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プロレスニュース

WWE里村がNXT UK女子王座挑戦権ゲット ガントレット戦に緊急出場

NXT UK女子王座の次期挑戦者ガントレット戦に急きょサプライズ出場し、挑戦権をゲットした里村(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.

<WWE:NXT UK大会>◇13日(日本時間14日)◇英ロンドン・BTスポーツスタジオ

NXT UK女子の「ファイナル・ボス」里村明衣子(41=センダイガールズ)が再びNXT UK女子王座挑戦を決めた。メインイベントで5選手出場の次期挑戦者ガントレット戦が開催。当初はジニー(31)、エミリア・マッケンジー(20)、ザイヤ・ブルックサンド(22)、ダニー・ルーナ(22)、アイラ・ドーン(27)がエントリーされていたが、負傷欠場したブルックサンドの代役として里村が4人目で緊急サプライズ出場。2勝していたドーンを下すと、ジョセフ・コナーズを伴って5人目で登場したジニーとの最終戦を迎えた。

デスバレーボム、ミドルキックでダメージを与えると、必殺のスコーピオライジングでジニーの頭部にかかとを落とし、3カウントを奪取。NXT UK女子王者ケイ・リー・レイ(28)への挑戦権を獲得した。試合後、リングにベルトを持って姿をみせたレイに一礼された。敬意を表する形の態度に一礼すると、そのまま無情なキックを浴びてダウン。「私がここの王者。誰もそれを変えられない」と罵声を浴びせられた。

里村は試合後、自らのツイッターで「私がガントレット戦で勝った。ケイ・リー・レイに再挑戦します」と決意をつづった。今年1月からNXT UKとコーチ兼任で契約を結んだ里村は3月にはレイに初挑戦。激闘の末にケイのゴリーボムを浴びて敗退している。現在も最長王座保持記録を伸ばし続ける王者レイを止めることができるか。

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WWE・KUSHIDAがバースデー防衛「今日は特別な日になりました」

挑戦者エスコバー(上)をハンマーロック・スープレックス・ホールドで仕留めるNXTクルーザー級王者KUSHIDA(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.

<WWE:NXT大会>◇13日配信◇米オーランド

12日に38歳の誕生日を迎えたNXTクルーザー級王者KUSHIDAが大会メインイベントで「バースデー防衛」を成し遂げた。

因縁が続いた前王者サントス・エスコバーとの3本勝負による2度目の防衛戦に臨み、2-1で勝ち越してベルトを守った。

いきなり場外でエスコバーのユニット「レガード・デル・ファンタズマ」の介入を受けたKUSHIDAだが、自らの仲間ユニット「MSK」の救援を受けるという波乱の幕開けだった。先に王者がコーナートップからトペ・コンヒーロで攻め込めば、エスコバーのロメロスペシャルやダブル・ニーの反撃を受けた。ファントムドライバーを浴びて1本目は許したものの、腕ひしぎ逆十字固めでギブアップを誘い、2本目を奪い返した。

勝負の3本目。ハイレベルなフォールの奪い合いからクローズライン(ラリアット)の相打ちなどで競り合った。コーナートップからの雪崩式ホバーボードロックで追い詰めたKUSHIDAは、ハンマーロック・スープレックス・ホールドで3カウントを奪取。ベルトを死守した。

KUSHIDAは「今日は特別な日になりました。メインイベントで3本勝負。しかもこのタイトルは過去と比べてこれだけの輝きがあったでしょうか? ますます磨きをかけて次の挑戦者、誰でも受けて立つ」と王者としての自覚を示した。さらに自らのバーステーについて「38歳を迎えました。たくさんのお祝いメッセージをありがとうございました。感謝しながら思いを込めて毎日を過ごしていきたいと思います」と自らのSNSでつづり、決意を新たにした。

またNXTを統括するWWE最高執行責任者トリプルH(51)は自身のツイッターで「NXTで世界的にも有名な選手2人がメインイベントにふさわしい選手権をしてくれた。KUSHIDA、王座防衛おめでとう」と投稿し、高く評価していた。

雪崩式ホバーボードロックでエスコバー(上)を投げるNXTクルーザー級王者KUSHIDA(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.
NXTクルーザー級王座ベルトを掲げ、勝ち名乗りを受けた王者KUSHIDA(左)(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.

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53歳永田裕志敗れるも 王者モクスリー感極まり?ひざまずいておじぎ

永田裕志(2021年2月4日撮影)

<オール・エリート・レスリング(AEW):ダイナマイト>◇12日(日本時間13日)◇米フロリダ州

AEWのリングで行われたIWGP USヘビー級選手権で、挑戦者の永田裕志(53)が、王者ジョン・モクスリーに敗れた。

モクスリーは4度目の防衛。勝利すれば、新日本プロレスでのシングル最年長タイトルだったが、快挙達成とはならなかった。

米国の地で躍動した永田だったが、最後に力尽きた。前日ロサンゼルスからフロリダへの移動は3時間遅れ。長旅にも疲れを見せず、SNSでは「全力を尽くして、永田裕志最年長53歳。今日も頑張ります」と気合十分で臨んだ。鮮やかな青のガウンで登場し、お決まりの敬礼ポーズをすると会場は大歓声に包まれた。

序盤から激しくぶつかり合い、エルボー合戦を繰り広げた。中盤には得意技のエクスプロイダー、さらには白目式腕固めで王者を追い詰めたが、最後はパラダイムシフトで3カウントを奪われた。

試合後は感極まったのか、モクスリーがナガタの前にひざまずいておじぎをすると、永田もこれに応え、お互いに健闘をたたえ合った。

4月上旬にモクスリーから挑戦者に指名された。「リボルバーを見せてみろ。どっちが先に撃てるか試してみようぜ」と挑発を受けた。永田は「だからお前はハナタレ小僧なんだよ。プロレスのリングにリボルバーなんてのは必要ない。裸1つで戦うのがプロレス。顔洗って出直してこい」と受けて立った。

8日配信の前哨戦ではモクスリーに強烈な一撃を見舞った。試合には敗れたが、怒りが収まらず、試合後に襲撃。止めに入ったセコンドを制し、歯が取れるほど強烈なナガタロック2を浴びせた。「この永田裕志がコロナ禍の中、アメリカまで来てやったぞ。こんなんで俺は満足しない。まだまだ物足りない」と挑発するなど、本番に向けて士気を高めていったが、あと1歩及ばなかった。

新日本の最年長シングル王者はお預けとなった。02年にIWGPヘビー級王座を獲得。その後当時、橋本真也が持っていた連続防衛記録を塗り替える10回の防衛を果たし「ミスターIWGP」と呼ばれた。16年のNEVER無差別級以来、久しぶりのシングルのベルトを手にすることはできなかったが、53歳永田の挑戦はこれからも続いていく。

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天龍源一郎が退院後初めて公の場、杖つき登場し越中詩郎と記念撮影

退院後、初めてファンの前に姿を見せつえを持ち上げあいさつする天龍源一郎(撮影・中島郁夫)

<天龍プロジェクト SURVIVE THE REVOLUTION>◇12日◇新木場1stRING

4月28日に退院した元プロレスラー、天龍源一郎(71)が、退院後初めて公の場に姿を見せた。

つえをつきながら、ゆっくりと歩を進め、解説席に向かうと、隣に座っていた越中詩郎と並び、記念撮影に応じた。その後は「リラックスできて、見ているうちに楽しくなった」と、時折笑みを見せながら若手選手の試合を見守った。

試合後には選手に支えられながらリングに上がった。マイクを取り、ファンに向けて「40日間も入院していて、こんなぶざまな格好ですが、いつかはアントニオ猪木さんのように元気ですかー、と言いたいので、みなさん、もう少し我慢してください」とメッセージを届けた。全快でリングに上がることができず「不本意だった」と言いながらも、すべてをさらけ出したことで「吹っ切れた」と力強く言い放った。

天龍の復帰を選手たちも待ち望んでいた。第1試合で勝利した河野真幸は「リング下から見られていたので、緊張感があった。いつかは挑戦者に指名するので、頑張って復帰してください」とエールを送った。また藤波辰彌の息子、LEONAは「小さいころはよく見ていたけど、天龍さんの前でやるのは初めて。泥臭く行けと言われ、心に染みた」と愛のあるアドバイスに気を引き締めた。盟友である父も天龍復帰を自分のことのように喜んでいたという。

天龍は3月19日に動悸(どうき)、息切れなどの体調不良で入院した。その後の小橋建太とのトークバトルや、日本プロレス殿堂会設立1周年記念イベントも欠席していたが、順調に回復し、先月28日に退院。「長い入院生活でしたけど、ちょっとずつ調子を上げて、気候も良くなったことだし、元気いっぱいに無理せずやっていきます!」とリング復帰を心待ちにしていた。

この日、天龍プロジェクトは再始動後、初の有観客での試合を行った。今後も7月末までに5大会が決定。同団体代表で、天龍の娘でもある嶋田紋奈氏は「ご心配をおかけしましたが、病状は心配なく、ご覧の通り、元気いっぱい。これから天龍とともにどんな状況でも希望を持って進んでいきたい」と決意を見せた。慣れ親しんだリングに上がり「もう怖いものはない」という天龍。自分の居場所を再認識したレジェンドは、これからも歩みを止めずに進み続ける。【松熊洋介】

解説者席で越中詩郎(右)とポーズを決める天龍源一郎(撮影・中島郁夫)

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【藤波辰爾50周年連載6】67歳引退はしない 受け継いだ魂を残していく

9日にデビュー50周年を迎えた藤波辰爾(撮影・松熊洋介)

<藤波辰爾のプロレス人生50年(6)>

プロレスラーの藤波辰爾(67)はリングに上がり続ける。9日にデビュー50周年を迎えたが、引退の2文字はない。「体が動く限りリングに上がりたい」と情熱は衰えない。連載最終回は「生涯現役」【取材・構成=松熊洋介】

50年を振り返った藤波は「いろんな人と話をするとよみがえってくるので年月は感じる。いろんな状況を見てきて、いい経験をさせてもらっている」と語る。89年のベイダー戦で腰を痛め長期離脱を強いられた。歩くのも困難で「選手生命が終わった」と引退もよぎったが、奇跡的に回復した。1年半後に復帰し、痛み止めを飲みながら二十数年戦い続けた。恐怖から手術をためらってきたが、6年前にメスを入れ、ようやく不安を取り除いた。

藤波 試合中はアドレナリンが出ていたので、分からなかったが、終わってからは痛みが出ていた。レントゲンでは首の骨とか頸椎(けいつい)がゆがんでいる。正常な状態で(リングに)上がっている人はいないのかなと。

それでも戦い続けるのは「プロレスが好きだから」。コロナ禍で試合の機会が減り、物足りなさを感じている。全盛期のパフォーマンスを披露するのは難しいが、気持ちだけは当時と変わっていない。

藤波 いい時を記憶しているから、思うように体が反応しないのがもどかしい。若い時は体が反応していたけど、今は「せーの」って言わないと体が付いてこないのが情けないなあ。

リングに上がることが健康のバローメーター。今でも週の半分以上はジムに通い、体を維持している。息子でプロレスラーの怜於南(れおな)とトレーニングをすることもあり、若い人を見ると張り合いたくなるという。

藤波 恥ずかしい姿ではリングに上がれない。負けてられないと意地を張ってしまう。息子は肌つやが違うし、うらやましい。風呂上がりでも水がはじくけど、自分は染み込んでいく感じ(笑い)。周りからは「もう60歳過ぎてるし、若い人と同じことやってたら化け物ですよ」と言われる。でももっと動けると思っているし、オファーがあればいつでも準備できている。

4月には久しぶりにドラディションを開催。人数制限こそあったが、コミュニケーションを大事にしてきた昔からの手法で自らもお客さんに声を掛け、ほとんど手売りでチケットを完売させた。10月からは50周年ツアーで全国を回る。

藤波 各地に思い出がある。レジェンドバスツアーとかいいね。つえをつきながらでもやってみたい。リングに上がったらあちこちばんそうこう貼って出てくるみたいな。それぐらいになるまで上がってみたい。

67歳。引退は考えていない。「リングに上がれば勝負ですから」と対抗心を燃やす息子との対戦は最後まで取っておくつもりだ。

藤波 70歳では間違いなくリングに立っている。(息子とは)今だったら負けない。知らない間にすごい差がついてたらどうしようと思うことはあるけどね。

最後に夢を聞いてみた。

藤波 昔、力道山先生が作ったリキ・スポーツパレスというのがあったが、そんなプロレスの歴史が全部詰まった会場を作って、そこでみんなを集めて試合をしたい。力道山先生が亡くなった後に猪木さん、馬場さんが魂を受け継いだ。馬場さんが亡くなり、プロレスラーのトーンが下がった部分もあった。これからは僕らがそれを後世に残していかないといけない。

藤波はこれからもリングに上で躍動し続け、レジェンドたちから受け継いだ魂を残していく。(おわり)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

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巨獣ストローマンが乱入「俺がモンスターだ」王座戦前にまとめてKO

ラシュリー-マッキンタイア戦に乱入した「巨獣」ストローマン(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.

<WWE:ロウ大会>◇10日(日本時間11日)◇米フロリダ州タンパ・イングリングセンター

「巨獣」ブラウン・ストローマンが16日のPPV大会レッスルマニア・バックラッシュに控えるWWEヘビー級王座挑戦に向けて存在感をアピールした。

同級王者ボビー・ラシュリー-前王者ドリュー・マッキンタイアのメインイベントに乱入。PPV大会で3WAY形式で王座戦で対決する2人をランニング・パワースラム連打で失神KOに追い込んだ。

マッキンタイアがクレイモアを放てば、回避したラシュリーもハートロックで絞めるなど前哨戦とは思えない大技が飛び交う展開だった。しかしマッキンタイアがクレイモアでキックをクリーンヒットさせたところで、突然、ストローマンが乱入してきた。

まずマッキンタイアをランニング・パワースラムで沈め、シュリーには手を貸して油断させながら、やはりランニング・パワースラムでマットにたたきつけた。新旧王者を蹴散らしてしまった巨獣は「俺がモンスターだ」と叫びながら、さらにラシュリーとマッキンタイアに2度目のランニング・パワースラムを成功させ、まとめてKOした。PPV直前大会で、ストローマンが王座奪取を大きくアピール。実力行使で王座挑戦権をつかんだ勢いは続いている。

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【藤波辰爾50周年連載5】プロレスの証しを残す「殿堂会」を設立

WWEに殿堂入りしリング上であいさつする藤波辰爾(2015年7月3日撮影)

<藤波辰爾のプロレス人生50年(5)>

プロレスラー藤波辰爾(67)は2015年、アントニオ猪木以来となる日本人2人目のWWE殿堂入りを果たした。今月9日にはデビュー50周年を迎えたばかり。プロレス人生を振り返る連載第5回は、レジェンドたちの偉業の継承。【取材・構成=松熊洋介】

夢のような時間だった。15年のある日の夜中、自宅にいた藤波はWWEからの電話で、殿堂入りの知らせを受けた。妻・伽織さんと2人で招待された。毎年各都市の招致合戦が繰り広げられるほどの大イベント。空港に降り立つと、カリフォルニア州・サンノゼの街全体が祝福ムードに包まれていた。殿堂入りの英雄たちの垂れ幕が掲げられ、ホテルまではパトカー10台以上に先導されて向かった。

藤波 国賓級の扱いだった。今思い出しても鳥肌が立つくらい。プロレスラーになってこんなことがあるのかと…。長くやっていてよかったなあと思った。

選手だけでなくプロレス界に貢献した人物も対象で、13年には前米大統領のドナルド・トランプ氏なども表彰されている。セレモニーで藤波の隣にいたのは、元カリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツェネッガーだった。ライバルだったフレアーに紹介され、藤波はタキシード姿で登壇した。「すべての人々、WWEへこの名誉に対し感謝します。61歳で、43年間戦い続け、まだ戦っています。これは私の使命。私をサポートしてくれた家族に感謝したい」と英語でスピーチ。数万人が詰め掛けた会場は大歓声に包まれた。翌日にはMLBサンフランシスコ・ジャイアンツの球場でリングに上がり、大観衆の前でプロレスを披露した。

藤波 昨年は獣神サンダー・ライガーが殿堂入りした。将来的にはコラボして、日本でも開催されるような時代が来ればいい。こういうのを知ってしまうと、みんな目指すべきだろうと。日本のプロレスラーたちも目指す欲を持って欲しい。

昨年2月、「日本のレジェンドたちの功績をたたえたい」と天龍や長州らと「日本プロレス殿堂会」を設立。コロナ禍でなかなか動けなかったが、今年4月、小橋、田上らとトークショーを行い、活動をスタートさせた。

藤波 僕らが殿堂入りしたいわけではなくて、猪木さんとか、させなきゃいけない人のためにそういう組織をつくらないといけないと思って。プロレス界は、なかなか横のつながりがなかったが、どこかで作っておかないと自分たちが生きてきた証しがなくなっちゃうんじゃないかと。

故ジャイアント馬場さんや猪木らの時代をともにしてきた。先輩から学んできたものを後世に伝える使命があると考える。

藤波 誰かが言い伝えていかないと。今でも当時の光景が頭に浮かぶ。今の選手たちに、あれだけ繁栄した時代があったんだよと思い出を残しておきたい。

現役としてリングに立つ一方で、プロレスの証しを残そうと動きだした。50周年を迎えたが、残りのプロレス人生、藤波にはまだやるべきことが残っている。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付け人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

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アスカ王座返り咲きに暗雲 王者リプリーとの前哨戦で3カウント許す

ロウ女子王者リプリー(手前)を絞めるアスカ(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.

<WWE:ロウ大会>◇10日(日本時間11日)◇米フロリダ州タンパ・イングリングセンター

前ロウ女子王者アスカ(39)が王座挑戦前最後の前哨戦で現王者リア・リプリー(24)に敗れ、王座返り咲きに暗雲が垂れ込めた。16日(日本時間17日)のPPV大会レッスルマニア・バックラッシュで3WAY形式(もう1人の挑戦者はシャーロット・フレアー)の王座挑戦を控え、1日2試合に臨んだものの、急きょ組まれた2試合目のリプリーとのノンタイトル戦で王者得意のリップタイドを浴び、3カウントを許してしまった。

ゴング後、飛びつき式腕ひしぎ逆十字固めを仕掛けたアスカは、ゲスト解説として現れた黒ずくめのフレアーを横目に、リプリーに裏拳を放って試合を優勢に進めた。場外でフレアーとにらみ合ったリプリーに対し、解説席上からのヒップアタックやミサイルキックをさく裂させた。試合を優位に進めているように見えたが、2試合目のアスカには疲労も見え始め、最後は王者のリップタイドを食らってフォール負けした。

第1試合でアスカはマンディ・ローズ、デイナ・ブルックと組み、フレアー、シェイナ・ベイズラー、ナイア・ジャックス組との6人タッグ戦に臨んだ。試合途中にブランコに乗った「小悪魔」アレクサ・ブリスが「邪魔してごめんね。ただある人が気になって来ただけ」と意味深発言でステージに登場。試合は急に左足を痛めたベイズラーを狙い、アスカがシャイニング・ウィザードを成功させて3カウントを奪った。試合後、アスカがフレアーのビッグブーツを浴びるとブリスの不敵な笑いが響いた。バックステージで、アスカは王者リプリーと鉢合わせになると、何者かに助言されたWWEオフィシャルのソーニャ・デビルから両者のノンタイトル戦が提案され、アスカが「すでに1試合してるけどやってやる。ワシはリアに勝つ準備ができている」と豪語。2連戦を受け入れるとリプリーも「いいわよ。レッスルマニアのように倒してあげる」と受諾し、急きょ、両者による前哨戦が決定していた。

ロウ女子王者リプリー(左)を打撃で攻め込むアスカ(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.
ベイズラー(右端)、ジャックス(左から5番目)、フレアー(同4番目)とにらみ合うアスカ(同2番目)(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.

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【藤波辰爾50周年連載4】カール・ゴッチさんから指導受け学んだこと

新日本プロレス旗揚げ戦でカール・ゴッチさん(中央)に手を上げられるアントニオ猪木(1972年3月6日撮影)

プロレスラー藤波辰爾(67)が9日にデビュー50周年を迎えた。連載第4回は、「プロレスの神様」カール・ゴッチさんから学んだこと。海外修業中、自宅に住み込みながら指導を受け、WWWF(現WWE)でのブレークにつながった。【取材・構成=松熊洋介】

藤波のプロレス人生に、猪木ともう1人欠かせない人物がいる。07年に亡くなった故・カール・ゴッチさん。61年、日本プロレスのワールド・リーグ戦で初来日。自ら編み出したジャーマン・スープレックス(原爆固め)を日本に広め、アントニオ猪木、藤波辰爾らを輩出するなど、日本プロレス界の「育ての親」だった。米国へ戻ってからも米フロリダの道場で佐山サトル、前田日明らを指導するなど、功績を残した。

藤波も入門当初からゴッチさんの指導を受けた。ドイツ人ながら、礼儀や作法に厳しく、関節技やパフォーマンスよりも、力と力のぶつかり合いで相手を倒すパワフルなプロレスを重視。小さくても戦える技術と体作りを徹底してたたき込まれた。新日本プロレス4年目の75年にドイツに遠征。その後米国に渡り、ゴッチさんの自宅に約1年間住み込んで修業した。

藤波 朝練習して、掃除や草むしりなどお手伝いをしながら修業を続けた。そもそも格闘技は知らなかったので、技術的なことも含め、プロレスのイロハをすべて教えてもらった。自宅に住み込んで一緒に修業したのは自分だけだったと思う。

当時は全日本と違って、新日本と米プロレス団体NWAとの交流はなかった。そんな中、藤波はゴッチさんのはからいで米国やメキシコの試合に参戦。その後の新日本の米国参入のさきがけとなった。78年1月にはニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデン(以下MSG)でWWWFジュニアヘビー級王座に挑戦。王者カルロス・ホセ・エストラーダをドラゴン・スープレックスで破って第3代王者に輝いた。米国の多くのファンに「フジナミ」の名を知らしめた瞬間だった。

藤波 ゴッチさんと一緒にやっていたということもあって推薦してもらったし、やっていけるという後押しにもなった。

その後帰国した藤波は、日本でのドラゴンブームで女性や子どものファンをとりこにし、一時代を築いた。礎を作ってくれたのはゴッチさんだった。

ゴッチさんは、日本と海外の懸け橋となって新日本の立ち上げにも携わった。

藤波 新日本旗揚げの立役者。ゴッチさんがいなかったら新日本プロレスは存在していない。

藤波はベビーフェイスで、日本でもWWEでもファンに愛された。妻・伽織さんとの結婚発表は、MSGの大観衆の前で発表されるほどの人気だった。米国で確たる地位を築き、今度は自分が懸け橋となって両団体の交流に尽力した。長きにわたる功績が評価され、15年には猪木に続く日本人2人目のWWE殿堂入りを果たした。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

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肺がん告知の力道山の次男、百田光雄が退院「カウント2・99から逆転」

百田光雄(2019年11月15日撮影)

肺がんと診断され、3月1日から入院生活を送っていた力道山の次男でプロレスラーの百田光雄(72)が10日、退院した。同日、百田の息子でプロレスラーの百田力(39)がSNSで報告した。自らのツイッターを通じ「『末期の肺がん』という人生最大の敵と闘っていた父・百田光雄が、カウント2・99から奇跡の逆転勝利を果たし、本日、無事に退院することができました。父を応援、ご心配してくださった全ての方に御礼申し上げます。皆様、ありがとうございました!」と投稿した。

百田は68年2月に日本プロレスに入門し、70年11月にデビュー。全日本プロレスの旗揚げに参戦し、00年には三沢光晴らとノア旗揚げに参加し、副社長も歴任した。09年にノア退団後、フリー選手として活動を続けている。

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WWEアスカがフレアーと6人タッグ対決 16日ロウ女子王座前哨戦

10日のロウ大会でシャーロット・フレアーと王座前哨戦に臨むアスカ(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.

WWEの前ロウ女子王者アスカ(39)が、10日(日本時間11日)に米フロリダ州タンパで開催予定のロウ大会でシャーロット・フレアー(35)と6人タッグ対決でロウ女子王座前哨戦に臨む。

9日(同10日)にWWEから発表されたもので、アスカはマンディ・ローズ、デイナ・ブルックと組み、フレアー、シェイナ・ベイズラー、ナイア・ジャックス組と対戦する。16日のPPV大会レッスルマニア・バックラッシュで現ロウ女子王者リア・リプリー(24)に3WAY形式で挑戦する両者にとっては激しい戦いになりそうだ。

3日に今回の3WAY形式による王座戦が正式決定すると、アスカは「私が王者になるんじゃ! この野郎」と雄たけびをあげ、王座返り咲きへの意欲を示していた。

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元女子2冠王者ベッキー・リンチがWWEと新契約 復帰時期は未定

昨年12月に女児を出産したWWEの元ロウ女子、スマックダウン女子同時王者ベッキー・リンチ(34)がWWEと新契約を結んだと9日(日本時間10日)、米専門サイト「リングサイド・ユース」が報じた。数週間前にWWEとサインしたという。

WWEに所属するセス・ロリンズ(34)と結婚しているリンチは、昨年5月のPPV大会マネー・イン・ザ・バンク(MITB)翌日のロウ大会で妊娠を発表。女子MITB戦を制していたアスカに当時、保持していたロウ女子王座を託し、長期離脱していた。昨年12月の長女ルーちゃんを出産し、リング復帰の時期が注目されている。報道では、復帰時期などは伝えられていない。

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【藤波辰爾50周年連載3】今でも緊張で直立不動…アントニオ猪木と50年

新日本IWGPヘビー級選手権 試合後、王者藤波辰爾(左)と祝杯をあげるアントニオ猪木(1988年8月8日撮影)

プロレスラーの藤波辰爾(67)が9日、デビュー50周年を迎えた。連載第3回は、アントニオ猪木との50年。入門時から家族よりも長い時間をともにしてきた師匠は、藤波にとって今でもかけがえのない存在だ。【取材・構成=松熊洋介】

藤波は日本プロレス入門から半年後、除名された猪木と一緒に脱退、翌年の新日本旗揚げに参加した。「今の新日本を作っている」という当時の猪木の練習はとにかく厳しかった。年200日以上の試合をこなしながら、練習も手を抜くことは許さなかった。つまらないパフォーマンスをすれば、試合中でもリングに乱入してきて殴られた。試合前に角材で殴られ、流血しながらリングに上がったこともあったという。藤波が78年に海外から帰国し、「ドラゴンブーム」の人気絶頂時でも、全体に気合を入れるための見せしめとして、殴られ続けた。

藤波 試合を止めることもよくあった。お客さんはただ猪木さんが乱入してきただけだと思っていて、実際には何が起こっているのか分かっていない。相手のことよりも、いつ猪木さんが控室から竹刀を持ってやってくるか、びくびくしながら試合をしていた。馬場さんの全日本に負けるな、というのもあったと思う。

ファンの目も肥えていき、つまらない試合には容赦なくヤジが飛んだ。ファン同士のケンカも日常茶飯事だった。

藤波 リングに上がったら鳥肌が立って、ぞくぞくしていた。緊張感で殺気立っていたし、試合前に控室で相手と話したり、笑ったりすることもなかった。

練習や試合後は毎日のように猪木と食事をともにした。「昼間殴られていても関係なかった」と猪木の周りに集まり、故・力道山など昔の話を聞き入った。朝でも夜中でも走る猪木について行き、一緒にトレーニングした。朝まで飲み明かしたり、羽目を外す選手もたまにはいたが、藤波含め、ほとんどの選手は厳しい練習の疲れを取るために休養を優先していた。

藤波 一番上の人が1番練習するから僕らも休むことができない。みんな気が張ってダラダラしていられなかった。

猪木の「お客さんから金をとれる体を作れ」という教えを守り、プロレスラーとして長くリングに上がる体を作り上げた。日本プロレス入門から半世紀以上の付き合いになる猪木とは、引退後も交流は続く。2年ほど前まで毎月1回、夫婦で食事会をしていた。猪木の前では今でも緊張して直立不動になることもあるという。

藤波 妻は「お互いに良い年なのに」と不思議がるが、50年たっても関係性は変わらない。僕にとっては永遠の師匠。

今の藤波のプロレスを作ったのは間違いなく猪木の存在が大きいが、実はもう1人、50年現役の藤波にとって「今の自分がいるのは彼のおかげ」という男がいた。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

アントニオ猪木(下)に卍固めを見舞う藤波辰爾(1988年8月8日撮影)
藤波辰爾(右)に闘魂注入したアントニオ猪木(2019年4月26日撮影)

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新日本、発熱2選手に続き7選手が感染 陽性の全選手は軽症もしくは無症状

新日本プロレスのエンブレム(2018年3月24日撮影)

新日本プロレスは9日、新たに7選手が新型コロナウイルスのPCR検査で陽性判定されたと発表された。

4月から5月にかけたシリーズ終了後、帯同メンバーを対象に実施し、判明したという。陽性判定を受けた全選手とも軽症、無症状ではあるものの、保健所、医療機関の指導のもと、隔離措置した上で治療に専念する予定。5月4日の福岡国際センターの午前中に発熱があった2選手も陽性判定を受けており、計9選手が感染したことになる。

新日本プロレスでは日常的な体温、血中酸素飽和濃度の把握、定期的なPCR検査をはじめたとした事前対策、巡業中も会場入り時の検温や練習中や控室のマスク着用義務、弁当形式の夕食、夜間外出の禁止などを実施してきた。公式サイトでは「今回の事象を重く受け止め、さらなる感染対策の強化を努めてまいります」と報告している。

同団体では現在、東京都の緊急事態宣言発令により8、10、11日の後楽園大会が中止。また、15日の横浜スタジアム大会、29日の東京ドーム大会も延期が発表されている。

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永田裕志がモクスリー襲撃 歯が取れるほど強烈なナガタロック2食らわす

NJPWストロング 試合後、ジョン・モクスリー(左)とにらみ合う永田裕志(新日本プロレス提供)

<NJPWストロング>◇8日配信

12日(日本時間13日)にIWGP USヘビー級王座に挑戦する永田裕志(53)が、王者ジョン・モクスリーとの前哨戦で強烈な一撃を見舞った。

成田蓮(23)と組んでタッグマッチに出場して敗れたが、試合後にモクスリーを襲撃。モクスリーの歯が取れるほど強烈なナガタロック2を浴びせ、不敵な笑みを見せた。会場からはなぜか永田の入場曲が流れ、カメラに向かってガッツポーズを見せ、勝者のようにさっそうと花道を引き揚げた。敗れはしたが「この永田裕志がコロナ禍の中、アメリカまで来てやったぞ。こんなんで俺は満足しない」と豪語した。

初参戦となったNJPWストロングの舞台でも全く動じなかった。先発を買って出た永田は、開始早々から雄たけびを上げ、襲いかかった。ビックブーツを浴びせ、エルボー合戦では1歩も引かず、互角の殴り合いを展開した。最後は成田がモクスリーにデスライダーを食らい、3カウントで敗れたが、怒りの収まらない永田は止めに入ったセコンドを制し、王者とにらみ合った後に殴りかかった。「お前の攻撃なかなかいいけど、まだ物足りない」と本番ではさらにパワーアップしたナガタを見せつけるつもりだ。

4月上旬にモクスリーから挑戦者に指名された。「レボルバーを見せてみろ。どっちが先に撃てるか試してみようぜ」と挑発を受けた。永田は「だからお前ははな垂れ小僧なんだよ。プロレスのリングにレボルバーなんてのは必要ない。裸1つで戦うのがプロレス。顔洗って出直してこい」と受けて立った。

タイトルマッチは12日(日本時間13日)に米オール・エリート・レスリング(AEW)のリングで行われる。永田は02年に安田を破り、IWGPヘビー級王座を獲得。その後、当時、橋本真也が持っていた連続防衛記録を塗り替える10回の防衛を果たし「ミスターIWGP」と呼ばれた。「タイトルマッチでは全精力をお前にぶつけてやる。お前もぶつけてこい。そして最後は俺が勝つ」。16年のNEVER無差別級王者以来、シングルのタイトルから遠ざかっている永田が、50歳を超えた今、米国の地で大きなベルトに向かう。

NJPWストロング ジョン・モクスリーにナガタロック2を決める永田裕志(新日本プロレス提供)

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セザーロがWWEユニバーサル王座挑戦権を懸けたシングル戦で勝利

ロリンズ(右)にニュートラライザーを成功させるセザーロ(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.

<WWE:スマックダウン大会>◇7日(日本時間8日)◇米タンパ

中邑真輔の盟友セザーロが、ついにWWEユニバーサル王座挑戦を手中に収めた。

オープニングに同王者レインズらがスマックダウン追放となったダニエル・ブライアンに向けた追悼10カウントをしていると、セザーロが登場。反発していると、背後からセス・ロリンズの襲撃を受けた。乱闘となってスタッフの制止がある中、ステージに姿をみせたスマックダウンの元GMテディ・ロングから「もしセザーロがロリンズに勝てばPPVでのユニバーサル王座挑戦権を獲得できるぞ」と両者に挑戦権を懸けたシングル戦を与えられた。

王者のいとこ、ウーソズ(ジェイ、ジミーのウーソ兄弟)が見守る中、セザーロがアッパーカット連打からクローズライン(ラリアット)で先制。ロリンズのスーパープレックスからファルコンアローの反撃をしのぐと、好機が到来した。終盤に介入を狙うジェイを突き飛ばしたロリンズがジミーのスーパーキックで報復されると、セザーロがクロスボディでジミーを撃退。最後はニュートラライザーでロリンズを沈めてみせた。これで16日のPPV大会レッスルマニア・バックラッシュで、王者レインズに挑戦することが決まった。

また大会エンディングでは、セザーロがリングでジミーともめていたレインズに奇襲を仕掛け、ニュートラライザーをレインズとジェイに成功させてKOに追い込んでいた。

大会エンディングでWWEユニバーサル王者レインズ(手前)らを撃退したセザーロ(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.
16日のPPV大会でWWEユニバーサル王者レインズ(左)に挑戦するセザーロ(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.

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【藤波辰爾50周年連載2】北沢幹之氏との出会いがプロレス人生の始まり

19年4月、恒例の「ダーッ!」を決める、左から越中詩郎、坂口征二氏、アントニオ猪木氏、長井満也、北沢幹之氏、獣神サンダー・ライガー、藤波辰爾

<藤波辰爾のプロレス人生50年(2)>

プロレスラーの藤波辰爾(67)が9日にデビュー50周年を迎える。「藤波辰爾のプロレス人生50年」第2回は、プロレスとの出会いについて。同郷の先輩、北沢幹之氏と苦労の末に出会ったことが、藤波のプロレス人生の始まりだった。【取材・構成=松熊洋介】

藤波は陸上部だった中学時代、テレビを見てプロレスラーへのあこがれを抱いた。親に内緒で実家のある大分・東国東郡(現・国東市)から、大分市内へプロレスを見に行っていた。チケットは市内で働いていた兄が用意してくれた。頭の中はプロレスでいっぱい。自転車で約4時間。山越えの険しい砂利道も全く苦にならなかったという。

藤波 ただプロレスが見たいという一心で勇気を振り絞って。たまに学校をサボって行ったこともあるくらい(笑い)。親には怒られたが、授業のことなんか頭になかった。今から思えばよく行ったなと。

興味とは反対にケンカは嫌いだった。体が大きくいじめには遭わなかったが、痛いのが嫌で、学校での柔道ですら怖かったという。中学卒業後、工場で働いていたが「プロレスラーに会いたい」という欲求を押さえきれず、自ら行動に出た。同郷の北沢氏が足の療養で別府温泉に来ていることを聞き付け、探しに行った。兄と旅館を何十軒も歩き回り、やっとのことで北沢と対面した。

藤波 プロレスラーは怖いイメージがあったから、兄についてきてもらった。(北沢は)小さい方だったけど、大きく見えたなあ。足も震えていた。あの熱意は今でも不思議に思う。何かに取りつかれていたような感じだった。

藤波の熱意に北沢が応え、一緒に上京した。格闘技をやる性格でないことは親も承知。意志を伝えると驚かれ、反対されたが、押し切った。日本プロレスの門をたたいた。周りは相撲や柔道、格闘技の経験がある猛者ばかり。正式な入門もしていない藤波は当時、第一線で活躍していたアントニオ猪木に出会う。初めて聞いた猪木の言葉は「おい北沢、あいつ誰だ?」だった。北沢氏が「同じ田舎のプロレス好きで、猪木さんのファンだから連れて来たんです」と紹介してくれた。

藤波 相撲部だったら親方がスカウトしてくれる。プロレスは大衆化していないので、よほどケンカが強いか、柔道の有段者とかしか入って来られなかった。自分は異例中の異例だった。

「北沢さんに会ってなかったら今の自分はない」。心優しい藤波少年の熱い思いが運命の出会いを呼び、夢の実現につながった。日本プロレス入門後、家族以上の付き合いとなる猪木の厳しい指導が始まる。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し凱旋(がいせん)帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。

72年、新日本プロレスを設立したアントニオ猪木(左から2人目)は世田谷区の自宅を道場に改装し、道場開きを行う。右端は18歳の藤波
72年、新日本旗揚げ当時の藤波

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まさか?キンシャサで仕留めたはずが WWE中邑真輔、策略はまり逆転負け

ゼイン(右)にキンシャサをたたきこんだ中邑(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.

<WWE:スマックダウン大会>◇7日(日本時間8日)◇米タンパ

「キング・オブ・ストロングスタイル」中邑真輔(41)が10人タッグ戦でキンシャサ成功後、相手チームの策略にはまって逆転負けを喫した。

ビッグE&ケビン・オーエンズ、ストリートプロフィッツ(アンジェロ・ドーキンス、モンテス・フォード組)とタッグを組み、アポロ・クルーズ、キング・コービン、サミ・ゼイン、オーティス、チャド・ゲイブル組と対戦した。

中邑はコーナーからのライダーキックをゼインに浴びせ、ゲイブルに打撃、コービンにはバックエルボーを放って勢い十分。再びゼインにスピンキックやスライディング式ジャーマン、ジャンピング・ニーを成功させ、試合を優勢に進めた。両チームの10人が入り乱れた激しい攻防から、リングで中邑はこん身のキンシャサをゼインにたたき込んでフォールに入ったが、直前にゼインからタッチしていたコービンに捕まり、エンド・オブ・デイズ(旋回式変形フェイスバスター)を決められて3カウントを許してしまった。必殺技で仕留めたはずが、まさかの逆転負けとなってしまった。

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イケメン二郎WWE白星デビュー 「今日が俺の第2章の本当のスタート」

コーナーにのぼり、ジャケット姿で見得をきるイケメン二郎(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.

<WWE:205Live大会>◇7日(日本時間8日)◇米フロリダ州

昨年12月にWWEと契約した黒潮“イケメン”二郎こと新リングネームのイケメン二郎(28)がWWEで白星デビューを飾った。

クルーザー級のブランド「205Live」で、オーガスト・グレイとタッグを組み、トニー・ニース、アリーヤ・デバリ組と対戦。ニースをピンポイントキックで沈め、フォール勝ち。試合後、自らのSNSに「日本のみんな。WWEでのデビュー戦、日本から応援ありがとうございました! 今日が俺の第2章の本当のスタートです、ここからもっともっと上を目指して走り続けます」とつづり、ファンに感謝を伝えた。

WWEでコスチュームに合わせ、自身の顔がイラストされた黄色いジャケットで入場。コーナーによじのぼり、ジャケットを開いて見えをきった。グレイからジャケットを脱ぐようにうながされても「ノー、ノー」と、そのまま試合へ。ジャケットで拳を隠しながらのナックルパートなどでニースに放った。裸絞めなどで追い詰められるシーンを乗り越え、さらにスピニング・ヒールキックや掌底の連打で追い詰めた。

場外に追い出した敵2人に向け、スワンダイブ式月面水爆で蹴散らして大暴れ。ニースをリングに戻すと、スワントームボムやトぺ・コンヒーロも繰り出し、最後は対角線から走り込んでピンポイントキックを顔面に入れ、3カウントを奪取。デビュー戦勝利となったイケメンはグレイとハグを交わし、両腕をあげてアピールしていた。

デバリ(左端)、ニース(中央)に向けてスワンダイブ式月面水爆を放ったイケメン二郎(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.
ニース(右)にピンポイントキックを浴びせたイケメン二郎(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.
コンビを組んだグレイ(左端)とともに勝ち名乗りを受けたイケメン二郎(中央)(C)2021 WWE, Inc. All Rights Reserved.

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KUSHIDAが日本人スター名の技を使う理由/WWEの世界(3)

投球フォームから右ストレートを放つ技「マサヒロ・タナカ」を披露するNXTクルーザー級王者KUSHIDA(C)2021 WWE,Inc. All Rights Reserved.

マサヒロ・タナカ。ショウヘイ・オオタニ。いずれも米国マットで使われるプロレス技だ。WWEのNXTクルーザー級王者KUSHIDA(37)は米国で活躍の日本人メジャーリーガーの名前を技に持つ。名付けられた経緯は偶然だが、KUSHIDAがWWE加入後も技名を変えずに使い続ける理由がある。「WWEの世界」第3回は米国で活躍する日本アスリートの名前を技名にするWWE現役王者の思いを紹介する。【取材・構成=藤中栄二】

◇  ◇  ◇

野球投手のように大きく振りかぶる投球フォームから右ストレートで対戦相手の顔面を打ち抜くマサヒロ・タナカ。KUSHIDAがWWEマットで使用する代表的な得意技の1つだ。NXTクルーザー級王座挑戦時にも使用し、王座獲得に結びつけた。MLBヤンキースで活躍し、今季から楽天に復帰した田中将大に由来する。初めて新技として披露したのは15年5月、ROHと新日本プロレス合同の北米(米国、カナダ)ツアーだった。

このツアーでKUSHIDAが新技として右ナックルパート(パンチ)という“反則技”で局面を打開し続けると、会場に集結した米ファンから大きなどよめきが起こったという。会場の盛り上がりぶりに当時、試合中継で解説していた元プロレスラー、スティーブ・コリノ氏(47)に「マサヒロ・タナカだ」と命名された。KUSHIDAは「彼(コリノ氏)がヤンキースのファンで、自分の顔が田中選手に似ているということで解説の時、マサヒロ・タナカと言ってしまってからですね。そのまま技名として使っています」と振り返る。

日本マットのゼロワンでも活躍し、ROHテレビ解説者を経て、現在はWWEのNXTプロデューサーを務めるコリノ氏が名付け親とは運命的でもある。その後、米国で田中本人と対面したものの、KUSHIDAは「ご本人に『マサヒロ・タナカを使っています』とは言えなかったですね」と苦笑いを浮かべた。

ショウヘイ・オオタニ(打撃フォーム式ダブルスレッジハンマー)は18年5月、新日本プロレス滋賀大会のタッグ戦。対戦相手だった田口隆祐のマサヒロ・タナカ対抗技を返す形で誕生した。往年の名投手「ヒサシ・ヤマダ(山田久志)」「ミツオ・スミ(角盈男)」の技名がついた田口のアンダースローから繰り出されるパンチに対し、KUSHIDAは打者がバットを振り抜くようにダブルスレッジハンマーで返した。もちろんMLBエンゼルスで二刀流を貫く大谷翔平が由来で「自分がパンチを返したら、新日本プロレスのサイトにその技名リポートに書いてありましたね」と説明しつつも、本人は気に入っているという。

本来ならWWE入りと同時に技名を変更しても良いものだが、KUSHIDAはあえて使い続ける。それは田中、大谷のように、プロレス界で日米の懸け橋になりたいという願いがある。「チームジャパンとして敬意を表して使い続けます」。もちろん今後も新技に米国で活躍する日本人アスリートを技名にするプランが胸にある。

「ヒデキ・マツヤマ(松山英樹)、ルイ・ハチムラ(八村塁)、ナオミ・オオサカ(大坂なおみ)は考えています。米国で活躍する日本人選手名を技名につけるWWEスーパースターとして、日米で少しでも目にとまってもらえたらありがたいですから」

日本人アスリートの名前が技名として飛び出すWWEの実況も、日本のファンにとっては身近に感じられる。世界中にファンを持つWWEで、王者KUSHIDAが「日本人ブランド」をアピールしている。

マサヒロ・タナカを放つNXTクルーザー級王者KUSHIDA(C)2021 WWE,Inc. All Rights Reserved.
NXTクルーザー級王座ベルトに刻まれた自身の名前を誇示する同級王者KUSHIDA(C)2021 WWE,Inc. All Rights Reserved.
NXTクルーザー級王座ベルトを巻き、ポーズを取るKUSHIDA(C)2021 WWE,Inc. All Rights Reserved.

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