そうそうたる顔触れと数々の『スーパーファイト』を勝ち抜き、ファイトマネーとペイ・パー・ビュー(PPV)の売り上げの歩合を含めて総額8億ドル(約1000億円)以上を稼ぎ出したと言われる。

金メダル候補だった96年アトランタ五輪は、フェザー級で出場した銅メダル。同年のプロデビュー戦の報酬は2500ドル(約25万円)だった。金額が一気に急上昇したのが、07年にWBC世界スーパーウエルター級王者オスカー・デラホーヤ(米国)を撃破して無敗で5階級制覇を達成した一戦。判定勝ちしたメイウェザーはPPVの歩合も含めて2500万ドル(約30億円)を稼ぎ出した。

その後もスーパーファイトの主役として不敗を続けて、13年にはケーブルテレビのショータイムと6試合2億ドル(約200億円)の大型契約を締結した。

15年5月の世界ウエルター級王座統一戦で、史上最多6階級制覇のWBO王者マニー・パッキャオを判定で下したWBAスーパー王者だったメイウェザーは、ファイトマネー1億2000万ドル(約144億円)に、PPVの歩合を加算した2億3000万ドル(約276億円)を手にした。当時のボクシング史上最高額の報酬だった。

この報酬額を上回ったのが、17年8月の総合格闘技のUFC2階級制覇王者コナー・マクレガー戦との現役最後の試合。メイウェザーは1億ドルのファイトマネーと、PPVの売り上げの歩合を換算して2億7500万ドル(約325億円)を稼いだと言われる。

引退後も、メイウェザーの『50戦不敗の5階級制覇王者』という威光は、衰えなかった。その金看板と知名度に、ボクシング界以外のプロモーターや格闘技団体などからオファーが相次ぎ、メイウェザーもボクシングルールを前提とした『エキシビション』でリングに上がり、稼ぎ続けた。

以下はあくまで本人の発言によるものだが、18年12月の那須川天心戦では、後に「139秒間に900万ドル(9億9000万円)を稼いだ」(英紙ザ・サン)と語っている。

21年6月の人気ユーチューバーのローガン・ポールとの一戦では、試合後に「これは合法的な銀行強盗だ」と語り、スポンサー収入3000万ドルを含む1億ドル(約110億円)を稼いだと主張した。

22年5月にUAEで開催されたドン・ムーア戦では本人の発言はなかったが、コーチのジェラルド・タッカー氏がインスタグラムで「少なくとも1000万ドル(約13億円)を稼いだ」と明かしている。

今回の朝倉未来戦ではRIZINの榊原信行CEOが「前回は超えています」と説明。「2桁(億円)か」という問い掛けに「そうです」とうなずき、日本円で10億円を超えていることを認めた。

そうするとメイウェザーは引退後のエキシビション4試合だけで、すでに日本円で150億円近くの報酬をかせぎ出していることになる。

すでに45歳。ポール戦、ムーア戦を見る限り、往年のスピードやパンチの切れはない。それでも勝ち続けているのは、ボクシング技術の未熟な格闘技系の選手たちと、ボクシングルールのエキシビションという自らの土俵で戦い続けているからだ。

レジェントとして名前を残す幾多の名ボクサーでさえ、決定打を当てることができなかったメイウェザーのディフェンス技術を、格闘技系の選手が打ち破るのは至難の業。

「マネー」の異名を取るメイウェザーの「合法的な銀行強盗」は、彼が一敗地にまみれるまで、続くのだろう。(レートは当時の換算)

22年9月21日、会見を終え互いをにらみつける朝倉未来(右)とメイウェザー
22年9月21日、会見で意気込みを語る朝倉未来

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前WBO王者岩川美花7カ月ぶり再起戦で世界王座返り咲き成功 IBFアトム級宮尾綾香に判定勝ち

10回、岩川(左)は宮尾にパンチを見舞う(撮影・滝沢徹郎)

<プロボクシング:IBF女子世界アトム級タイトルマッチ10回戦>◇1日◇東京・後楽園ホール

挑戦者、IBF女子世界アトム級6位の岩川美花(39=姫路木下)が世界王座に返り咲いた。同級王者宮尾綾香(39=ワタナベ)に挑戦し、3-0(96-94×3)の判定勝利でベルト奪取に成功した。

相手を上回る身長とリーチ差を生かし、左右のパンチを打ち込み、中盤以降は右からサウスポーにスイッチした。王者宮尾の反撃を受けたものの、左フックなどを打ち込み、競り合いの展開を制した。

今年2月、鈴木菜々江(30=シュウ)に敗れてWBO女子世界同級王座から陥落した。約7カ月ぶりのリング、かつ再起戦となる今回の世界再挑戦だった。

強敵の宮尾を下し、世界ベルトを取り戻した岩川は「8月にめっちゃジムが暑くて大変だった。練習パートナーにお礼を言いたい。今回の試合では、東京でたくさん協賛していただいた。この恩を忘れずに防衛を重ねていきたい」と再び世界王座を取り戻し、感極まっていた。

新チャンピオンとなりベルトを肩に記念撮影する岩川(撮影・滝沢徹郎)
チャンピオンとなりうれし涙を流す岩川(撮影・滝沢徹郎)
10回、岩川(奥)は宮尾にパンチを見舞う(撮影・滝沢徹郎)
ラウンドガールを務める窪田莉朋さん(左)と瀧山うさぎさん(撮影・滝沢徹郎)
ラウンドガールを務める瀧山うさぎさん(撮影・滝沢徹郎)
ラウンドガールを務める窪田莉朋さん(撮影・滝沢徹郎)
岩川(奥)に判定負けし肩を落とす宮尾(撮影・滝沢徹郎)

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元横綱2代目若乃花の下山勝則さん死去、69歳 78年56代横綱に昇進 照ノ富士入門時の師匠

土俵入りする第56代横綱2代目若乃花(1978年7月撮影)

第56代横綱、2代目若乃花の下山勝則氏が16日午後6時47分、肺がんのため大阪市の病院で死去した。18日、日本相撲協会が発表した。69歳。青森県出身。葬儀・告別式は家族葬で営まれる。元横綱隆の里と夜汽車で上京し、78年には56代横綱に昇進して、しこ名を若三杉から若乃花に改名。引退後は間垣部屋を興し、協会理事を務めた。夫人の死去後に脳出血で車椅子生活となり、13年に部屋を閉鎖して定年前に退職。数年前から大阪市の施設で過ごしていた。

   ◇   ◇   ◇

下山さんは日本相撲協会退職後は大阪に移り、数年前から施設に入っていた。角界とは疎遠だったが、20年にはユーチューブに登場した。元関脇貴闘力の鎌苅氏が運営するチャンネル。貴乃花グループを支えた仲で、いろいろ裏話も披露していた。

現役時代は華やかだった。師匠二子山親方(元横綱初代若乃花)に連れられ、青森から特急寝台で上京し入門した。若三杉と改名した半年後、20歳で新十両、新入幕。大関2場所目に初優勝し、78年夏場所後に横綱昇進。2代目若乃花を襲名した。懐が深く、体も柔らかく、切れのある投げで逆転も多かった。

色白の甘いマスクで、笑顔を振りまいた。憎まれ役の北の湖に対抗し、女性人気があった。「熱海の芸者は全部オレのファン」と豪語し、76年秋場所では熱海市から懸賞金がついた。80年秋に4度目の優勝を飾ると師匠の長女と結婚した。部屋後継者と順風満帆もその後は1度も優勝できず。ケガや病気で低迷し、この間に離婚、再婚もし、83年初場所で引退した。

同年12月には間垣部屋を興し、関取8人を育てた。96年には当時の境川理事長(元横綱佐田の山)が名跡を協会管理で売買禁止の改革案に反対し、先頭に立って撤回させた。98年には日本協会の理事をめぐり、初の選挙に持ち込んで当選。協会NO・3と言われる大阪担当部長を10年務めた。しかし、05年に侑子夫人に先立たれると人生の歯車が狂いだした。

07年に担当部長だった春場所3日目に会場で倒れた。脳出血で緊急手術を受け、その後は車椅子生活となった。08年には弟子の若ノ鵬が大麻所持で逮捕され、解雇処分の責任をとって理事を辞任した。部屋の運営も徐々に困難となった。13年春場所限りで間垣部屋を閉め、のちの横綱照ノ富士(当時幕下若三勝)らの弟子と、伊勢ケ浜部屋に移籍。その年の12月には、65歳定年までまだ5年あったが退職した。まさに山あり、谷ありの人生だった。

◆若乃花幹士(わかのはな・かんじ)本名下山勝則。1953年(昭28)4月3日、青森・大鰐町生まれ。中3で二子山部屋に入門して68年名古屋で初土俵。73年名古屋新十両、九州新入幕。77年初場所後に魁傑と大関同時昇進。78年夏場所後に56代横綱に昇進し、若三杉から2代目の若乃花に改名した。83年初場所引退。金星3個、三賞6回、幕内優勝4回。通算88場所で656勝323敗85休。得意は左四つ、上手投げ。現役時は187センチ、133キロ。

▽2代目若乃花アラカルト

★ニッパチ 横綱北の湖をはじめ、小結大錦、関脇麒麟児、関脇金城らは同じ昭和28年生まれ。いずれも三役以上と土俵をわかせ、花のニッパチ組と言われた中でも1番の人気があった。

★投げに切れ 懐は深く、体は柔らかく、足腰にバネがあり、投げに切れ味があった。攻防ある相撲で土俵際に詰まってから逆転も多く人気の要因に。十両以上での勝った決まり手で、上手投げが102勝で2番目に多い。

★人気者 甘いマスク、五月人形のような笑顔で、憎まれ役北の湖に対抗して人気者になった。CM出演も多く、応援歌がリリースされ、「泣きぼくろ」で歌手デビューした。

★盟友 おしん横綱といわれた隆の里は1学年上だが、一緒に青森から夜汽車で上京入門した同郷、同部屋の同期生だった。若乃花が先へ先へと昇進したが「ライバルは隆の里」と言い、糖尿病で苦闘の盟友を励ました。隆の里の鳴戸親方が11年に59歳で急死すると亡きがらに「早く起きろ」と涙した。

2代目若乃花 土俵入り
83年5月、露払い北の湖(右)、太刀持ち千代の富士(左)の両横綱を従え最後の土俵入りをする56代横綱若乃花
83年5月、師匠二子山親方(45代横綱若乃花)の止めばさみに感無量の56代横綱若乃花
83年5月、野村克也氏(右)にはさみを入れてもらう56代横綱若乃花
83年5月、日本ハム江夏豊投手(右)にはさみを入れてもらう56代横綱若乃花
83年1月、引退記者会見をする56代横綱若乃花。左は師匠の二子山親方(45代横綱若乃花)
78年5月、横綱伝達式のあと、奉納土俵入りで雲竜型の土俵入りを披露する56代横綱若三杉(若乃花)
77年9月、優勝額贈呈式で互いの健闘を誓い合う名古屋場所優勝の横綱輪島(左)と夏場所優勝の大関若三杉(右=のち56代横綱若乃花)
79年1月、優勝額贈呈式で早くも火花を散らす秋場所優勝の横綱北の湖(右)と九州場所優勝の横綱若乃花(左=56代横綱、若三杉)
【イラスト】2代目若乃花の全成績
【イラスト】若乃花の主な対戦相手

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