アントニオ猪木さんのベストバウトはどれだ? 日刊スポーツ新聞社は7日午前7時から9日いっぱいまでウェブアンケートを実施。ユーザーの皆様から合計1387票の投票をいただきました。ありがとうございました! 全順位をイラストで発表するとともに、皆様からいただいた1~5位のコメントを紹介します。
■1位183票 <IWGPヘビー級選手権:藤波辰巳(時間切れ引き分け)アントニオ猪木>◇1988年8月8日◇横浜文化体育館
「当時会場で試合を観ていましたが新日本プロレス史上に残るベストバウトだと思います。技と技、心と心、お互いの持っている全てを出し切った究極の師弟対決!足4の字固めをかけられた猪木の『折ってみろこの野郎!』とやられているのに凄い気迫を見せてくれた猪木。そして、試合後に弟子の藤波の成長を認めて腰にベルトを巻いてあげた猪木に感動しました。」(50代男性)
「60分フルタイムで引き分け当時テレビに釘付けだった」(40代男性)
「85年9月の藤波辰巳戦もベストバウトです」(50代男性)
「試合内容はもちろん素晴らしいものでしたが、試合後にベルトを装着してあげた猪木さんの姿、試合後の長州さんと越中さんの肩車、猪木さんの涙も含めて、私の中のベストバウトです」(50代男性)
「試合内容だけでなくこの試合に至るまでのプロセスから試合後の肩車までの全てで評価」(50代男性)
「60分時間切れ引き分け試合後、握手抱擁。最後猪木選手を長州選手、藤波選手を越中選手が肩車。辻義就アナが古舘さん猪木が泣いていますとリポート。感動的なシーンでした」(40代男性)
「"真夏の60分フルタイム。チャンピョンとチャレンジャーの立場が入れ替わり、初の師弟対決。2人の闘いに目頭が熱くなった。勿論選出されているのは全てが名勝負だが、日付もわかりやすく、1試合のみ選ぶとすればこの試合になる」(50代男性)
「この試合は実質的に『燃える闘魂・猪木、最後の試合』と言っていい、猪木プロレスの最終回と思えた試合だった。引退は明言しなかったが、試合後『これで最後なんだな』と思え、涙が止まらなかった(50代男性)
「昭和プロレスの最終回。猪木、藤波共に試合迄の過程も良かった」(50代男性)
「猪木の様なプロレスラーは今後出てくる事はない。プロレスファンのプロレスの見方が変わってしまった事が全てである。昭和のプロレスは少なくともファンが強さを求め、勝ち、負けにこだわっていたからだ」(50代男性)
「最後の肩車は自発的に出たものでもシナリオでもどちらでも感動意外のなにまのでもない」(40代男性)
■2位154票 <第1回IWGP決勝戦:ハルク・ホーガン(KO 21分27秒)アントニオ猪木>◇1983年6月2日◇蔵前国技館
「この試合、猪木の負けを見てショックを受けるのと同時にハルクホーガンを好きになったのを思い出しました」(50代男性)
「とても衝撃的だった」(50代男性)
「ハルクホーガン戦のインパクトが忘れられない。負けるはずがないものと当時はTVで見ていたので」(50代男性)
「衝撃的な試合だった。あの会場での雰囲気は、今までにないもの」(50代男性)
「猪木が失神したこの試合を現地で観ました。当時、私は17歳。猪木が死んでしまうかと本気で心配した記憶です」(50代男性)
「いろいろ思い出はありますがどれか一試合となるとホーガン戦です。放送終了後猪木はどうなっちゃうんだろうと小学生の私はとても心配でした」(50代男性)
「新日本プロレスブームの中で、『負けない』猪木の衝撃的なKO負けであり、未だに鮮明に覚えています。サプライズとしてもベストバウトではないかと思います」(50代男性)
「新設したベルトの認知を高めるためだったと考えると、凄まじい効果のある試合だったと思います。今のベルトの価値を考えると、間違いなく猪木のベストバウトだと思います」(50代男性)
「舌出し失神KOは子供心にショックでした」(50代男性)
「猪木と言えばこれ!テレビで見ていて大変なことが起こっている。猪木は大丈夫なのか?とハラハラし、翌日は学校でも大変な騒ぎになったのを覚えています。あの時は良かったなぁ」(50代男性)
「勝利試合の印象は多々あるが、負けがこれほど印象に残るレスラーは猪木くらい。衝撃的な負け方だった」(40代男性)
「当時、金曜夜に放送されていたワールドプロレスリングで衝撃的だった。古舘伊知郎アナの絶叫の最中、猪木が失神した状態のまま番組が終了してしまったことがとてもインパクトがあった」(40代男性)
■3位138票 <NWF世界ヘビー級選手権:アントニオ猪木(原爆固め 29分30秒)ストロング小林>◇1974年3月19日◇蔵前国技館
「入場券を買えなかった人が3000人いたほどですから。それも当日券がとっくに売り切れ、新日本プロレス側が、ポスターを破って裏に当日券と書いて強引にお客さんを入れてでも3000人も入れなかったぐらいですから」(50代男性)
「この頃が猪木さんの全盛期ではなかったでしょうか。相手の力を8に引き上げ、10の力で倒す! 正に猪木プロレスの真骨頂!」(60代男性)
「この試合が日本人対決の先駆けとなった試合で、勝ったアントニオ猪木は凄いと思いました、それと同じ位負けたけどストロング小林も凄いと思いながらテレビをみてました。2人とも残念ながら、亡くなってしまいましたが、これからも私の心のなかでアントニオ猪木とストロング小林はいます、だからお別れはしません。しばらく休んでくださいね!その後は、またアントニオ猪木とストロング小林の試合をして、今のプロレス界に活をいれて、闘魂ビンタをしてください」(50代男性)
「ストロング小林に決めたジャーマン・スープレックス、、、ホント凄かった!!あんなジャーマン・スープレックスあれ以来観てないな」(50代男性)
「最後のジャーマンスープレックスには鳥肌が立ちました」(60代男性)
「アントニオ猪木さんの顔の表情、目の輝き、長いもみあげ、見事にシェイプされたボディ。31歳の絶頂期の猪木さんが、まさに『燃える闘魂』として、全身“炎”と化して闘ったベストバウトだと思います。特にストロング小林選手のバックブリーカーをロープの反動を利用してのリバースのスープレックス、バックドロップ、そして伝説となっている首で支え、両足が浮いたジャーマンスープレックスと、その全ての流れが芸術的に美しく、素晴らしい試合でした。レフェリーの清美川氏のカウント3が入って猪木さんの勝利が決まった時、当時、テレビを一緒に観ていた父と喜び合い、幼かった私は感極まって涙したことを覚えています。猪木さん、本当にありがとうございました」(50代男性)
「試合も凄かったですが、試合後のインタビューがとんでもなく感動的でした!やはり猪木は相手をも輝かせ感動的な試合にしてしまうプロ中のプロである!!」(50代男性)
「場外では客同士が殴り合いのケンカをしていたし、あれ程興奮して試合を見たのは初めてだったし、二度となかった」(70代以上男性)
「両足が浮いたあのジャーマンスープレックスはまさに芸術です」(50代男性)
■4位96票 <NWF世界ヘビー級選手権:アントニオ猪木(1-1)ビル・ロビンソン>◇1975年12月11日◇蔵前国技館
「猪木とロビンソンのテクニック合戦はプロのレスリングの神髄であった。猪木の絶頂期であり、まさに生涯のベストバウトである」(50代男性)
「当日小学生だった頃、お互いのテクニックに魅了され、今では珍しい61分3本勝負。先行された猪木が残り何十秒で卍固めで1本を取り引き分けになった試合。ハラハラドキドキ感最高でした」(50代男性)
「先制された猪木がタイムアップ寸前で卍固めで追いつく白熱の名勝負。プライドを賭けた両者によるザストロングスタイルと言える夢の試合だった」(50代男性)
「アントニオ猪木の生き様。猪木は最期までアントニオ猪木だった。猪木信者は生き神様から本当の神になったアントニオ猪木を永遠に崇拝して行く。私もその中の1人。猪木の一挙手一投足から元気をもらった。今亡き父親とブラウン管の前で叫びながら観たのがロビンソン戦。同日の武道館の他団体の力道山追悼大会に参加せず、蔵前でみせたこの戦いこそアントニオ猪木の生き様が感じられる名勝負だった。(敬称略)。猪木さん、ありがとうございました。私にとって永遠不滅です」(50代男性)
「たった一度の対戦。互いのテクニックがぶつかり合い、猪木のプロレスをすべて凝縮した試合。かつ馬場主導の力道山の追悼イベントにぶつけた、猪木の意地が見られる」(50代男性)
「猪木が主導権を握ることができないまま60分が経過し、最後まで両者の必死な闘いに手に汗を握った熱い思い出のある試合です!」(60代男性)
「子供の時にビデオを借りてきて見たのですが凄い勝負でした」(40代男性)
「中学生時代、テレビ中継で観戦したが、まさに白熱の戦い。判定があればロビンソンの勝ち、だったと思う」(60代男性)
■5位75票 <格闘技世界一決定戦:アントニオ猪木(判定1-1 引き分け)ムハマド・アリ>◇1976年6月26日◇日本武道館
「日本人の格闘技最高の試合です。猪木不利な特別ルールの中、国民の素人はブーイングの嵐でしたが、分かる者から観ればもの凄い試合でした。試合後、猪木は右足首を骨折し、アリは左太腿が腫れ上がり、お互い回復に時間を要しましたよね。後にも先にもこれだけの試合は企画しにくいのでは無いでしょうか。猪木さんとアリさん、プランナーの新間さんに感謝してます。謹んでご冥福をお祈り申し上げます」(60代男性)
「猪木対アリ戦! 当時、世間の誰もが凡戦と失笑しておりました(多勢に乗る)。私は興奮してフ゛ラウン官の前でA猪木選手と一緒になってアリキックしてました。夢をありがとう!」(60代男性)
「現在の格闘技戦の礎を築いた一戦。願わくは全盛期にグレイシーと戦って欲しかったです」(50代男性)
「アントニオ猪木の名前がアリと闘う事で知名度が世界中に広がった。ファイトマネーもテレビの衛星中継も破格の対応だった。誰もやらない事を実行した代表的な1つだったと思います」(50代男性)
「土曜日の小学校を終えて、急いで帰宅した記憶があります。寝転がってつまらなかったですが、今、見直すと面白いですね」(50代男性)
「試合前の期待感が別格」(50代男性)
「当時は世紀の茶番と言われながら、総合格闘技時代になって再評価された試合。猪木の一番の真剣勝負だった」(50代男性)
「何といってもモハメド・アリとの異種格闘技戦ですねぇ~(^^)/。当時、”土曜8時の再放送”(本放送はお昼12時から)で観ましたが、あの時の興奮は、忘れられないですね!!(^^)/」(50代男性)
「猪木の知名度を世界に広げたのはこの試合」(50代男性)

- 18年12月、プロレス観を語ったアントニオ猪木さん

- 藤波辰爾(下)に卍固めを見舞うアントニオ猪木(1988年8月8日撮影)

- ハルク・ホーガン(左)とアントニオ猪木(1984年撮影)

- 1974年12月12日、新日本プロレスNWF認定ヘビー級選手権 ストロング小林(下)にボストンクラブを決めるアントニオ猪木

- ビル・ロビンソン(右)と対戦するアントニオ猪木(1975年12月撮影)

- アントニオ猪木対ムハマド・アリ戦(1976年6月26日撮影)